2011年12月24日マルタ島にて

クリスマスイブの日に関空から17時間かけてやっと到着したマルタ島である。
だ、ソ連が解体する前、ソ連のゴルバチョフ大統領とアメリカブッシュ大統領が冷戦をどのように
終結させるか話し合ったマルタ島なのである。ここは、イタリアにものすごく近いヨーロッパであ
る。しかしなぜか英語圏である。アラブ首長国ドバイを拠点とするサービスや設備のよいエミレ
ーツ航空でやってきた。
マルタ共和国は、六千年前からの歴史がある。こんなことを言うとエジプト、メソポタミヤより古か
ったのか、おかしいじゃないのかと思われそうであるが、地中海に浮かぶバチカンに次ぐ、カトリ
ックの国なのである。ギリシャからもエジプトからも近い国である。一番近い国はイタリアで、シチ
リア島へは船ですぐに渡ることができる。ギリシャ神話の中のゼウスは、子の神ディオニシスに
試練を与える。正確にはゼウスの正妻が、ディオニシスを殺そうとする試練に耐えながら、農耕
、豊穣の神として、いったん死んだり、いろいろな人々に助けられ、再生したりしてこの周辺の地
域を統一していく。
まるで、ディオニシスは日本の神話に出てくる大国主尊のようなお話である。さしずめゼウスは、
スサノウノミコトといったところだろうか。
バチカンを伊勢神宮にたとえるなら、マルタ島は、出雲大社のようなキリスト教でいう聖地なので
ある。
今この神の名がついた『DIONYSUS』の2008年のマルタワインを飲みながらこの文章を書いてい
るが、このマルタワインは、数が少なく世界に出回っていないため貴重品で、マルタのスーパー
マーケットで買ったら、9ユーロ(900円)程度であるが、日本で飲むと約20倍以上の値段がつい
てワインの専門店では、一本二万円程度するらしい。
この9ユーロのワインは、マルタのゴゾ島のバックスワイナリーでつくられ、フルボトルで豊穣で
神の名に恥じないおいしい高級?ワインである。シチリアンピザをつまみに食べているとマルタ
騎士団の貴族の食事をしているような気分になる。
クリスマス12月25日
今日はクリスマスの日キリストの誕生日である。キリストの誕生は、冬至の日に近い。このことは
、太陽が冬至に一時的に輝きを失いこの冬至以降再び再生し輝きを増し始めるメシアの誕生と
重なる部分があると思う。キリスト教最大のお祭り『クリスマス』はマルタ島の敬厳なカトリック教
徒にとって特別な日であることは間違いない。マルタの町々には、日本ほどの電飾イルミネーシ
ョンは飾られていないが、町のあちこちはほどよくきれいに玄関は装飾されている。家族で祝い
合う。少しおしゃれしたマルタ島の人々は、町のレストランに夜通し集うのである。また町や村の
教会で、ミサが行われている。
わたしは、17時間に及ぶフライトの疲れで早々とホテルで寝入ってしまった。町はクリスマスイブ
で一晩中賑やかであった。

翌日、真っ先に観光に向かったのが第一次大戦日本人駆逐艦戦没者墓地であった。
日本とイギリスとの間の軍事同盟に基づいて、1902年1月30日調印発効され、1923年8月17日
までイギリスと同盟関係にあった日本は、日露戦争、第一次大戦とイギリスが属した連合国側と
して参戦する。私は正直日本の大日本帝国軍が、どのような活躍をするのかここにやってくるま
で知らなかった。このマルタにはその日本軍の活躍を示す歴史が刻まれている。
日英同盟は第一次世界大戦までの間、日本の外交政策の基盤となった。
1917年5月3日、大日本帝国海軍駆逐艦「松」と「榊」はドイツUボート潜水艦の攻撃を受けたイギ
リス輸送船トランシルヴァニア号の救助活動に当たり、さらに続くUボートの魚雷攻撃をかわしな
がら、3,266名中約1,800人のイギリス陸軍将兵と看護婦の救助に成功した。これ以前、救助活
動にあたったイギリス艦船が二次攻撃で遭難して6,000名の死者を出したことにより、たとえUボ
ートにより被害を出した船が近くにいたとしても、救助しないということになっていた。そのような
状況での決死の救助活動であり、以来、日本海軍への護衛依頼が殺到した。後に、両駆逐艦の
士官は、イギリス国王ジョージ5世から叙勲されている。
ところが、それからまた1か月後の6月11日、駆逐艦「榊」はオーストリア海軍のUボートの攻撃を
受け、魚雷が火薬庫に当たったため後ろ3分の1の機関室を残して一瞬のうちに爆発し、吹き飛
んでしまった。この攻撃により、艦長以下59名が死亡した。
第二特務艦隊は、駆逐艦「榊」の59名を含み78名の戦没者を出した。これら戦没者の慰霊碑が
、マルタの当時のイギリス海軍墓地に「榊」遭難から1年後に建立された。慰霊碑はイギリス海軍
墓地の奥の一番良い場所を提供され、当時、日本海軍の活躍をいかにイギリス海軍が感謝して
いたかがわかる。
慰霊碑は、第二次世界大戦時のドイツ軍によるマルタ包囲作戦で爆撃を受け、上4分の1が欠け
てしまった。長らくその状態で荒れていたが、1974年新しく慰霊碑を作り直して復元した。第一次
大戦の日本人戦没者はマルタ島の小高い丘に埋葬されている。
日本人は、第1次世界大戦の地中海でも活躍していたのである
