|
石原登先生の思い出 ― 残された言葉 ― より抜粋
(前略)
23 きぬ川の寮舎制の意義
生き物の中にはライオンのように個々が強くて闘争的なものと、蟻や蜂のように個々は弱いが協調的で集団となって強いのとがある。(この他に別種の強さがあるがここでは述べない。)
人間は元来集団型すなわち社会的動物なので、仲間を愛して喜びを感ずる愛他本能がある。これが情性の根源だ。だから情性の発達は母子関係から発足する。子は母を含めて「われら」と感ずる。つまり自我の第一次拡大だ。次に家族を「われら」と感ずるようになる。これが第二次拡大だ。それから次第にわが友人、わがクラス、わが学校、わが郷里、わが国というように自我が拡大して情性もそれらを包含するように発達し、遂に人類愛から、生物愛まで発展するらしい。もっともここまでゆけば神様の境地だがね。
教護児童は、母子愛、家族愛が不十分で、情性の発達が第二次段階までも発達していないようなものが多いようだ。そこで情性の発達を図らなければならないことになるが、この年齢では、もはや母子関係を再現する必要もないし、またできないので、寮舎という家族に似た集団形態をつくり、第二次段階のピラミッド形集団意識を感じさせると、その中で必然的に情性が発育する。
社会道徳は、集団意識の産物といってよいので、集団意識のない人間に道徳を教えこもうとしても不可能といってよい。(動物を仕込むように、ムチと餌の条件反射で習慣づけることはできるが。)オリンピックで道路がキレイになったのは、日本人意識が強められたことが前提だった。対外戦争で国内が協力一致するのもそのせいである。児童の非行抑制は、職員の監督よりも、よき集団意識の方が強力有効である。だから寮舎の集団意識を強くするために、人的物的環境や運営を整備する。すなわち
1 寮長という集団の情緒的中心をおき、できるだけその交替を避ける。
2 各寮舎の建物をできるだけ遠く引き離し、われらの庭、われらの家を美しく、住みよくする。―集団意識の物理的助長といってよい。
3 寮舎単位の行動を多くする。等。
ただ、対寮試合等、争いの形で集団意識を強化しようとすることの度が過ぎると、その集団意識は急に固くなるけれども、動物の本性は争いであるから、その本性が強く目ざめて、きばが大きくなり、情性の発育はその段階で止まってしまったり、かえって無情性に逆戻りしたりする危険がある。だから寮別行動も、排他的ではなく情緒活動の競争すなわち、「美しい」「仲の良い」等の競争に主眼をおく。
きぬ川の教護方法はこの寮舎制を出発点として、集団意識の強化拡大を企図するところにあるから、ここのケースワークは、集団脱落者を集団に入れる努力(むろん精神的に)が主であって、個々の職員が、個々の児童を治療教育する等のことに力を注いではいない。
この第二次集団意識が強化され、これに応じて情性が発育すれば、他集団への接触等によって自我が拡大し、学院意識から、日本人意識等の大きな社会意識に発展し、自由行動のワクが拡がっても過ちがないまでに至るであろうと信じている。
キリストのことば「なんじら人を愛せず、いかでか神を愛せんや」を、「なんじら寮を愛せず、いかで社会を愛せんや」と転用したわけである。 (40・4)
(中略)
25 カバ雑言
@ 私は先生ではありません。
教護誌の一隅を汚して、これから私が述べる雑言は、三十年間の教護院生活の中で、児童や生徒から自然に教えられた事柄です。他の思想の伝達でもなく、論理―集団意識の的推論でもありません。だから憶説と受け取って下さってもけっこうです。反論、質問等は歓迎いたします。
A 教護とは
教護院という施設内の教護は、一過性不安定感の治療よりも、むしろ情性(情動)の養育が本体だと考えております。技術篇中の成長法の立場です。
B 夫婦制
教護院に奉職して間もない頃、私は夫婦制の勤務が理解できず、生意気にもある教護院へいって、「夫婦制のようなバカバカしい勤務はおやめなさい」と忠告したことがありました。今思い出すだけで穴へもはいりたい恥ずかしさです。現在私が夫婦制を支持している理由は次の通りです。
一、従来の実績からみて、いろんな面で一番問題が少ないこと。
二、情性の発育のためには、少なくとも家族的集団生活と、仲間との集団生活を経験する必要があるように思われますが、夫婦制寮舎は、この二つの集団生活をミックスして同時に経験させることができるからです。
C 外出防止
教護院の対社会的問題点は、何といっても外出だと思います。外出防止のためには
一、監督等によって外から外出を防止するか
二、児童自身の心に外出の意図が起こらないようにするか
