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パゾリーニ映画鑑賞の試み〜デカメロン


−なぜ作るのか?夢の方が美しいのに

あるべき姿じゃよ!

今回は「生の三部作」の第一作、<デカメロン>についてのあれこれです。
すでに「三部作」の製作背景やその我流的位置付けと問題点などについては「こちら」で書いてみましたので、ここではまず、なるべく映画を楽しんで見てみたい(本来あるべき姿だ/笑)と思います。とはいえパゾリーニ本人が語る<デカメロン>製作秘話?も、ちょっぴり交えて参りましょう・・

いうまでもなく原作「デカメロン」はイタリアルネッサンス文学の金字塔ですね。この作品を書くに際して作者ボッカチオは、次のようなスタイルを構築しました。つまり、蔓延するペストを逃れるためフィレンツェ郊外に集まった上流階級の若い男女10人が、もて余したヒマをなんとかしようと、毎日ひとつずつお話をしてゆく・・10日間で100の物語が語られる、というスタイルです。
わたしは映画のみならずこの原作も大好きで、なんか、デカメロン♪と口に出すだけで、一種独特のユーモラスな、しかも耽美っぽく、そのうえちょっと「大人っぽい」世界(?)が舞い散るような錯覚に陥ってしまいます(ただし元々デカメロンという言葉は単に「十日」を意味するだけですが・・)。その昔はカストリ雑誌のタイトルにもなっていたようですし、「クラブ:でかめろん」なんてお店もあったようですから(ホントかな?/笑)、きっと、多くの方々がわたしと似たような感覚を持ってらっしゃるのではないでしょうか。
それはともかく、愛すべき原作について書き出すと収拾がつかなくなりますのでここは泣く泣く割愛しますが、機会がありましたら、皆さんも是非お読みください。

さてパゾリーニは前作<王女メディア>の撮影中にこの「デカメロン」の映画化を着想したと語っていますが、彼は前々からこの長大な物語集に惚れ込んでいたということです。映画化に際しても各エピソードはほとんど原作そのままで、手を加えていません。けれども、語り口と設定には、次のような、とても重要と思われる変更点があります・・

@語り口:原作は、前述の通り10人の男女が集って物語を披露し合うというスタイルでしたが、映画では、いきなり各エピソードを映像化してそれをぶっきらぼうと思えるくらいに繋げていること。けれど全体としては美しい調和をもっていること。
(ビデオ版では字幕で題名が入るのですが、初めて劇場でこの映画をご覧になる方は、話の継ぎ目がはっきりと分からずに混乱することもあるようです。)
A設定:原作は、前述の通りフィレンツェ郊外の避暑地で語り合うことになっていますが、映画では、ほとんどナポリで撮影されていること。
(セリフの大半は、結果してナポリ方言で喋られているといいますが、実際のところ字幕頼りの私たちとしては、悲しいことにその特異性がよく分かりません・・)

この二点は映画のオリジナリティと不可分であり、ひいては、映画化に際してパゾリーニが留意していた企画意図とも密接に関わるように思えるので、作者本人にそのあたりのいきさつを語ってもらいましょう。
まずは一点目の「語り口」からです・・

映画構成とエピソードの第1ブロック


パゾリーニは物語のチョイスと構成について次のようにインタビューに答えています。
私はボッカチオから自分の最も好きな物語を11から15程度、選びました。でもフタをあけてみると、4つの物語は犠牲にしなくてはなりませんでした。これらの物語は、「私が好きだから」という幾分か恣意的な理由で選別しました。これはまったく個人的な好みで選んだにすぎないので、どうしてあれは好きでこれは好きではないか、なんていう説明はちょっと複雑になってしまいます。快楽主義、というわけではないのですがね。
複数の物語を束ね合わせるために、私は次のような体系を立てて進めました。つまり、ボッカチオによる時系列的な順番を保ちつつも、二つのブロックを構築する−ひとつはチャペレット氏の物語を交互にモンタージュし、もうひとつはジョットーの一番弟子に関する物語を同様にモンタージュして、結合させていく、という体系です。これら明確なふたつのブロックの間に、「アリベックの物語」で幕間を作ってみたのでした。(ルイ・ヴァレントとのインタビュー1970.6)


