第91話 男は女に帯贈る

母音「お」については第48話その他でも書いてあるが、ここでは同じ音「を」あるいは他の「お列」の音との関係など「O」音全体について書きとめておく事にする。冒頭の絵はローマ文字「O」の起源的な働きを示したものであり、この記号すなわち赤い丸印が、西洋ではやがて文字「O」となるのだ。この記号の役目は古代・現代ともに「範囲・区域」概念の表現である。
この絵の大きな赤丸の中には「魚の骨」が描いてある。「魚の骨1」は「自分が食べた魚の骨」だ。「魚の骨2」は「妻の食べた魚の骨」である。「小魚の骨1」は「長男が食べた魚の骨」である。そこで赤丸の中の骨は、「誰が食べた魚の骨であろうと、魚の骨ならこの範囲に含まれる」という意味になる。魚の種類も問わない。小さな赤丸の中には1匹の赤い魚があるだけだ。しかしそれは「赤い魚ならすべてこの範囲に含まれる」という意味に解釈出来る。
この絵を「古代村議会の議題1および2」と見て頂けば、理解が速いはずだ。第1の議題は「ゴミの分別」、第2の議題は「捕獲禁止魚の指定」である。村の長老が出て来てこの大きな赤丸を指さし、次に村はずれの丘を指させば、その場所が魚の骨専用のゴミ処理場所となる。こうして定まったゴミ処分場の一例が浜松市にある蜆塚遺跡だ。その他にも「貝塚」と呼ばれる遺跡は各地にあるが、みな同じであろう。ここ豊橋市には「大西貝塚」があり、田原市「吉胡貝塚」は国の指定史跡になっている。
古代の村の長老は次に小さな赤丸を指さし、両腕を交差してX印のポーズをとる。この動作が古代でも有効だったか不明だが、ここでは説明のため使ったので、お許し頂きたい。なぜかその動作はすんなり理解され、以後「赤い魚」は捕獲禁止となる。
このような事が行われた村の人々にとっては、「自分の食べた魚の骨」あるいは「妻の食べた魚の骨」が、区別なく「魚の骨一般」に含まれてしまうという頭脳労働を強いられるはずであるが、古代人類はその程度の能力は既に持っていた。その一般化(抽象)を実行する「おまじない」が丸印である。
このような抽象能力を我々は親からも先生から教わっていないし、本にも書かれていてない。それでもわかるのは、その能力が教育あるいは経験などによるものでなく、おそらくは人類が言語を獲得する以前に得た本能的なものであるためだと考えていいだろう。もしそうなら現代人の我々に上の絵の意味がわかると同じ程度に、古代人の誰にもわかったはずである。
「丸印」を抽象化の「おまじない」として使う話をしたが、古代地球上には、もっとわかりやすい絵(おまじない・記号)を要求する民族も居た。その絵はもっと具体的に「範囲」概念を表わしていなければならないのだ。丸印などでは何の事かさっぱりわからないと彼らは不平を唱えた。そこでやむなく長老は左のような絵を描く。
これでわからなかったら他に方法はないだろう。人物は夫婦と4人の子供であり、まわりの四角形は家である。これで「家族」という名の「範囲」概念が理解出来るはずだ。これでも「オレの妻はこんなに髪が長くないぞ」と言う者もあるかも知れないが、おおかたはこれを「家族一般」と見るに違いない。
この絵が正しく理解された後は、下に示すような絵文字の意味が、同じく「範囲」概念の表現である事を、たやすく認めて、自分でも作れるようになるであろう。ご存じの通り、これらは古代エジプトで用いられていたヒエログリフであり、CCER分類では「O」グループに分類されているものだ。番号O82AとO177は他の概念との組み合わせ文字である。
O1
O1B
O53
O82A
O177
ヒエログリフというものはこのように設計された絵文字なのだ。四角形の線が二重になっているのは「壁」の表現である。もし線が1本だったら、もう壁には見えないから、何の事だか全然わからないという騒ぎになってしまう。ヒエログリフは石橋を叩いて渡るように、頑固に作られているのである。
このようなヒエログリフの存在によって、逆に古代における前記丸印の役目が明確となる。実際には丸印を参考にしてヒエログリフが作られたはずだ。教えたのは伝説の「トト神」であろう。文字としては抽象度の高い「丸印」の方が勝れていると言ってよい。いずれにしても古代「丸印」と「角印(家の絵)」はしっかり繋がっていたと考えて間違いない。
さてここでユーラシア大陸の東の果てにある小さな島国へ行ってみよう。はるか後に邪馬壹国と呼ばれる国だ。その国の人々が話していた言葉は現在「やまと言葉」と呼ばれている。その言葉はおだやかで繊細な感覚に満ちていたが、なぜか文字というものがなかった。
この国の人々にも家族はあった。そして「家族一般」あるいは「範囲・区域」という概念もあったし、それを表現する音もあった。ただ文字がなかっただけだ。今ここでは代わりに現代日本語の仮名文字を使って古代日本語の音とローマ文字およびヒエログリフとの関係を明らかにしてみよう。
