長 岡 京 市 「 心 の 教 育 」 推 進 大 会 

命の重さ」

 私の息子は1年8カ月前、16才の時、同じ16才の見知らぬ少年に因縁をつけられ、何度も謝っているにもかかわらず、追いかけられ、顔面2発、蹴り1発の一方的な暴行で殺されました。
 私は、自分の息子が、まさかこんな事で親より先に死んでしまうなど、思ってもみませんでした。それまで私は、多くなっている少年犯罪のニュースを見ても、かわいそうだなあとか、大変だなあとか、人ごととしてしか考えていなかったのです。でも、そんな私に事件が振りかかってきました。
 みなさんも「まさか」と思っているでしょうが、今はこんな事がどこで起こるかわからないんです。どこでも起こる可能性がある事なんです。決して人ごとではないということを、真剣に考えてほしいと思うのです。
 私の息子も、みなさんと同じように、楽しく学校生活を送っていました。そして私の息子は、決して死にたくなかったのです。事件当日には、初めてできたガールフレンドと約束があったし、10月の誕生日で待ちに待った16才になったので、次の日はバイクの免許を取りに行く予定でした。Xジャパンのヒデが大好きで、ポスター発売の時は予約をし、うれしそうに買いに行っていました。自分のお年玉でやっとエレキベースも買い、少し弾けるようになっていました。それを私はそっと見ていて、「なかなかいいものだなあ」と、うれしく、また楽しみに思ったものでした。夢も希望もたくさんありました。事件直前まで、みんなと同じように元気に毎日を送っていたのです。

 話すのはとても苦しいのですが、私たちの事件の日のことを少し聞いてください。事件は、平成8年11月3日の文化の日に起きました。その日は、高校1年生だった息子の高校の文化祭でした。いつも朝寝坊の息子が、6時半にセットしていたXの音楽で自分で起き、あわただしく着替えをし、朝ごはんも食べず、「行ってくる」と2階の部屋をのぞきこんで声をかけて行ったのでした。
 それまで、子供たちの行事には必ず参加していた私たちでしたから、主人は文化祭に行こうと思って準備をしていました。私は、親が来るのを恥ずかしがる年頃だったのと、高校生になり、ホッとしていたのとで、「少し距離をおいてみようよ」と言い、文化祭は見に行かなかったのです。
 私たちは、下2人の子供と4人で買い物へ行き、主人は息子のためにMDのコンポを買いました。息子を驚かせるため、家に帰って、そのコンポの線をつないでいる3時半ごろの事でした。いつも仲良くしている同級生から電話があったのです。「自転車でこけて、鼻血を出している。そして言っていることがおかしいので迎えに来てほしい」と言うのです。私たちはあわてて家を出ました。
 少しぐらいの事では電話してこないと思ったのと、息子は軽症ではあったけど、血がかたまりにくい血友病という病気をもっていたこともありました。車で10分くらいで現場近くの友人宅に迎えに行くと、息子はボーッとしてフラフラしていましたが、自分で歩き、私が手を貸そうとしても、「大丈夫や」と自分で車に乗るほどでした。
 でも、「頭が痛い。気分が悪い」と言うので、とても不安で、とにかく、いつものかかりつけの病院へ急ぎました。病院に着くと、息子は車も自分で降り、私が「名前は? 生年月日は?」と聞いても、ちゃんと答えたのです。ところが、診察室に入ってから状態が悪くなり、CTスキャンをとるころには、もう話などできない状態でした。診察室に入った時、「今日、約束あるから行くで」と言うので、私が「何言ってんの」といつもの調子で交わしたのが、最後の言葉になってしまいました。それは、さっきお話したガールフレンドとの約束の事です。