ちなみに最後に言及されている「アリベックの物語」は、撮影はされたものの最終段階でカットされてしまったエピソードですが、なかなか魅力的で可愛らしい物語なので、このページの最後で触れることにしたいと思います。
まずは物語のチョイスについてですが、本人の弁によれば「ただの好み」ということらしいですね。とはいえ、パゾリーニはマルクス主義、具体的には階級闘争の観点から「富める者と貧しい者」のコントラストの色濃いエピソードを選び出した・・などと主張する評論家もいます。いろいろな見方はありえますけど、いきなりスカトロ臭プンプンの「ペルージャのアンドレウッチョ」から入ったのも、ただの好みだったのでしょうか(笑)。これはこれで、とても強烈なオリジナリティですけれどね(笑)。

それはともかく、映画の内容に入ってみましょう。
映画は、ガヤガヤとした雑踏らしき物音をバックに、歌声とラッパの掛け合いを聞かせるクレジットから始まります。猥雑で、庶民の活力に満ちた中世世界の騒々しい雰囲気が実に良く伝わりますね。ちなみにこの映画には、ほとんど切れ目がないと思えるくらいに、こうしたワイワイガヤガヤの雑踏の様子が音響効果として使われています。映画館でご鑑賞の際には、是非、スピーカーの近くでご覧ください。
一転して、なにやら物騒な顔つきをした男が登場。相手の姿は見えないけれど、男は袋詰めにした相手を撲殺し崖から死体を投げ捨ててペッとツバを吐く。なかなか刺激的です。演じるのはFチッティ(拍手!)。彼こそが第一ブロックを形成するための靱帯、極悪聖人チャペレット氏です。彼の圧倒的な毒々しいアップ映像にはグッと来ますね(来ない?)。

クソの画像はやめました・・

ところが突然、映像は青空に立つ貴婦人と荒れた城趾に開かれた市場の光景に移り「第一話:ペルージャのアンドレウッチョ」が始まります。悪党チャペレットの息詰まったアップから賑わいのある市場へと転移するこの空間的情緒的な開放感爽快感は、見事な転調ですね。
この「アンドレウッチョ」は、市場に牛を買いにやってきた金持ちのアンドレ青年が詐欺にあってクソまみれになり身ぐるみ剥がされてしまったものの、最後には素晴らしいルビーの指輪を手に入れた、という物語。「わたしはあなたの腹違いの妹よ」と迫る詐欺女はなかなか整った美人ですね。パゾ映画で一、二を争うくらいの美人度ではないでしょうか?(個人的には、わたしは<奇蹟の丘>の若いマリアが一位ですが/笑)。そういえば初公開時パンフの表紙には彼女の顔がデカデカと載っていました。
続く墓荒らしの場面では、泥棒たちの滑稽な会話と仕草がたまりません。全体にスピーディな展開で、開巻第一話としては申し分なく、ゲラゲラ笑っているうちに、ついつい映画のペースに巻き込まれてしまいます。青年役の俳優Nダヴォリの無邪気でおバカな存在感があってこその心地よさ、後腐れのなさが楽しいです。
ところで、この映画は、自由奔放な物語を闊達に語っていながら、映像設計の面ではいかにもパゾリーニらしい「様式美」で構築されていることにお気づきでしょうか。すでにこの第一話においても、例えば少女から花を手渡されて青年がその香りを嗅ぐ場面では花とNダヴォリの顔を画面のド真ん中にピタリと据えていますし、墓荒らしたちから身を隠そうとして物陰に隠れた青年がおそるおそる目だけ出すシーンなども同様の構図で、要するにシンメトリックで、パースペクティヴの消失点を画面の中央に置くような集中様式、ひいてはパゾリーニが映像設計のよりどころとしてきた14世紀絵画的な構図がそこかしこに見受けられます。

ああ、こんな調子で続けたら何ギガバイトあっても足らないですね(笑)。
以後は足早に行きたいと思いますが、続いて「第二話:マゼット」。いえ、その前に群衆に取り囲まれて白髪ザンバラの老人が説教をしているシーンが入ります。老人が訴えているのは教会や修道院の堕落であり、修道院長がふしだらなマネをしてパンツを履き履きスタコラサッといったような話で、これは「マゼット」の物語にそのまま引き継がれていきます。
けれど、この老人が熱弁をふるう傍らでスリをはたらいているのが冒頭に登場したチャペレット。観客の意識は老人の話からそれて、自然にこのスリの場面(股間のドアップ)、更にはチャペレットと目配せを交わした少年へ、そして次にはどうやら男色が始まりそうだ・・などと興味の中心点がどんどんと引っ張られていくと見えて、場面はのどかで爽やかな地中海の空、そして緑豊かな農園へと移っていきます。
「マゼット」は、口が利けないフリをして女子修道院の作男に雇ってもらった若い農夫マゼットが、欲求不満で身悶えしてるみたいな尼僧たちから次々と「お誘い」を受け、ついには修道院長みずからが・・・というお話。「奇蹟よ!」と鐘を打ちならしてあわてふためく院長や、彼に触れようとよってたかって集まってくる尼僧たち、そしてまんざらでもないマゼットの顔など、どうにも笑いの込み上げてくる愉快なエピソードでした。

