かおるさんのエジプトトルコ2009



 8月14日15時に関西空港を飛び立ったエジプト航空旅客機は、使用機材の到着一時間遅

れで、カイロ空港到着が、日本時間15日の7時であった。飛行時間は16時間であった。この

間することもなく機内でだらだらと過ごした。機内では3本立ての映画が上映されていたが、

年配の男女しか登場しないで意味がわからず、音声も聞き取れなかったのでほとんど誰もみ

ていなかった。イスラム圏の映画はこんなものかなあと思った。機内食は日本から調理され

たものを積んでいたため、なんとかおいしくいただけた。ガイドさんから現地の水は絶対飲む

なといわれているため、歯磨きの水さえもミネラルウオーターを使った。何のかんの言いなが

ら16時間かけてカイロ空港に現地時間の次の日の午前2時半頃到着した。まず、カイロ市

内の状況である。真夜中の2時を回っているのにカイロの人々は町のあちこちナイル川橋の

上で涼んでいる?酒盛りをしている。よく見ると小学生の子供たちまで走り回っているのであ

る。現地敏腕ガイドのハッサンは「夏休みですから」というが、なんぼなんでも夜中の2時ま

で子供を遊ばしてはだめだろうと思いながら、次の日の朝、あけても町の様子はぜんぜん変

わっていなかった。オリンピック前の中国北京より町はごちゃごちゃしている、来月からはラ

マダーン(断食月)である。


その日はカイロ空港から少し離れたホテルで仮眠をとって朝早くから、ギザの3大ピラミッドを

見学しに出かけたのであった。夜の帳からあけたカイロはアラビアンナイトの世界かと思いき

あ、アラビアンナイトとは全く別な世界が現れた。人々は相変わらず朝なのに酒盛りをほこり

やゴミの舞い上がる通り路地で前夜と同じように酒盛りやその辺ごちゃごちゃたむろを続け

ているのである。車が行き交う中ロバが野菜の荷車を引いて、物売りが頭の上にパンをいっ

ぱいのせて売り歩いている。カイロは眠らない町である。


八月十五日、そうこうしているうちに私たち一行は、バスに乗ってしばらくすると、砂埃の通り

の終わりに世界最大のクフ王のピラミッドが圧倒的迫力で突然現れた。バスの中では日本

人観光客の歓声が上がり、ハッサンが雄弁に語り出した。この世界最大クフ王のピラミッドだ

けで日本人全員約1億2千万人の体重を全部足したくらいの重量があるという。つまり日本

人全員をエジプトに連れてきてクフ王のピラミッドと天秤をかけたら釣り合うというのである。

一般に、ピラミッドの出現は、ファラオ(王)を頂点とした中央集権国家が確立したことを示し

ている。したがってピラミッドの建造が盛んなことは、エジプト中央集権国家としても盛期であ

ったと言える。ギザの三大ピラミッド(クフ王のピラミッド、カフラー王のピラミッド、メンカウラー

王のピラミッド)が建造された時代は「エジプト古王国時代(第3-第6王朝)」であり、この時代

のピラミッドは、規模・技術ともに最高水準を示す。

まったく見事なピラミッドである。これを、建造させたファラオたちは、いまから約、4600年前

に正しい方向に東西南北全部揃ってこれらの大きな建造物を作ったのである。

今は四角い石が積み上げられたものであるが、当時はさらに化粧石が施され、表面はつる

つるで白い色をしていたというという美しいものであったという。日本はといえば、この時代は

、稲作もまだ始まっていない縄文時代である。

とにかく素晴らしいファラオたちである。私たち一行はこのピラミッドの中でクフ王の息子カフ

ラー王のピラミッドの中へ入っていった。ものすごく狭いトンネルを頭を何度も天井にぶつけ

ながら進んで階段を降りて行くと王の石棺があった。王の玄室は、とてもを薄暗くて、蒸し暑

い。王の遺体のミイラは、いまはエジプト考古学博物館のミイラ室に安置してあるんだそうで

ある。


エジプトは気温が高くて今38度で、大阪より暑いが、湿度が少ないので、わりと過ごしやすい

。しかし、ピラミッドの中は、さらに蒸し暑い。外は38度で涼しく感じた。

さらに三大ピラミッドより古いピラミッドを見学しにいった。以下はウキペディアの解説である。

階段ピラミッド
ジェセル王の階段ピラミッド階段ピラミッドはピラミッドの最初の形態で、第3王朝時代サッカラに、宰相イムホテプが設計し、ジェセル王が築いた物がその始まりである。当初は日干し煉瓦による方形のマスタバとして建立されたが、後に煉瓦を積み上げて階段状の巨石建造物と成した。一度階段形態が完成した後も、追加して拡張が成された。完成時の寸法は東西約121m、 南北約109m、 高さ約60m。

