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パゾリーニ映画鑑賞の試み〜あるフォーカス:ソドムの市相談室





宣伝です・笑
パゾリーニの命日を記念しまして、<ソドムの市>のリメイク版?を
制作いたしました〜というか、まるで違う映画にしてみました。
大司教猊下を演じたジョルジォ・カタルディさんを主演に抜擢して
悩める高校教師の生活ぶりを描いたもの・笑
教育界に一石投じた?社会派映画みたい・爆
というわけで、モノは試しに下のYOUTUBEでご覧下さい♪
http://youtu.be/UslLStHG-CI
また、ちかく下記「相談室」のメインどころを映像でまとめて公開予定です。
そちらもお楽しみに♪




ソドムの市相談室とは、なにか?

分かった人、手を挙げて!

さてさて、「あるフォーカス」の第二弾は、あまりフォーカスを合わせたくない<ソドムの市>なのです。ご存じのとおりこの作品は、前人未踏毀誉褒貶賛否両論色即是空の「境地」に到達してしまったので、実に、さまざまな謎、ざまざまな謎、まざまざな謎が盛りだくさん。パゾリーニ自身、次のように述べています・・
<ソドムの市>はミステリーだ。”ミステリー”という言葉そのものじゃないか? 中世風の神秘劇、神聖なる演技・・・よって不可解なのだ。だから、きっと理解されないに違いない。これが理解されたら、恐ろしい」(ギデオン・バックマンとの対話より )

とはいうものの、謎は謎のままとしてアレコレ考えてみるのもいいかしらん、と思って、FAQコーナーみたいな相談室を作ってみました。でも、相談したいのはわたしの方でありまして、皆さんからご相談をいただいても、わたしはほとんど「回答」を持ち合わせてはいません。全然分からないのです。手持ちのFAQはたいていピンボケの内容ばかり(涙)。新しいネタもないので、掲示板に寄せられた、てつ坊さん、yumiさんなどのご指摘も有り難く再掲させてもらっています。

そんなわけで、出来れば引き続き、もうちょい充実させたいと思っています。
ネタをお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひぜひお寄せください。ソドム関連ならその他の「FAQ」も大歓迎。「答え」があったら、もっと歓迎。映画全体に関するご感想もお待ちしています。独断・偏見で結構です。この映画でくらったショック、感動(は、ないか)、「この映画、わたしはこう思うのだけど・・」「大キライだあ〜〜」なんてご意見も、とても嬉しいです。でも「ウ○コは本当にうまいの?」なんて質問は・・・まあ、おまかせします!
では、いってみましょー。

まずは事実関係について・・・
Q1[家族構成〜娘たちの名前]
Q2[読みとりテスト〜床に書かれた文字]
Q3[課題曲その1:混声合唱]
Q4[地理〜マルツァボット]
Q5[文学・哲学・宗教〜流血なくして容赦なし]
Q6[聞き取りテスト:どいっちゅらんど・ゆーばーあれす!]
Q7[課題曲その2:ソルフェージュ]
Q8[課題曲その3:クラシック編]
閑話休題その1〜権力者たちの椅子取りゲーム

謎が謎呼ぶ謎地獄・・・
Q1[てつ坊さんの『謎』その1:電気椅子美女]
Q2[てつ坊さんの『謎』その2:ランボー似の女]
Q3[yumiさんのご指摘その1:数字の8とこの映画との関係は?]
閑話休題その2〜ウ○コは本当にうまいの?

この映画を、いったいどう見ます?
Q1[てつ坊さんの『謎』その3:結婚式]
関連[yumiさんのご指摘その2:お食事風景も3回]
A1[yumiさんのご指摘その3:これは家族映画]
A2[白痴さんのご指摘その1:マゾヒズムという系譜]
閑話休題その3〜趣味と実益を兼ねる出演者たちとその後の運命?
A3[白痴さんのご指摘その2:権力者たちの自己処罰]
A4[白痴さんのご指摘その3:ソドムのおける「母親」なるもの]
A5[討議:マルガリータ!あるいは優雅なる救済の?ダンス]
A6[美学・記号学・バルト〜ネット・サーファーさんのPPPへのアプローチ(第三稿)]
A7[Ayaさんの、ファシズムが別の形で表れている〜サロ共和国]
閑話休題その4〜完全版はどこにある?

ppp
ば〜いしくる♪ば〜いしくる


まず事実関係について、くえすちょん・・・

Q1[家族構成]
権力者たちの娘4人の名前は、なんだったっけ? 誰が誰の妻になるんだっけ?

これは映画を見てさえいれば、すぐに分かりますね。大統領の娘はスージー(スザンナ)。彼女は公爵殿下の妻になります。で公爵殿下の娘はリアナジュリアーナ。リアナは判事の妻に、ジュリアーナは公爵の弟の司教猊下の妻になります。判事の娘はタチアーナで、彼女は大統領の妻となります(可哀想に)。司教猊下は聖職にあらせられたためか、娘はおりません。
でも妻になったという感じは、映画の中では全然分かりませんね。彼女たちは妻たるもののなんたるかをよくわきまえていないようです。
ちなみに彼女たちの「役名」は、実際の名前(芸名)と同じです。まるで工夫がないですね・・


Q2[読みとりテスト]
犠牲者の少年が指で床に書いた言葉はなんだったの?

これは次のスチルをご覧ください。ほら、読めるでしょ? 

「の」の字ではなさそうです

全然読めませんね。床、真っ黒ですしね。少年が書き始める最初の方は、肩の動きだけしか映りませんが、指先が映るとどうやらそこには「DIO」の文字。つまり「神よ」と書いたようです。

・・と書きましたら、yumiさんから大変貴重なご指摘をいただきました。
これはギロさんがおっしゃるように、DIOと綴られますが、「神よ」という意味ではなく、CLAUDIOと綴ったのではないでしょうか。少年の名前はたしかCLAUDIOだったはずです。少年少女=無名の大衆であるとしたら、この少年は奪われた自分の名前(個性とか固有性といったものを含めて)をひそかに哀惜をこめて書いたのだと思います。この場面は悲しみの感情に満ちていますね。

まさしく慧眼の至りというほかありません!
ビデオではなかなか判別できない「文字」ですが、映画祭再映の際にスクリーンに目を凝らしたところ、yumiさんの仰るとおり「CLAUDIO」と読めるのです。「」の字ははっきりと確認できます。いよいよ全裸にむかれて座らされている犠牲者に遺されているものといえば、かろうじて「名前」しかない、という状況で少年が自分の名前を書くのは、まったくこの作品の「個体性を奪われた大衆」の哀しさの表現ですね。そしてまたこのCLAUDIO少年は最後の「血の地獄」で(処刑前夜に)司教に向かって密告を開始する少年でもありました・・・。
更に言えば、いわゆる「協力者」(銃を持った少年兵たち)のなかにもクラウディオという少年がいて、映画冒頭で、母親が「マフラーを忘れているよ!」と駆け寄るとその顔にツバを吐き捨てるように「ウセヤガレ!」と叫び返したものでした。
とにもかくにも・・その他、例えば大統領が「早朝のオマル・チェック」をする際に規則破りをした犠牲者に向かって「名前を言えっ!」とヒステリックなまでに叫ぶなど、どうやらこの作品には「名前」というものが暗に重要な意味を持っているようです。


Q3[課題曲その1:混声合唱]
最初の晩餐で全員が合唱する歌は、なんていう歌なのかしら?

公爵が、まるで郷愁に耽るかのようにして歌い出す素朴な民謡風?の歌のことです。食堂にいる全員がたちまちハーモニーをつけ、警備兵も犠牲者たちも声を合わせて大合唱するあの歌は、いったいなんの歌なのでしょ? まさかイタリア国歌?ではありません。あれは大統領のお尻を褒め称える歌、なのでしょうか? 「映画祭パンフレット」には、マニアックなまでに(と、わたしが言うのもおこがましいのですが)映画に使われた音楽の曲名・作詞作曲者が紹介されているのですが、どれがどれなのかは皆目検討がつきません。頭を悩ますばかりです・・。
とはいえこの合唱曲は、なんというか、愛国心を揺さぶり高めるような感じで、最後に映る男の子などは感極まって歌い上げているような感じですが、あの歌はなんなのでしょ? どなたかご教授を!

と書きましたら、またまたyumiさんから貴重な情報が寄せられました(全く、お客さま頼りの「相談室」です)。
たしかなことはいえませんが、この歌は私の記憶に間違いがなければ、パゾリーニが少年時代に愛唱した古いアルペンソングだったと思います。愛する土地の大切な歌を、その土地を蹂躪する人々が嬉々として歌う。これにまさる陵辱はないのではないかという気がします。

素朴で力強く繰り返しの多いこの曲は、なるほどアルペンソング風でもあります。でもなんで大統領のお尻のあとに歌われるのかしらん(笑)??


Q4[地理]
饗宴の舞台になってる「マルツァボット」って場所はどこにあるの? どうして「サロ」じゃないの?

マルツァボット(marzabotto)」という地名は、「地獄の門」で、逃走を企てた少年が射殺される場面ちかくに出てくる道路標識に書かれています。この町はボローニャ郊外の南方に位置する町で、実在します。まずは地図をご覧ください。左下あたりにあります(アンダーラインを入れておきました)。
なんと近くにパルコがありますね(笑)。冗談はともかく、どういう歴史的沿革があってここが選ばれたのでしょうか。ちょっと調べたところでは、この村には大変な悲劇があったことが分かりました。43年9月のイタリア休戦以降、イタリアではナチスドイツの占領軍に対抗するパルティザン部隊が、急速に、次々と編成されていったのですが、彼らの多くは農村や山岳にアジトを構え、神出鬼没の戦闘を死にものぐるいで展開していたのですね。そして業を煮やしたナチス占領軍は、彼らパルティザンをかくまっていそうな村々を次々に破壊していった、それも農民たちを集めて大人も子供も家屋に閉じこめ、放火した挙げ句に機関銃を乱射するというほどの徹底ぶりだったそうです。そしてこのマルツァボットでは、同様の仕打ちにより1830人もの人命が9月28日から30日の三日間に奪われ、現在もなお「悲劇の村」としてイタリアでは名高い村だということです。
現在、この村には、虐殺を悼む記念像があるそうですが、セメントで出来た材質剥き出しの像は写真で見るだけでも万感胸に迫るものがあります。この虐殺の状況や記念像写真については早乙女勝元著「母と子で見るイタリア・パルチザン」(草の根出版会)という本に詳しくのっています・・・

でも、どういうわけでこの村が映画に登場するのでしょうか? ただ通り過ぎただけなのか、それとも本当に饗宴の舞台に設定されているのでしょうか? ちなみにこの村についてパゾリーニは、Gバックマンにこう話しています「ナチスによって村全体が消滅(破壊)させられた村だ。ドイツ人も年寄りなら、覚えているかもしれないな」。そもそもボローニャはパゾリーニが生まれ、大学生活を送った街でもありますから、もしかすると彼にとってマルツァボットは固有の思い出のある街なのかも知れませんね。この映画の時代(ナチス占領下の時代)の直前まで、彼はボローニャにいたのでした。
ちなみにこの実在した悲劇の村の名前を入れてしまったがゆえに?この映画は先進資本主義・消費社会のメタファとしてのファシズムではなく歴史的に存在したファシズムを描いたものと「誤解」されてしまった、という見方もあるようです。そこで生じたのは「本当のファシズムはこんなものではなかった」という批判です。これは実際にパルチザンとしてファシスト政権と戦った経験を持つカルヴィーノなどが憤慨した理由のひとつでもありました・・

ところで・・映画の原題は「サロ」なのに、どうして阿鼻叫喚の舞台はサロじゃないんでしょ。
映画の最初に「市町村条例」を定めて署名をする場所は、看板も出ていて、どうやらガルダ湖畔の、まさしくサロのようですけどね・・。サロというのは、ムッソリーニを逮捕され一旦は政権の座からずり落ちたファシストが、ヒットラーの助力により政権に返り咲いて再樹立した「イタリア社会共和国」の首都です。ガルダ湖畔のあちこちに点在する豪華な山荘などに各省庁がおかれ、サロに外務省が置かれたことから「サロ共和国」とも呼ばれるようになったそうです。最後に青いリボンを免れた者たちは「協力次第ではサロに連れていく」と言われますから、映画の時点でも、サロに政権があったことは間違いないようなのです。

因みにあの「屋敷」はマルツァボットではなくマントヴァ郊外にあるということですが、蛇足ですが、例の屋敷についてパゾリーニは「美術担当のダンテ・フェレッティはあの屋敷を、いかにも裕福なユダヤ人の所有するデカダンスな雰囲気で、ファシストたちによって没収された別荘、という感じで作ってくれた」と語っています(Gバックマンとの対話)。インテリアには、デュシャンとかセヴェリーニ、フェイニンガーといった、いわゆる「デカダン」な絵画が多く使われて、独特の幻惑的な空間を演出していました。公開当時のイタリア人にとっては、こうしたディテール中のディテールを含めて映画の意味するところは一目瞭然だったのかも知れませんが、今となってみると、この映画の細部を味わいつくすためには相当の予備知識がいりそうですね。


Q5[文学・哲学・宗教]
判事が言います。「血によって繰り返し確認されてきた原則がある。流血なくして容赦なし。血を流さずして赦しなし。シャルル・ボードレール」。すると大統領が言うには「水を差すようで恐縮だが、それはボードレールではない。ニーチェの『道徳の系譜』に出てくる言葉だ」。ところが判事は答えます。「いやボードレールでもニーチェでもない。これはパウロによる『ローマ人への手紙』だ。ダダだ」。???誰が正しいの?