<病院での話>
 苦しそうにあばれる息子の体を主人がおさえ、やっとの事でCTをとりました。集中治療室に移されましたが、脳内の出血は、まだそれほどひどくないと言われ、今日は様子を見ましょうという事になりました。不安で不安でたまりませんでしたが、2人の子供が家で待っていたので、その夜は帰ることにしました。
 家に帰っても眠れないので、うつらうつらしていると、午前2時ごろ、電話がありました。いい知らせなわけがありません。主人が電話に出ると、「呼吸が止まったので手術をしなければなりません。すぐ来て下さい」との事でした。私と主人は、急いで病院へ向かいました。明け方から手術がはじまり、医師からは「成功はしました」と告げられたものの、息子の様子は変わり果てていました。頭には包帯、たくさんの管や機械をつけられ、人工呼吸器もつけられていました。心臓だけが動いていて、さわっても、ピクリとも反応をしなくなっていたのです。
 ほとんど脳死に近い状態でした。ほんのさっきまで元気だった息子のあまりの変わりように、私は、何が何かわからなくなり、ただぼう然としていたように思います。
 私は、息子が仲の良かった中学時代の友達、そのお母さんたちに電話をし、「息子の容態が悪いので祈って」とお願いしました。みんなで祈れば、きっとそれがエネルギーとなって届くと信じていたからです。
 そして、振り替え休日だった担任の先生にも連絡を取りました。旅行中だった先生が、旅行先から飛んできてくれました。その先生が、当日、一緒にいた友達に連絡してくれたのでした。事件の2日後、初めて息子の容態を聞いて、あまりの悪さにびっくりした高校の友達が、十数人で病院へ来ました。するとその友達は、「すみませんでした。自転車でこけたというのは嘘でした。本当は、他校の生徒になぐれらたのです」とすまなそうに言うのです。私は、主人と一緒に事情を聞きました。「なぜ、なぜ、嘘をついたの?」と子供たちに聞くと、「仕返しが怖かったから」と小さい声で答えました。泣いている子もいました。でも、早く本当のことを言っていてくれれば、何かが変わっていたかもしれない、と悔しく、怒りもこみあげました。でも、それ以上、子供たちを責める事はしませんでした。相手がプロレスラーみたいに大きく、年上だと思ったし、とても怖かったという事でした。事件とわかり、訳がわからない状態の中で、何もできない私は、息子の命が助かる事だけ祈るしかなかったのです。
 主人は、そんな中、私に負担をかけないように、警察との対応をすべてしてくれていました。病院の先生の話は、いつも最悪な事しかなく、とても残酷で、まっ暗なトンネルの中を、遠くにある小さな光に向かって歩いているような毎日でした。
 ガールフレンドとの約束をとても気にしていたので、家族しか入れない集中治療室に、彼女も入れるように看護婦さんにお願いしました。その彼女と主人と、毎日、息子の体をなでながら、呼びかけ続けました。彼女は、何の反応もないばかりか、少しずつ変わっていく息子の容貌にもいやがらず、いつも変わらず、「大丈夫。がんばろうね」と息子に声かけてくれました。時には、器械の音や数字の変化にビクビクしている私にも、「大丈夫」と励ましてくれました。今も私は、彼女に一生かかってもお返しできないほど大きな恩を感じています。息子が最後にそんな彼女と心を一つにして生きる事ができた事が、親として唯一のなぐさめです。
 入院して12日後の11月15日、昼ごろから、息子は危篤状態になりました。主人はたまらなくなり、「早く捕まえてくれ」と警察に電話しました。加害少年を捕まえるのは、2、3日先と聞いていたからです。夕方になって、少年の身柄が拘束されたことを警察から知らされました。それを待っていたかのように、その夜11時43分、息子は意識を取りもどさないまま、言いたい事も言えず、息を引きとりました。死因は、左後頭部の内出血でした。どうにか息子の命を引き戻そうと大声で叫び続けましたが、届きませんでした。
 私が息子にすがりつき、なでていると、「さわらないで下さい」と看護婦さんに言われました。「なぜ?」と聞くと、司法解剖をするので、との事でした。まだぬくもりが残っている息子をさわって、遺体のぬくもりを感じていたいと思っても、してはいけないのです。私の涙は止まりませんでした。
 そんな時、警察の人が病院に来ました。混乱状態にある主人に、警察の人がこう言ったそうです。「日本は法治国家であり、個人の恨みをはらすとか、仇討ちをする事は許されない。そして、少年法という法律がある。加害少年にも人権があり、立ち直る可能性と将来がある」と。この言葉の中に、殺された息子の事は、まったく入っていませんでした。これが、たった今、大事な息子を亡くし、狂わんばかりの親に最初に言う言葉でしょうか。命も人権も将来も、息子に今さっきまであったのに……。私たちは、腹が立ってつらくても、それを強く言い返すことはできませんでした。被害者は弱い立場にあります。ちゃんと調べてもらおうと思うから、そんな思いを自分の胸の奥底へ押し込むしかなかったのです。少年法というものをあまり知らない私たちは、いつかは事実を教えてもらえると思い、待ちました。
 けれど、相手が少年という事だけで、どこの誰が、なぜこんな事をしたのか、いったい何があったのか、自分の息子の事なのに、一切教えてもらえませんでした。その後、警察から連絡があり、「加害少年を家庭裁判所に送りました。そこの調査官を窓口にして聞いたら、いろいろくわしく教えてくれるでしょう」という事でした。
 それなら家裁は教えてくれるのだな、とすぐ家裁へ電話をして聞くと、やっぱり教えられないという返事です。家裁も加害少年の将来を考える所だというのです。それは、少年法があるからです。
 そうなると、自分たちで調べるしかありません。私たちは、息子の事件に関する情報を求めるチラシを1万2千枚作り、新聞に折り込んだりもしました。息子の高校、友達の情報などで、私たちが事件の流れを把握できたのは、2カ月ぐらいたったころでした。
 わかった内容はこうでした。文化祭のあと片づけをしている息子の教室に、他校生2人が入ってきて、部屋にいた何人かに「誰誰知らんか?」と聞いたそうです。息子は、よく聞こえなかったのか、「えっ?」と言ったそうです。すると、返事が悪いと怒りだし、襟首をつかみ、なぐるまねをしたといいます。もう一人は、いすを振り上げ、なぐろうとしたそうです。そして、廊下で待っていたもう一人に、「もうええやん、やばい、帰ろう」と言われ、その場をいったん出て行ったそうです。でもその後、一時間近く、6人で待ち伏せしていたのです。文化祭が終わり、帰ろうと門を出た息子に近づき、いらだった感じで「ちょーこい」と命令したそうです。
 相手は身長180センチ以上で、がっしりしていて、とても威圧感があったといいます。何か異常を感じた生活指導の先生が近づいてきて、相手に「何かあったのならかんにんしたって下さい」と言いました。それで、相手が仲間の所に戻ったすきに、「今のうちに早く帰れ」とその先生は言ったそうです。
 息子は、友達の自転車に2人乗りをして逃げました。でも、1キロぐらい逃げた所で、追いかけてきた相手の少年に捕まってしまいました。

