かおるさんの北海道2011
戦後66年たった8月15日に終戦記念日に大阪を旅立ち、舞鶴発小樽行きの大型フェーに乗って北海
道へ向かった。新日本海フェリーは、舞鶴港を後に北海道に向かった。舞鶴は、昔は軍港で軍艦三笠も日
露戦争の時、日本海海戦でこの港から出港した。今は海自衛隊の基地がある。とても由緒ある港である。
この新日本海フェリーは、海に浮かぶホテルといってもよい豪華な機能がついている。野球のできそうな
広い駐車スペース、豪華レストラン、バーベキューのできる船尾のオプンテラス、男女別30人は入浴でき
る浴室、無料の映画館もついている。約22時間退屈しないような施設が搭載されている。ただし、一つだ
け困ったことがある。この船のストランは豪華レストランで朝食はバイキングで1000円である。少なくとも
ランチディナーを食べるとカロリーの多い食事で3千円以上は必要である。このことだけが、いつもネックに
なっていた。前回の北海道旅行の際は、無洗米と電気炊飯器を持参した。これで節約とダイエットをクリア
できたのである。今回は少し事情が違った。
前回と違うところは、前回は1等船室個室であって、今回は2等船室S寝台である。このような違いがある
のかといえば、部屋にコンセントがない。このことは致命的であった「お客さん、こんなところでご飯を炊
かれては困りますなあ」と船のクルーに注意されことだけは避けなければと思いいろいろ船内を探検し
た。1等船室にはコンセントがあるのに2等個室船室にはない。トイレでご飯を炊くわけにもいかない。
いや、どこか目立ないところにあるはずだ。ということで、恥を忍んで、船のクルーに聞いてみた。「パコン
をしたいので静かな場所で電源ありますか?」パソコンというのは真っ赤な嘘、いや方便である。そのことを
いうだけでも少し恥ずかしかった。「後部デッキのレストランのデッキにありますよ。自動販売機のコード
をぬかないでくださいね」といわれた。早くもマークされているようである。これはもたもたしていたら注意さ
れると思い早朝5:00に起床して、炊飯器を紙袋で偽装して人が起きないうちに炊飯しなければいけないと
感じた。なにやら爆弾を仕掛けている爆破犯のような心持ちで、早朝五時に起床した。炊時間は約45分で
ある。電気炊飯器の白い水蒸気を誰にも見られてはいけないのである。
小樽を出発して朝里川温泉によった。ここまではよかったが、露天風呂でアブにおそわた。白神山地で
五年前に大量のアブにおそわれたが、今回は裸で無防備である。タオル振り回し追い払うが、何度もア
ブは襲ってくる。なんとか内風呂に逃げ込んだ。なかな今年はアブが大量発生しているようである。
そんなことしているうちに札幌についた。
札幌は二条市場があり、魚介類も豊富である。まず腹ごなしに海鮮居酒屋へ行った。刺身を注文する。マ
グロのほほ肉の刺身、八角の刺身である。この八角という魚は、頭が八形でカサゴに煮ている。まず本
州では、刺身で食べられることはないので注文したが、あぶらがのっていてとてもおいしい。とんでもない三
つ星の高級魚である。少しすすきの界隈を歩くが、ここは出張族が多く賑わっている。風俗の店が多い。ど
こも満員のようでる。
私は元祖ラーメン横町にやってきた。ここは10年前とほとんど変わっていない。以前「満龍」に入ったが、
どの店も満員であった。並ぶのがいやな私は、「来々軒」というたまたま誰もいなかった店に入った。この横
町のラーメン屋さんはどの店も伝統があり有人が訪れたり、全国ラーメン選手権で優勝したなど輝かしい
ラーメン屋さんである。軒並べて覇を競っているわけであるから、客の少ない店に入るのが、正解である
。案の定私が入ったお店では、海原雄山が入ってきたように店主の態度が、入るなり真剣な表情なった
。見事な醤油ラーメンを造ってくれた。もやしがしゃきしゃきしてとてもおいしったのである。
源義経は平泉では滅んでなかったかも?