これはどうなんでしょ・・。
まず「ローマ人への手紙」はどういう類の文章かといいますと、ご存じのとおり新約聖書に収録されています。作者パウロはもともとはキリスト教徒の迫害者でしたが、突然空から降ってきたキリストに出くわして改心し、改心したばかりか、当時はまだユダヤ地方の一宗教であったキリスト教を普遍的な世界宗教へと広げるため、原罪の考え方や律法との関係性などを踏まえてその教理を論理的に展開し一大宗教イデオロギーを構築した人物で、通称「ロマ書」はその白眉たる文章です。うっかり聖書の文句を口にしてしまった判事は懲罰対象となることを恐れてすぐに「ダダだ」と吐き捨てるように侮蔑していますね。ところが・・わたしが読んだ限りでは、どうやら「血によって〜」という言葉は出てきません。

で、大統領が指摘したニーチェの「道徳の系譜」ですが、こちらはニーチェ晩年の哲学論文でありまして、文字通り「道徳」なるものについて、その歴史的起源や発生論的批判論を展開したものです。「良い」「悪い」という言葉の意味と発生論の検討に始まって、「キリスト教はルサンチマン(怨嗟)の精神から生まれた・・良心なるものは人間の内なる声などではなく、もはや外部に向かって発散できなくなって逆向きに内部に向かわざるを得なくなった残忍さである・・禁欲主義的理想とは有害きわまりない理想で、終末への意志にほかならない」というようなことをこの「系譜」には書いた、とニーチェ自ら自伝に記述しています。わたしもこの本の熱病に罹ったような論理展開にシビれてしまったことがありますが(ま、ツァラほどではないにせよ)、ですが「血によって〜」を確認するためにまた読み返して知恵熱を出す勇気はありません(笑)。でも、いかにもこの本には出てきそうな文句だなあとは思っています・・

一方ボードレールといえば、ご存知フランス最大の詩人で、遺された文章は膨大、とても調べがつきません! まっいいか(笑)。この勝負、引き分け〜?。
で蛇足ですが、実はこの言葉はボードレールでもニーチェでもパウロでもなく、クロソウスキーとはバルト、ブランショといったタイトルクレジットされてる例の「参考文献」から取ったのかも知れませんね。パゾリーニは「ワザと出典を曖昧にした」とGバックマンに語っていますが・・・。
で、最後の蛇足として追加しておきたいのは、そうはいうものの、ボードレール、ニーチェともにデカダンスの文学・神を否定する哲学の総帥であるわけで、そこに、「イエスの教え」から「キリスト教の教義」を確立せんと理論武装に出た聖パウロの名前が並列されていること。これは、いかにもアンチ・カトリックにして<奇跡の丘>の作者パゾリーニらしい配置だなあ、と思うことです・・・。



Q6[聞き取りテスト:どいっちゅらんど・ゆーばーあれす!]
「糞尿地獄」のディナーの前に、ラジオから聞こえてくるヒットラーらしき演説。ありゃいったいなにを喋ってるんでしょ?

これもまた分かりません(涙)。大体、ヒットラーってなにを喋っても同じに聞こえますからね。というのは・・こっちがドイツ語わかんないせいばかりじゃないみたいです。彼の伝記にも「ヒトラーは演説で高揚すると、いつも同じことを繰り返した」と書いてありますし(笑)。
ちなみに様々な場面で、効果音もかねた飛行機の爆音が轟きますが、あれは連合軍の爆撃機だと思うんですよね。ですから、おそらくドイツ軍が敗走を始め、第三帝国は崩壊の危機に瀕している時期の演説なのだろうとは思いますが・・とはいえ、気になるなあ、あの演説。あれは単なる「効果音」ではなさそうですし。ヒトラーをクソミソにけなしてる積もりなのかしらん。
そういえばカステッリ夫人の最後のおしゃべりもドイツ語まじりで語られていましたっけ。


Q7[課題曲その2:ソルフェージュ]
テーマ曲(ちゃららら〜〜ん♪ らら〜らら〜らり〜〜〜ん♪♪)はなんていう曲? 

人気のテーマ曲については、いろんな人が興味をお持ちのようですが、わたしはまだコレと突き止めたという話を聞いたことがありません。前述のとおり「映画祭パンフレット」にはズラズラと曲名が並べてあって、却ってよく分かりません。一応エンニォ・モリコーネが音楽担当なんですが・・。いずれにしてもノスタルジックでウキウキする、夢心地のダンス曲ですねぇ・・。

そういうわけで、これはまったくの関係ない曲と思いますが、「映画音楽のコーナー」でも触れましたとおり、わたしはこのメロディは、these foolish things(remind me of you)[作曲者:H.Marvell-H.Link-J.Strachey]という曲にとてもよく似ているなあ・・などと(悔し紛れに)思っています。でもサビメロは全然違うみたいなの(涙)。
ちなみに、わたしはこのthese foolish thingsという曲を、セロニアス・モンクの演奏で聴いています。だからサビが違うのか?(笑) ともあれ、よろしかったら聞いてみてください。右のCDに収録されています。なんとCDタイトルが「サロ・モンク」だ!(ちがう?/笑)。
とにかく出だしは「おおおー!」と思うこと請け合いまっせ〜

と、書いておいてナンですが、先日Gary Indianaという人の「Salo or the 120 days of sodom」という本を読んでましたら、このインディアナさんもまたあの曲は「these foolish things」である、と書いています。ビリー・ホリディからブライアン・フェリーに至るまで、色んな歌手がカバーしている、ということらしいですが、やっぱりそうなんですかねぇ??


Q8[課題曲その3:クラシック編]
オペラグラス片手に中庭の拷問風景を見ている時にかかってる音楽はなに? おばちゃんたちが喋ってるときのバックのピアノの曲は??

チャラララララ〜〜〜〜♪ ずん♪ずん♪ で始まる、あの拷問風景の音楽。一見、グレゴリオ聖歌風のユニゾンで歌われるあの合唱曲はカール・オルフ作曲の「カルミナ・ブラーナ」です。映画には第一曲と第三曲(いずれも混声合唱)が使われていました。36年に作曲されたオルフの出世作で、歌詞は主に中世歌謡からとられた世俗的な内容(春の到来の喜びとかいったもの)が中心的です。
パゾリーニはこの曲について「典型的なファシズム音楽」と呼んでいたそうですが(「野蛮の神話」)、勇壮な男声合唱と、一方で繊細でヒステリック?なまでに清純な女声部が一糸乱れずに構築する不思議な音楽世界は、なるほど、どこかしら「全体主義」という言葉を思い起こさせます。作曲当時はもちろんナチス政権下にありましたから、おそらくそうした時代の雰囲気を深く体現しているのかもしれません。たまにテレビCMなどでも聞くことが出来ます。
一方、おばちゃんたちの語りのバックに聞こえるピアノは、お茶目なヴァッカーリ夫人(変態地獄)では古いダンスナンバー中心でした(多分「映画祭パンフレット」に掲載されている曲名はこれらの曲ではないでしょうか?)。なかには編曲されたテーマ曲もありましたっけ。ですが、マッジ夫人(糞尿地獄)とカステッリ夫人(血の地獄)となると俄然フレデリック・ショパンの有名なプレリュード作品28ホ短調が使われていますね。重苦しく沈痛諦観に満ちた、まさに「死」への傾斜が喚起されます。


閑話休題その1
権力者たちはどうして「椅子取りゲーム」をしてるの?

皆さん、気がつかれたでしょうか。おのおのの「地獄」では、権力者たちが座っている場所は微妙に異なっているのです。落ち着きがないというか、気ぜわしいというか、絶大なる権力をお持ちの方々にしては、ちょっと節操のない椅子取りゲームなのです。権力者たるもの、もっと自分の「椅子」に固執してもらいたいものです!

判 事   大統領    司 教   公 爵 大統領      司 教    判 事   公 爵
図1 図2

まず「変態地獄」では、皆さんは図1の位置に座っています。
トイレの反対側の壁にはマリア像のあるチャペルが隠されているので、司教猊下のこの位置はまずまず妥当でした。ところが、ヴァッカーリ夫人のお話にムラムラ来てしまった猊下はたちまち少年を引き連れてトイレに駆け込み、その後、思い果たせずにトイレから出て来ると、公爵のコーナーにへたり込みますね。公爵は苦笑いして「こっちの男の子を貸すよ」と申し出てくれます。やっぱり持つべきものは兄さんですね。

次に「糞尿地獄」ですが、最初のうちは図2の位置に座っています。
ここでは司教猊下はやや生彩を欠き、公爵と大統領がねじれの位置で大活躍します。大統領はマッジ夫人に「若気の至り」をあてこすられ、また公爵は「独り立ちするようになると即座に母親を殺したよ」などと大見栄きって、一同から感嘆賛美の眼差しを浴びます。そこですすり泣いてしまって、公爵からホカホカのウ○コを頂戴する美少女レナータちゃんは、判事のコーナーにいました。

司 教      公 爵    大統領   判 事 大 判 公 司 統      領 事 爵 教
図3 図4


さて、その判事と美少年セルジォくんの結婚式(例の糞尿ディナー)のあとでは、図3の位置が皆さんのポジションとなります。
こうして見ると、大統領と判事の二人は、仲良く追いかけっこしているみたいに各コーナーを反時計回りに進んでますね
ところが、司教猊下はただ一人、ブラウン運動をしているようです。満たされない欲望が彼をそうさせているのでしょうか。あとで、マッジおばちゃんとダンスに興じてクルクル回ったりするのもその良い例だと思います。(また、この場面は本映画で一番美しい、最高のシーンだと思います!!!)

更に重大と思われる事実は、公爵殿下の密かな合目的的移動パターンです。公爵殿下は常に、トイレに近い位置を占めているのです。そういえば彼はおしっこ好きでした。そのうえ、トイレまでこんなに近いというのに、カラの棚の前でオモラシしちゃう人物でもありました。どうして公爵がいつもトイレ側にいるのか、その理由の一端がお分かりいただけたでしょうか。

そして意外なのが、大統領閣下です。閣下は一番のスカトロ大好き人間のようですが、実は大抵トイレから最も遠いポジションに位置していました。「血の地獄」で犠牲者たちに幸せの青いリボンをつけた後、カステッリおばちゃん最後のおしゃべりを聞いている時の皆さんの位置を、図4に示しておきました。ご覧ください。ここでは皆さん横一列になっているのですが、大統領はトイレの反対側に座っています。閣下にとっては、トイレは排泄するための場所にすぎず、むしろオマルで収穫することの方が大事だったのでしょうか?? 
ちなみにここで公爵は二番目にトイレに近いのですが、これは司教猊下の無作為的なブラウン運動に席を譲らざるを得なかったようですね。

ppp
ブラウン神父だったのか


謎が謎呼ぶ謎地獄?

