かおるさん世界の屋根へ
8月6日関西国際空港14:00出発であった中華航空CA160便は何の説明もないまま、3時間を経過しても関空に到着しなかった。当然乗る飛行機がないわけで旅行は始まらない。5時をすぎても私は関空のロビーに座ったままであった。それでも何とか5時半頃ようやく北京に向かって出発した。中国に限らず大陸って割合、平気で人を待たせたりするって聞いていたので別に腹も立たなかった。しかしながら北京国際空港に着いたのが、20時を回っていた。
本日は北京で一泊となるのであるが、夕食をすませてホテルにチェックインしたのが22時(北京時間)をまわっていた。北京は来年2008年北京オリンピックを控えている。その夜の町に散歩するのも一考と思いホテルから外へ出かけた。北京の地図を持ってきていないのでまったく右も左も分からなかったが、とりあえず、夕食をとったレストランの方へ出かけた。空港からバスで通った道をまた元に戻ったら迷子になることはないという安易な発想で西の方へ向かった。
現在の北京は、建設ラッシュである。来年のオリンピックを控え、夜の11時すぎてもビルの建設する音がする。ビルの建設は、休む間もなく24時間ぶっ通しで行われている。どのビルの工事現場でも鉄骨を溶接する溶けた鉄のにおいがする。エンドレスで夜の町には、ビル建設の音が鳴りやまない。
北京はとても景気がよいはずである。けれども北京に到着した頃から気になっていたが、北京の町には、黄色い霧が立ちこめている。 北京の街はすっぽりこのスモッグに覆われており 、先程飛行機が遅れたのは、ものすごい夕立のせいもあったのであるが、北京の街は相変わらずスモッグで覆われていた。本来ならば夕立の後であるから、スモッグや黄砂であれば綺麗にあらわれているはずである。まったくそうではなかった。依然として、スモッグは辺り一面に立ちこめている。 清めの夕立をものともせず静かに、北京を覆っている。中国の工業の発展は目覚ましいものがあり、現在の中国のGDPは、田中角栄首相の日本の高度成長時代の伸びと同じくらい急激な勢いで、経済は成長している。日本は高度成長時代後、さまざまな課題を抱えた。公害問題である。現在の中国もこのような問題に直面しているようである。最近では中国の農産物や工業製品の衛生面が、指摘されている。肉まんの中に、段ボールが入っていたり、中国製ペットフードを食べたペットたちが相次いで被害に遭っている。これから私は中国を食べて歩くわけであるが本当に大丈夫かなと思う。社会主義から、資本主義を受け入れた中国は、三十年前の日本を見ているようである。北京の風景を見ていると昔の大阪の風景を、懐かしく思いだしてしまった。なんと、北京市内にはトロリーバスが走っている。かつて大阪市内にもトロリーバスは走っていた。エンジン音が聞こえずに、2本の架線がありモーターで走る。
また自転車ばっかりが中国では、多く走っていると聞いたが、私の後ろからすごいスピードで、自転車が追い越していった。よく見ると電動式自転車である。この自転車が、車をアクロバットのように避けながら相当の数の自転車が走っている。各自転車は日本の自転車の二倍ぐらいの速度で走っている。中国の自転車で電動自転車の割合はおよそ七十%ぐらいである。中にはバイクも走っているが、これも音がしない。つまり、電動式のバイクである。二輪車に関しては日本より、排ガス対策が進んでいるなと思った。また町全体に活気が感じられた。
時計も、夜中の十二時を回ったのでホテルに帰ろうとすると、大通りから少しはずれたところに「洗浴」看板が目についた。中国式サウナ銭湯である。ここへ入って、旅の垢でもながそうという気になった。しかし、ここは気楽なサウナではなかったのである。入り口は普通の日本のヘルスセンターのような感じである。 そして中身も日本のサウナと、変わらないのである。しかしその後が違っていた。シャワーと入浴を済ますとロッカーの前で、年若いボーイが、中国語のわからない私に何やら話しかけるのであった。私は中国語がわからないので知らん顔していると、彼は突然、日本語に切り替えてきた。
