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パゾリーニ映画鑑賞の試み〜ソドムの市 その1


−なにごとも規範に則って行うべきだ

イントロ。またはスカトロ?

最初はおとなしい画像から・・

さて、今回の「観賞の試み」は映画史上類をみない阿鼻叫喚地獄絵巻が繰り広げられるパゾリーニ最後の傑作<ソドムの市>についてです。
この空前絶後の傑作を「観賞」するにあたり、自分の力不足を再認識するといいますか、不甲斐なさを痛感するといいますか、なんとか考えをまとめているつもりでいながら逆に頭からこの映画にバリバリと喰われてしまう、それもまた快感だ、などといったマゾヒスティックな気持ちで一杯なのです。
この映画をどう見るか? そんなことはもはやどうでもいいことだ!と投げ出したくなることしばしばなのですが、しかし、特に日本の映画批評においてこの映画がまともに取り沙汰されていない実態、また海外においても私の知る限り、例えばファビアンジェラールの例の「野蛮の神話」などでもどうも評論的紹介にとどまってしまっている感じなので、ここはいつも以上の暴論を吐くつもりで、書き進めたいと思います。

ほとんど、映画の内容からは離れます。折に触れて、戻りたいとは思いますが、この映画の内容のいちいちについて云々しても、それはちょっと不毛な議論に陥りやすいと思っているので、以下の駄文の大半は「映画鑑賞」とは呼べないことをお断りしておきたいと思います。この映画は、映画そのものから離れて、一旦は作品を「ニュートラル」な状態に置かなくては何も考えることが出来ない、とわたしは考えています。なぜならこの映画は最高度に緊張緊迫した、作品全体で提示された「寓意画」「暗喩画」であり、その背後にあるもの、「寓意が指さすもの」「暗喩されたもの」について語るほかに、つまり、わたしたちの生きている「この社会」について考えてみるよりほかに、観賞のすべがないと思えるからなのです。

もちろん!スクリーンに移ろう光の粒子とスピーカーから溢れる音響の波に身をゆだねて、ただ楽しむ、という見方もあるにはあるでしょう。4人の権力者たちと自分自身を同化させて(5人目となって!)美少年美少女たちを思いつくままにイタぶる妄想に耽る、という見方は当然にあります。お皿に山盛りのウ○コをムシャムシャ食する快感を思い出しながら、悦びにうち震えながら見る、という楽しそうな見方もありますし、または残虐無比にしてむくつけき権力者たちから容赦ない拷問を受けて床に這いつくばる自分の姿にうっとりする、そんなマゾヒスティックな楽しみ方も、きっとあることでしょう。あるいは・・吐き気を催すので二度と見ない、思い出すことさえ厭わしい、ということもまた当然にあるでしょう。

ともあれパゾリーニはエッセイ「私は生の三部作を撤回する」のなかで、自分自身の社会参加(すなわち映画製作も含めて)を、今後はヨリ多くの可読性に向けてゆく、旨のことを書いています。ヨリ多くの可読性・・。つまり様々な解釈が、観賞の仕方が、<ソドムの市>にはあるはずです。

まだまだ大人しい・・

そこで、わたしもわたしなりの、次のような観賞をしてみたいと思います。
まずはこの作品が総体として「寓意」「暗喩」作品である、ということの確認について。それから、「では、なんの寓意・暗喩なのか?」について、ここはパゾリーニ自身の、この映画に関するセルフインタビューを紹介し、作者の意図を明確にしておきたいと思います。けれど、この意図がいかにもパゾリーニ的に偏っている(?)とも思えるので、そこはさらに拡大解釈し、この映画の契機となっている「サド〜サロ(ファシズム)〜消費社会」について考察していきたいと思います。

結果的にバカ長いものとなりました。いつもの二倍はゆうにあります(爆)。それに後段の我田引水は時に、先進資本主義国家における権力の問題にも関わってまいりますので、繰り返しますが、これはもはや映画論ではありません。でも最後に、やっぱり映画に関するあれこれを蛇足として追加してみました。


パゾリーニ作品に見る寓意の系譜・・

この作品をどう見たらよいのか? 先ほど、この映画は「寓意画」「暗喩画」だと言いましたが、思えばパゾリーニ作品はこの「寓意」という方法をよく使ってきました。<ソドムの市>がパゾリーニ最後の作品である以上、ここに至るまでの彼の「寓意の系譜」をザッと振り返ってみることも無駄ではないでしょう。

