かおるさんの北海道2004年と恐山に挑戦

羅臼岳

 2004年8月3日午前1:00に敦賀港にやってきた。今年は、小樽行きではなく、苫小牧港行きのフェリーに乗るためである。 またまたやってきた。通算5回目の北海道訪問である。
しかしながら今回の北海道行きは、最初から波乱に満ちていた。フェリーに車を載せるために指定の駐車場で待っていたら、目の前でトレーラーが右折しようとした時にドカンという音とメリメリという大きな音が聞こえた。車を降りて様子を見に行くと乗用車が右折のトレーラーに踏みつぶされて前部を大破していた。幸い乗っていた人は無事であったが、乗用車は全く動かない。その方々は、北海道行きの旅行をキャンセルせざるを得なくなった。全く気の毒な話である。その事故のせいで10分遅れの敦賀出発である。
波乱の幕開けである。

 もう今回はおなじみになってしまったが、電気炊飯器の持参である。もう実績があるからフェリーの中で使用することは大丈夫であると最初思ったが、やはり心配であった。その心配とは、1升炊きの大型家族用を持ってきたことと3人和室だったので部屋が小さいことだったのである。ワット数が炊飯器の負荷に果たして耐えられるだろうか。知人はドライヤー2台を持って行ったほうがいい。「お客さん、困りますなあ、こんなところで炊飯されては、、」に備えろとアドバイスしてくれたが、ドライヤーを持ってくるのを忘れてしまった。前回と同じくテレビや照明を消し、真っ暗な中でご飯を炊いた。極力ワット数消費電力を押さえるためである。ドキドキしながら炊ける瞬間を今か、今かと長い時間待ったことか。どうやら成功したようである。今回は前回の反省をふまえて無洗米である。前回は朝早く米をといでいるところを他の宿泊客に見られて恥ずかしかった。何度も同じ間違いを繰り返してはいけない。今回は和商市場にも行くのである。万全を期さなくてはいけない。フェリーの中では、冷えたビールだけを買った。風呂へ何度も入って寝そべっていたら、翌晩苫小牧に着いた。苫小牧は、王子製紙会社があり、パルプを製造している。かつては繁栄をした都市であるが、資源保護とかリサイクルでかつてほどの勢いがない。でも宿泊したホテルは王子製紙の経営であった。 次の日の朝いつものようにバイキングの朝食をとった。1週間も旅行するのであるから、かなりの貧乏旅行である。そのためにもホテルのバイキング料理で、栄養を蓄えなければならないという思っているのは私だけであろうか。バイキング料理というものは、好きなもの好きなだけ食べていいということであるから、私たち貧乏旅行者にとっては、とてもありがたいシステムである。朝食をたくさん食べておいて、お昼を抜くということもできる。ハラペコのおなかにつめられるだけつめるようにおなかを満腹にしておく。熊が冬眠前にできるだけの栄養を蓄えてしばらく食べなくても済むようにしておく。そのような感覚なのである。しかしそれはいつも食べ過ぎとの戦いである。一歩間違えれば、おなかが痛くなってしまう。そのあたりのリスクを加減しながら、ひたすら食べるのである。
そんなことを考えてバイキングを食べている客は、私たちだけでなく他にもいるだろうと観察してみたが、回りの人々は正しい服装で上品に食べている。
そのことを証明するのは、トレーの上に乗っている皿の数であろう。わたしたちの家族だけのテーブルだけ、皿の数がやたらに多い。他の客の倍以上の皿の枚数である。フルーツの残がいも多い。少し恥ずかしくなったが、バイキングというシステムを有効に使った結果であるから、そのことは問題のないことであると思う。 このことによって昼食代がかなり削減されることは間違いない。われわれは1週間以上も旅行しなければならない。われわれのような旅行者はすくないであろう。
次の日は北海道在住の帯広の知人の圓山さんの家にお世話になった。圓山さんには北海道に来た時にいつもお世話になっている。圓山さんは、大阪に住んでおられた。一念発起して開拓者精神を持って、北海道の帯広にご夫婦で移り住まわれた。北海道において、新しいタイプの仕事をなさろうとしている。北海道というところは、いろいろな仕事を受け入れ、その仕事を成功させていく人も多い土地柄である。