Q1[てつ坊さんの『謎』その1:電気椅子美女]
ビデオやパンフ(初公開時)の表紙には電気椅子みたいなのに座らされた女の子が出てくるのに、映画本編には出てこないけど、あの女の子はなんなんでしょ?

ちょっとコラージュっぽい

そうなのです。わたしにとっても長年の謎でした。今も謎です。左のパンフ画像(部分)をご覧下さい。ビデオのパッケージは基本的には初公開時のパンフ表紙と同じ図柄なのですが、そのド真ん中に、電気椅子?に手足をくくりつけられた美女の写真がド〜〜ンとあります。なかなかのエクスプロイテーション風雰囲気です。
ところが、てつ坊さんが仰るとおりそんな場面は映画本編にはまったく登場しません(がっかり/笑)。この美女、よおく見ると権力者たちの娘の一人(最初の晩餐で、大統領と並んでお尻を出す彼女)に似てなくもないのですが、正確にそうだと言えるほどはっきりと映ってはいません。
この場面は実際に撮影されたのか? カットされたのか? それとも盗まれたフィルムの方にはあったのか? どうにも不明です。

ところで、この映画にはデボラ・ビアという人が撮ったプロモ用と思われるスチル写真が数多く出回っています。思惑はどうあれ、やっぱりセンセーショナルなキワモノ映画として売り出されてしまった感じもなくはないのです。
因みに、このパンフ表紙写真の場面には4人の権力者たちは写っていません。彼らはどこにいるのでしょうか。実はこの場面を「バック」から撮ったらしい写真がありまして、ものは試しにご覧下さい。電気椅子美女はもちろん登場しておりませんが・・。
このテのスチルが結構多いのですね。次のようなスチルも、アングルとしてそのものズバリは映画本編には出てきませんが、場面としてはありますね。新郎新婦の初夜風景です。壁紙にでもしてください(笑)。そういえば<豚小屋>にも似たようなシンメトリックな全裸男女のショットがありましたっけ・・二番煎じですね。
また、こんなスチールもあります。「映画鑑賞の試み」にも載せましたが、「血の地獄」の結末ですね。

ところで、電気椅子に関連して、この映画の「殺人シーン」についてパゾリーニは面白いことを言っています(Gバックマンとの対話)。「私は、現代の法治国家において実践されている4つの合法的な殺人方法をとりあげています。つまり、絞首、銃殺、鉄輪絞首、そして電気椅子です」。
してみると、電気椅子の場面もきっとあったろうとは思うのですが・・・


Q2[てつ坊さんの『謎』その2:ランボー似の女]
最初の人間狩りの場面で、女子用待合室で頬に片手をあてて待っている女の子が一瞬映るんですが、これが詩人A・ランボーそっくりなんです・・

A・ランボーは、少年パゾリーニが最も強く影響を受けた詩人であり、またモラヴィアもその点をパゾリーニの詩作の特徴点として指摘しています。
じゃ、ランボーってどんな顔をしていたっけ・・というわけで、誠に場違いながら勝手に画像を出します。これです。

よく見る あまり見ない

それじゃあ「頬に片手をあててる女の子」は、というと、残念ながら画像が手元にありません(涙)。ビデオキャプチャーなんて贅沢なモノもありません・・。
ですからここで比較することが出来ないのですが、映像を見る限り、どことなく夢想的で、ボケッとしていて色白で、やや少年っぽいプロフィールは、確かにランボーに似ています。ちょっと太めちゃんというか、やや顔の横幅が広い感じもしますが、目尻や鼻筋はよく似てると思います。

で、更に興味深いことがありまして、この女の子は、実は「犠牲者」に選ばれているのですが映画本編にはほとんど出てこないということです。大統領が「後宮の魅力」について語るさいに膝の上に乗せているのははっきりしているのです。また同じく大統領が「オマル・チェック」をする際にもさりげなく登場します。けれど、例えば犠牲者同士の結婚式、それから司教以外の3人の結婚式には登場しません(特に後者の場面ではその他の女の子7人が揃っているので、余計にいないのが目立ちます)。更にはおそらく「わんわんスタイルのお食事風景」「青いリボン」をつけるシーンでも確認できません・・
ところが、最後の、青いリボンをつけてトイレで拷問待ちしている場面には、ちょこっと再登場するのです。一瞬なので分かりにくいのですが、画面に向かって左側の手前に、やっぱり映画冒頭と同様、心ここにあらずといった風情でいます。彼女は、どういうわけか、いつも何かを待っているようです。
ここにはどんな意味が隠されているのでしょう?? うーん。偶然なのかなあ・・。

と書いたら、てつ坊さんから面白い推測をいただきました。
パゾリーニは、犠牲者のなかにこっそりとランボーを紛れ込ませて、ついには殺してしまった?

パゾリーニって、こういうことしそうですね・・というか、彼の作品の細部には彼自身でなくては分からないような「符丁」めいたものが含まれていると読んだことがあります。例えば<アポロンの地獄>でSマンガーノが着ていた服装は母スザンナが実際に着ていたものをデザインした、とか・・。
それから最後の「殺戮シーン」に、ちらりと、木の葉で編んだような冠をつけた少年が、女の子と並んで登場しますが、あれもなんなのでしょう? ひとつには、あれはイバラの冠をかぶったイエス・キリストの似姿? あるいは、この<ソドム>が構成を借用したという「神曲」の作者詩聖ダンテ・アリギエーリへのオマージュでしょうか? その場合当然にあの冠は月桂冠ということにもなるでしょうが、要するに、そういう「符丁・暗号」が多いのですね・・・



Q3[yumiさんのご指摘その1:数字の「8」とこの映画との関係は?]
少年少女は当初9人ずつでしたが、男女各1人が死んで8人ずつになります。これはサドの原作にはない話です。松田 修氏は「8」という数字は無限記号に通じる数字であるという指摘をなさっていますが、確かに「ソドム」には無限を暗示する個所が散見されます。たとえば、二人の女が即席のボードヴィルを演じる場面では、背後の鏡の中に二人の後ろ姿が無限に映し出されています。
大統領が冗談をとばす場面が2回ほどありましたが、どちらも数字ネタでしたね。彼のジョークがどうしてあれほど満座の爆笑をさそうのか、私にはよく分かりませんでした。


大統領の数字ネタギャグはというと、「数字の8とわたしの家族の関係は?」「暗闇の中でもてない男がデートした」というやつだったように思いますが、わたしは最初のやつは純粋にナンセンスギャグとして、凄く面白いと思いました。「で、家族は?」「元気だよ、ありがと」(爆)。自分でも言いたいギャグです。
一方、「もてない男」の方は、「これがホントのハチあわせ」と訳されることが多いですが、15年前に公開されていた当時は・・確かデート相手の名前が「ハッパ」で、暗闇で出くわした男が「おや、ハッパ!」と叫ぶと、相手(別の男)が「64」と応えた・・というふうに訳されていました。これは、あくまり面白くないなあ・・。
むしろわたしが大統領のギャグで面白いと思ったのは、「鑑賞の試み」にも書きましたように、権力者からの一方的な発話で言語空間が構築されているこの映画にあっては、こうしたナンセンスギャグですら一瞬、有意味に受け取ってしまう、わたしたち観客の反応それ自体ではないか、ということでした。

で、それはともかく、数字の「」とこの映画の関係を「無限記号」とすると、確かに「無限を暗示する箇所」が散見されると思います。例えばラストの拷問風景を眺めるのにオペラグラスを逆さにして見つめる、といったところなども、それと相通じるように思います。あるいは遠近感覚をゆがめるようにギザギザ模様のカーペットとか、仰るとおり「鏡」もそうですね。わずか16人の犠牲者であるのに、その個体がはっきりせず(・・いたりいなかったり、あちこちに散らばっていていつも「見えない」死角が多いのですね)、実はもっとたくさんいるのではないか・・と思わせるような演出も。まるで、個体性を欠いた大衆そのものに向かって果てしなく拡大発展していきそうな犠牲者たちの扱い方でした。



閑話休題その2
ウ○コは本当にうまいの?

こらこら(笑)。協力次第ではサロに連れていってもらえますよん。
でも映画ではちゃんとレシピが紹介されてましたっけ。死刑を明日に控えた女囚のウ○コが一番、とかだったと思います。これは原作にも出てきますが、ほんとかどうかは分かりません。

ppp
いったいどう見ます?


ここからいよいよ総合問題?です・・・
この映画を、いったいどう見ます?



Q1[てつ坊さんの『謎』その3:結婚式]
この映画の中で3回もある結婚式のシーンは、何を意味してるんでしょうか? 結婚式という儀式を通して体制に取り込まれていくという意味なんでしょうかねぇ?

これはご指摘いただくまで、気がつきませんでした。というか、3回あるのは3つの地獄だからかと思いきや、「儀式を通して体制に取り込まれていく」という解釈にも、なるほど〜と思ってしまいました。
最初の結婚式は犠牲者セルジォくんとレナータちゃんの結婚式。次に新郎判事と新婦セルジォくん。最後が司教以外の3人が花嫁となって、それぞれ警備兵・協力者たちが新郎です。一人取り残されて本来の職務を遂行させられるハメになった司教猊下は思わず「クズどもめっ」とその他の権力者たちを罵ります。

クズどもめっ!

で、それはともかく、「体制への取り込み」という観点では、まさに警備兵たちとの結婚はそれに該当するんじゃないかしらん、と思いました。最初の方で、権力者たちは「互いの絆を強めるため」に娘たちを交換して妻とする企てに出ますしね。
イタリア人にとって結婚(の儀式)がどういう意味あいを持っているのか分からないのですけれども、結婚そのものをモチーフとしたケースは、例えば<マンマ・ローマ>の冒頭場面とか、ユリアンに結婚を迫るイーダ(<豚小屋>)とか、<王女メディア>のイアソンとグラウケーのエピソードとかにも登場しますね。<愛の研究>では、いかにも晴れの門出、という感じでしたけど。
<ソドム>では、本来、神聖純潔であるべき結婚式が醜悪極まりなく描かれているため、余計にグロテスクな雰囲気を充満させていますね。


関連[yumiさんのご指摘その2:お食事風景も3回]
てつ坊さんの「結婚式の場面が3回」に関連して、yumiさんから「食事場面も3回ある」と、次のようなご指摘をいただきました・・・

1回目が登場人物の全員揃っての晩餐会のシーン、2回目が少年少女が全裸にされて首輪をつけられ、犬の鳴きまねをしながら四つんばいで食事をさせられるシーン、そして3回目が例のうんこの饗宴のシーン。
こうしてみると「食事」という行為のありかたが回を追うごとに倒錯して行っているという感じがしませんか。
食べることって「消費」の象徴ではないのでしょうか。本来、食べることは生命を維持するための行為なのに、排泄物を食べるということは逆に死にむかっているということだと思います。
パゾリーニは消費主義社会は死滅にむかっているということを言いたかったのかも知れませんね。


まったくわたしもそう思いました。役にもたたないものを食べさせられるということは、例えば、欲しくないものを(コマーシャルという暴力的洗脳を通じて)買わされている、といったわたしたちの消費社会を如実に表した比喩のように思います。そして、こうしてついつい買ってしまう行為がどんなに危険で苦痛に満ちたものであるか、ケーキに隠された釘が教えてくれるような気もします〜


A1[yumiさんのご指摘その3:これは家族映画]
「ソドムの市」では女の子よりも男の子の方が屈辱的に描かれている、という観点から、これはPPPの家族映画では? という次のご指摘をいただいてます。