さて、映画とは現実を再構成して提示するものだ、という意味では、全ての映画は「寓意画」であるといっても過言ではないでしょうけれど、より狭義の意味で、「ある具象を用いて、べつの現象を示唆的に浮かび上がらせる方法」としての「寓意」と考えると、パゾリーニ長編作品の系譜では<大きな鳥と小さな鳥><テオレマ><豚小屋>などがすぐに思い出せますね。
極めて特徴的に「寓意画」と分かる<大きな鳥と小さな鳥>は、これはもうファンタジックなイデオロギー映画でありまして、親子が行方なくただポツポツと歩き続け、そこにベラベラとイデオロギーに関する一般理論(笑)を喋り続けるインテリカラスが同行し、親子はついにこのカラスを喰ってしまう、というものでした。ここには政治的言説の空しさとインテリの非業なる宿命が描かれていました。
また<テオレマ>は、なに不自由なく平穏な生活を送っていたかに思われたブルジョワ家族に、不思議な青年が滞在した結果、一家はそれぞれにこの青年と交わり、自分の内面にそれぞれの飢餓状況、絶望状況を発見する、という作品。これは神の不在、より正確には人間的諸価値の完全に枯渇した状況を、大づかみで、(というか)寡黙に描いてみせた作品でした。
さらに<豚小屋>はというと、これは「古代編」「現代編」というふたつの物語を合わせ鏡のように並行して語りながら、食人・獣姦というモチーフを通じて、現代人の飢餓状況の内的世界を提示していました。罪というものが成立しえない世界、裏を返せば(テオレマ同様に)倫理も希望も人間性のあるべき姿も枯渇した世界が、現代の青年たちを貪り喰っている、そんな切迫した状況を示唆する作品、とわたしは考えています。

このくらい、いいじゃないか!

これら、「寓意画」の先例の、その寓意の方法を考えると、例えば<大きな鳥と小さな鳥>には人間の言葉を話すカラスが、<テオレマ>には神の似姿にも見なしうる不思議な青年が、それぞれ登場し、わたしたちに「この映画は、実際(アクチュアル)の世界ではないよ! むしろ実際の背後にある、より現実(リアル)なものを突きつけるために、こうしたカラスや青年が登場しているんだよ」と伝えている、そんな方法に思えます。
また<豚小屋>ですが、ここにはあまりに突飛な寓意的役割を負った人物ないし出来事は登場しません。もちろん、全てが寓意だから特に寓意的な役割を負った者は個別に存在しないのだ、とも言えましょう。PクレメンティもJPレオも、現代青年の内面の写し絵であり、UトニヤッツィからAヴィアゼムスキーに至るまで現代編全ての登場人物と出来事はこれすべて現代社会のカリカチュアライズとして、半ば茶化し気味に描かれていました。けれどもここで<豚小屋>に着目したいことは、むしろ個別の人物や出来事ではなく、その語られ方、すなわち「古代編」「現代編」を交互に進め一点(獣に喰われてしまう点)で交錯させた、あの語り口です。こうした、いわば「わざとらしい」「意匠丸見えの」語り口を採用したことによってパゾリーニは、この映画は確実に「寓意」作品であることを強調しています。つまりスクリーンに提示された具象はそのままアクチュアルに受け止めず、その背後にあるヨリ現実的な(リアルな)世界を見つめ、考えて欲しい、と示唆しようとした、換言すれば一種「映画世界から現実世界へ」の変換作業を観客たちに強いた、そんな方 法を用いていたと思います。

これはある種、(映画表現の)意味論に関わる哲学的な重大事でありますが、それを考えることはこの駄文の趣旨ではありません。ここでは<豚小屋>は、そのような「寓意の方法」が採用された、と述べるだけにとどめておきます。
ここまでパゾリーニの「寓意の方法」を考えますと、それじゃ<王女メディア>であれだけ延々と見せてくれた五穀豊穣の祈祷と生け贄のシーンだって、厳しい生への畏怖と信仰の発生現場の「寓意」ではないか? <アポロンの地獄>の「現代編」「古代編」「現代編」のシンメトリックな構成だって、<豚小屋>同様にその語り口の意匠を考えざるを得ないではないか! と思われるでしょう。そして、事実その通りなのです。パゾリーニ映画は、ある意味でほとんど全ての作品が「寓意画」であり、極端なことを言えば(・・ここらから既に暴論が始まっていますが)彼の思想を表現するための道具だと言えます。ウラを返せば、映画のための映画ではないということですね。

エヴァ嬢でしたっけ?


