第148話 「こころ」から「身振り」へ

「身振り・手振り」も人の「こころ」の出力の一つである。おそらく「音声」「文字」よりも先に実行されていたであろう。古代の村で隊長が黙って指させば、今日の狩り場へ村人を導く事が出来る。「止まれ」の合図はもちろん無言で行われるに違いない。獲物に悟られてはまずいからだ。「前へ」「右へ」「左へ」「待機せよ」「かかれ!」これらの意味を持つ身振りもすべて無言で行う。手あるいは腕の動きがそのまま意味を示すから、初めて狩りに参加する者でも判断を誤る事はあるまい。
上の写真はカメラを見つけて「無言で」指さす3歳の幼児を撮ったものである。その意味が「あれをご覧!」でも「それ欲しい!」でもない事は確かだ。おそらくは単に「あっ!**!」という意味であろう。ここで「**」とは幼児の脳に一瞬イメージされた何かを指すのである。それをうかがい知る事は出来ないが、いずれにせよ何らか心が動いた事は間違いあるまい。
「身振り・手振り」も人の「こころ」の出力の一つではあるが「ことば」であるとは限らない。冒頭の写真の幼児が行う指さしも「ことば」ではなく「感情のこころ」の出力としての行動であろう。このような場面で起きる感情は、弱ければ「気になる」だけだが強ければ「感動」と呼んでよい。
古代の狩りで隊長が行う身振りは「理性のこころ」からの出力つまり「ことば」である。狩りの仲間への指令として使われているからだ。これらの動作は後に「記号」「文字」「音声」でも表現される事になるが、狩りの場合には身振りの方が適切であろう。
時は現代になるが、とあるお芝居の真っ最中、監督が舞台の袖から役者に向かって人差し指をぐるぐる回して見せると、これは「もう少し芝居のテンポを速くせよ」という意味になる。お芝居の最中だから声は使えないのだ。この合図を業界用語では「巻く」と言うらしいが、この動作は他の人に意図を伝えるために行われるのであるから、当然「理性のこころ」からの出力つまり「ことば」である。
「手話」「手旗信号」「せり市の手信号」などの身振り・手振りも他人に意味を伝えるための「ことば」であろう。では昔、交差点で活躍した「交通整理のお巡りさん」の身振り・手振りは「ことば」なのか。これは古代の狩りと同じく「他の人を導く動作」であるから、やはり「ことば」と言ってよいが、機能的には「3色信号」の方が勝るかも知れない。
最も原始的であり、また現代的でもある究極の身振り・手振りは「踊り」であろう。「踊り」は「ことば」ではない。「踊り」は「感情のこころ」からの純粋な出力であり、「理性のこころ」からの干渉も許さないかに見える、ほとんど本能的な活動でろう。
もう一つ「歌」がある。これも「感情のこころ」からの出力である。「歌」「謡」にはしばしば「言葉」が使われるが、それは「意味」を伝達するためと言うより「願い」「喜び」「悲しみ」「怒り」「苦しみ」など「感情のこころの様相」を伝達するためではないか。「歌」と「踊り」は「言葉」とは別の文化なのではないか。
鳥類「鶴」は求愛のダンスを踊る。「ジュウシマツ」は求愛の歌を歌う。しかしこれらは実は「ことば」ではないと言わねばならない。理由はそれらが「理性のこころ」からの出力ではないからである。人類の「身振り・手振り」も、それが「ことば」となるためには、一旦「理性のこころ」を通って、そこから再出力するしかない。具体的には、その身振り・手振りにどんな意味を持たせるのか、同じ社会的なグループ内での約束が成立すればよい。例は「交通整理」「手話」「手旗信号」などである。
失礼な男に平手打ちを喰わせる女がいたとする。この動作は「ことば」ではない。踏んだり蹴ったりも同じだ。もちろんこの時「ことば」を使ってもよいが、その場合は「感情のこころ」の色を「理性のこころ」に移してやる必要がある。ただし使う色は「理性のこころ」にあらかじめ用意されている色に限られる。つまりそれは虹の色を何種かに分ける働きと同じ操作であろう。その操作は「理性のこころ」が行う。この事を示す絵を下に挙げておく。空欄は、言語によってはそのあたりの概念を表現する言葉がない場合を示す。