家族一般」あるいは「範囲・区域」という概念は、本能的に彼らも持っていたはずであるが、それを表現する音が古代に於いてはやはり「お」であったと書けば、上記「丸印」「角印」を使っていた国々と全く同じ音と意味を共有していた事になるがいかがであろうか。
だが上記「古代において」の「おいて」が、或る場所を示す、すなわち「範囲・区域」概念を持っている事は明らかである。他にも「おか(丘)」「おく(奥)」「おおい(多い)」「おおきい(大きい)」「おなじ(同じ)」「おや(親・先祖)」など「範囲・区域」概念を持つ言葉は多い。やまと言葉の音「お」は「範囲・区域」概念を担っていると考えて間違いない。
だが「やまと言葉」には別に「を」という音があった。その音は「お」とよく似ていたか、あるいは同じ音であったかも知れないが、いずれにしろ文字は「を」であり、明らかに「お」とは違う場所に使われていた。この文字はどのような役目を持っているのであろうか。
「を」を使う例には「をんな」「をとこ」「をれ(俺)」「をじさん」「をばさん」などがあり、また「を(尾)」「を(緒)」という言葉もある。「男」を「を」と呼ぶ場合もあるし、助詞「を」は必ず「を」でなければならないと定まっている。
ここで「をんな」の「を」を見よう。この「を」は「O」と同じく「範囲・区域」概念を担う事が出来る。例えば「オレの妻」「オレの娘」「オレの母」これらの人間をまとめて「をんな」の範囲内に含まれると考えれば、それは「範囲・区域」概念となる。「をんなは強いよ!」とぼやく場合の「をんな」がその意味つまり「をんな一般」である。
しかし或る時、妻に「あなた!をんなが居るでしょっ!」と言われたなら、それは「をんな一般」概念ではない。この時、夫が「をんなとはもう切れた」と言えば、それも「をんな一般」ではないのである。これらは言い替えれば「をんな個人」あるいは「非常に狭い範囲に属する女」概念となる。後者は愛人が複数いた場合だ。
もう一つの例は「尾」である。或る日の狩りの時、見張りの者が「を(尾)!」と叫ぶが、これは「チラッと尾が見えたから獲物が居るはずだ」という意味である。この時の「を(尾)」は「尾一般」ではない。「いま追っているその個体(の尾)」を言うのである。上記「をんな(女)」「を(尾)」いずれも特定の、いま話題にしているその個体・個人を指している。
助詞「を」も同様の「個体・個人」および「きわめて狭い範囲」概念を表現している。「川を渡る」「人をバカにするな」「めしを喰う」「時間を守る」これらが好例だ。「川を渡る」と言えば、いま目の前にある川の事であり「川一般」ではない。やまと言葉ではその違いを、文字を作ってまでして区別したのである。
そうは言っても上記「お/を」の区別は、きっちり境界があるわけではないし、やまと言葉にとって必要不可欠というほどの約束でもない。だがあいまいに定まっている事は確かだ。そして定まったものは長きにわたって守られて来た。次の絵は、やまと言葉の「お/を」区別をヒエログリフ風に図解したものである。

お断りしておくが、「女一般」を「おんな」と書き、「特定の女(愛人など)」は「をんな」と書くように定まっていたというわけではない。「をんな」という言葉が最初に出来た時、たまたまそれが特定の女を指す言葉だっただけの事だ。起源「をんな」の意味は「確かに存在する、危険な事件」つまり「まずい事だが確かに居るんだよ」となる。これで「をんな=女」と定まった後は、すべて「女性=をんな」と書く約束になってしまったのだ。
「おおきい」という言葉がある。この「お」が「広い範囲」概念を持っている事は明らかだ。「おお」となれば「きわめて広い範囲」概念となる。一方「雄々しい」という言葉もあるが、その対象は「きわめて狭い範囲」すなわち「或る個人」に表現である。「をを」と連続すれば「狭い範囲の内の更に狭い範囲」となる。「おおきい」は「ををきい」ではないし、「雄々しい」は、本来は「おおしい」と書いてはならないのである。
ともかく「やまと言葉」では「お/を」の区別を、文字で書き分けていた。おそらくは発音でも区別があったと思われる。つまりは意味の違いの区別なのだ。現代でも「お/を」は使い分けられている。その理由は長く忘れられていたが、いま上記の如く明らかになった。
なお「お/を」概念の書き分けはヒエログリフにもある。それは「カルトゥーシュ」だ。エジプト古代の王様の名はカルトゥーシュと呼ばれる枠の中に書かれているが、これは「特定の個体・:個人」概念の表現であると考えられる。
やまと言葉「お/を」の区別は、漢字到来後のいわゆる万葉仮名に引き継がれた。音「お」に当てた漢字は「意」「憶」「於」「応」「隠」などがある。音「を」には「乎」「呼」「袁」「遠」「越」「男」「緒」「雄」などが当てられた。いずれも橋本進吉が「上代特殊仮名遣」で明らかにした事実である。
