かおるさんの東北縄文、修験道に挑戦2008



  
出羽三山神社

 2008年、大阪の夏は暑かった。連日の36度である。今年は、どこに行くのか。
去年は、チベットに行った。私が行った後すぐに、チベット族によるに中国政府に対する抗議の暴動が起こった。また中国の四川省にも寄った。そうしたらチベットの暴動の後になぜか巨大な大地震が起こった。とんでもない大災害である。
お前が行くところで何かが起こるといわれるのはとてもいやである。
 今年は気が楽である。先に東北地方で震度6の地震が起こっている。行く前に起こったのだから、お前が行ったから起こったとは言われないから、私には何の責任問題もないことになる。ともかく8月5日の、午前1時半に家を出た。いつも真夜中のこのような時間に出ることは、道路が空いていていて走りやすいことと、高速料金がとても安い。というような理由で真夜中の出発である。最初の目的地は、岩手県の小岩井農場である。夜中の1時半に出て約12時間1000キロの道のりを走りまくって、昼の2時に到着した。とても得した気分になった。高速料金は一万一千円であった。これも、真夜中に、車で走ったおかげで半額になったようだ。日本列島本州を端から端まで行こうと思えば、1日中走り回っていけば可能であるということになる。車を運転するのが本当に好きなバカでないとできませんが、、、、。
不思議な雲
 乳製品で有名な小岩井農場は、大資本の起業家によって作られた。乳製品がおいしい企業である。大阪へ多くの乳製品を宅急便で送った。
岩手県の風景は、北海道の風景によく似ている。小岩井農場も北海道の風景に似た森や林の中にある。日中の平均気温も大阪が36度であれば、このあたりは少し高原であるので28度ぐらいである。北海道、シラカバ効果ほどではないが、おなかがすいてくる気温である。小岩井農場は、シラカバはないが辺り1面ブナ林に覆われている。
その日は、近くにある温泉鴬宿に宿泊した。この温泉宿では前沢牛のステーキが夕食に出た。ここに来る前に、前沢のインターチェンジで前沢牛の焼き肉を食べた。まったくおいしくてウシシであった。こんな食事を毎回していたら、ウシシではなくてブヒヒになってしまうんではないかという不安が早くも頭中をよぎった。
 次の日には、岩手県からさらに北に向かい、青森に到着した。この時期の青森はねぶた祭り1色で、宿泊する宿がない。
 そもそも、ねぶた祭りというものは、夏の暑い時期、何か面白いことでもないかということで、始められた祭だそうだ。そういえば仙台の、七夕まつり、秋田の竿灯まつりなどは、目的を同じくした祭りで、何か面白いことがないかということで始められた。祭である。歴史的にも新しく特に深い意味はない。そういえばうちの近所の地域にもクリスマスが近づくと電飾で家を飾る神戸のルミナリエもどきのようなものが流行している。
 近所の地域ではそのような電飾の飾りを高井田ルミナリエと称して順位をつけていこうという動きがあった。それはまだ実現はしていない。何か面白いことができたらいいなという自治会の発案である。東北の三大祭りの起源もおおかたそんなものであろうと思われる。