こんな映画なら、
夢よりいいな〜


続く「第三話:ペロネッラ」は、これはもうペロネッラ役のアンジェラ・ルーチェの圧倒的な迫力のもと(声も顔もカラダも)、一気に「妻の不倫不貞」が笑い飛ばされてしまう好短篇ですね。
「不倫」とか「不貞」というのは、元々どういう価値観から出て来たものなのか、なんとも心許なくさせられてしまいそうです。キリスト教にしても儒教にしても、倫理だの貞操だのという概念を使っていったいナニを守ろうとしたのでしょうか。まあ、そこいらが「生の三部作」の企画の本質に関わる重要な問題設定なのでしょうが、ダンナもバカ丸出し(の俳優)ですし、そんな面倒くさいことは、この際、忘れちゃいましょう・・。
ところでこの<デカメロン>は、久々に素人俳優を多く集めて、あとはパゾリーニ一家(チッティやダヴォリ)で作られた作品で、前作<王女メディア>や<豚小屋><テオレマ>で見たような玄人俳優たちを揃えての演出とはまた違った、どちらかといえば<アッカットーネ>の頃にも似た演出方法が際だっていますね。
それは具体的に言うと、非常にクローズアップが多い、ということでもあります。玄人俳優たちの場合は彼らの全身の所作・演技・存在感を捕らえて比較的ロングが多かったのに対して、今回の<デカメロン>では、この顔・あの顔の一発必殺勝負みたいで、俳優たちの「顔」に演技をさせている感じですね。時には「歯」にも演技をさせているようですが・・それはともかく、まばゆい陽光のもとで彼らの巧まざる民衆的な存在感が滲み出てくるとき、この映画は最高に美しく、力強く、そして生々しく思われて来ます。
もっともこのペロネッラ、つまりAルーチェは子役出身の歌手でもあり、Cリッツァーニ監督の映画<IL GOBBO>ではパゾリーニも彼女と「共演」しています。その他プロ俳優としては、意外なところでは怪女優(?)モニク・ヴァン・ヴォーレンとかマカロニ俳優ジャンニ・リッツィオなども出演しています。

さあて、いよいよチャペレットさんのピカレスクとなります。
本題が始まる前に、「あんたもさんざん悪事を重ねて、もうここにいちゃ危ない、ワシの貸した金をひったてに北方(ドイツ方面)へ行って来るといい」と高利貸しの友人に言われたチャペレットですが、そこで突然、「死」の幻影的な活人画が挟み込まれます・・
ブリューゲルの「謝肉祭と四旬節の喧嘩」や「死の勝利」を再現したような、グロテスクで素朴で静謐で夢心地の(笑)幻想的なシーンですね。<奇跡の丘>ではピエロ・デッラ・フランチェスカの絵画をモチーフに幾多の造形を施したパゾリーニでしたが、それ以後は、文化人類学的な発想を源泉としながら、ユニークで威圧的なまでに剥き出しになった古代世界の再創造に努めてきていました。それが、再び、ヨーロッパ絵画に着想を求めた・・というか、ほとんどその再現に努めている、というあたりは、これを「パロディ」と見なすよりは「引用」として理解すべきであり、中世世界の迫真生・真正性の追求と考えるべきなのでしょう。けれど、そっくりそのままの「再現」(再創造ではなく・・)という点には、ちょっとしたゲーム感覚、本歌取りのテクネーにも似た遊び感覚があることも否定できないでしょう(・・ここいらが大衆映画、娯楽映画とされるところにも思えます)。
ともあれ、映画冒頭では憎々しげな悪党ヅラで魅了してくれたFチッティが、「チャペレット編」では、ややもすると気落ちして病気がちな老け顔にメイクされている点も、チッティ・ファンとしては見逃せません。事実、チャペレットさんは余命幾ばくもなく、生涯最後の大ウソを、懺悔を聞くために呼ばれた神父にぶちまけます。ここで感動の余り貰い泣く神父の姿、特に「言いなさい」「言えません」「勇気を出して言いなさい!」の応酬は爆笑ものですね。
チャペレット氏が途中で突然倒れてしまう食事のシーンの、故郷の唄を歌うあたりは、とてもノスタルジックでいいですねぇ(うっとり)。