 北海道到着3日目の朝に圓山さんお嬢さんと奥さんとわれわれ家族とで、釧路へ向かった。後ろには有名な和商市場がある。釧路は日本一の漁港であり、北海道最大の水産物の取引所でもある。この和商市場で、買った新鮮な海の幸と圓山家で炊かせてもらったご飯で昼食を楽しもうということである。
一人約500円分の刺身を買って、海鮮ドンブリのできあがりである。前回は、市場の廻りをドンブリを片手に箸を持ってウロウロしていたのが、恥ずかしかったので、今回は、景色のよいところで刺身とドンブリご飯をカップリングする予定である。購入した後、近くの釧路湿原に行った。
ここは北海道らしい湿原である。青い空と広大な湿原の中を朗々と蛇行した川が流れている。
この湿原の真ん中に塘路湖いう湖があるが、カヌーに乗って川を下っていくコースも設定されている。その畔で食べる和商市場特製の新鮮刺身ドンブリは、格別であった。ホッキ貝、ツブ貝の貝類やトキシラズの刺身、マグロのトロの切り身は、否が応でもご飯が進むのである。北海道白樺効果とは、無関係に体重が増えていくのである。
それにしても今年の北海道は暑い。前々回来た時も暑かった。どうも全国的に暑い時に我々はいつものようにやってくるようである。北海道はいつも涼しいのでストーブはあってもクーラーがない。いらないものである。しかし北海道の人にとってこの暑さは、堪えるであろう。大阪人は、鍛えられているので暑いといっても32度くらいであるから、いつもこんなものなのでしゃーないわですむのである。

釧路湿原を後にした我々は、野付半島の根っこの部分にあたる尾岱沼キャンプ場でバンガローに宿泊した。前回訪れた時、神戸のオッちゃんがここはカレイの宝庫やで、、。といっていたので、再び訪れた。夕方の時合いには、魚は来なかった。けれども樺太マスが1匹かかった。前回来た時と漁港の様子が整備されて変わっていた。朝、場所を変えてやっていると30センチを超える巨大かじかが、何匹かかかった。姿はハゼの巨大化したような魚である。次には待望の30pカレイがかかった。バンガローに戻って魚を調理した。魚は昼食のおかずとなる。

 次の目的地、知床へ向かった。ほっけで有名な羅臼を通過し、間欠泉の羅臼温泉から峠を越えた。知床峠でとんでもない風景に出くわした。羅臼岳1661mである。圧倒的な姿で現れた。北の方の斜面には、ごつごつした岩肌を見せ、わき起こる雲を巻き、見るものを神厳な気持ちにさせる。たくましく男性的な山である。以前にもここを通ったが、霧のためここにこのような山があるとは、想像もしなかった。常に根室の方から海霧がかかるため、はっきりと見えることが少ないようである。感動する景色というものはこういうものであろう。

岩尾別温泉「地の涯ホテル」を目指した。地の涯とはなかなかのネーミングである。最果ての地を連想させた。露天風呂もかなりワイルドである。鹿や熊が出てきても不思議ではない感じである。エゾ鹿もこのホテルのロビーには行ってくるという。楽しみなホテルである。


ホテルの到着が早かったため、知床最大の目的であるカムイワッカ滝の温泉を目指した。しかしここは凄かった。最近有名になって、観光者が多く訪れるためマイカーは通行制限されている。この岩尾別温泉からかなりウトロ方面にバックしてバスに乗っていかなければならなかった。未舗装の道をバスに40分ぐらい揺られていくと知床半島の先端に近い部分にカムイワッカは位置していた。意味はカムイ(神)だと思っていたが、掲示板にはカムイ(魔)と書いてあった。何故(魔)と書いてあるのか、後になってわかった。ここはただの観光地ではないのだ。この知床半島には、エゾ鹿やヒグマが多く住んでいる。ごくごく自然なのだ。北海道は明治以来開拓されてきたが、この知床は開拓者さえも受け入れない厳しい自然が残っていた。気候であり、森林である。半島の入り口の部分には、開拓者の夢が破れ、1960年まで使用されていた家が廃屋としていくつか残っている。バスが奥地へ入っていくほど、鹿やキタキツネが姿を現した。
やがてカムイワッカの滝入り口に到着する。そこからは川の流れている沢を登っていくしかない。衣服が水浸しになるのは仕方がない。わらじを滝の入り口で売っていた。スリッパは厳禁だという。硫黄の匂いがする。川の流れの中には、硫黄分が含まれているので、黄色や緑色の付着したものが目につく。流れが速いので、川の中を避けて沢を登っていくとよく滑った。苔が付いているようである。硫黄分の含まれる水のために苔が付かず、滑らないので、流れの中を歩いていく。水はなま暖かくお湯のようである。しばらく沢を登ると絶壁のような滝が出現した。しかしこれを登らなければならない。一瞬足を取られると滝壺の中に落ちそうである。ひるみながらも何とか登れそうであるが、帰りはこの一本道しかないので下ることができるのかどうか気になるところである。ここまで来た以上登るしかなかった。やっと登ると大きな滝壺が湯船になったカムイワッカの湯があった。滝上の方では、源泉が煙を上げていた。本来の川の水と源泉が混じってちょうどよい意湯加減の温泉になっている。とてもワイルドである。水着になって湯に浸ると飛沫が目に入った。痛い痛い。温泉で顔を洗うとさらに痛みは増した。なんだこれはと温泉をなめてみると何とお湯は酸っぱかった。酢の味がする。リトマス試験紙青を真っ赤に変えてしまう強酸の湯なのである。10円玉をこの湯につけていると新品になるという。実際にやってみたが、本当であった。表面が酸化されて銅の持つ赤銅色になった。しばらく浸けていると表面が溶けて自動販売機で使えなくなるという。目も痛いはずである。硫黄山1562mから流れ出した硫黄分や酸性の水はすべてを酸化させる。つまり金属をも溶かす恐るべき湯なのである。そういえば湯に浸かっていると皮膚がちくちくとする。体が溶けているのかもしれない。全国の秘湯でもこんな温泉は少ないであろう。帰りの沢下りがたいへんであった。滑って落ちたらたいへんで、いたい目に遭う。でもゆっくり降りることができた。帰りのバスは、水着でびしょびしょのまま乗り込んだ。
まさに恐るべし、カムイワッカ滝の湯である。帰り道、羅臼から5q南の松法(まつのり)というところで1時間半ほど竿を出した。晩御飯を調達するためである。カレイ大小8匹
ガヤ(北海道ではソイのことをこう呼ぶ。防波堤にいたおっちゃんにきくと防波堤にガヤガヤよってくるからそう名付けられたらしい?)を7匹釣った。と晩御飯にはなりそうだ。それにしても魚影が濃い。あまり真剣に釣りをする人は、いないので釣り荒れしていないようである。