 教室でもあやまり、門でもあやまり、そして、捕まった所でもあやまったと聞いています。でも、相手はそれでもおさまらず、顔面を2発なぐり、左足で頭に回しげりをかけました。その相手は、空手を習ってたこともあるそうです。側にいた友達が、「やめたって下さい」と言ったそうですが、もう一人の相手が、「お前とめるんか」とすごんだため、それ以上、何も言えなかったそうです。そして、倒れている息子の横で、パンチや回しげりのデモンストレーションをし、「K1に行けるとちゃうか」と言ったそうです。そしてタバコを吸い、頭や足に灰を落とし、投げつけて立ち去ったといいます。
 こんな相手にかかわりたくないため、悪くもないの何度もあやまり、2、3発なぐられるのをじっとがまんした息子は、どんなにくやしかっただろう。相手はなぜここまでできたのでしょう。こんな暴力は、決して本当の強さでもカッコよさでもありません。
 私たちは、自分たちで調べてわかった以上の事は、今もわかりません。1年8カ月たった今も、どうしてこういう事になったのか、真実はわかりません。加害少年は、一人の人間の命、夢や希望までうばいとりました。高校の先生の連絡によると、家庭裁判所の審判の結果は、(何の罰もない)少年院送致という事でした。そして実際は、ほとんどが1年少しで社会にもどれると聞いています。私は、期間がどうのこうのと言っているのではありません。加害少年が「本当に大変なことをした、本当に悪かった」と思っているとは感じられないので、許せないのです。
 それで更生したと言えるのでしょうか。相手の親も学校も、審判の決定が出るまで、形だけの接触は3回ほどありましたが、あとは知らん顔です。自分たちの事だけしか考えていません。いまだ謝罪もありません。実際に会った事はありません。
 では、命をうばいとった責任は、いったい誰がとるのでしょう。息子の命は、物でもなく、紙くずでもないのです。16才で死にたくなかったのですから。
 人の尊さは、年齢や職業できまるものではありません。子供、大人、親、先生、警察、裁判官、弁護士、といった年齢や職業をはなれて、まず裸になった一人の人として、どうしたらいいか、考え直してほしいと思います。そうしたら、少しは、被害者も救われると思うのです。