「ソドムの市」の最初の方で、選抜された少年少女が軍用トラックに乗せられて連行される途中、一人の男の子がトラックから飛び降りて逃げようとして射殺されてしまうシーンがあります。この少年とほかの8人の少年たちはとても対照的に描かれていますね。
服従を拒んだ少年は人間としての誇りを保って死にますが、服従を選んだ少年たちには屈辱の日々が待っています。
射殺された男の子はもしかしたらパゾリーニの弟グイドではないでしょうか。グイドは反ファシズムのパルチザンに加わって、別のコミュニストグループに内ゲバのような形で殺されたそうですが、そのグイドにパルチザンへの参加を勧めたのはパゾリーニ自身だったはずです。でもパゾリーニはファシズムと正面から対決することもなく、戦争中はずっと体制順応者として過ごしたのでしょう。射殺された男の子がグイドなら、パゾリーニ自身の姿は犠牲者の少年たちに投影されているのだと思います。
映画の終盤近く、ファシストの一人が少年たちに「犯した罪の深さを思い知るがいい」と宣告します。少年たちが犯した罪とは何でしょうか。それは服従を選んだこと、勇気がないことの罪であり、「ソドムの市」は意気地なしの男の子が罰を受ける映画なのかも知れないし、パゾリーニ自身の自己処罰の映画なのかも知れません。
もしそうなら、罰を与えるファシストたちはパゾリーニの父親ではないのかと思います。父と弟と自分と。そして母的なものはこの映画では徹底的に排撃されます。殺された母親を思い出して泣いている女の子に排泄物を食べさせる場面は象徴的です。
「ソドムの市」には、というよりパゾリーニには、意外にも父性原理とか男性原理というものがあるのかも知れません。男は強く勇敢でなければならない。父を終生憎み母を愛したパゾリーニですが、弟への負い目から父的・男性的なものを否定し尽くせず、父にも母にもアンビバレントな感情を抱いて戦後を生きてきたのでしょう。その感情が爆発的な形で表現されたのが「ソドムの市」なのだと思います。



ううううれしいー。
こういうご感想をいただいて、ほんと嬉しいです〜〜。家族映画という視点。とても興味深いです。わたしは、そうした見方(・・家族映画)はこれまでしてませんでしたが、なるほど、と思いました。
パゾリーニは終生、自己処罰・自責的なマゾヒズムにさいなまれ、かつそれを自分の芸術創作上のモチーフとして、時に真っ向から挑み、時に弄びしていたのではないか、などと、わたしは思っています。それが、当時の悩める青年たちへの同伴者的な眼差しの奥底に あったんじゃないか、とも思っています・・。

「ソドムの市」は意気地なしの男の子が罰を受ける映画なのかも知れないし、
パゾリーニ自身の自己処罰の映画なのかも知れません。
これはパゾリーニ映画の内面的なモチーフのひとつとして、納得させられるご指摘に思います。
勝手な推測では、パゾリーニは、しばしば彼の映画の主人公(ということは、ほとんど悩める青年たちなのですが)に、感情移入というか自己投影をしていたように思うのです。で、それは実際の彼の性生活、つまり少年売春の相手にも投影されていたんでは?? などと邪推して彼のセクシュアリティについての雑感を書いてみたのですが(「映画祭メモリアル」の蛇足ですが)、翻って<ソドム>にもきっと、少なからず犠牲者の少年に自己投影があったろうとも思います。

服従を選んだ少年


特に、晩年、彼が構想を練っていた小説「石油」には、少年たちを金で買ってマゾヒズム行為に耽る主人公が登場するなど、彼の妄想的性生活の確実な反映が見受けられますから、この<ソドム>が例外的に「異常性欲」を描いた、というわけではなさそうです。必ずや彼の内部に止むに止まれぬ衝動があったはずです。
けれど一方では、どうやら<ソドム>には、<アッカットーネ>や<マンマローマ><豚小屋>に見られるような「主人公」と呼べる中心人物がおらず、従って、パゾリーニは個別の誰ソレに自分を重ねた、と判別することは出来ない気もしています。
むしろ少年少女たちは顔(個性)というものを欠いた「大衆」であり、その中でも「若い世代」であり、そこには、パゾリーニが自己投影しつつも、作者として批判者として、もっと客観的に・比喩的に、グロスで青年たちを捉えようとしていたようにも思います
ではなぜパゾリーニは自己投影可能だったのか。それは彼が、搾取される側のシンパであったからではないでしょうか・・。

母的なものはこの映画では徹底的に排撃されます。殺された母親を思い出し
て泣いている女の子に排泄物を食べさせる場面は象徴的です。
このご指摘も、仰るとおりに思います。前述のとおり公爵は、「一人立ちできるようになるとすぐに自分は母親を殺した。胸がすっとしたあの快感は忘れられない」と語りますしね。冒頭でも少年兵クラウディオくんが、マフラーを持たせに走り寄ってきた母親を罵ったりしますし・・


で、更にその「少年兵」たちの話題です。yumiさんのご指摘から・・
「ソドム」には少年少女の監視を担当する少年兵が登場しますが、最後の方で犠牲者の少年の一人がいつの間にか少年兵の仲間入りをしています。この少年は先の混声合唱の場面で熱唱していた二人の少年のうちの一人ですが、なぜ、いつのまにテキに寝返ったのでしょう。

いわゆる青いリボンを免れた犠牲者は、体制側に立ってサロ政権への協力者となっていくんですね。具体的なことはよく分かりませんが、現実のイタリア史においても、連合軍への降伏とサロ政権の樹立、そして内戦へと移行していくなかでこのような「寝返り」は、例えばパルチザンの中などにもしばしば見受けられたのかも知れません。それから、確か、女の子たちは全員が「リボン組」となったのに対して、少年が免れています。公爵と熱烈キスを交わす彼などは完全に「体制順応者」になっていました・・・。
ちなみに余談ながらクラウディオ君という兵士、彼は「マフラーを忘れているよ」と追いかけてくる母親にペッと唾を吐く少年ですが、彼はパゾリーニ自身のおホモだちだったらしく、ローマ南の自宅から撮影現場にわざわざ「連れて行った」らしいです。なるほど巻き毛の彼はニネット・ダボォリに似ている、と識者のあいだで評判です(笑)

さて、犠牲者たちについてパゾリーニは興味深いことを述べています。「犠牲者=体制順応者」というような文脈が読みとれるようにも思うのですが・・・撮影中の取材にパゾリーニはこう語っているそうです・・

彼らはたまたま選ばれてしまったんです。無邪気なものです。最初のうちはすべてはゲームみたいに思っていて、本当に何が起こっているか知った時にはもう遅すぎたんですよ。けれど私は彼ら犠牲者たちが権力者たちに対して政治的に勝っているとか劣っているとか、決めつけたくはないですね。実際のところ、私は勝っていると思いますよ。でも、この映画では彼らはあくまでも犠牲者なんです。私は彼らを優しく扱うことはしませんでした。胸が張り裂けるような優しい感じにはしなかったんです。もし私が、彼らを、胸を立ち割るくらいに泣き叫ぶような、人好きのする犠牲者として描いていたら、観客たちはものの5分とたたないうちに映画館から出ていってしまうでしょうよ。でも私はそうはしなかった。なぜなら、私はそうじゃない(*彼らが決してそんな類の犠牲者たちではない)と信じているからなんですよ。

*は、実はわたしの勝手な意訳、超訳?です。
敢えて恣意的に意訳をしてみたのは、ここには、ファシズム社会が形成されていく過程において、一般市民はいつの間にか乗せられていたと同時に、彼ら自身もまたファシズム化の一端を担っていたのだ、という政治学の分析が見受けられると思うからなのです。
「彼らは自由だと思っていた」。これは「元ナチ党員10人の思想と行動」という副題を持つ、ドイツナチズムの政治過程を社会心理学的に分析したミルトン・マイヤーの本(未来社刊)の題名(邦題)ですが、市民たちはあくまでも自由意志で、ゲームのように、ヒットラーやムッソリーニの台頭に熱狂して、社会的ポテンシャルが「負」へ白熱していくことに無意識的に興奮していた、というのもまた歴史的事実だったようなのですね。こうした心情は、例えばベルトルッチ監督が<暗殺の森>で映画化したAモラヴィアの小説「孤独な青年」にも随所に感じられると思います。

映画では、「人間狩り」の場面で、「女をエサに捕まった」と揶揄されて犠牲者たちが思わずクスクス笑ってしまうシーンがありました。多少はビビりながらも、選ばれることに期待を持っている男の子も見受けられそうです。少年兵クラウディオ君の、母親を否定するまでのエリート意識には凄いものがありました(これについては後段のyumiさんの「階級憎悪」に関するご指摘をご参照ください)。また女の子のなかには芯からのファシストで、起立して敬礼するコもいましたっけ。なかなかの美人でした。要するに「人間狩り」の場面には「哀れ、可哀相」と同情されるだけでは済まされない、犠牲者たち自身の責任と愚かしさ(というのは言い過ぎでしょうか)を示唆する場面も含められていたようにも思います。
ここいらはヘタをすると犠牲者の個性が浮かび上がってしまう微妙な描き方でキワドイとも思いますが、抑制が効いていて(効きすぎていて?)、かえって不鮮明にすぎたかも知れません・・
ちなみに母親を目の前で殺されて連行されて・・と同情を掻き立てられるように描かれている(と思われる)唯一の犠牲者レナータちゃんですが、実はいきなりの「全裸」で登場します。そして権力者たちも思わず知らずグッと身を乗り出し、あとでは中心的に虐められる・・という演出は、ある意味では、「同情」→「欲情」→「虐待」の位相ずらしともいうべき絶妙な企みだったのかも知れません・・・

いずれにせよ、ファシズムを「支えた」大衆意識というものは、ファシズム成立過程に関する政治学の中心的な問題点ですが、その一方でパゾリーニがファシズム時代に母親とフリウリに引きこもり、農村の少年少女相手に教師をしていたこと、弟グィードのパルティザン参加とは好対照に、内向的で大学出のインテリとして人文的な生活をしていたらしいこと・・つまり、ファシストでもなく兵士でもなくパルチザンでもなく、比較的「自由」な立場であったこと、とどう関わり合いがあるのか、とても興味のあるところです。yumiさんご指摘のように「意気地なしの男の子」だったのかもしれませんし・・



A2[白痴さんのご指摘その1:マゾヒズムという系譜]
次に、マゾヒズムとの関連から、この作品にパゾリーニ映画一連の系譜を読みとるご指摘を白痴さんから頂戴しています。

「相談室」の家族映画論、興味深く読ませてもらいました。
確かに、パソリーニの映画には、マゾヒズムを強く感じます(特に「豚小屋」とか)。
そして、そこにはエディプス・コンプレックスの未解決、という問題が横たわっているのでしょう。いわゆるマザコンとマゾヒズムには密接な関連性がある、ということは心理学的には、「定説」といっても良いでしょう。


エディプス・コンプレックスという点からすると、「マンマ・ローマ」「アポロンの地獄」「王女メディア」は一つの系列に属する作品群、といえないでしょうか。「私は父を殺し、人肉を食った。そして喜びに震えた」という豚小屋も父親への攻撃という点でここに入れることも出来るかもしれません。
そして、エディプス・コンプレックスとマゾヒズムとの関連性を考えるならば、「ソドムの市」もこの系列の延長線上にある、とはいえないでしょうか。四方田犬彦氏は、パンフの中で、ソドムの市はパゾリーニの映画の中で「いかなる範疇にも属していない」と言っていますが。


わたしも前述の通り、ホモセクシャルと並んでマゾヒズムもまたパゾリーニにとってとても重要なセクシュアリティだったろうと思っていました。
でもその理由は、残念ながらわたしには定かには分からないのです(涙)。わたしの場合はただの直感みたいなもの、というか、パゾリーニ映画に感じる違和感、いごこちの悪さというか・・。
わたしはどちらかというと「社会に対する告発」的な観点で彼の映画を見てしまう傾向がありまして、今ひとつ彼のセクシュアリティには踏み込めないのですねぇ。けれどパゾリーニにとっては、場合によると、社会告発なんかより自己のセクシュアリティの方が重大で、抜きさしならない関心事だったかも知れない・・などと思うこともあるのです。