これらの漢字の意味は必ずしも上記「お/を」概念と一致するものではないが、それが当時の事情によるものであれば解明は困難であるが推測は可能だ。例えば現代語「おい」「おーい」という呼びかけ言葉は「ヲイ」「ヲーイ」と書くが、その場合の「を」の意味は、前者は「特定個人(例えば妻)」であり、後者は「特定個人(自分)」の事である。実際に「おーい」と叫ぶのは、遠方に居る人に自分の存在を告げるためであり、またそのような行為を「呼ぶ」という。これらを考えれば漢字「乎」「呼」「袁」「遠」「越」はすべてその概念に一致するではないか。「男」「雄」は「目の前に居る個体」である。
「お」を使うやまと言葉の例は前の方でも書いたが、他に「おき(沖)」「おく(置く)」「おく(屋)」「おけ(桶)」「おさめる(納める)」「おば(伯母・叔母)」「おじ(伯父・叔父)」なども、同じく「範囲・区域」概念を持っている。「をじさん」「をじいさん」という言葉があったなら、それは本来は「自分の叔父」「自分の祖父」をいうのである。
敬語「お」を、「を」に代える事は許されない。それはその「お」が起源では「一般の」つまり「範囲・区域」概念を担っているからであって、敬う気持ちのせいではない。「父さん・母さん」は自分の父母であるが、「お父さん・お母さん」は人の子の父母なら誰にでも使う。この場合も「範囲・区域」概念である。
「一般の山」は「お山」と呼ぶが、唯一の山たとえば「富士山」を「お富士山」と呼ばない。固有名詞には「範囲」概念はないからである。しかし「お/を」書き分けを厳密に適用するならば「を富士山」となるはずだ。その名残りは時代劇の人名「おたみ」「おさと」などである。これらは本来「をたみ」「をさと」と書くはずであるが、どちらであろうと敬語ではないのである。
やまと言葉の「お/を」書き分けは確かにあり、それぞれの概念は50音図の「お列」の各音節「こ・そ・と・の・ほ・も・よ・ろ」全てに於いて甲乙の別となって表面化するのであるが、その件はあとでまた書く。
やまと言葉は音「O」に当てる文字を「お/を」2種用意したが、英語では「O」1種だけしか作られなかった。もちろん英語にも「限りなく狭い範囲=個体」概念の言葉はある。ただ文字では区別しないだけだ。その例は「ONE」「ONLY」「OX」などである。「OX」の意味は「印の付いた個体」であり、牧場で牛の持ち主あらそいが起きた時「それはOXだ!」つまり「印がある牛だ!」と叫んだのが起源である。それでもなお「OX」には「印が付いている限り」という「範囲」概念がある。「たった1頭だろうが印があればオレの牛(の範囲)」というわけだ。
要するに「個体」概念と「範囲」概念には境界がないので、これをまとめて更に上位概念に統合し、別の言葉で表現する事にした。それが「存在」概念である。実はこの事は研究の途中で気付いたのであり、第48話あたりから「O=存在」概念と書くようにしている。
「存在」概念というものは人類基本の5種の概念「A・I・U・E・O」の一つである。もし古代社会が平和で、事件など何も起きなかったら、世の中は「存在」概念だけで成り立つ。山があり、川があり、父があり、母があり、妻があり、子供があり、獲物があり、畑があり、魚があり、果物があり、そして寝床がある。その他全てが、ただ「存在」するだけである。こういう状態を「ありのまま」という。
ついでに書いておくが「O=存在」概念だけの世界の唯一の実例は「極楽」である。極楽には「A=事件・危険」概念がない。何もしないから「I=行動・行為」概念もない。「U=判断」概念などもちろん不要だし、「E=情報」概念など何の足しにもならないのだ。唯一と言ったが、おそらくは「天国」も同じであろう。
話がそれて行ったので戻す事にするが、結論として音「O」が担う「存在」概念は英語圏では文字「O」で表現し、やまと言葉では「お」「を」の2種の文字を使って「範囲・区域」概念および「個体・個人」概念に区別していた、と書いておく。現代日本語では、助詞としての「を」が唯一残った用例である。
ここからは「お列」の子音を使った言葉を取り挙げてみよう。基本母音「お/を」概念がどのように表現されているか、それも確認して見る事にする。
日本語の中に文章には「もの」という言葉がしばしば出て来る。「もの」とは何の事であろうか。「ローマ象形文字文字31概念表」に従えば次のようになる。
も MO (その)存在は否定できない
の NO たしかに存在している