<母として父として>
 息子を突然失い、私たち家族は何もかもすべてが変わりました。息子を救えなかった親として、時にはお互いを責め合う事になりました。主人はいつも、「ケンカになりそうになったらまず謝れ。それでダメなら逃げろ」と言っていました。それでもダメならどうするん、と聞く息子に、「2、3発なぐられても死にはせん」と教えてきたのでした。息子はそのとおり、言われてきた事を守って死んでいきました。それでも親は、「よく守った」とほめてやらなければいけないのでしょうか。
 主人は、そう教えてきた自分を責めていました。私は、自分から産まれているのだから、主人と私とで助けられると思いつづけ、願えば絶対に息子を助けられると信じていたのでした。でも、その願いは届きませんでした。
 母親として、何もできず、何もしてあげれなかった苦しさで、「私が育てたからでは」「私が教えてきた事はまちがっていたのでは」と思うようになったのです。
 息子の誕生は、私たちが結婚して4年目、待ちに待ってできた子供でした。心の底から「幸せだなー」と実感できた誕生でした。主人も、うれしさのあまり、泣きながらいなかのおばあちゃんに連絡したと聞いています。
 生後11カ月、血友病という事がわかった時、ショックと不安とでいっぱいになり、なさけない私でしたが、いつもニコニコ活発に動き回る息子に励まされる事ばかりだったように思います。過保護に育てたくなかったので、ケガをしないように注意しながら、できるだけみんなと同じように行動させました。
 幼稚園の年長の時、活発さをいかせるように、ボーイスカウトにも入れました。私は、そんな息子を、1年、1年、指おり数えながら、命大事に育てたのです。反抗期もありました。ヤンチャもしました。ハラハラすることもありましたが、血液製材になるべく頼らず、親と子で病気とも向かい合いました。そこで、がまんすることを覚えていったように思います。
 中学2年の時、ボーイスカウトに入っていた息子が、夏休みキャンプに参加した時の事です。キャンプの何日目かに、高いところから飛びおり、足首を捻挫した事がありました。そのキャンプにも家族で参加していたので、「車に乗ったら」とすすめても、みんなと帰ると言ってききませんでした。そして、周りの仲間に助けられながら、長い道のりを歩き、電車とバスで帰ってきたのを覚えています。帰ると、足がパンパンに腫れ、熱も出ていました。近くの整骨院でみてもらうと、ヒビが入っていたのです。そんな時さえ、血液製材にたよらず、その代わり、普通の人の倍ぐらいの時間をかけても治そうとする心の強さをもっている息子でした。 
 誕生日、入学、卒業、お祭り−−私の今までの喜びは、すべて悲しみに変わりました。小さい事で言えば、4人で食事をする事も悲しみです。5人での食事があたりまえだったので、下の子が「おいしいね」と言っても、苦しくなるのです。そうすると、2人の子供も、何も言えなくなるのです。
 何もかもが息子と重なり、耐えられない苦しさのあまり、主人が食台がひっくり返った事も何回かあります。電化製品も何個か壊しました。壁や戸にもキズができました。主人との口論も絶えませんでした。2人の子供の事もしてやらなければ、とわかっていても、自分の事だけで精いっぱいの私は、毎日、子供たちの前で泣いているばかりでした。2カ月ぐらいは家事もほとんどできない状態でした。あまりに泣いてばかりいる私に、当時中学1年生だった娘が言いました。「お母ちゃんだけじゃないんや。私だってつらいんや。本当は学校だって行きたくなかったんや」と。私は、なさけない母親でした。自分だけ、現実の怖さに逃げる事ばかり考えていましたから。娘も、当時小学3年生の息子も、苦しんでいたのでした。
 息子を失っただけでなく、家族まで崩壊しそうになりました。でも、そんな状態の家族なのに、いつもと変わらずに来てくれる人たちがいました。ウチでごはんを作ったり、時には鍋ごとおかずを持ってきてくれたり、片づけをしてくれたり、いつも誰かが来てくれていました。そんな中で、私はグチをこぼせたのです。何ヵ月もかかりましたが、少しずつ、日常生活のリズムをとりもどせたのは、そんな周りの人たちのあたたかさと、毎日来ていた息子の友達、そして2人の子供達のおかげだと思っています。私も主人も、あまりの苦しさに押しつぶされ、お互いのことを思いやる気持ちをなくしてしまっていたからです。
 親が先に子供を見送るという事、それもこんな理不尽な事で子供を失うという事は、親にとって一生背負う苦しみです。
 今もその苦しみは変わりません。だけど、私にもうひとつ、心のより所ができました。同じように少年犯罪で子供を殺された人たちと、それを支えてくれる人たちです。昨年十二月、会ができ、当事者は現在11家族がいます。いろいろ状況は違いますが、親としての思いは、まったく同じでした。心の底から話せる人たちです。被害にあって、悩んでいる人、孤立している人はたくさんいます。一家族だけで悲しみを背負わないで、いっしょに考えられたらと私たちは思っています。
 そしてこれ以上、子供たちを被害者にも加害者にもしないためにも、会の人たちと、自分たちにしかできない事、少しずつがんばっていこうと思います。いつも息子の事にかかわっていたいと思う私にとっては、そうすることによって初めて、前を見ながら生きていけると思うからです。それが、息子が16年間生きていた証でもあるからです。

