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パゾリーニ映画鑑賞の試み〜ソドムの市 その2



そうさ、コレさ〜〜〜

さて、第二部にまでお付き合いいただいて大変に光栄です。
サドとサロ(ファシズム)と消費社会の隙間を埋めたい、と書きましたけれども、そこはかなり我田引水で恣意的な考察となってきます。
具体的には、サドからファシズム文脈を、ファシズムから先進資本主義国家における権力の問題を、そしてこれらの締め括りとして現代の消費社会がわたしたちに突きつけている地獄図を、それぞれダンゴ状に串刺しにして考え、それをもって全体として映画<ソドムの市>の考察としたいと考えています。
このため、それぞれのキイワードについて串刺しになりそうなスペックを立てて(ご都合主義!)、それをもとに<ソドムの市>の全体像を観賞してみたいと思います。

サドとファシズムと消費社会の隙間を埋めるために
(1):サド−ロランバルト


原作者サド・・
さて、どこから検討してみようか、あれこれ考えた末に、ここからが良いか、と思ったのは、サドです。なんと言っても原作者ですからね。
とはいえサドに関する考察を始めようとしたら、これまたキリがないので、ここでは一冊の書物をあげることにしましょう。それはフランスの文芸批評家ロランバルトの書いた「サド・フーリエ・ロヨラ」です(これはみすず書房から篠田浩一郎氏訳で出版されています)。なぜこの本かというと、パゾリーニは<ソドムの市>製作にあたりこの本に多くを負っているからであり、その他クロソウスキーやブランショらの著作ともども映画のタイトルクレジットに明記されていますね。

このバルトの本は、もう実に面白く、示唆と刺激に富んでいて、わたしの愛読書の筆頭ちかくに位置しているくらいなのですが、それはともかく、サドについてバルト自身は「言語体系の設立者」である、と位置付けています。訳者篠田氏の詳しい解説によれば、サドは「既成の言語体系を素材としながら、これを分類しなおし、彼(ら)に固有の、別個の言語体系を構築した」ということになるのですが、サドの主要な本を一度でも(一部でも)読んだことがある方ならば想像がつく、あの独特に幻惑的な情景・不可視的な密室性・思弁的に延々と続く哲学的な猥談(猥談的な哲学論?)などなど、「文章」によってサドが作り上げた秩序ある「体系的な」「世界」(つまり「言語体系の設立」)について分析しているのが、このバルトの著作です。
ま、それもともかく・・・、まずこの著作のなかで主に原作「ソドム120日」に関する部分を中心に映画<ソドムの市>に引き写して、映画<ソドムの市>に特徴的なこと、または原作と共通することなどを考えてみたいと思います(因みにバルトのこの本は1971年の刊行であり、この著作のなかでバルトがパゾリーニの<ソドムの市>について何か言及しているということは全くありません)。

お食事風景


@阿鼻叫喚地獄絵巻の「城館」は孤絶しているか・・

原作「ソドム120日」の四人の権力者たちは世間からきっぱりと孤絶した城館に犠牲者たちとともに引きこもるのですが、その城館は断崖絶壁のうえに聳えており、一本の橋を通ってしか渡ることが出来ません。しかも権力者たちは、この橋を切り落としてしまうのです。
こうした孤立と「場」の創設についてバルトは「二重の役割」を指摘します。
第一に淫蕩を孤立させ世間の刑罰の企てからこれを護ろうとすること。密室はしばらくの間、犯罪を脱社会化する。
第二にこの孤立状態は社会的自給自足制の基礎となり、ひとたび閉じこもってしまうと権力者たち、その助手たち、犠牲者たちはひとつの完結した社会をかたち作る。
さて、パゾリーニの<ソドムの市>では、権力者たちが犠牲者ともども引きこもる城館は断崖絶壁のうえには建っていませんでした。橋を切り落とすこともなく、いわば世間と地続きに所在しています。これはなぜでしょうか? 

Aエロチックな映画か・・

バルトは「サドの小説についてエロチシズムを云々することは、傲慢以外のなにものでもない、なぜなら我々現代社会においてはサド的な文脈でのエロチシズムに対応するものが存在しないからだ」、と述べています。ここはサドにおけるエロスとは何か?に関する厳密な考察が必要になるのですが、翻ってパゾリーニの<ソドムの市>がハダカ三昧ながらも果たしてエロチックな作品なのかどうか? 

B言葉の発話=権力の発動について・・

バルトはまたこのように書いています「・・サドにおいて権力者だけが所有しており、いかなる形態にあろうと他人と分有することのない行為。殺人を除けば、それはたった一つしかない、すなわち言葉だ」「主人(権力者たち)とは、語る者、言語活動をその全体にわたっておのれのものとする者であり、対象(犠牲者たち)とは、沈黙し、あらゆるエロス的体罰よりも絶対的な不具化をつうじて、「言葉」に接近することから引き離されたままの者のことだ」。言葉を発することはすなわち権力の行使なのです。
さて、<ソドムの市>において犠牲者たちにはほとんど一行もセリフはありませんでした。そして、セリフがあったところは、ではどういう意味を持っていたのでしょうか?

C個性なき犠牲者ということについて・・

サドに登場する権力者たちは現実的な描写を与えられています。ある権力者が太っているのか痩せているのか、ヒゲはどうなっているのか、イチモツの太さに長さはどうなっているのか、きわめて具体的に実際的に描写されているのです。
けれども一方の犠牲者たちはどうかというと、例えばその描写は・・・「胸は崇高さのかぎり、すべての細部にわたって美しい輪郭、肌は生き生きとし、のびのびとした肉付き、手足のつけねが優美でふっくらしていて、花のかんばせは天国を思わせ、器官はこのうえなくひとを喜ばせ、このうえなく興味をひき、その心には多くのロマネスクを宿している」といった具合に、あまりにも抽象的に記述されているので、わたしたちは犠牲者の顔(肖像画)を思い描くことが出来ない、とバルトは述べています。

早く!早く!


ファシズム社会とは、どういうもの?
さて、上記@〜Cにみたようなサドの小説世界は、ほとんどそっくり、これファシズムの政治体制というものに当てはまることに気づかれたでしょうか。いや、特にファシズムに限らなくても、いわゆる政治権力による大衆支配の形態はこういう態様をしている、とも言いうるのですが、その細部検討は次節に譲るとして、ここでは、<ソドムの市>がいかにサドからファシズムを引き出しているかについて検討します。

まず第一に@で疑問を付しておいたように、<ソドムの市>の権力者たちは、世間から孤絶した場所でなく、世間と地続きの館に引きこもるのですが、ファシズムという政治権力は、「世間」なるものをあらゆるレベルで「政治空間」とするものだと言えましょう。
一般に、民主主義体制のもとでは、「政治社会」「市民社会」という区分があって、それは「公」「私」の区別と重なりつつ、「私」の部分の自由が保証されている、そんな社会形態です。たとえば「公序良俗に反しない」すなわち「公」に害を与えない範疇であれば、わたしたちは、まあナニをしても良い、という考え方。「私」の領域=自分の部屋ならウ○コを食べても別段良いけれど、それを通勤途上の地下鉄の中でやったら咎められる、ということですね。この「私」の領域には、人間が個人・個体として生きてゆくための自由と権利が保証されていて、それが「公」に対しても一定の義務を負う、そうした社会の仕組みを体系立てていくと「政治社会」「市民社会」の区別(・・畢竟、その境界は共同幻想的なものなのですが)が、ある程度見えてくると思います。もちろん「私」の領域がすべて自由であるわけでなく、「公益」のためには「私有財産」が制限される(・・空港建設がどうしても必要であれば、住民は適正な補償を受けて立ち退かなくてはならない、など)ということもあります。

