2016年5月改訂版

●まえがき
 万葉集を開けば必ず見つかるはずの巻一の初めあたりに「古来より難解」と称される未解読の歌がある事を、恥ずかしながら私は50の歳を越えるまで知らなかった。本は若い頃に買って持っていたのだが、そのまま書棚の奥に眠らせていたのだ。
 ある年の夏の休暇最後の夜、ふと取り出した本にそれを見つけた私は、すでに空になっていたコップに新しいビールを注ぎ、一気にこれを解いたのである。

 この解読文は最初パソコン通信で公開し、1995年頃、自家版の小冊子として作成した後、同じく自家版の著書「日本語の源流」に載せたものである。その後はwebページに移し、2007年、2010年、および2013年に、それぞれ少しばかり改定を加えて現在に至っているが、今回、文中のやや説明不足な部分につき、わずかながら注釈を加える事にした。注釈部分は水平線で区分し、表題の前に印を置く事にした。その内容の多くは、以前読者からのご質問に答える形で作られた文が元になっている。なお以前の改訂文も、今回の改訂分(印)に置き換えてある。

 今回2016年5月一部改訂(BEの項 ・枕草子の項を追加)

 冒頭の絵は額田王を描いたつもりの人物画である。髪型や衣服の時代考証は無視した。ただしこの服装は天文観測者として星見の儀式を行う時の衣装、つまり現代の神職や医者、あるいは祈祷者なども纏っている言わば「白衣」である。当時でもおそらくは素朴な「古式・生成り」の衣であったはずだ。この歌を詠んだ斉明4年(西暦658年)頃の額田王の年齢は26歳と推定したが根拠はないに等しい。その性格は「勝ち気」しかし時に「おちゃめ」「物おじせず」「おおらかな才気」「歌には本音が出る」などであろうか。もちろん根拠はないに等しい。


●額田王
 万葉集巻の一の9「紀の温泉に幸しし時、額田王の作る歌」(岩波書店発行日本古典文学大系昭和44年刷による)には、納得できる解釈が行われていない。その資料には特に上二句は難解とあるが、下の句の訓に問題がないとは言いがたい。すなわち全文未解読と考えて出発するべきであろう。
まずは前記資料から原文を転載してみよう。

    莫囂圓隣之大相七兄爪湯気 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
 
 ここで参照すべき先人の業績は省略し白紙にかえって歌の定形を当ててみると、次の様に分かち書きできる。ここで普通に解釈してよい部分は素直に訳してみた。

    莫囂圓隣の 大相七兄爪行け 我が背子の 射立為兼 五可新何本

 これを見ると当面の問題は「大相七兄爪行け」にあると考えられる。読めるかどうかの判断以前に短歌の定形七文字にありあまるからだ。ざっと見て「大相七兄」には三文字しか割り当てがない。
 ここで「大相七兄」の「七兄」から、ただちに「北斗七星」を連想したといって信用していただけるだろうか。しかし事実はその通りであり、私は且つて天文少年だったのだ。
 その文字各々の意味を漢字辞書で調べてみよう。

    大    おおいなる。
    相    かたち。すがた。
    七    七。七個で一組の何か。
    兄    二組のうちの大きい方。

 北斗七星を「大いなる七個の星すがた」と見る事に異論はあるまい。では「兄」はどうなのかと思われた方はとりあえず文字「兄」の左半分をありあわせの紙で隠して見て頂きたい。残る右半分はまぎれもなく東の空に現われた北斗の形になっているはずだ。

 

 上の図で右は漢字「兄」左は線で繋いではあるが実際の星の配置である。その左側の三個の星は一般にはなじみの浅い星座「龍座」の一部だが、もちろん見える星だ。
 さて古代日本では春分を以って年の初めとした。その日を確定する基準は「北斗の出現」である。厳密に言えば「朝廷専属の観測所から見て、日没時に点火したローソクが尽きるまでに、北斗の最初の星が一瞬でも見えたら翌日が春分」というようなものであろう。日没から星が見える時間までの繋ぎタイマーがローソクの役目だ。当然ながらローソクは同じ型で作ったものを納入させ、北向きの窓をはさんで念のため二本立てておく。このような手順に従えば、春分日時の誤差は現代天文学から見ても一日以内だとわかる。
 この観測所及び行事が星占いとその祭壇の原形である事は容易に判断出来るであろう。そして歌の作者額田王の母「鏡王」は星占師であったと伝えられている。つまり実際は天文観測官なのであるから当然娘にもこの重要な星座の事は教えてあったはずだ。その名はやまと言葉で「***」あるいは「**」と呼び、漢字では「大相七兄」と書く。なお「七」に見えるのは秋の北斗であり「兄」に見えるのは春の北斗である。これをまとめて「七兄」と呼ぶのは不思議でない。