屈折ピラミッド
スネフェル王の屈折ピラミッド第4王朝期に入ると、スネフェル王が既存のピラミッドを基調に51度の勾配を持つピラミッドを造り上げた。このメイドゥームのピラミッドは最初に四角錐の形状を採用しており、その意味では画期的な建造物であった。ただしこれは後に(あるいは建設途中に)崩壊した。このピラミッド(崩壊ピラミッド、偽ピラミッドとも呼ばれる)はそもそも四角錐を目指していなかったとする説もある。また、このピラミッドをスネフェルの物として数えない場合もある。
スネフェル王はまた屈折ピラミッドと称される事になるピラミッドも築いた。これは建設途中に(地上から49m地点で)勾配を約54度から約43度に変更していて、高さは約101mであった。 屈折ピラミッドの形状の理由としては、
勾配が急過ぎて危険なため(崩壊の危険、玄室にかかる重量過多)角度を途中で変更した。
建造中に王が病気になったので、完成を急ぐため高さの目標を下げた。
これはこれが完成形であり、下エジプト・上エジプトの合一を象徴している。
などの説がある。

真正ピラミッド

クフ王のピラミッド断面図
1.入口 2.盗掘孔 3.上昇通路入口 4.下降通路 5.未完の地下室 6.上昇通路 7.女王の間 8.水平通路 9.大回廊 10.王の間 11.控えの間 12.脱出孔
オリオン座
オリオン座(図示)スネフェルは更にダハシュールにおいて、勾配約43度で、側面が二等辺三角形の赤いピラミッドを建造。これによっていわゆる真正(しんせい)ピラミッドの外形が完成した。スネフェルが1人で3つもピラミッドを築いている点から導かれる王墓説否定論に対しては、メイドゥームのピラミッドは勾配がきつ過ぎて崩壊、同様に屈折ピラミッドは一定の高さ以上に出来なかったので挫折した妥協の産物でしかなく、最終的に43度のピラミッドが誕生した、という反論がなされて来た。

世界一高いピラミッドは、スネフェルの次のクフ王によってギザに築かれたギザの大ピラミッドで、勾配は51度52分。底辺は各辺230m、高さ146mに達する。長さ・高さの比は黄金比であり、またこれは14世紀にリンカン大聖堂の中央塔が建てられるまで世界で最も高い建築物であった。第2位のカフラー王のピラミッドもこれに匹敵する、底辺215m、高さ143.5mである。この2つに隣接するメンカウラー王のピラミッドは何故か規模が縮小し、底辺108m、高さ66.5mである。この王の威光が前二代の王と比してさほど劣るものではなかったと伝えられることから、縮小の理由は謎とされている。この3つはギザの三大ピラミッドと呼ばれ、世界有数の観光地となっている。これらのピラミッドはもともとは表面に石灰岩の化粧板が施されており、(現在のような段状ではなく)傾斜のある滑らかな面でできた四角錐で、全体が白色に輝いていたのだが、遺跡を保護するという概念が無かった時代に、その化粧板が剥がされてカイロ市街地の舗装に使われてしまい、現在のような姿となった。[要出典]化粧版は現在ではカフラー王のピラミッドの頂上辺りとギザのピラミッドの土台元に僅かに残っているのみである。
この三大ピラミッドおよびナイル川の(当時の)流れ、そして他の多数のピラミッドとの配置に着目し、ピラミッド群は天体の配置を模したものであるという説もある。すなわちナイルが天の川で、三大ピラミッドがオリオン座の三つ星に相当、他のピラミッドも星の位置を反映しているということである。三大ピラミッドの内、メンカウラー王のピラミッドが他の2つの頂点を結んだ線からずれている点、大きさも他の2つよりも小さいことに付いて説明する有力な説とも言われている。ただしこの説は一般的に考古学者たちには認められてはいない。


