第30回被爆二世の会学習会 被爆体験を聞こう (後編)
 弟が帰ってこない
 私は午後1時頃家へ帰りました。私の家の周辺は屋根がガチャガチャッと壊れておりましたけど私の家はそれほど何ともなっていなかった。私が門から入ったときには全く見知らぬ人達が庭に何家族か来ておりました。家に入ると廊下のガラスが全部飛んでおり、2階のあるところは天井があったけど、無いところは天井が皆無かった。家の中にも2、3家族被災者がおった。私が帰ったときには薬は被災者に分けていたので何もありませんでした。
 一番涼しいのは台所でしたのでそこにおったら母親が、私の弟はミツトシと言う名前ですが「みっちゃんがまだ帰らんのよ」と言う。「ああ、そうか。」と思った。さて弟はどこに行っとるんかと思ったけど分からん。それから3時頃だったでしょうか。「お母さーん」と言う声が玄関でしたと思ったら、バタッと倒れた音がした。弟が帰ってきたと母親と一緒に玄関へ行った。私は弟を見て呆然としたんですが母親と言うのは子どもに対する愛情というのは激しいですね。「何をぼやぼやしとるか」と母親に言われて私は足の方を母親は頭の方を持って一番涼しい台所の板の間に寝かせた。
 そしたら「痛いよぅ。痛いよぅ」て言うんじゃあね。あの声は凄かった。みりゃー皮が剥げて真っ白になっとる。赤くなって毛穴が点々とぶつぶつがいっぱいできとる。顔も皮が剥げとる。「痛いよ。痛いよ。死にとうない。死にとうない」と言う。「痛いよ」だけなら我慢できる。自分が死ぬると思うたんか「死にとうない。死にとうない」って言うんですよ。薬はない。今はクーラーや扇風機があるでしょう。今から57年前は扇風機のある家はほとんどない。当時はウチワです。私は一生懸命扇ぐ以外何もすることができない。母親は新聞紙を顔に付けたりしてベチャベチャを吸い取る。弟は「痛いよ。痛いよ。死にとうない。死にとうない」と言う。そうしよったら庭におる人達が「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」と言う。部屋からは「何々ちゃん。何々ちゃん」って言う。死によるんでしょうね。その夜私は家の中で寝れんかった。外に出ると満天の星空やった。今思えばばからしい。戦争と言うのはね。

 人骨を砕いて薬に
 翌日もギンギラギンの天気やった。家の近くの小学校に兵隊さんが何人かおった。すぐ薬をもらいに行った。そうしたら、どんどんどんどん死体が運ばれてきた。グランドに2m位の穴をいっぱい掘って、市内の建物疎開で集めた板をその穴に敷いて、死体を並べ焼いた。それがまた臭いんじゃあね。それは想像もつかない臭い。病気で死んだんじゃないから骨も真っ白。骨は校舎の麓に堆くつんどった。
 私は時々そこへ行って薬をぬってもらう。弟は動けないから「薬をくれ」と言ったがくれん。弟は全く薬を塗ってもらえんかった。私は赤チンと言いよったと思うが塗ったら染みるんじゃーね。薬じゃけ治るんじゃろうと思って塗って貰った。
 そうするうちに、「人の骨を金槌で砕いて粉にしてベチャベチャに脂ぎってる皮膚につけると乾燥する。従って人骨を粉にして焼けたあとに塗れ」と誰とはなしに言ったので私はそこに行っては他の人と一緒に骨を砕いて家に持って帰った。家に持って帰って弟にずーっと塗ってやった。
 家におった他の人は二,三日で皆よそに行きました。最後までうちの家におらしてくれっていった人は一ヶ月ぐらいおった。
 8月15日が敗戦と言うか終戦です。流言飛語と言うか今度はロシアがやってくると噂があった。弟をそのままにしてはおけないと言うことで大八車に乗せて20kmとはいわん先の母親の里へ連れて行った。そこで医者に診せた。下痢がすごかったから。毎日水のような下痢でしたから。「これは赤痢じゃ」っと医者は言った。連れてってから一週間位で死にました。被爆後、三週間か四週間後に死にました。

 人権は守られない
 とにかく戦時中は想像も付かないほど上意下達と言うかもう一学年でも一階級でも上、いわんや先生、上官の命令は不合理だなと思っても絶対指摘するわけにはいかない。上の命令は必ず服従しなければならないのが戦時体制です。
 したがって話はそれますけどね。人権擁護保護法案とか有事法制関連法案と色々言ってますが、今でこそ問題点が色々指摘されておりますけども、今はよかろうとおもうようなことでもですね、いざその段階になり武力攻撃に実際遭遇するようなことになりますと戦前と同じように人権と言うのはそりゃあ擁護される所ではなかろうと思います。
 時間を過ごしたと思いますのでこれで終わります。
 
私たちの役割
 被爆体験を聞いた後、参加者で感想を述べました。
 県立大学ユネスコクラブは去年の暮れ辺りから、豊北町の被爆者の手伝いで、被爆者の「語り」を聞き記録に残す活動を行っており、その時の感想として「聞き取り調査をする中で、被爆体験は一人ひとりあるんだという当たり前のことを改めて感じた。中には体験を話す途中で話せなくなってしまう方もあり、このまま聞いてもいいのか悩んでしまいました。」「私が聞き取りを行った被爆者の方々は原発反対でした。放射能の恐ろしさを知っているからだと思う」とそれぞれ述べられました。
 ある労働者は「被爆体験は以前も聞いたことがあるけど骨を砕いて塗ったというのは初めて知った」と驚かれていました。また別の労働者は「『原爆で何万人死んだ。』と、よく表現されるけど、その何万人の人全てに一人ひとりの体験がある。簡単に一括りにしてはいけないと思った」と、述べられました。

 Tさん身振り手振りを交え、時には立ち上がって話して下さりました。私たちは今、被爆者の話を直接聞くことができます。
 私たちの役目は被爆者の話を戦争の愚かさを後世に伝え、戦争のない平和な世界を創ることではないでしょうか?


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