 次の日、圓山さんに別れを告げ、朝、帯広から函館に向かった。日勝峠を越え、高速道路を使用したが、函館に到着したのは夕刻であった。300qは走ったであろうか。夜箱舘山からの夜景を楽しんだ。香港に匹敵する素晴らしい眺めである。100万ドルの景色とはこういうものであろう。次の日箱舘八幡宮神社と山上神宮に参拝した。函館とは箱舘とも昔書かれていたそうだ。箱とはパンドラの箱が埋められているという伝説を聞いたことがある。
 函館は、北海道の玄関口とも思われる。開拓の基点として江戸時代から松前藩がおかれた。幕末、榎本武揚、新撰組の副長土方歳三らが、徳川家のために蝦夷共和国をつくり、新政府軍と戦った。戦いのあった地域は、五稜郭であった。洋式城郭の機構を要している。やく一週間で蝦夷共和国の夢は消えてしまうわけである。当時未開の蝦夷地北海道を開拓して独立国として徳川王国を建設しようとしていたことはうなずける。北海道はロシアをはじめ、いろいろな外国からも狙われていた。日本を開国させたペリーも函館を訪れた。函館山の麓には会所跡がある。彼の目的は、北海道に星条旗を立てることである。このもくろみは、ペリーがアメリカへ帰国する時、内浦湾(噴火湾)にやって来た時に、ここで駒ヶ岳はじめ湾内で噴火する複数の火山を見て、当時の大統領に手紙を送っている。「火山ばかりでこの地は合衆国の植民地にはふさわしくない」そんな内容であった。もし内浦湾の火山が噴火していなかったら、北海道はアメリカの植民地になっていたかもしれない。

 函館八幡宮の近くに碧血碑があった。土方歳三はじめ、函館戦争で戦死した800名の旧幕臣達の慰霊碑であった。徳川幕府を何とか次の時代まで生かしていきたいと考えた壮士達のための記念碑である。そんな熱い思いが伝わってきた。

函館を朝9:00発下北半島大間(おおま)行きフェリーに乗った。約1時間半で本州最北端大間に到着する。次の目的地恐山に行くためである。佐井からは、地図にも載っていないような道を通って恐山に入ろうとしたのである。やっぱりものすごい道であった。
物の怪が出てきそうな道であった。東北はみちのくという。道の奥なのである。ここは最大級のみちのくであった。道路は車一台がやっと通れるような未舗装であった。うっそうとした昼なお暗い森の中を車は土煙の中を進んでいる。木はヒバであろうか。以前岩手県の遠野を訪れた時、もうここには妖怪はいないと確信したのである。それは遠野が高速道路が開通し、森林が少なくなって開けていったことであった。
下北半島は、自然そのままであった。山岳地帯であるのでGPSの現在位置の情報も入ってこない。そのような原生林の道を1時間ほど走ったところで、突然開けたところに出た。そこには奥薬研修景公園レストハウスがあった。そのそばには蕗の葉っぱを傘に持った河童の噴水があった。そのとなりの由来の看板を見ると恐山を開いた慈覚大師が、このあたりの薬研渓谷で道に迷い崖から足を踏み外し大けがをしていたところ、大きな蕗の葉っぱをかぶったカッパが現れ、突然慈覚大師を背負って露天風呂に入れて大師の傷をいやしたという義心をもった河童の伝説が残っている。