三内丸山縄文復元櫓

 ☆縄文文化の三内丸山遺跡
 三内丸山遺跡は今から5000年前の縄文時代の遺跡である。弥生時代の前が縄文時代である。世界には5000年前の文化としてエジプト文明やメソポタミア文明が有名であるが、果たしてそのころ日本には文明と呼ばれるものがなかったのであろうか。その答えが三内丸山遺跡にあった。
 文明の象徴として文字があるが、日本には文字が失われてしまったため、その文明を長く後の世に伝えることができなかった。しかし、私の見てきた三内丸山遺跡は、文字は発見されなかったにせよ確かな文明である。優れた技術や豊かな精神世界を持ち、成熟した社会であったと考えられる。狩猟採集文化が極限まで発達したものといえるであろう。縄文時代前期の時、今と同じように地球温暖化が進み、海面が上昇していた。青森県も決して寒い地方ではなく、狩猟生活には最適の気候であるといえる。
 三内丸山遺跡は小高い丘にあり、現在あたりを見渡しても海は見えないが、縄文時代には海が迫っていた。この遺跡から出土するものは、いろいろな魚の骨やクジラの骨貝塚もあるので、容易に海岸に近かったことがわかる。また釣り針や服を縫う縫い針が、遺跡から多く見つかっている。
土偶や環状列石が出土するがそれらは、人々が生活を祈るという精神的な文化の象徴である。またヒスイ製の装身具も、出土している。また水晶製の矢じりなども、発見されている。これらの小道具、装身具はいたるところで東北地方を中心に発掘されている。現代人が見てもかなりおしゃれなものである。また三内丸山遺跡には復元された大型堀立柱建物が遺跡内に再現されている。これなんかを見れば、弥生遺跡の吉野ケ里遺跡の、物見やぐらを思い出させるが、争いごとの少なかった縄文時代を考えると祭りの時に使ったのではないかと思われる。また建築技術も大したものである。大型竪穴式住居は、100人ぐらいが住めるであろう大きさである。
発掘中三内丸山遺跡  翡翠の縄文装身具

 もっと感心したことは、現在発掘されているいる三内丸山遺跡は、ごく1部である。
この遺跡のある地域にはまだまだ、土の中に埋もれている部分が多い。現在も発掘している箇所がいくつかある。そこには、環状列石のお墓がある。ただしそのそばには、大きな生活道路も発掘されているのである。発掘されている学芸員の方に聴いてみたが、そこには、国と呼べる知恵にあふれた小さな都市が縄文時代に、存在したということである。
縄文遺跡というものは、弥生遺跡の下に存在し多くは発見されていない。
また、大陸の人々と交流や交易を行っていたのではないかと思われる。

 全国の縄文遺跡が発見された時に、縄文文明というものが、その全貌が明らかになるのではないかと思う。やがて日本にも文明があったことが、証明される時代がくると思うのである。
 
 ☆謎の十三湖
 三内丸山遺跡を後にさらに北の十三湖に向かった。その十三湖の先には竜飛岬本州のはてと呼ばれる部分である。竜飛岬は、龍が雲に流されてしまうほど強風が吹くところであった。鎌倉時代の前に源義経が平泉の戦いに敗れてこの本州のはてまでやってきたときに、龍の背に乗り大陸に渡ったと伝えられているところである。十三湖は、その手前に位置し、弥生時代のころから大陸と交易があったとされる地域である。平安時代ぐらいから文化が栄え、安東氏が城や館を構え、京都の朝廷などから一線を画して文化の栄えたところである。安東氏は、長脛彦の兄、安日彦(アビヒコ)から出た氏族と考えられている。
安倍氏そして安藤氏になっていたと考えられてる。
 京都の朝廷から見れば、北のさいはてに栄えた文化は、野蛮であるということから、これらの高度の文明を持つ人々を蝦夷(エミシ)と呼んだ。
 奈良時代、平安時代、奈良京都以外に文化を持つことを中央の朝廷は許さなかった。そして蝦夷を、討伐するということで、征夷大将軍を東北地方に派遣するのであった。朝廷弥生民族=土地をすべて田んぼにして税をとる制度(律令制)は、原野を開墾して収入を得る仕組みを作ったのである。
 
 13湊は、その栄えた縄文自由交易民族の街々があったとされるところである。十三湖自体は海水と、真水が混ざった汽水状態の湖である。十三湖にはシジミ貝が多くとれる。名物のしじみ汁を食べたが、大粒のシジミは大変おいしかった。この十三湊には、交易をするための外洋船が入港していたと思われる入り江がいくつかある。青森県教育委員会は、いろいろな場所で発掘調査を行っていた。縄文時代そして弥生時代にかけて奈良時代、鎌倉時代の青森県の文化を調べることによって東北地方が、いかに高い文明を持っていたかということが、明らかになるであろう。
 