このマルタ島は本当に歴史が深い国である。次からは十覆ってマルタ島の歴史に触れていきた
い。

ゴゾ島、マルタ島の6000年前巨石縄文文明、
実際には金属器がなかったので、千年後のエジプト文明の知名度には及ばないが、マルタ島に
は、大規模な神殿を建築した謎の巨石文明があった。
メソポタミア文明もエジプト文明もまだ本格的な国家のない黎明期と言える時代に、マルタ島で
複数の巨石を用いた建築が造成された。中にはトンに及ぶ重さの巨石も用いられており、一般
的にマルタ島の巨石文明と呼ばれ、歴史にもその名を留めています。この文明は文字を用いな
かったために、どのような方法で何のためにこのような建築物を築いたか分かっておりません。
但し、神殿の中からはいくつかの偶像(マルタビーナス)が発見されており、神殿として使われて
いたというのが有力な説である。マルタの巨石神殿群から数百年後に築かれるイギリスのストー
ンヘンジ、アイルランドのニューグレンジやフランスのブルターニュ地方のストーンサークル群と
の関連性は否定できないが、何らかの理由でマルタを去らざるを得なかった人々(ケルト人の人
々などと)が、ヨーロッパ北部に新たに築いた巨石建築がこのマルタの巨石遺跡群なのではない
かという説もある。つまり、はっきりとしたことはほとんど分かっていない。
首都パレッタの国立考古学博物館に展示してあるゴゾ島などから出てきた土偶のような
マルタヴィーナスは、とても愛らしい姿をしている。まじないなのか何なのかわからないが、マルタ
ヴィーナスには、肩から上が、意図的になくなっている。これからの研究が楽しみにされる地域で
ある。

聖パウロとマルタ島
3日目にゴゾ島に出かけたときにフェリーに乗る前に不思議な小さな島が見えた。
キリスト教の聖人パウロが流れ着いた島なのである。
少し聖パウロとマルタ島の話を引用して列挙してみると。
パウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めまし
たので、一同も元気づいて食事をした。流れ着いた船にいたのは全部で276人であった。十分
に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くた。
朝になり、どこの陸地であるか分からないが、砂浜のある入り江を見えたので、できることなら、
そこへ船を乗り入れようということになった。錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風
に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。
ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなく
なり、船尾は激しい波で壊れだした。とうとう難破してしまった。兵士たちは、囚人たちが泳いで
逃げないように、殺そうとするが、百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いと
どまらせた。
そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって
泳いで行くように命令した。このように、全員が無事に上陸した。奇跡的に全員助かったであった。
一行が助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。島の住民は大変親切にし
てくれ、降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、一同をもてなしてくれた。言い伝えの上陸
した地点は現在もパウロ湾と呼ばれ、マルタの北側の海岸にある3つの大きな湾の1つである。
暖を取っていた時、パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮(まむし)が熱気の
ために出て来て、その手に絡みつく出来事が起こった。住民は彼の手にぶら下がっているこの
生き物を見て、互いに、「この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神
』はこの人を生かしておかないのだ。」と囁きあった。
ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けなかったのである。体がは
れ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと、住民はパウロの様子をうかがっていたが、いつ
までたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、「この人は神様だ」と驚きながら話しあった。
マルタ島には蝮は棲んでいない。きっと、蝮に似たようなものがいたのであろう。これはマルコ16
章17-18「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新
しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治
る。」という文章の元になった伝承資料があり、それを資料を参考にしてこの出来事をルカが物
語ったのであろう。
この難破した場所の近くに、マルタ島の長官でプブリウスという人の所有地があった。彼は一行
を歓迎して、3日間手厚くもてなした。その頃、プブリウスの父親が熱病と下痢(赤痢?)で床に
ついていたので、パウロは早速その家に行って祈り、手を置いて病を癒します。このポプリオは
後にキリスト者となった。このような出来事が続いたので、島の住民の病人たちもやって来て、パ
ウロや医師ルカに癒してもらった。
彼らはパウロ一行に深く敬意を表し、船出のときに今後必要な物をお礼に持って来てくれた。3
ケ月間、パウロたちは、この島で冬を越したが、やってきたアレクサンドリアの船に乗って出航し
た。
このようにキリスト教の布教に貢献したパウロは、キリスト教の聖人となった。
マルタ共和国は、面積は、淡路島の4分の3しかない。しかし人口は四十万人の人々がこの小さ
な島に住んでいる。城塞都市首都バレッタが中心となって、栄えている町である。
古都イムディーナなどいくつかの城塞都市があるが、十二世紀から十六世紀にかけてヨーロッパ
をオスマントルコ軍から守るために石灰岩の城壁を作ってこれらの軍勢を防いでいた。かなり高
い城壁で現在もこれらの見事な城壁は残っている。中でも政府機関のあるバレッタの城壁には
、膨大な量の大砲が多く残っており十二時の時報とともに空砲が発射される。上陸しようと思っ
たオスマントルコ軍は、ほとんどこの城壁に備え付けられた大砲にやれられてしまったことだろう
。この城壁で守っていたのは、カトリック教の国々で組織された今でいう国連のような『マルタ騎
士団』と呼ばれている。歴代の騎士団長は、フランス、ポルトガル、ドイツなどいろいろな国々の
騎士団長が歴任していた。
マルタ騎士団の歴史を年表にしてみると次のようになる。
1050年 エルサレムでキリスト教巡礼者向けの宿舎兼療養所を開業
1113年 ローマ法王から騎士団として公認される
1291年 アッコン陥落によりパレスチナを追い出され、本部をキプロス島へ移す
1310年 ロードス島を占領
1522年 オスマントルコがロードス島を占領
1530年 スペイン国王兼神聖ローマ帝国皇帝カルロスからマルタ島を譲渡される
1798年 フランスがマルタ島を占領
1822年 ベロナ会議により、領土を失っても引き続き国家として認められる
1834年 ローマ市内に本部を設置
1869年 ローマの本部ビルに対して、イタリアが治外法権を認める
1961年 「ロードス及びマルタ、エルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会」となる
1969年 イタリアによって、ローマの本部における自治が認められる
1994年 国連総会にオブザーバー加盟する
マルタ島における旧来の領土を喪失しているため国土を有さないが、国際連合にオブザーバー
として参加する主権実体でもある。現在実際の医療活動にもかかわっている。
しかし中世では立派な騎士団としての活動している。
第二次世界大戦が終わって以来、アメリカとソ連は、世界中において資本主義と、社会主義にお
いてどちらのやり方が正しいかそのようなことを競うようなことをやってきた。そのことは戦争の
実際の戦闘とはならず、相手を牽制し、お互いを無視したため軍事力を増強し核兵器の保有量
において競われた。双方の国にとって膨大な出費であったに違いない。両国の財政が破たんし
てソ連はこの会談の後解体されることになる。アメリカももうこれ以上の軍事的な出費はできな
い状況になっていた。そしてもうこのころにはソ連ではペレストロイカが始まっていた。
40年以上続いた冷戦は、このマルタ島で終わりとなる。
そしてついに1989年にマルタ島において冷戦終結の会談が開かれた。ソ連のゴルバチョフ大統
領とアメリカのブッシュ父大統領が、このマルタ島にやってきてお互いの文書に調印した。今私
の目の前には、冷戦終結のお互いに大統領の肩を抱くような感じのモニュメントが海岸に作られ
ている。
平和への冷戦終結モニュメントその先の、海の中には大きないけすがいくつかある。ここヨーロ
ッパの地中海ではマグロの養殖がされている。最近日本のスーパーでは、地中海のマグロが売
られている。日本にやってくる状態は冷凍保存である。私はこの、生の地中海マルタマグロを食
べてみたくなった。近くの日本食レストランにはこの地中海マグロが、あるという。3日目の晩にこ
の地中海マグロを食べさせてくれる『禅』というお店へ行った。経営者は日本人らしいのだが、店
では日本語は全く通じない。早速マグロの刺し身を注文した。確かにこのマグロはホンマグロで
あり、おいしかったのである。まさかこのマルタ島で生のマグロの刺し身が食べられるとは思って
もなかった。
とにかくワインと食べ物がものすごくおいしいのでまた訪れてみたい国である。
2011年12月30日