●ツメ
 ここまで考えたところで歌に戻ってみると上第二句・第三句は次のようになる。

    ***つめ行け 我が背子の
    **つめ行けど 我が背子が

 「爪」という文字が使われているものの日本語「ツメ」は「ツメが甘い」など「確認」という意味で用いられている周知の言葉だ。この日本語には当てる漢字がなく、通常はカタカナで書く習慣になっている。つまりこの歌は「何かを確認しつつ行く」場面を表現している事を示しているのではないかと推察できる。
 ここで歌の前文を見ると「紀の温泉に幸しし時、額田王の作る歌」とある通り、これは旅の様子を詠んだ歌に違いない。行幸は斉明天皇四年(658)とされている。
 「大相七兄」が北斗であり、「ツメ」が確認である旅の歌ならば、「**」あるいは「***」は北斗を示す未知の古名となるはずであるが、いま仮にこれを「ほし」と呼んで上第二句・第三句を記述してみよう。

   星つめ行けど 我が背子が

 いかがであろうか。行幸は夏の終わり頃とされているが、日が落ちた空に北斗を確認すれば、この時節では既に西の山に隠れようとしているはずだ。
 筆者の手元にある天文ソフトでは斉明四年に遡って天文現象を再現出来るようになっているが、北斗の位置などは現代とほとんど違わないはずである。


北斗七星
 「大相七兄」をいきなり「北斗である」と断じた事に不審を抱く者もあろう。しかし「七」という数と「北斗」との関係は、古来よく知られている事実である。漢字「兄」との関係は、気づかなかった方もあろうが、「兄弟」を「えと」と呼んで吉凶を占う星占術がある事を考えれば、何らかの関連を想像する事はむつかしくない。
 古代の人々は毎晩のように夜空を眺め、そこに「大きな星すがた」を見て「兄」あるいは「七」という漢字を作った。空に「大きな兄」「大きな七」がある事を、「星を見て暦を司る者」の子孫である額田王が知らぬはずはないのである。普通の村人だって知っていて不思議はない。

 文字列「大相七兄」をどう読むかと考えるのは、この文字列を「音のみ用いる」とする「表音文字」として受け取る事であるが、万葉仮名には別に「当て字」という使い方もある事は既にご存じであろう。
 
 「当て字」とは、或る日本語に、それと「音は合わないが意味は合う漢字」を当てて用いる事である。「意味は合う漢字」の例には次のようなものがある。

  いにしへ        古昔
  いかだ         筏
  こころ          情
  みやこ          都 
  ますらをのこ      大夫
  いかるが        斑鳩
  いなか         田舎 

 「大相七兄」は当て字なのである。当て字ならばその意味に合う日本語「**」あるいは「***」を探せばよい。「音のみ用いる」ならば文字数は少なくとも4文字必要となり、歌の定型には合わないので、ここでは採用出来ない。

 この歌は旅の途中で詠まれたものである。「ツメ行く」すなわち「確認しつつ行く」とあるならば、何を確認しつつ行くのかはおおかた想像がつくのであり、それは旅路の行程と時間の関係に違いあるまい。当時「時間・時刻」は天文現象つまり太陽か月か星の位置によって推定するしかないが、この歌の場合、太陽は既に西の山に沈んでおり、頼れるのは星だけである。残念ながらその日の月齢は不明であり、歌にも出て来ない。

 これも想像であるが、当時は日が暮れたなら、あたりはやがて真の闇となり、晴れていたならば空には満天の星が輝いていたであろう。現代人には体験出来ない世界である。空気だって充分過ぎるほど澄んでいたはずだ。そういう旅の途中で詠んだ歌である事を忘れてはならない。

紀州路
 斉明天皇のご一行が温泉めざして進んだ道は、おそらくは紀の川沿いの「大和街道」であろうか。現在の国道24号線があとを継ぐ道路である。奈良から和歌山まで昔の道で100Km、女性の足で1日20Kなら5日はかかるのではないか。途中どこかで泊まり、最後の宿泊地は、そのお宮の宮司の説では和歌山市木本の「木本八幡宮」だそうな。木本八幡宮には既にこの歌を彫り込んだ石碑が建立されているとの事である。


●星座
 ここで歌の最初第一句の漢字四文字が何を表わすのか、その文字各々の意味を調べてみる事にしよう。手元にある角川書店発行の「新字源」(1992年・第328版)を開くと次ぎのようになっている。数字は頁を示す。

    莫    日暮から夜半まで。(857)
    囂    かまびすしい。多い。頁は頭のこと。(199)
    圓    球形の。圓精・圓霊は天をいう。(207)
    隣    同類。周代の行政区画では五戸を隣という。(1075)     