芸術家が、芸術作品を作る・・ナンのために? これはまた非常に難しい問題ですし、わたしは芸術家ではないので、まったく答えの持ち合わせがありません。が、自分の思想を表現するために作品を作る、そういうことは特に近代(ないしはルネッサンス以降の)芸術家(特に文学者)にとっては、至極当然の営みであり、作品のためにだけ作品を造るというのはマスターベーションにすぎないと思います。作品には、そのウラに作家の思想があるのであって、けれど同時にその思想を表現する方法はいろいろとある。パゾリーニにおいては、ごく初期にはネオリアリズムの影響、Aグラムシの影響もあって、比較的リアリズムでこれを直裁に表現しようとした(<アッカットーネ><マンマローマ>)。が、中期以降、というよりは<奇跡の丘>以降ではヨリ複雑な思想を全体として提示するためにヨリ複雑な手法を用いた、それは概ね「寓意」という方法であったけれども、その方法も一様でなく、ある時はドキュメンタリータッチでその思想(文明史観)を再現してみせた(<王女メディア>)し、ある時は(悲劇的な)現代社会状況に関する(悲観的な)考察に ついて、直ちに「寓意」と分かる際だってコミカルないしシニカル、リリカルなキャラクターを登場させた(<大きな鳥と小さな鳥><テオレマ>)し、またはそうしたキャラクターの登場によってではなく恣意的な語り口において寓意を示唆した(<アポロンの地獄><豚小屋>)のでした。

ここで不問に付しておいたのは「生の三部作」と<奇跡の丘>です。前者は更に不問に付すとしておいて、では上記のような考え方で<奇跡の丘>を考えると、これはどういうことになるか? これもまた「寓意」であるとすれば、まずは、「自分はいわゆる左翼以上にマルキストで無神論者だ」と公言して憚らない彼パゾリーニがキリストの生涯を映画化した、ということ自体にスキャンダルの確信犯的な寓意を見てとりたくもなりますね。

ですが、それよりも、この<奇跡の丘>についてパゾリーニが語っている次のこと「・・私は、自分が信じていないことを描くため、古代パレスティナのキリストの信者の心のなかに入って<奇跡の丘>を撮影したんです」という点に着目したいと思います。詳しくは<奇跡の丘>のコーナーに譲りますが、この作品でパゾリーニは、特異なキャラクターやら語り口やらを意匠・手法として弄することなく、作品全体の大きさと同じスケールでキリストの思想を再現したと思うのです。その際にとった方法は、忠実にマタイ伝をなぞり、虚心坦懐に当時の信者の信仰心に入り込むことであり、これによってキリストの思想と生涯、またそれへの信仰をありありと再創造しました。

具象=現実


比喩的に言えば、これは額縁のない絵画とでも呼べましょうか。何かしら、伝えたい思想・用いたい意匠が作品を取り巻いていて、それによって作品として成立させられているといった「主人持ち」の態様ではなく、作品そのままが剥き出しになっていて我々観客に直にその思想・意匠を露わにしている、そんな作りになっていたのが<奇跡の丘>だと思います。
この場合、「寓意」は、もはや「具象→現実」の変換運動を経ずに、「→」の部分を取り去って「具象=現実」となっている、そのような意味で、すでに「寓意」というダイナミックな運動を越えた、最高度に緊密な、従って緊迫し切実で純粋でスタティックな「暗喩(メタファ)」作品となっていると思います。そしてそれこそが、この映画が圧倒的な「真実らしさ」を勝ち得ている理由だと思えるのです。

さて、なぜにここまでパゾリーニ作品における「寓意」「暗喩」という系譜を改めて長々と書いたかというと、それは<ソドムの市>もまた限界を超えた「寓意画」であり、それも最後に述べたような<奇跡の丘>的にも緊密でスタティックな「暗喩」作品として観賞するための、心の準備をしておきたかったからでした。
映画<ソドムの市>について語られる多くの言いぐさは、阿鼻叫喚地獄絵巻・・エログロの醜怪さの極み、俗悪ナンセンスポルノ・・まだまだあるでしょう。あるいは、完全に理解不能な狂気じみた作品として、固く口を閉ざしたままうち捨てる、そんな反応もあるでしょう。けれど、そうした反応はこの作品を、「字ヅラのとおり」「まともに」「正面から」食らってしまったショックのせいとしか、わたしには思えません。