続いては第二ブロック

教会には
慣れてないもので・・

続いてジョットーの一番弟子が靱帯となる第二ブロックとなります。この一番弟子が現れるときまってコマ落としになったりセリフなしのサイレントシーンになったりと、コミカルな味付けがしてあって、まるでパゾリーニは自分自身をからかっているみたいな感じです。
ここいらも娯楽の要素たっぷりみたいです。
個人的な思い出になりますが、かつて日本にモナ・リザがきた頃に(すごい昔話!)イタリアのテレビ映画「レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯」というのがNHKで放映されました(その後も何度か放映されています)。わたしは中世時代やイタリア・ルネッサンスの風物が大好きなのですが、その理由は、このテレビ映画で見たフィリップ・ルロワ(「教授」ですね、シャバダバダ〜♪)演じるレオナルドの見目の良さに由来しているようでありまして、まあそれはともかく・・このドラマを見ると当時のイタリア社会でいかに芸術家が厚遇・重要視されていたかがよく分かります。
レオナルドはそこをエレガントに受け止めていましたが、ヤマダシの「一番弟子」の場合は、教会側の荘重なお出迎えを受けて、却ってドギマギするシーンがあって、これは現実のパゾリーニと重ね合わせて考えるとつい笑ってしまいますね。彼はタマゴやトマトをぶつけられることはあっても、あそこまで(特に教会から)ご丁寧に歓迎されることはついぞなかったのではないでしょうか?(笑)要するに、作者本人が登場し、コミカルな味付けがされると、ついつい余計なことまで思いめぐらしてしまう・・という意味で、ここから映画は監督本人の思索とボッカチオの物語との間のシンフォニックな響き合いに包まれていきます。

一番弟子は市場へ「顔」の取材に行き、教会の壁面にしつらえられた足場のもとでは弟子たちが絵の具造り。構想がまとまりフレスコ画の製作開始とあいなって、映画は「第五話:カテリーナ」が始まります。
お話は、若い男女が過ごした甘美で麗しい一夜の過ち(笑)を逆手にとって、娘を傷物にされた父親が財産目当てに二人を結婚させ、四方八方は丸く収まってめでたしめでたし、というもの。
可愛らしいエピソードですね。ですが、原作では「騎士」の地位にあったカテリーナの父親が映画では「商人」に変更されています。このささいな変更は実は重要で、ある評者によれば、ここには娘の性を通じたプチブルの経済的な上昇志向と階級闘争のメッセージが含まれている・・とのことですが、まあこの際、そんなことは忘れておきましょう(いー加減ですね)。
時に、カテリーナとリカルドの無邪気な裸身は、ボカシがかけられることによって初めてハダカだったことに気づかされるくらいに自然体です。この<デカメロン>にはヌードシーンやセックスシーンが溢れ返っていますが、いずれもポルノグラフィとか通俗エロティシズムとかからは程遠く、人間のあるがままの姿、として描かれています。このあたりをAモラヴィアは「多分、性行為が意味も価値もない肉体の純粋単純な行為(むしろ恋人二人の協力を必要とする困難な、ぶざまな、不自由ななにかあるものとして見られている)として映画館で上映された最初」と述べているとのことで(キネ旬580号)、まったく同感です。要するに、規制やタブーがあればこそ、ポルノやエロがあるわけですしね。

階級闘争だったのか


続いてまたまた一番弟子のカットが入り、彼は食事もそこそこに筆を執るため作業現場にとって返します。唖然とした修道僧たちの様子がおかしいですね。
そしてまた、こうして物思いに耽ったり、突然のひらめきに自分でもびっくりしたりしている一番弟子の様子が物語の合間に挿入されることで、わたしなんかは、次第に、紡ぎ出されていくエピソードがジョットーの一番弟子の、ということはパゾリーニご本人の脳裏でまさに今、着想され発酵し展開されつつある・・ような錯覚を覚えてしまうのですが、皆さんはいかがでしょう?
無論、あの一番弟子が監督本人であるという事実を知らなければそんな余計な詮索はしないだろうと思うのですが、この映画の公開当時のイタリアの観客を念頭に置くと、誰もがこの映画の「一人称性」もしくは「主観性」を感じただろうことは疑えないと思います・・