ところが、ファシズム政治というものは、社会の一切を「政治社会」にしてしまう。例えば密偵を放ち思想を統制し、必要とあれば机の引き出しの中まで掻き回し、「私」の部分は心の中まで体制に奉仕・適合させられるように仕向けられます。例えば日本では「隣組」といって近所同士が相互扶助の名の下に、互いに監視しあう仕組みが作り上げられていました。こうして「市民社会」の領域は限りなくゼロに近くなり、すべてが国家のもとに管理されます。そういえば昨今の通称「盗聴法」の制定などは、まさにこうしたファシズム社会の制度的基盤をなすものであるわけです・・・
パゾリーニは「自分はファシズムの真っ直中に生まれ、それ以外の世界はなかった、そういうことがおわかりだろうか?」と語っています(季刊フィルムインタビュー)が、要するに世間の隅々まで権力の目が行き届いた社会、それがファシズム社会です。

そこでファシズムを舞台とした<ソドムの市>の権力者たちは、サドの「ソドム120日」の権力者たちとは違い、世間から孤絶した城館に引きこもらなくても良いことになります。なぜならば「世間」なるものはもはや存在せず、全てが権力に奉仕するための社会構造となっているからです。言うなれば、ファシズム化された「社会それ自体」が世界から孤絶した「城館そのもの」となっているからです。パゾリーニが、例えば入り江と断崖の美しいガルダ湖畔に多くそびえ立つ、瀟洒ながら断絶的な邸宅を淫蕩の舞台としなかったのは、こういう理由からだと思いますし、(最後の蛇足でも述べますが)映画の舞台となった屋敷は実にまったくファシズム社会を象徴するあつらえ向きの舞台だと思いました。

和気あいあいのダンス

そしてバルトの第二の指摘、つまり「孤絶した空間は社会的自給自足制の基礎となり、ひとたび閉じこもってしまうと権力者たち、その助手たち、犠牲者たちはひとつの完結した社会を形作る」という点は映画ではそれほど直裁に描かれてはいませんでした・・・が、そもそも映画の製作という営み自体がひとつの完結した社会を形作るものだ、と言いうる点は、蛇足ながら、符号が一致しますね。ゴダールがどこかで「六ヶ月先まで給料は保証されている、美人はそこらじゅうにいる、みんなで一本の映画を作る、これが映画の素晴らしさだ」といったようなことを述べてましたが(細部曖昧)、このいかにも楽しそうではない<ソドムの市>の撮影風景がどんなものだったのか、出演者に聞いてみたいところです(笑)あるいは和気あいあいのうちに製作されたかも知れませんが。


それはともかく上記@のように、サドの言説空間をファシズムの社会空間に置き換えて<ソドムの市>に向き直ってみると、Aエロチックでない、ということもすぐにご理解いただけると思います。
この映画は、ポルノと括るには、あまりにも「萎えさせる」(笑)。エロとは、隠蔽されたタブーと不可分であり、チラリと見えるところから始まるものだとすれば、<ソドムの市>はハダカハダカのオンパレードで、隠蔽されたタブーなどどこにも出てこない。というのも@と同様に、このファシズム体制では「公」と「私」との境界線(せめぎ合い)に関わる「タブー」の部分はすべて権力に向けて露出させられているからであり、犠牲者たちは隠蔽されるべきものを持たされていないのです。下着姿で女の子たちがウロウロしていますが、まるで健康診断のための控え室(笑)といった様相を呈しています。状況と格好と目的が合致しているので、隠蔽するべきものが何もないのですね。

検便は、こちらですか?

ところで糞尿地獄の一場面で、衣服をヒン剥かれる美少女犠牲者が登場しますが、これもサド−バルトには折り込み済みでした。すなわちこれは辱めのためのヒン剥きであり、エロチックな効果というよりも他者と区別するためのヒン剥きとして描かれます。権力者の娘たちが始終全裸でいるのもカーストの明確化という意味で、「城館」内での社会法則の現れですね。

そしてB言葉の発話=権力の発動という点ですが、この映画の冒頭シーンはいみじくも権力者たちが「市町村条例」を制定するシーンでした。言葉とは、まず「法」であり、「規範」でもあります。それはファシズム社会において隅々まで浸透しているものであり、だれもこの規範が馬鹿馬鹿しいとは言い出しません。もし実態が規範に合わなくなったら、まずは規範の改定が必要だ、ということが文字通り映画の一場面で登場していましたっけ。そこには応用が効かない事態、そして規範を実践することが快楽に繋がっていく事態が明らかにされています。ファシストもナチスも、まずは「法律」を制定し、そしてその法律に則って残虐非道な行為を進めていったのでした。上記@の、市民社会の政治社会化は、これ全て「合法的に・法律に即して」行われたものです。日本では、例えば治安維持法がその代表例ですね。そこで「城館」に到着して真っ先に「規則」が読み上げられる時、いよいよ政治的に正統的な支配が始まるのです。この「読み上げる」という行為が重要です。それこそ権力の行使なの ですから。

また一方で、規範とは性格が異なる言葉、すなわち語り婆たちによる「物語」の発話もあります。これは権力者たちがこの「物語」を聞いてエレクトし、それを実行に移そうではないか・・というための物語なのですが、これは例えば日本の戦時中にさかんに作られた孝行息子だの愛国者だの献身的な妻だの英雄的な兵士だのの「美談」と同じ機能を有しています。ファシズム社会は、大衆を体制に奉仕させるための様々な「物語」を流布させ、大衆の心を奪い、その物語の主人公と自分とを同一化するように強いたものです。これはイデオロギー注入と呼ばれるものでありまして、「鬼畜米英」「欲しがりません勝つまでは」といったスローガンから大本営発表のニュース映画に至るまで、多様な形態をとった「物語」が目的的に流されて、頭に叩き込まれて、すっかり統制された「現実」を造っていくわけですね。閉塞・孤絶した社会では、体制側から一方的に流布される「物語」がその社会の「世界」観、ひいては現実そのものを作り上げていく・・ということは我が国の某近隣国でつぶさに見受けられる通 りですね(どことは言わないが偉大なる首領さまの国のことなのかなあ?)。

さらに犠牲者たちは(一応は)全く言葉を発しません。権力者たちの発話のみでこの映画が、というかファシズム社会がなりたっていることから、例えば大統領の飛ばす素晴らしくナンセンスなギャグですら一瞬、有意味に聞こえてくる(爆)始末なのです! (わたしたち観客も犠牲者たちと同様に映画館の中では沈黙と聞き耳を強いられているわけですから、仕方ないことかもしれませんね。)

ところで犠牲者たち、特に少女たちが若干の会話を交わすシーンがありました。「あたし、もうダメ」というあたりはまだ可愛いとしても、血の地獄で、誰と誰とはレズってるとか、衛兵の誰それは黒人の女中と密通している、とかいうあたり、これは一体どのように考えたらよいのでしょうか。ある見方としては、ここは全く蛇足的展開・不要な場面だ、ということも出来るでしょう。なぜならサド的世界を全うするためには本来、犠牲者たちはひたすらに「沈黙し、あらゆるエロス的体罰よりも絶対的な不具化をつうじて、「言葉」に接近することから引き離されたまま」(バルト)でなくてはならないのですが、彼女たちの発話はこれを裏切っています。・・あるいは、パゾリーニはここでファシズム社会に見られた「密告」、大衆同士で監視・通報し合った実態を描こうとしたのかも知れません。しかし? こうした犠牲者たちの密告の連続で枢機卿が屋敷のなかをウロウロ歩き回る姿は、畢竟、権力の絶対優越性を多少トーンダウンさせてしまっていると思えるのですが、いかがでしょうか?
または、ここはむしろパゾリーニがセルフインタビューで控えめに書いていたように、もしも抑圧された社会にあってまだセックスが権力をあざ笑うものだとすれば・・彼女たちのレズ行為はこの「あざ笑い」に相当するかも知れませんね。