これは意識して何かを見た時に、その人の心にわき上がる感覚(概念)であり、言葉というものがなくても、身振りで他の人に伝えて、共感を求める事は出来る。しかしなぜかその感覚を表現するべく「音声」というものが用意されていた。それが「も」と「の」である。その「概念」と「音」との関係は、とりあえず「人類遺伝子に従う」としておく。
もしその物が「道に落ちていた」場合なら、一目で大きさがわかるはずであるから、心に抱くその概念は、もっと具体的な「個体」という概念になるであろう。その場合の「もの」の意味は「あやしい存在だが個体である事は確かだ」となり、現代日本語「もの(物)」はこのあたりの概念を継承している事がわかる。もし道で「見知らぬ人」に会った場合ならば「あやしい存在だがひとりの人間である事は確かだ」となり、現代日本語の「もの(者)」がこの概念を受け継いでいる事がおわかりであろう。
日本語「もの」は結局身近なもの「者」「物」など「個体」を言う言葉になってしまったが、「ものかなしい」「ものがたり」「ものたりない」などからは、狭いながらも「範囲・区域」概念を感じる事が出来る。例えば「ものがたり」での「もの」は「或る話の最初から終わりまで」を示すが、これは「存在」「個体」よりも「範囲」概念と考えた方がよく合うのである。「ものかなしい」の場合の「範囲」は「あたりの風景全体」を指している。「ものわかりのよい」「ものおじしない」も「範囲」概念だ。「ものものしい」は「個体の誇示」と解釈出来るが、現代ではむしろ「存在の誇示」と呼ぶ方が適合している。
日本語「もの」と英語「MONO」は同じ概念を担う言葉である。
MONO あやしい存在だが個体である事は確かだ
この言葉は岩波英和大辞典によると「単一の」「単独の」という意味になっている。だが起源的には上記の通りだ。しかし例えば「道に落ちていた物」が、どこにもない、聞いた事もない、誰も知らない物だった場合には、その時発言される言葉「MONO!」は、より多くの人によって「単独の」「唯一の」という意味に解釈される可能性がある。
落ちていた物の意外性の強さの違いが、心に浮かぶ意味の違いになるのだ。それが「村人が落とした安物の財布」だった場合には「どこにでもある物」と呼ばれるだけだが、「金貨の詰った皮の財布」だったなら「この財布の持ち主は村で唯一の人物」「村では1個だけの物」だとすぐにわかる。
「金貨の詰った皮の財布」を拾った男は「モノ!」と叫ぶが、西洋のその村では結局「モノ」とは「MONO」つまり「唯一の」という意味になった。日本語「モノが違う」とは「材質が違う」という意味でなく、「唯一の」に近い「めったにない品」という意味なのではないだろうか。「ものめずらしい」という言葉もあるが、この場合の「もの」が「唯一の」という意味に解釈されてしまう可能性はあるだろう。「ものすごい」も「他に例のない」つまり「唯一の」という概念に近い。
以上のような解釈を通読してみると、例えば「ものかなしい」の「もの」に使われている音「O」は文字「お」が担う「範囲」概念であり、「ものすごい」に使われる「O」は「唯一の」「例のない」つまり「限りなく狭い範囲」概念である事がわかる。これは文字「を」が持っている概念なのだ。
漢字「物」「者」は「お」概念の文字であり、「物すごい」「者すごい」などと使う事は許されないのである。実際にはあり得ないが「MONOすごい」という表現なら使う事は可能だ。英語「MONO」の「O」は「を」である。
「もの」「MONO」という言葉いずれにも、「お/を」書き分けの理由となった「意味・概念の違い」が残っている事を、ご理解頂けたであろうか。
日本語の中に文章には「こと」という言葉もしばしば出て来る。「こと」とは何の事であろうか。「ローマ象形文字文字31概念表」に従えば次のようになる。
こ KO 存在の発生(範囲の発生 個体の発生)
と TO 存在の成立(範囲の成立 個体の成立)
或るもの(存在・範囲・個体)が発生して成立すれば、それが「こと」なのである。これで世の中のあらゆる「事」の意味を説明出来るはずだ。
「ことば」という言葉があり、その古語は「こと」であるが、もちろんそれは「音の発生と成立」あるいは「文字の発生と成立」である。ここで「ば」は「BA」すなわち「準備事件」つまり「あらかじめ準備されたこと」である。通して言うならば「あらかじめ準備したものを発生して成立させる」これが「ことば」なのだ。「ことばとは何か?」という問いに対する最も具体的な(抽象的でない)解答がこれである。
「あらかじめ準備したものを発生して成立させる」、このような事柄は「ことば」以外にもあるじゃないかとご指摘があろう。例えば「料理」「家具」「農産物」みんな該当するはずだ。その答えは、一番先に「言語」がその名をちゃっかり独占してしまった、となる。なにしろ「言語」というものは「料理」「農産物」より先に発生したのであるから、だれにも遠慮する必要がなかったのである。
