今回こそは観る回数を減らそうと思っていた。前回の(2004年冬)公演を4回も観てしまったとき、ちょっとよくないかな、と思った。段々観方が偏ってきている。好きなシーンを待っていたり、途中気がつくと集中力を欠いていたり。これは舞台を観る態度じゃない。家でビデオを観ていた方がまだましかも、という気がしてきたのだ。だから、今年は回数を控え、その代わり1回の密度を濃くしていこうと決めていたのだが…。
だめだ。初めて観た時に、しまったなと思った。この芝居とは最後まで付き合わなくてはいけないんじゃないか。舞台上に何が起きているのか。きっと明日は違う顔でそこにある。言葉ではうまく説明できないけれど、そういう風に進んでいく芝居なのだ、これは。1回1回をそれぞれが生きていく。その都度の生き方をする。それを、最後まで、公演が終わってしまうまで、できるだけ見なくちゃいけない。毎回舞台上から発せられる問いに、私自身の答を見つけなくてはならない。
鉄が何故刀を抜くに至ったのか。その時の鉄の心。そして、鉄は何故以蔵に戻ったのか(正確には戻ってはいないけれど)。そして、ラストの鉄。ここをはっきりと見極めなければ、私にはこの芝居を観終わることができない。鉄が刀を持たない、持てなくなったわけがわかるような気がするから、だからこそ、何故彼があそこで抜く気になったのか。何が彼を突き上げたのか。何が彼をそこまで押していったのか。それが自分の中で解決できないうちは、この作品を観終えることは出来ないだろう。
何だか自分一人で勝手に思いつめているような感じだけれど、本当にそう感じていたのは事実。
ずっと鉄を追って観ていた。毎回毎回、細かく描かれた鉄に見入る。菅野さんの瞬発力はさすがだ。それまで溜めに溜めていたものを一気に噴出してみせる。その勢い、激しさはまさに渾身のもの。菅野さんが随分骨太になったと感じた。
京の旅館藤田屋で、釜焚きをしている鉄。一見風采のあがらない浪人に見える。が、何かの拍子にふいと見せる彼の眼差しの鋭さは、只者ではないことを教えてくれる。
弱腰の鉄と対比するかのように、残忍さを前面に出した男として黒江が描かれる。自分を阻むものは容赦なく切り捨てる、相手が誰であってもひるむことはない、人を斬る時に我知らず笑みをもらしてしまう、そんな男だ。自分勝手で冷酷な、ある意味狂気さえはらんでいる。
そういう黒江におびえながらも、鉄は実は黒江の中に自分と同じものを見つけてしまう。嵐。忘れていたはずの、奥底にしまっていたはずの嵐が目の前に吹き荒れているのを見て、鉄が感じた恐怖とは、黒江に対してのものではなく、実は己へのものであったのではないか。
ただ、黒江と鉄との違いは、黒江にはおそらく以蔵の抱いた死への恐怖はわからないだろう。彼が鉄に刀を突きつけられた時でさえ、「斬られる」ことへの恐れはあっても本当の意味での「死」そのものへの恐怖は感じていなかったのではないかと思う。おそらく(新選組の掟に従って)命を落とす瞬間になっても分らないかもしれない。以蔵が感じたものは彼だけの孤独なものだ。黒江が己の剣のもたらすものに気付かない限り、彼は鉄とははるか遠いところに居る。
鉄が再び刀を抜いたのは、青葉を助けるため。それは確かにそうだろうけれど、それだけとは思えない。黒江という嵐が吹きすさぶのを目の前で見、その恐ろしさに震えてはいるのだが、同時にその嵐への憎悪というか嫌悪というか、そんなものが鉄の中で大きくなってきたのではないか。これを倒さなければならない。この世に存在していてはいけないもの。自分の刀でこれを葬らなければいけない。
鉄は青葉に強くなってほしいと思ったわけではない。できれば仇討ちや剣のことなど考えずに、平穏に生きてほしいと思う。人を傷つけることや、人が死ぬこと、まして自分が人を殺すこと、そんなことからなるべく遠いところで生きていってほしいと。(その気持ちは、亥三郎にも向けられている。)そんな風に青葉には望む、そう願う自分自身はもう決して青葉のようにはなれないけれど。もう元には戻れない。
たとえ刀から遠ざかったとしても、一度人の血に染めた手は、今どれだけそういう自分を嫌悪していても、そうなる前の自分には戻れないのだ。ただ、このまま行くしかない。それを悟った鉄だからこそ、それだからこそ、ラストの彼の笑顔に涙を禁じえない。己の定めともいうべきものを背負っていくしかない。虹の向こうに鉄は自分の最期を見ていたのではないか。そんな風に思えてならない。虹を見てはじけるように見せた鉄の笑顔。一瞬でも救われたことを悟って、これからの自分を受け入れる決心をした男の潔い笑顔のようにも見える、といったら言い過ぎだろうか。
最初は鉄と青葉の間に恋心が芽生えるのかなと思っていたが、途中でそれは全くの勘違いだということに気付いた。青葉にとって鉄は苦しい時に自分の傍に居てくれた、労わってくれた存在であり、子供が大人を慕うような感覚か。