誤解を恐れずに言えば、<ソドムの市>は、その内容をそのままに受け止めてはならない、と敢えて暴言を吐いておきましょう。この映画は「寓意」「暗喩」として見ること。この作品は、例えば、ナチスによって退廃芸術と称せられたゲオルゲグロッスの絵画のように、現代社会の醜悪な地獄図を額縁ヌキで剥き出しに描いた作品です。そしてその地獄図がいかに幻惑的であろうとも、それは現代社会がそのように醜悪で幻惑的な様相を呈しているせいであり、決して映画そのものが狂気の沙汰に陥っているのではないということ。

当たり前ながら、これは映画です

簡潔に言えば、この映画はスカトロ映画でも俗悪ポルノでもサドマゾ映画でもなく、きわめて高度に社会学的・政治学的な考察に基づいて演出されており、よって観客もそうしたアプローチで観賞するべき作品ではないかと思うのです。素材はハダカとウ○コのオンパレード、しかも語り口はモノの見事に流麗で美しく、しかしその作者の真意はまったく「ハテナ?」にも思えるのは、実はこの作品全体が現代社会の「暗喩」であり、またその寓意性を紐解くための「ヒモ」、つまり作品の額縁・作為・意匠がなかなか見いだせないがためだと思うのです。(しかも最後の蛇足で述べるように、敢えて分かりにくい(中身に入っていけない)構造をしていますし、また「寓意が指さすもの」「暗喩されたもの」それ自体、生半可の問題意識をもってしては見いだすことが出来ないくらいに切迫した同時代への危機感によって支えられています。それがないと前述のようにスカトロ映画でも俗悪ポルノでもサドマゾ映画でもなんでもごされ、となってしまうと思うのです)

パゾリーニは<テオレマ>について「これを私が真面目腐って作ったなどとは思わないで戴きたい」と発言していますが、おそらくは<ソドムの市>についても同様に考えて良いと思われます。事実、それに類した発言を以下のセルフインタビューに見いだすことが出来ます。三菱銀行事件の犯人のようにこの作品に憑依されることは避けねばならないでしょう。作者が距離をおく以上、観客はなおさらに距離をおくことが大切です。

などなど・・先に「心の準備を」と言いましたが、導入としてうまく運べたかどうか、いささか心許ないのですが、要するに!(ええい、面倒くさい!)この映画は、とにかく何度も何度も見て、まずはハダカへの目移りとウ○コへのアレルギーを克服してから、初めて観賞すべき事柄の整理をすべき、そんな作品だと言えるでしょう。
それでは生唾と吐き気が治まったところで、なにが見えてくるでしょうか?

兵隊さん、うっふ〜ん! ベーっだ!ペッペッ!



セルフインタビュー♪

まずはパゾリーニ自身が製作開始直後(1975.3.25)に書いたセルフインタビューを紹介します。かなり長いのですが、これがあるのとないのとでは、<ソドムの市>の見方は全く異なるでしょうから・・。そこでいきなり核心に入りましょう。

Qこの映画は、以前のあなたの作品に、先例といったものがおありでしょうか?

Aはい。<豚小屋>を思い出すでしょう? でも私は「オルギア(狂宴)」も思い出してもらいたいですね。これは1968年に私自身が演出した演劇作品です。私はこれを65年に着想しまして、<豚小屋>と一緒に、65−68年の間に、もうひとつの演劇作品とともに書き進めました(もうひとつの作品というのは、初期のテオレマのことで、私はこれも演劇作品とするつもりだったんです)。サドは、これら「残酷演劇」を通して取り込まれてきたのです。アントナンアルトーを通じて。それから奇妙に思われるかも知れませんがブレヒトを通じて。ブレヒトは、以前は特に好んでいなかったんですが、「異議申し立て」に先立つ数年間のうちに突然に溺愛してしまったんですよ(といっても無節操な溺愛じゃないですよ)。<豚小屋>にしろ「オルギア」にしろ、私は当時、あまり幸福じゃなかった・・超然としていることは私には似つかわしくないし。ともに、残酷でもないのですが。

Qで、サロ(<ソドムの市>)は?