「ことば」を話すとは、「その場で最も適切な(唯一の)意味」を伝える動作である。つまり「ことば」の「こ」「と」いずれも「O」は「を」であるという事になる。なお「ことば」の「ば」は「BA=準備事」概念と言ったが、「VA=視野内の事」概念であるとも言える。この場合「ことば」とは「或る存在が発生し成立するのが視野に見える」意味となり、目の前で相手が話す、あるいは文字を書く、という場面の表現となる。この方が正解であろう。
「こと(事)」と同じ発音の「琴」はどうなんだとご質問があろう。実はこの言葉は上記の「事」概念とは異なるものである。
こ CO 覆われた存在(範囲・個体)
と TO 存在の成立(範囲の成立 個体の成立)
その前に「おと(音)」の説明をするが、「音」というものには姿や形がない。しかし存在はするし、成立もする。だから「おと」となったのであるが、琴は音源であり、その音は箱(琴の胴体)の中に隠れているという考え方なのだ。隠れた存在を成立させる道具が「琴」である。「おと」の「お」は「範囲」概念であるから「をと」とは書かない。
「琴」は「KおTを」と書けば「お/を」書き分けが出来る。つまり「琴」という漢字がなかったら万葉仮名で書くしかないが、その時「こ」は甲類漢字、「と」は乙類漢字を用いなければならない。これが当時の規則すなわち「万葉仮名マニュアル」だ。
調べてみると甲類漢字「古」が見つかる。「古」は「古い」つまり「覆われた区域」だから当然「お」概念であり、上記「マニュアル」にピタリ合う。甲類「こ」には「庫」もあるから、「琴=音が隠れている箱」と考えれば「庫」を使った方が合うかも知れない。例えば「庫吐」とでも書けば意味も近くなる。ここで「吐」は「嘔吐」などに使う文字であり、「範囲」概念よりも「個体(液体や音も含む)」概念に近いから乙類漢字と見なされ、ここで使う事が許されるのである。
前記「ことば」を万葉仮名にするならば「己吐葉」となるであろう。「葉」は実際に現在でも使っている文字であるが、その理由は木の葉が人間の舌に似ているからに違いないが、それは見かけの類似つまり「ば=VA」概念の表現である。
「ことなる」の語幹は「ことな」であろう。「こと」は前に書いた通りであるが「な」とは何の事か。
こ KO 存在の発生(範囲の発生 個体の発生)
と TO 存在の成立(範囲の成立 個体の成立)
な NA 事件の強調 とんでもない事件
る LU 判断が導かれる 判断せざるを得ない
古代では「イナゴの発生」は「こと」である。「大発生」は「広い範囲で発生」つまり「おおごと」だ。しかし今年はバッタが発生して農産物に被害が出た。村人は「ことな!」「ことなる!」と叫んで長老に報告する。「る」の意味は「・・・としか考えられない」と意訳してよい。
この場合、本来は前年と同じイナゴであっても「ことなる!」と叫んでよいはずである。しかし現代でも「社長!とんでもない事件が起きました」と言えば、「前例のない」「前例とは異なる」事件だと解釈されるであろう。そのキーワードは「な」という音である。「な」音に含まれる「強調」概念はいろいろ例もあるが、「初めて」という概念が一番強い印象を相手に与えると考えられるからだ。結果として、その村人は「前の例とは違う」旨を伝える報告をした事になり、以後その意味の言葉になってしまうのである。
「ことに」は「KOTONI」と表記されるが、この時「NI」の意味は下記のようになる。「こと」は上記と同じだ。
に NI 行動・行為の強調
この場合の「強調」も、前項の例のように「初めての行動・行為」をいう場合が多い。そこで「ことに」を「イナゴの発生」の例で言い換えてみると、「前年と同じイナゴが発生しましたが、今年のは特別勢いが激しいようです」となる。
「ことさらに」という言葉もあるが、これに用いられている「さら」は「THARA」つまり「反復するかに思える」「絶え間なく」という意味である。つまり「前年と同じイナゴが発生しましたが、今年のは特別勢いが激しいようです。次から次へと襲って来るようです」という報告になる。最後の「・・ようです」が「RA=事は定かでない」の意訳である。
なお「ことに」の「O」は「範囲」「個体」いずれとも区別せず、両者を包括する上位「存在」概念の言葉と考えた方がよい。
この言葉は現在では人間の「息が絶える」「心臓が止まる」の意味であるが、起源ではもっと範囲の広い概念をいう言葉であった。
き CI 行動が覆われる
れ RE 情報は定かでない
「こと」の意味は前項の通り、「きれ」の意味は上記の通りである。「あの女とはきれました」という場合の「きれ」が一番近い意味になるであろう。つまり「あの女とのことはもうおしまいになり、みんな忘れました」「愛人の発生と成立、そして別れ」これをまとめて「こときれました」と言ってよいのだ。