 「夜半にかまびすしい天球の同類」これが「夜空の星座」でなくて何であろうか。「夜になるとあたま数が多くなる天の仲間たち」でもよい。難解と言うが答えは漢字辞書に書いてあるではないか。夏の夜、解読にとりかかってから新字源を開いてこれらの文字を見つけるまでに五分とはかかっていない。もちろんいますぐ読者のあなたがやっても同じ時間でできるはずだ。あえて申し上げるが、この文を放り出して直ちに実行して頂きたい。

●マトマリの星1
 漢字辞書で「莫囂圓隣」が確認出来た方ならば「隣」が英語なら「グループ」日本語なら「まとまり」である事は既にご存じであろう。その漢字四文字全体の意味は「星座」そして星座とは「星のまとまり」だと気がつくのに時間は不要だ。
 「莫囂圓隣」を「まとまり」に置き換えると歌の上の句は次ぎのようになる。

    まとまりの 星つめ行けど 我が背子が

 これで歌の定型五七五にピタリと納まるが、ここで不思議な事実が見えて来る。それは漢字「莫囂圓隣」と「星のまとまり」の関係だ。両者は同じ意味だが漢語と和語であるから発音が同じであろうはずはない。それは「大相七兄」を仮にではあるが「ほし」と読ませた例と同じである。
 ところがよく見ると「莫囂圓隣」は「マトマリ」と読めてしまう。正確に言うならば「当時の役人が誤って(勝手に)そのように読んだ可能性はきわめて高い」となる。
 話はそれるが「大相七兄」は誤って「おそなえ」と読まれた可能性がある。つまり春分を確認するための北斗観測儀式は「おそなえごと」、儀式に使われる器具や供物は「おそなえもの」と呼ばれるのだ。鏡王が「おそなえ物を用意せよ」と言えば部下は祭壇に白布を敷き、燭台を置き、時期の野菜をかごに盛って「おそなえの用意が出来ました」と報告する。
 「莫囂圓隣」に戻るが、この漢字四文字を当時の日本の役人が「マトマリ」と読み、最初は正しく「星座」の意味に用いていたが、やがて「グループ」の意味にも使うようになったのではないだろうか。もちろん額田王は元の意味で使っている。


マトマリの星2
 上記「莫囂圓隣」の解釈につき、後日の考察に従って改訂する事にした。その骨子は「まとまり」という言葉の解釈に関するものである。すなわち前記の解釈では「誤ってマトマリと読んだ」となっているが正しくは「元々マトマリは古代日本語であって、莫囂圓隣は意味と音を似せた当て字である」とする。

 古代日本語「まとまり」の意味は、おおよそは現代と同じく「グループ」の意味であるが、詳細な意味は次の通りである。

 ま   MA     事件でないとは言えない
 と   TO      存在の成立
 ま   MA     事件でないとは言えない
 り   LI       指導された行為

 ここで先の「ま」は次の「と」を修飾し、後の「ま」は語尾の「り」を修飾する音節であるから、この言葉の語幹は「とり=TOLI」となり、その意味は「確かに存在しており、(あたかも何者かの)指導に従った(かに見える)行為」となる。「ま」音は「とり」全体にかかる「否定の否定」概念だと言ってもよい。つまり「・・・に違いない」という感じだ。北斗七星の形は「確かに柄杓に見える事は否定出来ない」形であり、また「何者かが指導して行ったと考えても否定は出来ない」形でもある。他の星座も同じだ。あまりにも柄杓そのままであるから古代の人々も不思議に思ったはずである。もちろん現代人が見ても不思議である。

 この言葉「まとまり」が「グループ」の意味となるのは後世の事であり、その最初はやはり「星座」の表現であると考えたい。今回の解釈には「グループ」概念がないからである。だが「星座」の概念にはピタリ合っているし「星座」はやがて「星のグループ(まとまり)」となる。この言葉「まとまり」を最初に使った人物が「天文に詳しい人」だった事は間違いない。額田王もその一人だ。

 この歌に使われた漢字「莫囂圓隣」は当て字であり、その意味は間違いなく「星座」である。音もほとんど一致と見なされ、当て字としては実によく出来ている。あまりにもよく出来ているのでつい上記の如く間違ってしまったと自己弁護しておこう。日本語「まとまり」に漢字を当てたのが額田王本人かどうか不明であるが、この歌が残っているのは同行していた筆記者が直ちに書き留めたからであり、その漢字は歌の作者の指示によったと考えてよいのではないか。
(この項2010.2.16改訂)