Aええ、サロは残酷映画となるでしょうよ、本当に。あまりにも残虐極まりないので、私が思うには、自分自身も距離をとって作品を信じないフリを装わなくてはならないでしょうね。むしろ冷淡なくらいに、ちょっと楽しんでやるか・・という感じでね。でもこの作品に関する先例について言いかけた続きを終いまで言わせて下さいよ。1970年に私は<デカメロン>のロケハンのためロワール渓谷にいたんですが、ツール大学の学生たちとのディベートに招かれましてね。フランコ・カニェッタがそこで教鞭をとっていまして、彼は私に読むようにと、ジル・ド・レーに関する本と、これが映画の題材になりうるんじゃないかという彼なりの私見をくれたんです。私は5−6週間、真剣にこのことを考えた挙げ句、まあ諦めました。私はあまりにも深く「生の三部作」に取り組んでいましたし。

Qどうしてです?

右端はパゾリーニ

A「残酷な」映画は、ぶっきらぼうなまでに政治的なもの(破壊的で、同時にアナーキックなもの)となるでしょうから。だからそれは不誠実だったんです。私が思うに、その時点で私がなすべき最も誠実な仕事といえば、それは性のモードについての映画を作ることだったということです。性の喜びは、抑圧の代償であり−もはや永遠に葬り去られてしまいつつある現象ですし、そしてその瞬間から、寛容なる精神はセックスを悲惨で脅迫観念的なものに変えてしまった・・。三部作を通して私は、以前のリアリスティックな映画作品の登場人物たちの幽霊を呼び出したものです。もちろん声高な告発はなにもありませんでした。ですが「失われた一時代」に対してあれくらいヴァイオレントな愛を捧げた三部作は、人類の「ある様相」にではなく「現在、すべての様相」に対する告発だったんですよ。そして私たちは今この「現在」に位置していますし−もう情け容赦ないくらいに−自分たちをこれに適合・順応させながら生きているんです。私たちの記憶は、とても貧しいものです。私たちは専制的な権力によって抑圧され、抑圧のなかでも 最も残虐非道な仕打ちを受けています。セックスには、もはや全く喜びがありません。若者たちはおしなべて醜く自暴自棄的で、不愉快で、挫折しているのです。

Qそれがサロであなたが表現したいことなのですか?

A分かりません。が、これは私の経験であり、私はこれをスミには置けませんね。感情的な問題ですね。私の心にたちこめる、個人的な苦悩です。だからこれはサロで表現したいことだということにもなるでしょうね。セクシャルな関係というものは、まずは「言説」であり(これは特に<テオレマ>でクリアーかつ明白に描き得たと私は思っているんですが)、今日、私たちの「ことば」や「身振り」は変貌を遂げました。セックスの「ことば」や「身振り」、その意味体系はここ数年、イタリアでは急激に変化しています。これらのセックスに関係した「言説」の因習が変貌していることから、私は目を背けることが出来ないのですよ。今日、セックスは社会への適合を促すものであり、社会適合に反抗する喜びにはなり得ていません。このため、私がこれまで馴染んできたものとはラジカルに異なるセクシャルビヘイビアの体系が生じてきています。それで、このトラウマは私にとってはもう耐え難いものとなっているんですよ。

Q端的に言って、サロに関することとは・・

サロで描かれるセックスは、こうした状況の表現ないしは暗喩です。ここ数年の、私たちが生きている「社会適合と醜悪なるセックス」という状況のね。

Qでも、別の意図もあるように見受けられるんですがね、多分、あんまり内面的なものではない、もっとダイレクトな・・

Aはい。そうしたいと、努めているところですね。つまり、消費社会が暴力的に私たちに強いている、セクシャルな関係のメタファ(つまり社会適合と醜悪さ)を別にすれば、サロにおける全てのセックス(またコレがもの凄い量なんですがね)は、権力と、それに従属させられてる人々との関係のメタファでもあるんです。
換言すれば、これはマルクスが人間の物象化(搾取を通じて、人間がモノに貶められること)と呼んだものの表現です。そこで私の映画では、セックスは、恐るべき暗喩的な役割を負うために呼び起こされているのです。完膚無きまでに、生の三部作とは対照的ですよ(もし抑圧された社会にあってセックスがまだ権力をあざ笑うものであるとするならばね)。

Qでも、サロは、「ソドム120日」を1944年のサロに移し替えているのではないですか?