これも実例ではないが、例えば「鉛筆を全部使いきった」場合にも「こときれ」と呼んでよいのである。いずれも、今はなくなったが一時はしっかり発生し成立していたという前提があっての言葉だ。しかし結局は「臨終」という意味に定まったようだ。
「断る」という言葉の意味は、ここに使われている「わ」音の影響を受けているはずである。「こと」の意味は前と同じだ。
わ WA 大量の危険
「ことわる」とは「その存在が発生し成立すれば大量の危険を招く」という意味になる。「る」は「・・としか考えられない」の意味だ。つまり起源的には「拒否」でなく、単なる「状況判断」というわけだ。しかし、これが相手の提案を否定したい者の発言だった場合には「拒否」の意味となる。
「理」と書いて「ことわり」と読む言葉もある。もちろん「断り」とは違う言葉になっているが、音は同じだ。この言葉の意味はどこから来たのであろうか。或る時、村人が集まって村長に直訴したとしよう。村長は「ことわり」と叫ぶが、その意味はもちろん「拒否」ではなく「状況判断」である。
り LI 導かれた行動 当然の成り行き
「り」の意味は上記の通りであるから、結局「ことわり」は「その存在が発生し成立すれば大量の危険を招くのは当然の成り行きだ」となり、村長が同じ意見の持ち主だった場合には、村人の訴えは許可されるのである。
おわかりであろうが、「ことわる」「ことわり」いずれもほとんど同じ意味である。たまたま村長が賛成だったから「理」という意味になっただけだ。反対だった場合には「断り」「断る」という意味になるであろう。
「ことさか」は日本書紀にも出て来る古語である。旺文社古語辞典(1992年版)には「離縁」の事だと書いてある。「こと」は前出の通りだが「さか」とは何の事であろうか。
さ SA 事件の終焉
か CA 危険は覆われた
この場合の「さか」は「終わってよかった!」という意味になる。「やめてよかった!」でもよい。すると「ことさか」の意味は「存在が発生し成立したが、終わってよかった!」となる。どうもよくない事があったようだが、この意味なら「離縁」以外にも用途はいくらでもある。例えば前記「イナゴの発生・成立そして終焉」でも使えるはずだ。「終わってよかった」という意味もピタリ合う。
結局「離縁」という意味になったのであるが、それは、おそらく女か男のどちらかに問題があり、第三者から見ても「長いこと苦労したわね」「あんなヤツと別れてよかったね」と言えるような場面で発言されたからではないか。簡単に言えば「相手に非のある離縁」となる。
「ことさか離縁」は男女どちらから言い出してもよいはずであるが、日本書紀には、当時わざと「ことさか方式」に持ち込む不埒な男が居た事を示す文が載っている。(岩波・日本古典文学大系・日本書紀上巻・孝徳天皇)
「友」「共」「本」「元」などは、いずれも前記「TO」「MO」音を使う言葉であるが、その意味は何か。
とも TOMO 範囲の成立には、(私の)存在が欠かせないよ
もと MOTO 既に成立している存在(範囲・個体)は否定できないよ
「とも」「もと」の意味は上記の通りである。前者で「私の」と書いた部分は、その場の話題によって異なるが、聞く者一同は既に承知しているはずである。ここで「とも」の「と」は甲類となるが、他は話題の対象によって定まるので、甲乙の区別は不可能である。もし「万葉仮名マニュアル」があったとしても、この点は明確でなかったはずだ。強いて書くならば「区別出来ない場合はすべて甲類漢字を用いる事」となっていたに違いない。
やまと言葉には元々文字はなかったが、音の意味つまり「ことだま」は守りたいので、当てる漢字を厳しく選定しておかないと「ことだま」が乱れてしまうという危機感はあったはずである。「万葉仮名マニュアル」は優秀な人物が指導して作ったに違いないが、後世になって甲乙が乱れて行くのはやむを得ない。
「そよ」は「そよかぜ」、「よそ」は「他所」「よそよそしい」しか実例が見つからないが、その意味は次のようになる。
そ SO 存在の終焉 個体が落ち着く
よ YO 存在の移動 移動する存在
「何かの存在がゆるやかに移動して消えて行く!」これが「そよ」であるが「風」の表現にしか使われない。つまり「ゆるやかに来て消えて行く風」が「そよかぜ」である。
「よそ」は「或る存在が移動した先で落ち着く」の意味となる。起源的には命令形であろう。その場合「よそ!」と叫ぶわけだが、言われた者は何かを持って他の場所へ移動し、そちらへ置く事になる。「よそよそしい」は「今にも”よそ!”と言いそうな態度」の意味となる。
この言葉の意味は「ど」音に支配されるはずである。「も」「る」音の意味は前に書いた通りである。
ど DO 大いなる存在(あるいは範囲または個体)
も MO (何らかの)存在は否定できないよ