「按摩」「按摩」「マッサージ」と言い出した。
「うーむ」なんじゃこりゃ、日本でよく行くスーパー銭湯と同じだと思い「Howマッチ」いうと彼は「100元=1500円」というわけでまあいいかと思ってOKを出した。
その後ゆかたに着替えて別室に連れていかれた。その部屋は豪華なソファとビリヤードが置いてあった。高そうな、絵画も掲げられている。 その後、中年のおばさんが入ってきて、メニューを渡された。このころから日本のスーパー銭湯でのマッサージとは、何かが違うということ感じ始めたが、これはいったいなんだなんだという興味もわいてきた。おばさんは、メニューを中国語で、説明するのだが私には皆目分からない。片手でわからないと手を振るとちょっと待ってと、ジェスチャーで、おばさんが部屋から去った。
今度は「ニイハオ」ではなくて「ハロー」の英語をしゃべる中国娘が登場した。マッサージに、コースがあるらしいが英語で詳しく説明されてもどういう内容かわからない。一番値段の安いもの100元を、指さし私は「これ、これ」というが、中国娘には伝わらず、彼女は高い方のコースを指さす。私は大声で「アカンアカン」と叫ぶと、しぶしぶ中国娘は引き下がった。今度はさらに違う中国マッサージ娘が登場して個室でマッサージをするらしい。小さなマッサージ室に案内されて、マッサージを受けた。とても気持ちがよい中国式マッサージであった。全身を三十分以上丁寧にマッサージされ、とても満足であったが、先ほどの四倍ほど高い方のメニューは一体、どのようなマッサージであったのか気になる次第である。
話しには聞いていたが、中国では床屋は散髪屋ではないらしい。散髪とはきわめて違うことをするらしい。
今回は時間がないので、それらのことを確認することができなかった。
次の日は北京から西寧に向けて飛行機で、移動した。約二時間ほどの飛行時間であった。この西寧は、モンゴルの近くであり、シルクロードにも近いところである。この地ではイスラム教の文化も入ってきている。街には回族というイスラム教を信仰する民族もあちらこちらに見られる。この回族は一目で分かる。男の人は白く丸い帽子をかぶっている。女の人は頭からチャドルをかぶっている。エキゾチックな目の青い女性も見た。一体ここは、どこの国であろうか。何か不思議な感覚である。青海省民俗博物館を見学した後、青海省で最も古いイスラム教寺院「東関清真寺」を訪れた。門のところにはイスラム教のモスクがある。それを一歩入ると何やら風景は、中国式の仏教寺院の様式である。ツアーガイドが説明している前で、一体の棺が目の前を通った。これからお葬式が始まろうとしているらしい。イスラム教と仏教が混然一体となったようなお寺であった。
中国では漢民族以外の民族も多く住んでいる。これからチベットに向かうのであるが、チベット人の信仰するものは、チベット密教である。これはれっきとした仏教である。だが
日本にあるような仏教とはまるで違う。平安時代、空海や最澄が求めた密教とも違う。これから鉄道に乗ってこのチベット密教を見てきたいと思う。西寧ではほかにも「タール寺」を訪問した。仏教の開祖である釈迦を祭ってあるお堂があった。また別なお堂には、弥勒菩薩がまつってあった。チベット人は、現世よりも来世に幸福がくればいいと考えている。その来世において幸福を与えてくれる仏とは、弥勒菩薩である。
チベット密教では「ダライ・ラマ」が、最高権威を持った法王である。現在のダライ・ラマは、ダライ・ラマ14世である。