そんなことから改めてマゾヒズムに着目しますと、実はわたしが感覚的に感じているほどには、パゾリーニ映画の中で、マゾヒズムが正面切って取り上げられているということはないように思うのです。ここでいうマゾヒズムとは、よく言われるような「抑圧されて快感を得る嗜好性」程度の理解ですが、そうした嗜好性を持つ人物は、強いて探せば、自己を汚すことで快楽を得ている<豚小屋>のJPレオくらいでしょうか? ソドムの犠牲者たちは、あんなにナブられていても快感を得ているとは思えませんし・・
無論<ソドム>ではサドマゾがあまりにも突出している感じはありますが、それはサドを題材に取ったから当然の成り行き、ということにすぎないのかも知れません。また、もちろんパゾリーニほどの人が、単に自分の性的欲望を剥き出しにしただけの作品や定石通りのマゾ映画(?)などを撮るはずはなかろうとも思います。
けれど、大体において彼の映画の登場人物が「受難」とか「自己犠牲」とかいったモチーフのもとに酷たらしい最期を遂げることが多い、という点も明白ですよね。
これについては、「死」を耽美的・陶酔的に取り沙汰しているという感じも濃厚ですし、そういう意味でなら絶命への誘惑、みたいなマゾヒズムの匂いは極めて濃厚、という感じにも思っています。
そんなことで「パゾリーニにおけるマゾヒズム」というのは、すごく興味深く思いますし、白痴さんの仰るように、彼の生涯と作品に一貫して流れる地下水脈のようにも、わたしは思うのです・・


と書きましたら、マゾとサドは裏返しだ、というご指摘を白痴さんから頂きました。

A3[白痴さんのご指摘その2:権力者たちの自己処罰]
当然のことですが、同一人の中のサディズムとマゾヒズムは、形影相伴うがごときもので、サディズムだけ、とかマゾヒズムだけ、ということはありえない(「性理論三篇」J・フロイト)。
サディズムもマゾヒズムも攻撃性が他者に向かうか、自己に向かうかの差にすぎず、根っこは同じものだ、というのです。そして、その根底には人間への憎悪があること、他者への態度は自己への態度の反映であること(「自分を愛することが出来ない者は、他人を愛することも出来ない」E・フロム)、からすれば、さらに、サディズム=マゾヒズム、ともいえるとも思うのです。あの作品はパゾリーニの自己処罰であると同時に、権力者たちの自己処罰といえるのかもしれません。
ヒトラーの暴虐は、彼が成育過程において父親から受けた、酷い虐待に根本原因がある、とある精神科医は言っています。彼の暴虐は、虐待者の父に同一化し、自分を罰した、とも言えるのです(勿論社会的・歴史的事件を家族間の話に矮小化するという問題はあるのですが、これはある種の精神医学・心理学の常ですね)。
とすると、4人の権力者たちも虐待経験があるということになるのか、問題になりますが、勿論それは不明です。
ですが、そもそも彼らは何がしかの欠落感があって、それを埋めるため過剰に力を追い求め、ついに最高権力を手中にしたのかもしれません(公爵は世襲なので別)。
その欠落感が生育環境に起因するとすれば、虐待があったと想像することも出来ます。というと、うがちすぎのようにも思えますが、残虐な犯罪を犯した犯人の生育環境が悲惨なものである確立が極めて高いことから考えると、あながちそうともいえない思われます。

不幸な少年(右)とその後(左


このご指摘で思うのは、「ダーチァ・マライーニによるインタビュー」でパゾリーニが少年時代を回想している、その回想の仕方です。あそこで彼は、とても感傷的に、「私は子供時代にとてもノスタルジックだったし、ナルシスティックなまでにそれを生き直そうとしていた」と語っていましたっけ。
パゾリーニにとって「埋めるべき欠落」は、誠に多かったろうと思います。例えば、暴君的な父親のせいで得られなかった家庭の幸福。母親との、正常な(普通の)関係。そうした欠落が原因となって、同性愛志向となり、またそこで社会の無理解、批判、非難にさらされて、田舎教師の職を失い、心の故郷を、それまでの人生を失ったわけでした。
そんな人生では、とても自分を愛することは出来ようもないでしょうし、他人を愛することも当然に出来ない、かなりクールで淡泊な性格にならざるを得なかったかも知れません。そして、常に「自分が悪いのだ」という苦悩に引き裂かれそうになっていたことも理解できます。

このように「悪い自分」を「罰する自分」、という風に分裂した自己が「犠牲者」と「権力者」とに配置されていると考えると、わたしが先に書いたような「抑圧されて快感を得る嗜好性」程度のマゾヒズム理解よりも明確に、複雑な彼の人生に裏書きされた<ソドム>像が浮かび上がってくるかも知れません。
またここで「罰する自分」が登場して来るのは、前掲のyumiさんのご指摘も踏まえると、パゾリーニにおいて欠落している「父親なるもの」の埋め合わせとなっているのかも知れませんね。
そしてこれらのことは、なぜパゾリーニが、あのような異常な権力者たちの振る舞いを、ひいてはあのような恐るべき映画を、あれほどまでに冷静に演出できたのか・・という点にも迫ってくるように思います。パゾリーニが単なるマゾリーニだったら(笑)、そうした性的嗜好性がグッと剥き出しになって、畢竟「大衆的な」ポルノ映画に堕ちてしまったろうと思うのですが、そうはなっていない理由のひとつは、このように彼の人生に密着した「自伝的」「個人的な」映画という側面があるからかもしれません・・


[閑話休題その3]
趣味実益を兼ねる出演者たちとその後の運命?

ここで突然ですが、衝撃的(笑)な事実をご紹介しておきたいです〜
いや、当然と言えば当然かもしれませんが、<ソドム>に登場する犠牲者の少年少女たちは「マゾ」である、とパゾリーニ自身が話しています。
と、いうことは、「それはウソじゃないか」とも勘ぐりたくなるのですが(笑)、フランスTV局レポーター、フィリップ・ブーヴァルのインタビューをご紹介いたしましょう。この内容は、初公開時のソドムパンフにも掲載されているものです・・

Q:この映画では何百人という少年少女が誘拐されて、凶暴で残忍極まりない拷問を受け、最悪のかたちで絶命に至るわけですね。あなたはどうやってこれら何百人という少年少女をリクルートしたんですか?
A:サドの小説では何百という人数ですが、わたしの映画の犠牲者は、たかだか20人くらいですよ。彼らを選ぶにあたっても、わたしは他の映画の時と同じことをしたまでです。つまり彼らに直接会ってみて、そしてベストと思われた者たちを選んだんです。
Q:彼らはマゾヒストですか?
A:わたしが彼らを選んだ、ということは、そういうことですね。

うーん。まあ、どうでもいいですけどね。あんましマゾらしくないよね、みんな(笑)。どうなんでしょ?
というか、この発言がテレビ放映されることを承知で、パゾリーニは保身を図った・・つまり彼らは好んでああいう演技してるんだよ、と監督自ら釈明しているように聞こえなくもないですねぇ。
蛇足ですが実際問題として、この映画公開後、製作者のAグリマルディは「未成年者に対する性的虐待」の容疑で告発されているそうですが、実はグリマルディ自身は、この映画の撮影中、一度もセットに足を踏み入れたことがなかったのだそうです(Gバックマン:フィルムクォータリー誌)。このため、製作企画からスタッフ選び、キャクティング、美術、音楽、録音、最終的な編集に至るまで、パゾリーニは並々ならぬ「実権」を手に入れて、全精力をこの映画に注ぎ込んだということです。「私は完全にこの映画に恋しているのだ」とは監督本人の素晴らしい言葉ですが、さもありなん、という感じですね・・
と、その一方でこの「彼らはマゾヒストなんですわい」という監督の発言(これは死の二日前の発言でした)が残されてしまったことは、この映画に禍根を残したとも言えるようです。というのは多くの半可通はこの発言を監督自身の「自白」のように扱い、ここから「パゾリーニは映画を撮りながら若い出演者たちと変態乱交を繰り広げた」と書きたてたわけです。

マゾひすと劇場
1)たくさん、くださいな〜〜
2)はい、おまちどうさま
3)えーっ、これっぽっち?
4)文句いうと、おしおきよ!

で、監督に「そういうことですね」と言われてしまった犠牲者の皆さんのその後をご心配されているごんべえさんから、こんなご質問を頂いております・・

あれだけ痛めつけられて問題ないんですかね?いくらパゾリーニの映画に出演出来るといっても、鞭で叩かれたり、局部やおっぱいを蝋燭で焼かれたり、焼き鏝で胸に刻印されたり・・・。
今、あの出演者たちは、45歳あたりかな?ビデオ見ながら気になっております。どなたか、回答をいただければ・・・。
P.S ウンコは、本物なのでしょうか?

えー、まずは「ウンコの真贋」についてですが、こここれは・・(笑)。ホンモノの方が楽しいような、でも、ホンモノに似せて小道具係りさんがコネコネ作っている姿を想像するのも楽しいような(笑)。
と、書いておいてナンですが、先日Gary Indianaという人の「Salo or the 120 days of sodom」という本を読んでましたら、このインディアナさんによると、ウンコは高級スイスチョコレートとオレンジママレードで作ったあったらしい記述がありました。なんだ、残念!(爆)バレンタインデーがこれから楽しくなりそうですがね・・ちなみにウンコが乗っていた上品なお皿は「ジノリ」の高級品で間違いないようです〜

それから「痛めつけ」についてですが、この映画のサドマゾ場面を思い出しますと、「全編ソレしかないじゃないか」と仰る向きもありますけれど、特にラストの「殺戮シーン」で一気に百花繚乱咲き乱れるのですね。ここは、権力者たちが双眼鏡で覗いているふうに見せる演出のせいか、ややファンタジックな?空想的な味わいにもなっていて、白眉のラインダンスをはじめ、司教猊下はムチを振り振り何か絶叫してるわ大統領はローソク持ってニタニタするわ、警備兵たちは鉄輪絞首でふざけるわ、完全にサディズムのテーマパークと化していました。

で、ここで「おもちゃ」「モノ」のように殺戮に弄ばれる犠牲者たちですが、今では45歳くらいになる、あの少年少女たち。ホントに焼きゴテ押されたり蝋燭で焼かれたりしてたのでしょうか??
パゾリーニいわく「彼らはマゾ」とのことですけど、そうはいっても、あれは一応「映画」ですので・・・まあせいぜい、皆さんは膝を擦りむいたり、蚊に刺されたりといった程度ではなかったかとわたしは思いますけれど。でも自信はありません(笑)。

そういえばパゾリーニ映画って、ほとんど「特撮」がありませんし、またそれが必要になるような映画は撮ってこなかったわけですが、それでも若干の「特撮」(らしき)試みもちゃんとやってます。
例えば<奇跡の丘>でイエスが死海を歩いて渡る場面(どこが「特撮」やねん?)や、<テオレマ>で女中エミリアが空中浮遊する場面、<カンタベリー>のラストの地獄図(サタンのおケツ模型)、それから<アラビアンナイト>ではライオン登場の場面(合成シーン)やチッティ悪魔と王子の空の旅、などなどですね。

一方で、エミリアはしっかり土の中に埋められてるし、アンドレウッチォもコエ溜めらしき穴ボコに落っこちてるしで、まあ役者さんたちは大変です。<王女メディア>にはメディアが炎の「みそぎ」を受ける場面がありましたが、このシーンの撮影中にマリア・カラスのスタンドインが火傷を負って大騒ぎになったりしています。(なお、このエピソードは、この火傷事件で急遽カラスのスタンドインに起用されたナディア・スタンチョフという女性が書いた「マリア〜回想のマリア・カラス」音楽之友社刊に詳しく書かれています)

それで肝心のごんベえさんのご質問、つまり犠牲者たちのその後の運命ですが、<アラビアンナイト>では主役を張ったフランコ・メルリ君はIMdbで確認する限り<ソドム>以後も2本の映画に出演してますね(つまり舌は抜かれなかったみたいですね)。
また女の子については数名の消息が分かっています。
まずまっさきにウンコを頂戴したレナータ・モア嬢「Nazi Love Camp 27 (1977)邦題:ナチ<秘>女収容所/ゲシュタポ・ハーレム」に堂々出演(笑)。ナチスの収容所を舞台にした拷問映画ですね。従って境遇は<ソドム>の時とあまり変わらないんじゃないでしょうか。実は拙宅「シネマギロテスク」の狩刈くんがなんとこのレナータ・モア嬢のファンページを作っています。ご興味のある方は(いないか)こちらにどうぞ!
さてもう一人、消息の分かっているアンティネスカ・ネムール嬢はというと、名匠チェーザレ・キャネヴァーリ監督「Gestapo's Last Orgy (1976)邦題:ゲシュタポ<ナチ>収容所」(爆)。またかよ〜〜。でもコレはわたし、見たことがあります。主演のダニエラ・レヴィ♪が、<悪魔のはらわた>に出てくる女アンドロイドみたいにお目めパッチリの美人で印象的でした。<愛の嵐>を彷彿とさせるストーリーでしたが、レヴィ嬢はネズミでいっぱいの箱に向かって逆さ吊りにされ、髪の毛をカジられてましたっけ。ちなみにアンティネスカ嬢はほかにも数本の映画に出演しているようです。
さらに犠牲者オルガ・アンドレス嬢ですが、彼女は「sabado, domingo y viernes (1979)」というイタリア・スペイン製作のオムニバス映画に出演。こちらは「コメディ」だそうです。また大統領の娘役スザンナ・ラダエッリ嬢「Stangata in famiglia (1976)」に出演。こちらは<大きな鳥と小さな鳥>での娼婦ルナ役が印象的(なのはわたしだけ?)なイタリアンお色気女優フェーミ・ベヌッシ♪主演作ということです。
まあ、皆さん地道にご活躍いただいているということで良かった良かった!