る LU ・・と判断せざるを得ない
「重大な何かが存在しないとは言えないと判断せざるを得ない状態」これが「もどる」である。本来は「後退」でなく「方向転換」「一旦中止」の場合でも使ってよい言葉のはずであるが、たまたま「振り出しに戻る」の意味となったのである。問題解決の方法としてはいちばん正しい選択と言えるからであろう。
現代語「どもる」は「吃音」の事だが、元は「重大な何かが存在しないとは言えないと判断せざるを得ない状態」の事である。つまり「もどる」とほとんど同じ意味なのだ。ただ「も」に代わり「ど」が優先しているという違いである。そして「その何か」が発声器官に起きた事件であった場合に限り「吃音」の意味となる。
「どうもすみません」「どうもありがとう」これらの言葉に使う「どうも」は上記「ども」とほとんど同じ意味である。すなわち「重大と思われる何かが存在しないとは言えない」となる。「重大と思われる何か」とは、その言葉の発言者が、相手から受けた被害または恩恵の事である。「どうもよくないな」「どうもおかしい」なども同じ意味であり、やはり「重大と思われる何か」がある事を表現している。
「どうも、どうも」だけを連発するアナウンサーが居たが、基本的には「どうも」だけでも成立するのかも知れない。つまり「重大と思われる何かが存在している」事を確認し、その事柄に参加する覚悟を示す意味でなら、過不足はないはずだ。
なお「どうする?」「どうですか?」などの「どう」は「この件は重大だと判断なさいますか」という意味になる。読者諸兄はどうお考えであろうか。
これは「ほごにする」の「ほご」なのであるが、何の事であろうか。
ほ HO 反復する存在
ご GO なお続く存在
これを見ると「ほご」とは「何度も使える存在」つまり「書き損じた紙を、下書き・包み紙・襖の下貼り・焚き付け紙・ちり紙・・などに流用する」そのような紙の事だとわかる。もちろん「紙」以外の物でも使ってよいが、基本的には二次的に利用する物でなければならない。約束の時間をホゴにされた場合でも、空いた時間は何かしら使えるのであるから「ホゴ」と呼んでよい事になる。
日本語「どこ」には「何処」という漢字が当てられており、漢字を見ればその意味がわかるようになっている。ほんとにそうなのか。
ど DO 大いなる区域(甲類)
こ CO 覆われた個体(乙類)
古代の狩りで獲物を見失った人々は「どこ!」と叫ぶが、その意味は上記の通りである。ローマ象形文字31概念表に従う基本的な意味そのままの言葉だ。つまり古代から全く音と意味が変化していない事を示す。もし「どこ」を万葉仮名で書くならば「土己」あるいは「渡居」となるはずだ(岩波・日本古典文学大系・万葉集1による)。当て字「何処」は意味の類似だけを重視した選択の結果である。
「ぼろ」という音を使う言葉には「襤褸」「ボロボロになる」「涙がボロボロ」「ボロ儲け」などがある。
ぼ VO 視野内の存在(あるいは範囲または個体)
ろ RO 定かでない存在(あるいは範囲または個体)
これが基本の意味であるが、以下個別に書き出してみよう。
襤褸 視野にあるこの存在は何なのだ!(風体が定かでないので)
ボロボロになる 視野にあるこの存在は何なのだ!(風体が定かでないので)
涙がボロボロ 視野にあるこの存在は自分ではコントロール出来ない存在だ
ボロ儲け 「ボロ=無価値なもの」という概念が定まった後の新語 ボロ同然の品物で利益を得る
このようになると考えられる。「コントロール出来ない存在」とは「LO=指導された存在」概念の事である。「お皿の豆をボロボロ落とす」の場合も「コントロール出来ない」意味である。
「ころ」という音は「頃」「転がす」「殺す」「コロっと忘れる」「心」「所」など多くの言葉に使われている。
ころ(頃) CORO 覆われた区域であり範囲も定かでない
ころがす(転がす) COLOGA (例えば石で)地面を覆い、導かれるままに、事を繰り返す
「ころがす」という言葉の意味がわかる好例は、庭石を転がす場面である。持ち上げて倒す動作を繰り返すと、地面は1回ずつ石に覆われるはずだ。「GA=が」は動作の継続を言う音であり、また「LO=ろ」はその動作が或るコースに沿って導かれている事を言う。筒あるいは球状の物体でも、その基本概念は同じである。
ころす(殺す) CORO 個体を覆い、わからなくする
コロっと忘れる CORO 存在が覆われ、定かでなくなる
こころ(心) COKORO (何らかの)存在が覆われたり現れたり定かでない
ところで TOKOLODE (次の)話題(存在)を発生させ成立せしめるよう導くが、何が話題なのかは不明
ところが TOKOLOGA (次の)話題(存在)を発生させ成立せしめるよう導くが、その話題は継続している