マトマリの星3
 「マトマリの星2」では「当て字を作った者は不明」と書いた。その点は間違いないと思うが、額田王が、初めてこの歌の中で当て字を考えたとは考えにくい。一説ではあるが漢字到来は既に西暦300年以前であったとされているからだ。中でも天文用語としての漢字はもっと早くに定着していたと想像出来る。それらの漢字や数字は暦などを作るためには欠かせない文字だったからである。

 「莫囂圓隣」という漢字の列が、中国で出来たとする説には賛成出来ない。なぜならば、当て字ではあるものの、日本語でも「まとまり」と読めてしまうからである。中国で作られたのなら、そこまで一致する偶然はあり得ない。

莫囂圓隣
 読めないと言われているこの漢字列の個々の文字の意味は、漢字辞書にもはっきり書かれているのであるが、多くの研究者がその意味を採用していないのはなぜであろうか。ここはむしろひとつの熟語と考えてみたらどうか。前記「大相七兄」も熟語であると考えればわかりやすい。いずれにしても、額田王はじめ当時の人々が、この歌をすらすらと読んだ、あるいはすらすらと書いた事は間違いないのであるから、むつかしい日本語であるはずはないのである。


 さて歌の場面で「まとまりの星」とは当然北斗をさす。史書によればこの頃斉明天皇は心楽しまず、ここからは想像であるが温泉へ行くというのに道草くって旅は仲々はかどらないのだ。宿はまだ遠いというのに日はとっぷりと暮れてしまい、北斗すなわち大熊(大熊座)はと見れば既に山かげに姿を隠し、わずかにその尾が見えるだけである。
 「どうするのよ熊狩り勢子さん」「もう熊は逃げちゃって、そのうちシッポも見えなくなるわよ」と額田王は斉明天皇にいう。本来は男性に呼びかける言葉「背子」は、ここでは熊狩り「勢子」にかけるため無理に使ったのだと解釈出来る。
 歌に起承転結があるとすれば、上の句は「起・承」を受け持つはずである。この解釈は充分その役を担うに値する句となっており、ここまで来ると下の句が従来の解でよいとは到底考えられない事がわかる。作者は万葉第一の女性歌人なのであるからその歌の「転と結」が凡庸なものであろうはずがない。


勢子
 上の句に「瀬子」という文字が出て来る。この言葉は万葉筆記の頃には「背子」つまり女性から見ての「親しい男性」を意味する言葉になっているが、別に「勢子」と書く言葉もある。発音は同じく「せこ」であるが、こちらは「狩りの時、獲物を追い込む役目の男衆」の意味だ。はっきり使い分ける必要があるではないか。

 しかしおそらくこの言葉の元の意味は「狩りに長けた勇者」だったのではないか。額田王がこの歌に採用した理由は、北斗(獲物あるいは時間)を追いかけて旅を進める斉明天皇を「勢子」にたとえてからかうためでありながら、「背子」つまり「親しい人物」としての意味も残すという、掛け詞にするためである。斉明天皇は女性であるが、本来は男性であるべき「天皇」という立場であるから、額田王が「背子」と呼んでも失礼には当たらないはずである。天皇もにが笑いするしかあるまい。


●熊を射る者
 下の句に移ろう。
 当時の人々はすでに北斗七星を「熊」になぞらえていたであろうか。
 もしそうだとすれば「射立為兼」の読みはたやすく定まる。すなわち熊(大熊座)を追いつめたが、これを射立てそこねた者がいるというたとえなのだ。

    射立為兼     射立たせかねて

 初秋の紀州路では、北斗七星の熊は逃げるが如く山に沈み、山に隠れてしまった熊は、もはや射る事はできない。この句は上第三句「我が勢子が」を受けている。
 次に「五」を「いつつ」と読んでみる。前の「射」に対応して「射つつ」という言葉ができるが、別に「五=いつつ」という数で連想される「星座」がある。 その「五」とは「射つつ熊を追う者」すなわち北斗七星を追うように現われる「弓の形をした五つ星の星座」という事になり、これが西洋名「カシオペア」星座である事は明らかである。


大熊座
 北斗を「大熊」と見たのはギリシャ神話である。「熊」の伝説が日本にまで伝わったはずがないとする者もあろう。
 しかし「大熊座」「子熊座」とも、その「柄(え)」の部分は「動物の尾」と見えるのであり、何か動物の「尾」と見られていた可能性は否定出来ない。

 しかもこの歌では下の句の冒頭に「射」という文字があり、このあと「五(射つつ)」という掛け言葉、さらには「弓」の形に見える星座が登場する事を考慮したならば、追い詰めている相手を獲物である動物と見立てた事に不自然さは見られないであろう。あるいは額田王が、この時とっさに北斗を「獲物」と見立てたのだとしても、歌としては成り立つが、ここでは最小限「北斗は動物の尾」という伝説は一般に流布していたのだと考えたい。