札幌を後にして一路帯広に向かった。苫小牧を過ぎたあたりで、新しく採掘された温泉見つけた。ご当地
の自治体が道の駅にむかわ温泉を掘り当てたのである。日本の国はどを掘っても数キロメートル掘ると
温泉が湧き出す。地域興しの一貫であろう。
ここの自治体は、ノーベル賞受賞者を輩出している。ノーベル化学賞の鈴木章さんである。ノーベル賞が
先か、温泉を掘り当てたことが先かはわからないが、いろいろなアイディで地域振興ができるものである。
さて車は平取町を走り出すと、義経神社を見つけた。こんなところに義経神社?
義経は世界遺産に指定された平泉の衣川で兄の源頼朝によって滅ぼされたはずである。北海道には渡
っていないはずだ。ところがここ平取町には、義経伝説が残っている。
そしてここにはアイヌ部落があり、以前国会議員をなさっていた萱野茂さんが、この地アイヌ民族のため
に金田一京助氏とともにアイヌ語の人はや辞書などを作られていた場である。この北海道平取町におい
て源義経が本州からやってきて、アイヌの稗やあわをってきて武芸などを人々に教えたとされるところで
ある
。そのため、源義経は義経神社英雄として祭られている。とても信じられない話であるが、地元の人々に
も信じられてる。しかしよくよく考えてみると、いろいろな義経が渡ってきた証拠が、北海道には残ている。
ここ平取町では、毎年源義経のお祭りをやっている。
竜の柩さんのホームページからの引用
源義経の首は、衣川で討ち取られたとき旧暦の五、六月といえば真夏。
いくら酒に浸けられたとはいえ、腐敗はかなり進む。さらに焼き首である。
恐らく義経の顔と見分けられないと考えられる。実際に首実検した梶原景時は「これは州(義経)の首で
はない!」と不審を明らかにしたのに対し、和田義盛が「この首は焼首であり、生前と異なって見えるの
は当然。しかもこの首には眼中に光があり、むざむざと鎌倉に入れたら祟りが起こるだろう」と景時を制したと言われている。結局、その首頼朝が確かめることもなく、すぐに海に捨てられた。
このことも疑いを増大させる。
頼朝の不自然な態度
義経の首が偽者ではないかという疑問は、水戸光圀も書いている程、かなり昔から持たれていた。それに
対して従来は「あの疑り深い頼朝が、義経の首であると認めたのだから義経であるという確たる証拠があ
ったに違いない」という説が優勢だった。
しかし、頼朝の態度がどうも不自然なのである。
「疑り深い頼朝」なのだから、義経の首かどうか一刻でも早く確かめたい筈である。
今の兄弟の感覚を当時にあてはめてはいけない。しかし、頼朝は母の法要のためと称して首の鎌倉入り
を禁じている。これも首実検までに時間がかかった原因の一つになっていのだ。
さて少し時間を溯って・・・義経を討つ時の泰衡の軍勢を見ると、なんと二万である。
義経は郎党十人程度と言われている。いくらなんでも二万は多すぎる。
鎌倉に向けたデモンストレーションではないか? という説もうなずける。
それに頼朝が求めていたのは、義経を生け捕りにして鎌倉に送ることだった。
それなのに泰衡の襲撃方法は、いかにも、わざと判別不能な焼け首を作ろうとする意志さえ感じてしまう。
殺すにしても、毒殺とか入浴中に襲うとかいくらでも他に方法があっはずであり、そうすれば、焼け爛れな
い「義経の首」を鎌倉に送ることができたのだ。また、秀衡が死んでから、義経はいったい平泉で何をし
ていたのか? という疑問も残る。危機を察知できない凡庸な義経と、百戦錬磨の義経が同一人物だと
は考えにくい。
また、泰衡も秀衡の遺言に逆らってまで義経を討つメリットがない。
泰衡がそのような愚かなら、秀衡が家督を譲らないだろう。平泉の置かれている状況か考えても、泰衡
が義経を討つなどありえないだろうと思われる。
杉目太郎行信
宮城県金成町には杉目太郎行信の墓がある。
「源祖義経神霊見替」と刻んである碑は新しいものだが、昔から杉目太郎行信が義経の代わりになって
死んだと語り継がれている。行信は義経の母方のいとこで、年や背格好義経と似ていたため、以前から
義経の影武者となっていたと言われている。