さて、この発話にも見られるように次第に犠牲者たちの個別性・個体性が多少なりとも露わになってくるという意味で、上記に整理したC個性なき犠牲者、という部分にも、映画は少々抵触しているとも思います。サドの小説世界では犠牲者たちは全く完全に「匿名状態」に置かれており、(無論、名前はあるのですが)一人としてその犠牲者がどういう人物(個性)なのか思い描くことが出来ないように書かれています。そこにあるのは、ただの名簿であり、その名簿と目の前の犠牲者との関係がまるで明らかにされていない、そんな状態です。

この構図は並大抵ではありませんね

ファシズム世界においてもまた、権力は「個人」を「大衆(マス)」と扱います。そもそも権力とはそういう発動の仕方をするのであり、いちいちの個性を尊重するなどという面倒なことをしていたら社会は統制できないので、個人は常に操作可能な匿名状態におかれ、市民とか大衆とか人民とかいった対象物として扱われるのです。すなわち人間はこうして「モノ・ブツ」に(自然に)置き換えられるのです。これは@で述べたようにファシズム政権が「私」の領域を奪っているということと同じ意味合いです。
これに対して映画<ソドムの市>は、幻想文学ではなく映画作品ということもあって、犠牲者たち(現実の俳優たち)の個々の際だちは否めませんでした。
特に城館に場面を移してからは、ほぼ中心的にイジメぬかれるのはいつも同じ美形俳優たちだったので、図らずも個性が発揮されてしまった(明らかに北方系、南方系と人種が分かれましたね)ことはこの映画のウィークポイントだろうとも思えます。むしろ、誰ソレと識別する間もなく顔つきの似た少年少女たちが入れ替わり立ち替わりイタぶられるといった展開の方が(なんてゼイタク!)こうしたファシズム世界の再現という面では効果的だったかも知れません。とはいうものの映画冒頭の「人間狩り」によって集められた犠牲者たちが、みな同じような服装をしていて同じ行動を強いられていた、といったあたりや、床にひれ伏し、頭隠して尻隠さず状態で開催された「美尻コンテスト」の場面などは、この「匿名状態に置かれた人間」「個性なき犠牲者」「個人=ブツ・モノ」という観が濃厚で、特段のメタファたりえていたように思いました。


さて、いかがでしょうか。とりあえずサドとファシズムの間を、拙いながらも取り持ちながら、映画<ソドムの市>を観賞してみたつもりなのですが・・・ここまでに述べましたことはこれ全て、「人間」を「ブツ」に「おとしめる」権力の発動ないしはその所産としての「支配/従属のシステム」が、この映画でいかに表現されているか、ということでした。裏を返せば「支配/従属のシステム」の「暗喩」を描くにあたり、この映画はいかにサドの原作を踏まえたか? またいかにファシズム社会を(シンボルとして)描いたか? を分析してみました。

では「支配/従属のシステム」は、現在、どのようなものとして考えられているでしょうか? 現代社会において、権力とはどのようなものなのでしょうか? 
パゾリーニは、この<ソドムの市>において、サドの世界をファシズム時代に置き換えました。それはここまで見てきたとおりです。ですが、この<ソドムの市>は、決して「ファシズムについての映画」ではありません。サロ共和国は単に舞台を提供したにすぎず、「その実態はこうだった・・」ということを描いたのではありません。全体として、映画は現代の消費社会における「支配/従属のシステム」の暗喩を目指していたわけでした。
そこで次に、ファシズムから現代資本主義社会・消費社会への橋渡しとして、国家権力の問題について考えたいと思います。つまり「支配/従属のシステム」のあり方について、より詳しく見ていきたいと思うのです。
映画鑑賞としては完全に的外れの脱線考察、少なくともかなり遠回りの鑑賞のように思えるかも知れませんが、パゾリーニが「この映画のセックスは、権力と、それに従属させられている人々との関係のメタファです」と解説している以上、国家だの権力だのの問題についても開いておく必要があると思うのです・・。

クソ難しいこと、言うなっ


サドとファシズムと消費社会の隙間を埋めるために
(2):国家・権力−ニコスプーランツァス

国家だの権力だのの問題についても開いておく・・とは大きな口を叩いたもので、これでは懲罰名簿に載せられてしまいますね(笑)。最後はダンスをしてお別れしたいものですけれど・・・(笑)

ニコス・プーランツァスって誰?
国家権力の問題、「支配/従属のシステム」は、サド文学について云々する以上に、これは誰の手にも負えないテーマです。コトをあまりに単純化して性急に論議することは慎まねばならないのですが、下記に述べるいくつかの理由から、ここで、現代資本主義国家の権力の問題について数々の示唆的著述を著した政治学者であるニコス・プーランツァスという人物の思想を、その晩年の著書「国家・権力・社会主義」等数節から紹介したいと思います。これもまたわたしの大の愛読書です。実は何度読んでも完全にはよく理解できないのですが・・(涙)
このプーランツァスという人物はギリシャに生まれパリで活躍し、79年に自殺によって生涯を閉じた政治理論家です(サドのところでとりあげたロランバルトは確か交通事故で亡くなっていますから、ここに登場する人々はちょっと、なかなか普通の死に方でないですね)。なぜ彼を取り上げるかというと、まず彼プーランツァスは、「先進資本主義国家論者」として最先端の思想を開陳していたと思えるからです。

その思想は、Aグラムシを含むマルクス主義はもちろん、MフーコーやLアルチュセールやEバリバール、またもちろんJPサルトルに加え、一連の構造主義〜ポストモダン思想、ジルドゥルーズやフェリックスガタリといった現代フランス思想の潮流にとても近い筋で展開されており、極めて難解晦渋で、刺激と分裂と矛盾に満ち満ちているようでいて、けれど一方ではフランス社会党(ミッテラン政権)や自主管理路線等に見られるような同時代の左翼運動の没落と戦略の変貌をつぶさに見ているおかげで、まさしく現代の資本主義国家の流動的な態様に鋭く迫った、そんな理論家でありました。

隠し味

特に申し上げておきたいことは、彼の活動時期が60年代後半から70年代であったこと、すなわちパゾリーニと同じ時代の左翼の空気を吸い同じユーロコミュニズムの風に吹かれていたということです。パゾリーニに政治論・国家論・権力論があったとすれば(それは体系的な理論からではなく、遺された数々のエッセイや時事評論から再構成しなくてはならないでしょうけれど)、おそらくはプーランツァスと近しいものではなかったろうか? なぜなら二人ともグラムシを根っコに残しているし、同時代人だし、単なる共産党活動を踏み越えた左翼に位置して、そして60年代の労働運動・学生運動の挫折を経て、第一次石油ショックを踏まえた危機に陥った資本主義社会の厳格な暴力の洗礼を浴び、大衆が資本と権力に盲目的に追従してゆきつつある絶望的な状況のなかで独自の仕事を続けていたからです。
残念ながらプーランツァスは、その短すぎる生涯に比して多すぎるほどの理論展開の可能性(つまりは予告編)ばかりを残して世を去ったのですが、その著作「国家・権力・社会主義」(これは潟ニテから田中正人・柳内隆両氏共訳で出版されています)またインタビュー集「資本の国家」(これも潟ニテから田中訳です)等から、(1)サド−バルトの時と同様のご都合主義で、パゾリーニと<ソドムの市>に関わりそうな部分を少し取り上げてみましょう。

国家権力の問題・・グラムシも
さて、そもそも「国家権力」という言いぐさは、マルクス主義の用語であり、英米型の政治学では、合意形成の政治過程という概念はあっても、支配/抑圧のための政治権力という考え方は馴染みが薄いという基本的なことを押さえておきたいと思います。
国家・権力というときは、従って必ずマルクス主義文脈の下に「打倒されるべき国家権力」という考え方になるわけで、その初期の代表的な考え方は、例えば革命家レーニンの流れを汲む国家論・・・国家というものは大衆支配のための道具である、という意味の、「ブルジョワジーと一枚岩の国家権力」といった考え方がありました。そこではブルジョワジーと国家を打倒しプロレタリアが権力を奪取すること、が革命理論となっていたわけです。
けれども、政治学の範疇では、次第に、国家というものは硬直的でスタティック(静態的)なものではない、つまり単なる「支配のための道具」ではなく、むしろ社会の隅々において常に権力を発動しながら複雑な支配構造を構造化していく、ダイナミック(動態的)なものだという考え方になってきます。そうした国家と権力の態様を分析したのが、例えば青年パゾリーニがその思想の影響を深く受けたというアントニオ・グラムシです。