ダライ・ラマとは、チベット密教界の法王であるが世襲制ではない。お寺のお坊さんたちの指名制度によって、ダライ・ラマは決定される。だれもがなれるわけではない。また立候補によってもなれるわけでもない。あくまで預言者たちによって、お寺の偉いお坊さんたちに指名されるのである。先々代のダライ・ラマは、ダライ・ラマになることが嫌で、ポタラ宮殿から逃げ出した。ある家に愛人とともに隠れていたところ、お寺の関係の人々に見つかってしまい連れていかれる。そしてその結果、逃亡した強制指名を受けたダライ・ラマは、誰かに殺されてしまうのである。ダライ・ラマを指名する方にとっては、どうか分からないが、指名される方にとっては、理由がどうであれ、理不尽な制度であることは間違いない。現在のダライ・ラマ14世は、少年のころ指名され、中国のチベット自治区への侵攻があって今は、インドに亡命している。その後ノーベル平和賞を受賞している。
このダライ・ラマの宮殿である世界遺産に指定されたラサの「ポタラ宮」を見に行くつもりである。「ポタラ宮殿」のあるラサの街は標高3800メートルにある。この高さは、富士山の頂上の標高3776メートルよりも少し高い。高山地帯にある町といってよい。夜8時に出る西蔵鉄道に乗ってラサを目指すのである。
西寧は、青海鉄道の基点となっている。この鉄道は、チベットのラサまで去年開通した。できたてのホヤホヤの新しい鉄道である。NHKのテレビ放送で、この鉄道のことが紹介された。標高4000メートルを超える世界の屋根チベット高原を通る鉄道である。もともとチベットは、チベット民族の住む土地であり、その峻険な山々なる山々をバックにして
中国からは独立した自治区を持つ、いわば自治独立国であった。ところが豊富な鉱産資源や宝石類などが着目され、中国はチベット山岳地帯に西蔵鉄道や西蔵道路を建設した。この鉄道や道路は多くの解放人民軍兵士たちによって建設された。険しい山岳地帯で、高山病や厳しい寒さのため、建設にあたっては多数の犠牲者が出たということである。そのためチベットは自治区ではなく、最近は中国の支配下に置かれることになる。
夜8時に西寧駅を出発する西蔵鉄道は、高山病に対して航空機並みの気密性を備えた列車である。すべての座席には、酸素の配管が備え付けてある。十五両編成でけん引ずる機関車は、二両を連結している。
私は軟臥席(1等寝台車)4人制コンパートメントを希望したが、人気があり過ぎて取れなかった。仕方がないので硬臥席(2等寝台車)6人制タコ部屋スタイルになった。寝台車であるので26時間2000キロメートルを、この座席寝台車で過ごさなければいけない。この硬臥席は日本でいう昔の夜行寝台急行2等寝台に相当する。一番上のベッドは3段式で天井とベッドの間がものすごく狭い。しかもベッドの幅が50センチぐらいである。トイレに行くときには、天井が低いために芋虫同様にベッドをはいながら、通路まで降りていかなくてはいけない。
すぐに消灯になって二等寝台の部屋の中は真っ暗であった。最初この芋虫運動を暗やみの中ですることにかなり閉口したが、何回か上がったり下がったりしているうちにスムーズに行けるようになった。夜中の2時ごろに、トイレに出かけたら、列車はある駅に止まっていた。なんとゆう駅か分からなかったが、列者のドアが開いていたので、列車の外に出てみた。外は夏だというのに寒い。おそらくかなりの高さのところに到着しているのであろう。トイレの前に気圧計が2つ壁に付けられていた。
2つの気圧計は、列車の中の気圧と、外の気圧を示している。ドアが開いているので2つの気圧計はともに1気圧よりもかなり低い気圧を示していた。体感的には低い気圧は何も感じなかったが、列車の外は漆黒の闇である。西遊記に登場する三蔵法師(玄奘)はこうゆうとんでもない暗黒の高山の道を徒歩で歩いたんだとその当時に思いを馳せたら偉大な人だったんだと思えた。
翌朝は5時ごろから起きていたが、東の空が明るくなってきたのは、午前7時ぐらいであった。日の出と三日月が、同時に出ていた。とても不思議な風景であった。