●兄弟
 北斗つまり兄星の出現で春分を迎えた半年後、兄星は沈んで弟星が北北東の空に姿をあらわす。弟星はカシオペアすなわち五星だ。漢字「弟」の部首は「弓」であるがこれはカシオペアの形から来ている星文字である。同類の漢字「梯」は「階段」の意味であるが、これも出現直後の五星の配置を示している。「兄弟」を「えと」と読むのは暦すなわち古代天文観測用語なのであって、「えとを観る」とは元来「北斗とカシオペアの位置を観測する」という意味なのだ。「兄」が出たなら春は近く「弟」が出たなら冬は近い。これが後世「兄」を「陽」とし「弟」を「陰」とした理由である。「兄弟」を「きょうだい」と読んでその意味に使うのはこれも後世の習慣なのである。もちろん歳上が兄となる。
 以上の天文用語は鏡王はもちろん額田王も知っていたはずだ。五星は熊を追う弓すなわち「射つつ星」なのである。「いつつ」が「掛け言葉」になっている事はいうまでもあるまい。
 ここまでの解釈を上の句から通して書いてみよう。

    まとまりの星つめ行けど我が背子が 射立たせかねて射つつ可新何本

 このようになるのだが、勇み足を承知の上で次ぎのように最後まで読んでしまう事にしよう。

    まとまりの星つめ行けど我が背子が 射立たせかねて射つつ星かも

 これで歌の解釈はおかた終了したとみて間違いあるまい。その大意は「日暮れまでには宿に着く予定(熊を追い詰める)だったのに」「まぬけな勢子さんは大熊を取り逃がし、いまごろ射つつ星が弓持って来ても追っつきゃしないわよ」となる。前半の「ツメ」という言葉は表面上では「確認」の意味だが、後半に入って実は「追い詰める」という意味を隠していたのだという事がわかる。感性きらめく額田王の歌としての存在感は充分あるではないか。


下の句
 額田王のこの歌は古来難解とされているが、ここに前々から定訓とされている下の句が存在する。多くの研究者はその訓を尊重し、別の解釈を述べる者はほとんど居ない。しかし筆者が言いたいのは、「だから千年もの間、難解なのだ」という事である。もちろん万葉集は日本語なので、朝鮮語で解く事など論外である。
 定訓と言われる下の句を誰が解釈したのかは問わない。しかしこの解釈をそのまま安易に流用する限り正解は得られないであろう。
 誰でも読めたこの歌が、読めなくなって千年も経つという。もういい加減その事の不自然さに気づいてもおかしくはないのだ。いまや研究者は手抜きせずに白紙で解釈に臨むべきではないのか。

 下の句の、いわゆる定訓を最初に唱えた者、彼が犯した決定的な誤りは下の句冒頭の漢字「射」の解釈である。この漢字「射」は、日本語では「い」と発音し、「弓を射る」などの言葉として使われている。いわゆる定訓では、これを「ゐ」と読んで「居」という意味に解釈している。

 日本語「い」と「ゐ」については、江戸時代の国学者「契沖」が古文書(記紀万葉)を調査し、それらの文書では、「居る」という意味には必ず「ゐ」を用いており、決して「い」を用いてはいないし、また「入る」の意味には必ず「い」を用い、決して「ゐ」は用いない事を発見している。「ゐ」「い」と書いたが、いずれも実際の資料は万葉仮名つまり漢字である。この事は明治の国語学者「橋本進吉」が、その著書「古代国語の音韻に就いて」(明世堂書店昭和17年刊昭和21年第三版)に書いている。
 
 漢字「射」が「いる」であって「ゐる」でない事は明らかである。その漢字「射」を使って「居る」という意味に使う事は、万葉仮名当時、決して行われる事はなかったはずなのである。

 橋本進吉が書いたこの本は、その道の研究者ならば誰でもご存じのはずだ。万葉の難訓歌を解釈しようと試みる者が契沖のこの学説を知らぬはずがない。つまり定訓と呼ばれる下の句の明らかな誤りを、少なくとも明治以後の研究者はみんな知っているのだと推定できる。不思議なのはこの誤りを誰も指摘しない事だ。なぜなのか。これが正されない限り、解読は不可能であろう。


●可新
 書いてしまった最後の句「五可新何本」であるが、これを「いつつ星かも」と読む事はできない。だが実際に読めないのは「可新」だけであり最後の「かも」には何の問題もないはずだ。
 ここで「可」という文字を調べてみると「可し」と書いて「べし」と読む例が見つかる。これは明治の頃まで行われていた書き方であり「ご下命いかにても果たす可し」など強い命令を出す時にも使う。すなわち「可新」と書いてあったら「べし」と読んでよいはずだ。すると「五可新」は「いつつべし」となるが、それが「カシオペア=五星」を表現する言葉として使われたかどうかが問題となる。話の途中であるがここで秋の初めに現われる五星(弟星)の姿をご覧頂こう。この星座が弓にたとえられても不思議でない事がおわかりであろう。左が「弓を描く星のまとまり」右が漢字「弓」である。