歯茎から血が出ませんか

グラムシはなによりもまず政治家でしたから、学究的立場で国家に関する一般理論をまとめるというよりは、むしろ政治戦略の確立を主たる目的として、社会を構成しているあらゆる要素がいかに国家権力の行使・発動に引き込まれているか? について優れた分析を遺しました。平たく言えば、いわゆる「市民社会」・・例えば、日常生活の場、職場とか教育の場、学校とか専門技術の継承の場とか、または警察など末端に至るまでの各行政機関、それからもちろん新聞、雑誌といったマスコミなどに至るまで、「市民社会」の様々な構成要素が、いかに政治権力の発動の「場・仕掛け」となっているか? その発動を目的として、「市民社会」には、国家のメカニズム・システム・国家装置等々がいかに張り巡らされているか? についてグラムシは研究したのです。こうした発想をもとにパゾリーニが彼の「支配/従属システム」観を築いていっただろうことは想像に難くありません。

そして前記のプーランツァスです。
グラムシの国家観が、まだこの種の「国家装置」なるものを発想の基盤としているとすれば、プーランツァスは、この「装置」に一定の役割を認めながらも、更に進めて、よりダイナミックな資本主義国家観を描こうと努めました。
すなわち「国家装置」という把握の仕方は、プーランツァスによれば、コトを単純に捕らえすぎている。むしろ諸装置は、階級闘争等の「諸関係の物質的凝縮」と捕らえるべきである。よく言われるように、宗教が教会を作ったのではなく、その逆なのであり、もし「装置」についてしか語らないとすれば、(コトは明瞭にはなるだろうが)、国家・権力の問題をずらしただけにすぎない、と彼は主張したのでした。そして社会主義の実現のためには、(国家=道具説を説いたかつてのレーニン主義のように)国家装置の破壊ではなく、国家装置の変形を目指す必要がある、と考えていました。
要約すると、プーランツァスの国家論は、「国家というものは(支配の)主体でも(従属の)客体でもなく、ひとえに『力関係の物質的凝縮』とみなされるべきである」というものであり、ここで大事なことは

@「力関係の凝縮」、ということはすなわち、国家の内部にはそもそも階級闘争・階級的矛盾が孕まれている
ということであり、次に
Aその矛盾が物質的に(=制度的に)凝縮して国家を形成している
という点です。
国家というものは、矛盾が「組んず解れつ」しているダイナミックな運動を内包し、その「組んず解れつ」は社会を構成する様々な諸装置(前述の、学校とか職場とかマスコミとか..etc)に凝縮している。それがひとつの「運動体」をなしている、それが国家だ、ということになります


イデオロギーの再生産・・
そしてプーランツァスは、国家は、常に、こうした「組んず解れつ」状態を安定化させようとして・・正確にはその安定化は「固定」ではなく、一定の恒常性の幅のなかに止めておこうとして・・国家装置を使って、国家の統一に資するさまざまなイデオロギー(例えば民族・言語・文化・生活様式の同一性など)を練り上げながら内的強化(内部からの補強)を行っている、と説明します。前節(1)に述べたようなファシズムも、資本主義国家のある特殊形態のひとつにすぎません。社会を貫く様々な矛盾を調整しながら、国家は、支配を正当化するためのイデオロギーを再生産して、国家の構造化をなしていく・・・・これらが「力関係の物質的凝縮」という国家観といえましょう。
こうなると、わたしたちが日常生活を送っている、この世の中、生活の場(職場とか学校とか)、またそこで得られる言説(マスコミの論調とか)の隅々に至るまで、それらはみな階級闘争に貫かれているということになります。わたしたちの日常生活は、どこを切っても「組んず解れつ」状態にあり、国家はさまざまなイデオロギーをそこに注入/練り上げながら、全体として「支配/従属のシステム」が成り立っている、ということになります。

この構図も素晴らしい・・


いったい「ナンのために」こういうことになっているのか?
それは、資本主義の生産様式(賃労働と資本)を安定的に再生産するため・・つまりは生産の手段を持たない労働者による労働を通して、資本家や政治家らを筆頭とする「権力ブロックたち」の利潤追求活動を維持してゆくため、というマルクス主義本題の考察になっていくのですが、それはまた別の話です。
ここでは、以上から、わたしたちの日常生活は、隅々に至るまで、国家というダイナミックな存在に貫かれている。国家による「支配/従属のシステム」は、わたしたちの日常生活のいたるところに立ち現れている、そしてわたしたちは否応なく「社会適合」を強要されているのだ、ということを押さえておきたいと思います。

そして、わたしたちは・・そのことに気がついているでしょうか? 明確に認識しているでしょうか。
卑近な問題として、例えば、日の丸・君が代、が・・。あるいは北朝鮮脅威論? 破防法?
あるいは、わたしたちの「税金」ではなく「公的資金」(笑)による銀行救済? まだまだあるでしょう。そこいらの週刊誌ネタになっている様々な事象は、それぞれに「支配/従属のシステム」を再生産している、と疑ってみることも、無益ではないでしょう。また、ソレとは悟らせないように大衆の視線と関心をヨソに向けさせるような言説の流布、愚劣浅薄極まりない俗悪テレビ番組の数々、ワイドショー(サッチー?)、あるいはファミコン、風俗営業だのAVだのといった「若者向け(笑?)」の盲目化装置? たまごっちだの、ちょっと前ならナイキシューズ(中学生がコソ泥しましたっけ、コレ欲しさに)だのといった消費購買意欲拡大万歳現象。まだまだあります。いわゆる受験戦争、学歴社会。また「東大を出て大蔵官僚になってノーパンしゃぶしゃぶ、か!」というカウンターイデオロギー。さらには「首切り」を「リストラ」と言い換える「読み替え」。またこれを、あたかも本当に「首切り」でなく「リストラ」であるかのように書き立てるマスコミ論調。あるいはガイドライン、とは何か? 介護保険を実施して誰が儲かるのか?
なんだか、あちこちに火がついて収拾不能状態に陥りそうですけれども、それでも今日の新聞をめくってみれば、そこに「国家」「支配/従属のシステム」でないものは見つからないはずです・・例えスポーツ欄であろうとも。


あらためて<ソドムの市>とは・・
さて、ここまで来ると・・・。
これが一体パゾリーニと、<ソドムの市>と、どういう関係があるのだ? ということになるでしょう。なんか、全然カンケーないみたいですね(爆)。
けれども、こうした、わたしたちが現在暮らしている社会の陰惨な肖像画を前に言いうることは、これは前記(1)で考察したような、ファシズム社会・・・すなわち「市民社会」なるものが一挙に政治化され、「私」の領域が隅々に至るまで統制され、「言説」の流布によって諸個人の内面までが一種の洗脳状態におかれ、もはや諸個人などというものは存在せず、そこにいるのは遠隔操作可能な匿名状態に置かれたブツ・モノでしかない、あのファシズム社会と、わたしたちの「この社会」とに、いったいどれほどの相違があるか? という疑問です。繰り返しますがプーランツァスは、ファシズムは資本主義国家の一形態でしかない、と述べています。
そこでパゾリーニの映画<ソドムの市>は、ファシズムの映画ではない、と先に書きましたけれども、つまりこれが意味するところは、<ソドムの市>は上記にながながと書きました現代資本主義国家の態様についての映画である、ということなのです。

ノーコメント(1)