いよいよ日の出であたりの風景が見え出した。なんと砂山がある砂漠の風景である。少しずつ進むうちに、砂漠ではなく、短い草が生えている風景に変わった。遠くには雪をかぶった、山々が見える。今の季節は夏で、この風景はさすがはチベットである。今列車が走っているいるところは標高三千メートルぐらいのところである。窓から見える雪をかぶった高い山々は七千メートルを下らない山々であろう。列車を牽引する機関車は、いつの間にか、三重連結している。このような山岳地帯を走るには、機関車を、三重連しなければ十五両ある客車を引っ張っていけないのであろう。やがて、列車は「ゴルムド」駅に着いた。この駅の標高は2千8百メートルである。駅のホームに降りてみたが、高山であるという体感はなかった。景色は遊牧民族の姿やヤクや羊の群れ、八千メートルを超える山々の、パノラマを、見るような移り変わる景色の美しさに心が、うばわれるようである。しばらくして列車はかなりの山岳地帯に入っていく。
やがてこの西蔵鉄道の、最高峰である五千メートルを超える駅を通過する。5012mの地点である。ここでは列車は停車しない。窓の外を見ると、氷河の流れお懐に抱いた山々がみえる。今の季節は夏であるが、チベットではいまの季節にも氷河は流れている。景色にばかり心を奪われていると、お腹が減ってきた。通常であれば、もうじき、食堂車にお呼びがかかる時間である。ところがいつまでたっても食堂車からのお呼びはかからなかった。
スルーガイドの人から聞いた話であるが、この、今乗っている西蔵鉄道にはとんでもない人が乗っていた。中国政府の、偉い人である。どんな人かわからないが、中国の大臣クラスの人であるようである。車窓の風景が明るくなって来てから、外を見ていると美しい景色のほかに、約二キロごとに、人民解放軍の兵士たちが線路の脇に立っている。列車と違う方向を向いて、敬礼している。中にはジュラルミンの盾を持った兵士も敬礼している。実は食堂車は、その中国VIPの人たちの警備の兵士で占領されている。そしてしばらくして食堂車の人たちが弁当を配りに来た。とてもおいしい弁当とはいえない弁当である。例えて言うなればおいしくない適当味付けパサパサご飯付き中華弁当コンビニ風というところであろうか。ところが、二等寝台の寝室の隣にかわいい高校生風の英語を話す女子学生が、乗車していた。その女子学生は家族で乗車していたが、その家族は、全員食堂車に招待された。われわれはコンビニ風弁当である。あとでその女子学生に聞いてみたのであるが、女子学生一家は、われわれの列車に乗っている政府要人の親せきであるという。二キロごとに兵士が警備している、この姿は圧巻である。この西蔵鉄道は政治的な配慮もあって造られた鉄道である。中国政府の名誉と権威をかけた鉄道である。
この列車にやっと慣れてきたころ列車はラサの駅に着いた。次の日の午後十時を回っていた。
ラサは標高三千八百メートルの街である。西寧よりも都会の町である。高山を感じさせないありきたりの中国の風景である。しかし、歩いているうちに体感的に高山であることに初めて気がついた。階段を15段ほど上ると息が切れる。50m全力疾走したような感じである。走るという行為はここではタブーである。空気が地上より薄いのである。つまりは酸素が少ないのである。気圧が低いためお酒をがばがば飲むこともだめらしい。
ツアーガイドによると昨日飛行機でラサに着いた日本人観光客は、空港に到着したとたん体の不調を訴え、救急車で病院に運ばれ、体調が好転しないので本日、ラサを何一つ観光しないで、地上の都市成都へ帰ったらしい。ラサを観光できないそんな人が年間を通していっぱいいるらしい。しかし、私は今のところ元気である。ちょっとぐらい羽目を外してもいいだろうと油断ができたのである。「ふん、哀れな人よ、飛行機で一気に高山へ来るからだ」私だけは大丈夫というとてもわがままな油断である。
調子に乗った私は、「ホテルでゆっくり休んでください」というツアーガイドの警告を無視してしまった。