続いて「第六話:リザベッタとロレンツォ」に移ります。
これは身分不相応の恋人たちの悲劇を抒情味たっぷりに描いたものですが、同時に、兄たちによって殺されてしまった恋人の死体を掘り起こして、「重たいから首だけで勘弁してね」とか言いながら切断した首を布にくるんで持って帰り、洗って植木鉢に入れて部屋の窓辺に飾るという、物静かな美少女リザベッタの秘められたエロスと死骸趣味とでもいいますか、ややもするとグロテスクで、けれど恋人の死を悼む切実でとても感銘深い物語となっていますね。わたしは実はこのエピソードが一番好きです・・
一方、原作ではピサ出身だったロレンツォが映画ではシチリア人に変更されてますが、この変更には「貧しき南イタリア」を喚起させる意図が企まれている・・との見方もあるようですが、まあ、そんなこともうっちゃっておきましょう(笑)。
むしろ重要と思われることは・・ここで「首」になっちゃった奉公人ロレンツォの、恋人に見つめられてはにかむように浮かべる微笑や、彼女の兄たちの罠にはまっていく時の逃げ場を失ったような作り笑いなどは、ひょっとするとパゾリーニがゾッコンほれちゃうチャームポイントかも知れませんね(笑)。おそらく彼は押しも押されもせぬパゾリーニ的美少年だったのでしょうが、続く<カンタベリー物語>の第一話ではまったくの全裸(笑)に剥かれてプルートーを演じています。
で、これを引き受けてモノ思わしげに市場を眺めているジョットーの無言のカットが続きますと、もうこの映画はすっかり彼の頭の中の妄想世界なんだ、という感じさえして来ます(ちょっと強引?)。

タッチ交代・・持っててね、これ


そして、お次はこれまたおかしなエピソード「第七話:ピエトロ、ドンナ・ジェンマータとドン・ジャンニ」です。なにをかいわんや、の、落語みたいなお噺ですね。ドン・ジャンニが「魔法」をかけようとしているのを、脇で、明かりをかざして見守っているピエトロのアホらしい姿には、なんとも涙が溢れてしまいます(笑)。ちなみにドン・ジャンニの俳優は<大きな鳥と小さな鳥>で奇妙な旅芸人一座の一員を演じたヴィットリオ・ヴィットーリ。マヌケな老夫ピエトロは<アポロンの地獄>では捨て子オイディプス王を拾う羊飼いを演じたジャンドメニコ・ダヴォリ。彼はニネットの父親ですが、今回のピエトロにしても<アポロン>の羊飼いにしても、息子同様に、罪なるものにまみれていない素朴なイノセンスを感じてしまいます。

さて、いよいよ最後は「第八話:ティンゴッチョとメウッチョ」の物語。ジョットーのカットから入りますがそれは短く、すぐにティンゴッチョの女漁りの現場となります。いかつい男二人が「地獄ってどんなところかなあ」「女遊びばかりしてると、まずいぜ」なんて話しているのは、奇妙に微笑ましいですね・・

と、突然、ががーんと一番弟子が目覚め、あたりには神々しい音楽が鳴り響き、天国のパノラマが登場します。聖母はもちろんシルバーナ・マンガーノ。この天国と地獄の壮大な幻影は、なんとなく素朴でヘタウマ的な世界で、まったく14世紀絵画的なパースペクティヴの造形ですね。で、これに似たパノラマが黒澤明監督の「夢」にも出て参りまして、黒澤作品では「雛飾り」でしたが、わたしはそれを見て、なんとも笑ってしまいましたっけ・・。
で、それはともかくこのシーンでは何と言ってもSマンガーノの能面のような美貌がとても印象的ですが、そもそもこの天国と地獄のイメージは、まず、大らかで民衆的なこの映画全体に散りばめられた「カトリシズム」なる社会的価値観の核心、すなわち人々の行動原理の象徴であると同時に、善人も悪人もクソもミソも一緒くたにギュッとコンクされる世界観的遠近法の消失点でもあり、一方、これは単に一番弟子の夢想(フレスコ画の完成されるべき理想像とでも言いますか)でもあり、さらにはこのエピソード「ティンゴッチョとメウッチョ」での話題の中心でもあり・・と、幾重にも波状的に広がっていく、このうえなく重層的で忘れがたい荘厳な印象を残す、そんなシーンに思います。