鉄が黒江に刀を突きつける場面。赤い光の中に浮かび上がった鉄は異様ささえ加わって凄み。刀を構えて相手をいたぶる手順をあげていく鉄の表情には、青葉に「死」の意味を気付かせることのほかに、鉄自身の恐ろしさ、渦巻く嵐が鉄の中に深く横たわっていたのだと思わせる。手法だとしても、鉄のセリフには恍惚感さえ感じる。
が、本当に青葉が黒江に向かって刀を振り上げてしまった時、再び「鉄」に戻っている。どうか青葉が刀を下ろすように願う。おまんは、おまんだけは人を殺してはならん。
鉄が再び人斬り以蔵になることは無いだろう。だが、だからと言って、鉄の中の嵐が消え去ってしまったわけでもない。それは消えるものではないのだから。ただ、鉄の中で深い眠りについているに過ぎない。何かの拍子にふいと目を覚ますことも不思議ではない。それは鉄の業(ごう)なのだから。
鉄の闇は深い。ラストで虹を見て笑顔になる鉄。でも、それが鉄が救われたとは到底思えない切なげな笑顔。虹を見られてよかった。だが、鉄に見えている虹と青葉に見えている虹は同じではない。鉄はこのまま生涯を終えるまで、己の嵐が止むことは無いと知っている。嵐を背負って生きていくことこそが鉄の業。
鉄に、鉄のままで居ることを止める決心をさせたのは、青葉だ。14歳のこの少女は、何も無ければ父と姉と一緒に平穏にいたはずなのに、思いもかけないことから2人を喪い、鉄と関わっていくことになる。仇討ち→剣の稽古という流れから、やがてこのために鉄が刀を抜くことになるだろうことに気付かされる。それがどのような形で来るのか。鉄がそう簡単に以蔵に戻るはずもない。青葉の変化とそれが青葉にもたらすものを懸念する鉄。
青葉は、父と姉を喪ってから初めて2人のことを思う。父の深い気持ちや姉の優しさを思い、それまで反発するばかりだった自分に気が付く。それまでを悔いてももう取り返しがつかないのだけれど。青葉が14歳であることを思うと、これはちょっと辛すぎる試練だ。
意地っ張りでかんしゃく玉のような青葉を、實川さんが一生懸命見せてくれる。
今回、いつもとは違うところ。
その1 女優陣が殺陣に加わる。
春枝は懐剣で黒江に立ち向かう。刀を振るってそれらしく見せるのには相当の筋力が必要なのではと思うけれど、温井さん頑張っていた。武家の娘、というイメージ通りの立ち回り。かっこいい!
亥三郎に剣を教わる青葉。観ていると、話の中だということを忘れて、やっぱり殺陣は大変なんだなぁと思ってしまう。刀ひとつ振るうにしても、ただ闇雲に振ればいい訳じゃない。相手を良く見て合わせていくことが必要なのだろうか。あ、どこかで沖田が言ってましたね。
その2 シーンの変わり目で、ところどころその前のセリフが後方のスクリーンに映し出される。
セリフとして聞いてもハッとするような言葉を、直後に目で見ることで改めてその時の気持ちを考えてみる。鉄の願いや青葉の哀しみが、尚一層感じられてくる。スクリーンが無くても言葉は届くだろうけれど、こういうのも一つの方法だろう。一段と言葉が印象づけられる。
鋭い殺陣があり、時代劇にしては多彩な女性陣が登場しているのにも関わらず、舞台からはどちらかと言えば「静かな」「ぐっと抑えた」といった印象を受ける。じっくりとセリフを聞かせ、丁寧な細かいやり取りで、登場人物たちの人となりや関係性を見せていく。こういうやり方、実は好きなんですよね。そこから滲み出てくるものを受取ることで、言葉だけで表された時より深く感じることができるような気がしてくる。目に見えるものの裏側、もっと奥に、ひとことでは言えない、人の気持ちがある。

鉄。
菅野良一さん。この人の役への入り込み方は、やっぱりすごいなと思う。『裏切り御免!』の笠原も相当よかったけれど、今回の鉄はもうダントツ1位である。「情けない」風貌の中に時折見える鋭さがキラリと光り、ぞくっとする。黒江を倒し、刀をかざしながら脅す時の声の凄み。菅野さんがこんな声を出すのは初めて聞いた。
舞台に立つのが1年に1度あるかないかとは思えない。すさまじい集中力と細かい組み立て。観る度に鉄がどんどん深く複雑になっていく。それでいて、まるで子供のような無防備さも感じさせる。
優しき一匹狼。

青葉。
實川さん、大抜擢。でも、なるほどと思わせる力を備えている人だ。難しい役だっただろうと思うけれど、一生懸命なのが伝わってきて、それが青葉ともダブって見えることもあった。
父から渡された櫛を素直に受取れなかったことを、死んでしまった父に詫びるシーンには、いつも涙涙。こういう後悔の念

亥三郎。

黒江。

山下。
春枝。

城之内。
末次。

庫兵衛。
弓。

しま。
巳之吉。
かよ。

えん。

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