Aそうです。サロとマルツァボットにね。私は、個人をモノ・ブツに変換してしまう権力(例えばミクロ・ヤンコスの映画で旨くやられてるみたいに)のシンボルとして、ファシストの権力、特殊なケースですが、サロ共和国のファシスト政権の権力を用いたんです。もちろんシンボルとして、ですよ。

Qで、サドは、どう関係しているんです?

A彼は関係しますとも。とりわけ関係しますって。というのもサドはかつて、アナーキーなる権力の、偉大な詩人でしたからね。

Qそれは、どんなふうにです?

ラストの撮影風景


A権力というものは、立法の制定であれ行政の執行であれ、どんな権力も獰猛で残忍なものなんです。実際、その規範においても実践においても、権力は制裁・処罰と許可、以外のなにものでもありません。ここで許可、とは、弱者に対する強者の、最も原始的な暴力を許可するということですがね。ということは、繰り返しになりますけど、支配される者たちに対する支配する者の暴力なのです。支配される者たちのアナーキーさたるやもう絶望的で、牧歌的ですらあります。特に、権力とそれに類するものが、コードと実践においてあまりにたやすく自らを露わにしている場合、それはとても非現実的なもの、決してソレと気づかれることのないものとなっているのです。サドにおいて、権力とは、規範を書き、そしてそれらを普通に提示すること以外のなにものでもないでしょう。

Q実際問題に戻ってもいいでしょうか? 単刀直入に言って、どのように、そうしたことがこの映画に描かれているのでしょうか?

Aいたってシンプルに、です。せいぜいサドの本にあるのと同じくらいにですね。権力を持ち、存在論的で、つまるところ独裁的な四人の男たち(公爵、銀行家、判事、枢機卿)が、彼らの忠実な犠牲者たちを「モノ」になるまで「おとしめる」のです。そしてこれらは、おそらくサドの意匠にも従うでしょうが、ダンテ的な構造を持った、神秘的で演劇的な形で進展していきます。「地獄の門」と「三つの世界(獄)」です。主な映像は、暗喩的な性格をもっていて、次々に犯罪的振る舞いが積み重なっていくのです。ここはまた「誇張」されてますよ(だって私は、観客の忍耐の限度を凌駕してみたいと望んでますからね)。

Q四人の怪物を演じるのは、いったいどんな役者たちなんですか?

A怪物かどうかは知りませんよ、ま、彼らの犠牲者たちに比べれば多少はそうかもしれませんけどね。俳優を選ぶに当たり私はいつものズルい手を使いました−私はあるエキストラ俳優アルド・ヴァレッティを抜擢しましたが、彼はその20年以上のキャリアにあってただの一言もセリフを持ったことがない俳優です。それとローマのボルガータ(スラム)出身の旧友ジョルジョ・カタルディ。彼とは<アッカットーネ>を撮っていた時分に知り合ったものです。それから作家のウベルト・パオロ・クインタバルと俳優パオロ・ボナチェリ、です。

Qそれから四人の語り婆とは?

A3人の美女(4人目はピアニストになります、というのも「三つの世界」ですからね)はエレーネ・シュジェール、カテリーナ・ボラット、そしてエルサ・ディ・ジョルジ。ピアニストはソニア・サビアンジュです。このフランス女優二人は、ベネチアでベッキアーリ監督の「ファム・ファム」という作品を見たので決めました。その映画はとても美しく、二人ともフランス語でいうところの「荘厳な」感じでした(本当にそうなんです)。

Qでは、犠牲者たちは?

僕たち皆、シロートでした

A全て、年若い男女です。プロの俳優ではありません。女性の方はモデルから選びましたが、その理由は、もちろん彼らの肉体は美しくなければなりませんし、またヨリ大切なことですが、彼らはその肉体をさらけ出すことに躊躇しないでしょうから。

Qどこで撮影しているんですか?

A屋外はサローで、また室内のシーンと、誘拐・追跡の屋外シーンはマルチュアで、更にボローニャとその近郊です。レノにある小さな街は、消滅してしまったマルツァボットの村に置き換えています。

Q二週間前に撮影開始となったそうですね。仕事の進捗について、なにか教えて貰えませんでしょうか?