そしてエピソードは引き続き、ティンゴッチョの死と亡霊の登場、そして「姦通はそんなに罪なことじゃないよ」「わぁーお、よかったー」で終わります。

さて映画もいよいよ幕引きです。
一番弟子の壁画が完成しました。
周りの者たちは、足場を片づけて作品の完成を祝い、ワインで乾杯。鐘を鳴らす僧侶たちが聖堂に差し込む光の中、小鳥のように飛び跳ねている様子は、この映画の幕切れに実にふさわしく、清々しくてとても美しいですね。
ですが、もはや語るべきことを語り終えてしまった作者パゾリーニは、一番弟子の扮装をしたまま、ちょっと懐疑的なようなのです。そして最後の最後に、ポロッと漏らす次の言葉で、この、あたかもボッカチオ作品を忠実に「映像化」してみせたような映画<デカメロン>を、まぎれもなくパゾリーニ映画として締めくくります
なぜ私は作品を作るのだ? 夢見ているときの方がずっと素晴らしいのに?


ナポリでつぶやく一番弟子・・


パゾリーニはこの一番弟子の出演経緯について、次のように述べています。

<デカメロン>では、私はゲーム感覚で、ある役を演じてみました。ちょっと予想外の手に負えない理由で、俳優として遊んでみるハメに陥ったのでした。そんなことをするのは不本意ではありましたが、最後の瞬間に、これはやらねばなるまい、という事態になってしまったんですよ。これによって映画は方向転換を余儀なくされました。私はカメラの前に立つ自分の姿を利用して、この映画に、映画そのものが持つ意味とその理由とを導入しようとしたのです。もともとこの映画は、客観的で、対象からは距離を置いて、神話化されたもの、端的に言えば先に私が述べたような現実なるものの存在論[注:後述します]と一致するものとして熟考されていたのです。が、私が登場することによって、映画はまるで、化学物質が化合したように緊密に凝結し、沈殿することになりました。
そのうえ私は、ある種の見事なアナロジー作ることにもなりました。というのも、私は映画のなかで、北イタリアからナポリに下ってサンタ・キアラ教会の壁にフレスコ画(・・これこそ存在論的現実の白眉ですね)を描く画家の役を演じたわけですが、実は私自身、北イタリアからやって来た作家であり、リアリスティックな映画を撮りにナポリの街を訪れた、というわけですから。監督とキャラクターの役柄との間には、このようなアナロジーがあったのです。つまり私自身の意図せざるところで批評的な「離」がなされていたという訳でした。


もともとこの一番弟子は詩人サンドロ・ペンナが演じる予定だったところ彼のドタキャンが災いして助監督のセルジォ・チッティがパゾリーニに演じてみるよう唆した・・ということだそうですが、これ以前には<アポロンの地獄>で嘆願の司祭を演じて以来、自分の劇映画に出演することのなかったパゾリーニでした。
したがって、アクシデントによる出演とはいうものの、上に引用したように、自分自身が顔をだすことの意味と期待効果について十分に配慮した、確信犯的な考えがあったろうと推察できますね。
それで引き続き次作では原作者ジョフリー・チョーサーその人を演じることになるのですが、「一番弟子」と「チョーサー」では、その意義が大分異なると思います。そのあたりは<カンタベリー物語>のコーナーで触れることにしましょう。

さて、最初の変更点Aで書きましたとおり、この映画は全編ほとんどナポリで撮影されています。
パゾリーニにとってナポリという街は、きわめて独特の意味を持っていたようで、そのあたりについて彼はこう語っています・・