 本日は青森県日本海側に面した黄金崎不老不死温泉に宿泊した。日本海側に面した夕陽のきれいな温泉ということでいつも予約は満杯であるという。芸能人もよく、ここに泊まりにくるという。色紙が、浴場に行くまでの廊下に飾ってあった。しかし海に面した夕日を見ることのできる男湯は満員であった。仕方がないので館内の風呂に入った。ここの温泉で海の幸をいただきながら、明日の計画を練った。
 
☆人を寄せ付けない世界遺産白神山地
 とにかく次の日、朝早く起きて、世界遺産白神山地に出かけた。なぜ世界遺産なのかはよく分かっていなかったが、世界遺産をこの目で見たいという欲求に駆られて朝早くから出かけた。白波山地には自然のままのブナ林が生い茂っている。それと、十二湖という美しい湖がブナ林の中に点在する。中でも青湖という湖が美しい青さをたたえていた。原生林に近いブナ林がいつまでも続く道を気持ちよく走った。十二湖に最も近いという駐車場に到着した。
 そこまではよかったが、大変な事件が起きた。駐車場から降りようとすると、虻の大群が、車をめがけて襲ってきた。降りようとドアを開けたとたん、三十匹以上の虻が車の中に入ってきた。車の中はパニックになった。虻に刺されると、一週間以上傷口は痛む。慌てて車へ戻り、猛スピードで駐車場を離れながら、虻を一匹ずつ、車外へ追い出した。本当にびっくりした。白神山地の奥深さはこれだけに終わらなかった。なんと原生林を保護するために、道はアスファルトで舗装されていなかった。80キロの距離を平均時速20キロでしか、未舗装砂利道のため、走ることができなかった。
 たった80キロで、ガソリンタンクの目盛りは半分ぐらいに減った。砂利道のために振動が激しく山道を激走した。ガソリンタンク半分くらいであれば、雄大なブナ林の中でガス欠になってしまう。まさに恐るべき白神山地である。手つかずの自然が残っている。
 

☆日本最強難病に効く玉川温泉
 8月7日に宿泊の玉川温泉は、すべての病気に効くという。全国でも珍しい温泉であった。日本で最も深い、田沢湖の奥に位置する秋田県の温泉である。このあたりは乳頭温泉などの名湯が多い。行ってみてびっくりしたことであるが、この温泉は水蒸気の噴煙を上げている。火山なのである。あたり1面硫黄の臭いがする。吹き出しているものは、硫化水素である。これは立派な有毒ガスである。多く吸い込むと死んでしまう。
玉川温泉北投石
 有毒でガスだけではなく、百度に近い高熱の温泉がボコボコと大量にわき上がっている。温泉水自体は、なんとPHが1.2である。口に少し入れてなめてみるとものすごく酸っぱい。100%源泉に入ってみると体のあちらこちらがチクチクする。三年ほど前に北海道知床のカムイワッカの湯に入ったが、そのお湯とそっくりである。10円玉をその湯につけておくとピカピカになるという。金属を溶かしているのである。つまり体も溶かしているのである。飲泉口が、あるが、必ず、うがいをしなさいと書いてある。なぜかというとうがいをしないと、歯が溶けるそうである。この温泉の流れ出る川には、生物は存在しない。まったく恐るべき温泉である。
しかし玉川温泉はこれだけではない。この玉川温泉は、岩盤浴の発祥の地とされている。中国に放射線を発する石が発見された。それを北投石と名付けられた。つまり放射能を持った石である。それがこの玉川温泉には、ごろごろそのあたりに転がっている。その北投石の下からは、高温の亜硫酸ガスが噴出している。その北投石の上にゴザを引いて3、40分寝転がっていて1週間ほどすれば、癌でもその他の難病でも治ることがあるという。
その評判を聞きつけて、西洋医学に見放された人々が、ここの地を多く訪れるという。
 ほとんどが、お医者様に見放された人である。悪く言えば死にかけの人々なのであるが、その何割りかが、命が救われるとされているという結構な評判である。温泉街たら少し離れた大きめの北投石が、ごろごろあるところに岩盤浴用のテントが張ってあるが、そのテントの下では難病からの生還の話が、多く聞かれるという。微量放射線ラドンは、人間の弱った免疫力を高めるという。実際に寝転んで見ると、体の芯が熱くなり体の表面がチクチクする。なんだか免疫力が、高まったのではないかと思う。そのことを考えただけでも嬉しくなってしまう。
この温泉に来れば、ここが日本最強の温泉であるということがわかる。衛生管理もしっかりしていて、宿舎に入るときには手指を消毒しなければ、宿舎の中に入れないことになっている。