どちらかだと思います。前者の方式を重んずるならば、監督者という人間の目だけに頼らず、少年院のようにかぎ塀など物理的条件の助けを考えたらどうでしょう。
後者の方式をとるならば、児童の集団意識の向上とか、心の接触の楽しみというような、原始的人間関係によらなければならないので、いわゆる勤務の合理化―近代的労働と賃金の関係の活動範囲内だけでの教護では、不可能と思います。
D 教護院生活の中の楽しさ
近代的職業生活の中に、楽しさを考えるなんてことはおよそナンセンスだという人もありますが、やはり職業によりけりで育児や恋愛には、むかしながらに本能的な楽しさ、苦しさを感じる人が多いとすれば、同じような原始的人間関係を主軸とする教護の世界に、これに近い楽しさや苦しさを見い出しても、夢の話だとはいえないでしょう。(教える、指導する、治療する形式の教護院は別ですが)児童と職員の共同生活である以上、職員が学院生活を楽しんでいるようなときには、児童も学院生活を楽しんでいるし職員が学院勤務を苦しいものとしている場合には児童の顔にも、苦しそうな、あるいはつまらなそうな表情が見られるようです。
E 私の考える教護院は
「いかに児童を教育指導するか」よりも「児童、職員、家族がいかに生活するか」に重点をおきます。
F 積み上げ
個々の職員が教護するという形でなく、施設が教護するという形をとる場合には、教護院内のすべての人的、物的要素の結集が必要です。この結集は、空間的ばかりでなく時間的にもいえることなので、この場合の教護技術は、化学の実験のように、こうすれば直ちにこうなるというようなものでなく、長い間の積み上げがなければ大きな力にはなり得ないようです。たとえば、外出防止にしても、監視等によらないで、その中のふん囲気がその役目を果たすようになるまでには、ふん囲気醸成の長い積み上げが必要です。「ローマは一日にしてならず」はここにもいえるようです。
G 程度
勇ましい言論には、程度の問題が無視されている場合が多いようです。程度には妥協点がありますが、観念には妥協点がありませんから、程度の問題を無視した観念的論戦は、しばしば長い争いにまで発展することがあります。絶対の白とか、黒とかいうものは、点や線と同様、観念の世界だけに存在するものです。実際社会においては、この程度の白なら白として通用する。この程度の盗みなら、盗みとはいえないというような常識的許容線というようなものがあります。私が今後無外等を論ずる場合にも、この許容線を越えた無外等を指しているものと考えて下さい。
H 念のため
七月発行の中部教護時報に、深田さんが、「大舎制のこころみ」について書いておられますが、外国でも日本でも教護院(もちろん少年院も)は大舎制から始まっており、(大舎とはいえない小さな寄宿舎もありますが)昭和三年頃の「児童保護」にのせている表によれば、その頃でも、一部または制度として大舎制をとっていた感化院が十三あります。武蔵野学院も大正八年から昭和八年まで三十名定員の寄宿舎がありました。武蔵野が夫婦制に踏みきったのは昭和十九年四月からです。戦後に大舎制の実験をされたのは、波田学院と北海道の家庭学校です。実験はいくらくり返してもよいと思いますが、前と全く同じ古い試みでなく、新しい試みであることを望みます。それから「夫婦制」の研究が開かれるそうですが、「夫婦制」と一口にいっても、その考え方や運営は、まちまちで、発生時代の疑似家庭のような原始的夫婦制から、夫婦二人が偶然一寮舎勤務の職員であるというような併立制に近いものまで、多種多様です。そんなことは充分ご承知の上のことと思いますが、これらの内容の分析を始めにやっていただきたいと思います。
I ある確率(教護院運営の実験について)
人文科学は要素が複雑なので、物質科学の実験のように、簡単に不変の公式を見い出すことは不可能に近い。しかも教護院運営の実験は、五年くらいたってみないと、結果があらわれないことが多いので、軽々にある実験の是非を論ずることは無謀といってよいのですが、六十年間の資料からみて、次のようなことには半ば以上の確率があると思います。
(一)小舎制の場合、小舎と小舎がくっついているときは職員も児童も落ち着きがなくなるようです。四方に海をめぐらしている日本に国境紛争が少ないのは、これの反対の理由でしょうね。
(二)派遣教員、分教場方式等は、職員間に陰にこもった不満や争いを起こすことが多いようです。教護院は児童と職員の大部分が院内居住という条件にありますので、身分や仕事、勤務時間等が多様化、複雑化するほど、問題が起こりやすいようです。
(三)一教護院の職員数は、二〇〜四〇というところが一番まとまりがいいようです。それより少ないと、勢いとか、力とか、景気というようなものが弱いし、それより多いときは、派閥ができやすいようです。