Aどうか、ご勘弁を!撮影中の映画監督ほどセンチメンタルな人間はありはしませんから。


いかがでしょうか。大体のところこれは同年6月に書かれたエッセイ「私は生の三部作を撤回する」と同じ論調といって良いでしょう。特にイタリア社会におけるセックスの変化のあたりはほとんど同じ内容ですし、また若者たちの肉体が醜悪になっているという指摘は「〜撤回する」「皆殺しの後にテレビ放映される私のアッカットーネ」にも見受けられるパゾリーニ最晩年の固有の問題意識でもあります。
以上のセルフインタビュー、つまり作者本人の弁をもって理解できることを簡潔に整理しますと、この映画は「暗喩」であり、それが暗喩しているものとは

@ここ数年、イタリア社会で急激に変化してきたセックス。それは消費社会への適合を促すためのものであり、パゾリーニにとっては堪えがたい状況にある

Aまた同時に、そのセックスは、権力によって人間が強要させられている「支配/従属」関係の表現であり、人間が物象化されている(モノにおとしめられている)状況の表現である。

と言えましょう。
更に、サドからは「権力とアナーキー」に関する文脈が導かれていることや、また前述@Aの状況を描くにあたりシンボルとしてサロ共和国の「ファシズム権力」を用いたことなどが読みとれますね。
また前述したように、作者本人が、この作品から距離を置きたがっていること、これは<豚小屋>の時にも「この映画の内容があんまり恐ろしいので私はユーモアと『離』の態度をもって製作した」とパゾリーニが述べていたことと共通するように読めます。さらにはその他いろいろと重要なこと・・若者たちはおしなべて醜悪で・・といったやはり<豚小屋>にも通じる若い世代のありさまに対する危機意識、さらにはセックスにはもはや全く喜びがない、という、パゾリーニ固有の指摘なども盛り込まれていました。モラヴィアが、「晩年のパゾリーニはセックスに対して脅迫観念的だった」と述べていたのは、このあたりのことを指しているのでしょう。

チュバっ♪


それで・・・では。
いやその前に少し、映画に立ち返ります。映画で描かれているセックス、男色、糞食、そして四人の暴虐残忍な権力者たちによって非の打ちどころがないほどに「モノ」として扱われている犠牲者たちのありさまを思い出すと、なるほど、これはパゾリーニでなくとも堪えがたい状況であり、絶対専制的な権力の前に物象化した人間像と、当該権力の支配/従属関係そのものが描かれている、と理解は出来ます。

それで・・・では。
それで、この映画は済まされるでしょうか? まだまだ、あれこれと観賞すべき点、展開されるべき問題点が豊かに残っている、あるいは、まだこの映画は、わたしたちが生きている現代社会の危機的状況、その地獄篇的メタファとして汲めど尽きせぬ血の泉のように、依然としてヌラヌラとした黒光りの輝きを失っていないのではないでしょうか? 

換言すれば、先の「セックスにはもはや喜びがない」とか「消費社会に適合するためのセックス」とは、あまりにパゾリーニ固有の問題設定であり(・・詩人パゾリーニは時に、彼に固有の「用語」で語りましたから)、字ヅラの通りに読むだけでは一般的な問題として解することがなかなか難しい。わたしたち観客に「限度を越えて突きつけられた」この暗喩に満ちた豊潤な映画に向かって、わたしたちなりの問題意識を照射していく余地は、ほかにもずいぶんとありうるのではないでしょうか? 
それに、細部についての検討は、もう十分でしょうか? 例えば、なぜサドなのか? なぜファシズムなのか? 無論これらについては既に一定のタネ明かしがセルフインタビューになされていました。では、なぜ消費社会への適合なのか? それがセックスと結びついて暗喩されているということは、どういうことなのか?
「ぶっきらぼうなまでに政治的なもの(破壊的で、同時にアナーキックなもの)」という真意、特に「政治的なもの」という点は、いったいどのような「支配/従属の関係」を意味しているのでしょうか? 

難しいコト言わずに召し上がれ!


といった数々の疑問について、改めて自分なりに考えてみた経過が、次に続きます。
具体的には、パゾリーニがセルフインタビューに残したキイワードである「サド」と「サロ(ファシズム)」と「消費社会」の隙間を埋めるために考えてみた、あれこれ、です。
まだまだ「地獄の門」にたどり着いたばかりですー(笑)。

コレをですかぁ〜?


地獄の門に入る