「話題」というものは或る「存在」あるいは「範囲」概念である。上記の例では、いずれも新しい話題に移る時の言葉であるが、「で」と「が」の違いは充分ご理解頂けるはずである。
ここのところ忙しくて TOKOLO 指導により発生させ成立させた区域 自分で設定した範囲
「ここのところ」とは或る期間を言うのであるが、その期間は発言者が任意にきめてよい。「LO」音が「任意な範囲・区域」を示す。「ここのところへ置け」と命令された場合には、命令者の指導によってその区域が発生し成立するのである。その場所は元は単なる空間であるが、その命令によって「意味のある区域=所」となるのだ。「所を得た」という言葉には、その起源的な意味がまだ充分残っている。
母音「お」と「を」の話はまだまだ存在するが、とりあえず今回はここまでとする。その「ここ」の元は「こ」一音だけであった。「こはそも如何に」の「こ」がそれだ。意味は「KO」つまり「範囲の発生」要するに「範囲を限定する」となる。空間および時間は基本的には無限であるが、「ここ」と言えば空間なら広くはその村、狭くはその棚の上などに限定される。時間の範囲をいう「ここのところヒマなので」とは、筆者の場合なら去年からの事であるし、「ここらで一服」と言えば、仕事を始めてからわずか一時間足らずの範囲をいうのである。
なお「ところ」も「範囲の限定」であるが、「ここ」の方は範囲の線引きがあいまいなのに対し、「ところ」の方は、その時の話題の目的に沿った過不足のない範囲を言う点に、わずかながら違いがある。そのポイントは「指導された区域」概念の音「ろ=LO」にある。
ここまで書いて見ると、子音「こ・そ・と・・・」にも「お/を」の区別つまり甲乙区別が、いくらかでも残っている事がわかる。だが区別しない方がよい例も多数あるようだ。少なくとも「上代特殊仮名遣」をある程度裏づけ出来たと考えるが、いかがであろうか。
最後になったが表題に使った言葉「おくる」について書いておこう。同じ音で「送る」という言葉もある。
おくる(贈る) OKULU 上手に受け皿を作り、それを区域とせよ
「贈る」行為の起源は古代「子供に木の実を分け与える」事であり、その言葉は命令語である。子供たちは急いで両手を合わせて容器を作り、その中へ木の実を入れてもらうのだ。現代の子供の手にはチョコレートが入る。「KU」は「Uの字形の発生」つまり「入れ物を作る」意味であり「O」は「区域」である。「LU」は「指導的なUの字形」つまり「上手なUの字形」であり、現代でも親はそのように指導するはずである。
おくる(送る) OKULU 木の実が親の手から子供の手に移る
この言葉は「贈る」の変化であり、受け皿を作れという命令語でなく、木の実が移動するという状況を第三者から見た言葉になっている。誤解したと言ってもよい。この意味には「送」という漢字が与えられる。
おくれる(遅れる) OKURE
これは「おくる=送る」の意味が定着した後の言葉であろう。「RE=れ」は「情報が定かでない」という意味であるから、最初は「遅延」という意味ではなかった事がわかる。「送るには送るが、予定通りに着くかどうかは定かでないよ」というような意味だ。だがこういう場合、おおかたは遅れて着くのが通例である。
おく(置く) OKU 受け皿を作り、それを区域とせよ
これも「贈る」と同じであるが、ここでは「木の実を受け皿に載せる動作」を表現する言葉になっている。やはり誤解したと言ってもよいが、どちらが先の言葉なのか、それは不明だ。あえて言えば「置く」が先であろう。
おく(奥) OKU Uの字形を作り、それを区域とせよ
これは子供に木の実を与える場面でなく、冬の準備としての食料貯蔵用の横穴掘りの表現であろう。最初は単に「穴を掘れ」という程度の意味だったが、浅い穴を掘った者は更に「おく!おく!」と叱咤されたので、結局は「奥深い場所」の意味となったのである。
おく(屋) OKU Uの字形を作り、それを区域とせよ
これも「穴を掘れ」というような意味であるが、日本人が横穴に住んでいた事を証明するものではない。登呂遺跡にあるような住居でも、第一工程としては地面をUの字形に浅く掘るからである。その段階で「おく」と名が付くのだ。基礎工事なのになぜ「屋」という漢字が用いられたのかと疑問を持つ方もあろうが、後世漢字到来の頃には、既にその住居全体を「おく(屋)」と呼ぶようになっていたからである。

「私はこれで会社をやめました」というコマーシャルがあった。左の写真はその再現である。小指は「あいうえお」5母音の「お」を示すはずであり、その意味を「或る存在」だと考えると、「これ」が何を指すのかわかる。そして「これ」とは「CORE」つまり「覆われた存在、情報は定かでない」となり、コマーシャルの用例は、その意味でも日本語の起源にピタリと合っている事がわかるのである。