ソドミーポリティーク!?・・
より具体的に言えば、かつての帝国主義と不可分であった「独占資本主義」においてあからさまな大衆への搾取と暴力による支配が顕著であったとすれば、あらたな「先進資本主義(ネオキャピタリズム=新経済主義)」の態様は、大衆をヨリ巧妙に政治的な「支配/従属システム」に置き、ヨリ柔軟でソレとは気づかれない形で、しかし相変わらずファシズム社会と同様に(あるいはヨリ一層激烈に)大衆への搾取と暴力による支配を進めている・・・ということが、「この映画はファシズム映画ではない。ファシズムをモチーフとした、現代社会の暗喩である」ということの意味なのです。
もう一度、先ほど記載したパゾリーニのセルフインタビューを読み返してみましょう。特に、次の部分が重要かと思います・・

「権力というものは、立法の制定であれ行政の執行であれ、どんな権力も獰猛で残忍なものなんです。実際、その規範においても実践においても、権力は制裁・処罰と許可、以外のなにものでもありません。ここで許可、とは、弱者に対する強者の、最も原始的な暴力を許可するということですがね。ということは、繰り返しになりますけど、支配される者たちに対する支配する者の暴力なのです。支配される者たちのアナーキーさたるやもう絶望的で、牧歌的ですらあります。特に、権力とそれに類するものが、コードと実践においてあまりにたやすく自らを露わにしている場合、それはとても非現実的なもの、決してソレと気づかれることのないものとなっているのです。サドにおいて、権力とは、規範を書き、そしてそれらを普通に提示すること以外のなにものでもないでしょう。」

わたしたちの、この平成ニッポンは、一方では火だるまの危機的状況にありながら、しかし、なおも「牧歌的なありさま」を呈してはいないでしょうか?
いや、それはともかく、パゾリーニ最後のインタビュー「私たちはみんな危機に直面している」(これは、死のわずか数時間前になされたインタビューで、ファビアンジェラール著「野蛮の神話」に付録でついています)での発言内容は、まさに上記のように、もはやあちこち火がついて火事場だらけの、収拾のつかなくなった社会に対する、ある種、狂騒的なほどの危機感に駆り立てられていたパゾリーニの心情を、実によく伝えていると思います。例えば次のような一節は、その代表例といえるでしょう。
「ある者は一見友情いっぱいといった様子で、君の前に登場する。親切で上品だが、彼は「対敵協力」・・そう、たとえばテレビへの・・をするんだ。生活のためとか、とにかく犯罪じゃないんだから、とかいうことでね。そしてまたある者・・あるいは、ある者たちとか集団のこともある・・は君の前に現れて、イデオロギー的脅迫やら宣伝やら、これまた脅しに近いような非難やらを浴びせて君を跳び上がらせるのだ。彼らは、旗やスローガンを振り立てて、入れ替わり立ち替わり現れる。だが結局、この連中と「権力」と、どこが違うというんだ?」
(友情いっぱいに見えるかどうかは別として、アイ・アム・オブチミストなどとほざいて笑いをとろうとする首相と、一方で盗聴法だのガイドライン法だのを使ってファシズム化をめざす首相とを思い出させますねぇ)

「権力とは、われわれを征服する側とされる側に分断する教育システムだよ。ただ、注意しなくちゃいけないのは、それはわれわれを・・いわゆる支配階級から、一番貧しい人たちに至るまで、「全員」を仕込もうという「画一的」教育システムだということだ。だから、全員が同じものを欲しがり同じように行動することになるわけだ。仮にぼくが取締役会だの株式操作だのを操る身だったとしたら、ぼくはそれを利用するだろう。たとえ棒切れ一本しか持ってない身だったとしても、それを利用するということにかけては同じだ。ぼくが人を打つとき、それはつまり欲しいものを手に入れるために暴力をふるっているんだ。それでは、なぜそれが欲しいのか? それを欲しがるのはいいことだと、教え込まれているからさ。したがって、ぼくは自分の正当な権利を行使しているということになる。ぼくは人殺しだが正当というわけさ」(いずれも内村留美子・藤井恭子訳)

ノーコメント(2)

このパゾリーニ最後のインタビューの詳細については別に機会を設けて考えたいと思っているのですが、一点だけ注釈するとすれば「教育システム」とはなにも学校とか予備校とかいった「教育装置」に還元されるだけではなく、消費購買意欲などを「大衆の脳味噌に叩き込み、身体に刻みつけるようなシステム」という意味で理解すべきでしょうね。それは・・もっと下品な比喩で言えば、ケツの穴にモノを突っ込んで教え込むような、ソドミーポリティーク(爆)の権力だと、悪ノリしたくもなります。
ともあれ、繰り返しますが、わたしたちの生活には、いたるところに支配/従属のシステムが張り巡らされている、それが今日の消費社会(現代資本主義社会)の態様である、というパゾリーニ最晩年の文脈を踏まえたうえで、このことを全編を通じて暗喩として提示してみせた作品、それが映画<ソドムの市>である、と、わたしは思っています。
そして、その文脈とは、紛れもなく青年パゾリーニが愛読し傾倒したAグラムシの思想の潮流に位置づけられるのであり、また彼と同時代の(プーランツァスに限らず)現代フランス思想からユーロコミュニズム全般に渡る現代資本主義社会に関する発想であった、ということを特に頭の片隅に置いておいてもらえれば幸いに思います。また、このように敷衍ないしは拡大解釈することによって、映画<ソドムの市>は、現代日本も含めた先進資本主義国の社会態様のすべてに通用する、普遍的な問題設定を基盤としている、と言いうるのではないかと、わたしは思うのですが。


サドとファシズムと消費社会の隙間を埋めるために
(3):例えば丸山圭三郎とか

さて・・・
地獄の門をくぐってから、ずいぶんと経ちました。まだ生きてますかー?(笑)。あまりに長いので、書き進めている当人でさえ呆れてきました(笑)。ここからは少し端折る方がよさそうです。

ところで地獄はどうやら、消費地獄に至ったようです。つまり先に掲げた3つのキイワード「サド」「ファシズム」「消費社会」の3番目の地獄、というわけです。
前節(2)のところで、うまく「ファシズム」と「消費社会」の間を取り持つことが出来たかどうか心許ないのですが、まあ(2)で述べた「先進資本主義社会」を「消費社会」にダウンサイジング(笑)して理解して貰うことで勘弁してもらいましょう。

またRバルト、Nプーランツァスと来ると、今度の「消費社会」のテーマには是非ともJボードリヤールが相応しかろうとも思ったのですが、・・もっとバクゼンとした考察の方が話題と示唆に富む場合もありますから、遠回しに丸山圭三郎氏の思想あたりを織り交ぜて第三の地獄巡りをしたいと思います。今度は比較的短いです。敬称も略させていただきます。

丸山圭三郎って誰?・・
丸山圭三郎は、もともと現代言語学・記号学の創始者ソシュールの研究者として名高い学者でしたが、晩年近くになって「文化記号学」といった(やや奇妙な名称ですが)文明論、社会論の著作を次々に著していった人です。その思想は80年代全般のいわゆるニューアカ時代に活躍した様々な評論家たちの思想と交錯しながら、現在、どのあたりで残滓たりえているのか、さっぱりわたしには不明ではあります。もしかすると並行して隆盛を極めたバブル経済という文字通りの消費万歳地獄のうちに沈没して、今となってはアトカタもないのかも知れません。それに彼の思想は、思想というよりもやや「エッセイ的な発想」にとどまっていたとも思いますし、少なくとも体系的な「哲学」というわけではありませんでした。