 

●強気の星占師
 この歌の解釈で最も重要な点は「いつつべし」が「カシオペア=五星」を表わす古語であるという仮説だ。「いつつぼし」なら問題なく「五星」である。
 今度は角川書店発行の古語事典(一九八九年・増補五一版)を見ると「べし」の意味は「確信ある推量を根拠として推測・予想・義務・適当・命令・可能」などの意味を示すとある。
 ここで「べし」の意味について確信ある推量を行ってみよう。すなわち夏の終わりの夜更けに天文を観た星占師は、昇ってくる五星すなわち「べし」を発見し、北の空を指して「べし!」と叫び、年も後半に入った事を人々に告げる。この時、強気の星占師の発言なら「命令」、弱気の星占師なら「予想」「推定」の意味になり、古語「べし」の意味は星占師の発言の中にすべて含まれてしまう事がわかる。人々はその星占師にあわせて意味の強さを推し量るのだ。意味の数は星占師の数だけ存在する。

●ほし
 ここであらためて「ほし」という言葉を考えてみるが、「ほ」という音を使う他の言葉「ほか」「ほとんど」「ほとり」というような例では共通して「その他一般」を意味するかに見える。すなわち「ほし=星」とは現在のような天体の総称でなく、「その他一般の天体」を指していう言葉だったと考えられるのである。では「その他」でない主役の天体の名はと言えば、最有力の候補は当然ながら「べし」となる。
 その「べ」音を使う他の言葉「語りべ」「もののべ」「よるべ」などは、共通して「頼りになる存在」を表現していると判断できる。
 つまり古語「べし」は「暦を定めるために頼るべき基準の天体」すなわち「星占い用の星」をいう言葉であると考えて間違いあるまい。その他一般の星は「ほし」だ。
 「頼るべき基準の天体」はもちろん北斗と五星である。これを「ななつべし」「いつつべし」と呼んだはずであるが、現代では「ななつぼし」「いつつぼし」と呼び、「べし」が残っている文献は額田王のこの歌だけである。


HOとBE
 日本語「ほ」を「その他」、「べ」は「頼りになる」としたが、その根拠は、次のような音の意味による。

  H     複数
  O     存在

  B     用意・準備
  E     情報

 すなわち「ほ(HO)」は「複数の存在」「数ある存在」という意味であり、「べ(BE)」は「あらかじめ用意された情報」つまり「予言」あるいは「役立つ知識」である。強気の予言ならば「べし」は「言った通りにせよ(命令)」の意味となり、弱気の予言ならば「べし」は「言った通りになるだろう(推定)」となる。


 ここでもう一つ星文字をお目にかける事にしよう。

 この絵は、いま筆者が思いつきで描いたわけではない。古代の中国人が五つつ星を見て作った文字である。彼らはこの星座カシオペアを見て漢字「五」を作ったが、その「五」は数を表わす文字とし、同じく漢字「可」を作って星座を表わす名前にしたのである。念のためだが「莫・囂・圓・隣」「大・相・七・兄」個々の漢字、これも中国で作られた。日本語「べし」に漢字「可」を当てたのは当時の漢字博士の判断であろうが、理由は「両者同じく五星を指す」であったからに相違ない。カシオペアつまり「可」星は、頼るべき星「べし」なのである。歌は次ぎのようになる。

    まとまりの星つめ行けど我が背子が 射たたせかねて五つつべしかも

 ここで解説として「べし」は星占用の古語で北斗と五星の一組を言い、いつつべしは西洋名カシオペアであると書く。
 仮に「ほし」と読んだ「大相七兄」は、正しくは「べし」となるはずなのだ。そして歌は「まとまりのべしつめ行けど」としなければならないはずだと言える。だが現在では、頼るべき星の名としての「べし」は既に死語となっており、ここではすべてを「ほし」と読んでもよいのではないかと考えたい。額田王もお許し下さるであろう。

   まとまりの星つめ行けど我が背子が 射たたせかねて五つつ星かも

 これをもって歌の解釈は終わる。作者額田王はこの頃推定ではまだ若年であるが得意の天文を題材にした才気ほとばしる歌が思わず口から出てしまったかに思える。斉明天皇は当然この皮肉っぽい歌のおかえしを詠んだはずであるが残ってはいない。
 このあと歌とは直接の関係はないが、星文字について少し書きとめておこう。