出演者たちのその後に関し、実は「同窓会」が企画されていた!という貴重な情報をAnon.さんから頂戴しました。

ネットでたまたまこんなサイトを発見しました。
イギリスのアーティストが「ソドムの市」の出演者に呼びかけて同窓会を開催するという企画をたてるのですが、たった一人を除いて、出演者の誰からも応答がなかったという内容のビデオ作品です。
呼びかけに応じたたった一人というのはアントニスカという女性で、現在は歯科医をなさっているそうです。
すきっ歯好みのパゾリーニ作品に出演した女性が歯科医になっていた、というのはオチとしても面白いと思いました。


一人しか応じなかったというのは何やらミステリアスでそれなりに大変結構なことでした(笑)。記事によれば「同窓会」は仕方なく代役を立てて催されたとか。出された食事が気になりますがそれはともかく、アンティネスカさんが歯医者になられたというのは、なるほどpppとの因縁が。。もしも彼女が「歯抜け」のせいで選別を外されたあの犠牲者候補美少女(←ほかに呼びようがないのか?)だったとしたら更に最高のオチですが、それもともかく、上記リンク先にあるポスターは真に迫っていて傑作ですね。出来れば顔写真の下に名前を入れてもらいたかったです。わたしはいまだに、若干名を除いて、誰が誰やらさっぱりわかりません。
べつに分かったところで、どうでもいいことですが(爆)


ところで!
それじゃあ権力者たちは本当に「サド」なの? というと、実は犠牲者たち以上に地道な方々ばかりなのですねぇ。公爵役の名優パオロ・ボナチェッリは別格として、その他の方々について例によってyumiさんからの貴重な情報です(いつもありがとうございます)。

ソドムで大統領を演じたアルド・ヴァレッティ氏はアマチュアの俳優ということですが、アマチュアなら別に本職があるはず。氏は一体何を本職としていたのか? というのが長年の疑問だったのですが、最近「パゾリーニ・レクイエム」という本を読んでいたら、Latin Teacherと書いてありました。ラテン語教師ってことなんでしょうね? ということは犠牲者役の少年少女は担任クラスの生徒か? あと、ジョルジオ・カタルディはボルガータ出身で、ソドム出演当時は紳士服店のオーナー、ウンベルト・パオロ・クインタヴァッレは作家・批評家とのことでした。
ギロさんはウンベルト氏の作品について何かご存知ですか?


「パゾリーニ・レクイエム」はバース・ダヴィッド・シュワルツによる、95年に刊行された彼の伝記本決定版ですね。なかなか手に入らない本で、yumiさん、ここまでご研究とは素晴らしいです!
さてシュワルツによればなるほどAヴァレッティさんはラテン語教師にしてエキストラ俳優をしていたらしいです。教師はともかくエキストラとしては、彼は「役者のコーナー」にも書きましたとおりティント・ブラス監督作品<サロン・キティ>にも登場してますが、あまり古典古代に教養深くは見えません。なにしろ<サロン・キティ>でもセリフ無しでしたし・・ハダカの女の尻に向かってダーツなんかしてましたっけ。
司教猊下のGカタルディさんはパゾリーニ自ら「彼とは<アッカットーネ>を撮っていた時分に知り合ったものです」と語っているように古いつきあいらしいですね。洋服屋の主人らしくスーツ姿はキマっていますが、脱いでも筋肉質で、いいカラダをしていました。
判事役の作家クインタヴァッレさんについては、以前、確か須賀敦子さんの本(だったと思うんですがはっきりしてません・・・)のなかに名前を見かけ、びっくりした記憶があります。現代イタリア文学サイトでも見かけたことがありますから結構有名な作家のようですが、どんな作品を書いているのか分かりません。どなたかご存じの方、いらっしゃいませんでしょうか??ちなみに彼は「ソドムの日々」なる小さな本を書いて、この映画の撮影風景を記録しています。その中で彼は「パゾリーニは撮影現場で非常に尊敬されていた。彼の権威は絶対的だった・・あるとき地元高校の校長先生がやってきて生徒たちにお話してもらえないかと頼みに来た・・彼は自分のことを迫害されている、脅迫されている人間だと思っていたらしい」などと書いているそうです。校長先生云々はともかく「彼の権威は絶対的」のあたりがやがて無責任な引用者らによって好き勝手に解釈されてしまい、ここでも「パゾリーニは自分のセクシュアルな妄想を映画の中で実行しようとしたのだ」といった非難を生むこととなります。確かゲイリー・インディアナさんだったかはこのクイ ンタヴァッレ氏の本のことを「あの悪名高き本」とか呼んでいました。この映画が引き起こしたスキャンダルの火に油を注ぐような一種の売名好意的便乗本?だったのかもしれませんし、あるいは少なくとも「油」とみなしうる格好の素材をこの映画を非難した人々に提供したのかもしれません・・

ともあれ素人俳優の起用についてパゾリーニは「今回の<ソドム>ではとにかく完璧を期したかった、だから初めて素人俳優相手の問題というものを認識した」とGバックマンに語っています。何度も何度もリハーサルをやり、何度も撮り直してベストと思われるものを編集したということで、結構皆さんに手こずらされたみたいですね。いずれにしろ、権力者の皆さんはそれぞれつましくお暮らしの方々のようで、であればこそ、この一作で映画史上に燦然と輝く偉大な勇名が記憶されてしかるべき方々というべきでしょう(笑)。
その意味では、蛇足ですが公爵Pボナチェッリさんの次の出演作がフランチェスコ・ロッシ監督のサスペンス映画「ローマに散る」(リノ・ヴェンチュラ主演!アラン・キュニー、マックス・フォン・シドー、フェルナンド・レイ共演!アストル・ピアソラ音楽!)だったというのは、変わり身の速さが際だってますね。



A4[白痴さんのご指摘その3:ソドムのおける「母親」なるもの]
今度は<ソドム>でこのうえなく残酷な仕打ちを受ける「母親」なるものについて・・
この「母親の排撃」は既にyumiさんからもご指摘がありましたが、マゾヒズム〜エディプスコンプレックスとの関連から、引き続き白痴さんのご意見です。
こういうご意見を頂戴するのは、まことに嬉しい限りです〜


「ソドムの市」の中の、公爵の「母殺し」に関する下りについては、それほどパゾリーニの母への執着が強かったかったために、殺さなければならなかったのではないか、と思います。
彼の母親は、彼に愛情を注いだと言われています。が、本当に愛情深い母なら、子供を彼のようなマザコン状態に陥らせなかったはずであり、母親のパゾリーニに対する感情は、本当の愛と言うよりも、「支配」「利用」というものだったのかもしれません。とすると、彼の母親に対する感情の中に、憎悪が含まれているのももっともな気がします。むしろ、母親の偽りの愛=支配しか受けられず、ために、母の愛を求めつづけ、母に対する執着から逃れられなかったのでしょう。
そして、母親に同一化し、父親に対する同一化に失敗してしまったことが、彼を同性愛に導き、あのような最期に導かせた、と思われます。


<ソドム>の頃、パゾリーニが母親をどのように思っていたかは、現在のところわたしには不明です。
終生、母への愛は変わらなかったんじゃないかとも思いますし、一方ではその愛も普通でなく、骨肉の愛憎めいたものがあったかも知れません。
従って、無意識のうちに、母親の過度の愛情(偽りの愛=支配)に対して<ソドム>で「母親なるもの」を排撃するということも十分考えられますね。
また「母親の過度の愛情(偽りの愛=支配)」といえば<マンマ・ローマ>のグレートマザーがマザマザと思い起こされますが、あの作品で最愛の息子エットレを敢えて殺した(あまり必然性もなく?)のも、母親なるものに対する復讐そのものという感じもしてきました。

また、ここで突然ですが、「母親」に関連してひとつの邪推を述べておきましょう。
「生の三部作」以後、この<ソドム>にしろ小説「石油」にしろ、晩年のパゾリーニ作品は、いよいよ妄想的・脅迫観念的なセックスが剥き出しになってきます。10年前に撮っていた映画と比べると格段の違いです。
そのうえ彼の実生活においても、モラヴィアが指摘するように、それまでに比較すると性に対してかなりパラノイアックになっていたようですし、現実に、彼の最期があまりにも無防備で自暴自棄的で、ある意味ではなかば自殺的な最期だったことを踏まえると、晩年の彼は危険な街中で拾ったゴロツキとのセックスという「悪あがき」に身もだえしていたように、わたしには思えるのです。50代も半ばになって、です。
そこまで狂騒的に彼を駆り立てた、一種のパニックとはなんだったのでしょうか?
わたしはそこに、母スザンナに近く訪れるだろう「死」という、彼にとって非情な現実への恐怖感があったのではないか、などと想像しています。


A5[討議:マルガリータ!あるいは優雅なる救済の?ダンス]
さすがの変態地獄映画にも、ついに終わる時がやって参ります。
館の庭では殺人の饗宴が繰り広げられ、それを双眼鏡で覗きながら権力者たちが自慰に耽るなか、控えの間では少年兵が優雅なダンスに興じて話しています「彼女の名は?」「マルガリータさ」
「野蛮の神話」の著者ファビアン・ジェラールはこの場面を救済の暗示とし、その理由として、マルガリータとはファウストに登場する永遠の少女グレートヘンのことだ、と指摘しています。一方不肖わたくしといたしましては、「赤い旅団」のリーダー、レナート・クルチョの妻もまたマルゲリータであると・・蛇足ながら視界の隅に入れてみました。
(さらに蛇足ですが、この映画の構成がダンテの「神曲」をもじっているとなると、なぜ「ベアトリーチェ」でないのか?という疑問もありますが・・)
ともあれ皆さんは、この場面をいったいどう見てらっしゃるでしょう?