☆田沢湖のたつ子姫

 玉川温泉から田沢湖方面へ出て湖畔を一周してみた。田沢湖は火山湖で日本で、最も青く深い湖である。かなりの透明度を誇っている。周辺にはたつこ姫の伝説があり、伝説の内容は次のようである。昔たつ子という美しい娘がいた、この娘が、永遠の美しさと引き換えに龍に変身することになる。座石神社では、湖に向かって鳥居が大きな岩の上に立っている。田沢湖は、青く美しい湖で、その鳥居のあたりで、たつ子は変身して龍になったという。神社の上には、鏡石がある。たつ子は毎日山に入って永遠の美しさを手に入れるために、その岩に祈願したという。たつ子姫の意識はこの鏡石の中にあると思われた。ここは重要な聖地である。神社から1キロメートル離れた先の湖岸に金色のたつこ像があった。湖に美しく映えていた。
金色のたつ子像の横の祠は、田沢湖全体を包む素晴らしいエネルギーに包まれた場所であっ大勢の参拝客が訪れていた。


☆出羽三山修験道
 その後、日が傾いたけれど、まだまだ明るかったので東北地方修験道のメッカ出羽三山神社へと向かった。車は、羽黒山の山門の入り口に到着した。山門の前の道路には宿坊が、軒を連ねている。出羽三山神社に参拝すると月山、湯殿山、羽黒山の3つの聖地に参拝したことになる大変お得な神社であると思い私はこの神社の山門の前に立った。
しかしそのことが、とても甘い考えであるということがすぐに判明した。
 階段を、上っていくが早足で歩いて10分過ぎても20分過ぎても目指す出羽三山神社が見当たらない。あっという間に全身汗だくになってしまった。
 山門を入ってからしばらくすると、国宝の五重の塔がそびえている。かなり立派な塔である。平将門が平安時代に創建したと案内板に書いてある。平将門は、関東地方を開拓した初期の頃の武士であり、やがて中央の朝廷に従わず、討伐されてしまう。この地においては、これだけのものを建設するとは、立派な英雄ではないのかと思われる。
出羽三山神社本殿
 
 

 羽黒山が霊山として開山したのは、現在から1400年以上も前のことで、当時の第32代・崇峻(すしゅん)天皇は、家来の蘇我馬子(そがのうまこ)に暗殺されてしまう。崇峻天皇の子どもだった蜂子皇子(はちこのおうじ)は難を逃れるため、従兄弟の聖徳太子の勧めもあり、京都の由良(ゆら)という浜から舟で北へと逃げ、北へ向かう航路で、ある日、荒波にそそり立つ絶壁、その岩上では八人の美しい乙女たちが領布振り、笛を吹き、舞いながら蜂子皇子を導き迎え入れたといわれている。その地が現在の八乙女浦であると伝わっている。八乙女浦に上陸した蜂子皇子は三本足の烏(ヤタガラス)に導かれ、羽黒山へとたどり着いたとされている。羽黒山と八乙女の洞窟は、羽黒山頂にある鏡池と繋がっている伝説がある。
蜂子皇子は羽黒山の頂上で霊力を感じ、羽黒権現を感得し、修験の山として広める。「羽黒山」という名も、カラスの羽根が黒いからつけた名前とされている。
羽黒山・月山は推古元年(西暦593年)、湯殿山は推古13年(同605年)に、蜂子皇子によって開山された。

蜂子皇子は、能除大師(のうじょたいし=人びとの悩みや苦しみをとりのぞく位の高い僧の意)や弘海(こうかい)などさまざまな名前をもつ人で、羽黒山を開いたのちは土地の人たちのめんどうをよくみ、悩みや苦しみに耳をかたむけ、人びとの苦しみを一身に背負ううちに、皇子の顔がこの世のものではないほどのみにくい顔になったと言われている。
皇族の墓で東北地方に宮内庁管轄であるのは、蜂子皇子の墓だけである。