到着した夜ツアーで一緒に来た名古屋のI氏とラサの町を飲み歩きにでたのである。そのi氏も私も富士山より高い高山都市ラサをナメていたのである。ラサでは3連泊の予定である。約一時間ラサの夜の町を歩いた後、350ml、80円の日本の発泡酒よりもより安いラサビールをガバガバ飲み出したのである。怪しげな喫茶店にも行った。中身も外見も喫茶店であるが、ウエイトレスが、みんなきゃぴきゃぴの大学生で、日本人であると告げると5人くらい寄ってきて珍しそうに我々を眺め、なんの疑いや屈託もなく、日本人おじさんに話しかけビールをコップに専属でついでくれるのである。チベット女子学生は、日本ではアイドルになれそうな容姿の子もいる。彼女たちは今時日本人のようにまったくすれていない。本当に素直な、二十年以上前の女子学生である。中国語の話せないわれわれを見ると親切に中国を教えてくれようとする。
純粋な喫茶店であるが、中身は日本の高級キャバクラ状態である。でも支払ったお金は、純粋中国喫茶店なのでビールをガバガバ飲んでも日本円で2人450円という破格の安さであった。
ここまでは、良き思い出の1ページとして残ることであろう。
でもこれからが名古屋のI氏も私も大変であった。3時ころホテルに帰って束の間の睡眠を取って7時に起きようとすると体が重く起きれないのであった。 頭が、がんがんする。こめかみに鉛のおもりを入れたように重く鈍痛がする。胸焼け吐き気がする。どれもが高山病の特徴であった。I氏も同じような体調であるという。今日は、最大の目的であるポタラ宮殿を観光する日である。「うーん苦しい」でも朝ご飯を食べてがんばろう。朝のバイキングは、ヨーグルトだけを食べてがんがんする頭を振りきった。ミネラルウオーターをぐびぐび飲み携帯酸素をはあはあ吸いながら、早朝ポタラ宮殿に向かった。

ラサの中心部の中にこのポタラ宮殿は存在する。小高い山を利用した地形の上に、宮殿はつくられている。朝早くからこの宮殿に入ろうというわけなのであるが、実際に、宮殿に入れたのは、昼前であった。この宮殿は、当然世界遺産に登録されている。一日の入場者数は千五百人と限られている。それ以上の人数の観光客は入れないことになっている。この一日限定千五百人の観光用チケットをめぐっては、どうも、プレミアがついているようである。業者によるとなかなか手に入らない。そして来年あたりから宮殿には、巡礼者以外、入れないことになるかもしれない。宮殿はあくまで信仰の対象なのである。
宮殿の回りにはいたるところに五体投地をしている人々がいる。ほとんどが、チベット人である。チベット人は宮殿の回りを右回りに回りながら、このポタラ宮殿に入ろうとしている。手にはマニ車という梵字でお経が書かれた回転式の密教道具を持っている。重りのついたマニ車を回すことによって、お経を唱えることになっている。宮殿の正面からの、五体投地している人々のなんと多いことか。イスラム教の人々は一生に一度、聖地メッカカーバ神殿に、巡礼に訪れる。それは全財産をなげうって一生のうちの一大イベントである。このチベット密教のチベット人たちもそれと同じような考えでポタラ宮殿を目指し、五体投地を行っている。今さらながら、日本人以外の人々の信仰の厚さを感じる。
昼過ぎに宮殿の門から、入っていくと航空機さながらの厳しい持ち物検査を受けた。世界遺産に対する配慮は行き届いている。
外壁の壁は白く塗られている。空の色は高山特有の、濃い藍色である。紫外線がきついせいか、とてもまぶしいが、宮殿の風景は絵はがきのように美しい。
宮殿の階段を上っていくと二十段もいかないうちに、息が切れてきた。こんなに体力がなかったかなと思うのであるがここは、富士山の頂上よりも高い宮殿である。宮殿の建物の入り口にたどりつくまでに何回も休憩しなければいけない。観光客をしり目に、黄色の袈裟を着たお坊さんたちが、階段を軽やかに登っていく。まだまだ頭はがんがんする。