●七星
 北斗を七星と呼ぶ理由は、七個の星から出来ているからでななく、星を線で繋ぐと「七」という形になるからである。左の絵の北斗は秋の初め額田王が見た頃の位置である。現在でも「七」の第一画は斜めに書く約束だ。右の絵はアラビア数字「7」となった。

         



●五星
 カシオペアの星文字は当然ながら漢字「五」及びアラビア数字「5」の原形となる。また前記「べし」に使われた音「B」も五星の星文字である。この星座が東の空に見えたら、それは「冬の到来の予言」であり、人々は「冬支度の用意・準備」にかかる。

    5     

●子星
 この歌の「べし」には漢字「可新」が当ててある。しかしこれは万葉筆記者が書いたものであり、想像ではあるが最初つまり額田王自身または従者は「可子」と書いたのではないかと考えられる。その理由は下に示す右側の星文字だ。これも北斗である。

可子

 北斗が「子」であるならば、「えと=兄弟」と同じく「可」と「子」で「暦の基準星ひと組」となる。この絵の北斗は「兄」よりもわずかに早い季節つまり立春の頃の姿を示し、漢字「子」の起源になったと考えられる。星図「子午線」の「子」がこの星座であり、新年最初の星座であるが故に十二支の最初の文字となったのである。

●カシオペア
 星座「カシオペア」の綴りは英語では「CAS-SI-O-PIEA」「カシ・オ・ペイア」と書く。「PEIA」が英語「PIAR」の古語であるならば(正否いずれの証拠もないが)意味は「ペアな存在としてのカシ」あるいは「カシという名のペア」となる。いかなる偶然なのか必然なのか不明であるが、「可子」が「ペアな存在」である事はまぎれもない事実だ。
 ついでだが岩波英和大辞典(1970年第1版第1刷)でその前の単語は「CAS-SI-NO=カジノの原語」となっている。カジノつまり賭博の基本は「コインの表裏」あるいは「丁半」だ。漢字「丁」は五星、「半」は北斗の星文字である。「半星座」はほぼ半年間見える。


五可新
 「五可子」ではないかと書いたが、「可子」は七星と五星をまとめた「ひと組」としての名前であり、ここでは上の句「七星」との対比で「五星だけ」の呼び名にしなければならない。このように考えた額田王が、とっさに「子」をはずし、音だけは合う漢字「新」に変えたのではないか。
 なお「可子」を「カシ」と発音するのは中国読みであり日本語では「べし」となる。日本語「べし」に当てた漢字が「可子」である。

七夕
 星のまとまりとは星座を指すが、もちろん「北斗」以外にも多数ある。それら星座のいくつかは、上記「兄」と同じく天文用語としての文字になっている。額田王の歌とは無関係であるが、その一つ「カシオペア星座」が漢字「夕」となった例を挙げておこう。

            

 上の星座がそれであり左は「七星」、右が「五星」つまり「夕星」である。夏の頃、北の空にこの二つの星座が並ぶ、その季節に行われる祭りが中国古来の「七夕祭」である。二つの星座の真ん中に北極星がある。日本でも古来「たなばた祭」が行われていたようだ。漢字「七夕」は意味だけ同じな当て字である。

BE
 前の方で「BE」の意味を述べたが、その文字「B」「E」はいずれも星の配置から出来た文字である。「B」については既に図示したが、ここで星文字「E」と並べて再度示す事にした。その星はもちろん「カシオペア」と「北斗」である。

    E

 「BE」はそのまま英語「be」になるが、元の意味は前記の通り「予言」だ。その発音「ベ」は日本語「語りべ」「もののべ」などの「べ」になった。いずれも頼りになる情報を持った者の名であるのは、これらの星がどれも季節の到来を予告する役目を持っていたからである。

枕草子
 「清少納言」は「枕草子」の中で「星はすばる ひこぼし ゆふづつ・・・」と書いている。「すばる」は間違いなく「プレアデス星団」であるが、岩波書店発行の「日本古典文学大系19 枕草子 紫式部日記」の注釈では「ひこぼし」は「牽牛星の異名」、「ゆふづつ」は「宵の明星すなわち金星」となっている。

これは明らかな誤りであり、「ひこぼし」は冬の星座「オリオン」、「ゆふづつ」は「夕星」つまり前記の星座「カシオペア」である。「牽牛」「金星」ともに1個の星であり、星座の美しさで「すばる」に次ぐ地位にあるとはとうてい思えない。1位が「すばる」なら2位は間違いなく「オリオン」である。3位が「北斗」でなく、地味ではあるが端正なW形の「カシオペア」なのは清少納言らしい感性なのではないか。