(四)併立制は寮長と寮母が仲がよすぎて失敗したり、仲がわるくて失敗したり、問題が起こりやすいものです。
(五)教護院内に派閥ができると、職員はさい疑深くなるようです。
(六)管理する立場にあるもの、例えば職員が被管理者即ち、児童に対して、こびるとか機嫌をとるとかいうようなことをすると、そのときはいいようでも、後で収拾がつかなくなるものです。
(七)大舎制にして交代で監督するというような形をとると、ボスが職員よりも権力を振るうようになります。
(八)院内にある児童の非行防止、たとえば外出防止に対し、寮内全員に責任を持たせるというような形をとるとリンチが発生します。
(九)院長が児童の直訴をたびたび取り上げると、院長、職員、児童と三派分立し、職員が一番苦しみます。
(十)娯楽等によって児童を引きつけようとしても、効果のあるのは短期間で、児童はすぐに飽いて効かなくなります。
J 教護という仕事は、人間の生命と取り組む仕事だと思います。人間の生命の躍動を感ず―これが教護だと思います。それは人間と人間との心の琴線が触れあったときに発する音のような現象で、教えるとか指導するとかいうようなことは、粘土細工に色をつけるようなものであって、末端というか、最後の仕上げのような仕事であるような気がします。
K 率先垂範ということがいわれます。まことに貴重なことです。だが模範を示すことができなければ教護はできないかというと、そうとも限らないようです。模範が絶対に必要であれば、男は女を、女は男を教護することは不可能ということになります。作物を育てる秘けつは、その作物の声をきき、その欲するものを与えることだといわれておりますが、子どもの心の中に入りこんで、子どもの心が叫んでいるものを感じとり、これに対してできるだけの努力をしていると、これが子どもの心の琴線にふれ、子どもの琴線がまたわれわれの琴線にふれる、これが教護だと思います。前節の説明をしたつもりです。
L (略)
M いつか警視庁のある課長が、「アメリカのように科学捜査の最高権威でも、科学の役立っている部分は、一割ぐらいで、九割までは刑事の技術ですよ」といわれたことがあります。過日国鉄の職員が本院に来られたとき、「ただ軌道の上を走らせればよいと考えられている列車の運転手が、一人前といわれるまでには、十年はかかりますよ」といっておられました。人間の生命と取り組む教護という仕事も、「やり方を覚えたらできる」というような性質のものでなく、何年やっても技術の進歩は限りないようです。だから腰を据えて探究する人は、一生をかけても飽きることはないでしょう。生きがいのある仕事だとは思いませんか。
N 院長会議のときいえなかったこと。なぜその場でいわなかったかというおしかりを覚悟の上で。
(一)分教場、派遣教員問題
どちらも不賛成です。はじめの間はよいようでも、問題が発生する可能性が多いと思います。今実験しておられる各院は、もし問題が発生したら発表して下さい。かつて三十年頃の院長会で、波田の土谷先生と、北海道の留岡先生が期せずして同時に、寄宿舎形態の失敗を発表して下さった事実が、教護事業の進歩に貢献している実績は大きいです。
(二)枠外学習指導員設置も反対です。
教護は、教育保護の意味で、職名の教護はいわゆる学習指導も行い得る資格の意味で、学習指導だけしかできない人では、現方式をとっている限り教護院の職員としては半分の資格だと思います。
(三)職員増の問題。
少なすぎるのが困るのは当然ですが、多すぎても問題発生の可能性が多いと考えます。
(四)教護院外の圧力団体の利用。
効果よりも代償の方がはるかに高いことを覚悟しなければならないと思います。特に公共団体の施設が、監督官庁を無視して暴走することは、院長を無視して部下職員が部外者と共闘するのと同じで、撃滅できなければ、自己の死滅です。
(40・8―41・5)
26 学習問題私見
十月十八日朝のNHKテレビ・スタジオ一〇二で国立教育研究所長さんが、世界に類例のない現在の日本の教育様相が、先月の国際大学長会議に出席された諸外国の教育者たちを驚かせた話をしておられましたが、今、日本の学校教育は進学という絶対目標のために、ほとんどの中学、高校の全機能が動員され、全く予備校化し、その上に更に本来の予備校があり、予備校に入学するのにも入学試験があるというようなわけで、親も子も、先生も大学の校門以外は一切目に入らないという有様です。