ようやくこのチベット実教の総本山へ入っていく。まず最初に驚くのはバター脂くさい宮殿の中のにおいである。宮殿の床は、バターの油で磨かれている。また驚くべきことに、宮殿の中のロウソクは蝋ではなくて、バターの油で作られた灯明である。バターを使ったお菓子の中に、入ったような気がする。宮殿の一角にはバターで作られた仏像が、祭られていた。色鮮やかに、塗られた仏像は、全くの芸術品である。それがすべてバターであるということで、一年間を過ぎるとバターは徐々に解け出す。まさにポタラ宮殿は、バターの宮殿である。宮殿の中にはたくさんの部屋がある。一番多いのが歴代のダライ・ラマに関する部屋である。ポタラとは、観音菩薩が住むところという意味である。ダライ・ラマは観音菩薩の生まれ変わりということで生き仏ということである。
ほかにも、祭られている人がいる。厳しい戒律であるゲルク派の宗祖ジェ・ツォンカパ大師である 。ツォンカパ大師は 、十四世紀に文殊菩薩の生まれ変わりとされ、当時難解だった仏教理論を改めて自分の理論を作ったという。また西寧からの信仰の道を開いたのもツォンカパ大師といわれている。日本では鎌倉仏教が栄えたころである。法然、親鸞、栄西、道元などの鎌倉時代の高僧が出たころにツォンカパ大師は、チベット密教のゲルク派を起こしたとされている。とても偉いチベット密教中興の祖なのである。
ツォンカパ大師の仏像での姿を見ていると、なぜか通天閣のビリケンさんを思いだしてしまった。なんとなく似ている。ビリケンさんのモデルは、ツォンカパ大師かもしれない。
像の前にはたくさんのバターの灯明が燃えているが、巡礼の人たちはバターの粉を降り注いだり、魔法瓶に融けたバターを入れてきて注ぎ足したりしている。宮殿には観音菩薩や文殊菩薩十一面観音菩薩など、素晴らしい仏像が、いたるところに金色の姿のまま、各部屋に安置されている。まさに天空の宮殿、天竺を連想させる。
チベット密教を信仰する人々が、あこがれ、心のよりどころとする宮殿である。さまざまな種類の仏像が安置されている。曼陀羅のような美しさである。
ポタラ宮殿のある部屋に来たとき、霊塔が3つ並んでいる。中央の最も大きな霊塔はダライラマ5世の霊塔で高さが13mもあり、3721kgの金が使われているらしい。全面に紫色の玉がぶら下がっているが、インドからの贈り物で象の頭の中から出てきたものだという。トルコ石や、チベット天珠などの宝石がふんだんに使われている。この部屋に入ったときから頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。金色に装飾されたダライラマ五世の霊塔は、とてつもないエネルギーを出していたのである。ただでさえ高山病で苦しんでいた私は、この部屋に入ってハンマーで殴られたような頭痛にさらにめまいが加わった。ふらふらになりながらこの部屋を見渡すと左側の霊塔はダライラマ10世、右側は13世のものという。左隅にも銀貼りの塔がある。歴代のダライ・ラマの中で最も力を持っていた。ダライ・ラマは5世であるといわれている。ダライ・ラマ法王5世は、彼を崇拝していたモンゴルのグシ汗の協力を得てチベット全土を統一し、チベットにおける宗教と政治両面の指導者になり、ガンデン・ポタン政府を築きあげた。全転生者の中でチベットの宗教と政治両方の指導者となった者は、ダライ・ラマ法王ただ一人であり、他のどの転生者もこの地位を得たものはいない。霊塔に使われている黄金の量を見ただけでもそのことがうかがわれる。圧倒的な勢力を感じる。

ポタラ宮殿を見学したとは、セラ寺に向かった。
セラ寺を見学する。この寺はゲルク派6大寺院の1つで、1419年にツォンカパの弟子によって創建された。チベットが鎖国しているときに潜入した河口慧海や多田等観がここで学んでいる。 セラには雹とバラの2つの意味があり、工事中に雹が振って来たからセラと名づけたという説と、野生のバラが咲いていたからセラと名づけたという説がある。たくさんの柱のある広間がある。ここで1000人の僧が集まって読経する。正面には大蓮傘蓋仏母像、8世ダライラマ像、仏塔、ダライラマの宝座、寺を作ったツォンカパの弟子の像、漢族の法冠をかぶった釈迦の母の像などが並んでいる。