 河童伝説の残る地をさらに進んでいくとやがて硫黄の匂いが鼻を突くようになった。透明な水が流れる川があった。河原に硫黄の煙がわき出していた。あちこちに石が積み上げられていた。どこかで見た風景である。賽の河原ではないか。さらにその河原をさかのぼっていくと宇曾利山湖に出た。その川の河口には、赤い橋が架かっていてその川の名前を見て驚いた。なんと三途の川と書いてあった。もうここは恐山の領域に入っていた。さらに進んでいくと恐山の山門が見えた。山門を入ったとたん雰囲気は、さらに一変する。いたるところで硫黄が噴出している。石積みがあり、風車が不気味に回っている。あの世とこの世をつなぐ世界であるようだ。とんでもない世界に踏み込んだものである。7月の下旬にはイタコが境内で口寄せをしているそうだ。今は8月なのでイタコは山を下りている。ここを散策していると地獄を巡っているようである。大きな石の地蔵がいたるところにあり、死者をよりよき方向に導いている。地蔵は、地蔵菩薩であり、冥界まで降りてきて、救うのである。そしてその化身が不動明王である。それぞれの御真言を唱えながら境内をまわって、やがて宇曾利山湖の湖畔に出た。湖の底にも硫黄が湧いている。湖の先の山をぼんやり眺めていると突然雲の裂け目から太陽の光がこぼれた。ここは何の潜入概念がなければ、たいへん風光明媚な場所である。湖の水は火山湖のせいか果てしなく澄んでいる。しかしここは霊場である。硫黄が吹き出し温泉が湧いている。地形的にいうと活火山である。火山は冥界につながっているのだろうか。日本には山岳宗教があるが、主に火山の山には必ずといっていいほど信仰が生まれている。山門近くに小さな浴室が用意されている。中をのぞいてみると約14畳くらいの浴室だが、お湯は緑色であった。夜中には絶対入りたくない温泉である。夜中には人間以外のものが入ってくるそうな、、、、。
 下北半島は、本州の果てである。一番冥界に近い霊場は、恐山であろう。この冥界で死者を救う為に働く地蔵菩薩の慈悲に触れて暖かみを感じた。人間が死んだ時、黄泉に帰るという。「黄泉がえる」→「蘇る」そのことは一つの誕生である。地獄へ行くか天国へ行くか。その選択は、必ず自分で選択しているものなのである。よりよき選択ができるように地蔵菩薩は、どんな亡者であっても助けてくれるのである。たとえ悪人であってもである。恐山はちっとも怖いところではない。
恐山の山門の横に食堂があった。おなかが減ったので食事をすることになった。私は、冷やし中華を注文した。水はセルフサービスであったので、自分で冷水器のところへくみに行った。そこには、「飲み残し厳禁」と書いてあった。最初、なんだこれはと思った。
私のマイブームは、美味しい天然ミネラル水をのむことであったが、恐山の水を飲んでみると、今までどの水よりも濃厚で美味しい素晴らしい水であった。食堂の方に聞くと恐山の山からからわきいずる聖水であるそうな。あまりのうまさに3杯もお代わりをしてしまった。そのことで私は、恐山のイメージが、一変してしまった。いままでのおどろおどろしたものではなく、死者と聖者をつなぐ慈愛に満ちた聖なる美しい場所なのである。
私は、恐山をあとにした。奥入瀬渓谷を通り、十和田湖に入った。
次の日は、朝早く、近くにある大湯環状列石の遺跡を見学した。
ここは、最初訪れる計画はなかった。突然の訪問だったのである。大阪に帰るために小坂インターか十和田インターから高速道路にはいることを迷っていた。その時、大湯環状列石の表示が突然現れた。

 ここには、私のもっと知りたいことのヒントがあった。縄文人の祭祀の跡である。平たくいえば、ストーンサークルである。三内丸山遺跡など縄文時代の遺跡が、青森県に多く残されている。世界でもっと大きなストーンサークルであるイギリスのストーンヘンジがあるが、その遺跡を祭っていたケルト民族と大湯ストーンサークルを祭っていた縄文民族は、同一ではないにしろ、何らかの共通点を持っているに違いない。両方とも太陽信仰である。遺跡の中でガイドさんの説明を聞いていてなにやら内なるものが、目覚めていくような気がした。このあたりのことは、別の紙面で詳しく書いていきたい。
 午前10時30分頃十和田湖インターから高速道路に乗り、大阪まで約1000qを走って自宅に無事着いたのは午後11時であった。
                 
            8/13    2004年かおるさんの夏の旅は終了する。