デカメロンの意味するところ、それは「現実(レアルタ)なるもの」の存在論でありまして、その現実の剥き出しのシンボルはセックスなのです。とりわけナポリは−私はこの映画のほとんどをそこで撮ったのですが−混じりけなく現実的な街なんですよ。今日では「現実(レアルタ)なるもの」は、いたるところでプロブレマティックなものとなってきています。というのも、身の回りに見る社会的ないし個人的な現実のすべてにおいて、私たちは、旧来の情勢と新たな状況だの、保守主義と革命だのといったものの間で生じる紛争によって現実なるものの核心的な瞬間が表象されているのを見いだしますよね。ところが、これに反してナポリという街には、こうした紛争がないのですよ、無理強いさえしなければ。ナポリ人の大半は、こうした紛争に巻き込まれることから距離を置き、燃え尽きて消尽してしまうまで、おそらくはずっと不変の、歴史以前に忘れ去られてしまった辺境地帯みたいなところで暮らしているのです。私はすでに別のところで、ナポリ人はどこか、歴史を拒んで生きることを決意したアフリカはスーダンに住むビジャ族にも似た何かを思わせ る、と述べたことがあります。ナポリ人たちは、歴史を拒絶することによって彼ら自身にピュアで存在論的な現実をもたらしたのです。
私は風景の重要性から、カセルタをロケ地に選びました。というのも、そこはナポリでも古代世界的だからです。ナポリは、中世時代には、きっとあのようだったに違いないでしょう。
私はイエメンもロケ地に選びましたが、それは原作「デカメロン」はイタリア一国の作品ではありえないからです。「デカメロン」はヨーロッパ世界もしくはインターナショナルな世界の所産なのです。むしろインターナショナルなものだ、と断言した方が良いでしょう。フィレンツェやナポリや北イタリアも登場しますが、フランスもスペインも負けず劣らず登場してきますし、地中海沿岸部のアフリカ諸国やいわゆるアラブ世界だって出てきます。多くの物語はアラブ世界を舞台としているくらいです。「アリベックの物語」というのがあるんですが、それはあの端倪すべからざるカブサの街で起きた物語で、この驚嘆すべきカブサを再現するため、私は、これまた驚異的な街イエメンのサナーをロケ地に選んだものでした。
(ナブリ・レダ・マハイーニとのインタビュー。「シネマ60」1972年)

インターナショナルな欲望


そういえば<大きな鳥と小さな鳥>でナポリ人俳優トトを起用した理由のなかでもパゾリーニは次のように述べていました。「トトを掘り下げてみると、そこにあるのは紳士的な穏やかさ、『善』であり、煎じ詰めたところ、無頓着な態度なのである。が、典型的なナポリ人の無頓着さとは、実は無頓着とはほど遠く、無垢・イノセンスなのであり、物事から超然としている態度、そんな究極の智恵なのである。
わたしはナポリに行ったことがないので実情はまったく分かりませんが、歴史的に見て、ナポリはスペイン王朝の出先であったり、気候風土の面からも火山があって美しい海があって女は綺麗で(?)、イタリアでも固有の文化を形成しているらしいことはよく聞きますね。
かつては母の故郷のカザルサで使われた方言を用いて詩集を編んだパゾリーニでしたが、今回はこれ全編ほとんどナポリ方言で作りました。ナポリ方言というのはAモラヴィアに言わせれば「(原作にある、紳士淑女が集って語り合うという別荘を消してしまったら)ボッカチオの世界の描写には、農民や職人の口にものぼらなくなったトスカーナ語よりは、今日もまだ生きておりかつ攻撃的なナポリ方言の方が好都合であった」・・ということだそうです(キネ旬580号)。
ちなみに上記インタビューでロケ地としたという「カセルタ」という街はナポリの北方に位置するそれはそれは古い町ということで、アンドレウッチョが逃げ回ったあの細い細い小路が沢山のたくったような街だそうです。


アリベック、そして現代の「愛」


さて、以前にも増してまとまりのない雑文となってしまいましたが、最後に、イエメンまで行って撮影したという「アリベックの物語」について、原作からご紹介して、今回の「鑑賞の試み」を終えることにしましょう・・

この挿話がどうして割愛されてしまったのかというと、長すぎた、というのが理由だったようですが、わたしにしてみれば、ひょっとしたら、これは<デカメロン>で描かれた生と性の世界を凝縮した、素晴らしく密度の濃い無垢の物語ではないか?とさえ思っています。
けれども一方では、そのためにかえって膨らみがないと言いますか、その他のエピソードの持つ人間くさい豪放磊落なユーモアや庶民の反権力的(反公序良俗的?)な哄笑とは調和しない側面もあったのでは、などと推測しています。また、特にイエメンくんだりまで出かけて撮ってしまったがゆえに、却ってその他の場面の、緑に萌えるエピソード群の基調と齟齬を来した・・なんとことも考えられますね。