白痴さんのご意見をご紹介させていただきますと・・・

最後の場面で、少年兵たちが踊りながら、「彼女の名は?」「マルガリータ」という会話を交わすくだりですが、次のように考えられないでしょうか。
ここで示されているのは恋愛的コミュニケーションの成立です。これに対して、権力者たちの会話には、憎悪と人間不信に満ちた反恋愛的コミュニケーションしかありません。非人間的で孤独な権力者に対して、民衆の人間性・親密性を対置し、民衆への信頼を表明し、賛美している、と。
マルガリータ=グレートヘンであり、救済を暗示している、という説も、愛による救い、という点では通じるものがあるかもしれません。

確かにあそこだけ、なんのへんてつもない会話でしたね。この映画で、ほとんど唯一の「普通の会話」でした。
あれだけ猖獗極まる阿鼻叫喚地獄を経験してもなお、あのような普通の会話がすんなり交わせる、そういう民衆的なものの強さ(・・うまく言えないのですが)には 確かに共感が寄せられ得るかもしれません。「終わったな」と握手して銃を降ろして、自己陶酔の極みにうっとりしているような権力者たちの背後に回って、恋人のことを思い出しながらダンスに興じるというのは、どことなく、権力をあざ笑うようでもあり、不思議な開放感を醸し出しているようにも思えます。

なんなんだこれは?

一方、この点に関するyumiさんのご意見は反対の見方となっていて、またとても味わい深いのです・・・

「ソドムの市」のラストシーンについては、私もあれこれ考えていたのですが、白痴さんの「民衆の人間性・親密性への信頼・賛美の表明」というご指摘はとても興味深いです。
ダンスといえば、「マンマ・ローマ」にもダンスの場面がありました。マンマ・ローマとエットレがダンスのステップを踏むという小さな場面でしたが、ここではダンスは社会的上昇の夢の象徴として描かれていたと思います。マンマ・ローマは優雅なダンスの向こうにブルジョア世界を幻視していたのかも知れません。
「ソドムの市」ではその夢が、権力のシステムに魂まで蝕まれる悪夢として描かれていると私は思います。
少年兵の一人・クラウディオは、首にマフラーをかけてやろうとする母親に「あっちへ行け」と冷たく言い放ちます。そして続く場面ではファシストの娘の顔にいきなり痰を吐きかけます。この二つの場面には、階級憎悪が明確に描かれています。自身の貧しい出身階級への憎悪と、自身の上に君臨する支配階級への憎悪が。
ラストシーンのダンスは、この映画の登場人物の中で唯一、階級憎悪という激しい感情を無機的とも見える外見の内にたぎらせるクラウディオが、自らも支配階級の一員となることを選んだことを暗示しているとも読めるのではないでしょうか。
ここには、ブルジョア的道徳に感化されてしまった民衆はもはや革命の担い手たりえないというパゾリーニの認識があるように思えます。
こうして、「ソドムの市」はマンマ・ローマのはかない夢にパゾリーニが与える最終的な、苦い回答である、という具合に、白痴さんのご指摘とは逆の解釈を私はしていました。
しかし、パゾリーニにとって民衆以外の拠り所がない限り、「ソドムの市」の中にも希望を探す必要があるかも知れません。すぐ近くで虐殺が行われつつある状況の中で、平然とガールフレンドの噂を語り合えることは民衆の強さなのか、それとも現代人の精神の荒廃なのか、どちらともとれそうです。


うーむ。
こうなると、わたしの頭にはあのテーマ曲がグルグル回りだして思考回路がすり切れてしまいそうなのですが、確かに、「民衆の強さ」「現代人の精神の荒廃」いずれも成り立ちうる、まさに可読性豊かな幕切れと言わざるを得ませんね・・
そのうえ、とても貴重なご意見だなあと思いますのは、どうも日本人には疎くなりがちな「階級意識」というものに基づいて少年兵の言動を捕らえようとされている点です。この「階級意識」とは、パゾリーニ映画はもちろんイタリア社会全般において忘れることの出来ない重要なファクターでもありますし。
で、確かに少年兵クラウディオは農村出身の小せがれにすぎないのに、権力者たちの作り上げた社会システムのなかで思わぬ権力を与えられ、同じ小せがれたちをドツイたりブルジョワ階級のお嬢様にツバを吐いたりと、勝手な暴力をふるいます。このあたりは政治学者 丸山真男が「超国家主義の論理と心理」(未来社刊:「現代政治の思想と行動」所収)でつぶさに書いたような、農村を舞台とする「上からのファシズム」「下からのファシズム」のメカニズムを彷彿とさせる行動にも思います。

それから、これはGバックマンが指摘していることですが、サドはバスティーユ牢獄で来るべきフランス大革命の予感と期待のうちに「ソドム120日」を書いたのに対して、パゾリーニは先進資本主義国でのブルジョワ革命への絶望のうちに<ソドム>を作ったのだ、ということ。この点もyumiさんのご指摘と響きあっていて、パゾリーニ映画の最後の幕切れにふさわしい多義的な意味を持っていると思いますね。

それで、幕切れ、という観点では愚造さんからは次のようなご意見をいただいています。

僕もあのラストダンスはいろいろと考えてましたけどyumiさんのご意見も白痴さんのご意見もおもしろかったです。
で、僕はですねぇ。難しいことはよく分からないけどパゾリーニの映画って、必ず、なんか絶望的になって終わりますよね。
だからあのラストダンスも、あんまりハッピーな感じじゃないのかなって思ってます。「救い」っていうよりは、「ダメおし」って感じかな。でもホントにそうかは、分かりませんね。
それより本当のラストシーンは、やっぱオスティアの海岸にころがってた監督自身の死体がふさわしいって感じですかねぇ。


「ダメおし」というのも一理ありますね(笑)。思えば<アッカットーネ>の「ああ、もう大丈夫だ」とか<テオレマ>の「ウォァァァァァァアアアアアッ」(涙)も、いずれもグッと胸に迫る絶望がありました。けれど<ソドム>と同傾向の神秘的な寓意劇<豚小屋>では「よしっ、それなら他言無用だぞ!」というのが最後のセリフで、これは本編全体をフワッと持ち上げて相対化・客体化するような、不思議なアウフヘーベンというか、観客を一気に遠いところに置き去りにしてしまうような幕切れだったと思います。
その意味ではこの「マルガリータ」も観客をケムに捲いて「なんなんだこれは?」という果てしない疑問地獄に突き飛ばすような幕切れなのかもしれません。我々みんな、なかなかサロには連れていってもらえないようですね(笑)。


A6[美学・記号学・バルト〜ネット・サーファーさんのPPPへのアプローチ(第三稿)

掲示板でPPP論考を投稿してくださるネット・サーファーさんから<ソドム>について次のような見解を頂戴しています。
実に複合的で、作家主義的な観点からのご指摘なのです・・

『ソドムの市』に関する、興味深い論考、改めて拝読させていただきました。映画監督であり、記号学者でもあった、パゾリーニが、『ソドムの市』の制作に際し、同じく、記号学者である、ロラン・バルトの、『サド/フーリエ/ロヨラ』に、着想の点で、多くを負っていたというのは、大変に興味深い事実ですね。
『パゾリーニとの対話』のなかで、彼(パゾリーニ)は、自分自身の事を、様々な作家(溝口、チャップリンなど)のエッセンスを抽出する、「模倣者」であると定義しています。
パランプセストとは、若干、意味が異なりますが、そうした観点(他の文化人との接点)から、この作品(『ソドムの市』)を考察すると、そこには、様々な人物の影が見えてくるように思います。
まず、ロラン・バルト。ギロさんは、第二部の最後で、反乱兵が、頭上に掲げた、握り拳について、言及しておられますね。この箇所を読んだ時、私は、一冊の書物を思い浮かべたのです。それは、バルトの著した、『第三の意味』です。この本のなかで、バルトは、『戦艦ポチョムキン』における、複数のフォトグラムを題材に、「自然な意味」についての、解説を行っています。そこでは、「逆さに見られた、誰かの拳(詳しくは、ちくま学芸文庫版の『ロラン・バルト映画論集』、19ページを参照して下さい)」が、取り上げられているのですけれども、

― ふつう怒りの拳は上を向くから ―

バルトによる、この指摘が、パゾリーニに、記号学的な見地から、影響力を及ぼしていたのだとすれば、一つの発見のように思うのですが、いかがでしょう。
また、作劇法の点では、パゾリーニは、この作品において、ベルトルト・ブレヒトのスタイル(寓意)を踏襲していますね。こうした傾向は、彼の監督した、他の作品(『テオレマ』、『豚小屋』)においても顕著なのですが、ギロさんも指摘するとおり、この作品では、それが、極めて理解しづらいのです。無論、この作品には、パゾリーニの性的嗜好が、多分に投影されてはいるものの、これ自体、彼ならではの、美学を意味しているように思うのです。
即ち、愛や平和を描く事によって、戦争を糾弾するのではなく、悲惨な世界を提示する事によって、大衆に警鐘を鳴らす、極めて婉曲な、異議申し立て。反動的な衝動を契機としながらも、映画というマス・メディアをとおして、パゾリーニが、観客に伝えたかった事。それは、観客自らが知覚する、サイレント・ファシズムの存在なのではないでしょうか。それは、作家の、婉曲な意志表示として、観客の思考を混乱させる一方で、仮に、解答との距離を、作家自らが、縮めてしまうようであれば、観客の、作品にたいする求心力は、すぐさま、失われてしまうのです。



まず<ソドム>に見るパゾリーニならではの美学、というご指摘、実に同感です。
というのはですね・・それに先立つ例の3部作なんですが、ひとくくりに3部作と言っても作り方とか語り口とかテーマとかは微妙に違って、だんだんと<ソドム>的な「異空間」みたいなものへの志向性が強まっていくみたいに思うんです。従って<ソドム>は満を持して造られていったようにも思うんですね。
また映像やカメラワークや音楽などは、これはもう凝りに凝っていて、厳格なまでに様式的で、しかも自然で(作為丸見えでなく)、全体としてこの映画の雰囲気はまさしく「美学」という次元で語られるべき、とさえ思ってしまいます。なんかメロメロに人を酔わせる美しさがあるのですね(とは、わたしだけではないでしょうね?ドキドキ)。
そして、そうした映像・音響の「美学」の背景にあるもうひとつの美学、それは、「謎は謎のままにしておく作家の美学」とでも言いましょうか。言いたいことを言ってしまっては、芸術ではないのですね。作家は、言いたいことは言わないで描く、投げ出す、表現する。芸術創造の単純かつ深遠なこの奥義が、特に<ソドム>においては全体を太く深く貫いていて、だから多義的だし豊饒だし、と思うんです。

解答との距離を、作家自らが、縮めてしまうようであれば、
観客の、作品にたいする求心力は、すぐさま、失われてしまう

これこれ!わたしの言いたかったことはまさにコレなんです!
で、この映画作法は(やや暴論ですが)寓意に満ちたパゾリーニ映画の背景に、常にあったように思いますし、「寓意」というか、「ここにはない、ある世界(異空間)」をスクリーンに投影する試み、といいますか、彼の映画は、そんな「世界創造」のセンスオブワンダーに満ちていて、それは<ソドム>で最高の緊張感とともに成就した、というのが今のところ、わたしの考えです。
で、その「世界創造」というのは、実はサドが「悪徳の栄え」とか「ソドム120日」でやり遂げた(やり遂げようとした)ものと同じじゃないか・・という意味でロラン・バルトの「サド・フーリエ・ロヨラ」(・・この3人はいずれも言葉によって「世界創造」を試みた)とダブるところのように思っています。
しかも、パゾリーニは一時期(60年代後半)には集中的に作劇を試みていますが、そこでキーワードになっているのはネット・サーファーさんご指摘のとおり、ベルトルト・ブレヒトでした。ブレヒトのいわゆる「異化効果」と似たような趣向で、食人や獣姦や糞食を素材に現代社会を描出していったのが後期パゾリーニ映画に通じる特徴と言えるのではないでしょうか。

で、「怒りの拳」という意味表象も、そうした「世界創造」の重要な一翼を担っているはずで、「鑑賞の試み」に書きましたように、この「抗議・怒り・反抗」は、<ソドム>世界に対する救済あるいは「こけの一念」の価値としてパゾリーニが特に特に挿入したものだ、とわたしは考えてます。
もっとパゾ固有の文脈で言うと、あのイタリア人反乱兵が、明らかにアフリカの黒人少女と同衾していたということ・・これは先進資本主義国に絶望しアフリカ(第三世界)に活路を見いだそうとしていた晩年のパゾリーニの、一種の「願い」のようなものではなかったか・・などとも推測しています。
(ただ、こうした「符号・暗号」はパゾ固有の個人的な文脈であって、一般に訴えうるものではないのでしょうけれど・・)