ここまで書いたところでアマゾン古書店で購入した「ヒトはなぜことばを使えるか−山鳥重(やまどりあつし)著/講談社現代新書」を見ると「言語化される表象は主として左半球寄りに形成され・・・」とあり「言語化されない表象は主として右半球寄りに形成される」とある。「理性のこころ」は左半球にあるらしい。
前項で「巻く」という身振りの話をしたが、このような場面での合図を総称して「キュー」と呼ぶ。映画・演劇あるいはテレビ・ラジオの裏方でも用いられているようだ。ここで「巻く」動作を記号化してみよう。下の絵左端の「渦巻記号」がそれである。この記号は古文書や遺跡などから出たものではなく、「巻く」動作を記号化すればこのようになるであろうと想像した架空の記号である。しかしこの記号が、やがて矢印のような順序で文字になったと、これも想像ではあるが推測する事は可能である。

この絵右端はローマ文字「Q」であり、その発音は「キュー」である。この文字は「急な」という概念を担っており、「Quick」「Question」「Quiz」「Queen」などがその意味を残す英単語の例である。「Queen」は、いつも「すぐ答えなさい」と要求する女の事だ。野球用語「スクイズ」も「Q」を使う。また漢字「急」「救」も「急ぎ」概念を表現する文字として用いられており、その発音は「キュー」である。
ここに現れた「意味」「身振り」「記号」「文字」はそれぞれ密接な関係にあり、偶然の一致とは到底考えられない。出来た順序もこの通りであろう。「キュー」という「音」はどの段階で作られたのか決められないが、その音はそれぞれ「k=発生」「y=移動」という概念、つまり物事が発生しそのまま移行する事を表現する役目を持っているから意味「Q」を表現する音としては適当な選択であろう。要するに「急げ!」という「気持ち」「感情」「心の様相」が最初に身振りとなり最後には正規の「文字」になった貴重な例が「Q」なのではないか。
心の様相が「身振り」となって出力され、後に正規の「文字」となったと考えられる例は他にもある。その一つ、これも舞台用語では「キュー」と呼ばれている「人差し指を突き出す」合図である。これは「ビリヤード」の道具「キュー」の名の元でもある。
その身振りを記号にしたものが下図左端に描いた「まっすぐな矢印」である。この「矢印」は「弓矢」という道具が発明された後にデザインされたものであろうが、その意味は「矢のような」「強い行動」を示す。矢の動きを真似した身振りが「人差し指を突き出す」動作である。狩りの場面では「かかれ!」という合図に使うであろう。現代のお芝居では「演技はじめ!」の意味に使う。この記号はやがて文字「I」となる。
I
J
L
C
G
二番目の記号は、最初は「静かな行動」を意味する身振りであったと考えられる。狩りの場面で隊長がこの動作を行う様子は誰でも再現出来るであろう。動作はゆっくり行って頂きたい。日本語「じっと」「じっくり」「じわじわと」「じりじりと」などの言葉がその意味を表す言葉である。後に文字「J」となる。
三番目の記号は、狩りの時に行う身振りとしては「しばらく前進し、それから方向転換せよ」という意味になる。現代では道路の案内標識にも使われている。「ことば」として用いる時には「導く」「指導に従う」というような意味・概念を担う。この動作も容易に再現出来るはずだ。後に文字「L」となる。
四番目の記号は、最初は狩りの時に獲物を「囲め」「遠巻きに」というような命令を示す身振りであったと考えられる。その意味はやがて「カバーする」「かばう」「おおう」というような意味・概念となり、他の場面やがては言葉として用いられるようになったのではないか。後に文字「C」となる。