1809年、カラフトを経て大陸に渡ることに成功した間宮林蔵の探検の目的の一つに、義経伝説の真偽を探
るという事があった。
間宮はアムール川流域で現地の人々に義経の事を尋ねた。
すると「漢土の天子(今の中国の皇帝)は日本人の末と聞いている」と誰もが答えたとう。
東北・北海道に残っている義経北行伝説を検討してみる。
義経北行伝説とは、東北・北海道各地に残る伝説で、義経が泰衡に討たれたとされる一前、つまり、秀
衡が死んだ半年後の春に、雪解けを待って義経主従が三陸海岸沿いに北向かい、津軽から海を渡った
というものである。
義経の篭った「判官堂」、「判官神社」、「法冠神社」、愛馬を祭る「駒形神社」、弁慶が張りをした「弁慶屋
敷」や義経が泊まった「風呂家」、「判官家」などの縁の家々、竜岬近くの三厩では「無事に海を渡れるよ
うに観音様に祈ったところ、三頭の竜馬が与えれた」という伝説を伝える「義経寺」がある。
義経北行を示す古文書も数多く、家来の残していった「笈」や写経も現存する。
東北の伝説と北海道の伝説とを別けて考えた方がよいと思われる。
東北地方では、伝説の残る土地を地図にプロットすると、一本のルートが見えて来る。いつ、どこに居た
のかが分かると言われるほど、義経主従の通った道筋が見えるのである。しかし北海道では伝説は各
地に散らばり、そういう特徴がない。
源義経の北紀行は、竜の柩の作者が言っているように全く根拠のないことでもない。
東北から北海道にかけての伝説が残っているのである。この伝説は自然発生的にそれぞの地方で語ら
れている。しかしながら学校で教える歴史においては、源義経は平泉衣川館に火を放って自刃したことに
なっている。
阿寒湖の滝口政満さん

この北海道旅行に来た目的は、阿寒湖にお店を構えておられる優れた木彫の彫刻家である。瀧口政満
さんにお会いするためである。阿寒湖の湖畔には、阿寒湖の景色の中に
「鶴雅」という美しい旅館がある。その旅館の美しさとサービスは、旅行会社でも評判あり、また訪れたい
旅館のベストテンには必ずランクされている。
鶴雅旅館は、とても繁盛しているので、あっという間に7軒ほど新しく北海道のあちこに姉妹店が建設された。今 鶴雅グループとして営業している。そのそれぞれの旅館の中で、瀧口さんの彫刻が旅館の看板として展示されている。
つまり鶴雅グループのその美しさを担っているのが、滝口さんの木彫の彫刻のおかげでると私は思って
いる。どう表現していいか私にはわからないが、すべての作品には優しさがあり、風を感じる。その風には
、愛や慈悲にあふれた作品なのである。仏像のようにが込められているような気がする。私の家にも数
点家に瀧口さんの作品を展示させてもらっている。今年もお元気そうで一緒に写真を撮らせていただいた。大変うれしかったのである。
以下、瀧口さんの紹介文である。
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彫刻家 瀧口 政満氏
阿寒の森が色彩鮮やかに色づき始めると、彫刻家は森に帰る用意を始めます。毎年、阿に初雪が降る
ころから雪が溶ける4月の終わりまで、コタンの店を戸締まりして、彫刻は森の中の一軒家にこもるので
す。雪に覆われた森の中で、冬中ひたすら木を彫って過します。
凍った木ー斧をも砕く自然の力と向かいあう
阿寒の冬の寒さは厳しく、時にマイナス30度にも下がります。寒さで凍てついた木斧を振るえば、斧が
砕けてしまうといいます。彫刻家は凍った木を温泉の熱で木を温め何時間もひたむきに斧を振るい続け
ます。
「フクロウの目玉の形にあわせて丸く木目が現れるとき。少女の丸い頬に木目が丸を描とき。木目がフク
ロウの羽の模様に見えるとき。彫った人物の周りに風が吹いているよに見えるとき。私は木を彫ることの
、喜びを感じる」。
彫刻家はあるがままの一本の木から形を生み出すことにこだわります。二股に分かれたから「馬と風」が
生まれます。曲がったニレの埋もれ木から、「老婆」が姿を現します。
サロルンとイチンゲは今日も木の声を聞く
二十二歳のとき、初めて訪れた阿寒湖畔。コタンの店先でノミを振るっているアイヌの年やコタンの熱気に