さて、この物語の主人公は、カブサの街の美少女アリベックです。信仰心が厚く無垢で純潔な彼女は「神様にお仕えしたくて」砂漠の行者たちのところへと旅に出ます。出会った行者たちは、彼女の美しさに心打たれて、「これではワシ、悪魔の誘惑を逃れられぬわい」と不安になり、彼女をテイよく立ち去らせるのですが、ある時、ある行者が「一緒に神様にお仕えしようではないか」と言って彼女を手元に置くこととなります。
ところが案の定、その行者にはムクムクと欲望が湧き起こってしまい、ガマンにガマンを重ねた挙げ句、ついにその行者はアリベックを呼んでこう言うのでした「神様にお仕えすることは、神様のお仕事のお手伝いをするということだ
神様のお仕事とはどのようなことでございましょうか?
それは悪魔を地獄に追い払うことだ
悪魔ですって?どこにいますの?
ここに、おる
そして行者は、自分の股間を見せるのであります(笑)。更に行者は「ワシには悪魔が、そしてお前には地獄があるのじゃ・・ささ、悪魔を地獄に追い払うぞ」(爆)

次作では僕が悪魔です。
でも左が僕だよ

以後、この「悪魔払い」を毎日続ける無邪気なアリベックは「神様のお仕事をお手伝いするって、ああ、なんて気持ちの良いことなのかしら!
ところが街ではアリベックの両親が亡くなり、莫大な遺産を相続することとなった彼女のもとに、婚約者がやって来ます。アリベックは、もはやヤリすぎて衰弱してきた行者と別れ、この婚約者と結婚することとなるのですが、この可憐な少女は婚約者に向かってこう訴えます。
あなたはいい人だけれど、私から、神様のお仕事をお手伝いする大事な勤めを奪ったのよ・・それはとても罪なことよ
神様の仕事?その手伝いだって?そいつあいったい、どういうことをするんだ?
そこでアリベックがありのままに話をしますと、聞いていた一同は大爆笑。みんなはこう言ってアリベックを慰めるのであります「結婚しても、そのお勤めは出来るよ。悪魔はあんたの婚約者のなかにだっているんだから・・
そしてアリベックは心から安心して、婚約者と結ばれるのでありました・・・


この牧歌的で素朴な少女の物語は、生と性、愛と性、信仰と愛、神と性、といった二元論を最大限にシンプルなかたちで融合させたような、これ以上は何も付け加える必要がない珠玉の短篇のように、わたしには思えます。
特に次のような、「愛」にまつわる苦渋に満ちたパゾリーニの解説を付されると、彼が最終的にこの挿話をカットせざるをえなくなった理由、また彼がこの映画で目指した彼なりの「愛」の姿、そして「生の三部作」を政治的・闘争的な作品として製作していった彼の胸の内などなどが伝わってくるとも思います・・

愛を失ってしまったら、人々は生きることをやめてしまうでしょう。人類は全滅に向かってしまいますね。そしてメランコリーだけが、全ての終焉だけが残ることとなります。これまで歴史はこのことを明示してきましたし、そしてなぜこれほどまでに愛を崇高なものと褒めそやしてきたかも明らかにしてきました。つまり、愛は、生産力のカギとなっているんですよ。愛なくして人は、何も生み出すことは出来ません。でも同時に、あらゆる社会形態においても、セクシャルな世界というものは抑圧されています。というのは人々がセックスに向かうエネルギーは、体制の支配者たちにとっては利益とならないからなのです。どんな社会も、畢竟ピューリタン的で厳格なものですから、私たちは今、性の自由な時代に生きていると考えるべきではないのです。こうした、自由な性、なんていうものは、ただの幻想ですよ。
人間性が完全に産業社会化されてしまった今日では、私たちは、遅れた社会のほとんどがそうであるようにドラスティックなまでのモラリズムの到来に直面することになりますよ。
もし過ぎ去った過去を再現(ねつ造)出来るのなら、性的関係を妨げるために再現するのではなく、それを社会の標準的な感覚と調和させるために成すべきなんです。現に愛とは、産業社会を進展させる目的で労働者たちに与えられた「報酬」となっているのですし。(ルイ・ヴァレントによるインタビュー1970年6月Lui誌)

モニク・ヴァン・ヴォーレン