いったいどこまで古いねん。しかしこのような文化を築きあげた古代エジプト文化に敬意を払

いたいと思った。

それから、移動の途中我々はバスに乗っていろいろな遺跡をまわるのであるが、驚くべき事

であるが、エジプトの交差点では信号はほとんどない。それにもかかわらず車は交差点では

、あまりスピードも落とさず、我先に通過しようとする。一般道路狭い道でも平気で90キロく

らいでバスの運転手はクラクションを響かせながら、スピードを出すのである。道路を横切ろ

うとする人は、命がけである。でも人々はへっちゃら大勢道路を平気で横切っている。車は

一部を除いてポンコツ車が多い。ボンネットのないやつやナンバープレートがなくて段ボール

ではったやつ、ドアが開いたままで定員以上に乗っていて走っているバス、ラジエータむき出

しの形式のわからない車が全く平気で走っている。目の前で時々接触したりぶつかったりし

ているが、車が走れる状態であれば、問題なくエジプト人たちは互いに笑っている。楽天的

なんだー。しかし、車のマナーは、中国に負けないくらい悪い。

いつ大事故が起こっても不思議ではないと思っているときに大事故が目の前で起こった。

2車線の川沿いの道をわれわれのバスは爆走していたのであるが、突然車が混んで来て最

後に渋滞となった。この時点では事故が起こっているとは、だれも知らなかったのであるが、

そんなことに関係なく、エジプトのドライバーたちは、われ先にいかんとして道路の端から端

まで、反対側車線も含めて車で1カ所に向けて集中するのである。そして道路から外れたで

こぼこ道へも車は殺到する。渋滞の先頭では深刻な事故が起こっている。事故の向こう側

車線でも同じような事が起こっているのである。だからこの渋滞は永久に解決しない。われ

先に行こうとしてみんな何も考えていないのである。この人たちは渋滞の間中バスもわれわ

れを見ると明るく手を振ってくれるのである。全く屈託がない。40分以上を渋滞は動かない

わけであるがだれも文句を言わない。車と車の細い間をロバの馬車が悠然と追い越していく

。まさにここはエジプトである。


 渋滞が終わってからも、バスはカイロ市内を走りだした。日干しレンガのマンションがあちこ

ちに建設されているが、ものすごく細く今にも折れそうな鉄筋しか支えられていない。震度

3ぐらいで、このマンションは崩れるのではないかと思われる。エジプトでは地震がないので

ある。それなのに、マンションは上に向かって建て増しされている。ある3軒続いたこの建物

では、その真ん中の建物が、30度くらい傾いている。

それをを両側のビルディングが支えるような形になっている。建築基準法も何もあったもの

ではない。その寄りかかった、傾いているビルディングの様子が、こんなのが地球上にある

のかとたいへんおかしかった。

事故の渋滞に巻き込まれたせいでラムセス2世の博物館には立ちよれなかったが、代わり

にガイドハッサンさんが、大臣メリルカの墓へと案内してくれた。エジプトファラオの大臣と、呼

ばれる人は王が絶対的な神である。それを支える貴族の大臣は、神に仕える神官のトップ