それでもなぜにここでとりあげたいか、というと、(細部は追って述べますが)、パゾリーニが言うところの「若者たちの肉体は醜怪で・・」といったあたりとの類推からなのです。特に、先に引用したセルフインタビューの次の箇所、
今日、私たちの「ことば」や「身振り」は変貌を遂げました。セックスの「ことば」や「身振り」、その意味体系はここ数年、イタリアでは急激に変化しています。これらのセックスに関係した「言説」の因習が変貌していることから、私は目を背けることが出来ないのですよ。今日、セックスは社会への適合を促すものであり、社会適合に反抗する喜びにはなり得ていません。このため、私がこれまで馴染んできたものとはラジカルに異なるセクシャルビヘイビアの体系が生じてきています。それで、このトラウマは私にとってはもう耐え難いものとなっているんですよ。
といったあたりから、丸山の思想を思い起こしてみました。

身分けと言分け・・
かいつまんで考えてみますと、丸山は、人間という生き物は、その起源(元はサル?)においても発生(元は胎児!)においても、「言葉〜言語〜文化」なるものとは無縁の存在であったが、その進化と成長の過程においてコトバを身につけていった、その経過で生来の「自然性」を損なっていった・・というふうに考えていました(・・これでは、ちょっとハショり過ぎでしょうか。こういう考え方はJJルソーだって書いてますからね)。
そこで、ではコトバは人間にとって我が身を損なう「悪」なのか、というと、決してそうではなく、我々人間はもはやこれを捨て去るわけにはいかない。というのも生まれ落ちたその瞬間からわたしたちは否応なくコトバなるものに取り巻かれ、またそれを身につけていかなくては生存の危機に陥りますから。
(ここで言うコトバなるものは、単に「花」とか「クソ」とかいった狭義の「言葉」や、日本語とか英語とかいったいわゆる「言語」などの意味に限らず、もっと広義に解釈して、「文化」といったものにまで至ります。犬猫が持っておらず人間が持っているもの、その総体と考えても良いくらいに広い意味です。)

ノーコメント(3)


人間は、生まれ落ちて、まずは既存のコトバ〜文化総体を身につけていくのですが、ただそれだけではなく、今度は自らがコトバを発することによって既存のコトバ〜文化総体を書き換えていくことも出来ます。これはソシュール言語学の発想をベースとした文化論であり、要するに人間は所与の言語(ラング)の体系を基盤としながらも自らの発話(パロール)によって既存体系を改変する能力(ランガージュ)を有している、といった、まあ考えてみれば当たり前の?考え方ではありましょう。これまでどこにも存在しなかった言葉が(既存の文脈に依存しつつ)造語され、流行語となってついには辞書に記載されるに至る、ほどの淡々とした類推ならば分かりやすいでしょう。

ですが、面白いことに丸山は、そこに一定の価値観を導入して、人間はこのコトバ〜文化総体を身につけたは良いが、それはあたかも鉛の鎧であるかのように重く不格好で身の丈に合わず、却ってその中身である人間の「生身」というものを損ねてしまっている、と考えていくのです。コトバ〜文化なるものが先行するあまり、わたしたちは、自分の生身が欲する以上にアタマでっかちになり、前後左右不覚状態に陥っている。必要以上の膨大な情報洪水に、溺死寸前。なによりも深刻なことに、人間の生存に関わる倫理や道徳といったものが、コトバ〜文化総体として一人歩きして、逆に人間の生存を窮地に追い込んでしまいつつある・・といった現状を憂慮していました。持ちすぎたものは多く、しかし捨てられず、もはや足取りは重い、という事態・・・

再びパゾリーニへ向かおう!
こう書きますと、なんだか丸山の思想を換骨奪胎のうえ貶めて紹介しているだけのようにも思えますが、それはこの駄文の本意ではありません。むしろわたしは、敢えてこのようにバクゼンと平易化することによって、これまで書き進めてきた、サドの文学世界やファシズム社会や先進資本主義社会の態様へのパラフレーズを容易にしたいと思うのです。というのは、わたしたちの日常生活の隅々に至るまで、前述のとおり、「支配/従属システム」が立ち現れているとすれば、今日、コトバなるものはコレ全て政治的機能を有した言説である、とも言いうるのであり、それはひとえに先進資本主義社会の安定と維持と深化に資するためのイデオロギー支配そのものになりつつあると言いうるわけですから。

一例だけあげれば、昨今の、「首切り」と言わずに「リストラ」というコトバを流布させることによって、本来は階級闘争の本質的なテーマである雇用と労働の問題をあたかも企業努力の取り組みであるかのように粉飾している事態は、資本主義社会の安定・維持のためのイデオロギー操作以外のなにものでもありません。実際、丸山は、自分の思想が今日の政治的・イデオロギー的な諸問題と極めて近い筋合いのものであることを自覚していました。そこで彼は、婉曲ながら柄谷行人(マルクス関連で)とか岸田秀(精神分析関連で)などの筋もなぞりながら射程距離を延ばしていったものでした。

それはともかく、このように、コトバなるものが重すぎて却って生身を損ねてしまっている、という認識は、この「コトバなるもの」の定義によって様々な類推(拡大解釈)が可能となります。またその類推によって、わたしたちは再びパゾリーニと映画<ソドムの市>に立ち返りながら、この映画と、わたしたちの日常社会とのキャッチボールが出来そうな気がするのです。(やっと!)(笑)。

例えば・・オンリーイエスタディのバブル期に、あれほどまでに異常な消費購買地獄に駆られたのは、いったい何故だったのでしょう? ナニも造らないのにカネがカネを産むだけで、まったく「空手形」のカスミを喰ってばかりいたわたしたちは、実はどこかのスピーカーから「買え!買え!」というコトバを(時には友情いっぱいに、時には脅迫的に)聞かされ続けていたのではないでしょうか。その震源地がどこにせよ、「全員が同じものを欲しがり同じように行動するための画一的教育システム」(前掲インタビュー「私たちはみんな〜」より)を通じてわたしたちはその尻馬に乗り、今度はわたしたち自身が「買え!買え!」の大合唱スピーカーに成り代わり「陰謀」(?)に加担していく、という図式。
パゾリーニは「海賊評論」と呼ばれる時事エッセイのなかでこの点について明確に述べています。
「消費熱とは、言葉にされないある秩序への服従熱なのだ。イタリアでは、誰もがみな、消費活動において他人と同じになろう、幸福になろうと、下劣に汲々としている。それこそが、誰もが無意識に受け入れている秩序であり、自分が他人と違っていると思う者はそれに従わねばならないからだ。この寛容の時代ほど、他人と違っていることが怖ろしい罪であった時代はほかになかった。実際には平等は獲得されてもいないのに、反対にひとつの偽りの平等が贈り物として受け取られ獲得されてしまっている
欲しくもないもの・役にたたないものを買うように強要されるというイメージは、ただちに<ソドムの市>での糞食に繋がります。偽りの平等とはいえ、みんなそろって同じモノ、つまりウ○コを食べています。どこから見ても異常事態です。しかし同じ状況を、こういうふうに言い換えることもできるでしょう、つまり「たとえそれがウ○コであったとしても、みんなそろって同じモノを食べているのだから、世の中は平等だ。それが秩序というものさ」と。コトバなんてものはいつだって変節しやすく、発話者のポジション次第で極めて柔軟に、白を黒とも黒を白とも言って言い逃れするために機能するものです。コトバを巧みに操ってみんなにウ○コを食べさせること。それが先進資本主義社会、消費社会を席捲する消費イデオロギーであり、人々はそれを様々な機会を通じて自らの身体に刻み込まれ、また自らスピーカーないし同調者となって他人に同じイデオロギーをたたき込もうとしているというわけです。他人ばかりではありません。自分の子供たちに、このイデオロギーは確実に引き継がれていきます。映画で公爵は「ブルジョワ たるもの、自分の子供を殺すことなど厭わないのだ」と言って笑いを誘っています。 