 私は、とめどもなく流れる汗をふきながら、茶店があったので足を止めてみる。もう日は傾き、午後5時を回っている。茶店の店員さんに尋ねると、5時で神社は閉まるという。そしてもっとショックなことを聞いた。茶店から神社までは、さらに、山門から茶店からまでの同じ距離があるという。茶店の日はちょうど半分である。あとで調べたことだが、永遠と続くような石段は標高差約300メートル、2446段神社まで続いている。四国の金比羅山よりもはるかにきつい。羽黒山の山伏たちは、ここを往復することによって修業を重ねていたのであろう。もう、登拝するのをやめようかと思ったがここまで来て、引き返したら今まで流した汗が無駄になってしまうと思い、重い足を引きずりながら、再び登りはじめた。
さらに30分ほどへろへろで登ったら、出羽三山神社三神合祭殿に到着した。今改修中であったが高さ28メートルのかやぶき屋根は、とても豪壮な建築であった。三山の神々も日没が近いというのに祝福してくれているようであった。途中であきらめずきてよかったとその時思った。早速参拝して、足もとの暗くならないうちに、足早に下山した。


 ☆湯田川温泉九兵兵衛旅館
 そして、最後の宿泊地、庄内平野の鶴岡へ向かった。庄内平野でさらに驚いたのは、東北における。豊かさや文化程度の高さであった。山形県に入って田畑の区画が直線であり、道路もそうであった。それだけではなく、角館、鶴岡という地名は、。まるで京都のように雅びた文化があった。中でも驚いたのは、九兵衛という湯田川温泉にある伝統ある旅館である。 この旅館は、この地出身の小説家藤沢周平の定宿であった。藤沢周平が、この地で教鞭をとっていたときに教え子だったのが、この旅館の女将さんであった。藤沢周平の作品には、最近映画化された「たそがれ清兵衛」「蝉しぐれ」など江戸時代を中心に武士や庶民の生活、精神をテーマにした作品が多い。その作風は、人間愛にあふれ、どこかマンガ家の手塚治虫を思わせるヒューマニズムが漂っている。
 私は、文学作品に疎く、小説好きでもなんでもないけれど、藤岡周平に魅せられた人々が、この九兵衛旅館を訪れ、旅館に足跡を残していることに興味を持った。映画を作った、寅さんで有名な山田洋次監督や青春時代のアイドルキャンディーズが、またきら星のような有名人がこの旅館を訪問しているのである。
藤沢周平  キャンディーズ

この旅館のピロティには、ここを訪問した有名人たちの写真が展示してある。
さらに驚いたことは、少女時代のかわいい小柳ルミ子の写真も飾られていた。
 また最近の有名人では、典型的日本美人の木村佳乃の写真もサインとともに展示してあった。
この九兵衛旅館は名旅館だったのである。本当の理由は旅館の夕食に現れた。京都の、一流料亭の味や香りのする料理が目の前に現れた。今まで食べたことのないようなどれもこれもが地元の新鮮な食材を使った豪華絢爛な料理であった。この究極の料理をまだ37歳になる料理長が作っている。「うーん、この料理を作れるのはただものやないね」思わずつぶやいてしまった。B級グルメを自称する私は、ここの旅館の料理に感服してしまった。
 
次の日の朝、夕食に続いて本当においしい朝食をいただいたあと、最後の目的地湯殿山へ向かった。土産物屋と大鳥居のあるところで、湯殿山行きのバスに乗り換えた。
到着してすぐに御神体の前でお祓いを受けた。そして、御神体の赤い色の大きな岩が現れた。その岩に裸足で登って参拝するのである。圧倒的な大きさと色である。ありがたいという気持ちとともに湯殿山の信仰の中心に、素足であがらせていただいているというもったいないという気持ちがわいてきた。 岩の中心から熱いお湯がわいていた。素晴らしい、自然に感謝の気持ちもわいてきた。 
      
               終わり     2008年8月11日