<中学生のみなさんへ>
 人には、絶対にしてはいけない事があります。人の命をうばってはいけない。謝っている人に一方的に暴行する事はいけない。それは卑劣なことだからです。一人に対し、複数で暴行することもそうです。もし、私の息子のような事件に巻き込まれたり、見たりした時、勇気をもって誰か側の大人の人に助けを求めてほしいと思います。いじめも同じです。やる方、やられる方、お互いの友達を本当に思う事、助けることなんですから。命が亡くなってからでは遅いのです。命は、ゲームのようにすぐ復活したり、テレビや小説のようによみがえったりしないのだから、大事にしてほしいと思います。自分の行動に責任をもって、自分らしく生きてほしいと思います。

<お礼の言葉>
 今日、この場所で話をすることは、私にとって、とても怖くつらかったです。でも、被害者の親や兄弟は、こんな苦しみを背負いながら、日々生きているという事を知ってもらいたいという気持ちで来ました。ニュースが次々と新たな事件を伝える中で、前に起きた事件はすっかり忘れられていきます。
 でも、忘れられてしまった被害当事者たちの苦しみは、決して消えているわけではありません。私たちの会では、13年前に事件が起きた人もいますが、今もその時と同じ思いで生きています。これから成長していくみなさん、どうかこのことを忘れないで下さい。殺されたくなかった、死にたくなかった子供達の事を!
誰の命も尊いんだという事を!


 最後に、今日、話を聞いてくださったみなさん、そしてこのような機会を与えて下さった向日町署のみなさま、関係者のみなさま、本当にありがとうございました。