である。テティ王の大臣、メレルカの墓処に入る。南面に入口が造られているのは、テティ王

のピラミッドが見渡せるように配慮されているためだとのこと。家族の妻と3人の息子の為に

三十数室がある。壁には生活の図が描かれていて、召使達が牛を解体しているレリーフもあ

った。後足はしばられている。広間には偽りの扉があり、(死者は鳥となって魂のみこの扉か

ら出入りする)、その前に彩色されたメレルカ大臣の等身大程の立像があった。とても立派

な人だったと思う。極彩色の絵文字が壁一面に描かれて、本当にきれいである。エジプト人

は自分の父親、先祖を自分よりも大切にする絵文字を見ていても、父親を尊敬するよな文字

が刻まれている。

大臣クラスの貴族であってもこのような遺跡として豪華な墓が残っている。いかにファラオと

呼ばれる王たちの崇高性がここにも窺い知れる。


この日の夜は、カイロ市内を流れるナイル川のナイル川クルーズバイキングが、夕食であっ

た。街のレストランの三つ分の大きさの船に乗ってバイキング形式で、食事をするのである

が、ここではベリーダンスのショーが催される。ベビーダンスは腰を激しく振るためにダイエッ

トとして、やっている人がいると聞く。効果は定かではない。

ダンサーは確かにすごい。胸もすごい。ある客がその胸は本物かと聞くとダンサーは、本物

だと、腰を振ってこたえた。なかなか勇気のある客である。さらに、回転男が現れた。回転男

は、じゅうたんのような、赤スカートのようなものを、ひたすら回している。回しながら客席を

回って客に冗談を言って回る。最後は自分自身をぐるぐる回し出した。まさにエキサイティン

グな町カイロである。しかしわれわれはほどよい疲れとアルコールの酔いが回って、眠りにつ

こうとしている。
 

翌朝、17日カイロからトルコイスタンブールへ向かう飛行機に乗った。

空港には イスタンブールガイドのキンちゃんが出迎えに来てくれた。キンちゃんはブルーモ

スク、アヤソフィア、青のモスクなどを次々に案内してくれた。イスタンブールはスリの多いと

ころで油断をしていると、全部財布ごと持っていかれる。エジプトよりもトルコは油断のならな

い町である。しかし、トルコ人は日本人に対して、すごいく敬愛の気持ちを持っている。その

ことは、私が4、5年前のW杯サッカーでわかったことであるが、日本対トルコの対戦があっ

たときトルコ人は自分の国を応援せずに、日本サッカーチームを応援していた。なんでやね

んと理由を探ったところ、明治時代にトルコの軍艦が紀伊半島沖で遭難したときに日本人の

地域の人に助けられ、亡くなった人は手厚く葬られた。という歴史に基づいているという。そ

のときの恩義を、トルコ人は今も忘れていない。

もの凄く、恩義に熱い人々なのである。このことは、いろいろなところで、われわれが買い物

をしていている場面で、その恩義がなんとなく感じられた。重要な観光施設でも、日本人であ

れば優先的に、トルコ警察が入らせてくれたり買い物では必要以上に値引きしてくれたよう

な気がする。(軍隊が自動小銃を持って警備する中である)