スカトロジーエコノミーク!?・・
糞食のメタファは、あまりにも強烈すぎて、もはやこの映画の代名詞と言っても良いでしょうから、ちょっと詳しくみていきますと(笑)・・・最初は犠牲者に対する懲罰として出てきたあと、続いて晩餐メニューに格上げされ、しかもそれを(つまりウ○コを)生産するのは当の犠牲者たち本人である、という見事なまでの再生産サイクルが描かれていきますね。フランスの社会学者Aトゥレーヌは、資本投資のレベルが下がってきて消費そのものが投資となりつつある、と述べていますが、まったく犠牲者たちはこの状態に置かれています。「クソ喰えば クソになるなり また喰おう」。
糞食披露宴で、権力者たちも犠牲者たちも、語り部の女たちも兵士たちも、みんながそろってウ○コディナーをいただくシーンはとても重要です。そこで描かれているのは暴力によって強制された糞食ではありません。屋敷のなかの秩序・システムとして、当然のごとく盛大な会食が挙行されています。ウ○コはリチャード・ジノリのお皿に盛られ、銀のフォークで突き刺され、さもうまそうに咀嚼され嚥下されます。日本語の「糞食」と「粉飾」とが同じ読み方であるということは日本人にとって特権的にこの場面を理解しやすくさせてくれますね(爆)。冗談はともかく、結婚披露宴という人生において最も晴れがましいその瞬間に賑々しく食されているのはウ○コだ、というわけです。犠牲者の女の子は飲み込めない、といいますが、ほかに食べるモノはありません。しかもそのモノ自体は、今朝ほど自分たちが作り出した生産物だというわけです。
映画の権力者たちは、旨いウ○コを作るにはどうしたら良いか?について協議し、それについて規範をもって実践し、そしてまたそれを一同で食していますが、その一連のシーンのなかでもとりわけケッサクなのは、明け方、犠牲者たちの部屋=生産工場、つまり「職場」を回ってオマル(笑)のなかを覗き込み、「もうウ○コしちゃったのか!貴様は規則違反だ!」と喚き散らす大統領でした。彼は、まさに資本家の姿、あるいは工場労働者を監督する工場主の姿そのものであり、実に素晴らしい暗喩となっていますね。

もう、しちゃったのか!


また、この再生産サイクルは、なにも糞食消費経済(スカトロジー・エコノミーク?)に限った話ではありません。社会適合のためのイデオロギーの再生産サイクルでもあるわけです。つまり、社会におけるコトバの増幅は、実にわたしたちの日常生活の一挙一動においてなされているのであり、そこに社会全般に流通する文脈が確立されるわけです。「みんなで渡ればこわくない」というのも、言い得て妙ですが、そのような言説が流布され人口に膾炙されることによって、まさにそういう風潮が現実に作り上げられてゆきます。先の「リストラ」という用語ひとつにしても同様ではないでしょうか。
プーランツァスを引きながらわたしは、「国家は、社会を貫く様々な矛盾を調整しながら、支配を正当化するためのイデオロギーを再生産して、国家の構造化をなしていく」と書きましたが、このダイナミズムの基盤は、丸山の言わんとする、わたしたち自身による「コトバ」の増幅・再生産に多くを負っているのでしょう。裏を返せば、イデオロギーはただ権力者たちが一方的にタレ流しているのではなく、わたしたち自身がそれを増幅・再生産しているのです。
映画のなかで犠牲者たちは非常に曖昧な態度をとっていました。冒頭の人間刈りの場面では、自転車で逃げようとする少年の一人はファシストに捕まる直前に肩をすくめます。ほんのわずかな笑いとともに、深い諦念ではなく、やれやれ捕まっちゃったよ(笑)、という感じでファシストに降伏、連行されていきます。
女の子たちが集まっている薄暗い屋敷のなかにはバリバリのファシスト美少女もいて、サッと敬礼していますね。まあ彼女は彼女なりに立場を明らかにしてくれたわけですが、なかには薄ボンヤリとして生気なく「心ここにあらず」な女の子もいました。男の子のなかには、警備兵(中間管理職?/笑)に選ばれたことにトクトクとなって、マフラーを手に追いかけてくる愛情深い母親に向かってツバを吐く者もいました。
パゾリーニはこの映画に関するあるインタビューでサルトルの次のような言葉を引用しています「罪なき犠牲者など存在しない」と。ファシズム時代にはわたしたちの人権、生活を脅かす国家統制法が次々に立法化されていきましたが、それはカタチのうえではどれも合法的に成立した、つまり議会の議決を経て民主的な手続きを経て制定されていきました。その政治制度を支えていたのは無論、大衆であるわたしたち自身でした。あるいは、現代の消費社会にあっては、うえに述べましたようにわたしたち自身がスピーカーとなり教育システムとなってこの矛盾に満ちた社会を支え、増幅させ、深化させています。
従ってこの自家中毒的な再生産サイクルを打ち破るためには、ひたすらに「沈黙」を続けなくてはならない、そんな切迫した状態に、わたしたちは置かれているように思うのです。


パゾリーニの「肉体」「セックス」
さて、パゾリーニは時事エッセイ「皆殺しのあとでテレビ放映されるわたしのアッカットーネ」のなかでも、若者たちの肉体の醜悪さ、その変貌について述べていますが、ここいらは文字通りの意味にも、またパゾリーニらしい暗喩にも思えます。かつて小説<生命ある若者>や映画<アッカットーネ>で描いたような、スラムの住まう若者たちは、パゾリーニにとって、純朴で粗野で、なによりも抑圧された「肉体」を持っていました。換言すれば、彼らはそのような状況のもと、独特の文化・倫理・道徳に支えられた生きざまを生きていた、ということでしょう。(・・・パゾリーニの「用語」においては、「肉体」は、文字通りの意味に加えて、丸山流の「生身・ナマの生・裸形の生」とかいった意味に解した方が分かりやすい場合があります)。
けれども高度成長に伴い消費意欲が刺激され、彼らはプチブルの「お坊ちゃん」連中の生活に憧れて、自身のアイデンティティとも呼ぶべき「生身・裸形の生」を喪失してしまった・・・今の彼らの「肉体」はどうしようもなく醜い。

これまた素晴らしい構図!

そして、これまたパゾリーニに固有の「セックス」の問題も同様に考えるべきでしょう。セックスの「ことば」「身振り」「意味体系」は急激に変化している、という前掲セルフインタビューでの記述も、上述のような文脈で考えるべきでしょう。生身同士の触れあいであるセックスはもはや、社会に適合し迎合しし魂を売ったイビツな肉塊同士のぶつかりあいに変貌している・・・・と。断じて、最近は駅弁ファックが流行だからやってみた、だから「身振り(体位?)」が変わった、などという意味ではないはずです(・・そうかな?そうでもないような・・自信はありませんが(爆))。
例えば映画では、犠牲者たちはマネキン人形を使った「教育」を受けます。この場面と新婚夫婦とされた二人の犠牲者が強制的な性の手ほどきを受けてそれぞれがついウットリしてしまう場面は、前に引用したセルフインタビューのなかの「今日、私たちの『ことば』や『身振り』は変貌を遂げました。セックスの『ことば』や『身振り』、その意味体系はここ数年、イタリアでは急激に変化しています。これらのセックスに関係した『言説』の因習が変貌していることから、私は目を背けることが出来ないのですよ」という下りを思い出させます。
彼らしい詩人の象徴的な謂を取り除き、社会学的な視点で見てもなお、性に関する意味体系は確実に、特に60年代のヒッピームーヴメントなどを通じて革命的な変貌を遂げたわけですが、それはまた、この80−90年代を通じてヨリ一層「商品化」が進められたと言いうるでしょう・・・特に、性の後進国と言われる日本では。「あるべきセックス」「紋切り型のセックス」が押しつけられ、またその情報が氾濫している結果、つまりは最も個人的なものであり私的領域に属するものであるはずの性は、今やデフォルトな出来合いのものとして商品のようにカタログ化されて扱われている、と言えましょう。レンタルビデオ店のアダルトコーナーを覗けば、そのカテゴリー化は一目瞭然でしょう。そしてその「商品化」のシステム、メカニズム、そこに機能する政治的イデオロギー的な機能、支配/従属システムといった背景にあるものの正体とは何か? これはまた、おそらくは別の地獄で検討するべき課題と言えましょう。
ただひとつ述べておきますと・・、例えばわたしたちがパゾリーニの映画を見るたびに思うことですが、汚れたシミのようにスクリーンを這い回る、あの「ボカシ」。あのボカシは、性が権力にキッチリ従属しミッチリ管理されていることを、常にわたしたちの脳裏に「叩き込んでいる」のだということです。


やっと蛇足?全部蛇足?