A7[ファシズムが別の形で表れている〜サロ共和国]

続いてAyaさんからファシズムとの関連でご感想を頂戴してます。

私は社会の研究で「サロ共和国の滅亡」について研究しています。
私が思う「ソドムの市」は、ファシズムの無い現在とファシズム一色の四十年代当時とを比較したものであって、そしてその事から現在においてファシズムが別の形で表れているというものをあらわした、難解な作品だと思います。


「サロ共和国」を研究されているなんて、これまた素晴らしいお客さまにご訪問いただいて本当に嬉しいです。「サロ共和国」って実態がよく分からないので困ってます。
仰るとおり、過去のファシズムによって現代の(形を変えた)ファシズムをあぶり出す、という<ソドム>の意匠は、わたしたち、特にファシズムの記憶のないわたしたちにはとても難解で、でも、それゆえにいまだに刺激的な感じがしますね。

そもそも75年当時の「ファシズム」という語彙は、30−40年代の歴史的なファシズムとともに、「人間の顔をしたファシズム」「現代先進資本主義による人間性の簒奪」等、同時代のさまざまな文脈のなかで使われていました。けれど結局、今になってみれば「ファシズム」と言えば前者の歴史的ファシズムすなわち独占資本主義を基盤として発生した戦前戦中の一時的で特殊な政治形態である、と定義されるのみのようです。パゾリーニ(だけではなく、例えばフランスの新哲学派たちも)が提唱していた「現代のファシズム」つまり現代の(今日も続いている)「資本の論理による人間性の簒奪その全般」にファシズムという用語を当てはめることは、比喩的には有効であっても、学問的には曖昧さが多すぎてしまう一種のイメージにすぎないのかもしれません。

ところでパゾリーニは「過去」を再現(再創造)することにかけては名人中の名人でした。けれども<ソドム>で題材にされた「過去」は、公開当時の観客にはまだ記憶も生々しい「近過去」だったにも関わらず、あるいはそれ故にこそ、観客に混乱を与えた、ということがあったようです。
「実際のファシズム時代は、あんな感じじゃなかった」という批判が当然に湧き起こったようですし、特に「サディズムとファシズム」との重ね合わせについては、安易だとか、ファシズムの恐ろしさをエログロに塗り替えてしまった、ファシズムを却って分かりにくくした、とかいった批判を浴びています。
そのほか、この映画は「サドの原作をファシズム時代に置き換えた」と宣伝されているように、あくまでもサドの原作ありき、で、現代のファシズムのなんたるか、が置いてけぼりにされちゃったような、そんな受け止め方をされることが多いのです。特にアメリカや日本では、そんな感じが強いですね。

ある意味では、パゾリーニ映画には必ずといっていいほど「原典」があるのであって、それはボッカチオやチョーサーをはじめ、福音書、アラブの説話やギリシャの伝説などなどと多岐に渡るわけです。そしてその都度、独自の世界を構築してきたのがパゾリーニであり、その世界はいずれも「現代社会」に向かって開かれていました。とすれば、わたしなどはあえて「サド原作」に必要以上に拘泥する必要はなく、むしろ<ソドム>がいかに「現代社会」に向かって口を開けているか、を見て取るべき、と思っています。
その場合、当然に、映画が題材とした「30−40年代のファシズム」は、サドと並置されるべきもうひとつの「原典」なのであり、この位置付けを誤ると、サドについて、歴史的ファシズムについてハマってしまって、パゾリーニの構築した映画世界、すなわちAyaさんの仰る「現在においてファシズムが別の形で表れている」ことから離れていってしまうと思うのですね・・

PPP


[閑話休題その4]
完全版は、どこにある?

この映画は、よく知られているとおり製作中にフィルムの盗難にあっています。フェッリーニの<カサノバ>やセルジォ・レオーネのウエスタンもの(一説にはダミアーノ・ダミアーニ監督作品とも言われていますが)と一緒にこの<ソドム>も相当の被害を被ったらしいのですが、いまだその真相は薮の中だということです。
で、それはそれとして、そのほかいわゆる「当局による検閲」という「盗難」にもたびたび合っていて、パゾリーニ死後三日目に映倫に提出された時のフィルムの長さは全長3297メートルだったのに、約100メートル(3%程度)を切られてしまい、残ったのは3192メートルとなってしまいました。
その「切られた」部分には、詩人ゴットフリード・ベンの詩が引用されていた・・と、あるイタリアの評者が書いていますが、実はこの場面、ドイツ版には復刻されている、ということです。日本公開版にそんな場面はありましたっけ?(最近ビデオを見返しましたら、ありましたありました!セルジォくんとレナータちゃんの結婚式終了後、公爵がオバちゃんたちやユリの花もった犠牲者たちをニワカに扉の外に追い出してナニやら喚くところでちゃんと「ゴットフリード・ベン!」と引用を明らかにしてました。日本版はここ、無傷だったみたいですね)
話をもとにもどしますと、イタリアの「検閲」「カット」はこれにとどまらず、特に一番問題となったのは女の子たちが帽子をかぶったマネキン人形をい〜〜気持ちにしてあげるシーンだったとかで、あの場面もバッサリやられたとのこと。

また更に。これはIMdbにも書いてあるのですが・・オリジナルバージョンを見た人が書いたレビューによると、かつては、現在ある普及版のどこにも見あたらない次のような問題シーンがあったということです。で、そのシーンとは? 
ごっくん(笑)。マッパダカにされた女の子の股間に餓えたネズミを縛り付ける・・というシーンだそうで、これは確かカステッリおばちゃんだったかがそんなような話し(股間にネズミを入れる?んだっけ??)をしていたように思いますが、権力者たちはそれを実行しようとしたみたいですね。すごいですね・・というよりも、その真相は??

実は、この映画は上記のようにあちこちバサバサやられて、しかも確かに盗難に遭っていて、そのうえ上の方でご紹介した通り数多くのスチル写真(というか撮影現場の取材写真)が出回っている関係で、実に「まことしやか」に、「本当はこんなシーンがあったんだが切られたのさ」みたいなデマ流言ガセネタにコト欠かない映画でもあるのです。
というのはこの映画は、これまたご承知のとおり世界各国で上映が禁止されていて、オーストラリアでは一回切り、イギリスでもバサバサ切られて奇妙なイントロ・ナレーションつき、しかしイタリアでは当初の公開禁止から一転して近年ではケーブルTVでも放映され、日本ではボカシ入りなれど配給即公開の大サービス(試写ではボカシなしがかけられて大騒ぎ)・・、と各国の上映事情が異なっていますので、「俺はどこそこで見た」「こんなシーンがあった」などという他愛ない情報合戦がファンジンやジャーロ本に飛び交っていた一時期があるそうです。

実際のところ、わたしもイタリアからのオフザケ?メールで「本当はラストの殺人テーマパークは普及版よりももっと長かった。そこでは女の子たちは一人ずつクビを切られ、警備兵たちがサッカー(カルチョ)をした」という、ありがたい(爆)情報を頂いたことがあります。
またドイツのウエブ・フォーラムでは「娘たちがクソ桶に追いつめられ無理矢理に入れられるシーンを見たことがある」と書いていた人もいました。普及版では皆さんはクソ桶に「既に入れられている」状態で登場するのですが、まあ実際、「入らなければ」入ったことにはならないので、もしかしたらその時にカメラが回っていたのかも知れないし、それが盗まれたフィルムにでもあってフッテージとして流れたのかも知れません。
さらに、これはわたし自身の体験ですが、日本語版DVDの監修の際、メーカーさんに見せてもらった写真には珍しいものが何枚もありました。どれもイタリアから送られてきた広告用のスチルだったのですが四人の権力者たちが屋敷のバルコニーらしき場所から外に向かって拳銃を打ち込んでいるんです。おそらく逃亡した犠牲者を射殺しようとしているらしいのですがそんな場面は本編には出てきません。

真偽のほどはわかりません。こんな画像を見ますと、ウンコ美少女レナータちゃんの夫はセルジォ君だけではなかったことも分かりますし(笑)上にもご紹介したとおり、この映画のラストシーンと思われる「犠牲者全員のムクロが裏庭に横たえられているスチル」もあるにはあって、これも映画には登場しませんでした。セルジョ・チッティによるとパゾリーニはこの映画のラストシーンについて非常に迷い、考えに考え続けたといいますから(イタリアの映画ジャーナリスト:Aペッツォッタの記述)、いろんなシーンを試したことは事実のようです。「パゾリーニレクイエム」の著者シュワルツによれば、別のラストシーンの案として、殺戮を終えた権力者たちが車に乗って嬉々として屋敷を後にする案だの、突然ではありますが「赤旗」がインサートされて終わる案だのが用意されていたそうです・・

とはいえ、これらの怪情報はあんまり真面目に取り上げてもしょーがないゲテモノ・ネタでありまして、例えば先のAペッツォッタによればパゾリーニの死後、「パゾリーニはソドム撮影中に発狂した、そしてエキストラたちを本当に拷問した」なあんていうネタも飛び出したそうです。これは「その拷問で何人かの少年少女は、しばらくしたら死んでしまったらしい」なあんていうネタにも飛び火して、ついには「その拷問に頭に来た出演者が彼を殺したのだ」なあんてネタも、いまだに面白オカシク書き散らかされている・・というのが今日の<ソドム>余波の現状です。これらの情報は上に書いたような「少年少女たちはマゾヒストです」という監督自身の発言やクインタヴァッレさんの本を出所に、さらには監督本人を殺したのが未成年者だったこともあって被告の擁護のために「パゾリーニの死は因果応報で少年は正当防衛だったのだ」といった論調が出回ったことと深く関係しています。ですから、そのテのゲテモノ・ネタを見つけても、ご用心!
で、ここまで書いてナンですが、上に書いた幻の「プシーキャットとネズミちゃん」のシーンは、実はクライテリオン版DVDの商品紹介覧に背景として使われているというからオドロキじゃありませんか! IMdb情報ですから、まあ確実でしょう。どなたかご覧になった方はいらっしゃいますか? この情報はいつの間にか消されてしまったようなんですが・・というわけで、いやー謎が尽きない映画って、まさにこういう映画ですね〜〜

一方マジネタもあります。
これは日本版DVDを監修させてもらったついでにわたしが発見したことなのですが・・大統領の最後の台詞を皆さん覚えていらっしゃるでしょうか。「ファブリッツィオ!ボルシェビキが紅海に落っこちたらヤツらはどうすると思う?」「面白そうだね」「ヤツらは・・バッシャ〜ン!わははははは〜」(爆)ちっとも面白くないですね。
ところがこの部分、75年のオリジナル版では実はもっと面白くないギャグだったのですがそれがいつの間にか差し替えられていたんです。オリジナル版はこうなっていました。「ファブリッツィオ!ユダヤ人とアップルパイの違いは何だかわかるか?」「面白そうだね」「パイはカマドで焼けるとな・・いい香りがする!わははははは〜」(爆)
まあナチスの残虐行為とユダヤ人差別に配慮して差し変えられたことは推測できるのですが、日本では長いことこのユダヤ人バージョンで劇場公開されていまして、わたしも最初はこの版で見た記憶がありますしシナリオでもそうなっていました。一方ワーナービデオではすでにボルシェビキに差し変わっています。イタリア本国ではどうだったかというと、この映画は長い間上映禁止になっていたせいでいつ差し替えられたのかはっきりしてないそうです。でも大統領の台詞は映画監督マルコ・ヴェロッキォの吹き替えですし、差し変え後の声にも違和感がないので、もしもヴェロッキォ監督がそのまま吹き込んだのだとしたら、きっとかなり早い段階で差し替えられたのだと思われます・・
というわけで今後もしどこかでアップルパイ版を見かけることがあったとしたら、皆さん、それはレアものですよ〜!






なにかワタシに
相談ごとがありそうだね
さあて、目下の相談ごとは以上です〜。
みなさんも、ソドムにまつわるアレコレを是非お書き寄せください〜〜。


去ろ   わたしもアレコレ書くよん