所長さんの話にもありましたが、最後のゴールが大学入学であるため、その目的を達した途端にボーッとして気が抜けたようになり、その後の勉学など何もできないというような学生も少なくないとか、その他この入学ラッシュから派生する異常様相は数限りなく、「毎日新聞」には「教育の森」と題して百回以上にわたり、現在の学校教育に鋭いメスが加えられております。このゆがんだ教育の姿を嘆いているのは、教育評論家やマスコミだけではありません。心ある国民の全部といってよいと思います。
私はこの四年間に栃木県内でざっと三百の学校をまわりましたが、先生方の多くが、わかっていながらどうともすることのできないこの現状に苦しんでおられることを知りました。少年たちは就学した瞬間から十数年受験準備の鎖につながれ、目の両側に目隠しをつけられた馬車馬のようにただ大学の校門だけを見つめ、家業を手伝うでもなく、自然に親しむでもなく、個性もなければ友人もない一個のロボットです。生き生きとした少年達をこんな状態に追い込まなければならない先生たちが、苦しまれるのは当然でしょう。
学習は生物界で人類のみが知っている大きな喜びで、食性の本能に比べて勝るとも劣らない人間的欲求です。
ところが現在のような学校教育でそういう学習の喜びを感得することができるでしょうか。現状では学習とは入試のための道具であって、知りあるいは考える喜びではありません。
例えば食べることは生物の楽しみですが、もし食欲を無視して人間に養分を強制注入しこれを数年間続けたら、食物嫌いになることは間違いありません、これと同じです。
このゆがんだ学習形態が劣等感を醸成し、集団性(情性)の発育を阻害し青少年を非行にかりたてているのです。
私は現在の学校教育のあり方が、この空前の非行少年ブームの大きなえん源の一つであるといっても過言ではないと信じております。
さて教護院の先生方は、この異常な教育の様相をどう考えておられますか。近頃教護界の学習問題ブームを見ていますと、何か教護院が、この異常な教育様相に追随しなければ時代遅れだと、一生懸命この学校様式を追いかけておられるように感ぜられるのは私の誤認でしょうか。
教護児童たちが、こんな教育方法で幸福になれるとお考えになっておられるのでしょうか。教護児童の中には普通知能であっても、教科嫌いの児童や、学習劣等感のものが多いことはご承知の通りですが、その責任の大分部は、今の学習形態にあるとはいえないでしょうか。
だとすれば、「こんな児童に誰がした?」です。教護院までがなぜこんな形式をまねなければならないのですか。
これで教護院児童に学習の喜びを覚えさせることができると思っておられるのでしょうか。教護院には精薄に近い児童も多いのですが、精薄児は精薄児なりに、優秀児は優秀児なりに学習の喜びを感得させる、これがほんとの学習ではありませんか。特に教護児童たちの大部分は進学はしないのです。それらの児童に「学習とは苦痛なり」という観念だけを植え付けて社会に出したのでは、学習の楽しさを知らないままで一生を終えるでしょう。これでいいでしょうか。ついでですが、受験準備が絶対に必要だと考えている進学児童でも、教護院で個別指導が徹底すれば、強制注入の必要はないと考えております。
法四十八条を改正しろというような声を聞きます。何の必要があってこの法を改正しなければならないのでしょうか。法的にガッチリ規定してもらって、自縄自縛となり、教育委員会の監督下におかれ、学校同様の形式をとらなければならなくなってもかまわないのですか。私は四十八条は希に見るすばらしい名法文だと考えております。教育基本法に準拠する限り、教護院の教育活動に大きな自由を認め、しかも学校長と同価値の証明書を出し得るというのですから、われわれにとってこんな都合のいい法律はないではありませんか。この法律が改正されなければ学習指導が充分にやれないと考えられるような教護院は、養護施設に転向されたらどうでしょうか。分校場か派遣教員によって、学習指導はその道の専門職に任せ、施設職員は、生活指導だけを担当するという形式にすれば、理想的な生教分離ではありませんか。そういう形式を採るのが養護施設の使命ですから。
私は教護院には教護院でなければできない使命と方法があると思います。その特性に徹しないで、学校式教科指導だけが教護の中心使命であるような感じを与える教護院ならば社会的に存在価値が無いのではありませんか。法を改正して学校教育に追いつけなんというのは、自ら教護院の価値を見くびったもので、あまりにみじめだと思いませんか。「準ずる」も学校以下に準ずるのでなくて、学校以上に準ずると考えられませんか。もちろん謙虚な態度で少なくとも学習に関する限り、専門職たる学校や教職員に多々学ばなければならないのは当然ですが。毒舌をお許し下さい。
(40・12)
|