触れて感激しました。
コタンで出逢ったアイヌの女性と交わす手紙には、いつも最後に「サロルン(アイヌで鶴のこと)より」と
書かれていました。彫刻家はみずからを「イチンゲ(アイヌ語でのこと)」と呼びました。もうずいぶん昔の
話です。
今では互いに「サロルン」、「イチンゲ」と呼び合うこともなくなりましたが、サロンとイチンゲは、コタンに
小さな店を持ちました。店の軒先には「イチンゲ」という木りの看板が掛かっています。
彫刻家
瀧口 政満氏
1941年、満州生まれ。3歳の時、肺炎による高熱で聴力を失う。東京教育大学附属ろう校高等部卒。同
大学名誉教授・朝永振一郎博士より、口話賞授与。
28歳より阿寒湖畔在住、彫刻に打ち込む。
釧路、札幌、千葉、東京等で個展開催。阿寒湖小、釧路市立博物館、阿寒湖ビジターセターにレリーフ
寄贈。
旭川旭山動物園

ここは本当に楽しい動物園であった。従来の動物園は、動物はみんな厳重な檻の中か容の中に入れら
れて、入園者に絶対接触しないようにしてある。
この動物園は、その動物園の常識から脱却して考えられた動物園であった。
海外でもシンガポールのナイトサファリが、檻のない動物園を実現している。
またイベントも多くあり、シロクマのえさやりをみよう。とかアシカのショーとかがあり驚いたのは、「アオダ
イショウと触れ合おう」というショーであった。これは蛇の嫌い人にも、蛇を触っていただいて仲良くしても
らおうとする企画である。その蛇の代表にばれたのは、日本を代表してどこにでも出没する「アオダイショ
ウ」であった。彼らの性格はおとなしく、毒の牙は持っていない善良な蛇である。時々凶悪な毒蛇「マムシ」と
混同されて、田舎の道ばたで子どもたちにいじめられていることもある。旭山動物園では園のハ虫類担当
の係の人が、容器から出してきて入園者に実際に触ってもらうのである。「泣いた赤鬼」ならぬ「泣いたア
オダイショウ」という童話ができてもいいお話になりそうである。
アオダイショウを触った人は「以外とさらさらしている」とか「かわいく思えてきた」いうような感想を述べて
いる。私も触れ合ったのであるが、ほかの入園者と同じような感想を持った。私は一年前にバリ島でスーパ
ーヘビー級のアナコンダを首に巻いて触れ合たことがあるが、あのときは本当に怖かった。アナコンダは
、常に鎌首を私の顔の方にけ、大きな舌をニョロニョロと出すのである。いつガブッとやられても不思議で
はない状態である。それに比べたら、アオダイショウはとても優しくかわいく思えるのであった ところが、こ
のショーの後、爬虫類館へ行ったが、とんでもないハプニングが起きた。虫類館の中には、巨大ワニアリゲ
ーターや凶悪毒蛇マムシが厳重容器や檻に入れてあるがアオダイショウはノーマークで金網の中に入れ
られている。時々とても小さなアオダイョウは、金網の隙間から脱走する。それで、入園者がパニックにな
るのである。
マムシやアリゲーターを見ながら足下で小さなアオダイショウがチョロチョロするのでるから入園者はみん
な「ぎゃー」というのは致し方ない。これも旭山動物園の演出であう。
虎やクロヒョウのいる猛獣館では、檻はあるのだが危険のない範囲で猛獣に近寄れるようにしてある。でも
気の利いた注意が檻に書いてあった。「猛獣はあまり近づきすぎるおしっこをかけます。虎がおしりを見
せたときは注意をしてください。」実際にヒョウおしっこをかけられそうになった。またカバにはうんこをかけ
られそうになった。
ほかにもオオカミのファミリーがいて集団で生活する様子が観察できたり、猿のコーナでは、檻がなくジャ
ングルジムのような猿山でいつでも脱走できそうな距離で観察できる特にチンパンジーが面白かった。ここ
もファミリー単位で生活している。一番末っ子のどものチンパンジーがやんちゃで、おばあさんやおじいさ
ん自分の母親までいらないちよっかいをかけにいく。アクリル越しの入園者までアクリル板をたたいてあか
んべーをすような仕草なのである。ついに業を煮やしたお母さんに折檻されるのであるが、何時間ていて
も面白いあきないのである。人間と同じような様子がわかるのであった。