広間を出て隣の部屋に行くと文殊菩薩の像が祀られていた。首を右側に傾げているが、大集会堂の隣にある広場(チョラ)で行われる問答を聞いているのだという。右手には刀を持っているが、これは無知を断ち切る刀だという。
大集会堂を出たあとは問答の行われる広場に行った。ここでは2人の僧が組になり、座っている僧に立っている僧が手をぽんと叩いて右手を前に突き出し質問をする。百人以上あまりの僧りょたちが、お互いの問答をしている姿は圧巻である。まだまだ修行が足りない僧侶たちであるが、真剣に問答を繰り返していた。地元のテレビ局が取材に訪れ、問答の風景にカメラを回している。
次の日の3日目のラサはデブン寺を訪れた。
デプン寺は1416年に創建されたチベット最大の寺院で、ラサ市内から15分ほど離れた山の斜面にあり、たくさんの白いお堂がまるで1つの町のように見える。デプンは白い米の山というチベット語である。
明日から始まるお祭りは、デブン寺では、山の斜面まで人があふれ、お参りに来る人が多いということなので、とてもお寺の門前までたどりつくことがないということである。だから、私たちはお祭りの日の前の日に訪れた。しかしここで待っていたのは、寺院のあるところまで続く坂道である。
平地であればなんでもない坂道なのだが、ここは、富士山の頂上よりも高いラサである。「しんどい」を連発しながら坂道を登る。右手にマニ車が並んでいたが、そのうちの1つは皮製のマニ車であった。その先にもマニ車があった。できるだけ、全部のマニ車を、回しながらヘロヘロになりながら、坂を上る。経文が書いてあるマニ車は、それを時計回りに回すだけで、お経を読んだことになるという。
坂の前方の岩にはツォンカパと2人の弟子(ダライラマ1世とパンチェンラマ1世)の肖像が描かれている。
坂の途中で右手の階段を登ると白い長い建物の前に出た。1560年ダライラマ2世に寄進された寺でガンデン宮殿と呼ばれ、デプン寺の本殿に当たる。中に入ると正面には観音菩薩の書かれた大きなタンカがあり、その裏側には牛頭金剛冥王の恐ろしい顔の像が祀られている。この冥王は文殊菩薩が怒ったときの姿という。私はこの、冥王を見たときこの像によく似た吉野の蔵王堂の蔵王権現の姿によく似ていると思う。役の行者が、大峯山で、現出されたというあの蔵王権現である。
この像の手前にはダライラマ5世の像が祀られている。冥王の左右にも恐ろしい顔をした護法神たちが並んでいる。護法神の前の壁には黒地に黄、赤、白の彩色で壁画が描かれている。黄はゲルク派、赤はニンマ派、白はカルマカギュ派のシンボルで、黒を崇拝するボン教にチベット仏教が勝ったことを表している。壁画の周りにもボン教の神々の絵が描かれている。

ガンデン宮殿(拡大)
ガンデン宮殿の奥にはダライラマの宮殿がある。3階建ての建物で入り口の階段は3列に分かれており、中央はダライラマ専用の階段だという。
2階はダライラマの居室で、中央にはツォンカパと二人の弟子の像が祀られており、像の前の通路には仏足の描かれた布がかかっている。部屋の左側にある棚にはデプン寺ができたときから保管されているという木の皮に書かれた大蔵経が収められている。ツォンカパの像の右手にパイチューという地元の金運の神の像がある。武士だったので金の鎧を着ているというが、信者が寄進するカターで隠されてしまって見ることができない。
3階に上ると豪華な装飾の施された部屋に出る。前のデプン寺の住職の修行場で、写真が飾ってある。住職の生まれ変わりが見つかっていないので1990年に亡くなってから住職がいない状態が続いている。この部屋にもツォンカパと2人の弟子の像、観音菩薩、護法神の像が祀られ、棚には大蔵経が収められている。
次の部屋には金で作られた千手観音の像が祀られている。左右の灯明の上部には紙で作られたマニ車が乗せられており、ろうそくの火によって作られる上昇気流によって回るようになっている。この部屋の周りには仏教の故事などが描かれた壁画があり、鳥葬の場面も描かれている。