さて・・。
冒頭に引用しましたように、映画<ソドムの市>は、パゾリーニが生の三部作を撤回し、ヨリ多くの可読性に向けて社会参加を開始しようとした矢先の、作品でありました。
この「可読性」という言葉におもねて、これまで、呆れるほどに大量の「やわらかいクソ」を書きつづって参った次第ですが、最後の最後に、やっぱり映画に即していくつかの思いつきを述べておきましょう。

最初に構図的な面ですが、<豚小屋>の時にも書きましたように、映像的特徴として顕著なのは極端なほどの左右対称シンメトリック構図でありまして、これが画面の構図的緊張感・荘厳さを醸し出していますね。バックに流れるショパンほかの流麗なピアノや、語り婆の「語り口」には身も心もトロけるような思いがします。まったくと言っていいほど<豚小屋>現代篇の演出をなぞっています。
ですが、その「進行」「演出」「構造」となると・・今度は少し手が込んでいます。<豚小屋>が「現代編」「古代編」の合わせ鏡構造だったのに対し、今度は、一応は階層的な「3つの地獄」となるわけですが、わたしたちは、なんといいますか、この映画のなかに具体的な時間進行の感覚を持つことができない、そんな演出になっていると思いませんか?
具体的に言うと、最初の「地獄の門」では明らかに時間進行が感じられたのに、一旦、「城館」に入るとそこでプッツリと、何かが途切れてしまう。例えば・・さっきまで中心的にイタぶられていた犠牲者なのに、次の場面ではナニ喰わぬ顔で皆と一緒に食事をしたりサロンに座って物語りを聞いていたり。或いはタマサカある権力者が気まぐれを起こして別室に籠もっても、なおも延々と語り婆の物語は続いたり、・・と、要するに起承転結めいた展開が皆無なのですね。これは、無間地獄とでも言いましょうか、「この映画には物語なんてナイよ! これはストーリー映画じゃないんだ。ただひたすら、この地獄を見なさい!」と観客に「強要」しているようなものでしょうか(笑)。またこれが先のファシズム社会のメタファには持ってこいの演出で、実際ではなく悪夢の出来事のような、「心を奪われる」遊離感を醸し出していると思います。

持ってこいと言えば、例の「城館」です。これはマントヴァ郊外の屋敷だそうですが、全体に暗く、左右対称で、舞台背景のようで、一切の装飾が殺ぎ落とされて未来派絵画で飾られている、なんといいますか陰惨なほどに閉鎖的な建物でした。カーペットには遠近感覚を強調するようなギザギザ縞模様が施されていたり、サロンの壁は犠牲者たちの裸身を浮き立たせるために黒々としている一方、彼らの寝室はグレーを基調にやや明るく(これは2階なのでしょうか?)、全体にどの部屋がどこにどう繋がっているのか、一体の建物としては思い描けない迷宮のような感じがしますね。

一方、登場人物のなかではピアニストがひときわユニークな存在でした。彼女は語り部の女たちほど豪華に着飾っておらず、いつも控えめで、寸劇の場面を除くと特にセリフもなく、完全な特権階級には属していないようです。犠牲者たちが青いリボンをつけるシーンではお盆を持つなど「下働き」さえ勤めていました。また彼女は陰鬱に静まり返った婚礼場面を盛り上げようとアコーディオンを置いて奮闘したりもしています。またなによりも彼女は、時として自分の持ち場であるピアノの前から振り返り、ややもの悲しげな視線をわたしたち観客の見ているものと重ねていました……そして彼女は最後に自殺します。
彼女はいったい、どういう立場の人間なのでしょう? 権力者と犠牲者、そのいずれにも属することが出来ない「現代の芸術家」の姿といったら、過大評価になってしまうでしょうか? 

自殺者といえば、マネキン人形教育のあと、閉ざされたチャペルのなかで自殺している犠牲者がいました。名前も知れず顔もほとんど分からない、無名の死です。一方、館に連れてこられる途中でトラックのなかから飛び出す少年は若干ながら英雄的に描かれていました。彼はマルツァボットというボローニャ郊外に実在する村の付近で死んだらしいことが道標のインサートで暗示されますが、この村はナチスによるパルチザン刈りの大量虐殺が行われた悲劇の村です。パゾリーニはここで、終戦直前にパルチザンの内部抗争で殺された弟グイドの記憶を重ねようとしたのでしょうか。
とはいえ、これら二人の死はたちまち大統領の「数字の8」にまつわるナンセンスギャグの餌食にされてしまいます。彼ら二人は自ら死を選び、そして体制側・権力者たちは笑ってそれを軽く受け流しています。ところが、仲間たちが逃走を試みたり自殺したりするのを目の当たりにしながらどうにか生き延びて凄惨な饗宴に最後まで付き合ってきた辛抱強い犠牲者たちは、サロへ行けるのかと思いきやその反対で、このうえなく残虐きわまりないやり口で次々に快楽殺人の餌食にされてしまいます。公爵はこう言って彼らに死を宣告していました「自分の犯した罪を思い知るがいい」。ここでいう「罪」なるものとはなにか、それを考えてほしいということがこの映画の悲痛で悪辣で、シニカルでアイロニカルなメッセージなのかもしれません。

最後の蛇足ですが、ファビアンジェラールは「野蛮の神話」で、全編の最後に警備の少年兵たちが交わす「恋人はいるの?名前は?」「いるさ!マルゲリータだよ」という会話に、「ファウスト的な救済の暗示」を読みとろうとしていました。その理由は、ゲーテ作「ファウスト」でファウストの生涯を救済するグレートヘンという女性の本名がマルガレーテだったから・・というものでした。
とはいえ・・マルゲリータとはイタリアではまあありふれた女の子の名前です。なにもファウストのカノジョに限った話ではありません。この映画が制作された75年当時のイタリアでマルゲリータといえば、例えばレナート・クルチョのカノジョ(正確には妻)もまたマルゲリータでした。彼らは言うまでもなく極左テロ集団「赤い旅団」の中心人物であり、妻マルゲリータは夫レナート脱獄作戦の際、銃撃戦となって射殺されています・・と、まあ、これもまた「可読性」のゆえの解釈と言えましょう。
ところで、この映画に救済はあるのか、ないのか?
映画はついに「血の地獄」に至り、犠牲者たちは絞首刑に処せられたり、舌を抜かれたり、頭の皮を剥がれたり、目玉をくり抜かれたり・・と拷問にあって絶命します。映画には出てきませんが、その最後は次のような状態に至ります。

スチルより・・


救済の暗示を、ファビアンジェラールでなくとも、必死に探し回りたくもなります。
そこでわたしの印象を最後に書き添えて、この果てしない長文をしめくくりたいと思います。
つまり・・わたしとしては、黒人女中と同衾していた反乱兵が処刑の直前にゲンコツを振り上げて沈黙の抗議・反抗を示すところ、あそこが特に印象的でした。空中に突き出された怒りのゲンコツは、伝統的に貧しい労働者たちが抗議をあらわにする時の態度でありますが、それをまざまざと間近に見せつけられた権力者たちは確かに一瞬、怯んでいるように思われるのです。大統領も公爵も、枢機卿も判事も、わずかに一瞬ではありますが、実にイヤな顔をして引き金を引くことをためらいます。結局はすぐに銃殺が開始されるのですが、この場面にこそ、わたしは、何かしら「救済の暗示」を見るような気がしてならないのですが。皆さんは、いかがでしょうか?

エツィオ・マンニ


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