従来の動物園は、動物は見せ物であってただ檻の中でいるだけで、また入園者も見るだであったが。こ
の旭山動物園では、動物の生活がわかり、入園者とふれあえることが人気の秘密なんだなあと思えた。
東北大地震の被災地から

北海道函館を青函連絡船で後にした。青森県市内で1泊した。
東北自動車道で一気に、岩手県の一之関市まで南下した。三陸海岸はリアス式海岸であって中学校で教
えている教科書の中では、複雑に入り組んだ海岸のことをいう。どうしてこの海岸が複雑に入り組んでいる
のか分からなかったが、今回の地震で、その地形の出来方がはっきりしたのである。このあたりの地震歴
史を調べてみたら、796年平安時代に貞観大地震が東北地方の同じ場所で起こったと記録にある。1016年
ぶりに地震が襲う事にった。この東北地方の太平洋側には約1000年に1度大地震大津波が襲うのである
。日本列島ができてから、1000年単位とはいえ、何回の津波が襲ったのであろうか。数えきないほどの津
波が太平洋側の地形を変えてしまったであろう。その結果残された地形がリアス式海岸という地形であろ
う。
津波の痕跡のあるリアス式海岸は、東北の三陸海岸だけでない。
近畿地方には、2カ所存在する。
若狭湾の海岸と三重県の伊勢、志摩の海岸である。これらの海岸には何年周期かわからないが、何回も
の大津波が押し寄せていたあとだなあというふうに考えられる。
車は、一之関市から60キロほど海岸に向かって走ると、そこは気仙沼市であった。この地で10年前、宿泊
し美味しいホヤなどの海産物をいただいた思い出がある。気仙沼市は町の中心部が少し高台になったと
ころがある。そこは大地震が起きたにもかかわらず建物は何事もなかったように無事であった。しかし海岸
沿いの海抜40m未満の地域は無事ではなかった。3/11にテレビで見た光景がそこに出現した。家が根
こそぎ流されていた電信柱もなぎ倒され、5階建てのビルであっても無事ではなかった。大きな津波が押
しせてたのである。その威力というものは原子爆弾を投下された後の光景と似ている。今は瓦礫が少しずつ片付けられてきている。仮設の道路や橋が取り付けられ、復興の瓦礫運びトラックが行き交う中、まだま
だ大津波の爪痕は残っている。海岸から1㎞離れたとこに小型の船舶が打ち上げられていた。メチャク
チャに壊れた自動車も至る所でスクラップ置き場のように積まれたところが何十カ所もあった。車の中でな
くなられた方も多くいたに違いない。大津波は海岸にある10mの大防波堤を軽々と乗り越え、何もかもな
ぎ倒ながら、飲み込んでしまった。廃墟と化した海岸沿いの町には瓦礫以外何も残されていなかった。最も
ひどいなあと思ったのは、三陸海岸沿いに走るJR気仙沼線であった。線路と下にひいてあった砂利はすべ
て流され、橋桁の部分しか残されていなかった。流された線路は複雑に折れ曲がり、道路の近くで放置され
ていたこのような状態では、鉄道は最初の基礎工事からはじめなければ、列車が再び走るような復興は可
能ではない。車は、南三陸町に入ったが、同じような状況であった。さらに気仙沼市より瓦礫の片付けが遅
れてるような気がした。
テレビと違うところは、目の前にある3/11の災害の悲惨な実際の風景を見ると、言葉が出なかった。本
当に手を合わせて亡くなった方々の冥福を祈ることとできることならびに、もとの風景になるよう復興するよ
う祈ることだけだった。
私が、訪れた8/23の次の日の朝、一つだけ明るいニュースが大阪に向かう車のテレビから流れてきた。
東日本大震災で甚大な被害が出た宮城県・気仙沼港に24日朝、同県石巻市のサンマ網漁船「第6
安洋丸」(199トン)が入り、北海道沖で取ったサンマ約18トンを年初めて水揚げ、魚市場で入札が行わ
れた。
安洋丸は気仙沼港に係留中に津波で内陸まで流され破損。修理を終えて12日に出港していた。気仙沼
は昨年の水揚げ量が約2万5千トンで本州1位。安洋丸を所有する漁業社は「復興を後押ししたい」とした。
復興の声を上げる震災後初めての水揚げだったのである。
一日も早い復興をお祈りしています。東北がんばれ応援しています。