羽黒山が霊山として開山したのは、現在から1400年以上も前のことで、当時の第32代・崇峻(すしゅん)天皇は、家来の蘇我馬子(そがのうまこ)に暗殺されてしまう。崇峻天皇の子どもだった蜂子皇子(はちこのおうじ)は難を逃れるため、従兄弟の聖徳太子の勧めもあり、京都の由良(ゆら)という浜から舟で北へと逃げ、北へ向かう航路で、ある日、荒波にそそり立つ絶壁、その岩上では八人の美しい乙女たちが領布振り、笛を吹き、舞いながら蜂子皇子を導き迎え入れたといわれている。その地が現在の八乙女浦であると伝わっている。八乙女浦に上陸した蜂子皇子は三本足の烏(ヤタガラス)に導かれ、羽黒山へとたどり着いたとされている。羽黒山と八乙女の洞窟は、羽黒山頂にある鏡池と繋がっている伝説がある。
蜂子皇子は羽黒山の頂上で霊力を感じ、羽黒権現を感得し、修験の山として広める。「羽黒山」という名も、カラスの羽根が黒いからつけた名前とされている。
羽黒山・月山は推古元年(西暦593年)、湯殿山は推古13年(同605年)に、蜂子皇子によって開山された。
蜂子皇子は、能除大師(のうじょたいし=人びとの悩みや苦しみをとりのぞく位の高い僧の意)や弘海(こうかい)などさまざまな名前をもつ人で、羽黒山を開いたのちは土地の人たちのめんどうをよくみ、悩みや苦しみに耳をかたむけ、人びとの苦しみを一身に背負ううちに、皇子の顔がこの世のものではないほどのみにくい顔になったと言われている。
皇族の墓で東北地方に宮内庁管轄であるのは、蜂子皇子の墓だけである。
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