ガイドのキンちゃんがそうであった。たいへん親切であった。エジプトバザールでは、流ちょう

な名古屋弁を話すトルコ人もいた。まだまだ、人間は、捨てたもんじゃないと思った。

そしてキンちゃんはわれわれを地下宮殿に連れていった。地下宮殿というが、ここは一切王

様がいた宮殿ではない。江戸時代くらいの、地下の水の貯蔵施設である。しかしここにはこ

の地下宮殿を作るのにギリシャ時代の遺跡が惜しみなく使われている。ギリシャ神話に出て

くるメデューサといういうヘビの髪の毛を持つ女の怪物である。この怪物の目を見たらすべて

石にされてしまうという。恐ろしい怪物である。しかしここでは、この怪物のレリーフが、しき石

や柱にされている。トルコ人たちは他の民族の遺跡を何とも思っていない。乾燥帯であるこ

の国では水は貴重な物であるから貯水池の方が大切であったのであろう。

ここではおみやげとしてメデューサの涙が観光土産として売られている。メデューサが泣いて

いるのである。

夕方まで観光した後、われわれはアンカラエキスプレスの、発車するイスタンブール駅に向

かった。イスタンブールの町は、海峡を隔てて東洋と西洋に分かれている。ここがアジアとヨ

ーロッパの分岐点なのである。われわれはアジア側のイスタンブール駅に、向かった。駅の

建物を見てびっくりしたが、ここはオリエントが感じとれるターミナル駅である。又は出発旅立

ちの駅でもある。すぐ駅前には、海峡になっていて港が広がっている。アランドロンとミレイユ

・ダルクが密会していて、別れを告げるような場面の映画に出てきそうな風景である。「残念

だが君とここで別れなければいけない」「私は別れたくないの」「いや、いつまでも君のこと思

っているよ」そしてミレイユ・ダルクに別れを惜しみながら、列車を見送る。そしてアランドロン

も、船に乗っ去っていく。そんなフランス語の会話が似合う風景である。ヨーロッパ側のイス

タンブール駅はあの有名なオリエント急行の始発駅で終着駅なのだ。ここから、パリ行きの

列車が発車する。われわれは、東洋行きのアンカラエクスプレスに乗る。この東イスタンブー

ル駅に鯖サンドバーガーが売っていた。脂ののった鯖とレタス、トマトをはさんで塩とレモン

汁をふりかけただけなのだが、ものすごくおいしかった。これは日本へ帰ってからも使えるな

あと思った。アンカラにエクスプレスの車内は、快適であった。2人用の、コンバートメントに

洗面所がついている。また冷蔵庫もついていて中にはジュースとお菓子が用意されている。

快適な列車の旅である。スピードはあまり速くないが、夜行列車の醍醐味が味わえる。昼間

の疲れもあって、すぐに寝てしまうが、朝方、窓の外を見ると満天の星がきらめいていた。三

日月があってトルコの国旗と同じ風景である。その、夜空を見ながら流れ星が流れた。こん

なのは今まで見たことがない。


7時ごろに、アンカラ駅に到着した。ここからは、バスでカッパドキアへ向かう。途中に塩の湖

が現れた。この湖は琵琶湖の3倍ぐらいの大きさであるが、ほとんど干上がっている。干上が

った湖には、真っ白な塩が結晶をしている。すべて塩の湖なのである。1部水があるところが

あるが、ガイドのキンちゃんが言うには蜃気楼が現れるという。キンちゃんは、沖の方を指さ

し「ほらー2つの島が見えるでしょう。あれは蜃気楼です」といった。

確かに2つの島が見えた。意外に蜃気楼ははっきりとしていた。「あれは2つの島じゃないの

?」と私が言うとキンちゃんは、この湖には島がないといった。


そうこうしているうちにカッパドキアについた。見事なまでに不思議な、岩が至るところにあっ

た。今日はここ不思議な岩の洞くつのホテルに泊まることになった。カッパドキアは、古代に

おいてキリストがやってきてキリスト教の礼拝堂もあり、キリスト教徒も多く訪れる。空飛ぶ

円盤が時々見えるという信じられない地域である。このように言っている私がカッパドキアの

写真を撮っていると鳥のような円盤のようなものが写っていた。何が起こっても不思議では

ないような地域である。蛇足ながらついでに言っておくとカッパドキアのワインはとてもおいし

い。このカッパドキアでは食事も日本人の好みに合うと思われる。この旅行の中で1番食事

がおいしくいただけたところである。朝目覚めると洞窟ホテルの頭上に、気球が上がってい

た。この不思議な岩岩の空中からの観光も、しゃれたものである。

さてわれわれツアーの一行は、トルコ政府が、力を入れて保護しているというトルコ絨毯を売

っている工場というか、お店に案内された。どれもこれも、高級絨毯であって空を飛ぶ魔法の

絨毯のようである。実際にお店の人がじゅうたんを放り投げて飛ばせていた。高級絨毯は空

を飛ぶ。ひときわ目を引いた高級絨毯がヘレケ製の絨毯である。お店の人の説明によると絨

毯の目が他の絨毯よりも倍以上詰まっており、トルコの王族たちが愛用しているという。夏と

冬でリバーシブルに使うという。値段の方も王様級である。まさにこの絨毯は魔法の絨毯で

ある。