五番目の記号は、前記「巻く」動作と同じような「指先を回す」動作であったと考えられるが、伝えたい意味は「更に動作を続けよ」であって「急げ」という意味ではない。そこで身振りとしては指を「1回まわして前へ」というような動作にする。つまりこの記号のような指の動きとするのである。二番目「J」の動作を大きく且つ素早く行うのだと言ってもよい。「J/G」は意味も「弱/強」の関係にある。この記号は後に文字「G」となるが英単語「GO」はその意味を持つ言葉の一つである。
行動を導くための身振り・手振りが、これら記号の元であったと断定する事は出来ない。だが「I=行動」「L=導く」などの動作は、その機会があれば、とっさの判断で現代でも実行される可能性は充分ある。これら「身振り・手振り」というものは「ことば」以前から連綿と存在し続けているのであるから「ことば」への影響が全くなかったとは言えないのである。
これまでに述べた「こころの出力」に関する考察をまとめて図示してみよう。

この図は人間の「心の様相」がどのように出力されて実際の活動につながるのかをおおよそ示したものである。右端はその活動の種類であるが、これは人間の活動のごく一部であり、人類進化のレベルとしては、ちょうど「言葉」を得た頃の活動範囲に該当するはずである。これ以前に既に実行されているであろう動物としての「生存と子孫繁栄のための活動」は図示していない。またこれ以後の活動たとえば「道具の発明と製作および使用」「遊び・ゲーム・」「欲望の実現」等々を目的とした活動についても図示しなかった。更に最近の「人工記号」たとえば「手話」「人工言語」なども図には入れていない。
この図の目的は主に「理性のこころ」の中味が、出力されて「言葉」となる工程を示す事にあるが、当初には行われていた全工程の内、一部はその後行われなくなってしまった事が示されている事にご注目頂きたい。それは図中に赤線で示した工程である。青線工程は現在でも行われている。
言語活動である「話す」「文章」から工程を逆にたどって行くと「文字列(単語)」「文字」と次第に細分化される。また音声も細分化して最後は「声(音素)」となる。つまり青線を逆にたどって行くと図中では「声」と「文字」で行き止まりになるのが現代の言語学だ。赤線部分が存在するとは考えられていない。
しかし初めて「言葉」が現れた頃、図中の赤線部分の工程は途切れる事なく活動していた。もちろん最初は、仮に「文字の列」を集めて辞書を作ったとしても、その単語数はごくわずかだったであろうが、現代「広辞苑」が出来るまでの何万年かの間に、この赤線工程は膨大な「新語」を生み出し、それら新語をすべて「記憶域」に保存し蓄積して来たのである。現代人はすべての言葉をこの記憶域から引き出して使っている。
いま「広辞苑」あるいは「記憶域」には「文字の列」すなわち単語がぎっしり詰まっており、むしろ「理性のこころ」が生む基本な新語は、もし作られたとしても理解出来ないであろう。赤線部分の工程は、現代言語学からは何も見えないし、むしろ見てはならない事になっている。
この図の「赤線」は廃線となったローカル鉄道にたとえる事が出来る。且つては村から街へ大勢の客(意味)を運んだが、いまや線路は雑草に覆われて立ち入り禁止。「声」駅と「文字」駅は無人駅となり、ここから都会に向かう電車には乗客が乗っていない。村人(意味)は既に「声の列」駅と「文字の列」駅周辺に転居し終え、そこから更に大都会へ通勤しているのだ。
使われなくなった廃線の跡をたどり、且つての住民(意味)たちがどこで生まれたのか一つ一つ調査した結果がこのお話である。彼らの故郷「心の村」は21世紀の現代、なお昔と変わらぬその場所にあり、今は街(辞書)に住む身ではあるが、彼ら(意味)は決して自分の故郷を忘れてはいないのである。
「こころ」から「身振りへ」と題して始まったが最後には話がそれてしまった。しかし「心から言葉へ」というテーマで書いた第142話以後の話は、おおよそこの回でまとまったものと見なし、その結論は「言葉は人間の心の様相の出力である」としたい。だがこれを証明するには、出力されたその「言葉」に頼る以外に方法はないのである。