「ゆふづつ」の「ゆふ」は「夕」であるが「づつ」は「星」ではない。元は「つつ」であり、「つつ」は「複数のV(U)字形」つまり「W=カシオペア」の事である。次の絵は日本の家紋「井筒(いづつ)」と、元の星文字を示す。清少納言以外にも「ゆふづつ」に目をつけた者は居たのである。

角立て井筒    カシオペア

「オリオン」が「ひこぼし」なのは、その星の配置が文字「彦」となっていたからであり、ギリシャ神話で「オリオン」が男性(勇者)であった事から、その「彦」が「勇ましい男性」を意味するようになったのである。額田王の歌とは直接の関係はないが、星文字「彦」を図示しておこう。ついでに同じ「オリオン」が漢字「参」になる様子を描いておく事にした。「参」は数値「3」を示すが、これはよく知られた「オリオンの三つ星」の表現である。


            

 

つい横道に逸れてしまったが、要は当時の人々が、現代人の想像以上に実用的に、天文現象に関心があった事を知って頂くためである。星あるいは星座の動作は、農耕民族にとっては最も重要な予言的情報であった。都の星占術師(天文観測官)だけでなく、農山村の長老はじめ村の人々も、それぞれに星の観察は怠らなかったはずだ。暦も時計もなかった時代の話である。読者諸兄にはぜひ今夜にも「北斗」「夕星」見えるなら「すばる」あるいは「ひこぼし」を探して見て頂く事をおすすめしたい。何かしら感ずる所があるのではないか。


●木本八幡宮
 紀の国を旅する斉明天皇と額田王のその日の宿が木本八幡宮ならば、宮のうしろにあると言う小高い山、厳樫(いつかし)山の方角を確かめたい。筆者の予想では北北東つまり「五可子」星の出る方角となるはずである。

●射矢止神社
 木本八幡宮の近くに「射矢止神社」なるお社があるとの事だ。もし斉明天皇がお返しの歌を詠んだのならその主旨は「負け惜しみ」すなわち「熊がかわいそうだから矢を射るのは止めたのよ」となるのが自然だ。神社の名を借りて詠むのも可能だが、天皇の返歌から名が付いたとも考えられる。天皇行幸はその地域では大事件であるから、ゆかりの名前が付けられる例は他にも多い。
 次の絵は額田王が紀の国で見たその季節その時刻の星の配置である。そのあたりでの北極星の仰角はほぼ三十四度(北緯34度)であるから、山が近ければこの絵のように星座の半分は隠れていたかも知れないが額田王にはひと目でわかったはずだ。この絵の星の位置が上記「七夕」の絵に近いのは、季節が近いからであるが、「七夕」での配置は、もう少し左あがり−右さがりになっているはずである。平野でなら全部見えたであろう。矢印は天球の回転方向を示す。季節・時刻とも同方向である。

追われる「大相七兄」    北極星    追う「五可新」


●あとがき
 この歌を解読した夏の夜は、おおよそは歌の季節と同じであるがその日は曇っていてこれらの星を確認する事はできなかった。だが毎年、星は正確に回転し、今でも額田王が見たままの「大相七兄」「五可新」そして「莫囂圓隣」たちを見る事ができる。
 ここまで書いて来て尚且つ不思議なのは先人たちが「誰も漢字辞書で莫・囂・圓・隣を調べなかったのか」「誰も北斗七星を見なかったのか」という事だ。調べたならば即座に解けていたはずである。千年の間難解だって?嘘でしょう。

 解読してみると、この歌が決して難解ではなく、「熟田津」の歌など額田王の他の歌と同じく、まことにわかりやすい歌である事がわかる。温泉へ行く旅での歌だ。「宮中のもめごと」「有間皇子」も出てこない。 この歌の判定は額田王の流れを継ぐ現代日本の女流歌人の方々にもぜひお願いしたいものである。  


■付録 万葉集巻二の145山上憶良「鳥翔成」の解読   

●山上憶良
 この歌は万葉集巻の二で有間皇子への挽歌と紹介されている。

    鳥と成りて あり通ひつつ見らめども 人こそ知らね松は知るらむ

 これで解読は終わりだ。有間皇子の魂は鳥となっていつも通って来ている事を人は誰も知らないが松は知っているという意味である。
 やはり千年の間、誰もこの解を得なかったとは到底考えられない。いかなる理由なのかこの解を否定する者が存在するのではなかろうか。だが山上憶良はわかりやすい歌を詠む事ではあまねく知られた人物である。たった一文字を取り挙げて「憶良さん読めませんよ」と言うのはあまりにも失礼であろう。


■著者  
 鈴木健次  昭和12年1月20日生 工業デザイン事務所「ブルールーム」代表
        愛知県豊橋市三本木町字新東上40番地の24在住
        電話0532-46-4490  E-mail kenji370120@yahoo.co.jp