 さらにわれわれは、トルコ石の大規模な販売店に行った。トルコ石の販売店では、販売員

の方がファッションモデルの本から抜け出してきたような美しくステキな販売員のアイラさん

に案内されてトルコ石を見学した。

やがてカッパドキアを後にしてカイセリ空港からイスタンブールまで飛行機で向かった。

イスタンブールの町は、東洋と、西洋が海峡を挟んで向かい合っている。文化も東洋と西洋

が混じり合っている。われわれは一昨日東洋のイスタンブール駅からアンカラエキスプレスに

乗ってトルコの首都アンカラに入っていったが、今度はヨーロッパ側西洋の、イスタンブール

にいった。ボスポラス海峡、金角湾とマルマラ海の出会うところに、15世紀から19世紀にか

けてオスマン帝国の中心であった トプカプ宮殿 がある。トプカプ宮殿は様々な建物が迷路

のようにつながっていて、豪奢を極めた宮殿で、かつてそこでスルタンと家来たちが生活し

ていた。この町は美しく「飛んでイスタンブール」の歌にも出てくるように日本人いや世界の

人々に、愛された町である。 われわれはボスポラス海峡の、クルージングをしながら東洋と

西洋の交易都市の豊かさを目の当たりにした。ここには、ハーレムがある。


ハーレムとは、多くの美女を集めた王様の別荘宮殿である。東洋と西洋の混血の人々がこ

の町には住んでいる。人々の容姿は美しく美男美女が多い。王様スルタンは美女ばかり集

めたのである。王様の気分は分からなくもない。東洋と西洋の接点であるこの街にはいろい

ろな、バザールが存在する。アラビアの商人たちはここで商売をしていたのである。今でも商

都として栄えている。私たちはエジプシャンバザールへ出かけた。

バザールではいろんなものが多く売られている。極めつけが、蛭売りである。蛭に、悪い血を

吸ってもらって美容と健康を保とうとするのであるが、実際に買おうとする人は、私の目の前

ではいなかった。私の血は全部悪い血であるので蛭に、体中の血を全部吸われてしまうよう

な気がする。ミイラになってしまいそうである。ミイラになる前に健康になれるんだろうか。イ

スタンブールのヨーロッパ駅に戻ってきて、食事となった。駅の建物がオリエントエクスプレス

の博物館になっている。ヨーロッパの人々にとって、オリエントエキスプレスは東洋へのあこ

がれであったように思われる。コロンブス以前の人々にとって東洋との交易が東洋の香辛料

を求める貿易であったことはたしかである。その代表がオリエントエキスプレスに象徴される

。オリエントエクスプレスの終着駅のレストランで私たちはドネルケバフ(トルコの肉料理)、

キョフテ(トルコ風ミートボール)を食べた。

おなかの調子が良くない時点で食べたので、絶対的な評価はできないが、この旅行におい

ては美味しかった様に思える。

トルコイスタンブールは本当に、魅惑的な国である。

私たちは最終日を、空路エジプトで過ごすことになった。トルコからエジプトへ向かう入国手

続きは比較的簡単であった。逆に、エジプトからトルコへ向かう入国手続きは、大変厳しかっ

たように思っている。そのことは、エジプトの雇用情勢がかなり悪いということであると思う。

日本人観光客は、ほぼ、フリーパスで税関を通り抜けられる。しかしエジプト人は面構えが映

画「ホームアローン」に出てくる、悪い連中によく似た憎めない小悪党のような雰囲気の男た

ちが、税関において足踏みを食らっていた。


私たち一行はエジプト考古学博物館に向かった。

この博物館は展示物がものすごい物ばかりの博物館であった。ツタンカーメンの黄金マスク

が展示してある。

館内はもちろん写真などの撮影禁止場所であった。

私が最も驚いたのは、ツタンカーメン王の内臓を入れた壺であった。いまだに四千六百年

前の、ツタンカーメン王の血が付いている。その壺の中に、内臓が、入っていたという。

それから彼が座った椅子が展示してあった。豪華絢爛である。どの調度品も何10億円も価

値がありそうな物ばかりである。誠に見事である。

最後に私はファラオの眠るミイラ室に足を運んだ。そこには私が最も会いたかったラムセス

2世のミイラがあった。このファラオはエジプト史上で最も偉大なファラオと呼ばれている。18

5センチ意外と長身であった。そして長生きであった。エジプト人もこの、ラムセス2世を尊敬

している人は数多い。この旅行で一番楽しみであったのはこの偉大なファラオに会えること

であった。本当にとてもうれしかった。30分くらい無言で話をしていたような気がする。


エジプト最後の日、昼食をナイル川のほとりのレストランですることになった。

メインデッシュが出てきたがメニューでは川魚ということになっている。ガイドのハッサンは「

ウナギかもしれないと」笑っていたが、私はごまかされない。実は琵琶湖博物館で食べたこと

がある。この川魚はナマズ料理であろう。琵琶湖で食べたナマズの何倍も大きなナマズが

想像できた。どこまでもエジプトは奥深い、エキサイティングであるそんなことを感じた旅行で

あった。




                        終了