「恋におちたシェイクスピア」1998年アメリカ



ジョン・マッデン監督 ジョセフ・ファインズ グゥイネス・パルトロウ

「なんというか、非常に古典的な映画ね。素晴らしい!と言った後に、ふと、うーん・・って思っちゃうこともあるけど」
「うーん?それは唸らされたってことかな?」
「いえ、ただどこかで見たことがあるような映画だなっていうこと。でも決してこれはケナしたりチャカしたりする意味じゃなくてよ、なんだか初めて見た気がしないっていうのかなあ」
「ははあ、そりゃロミ夫とジュリ子の話はお馴染みだしね、女史と僕の、あの叶わぬ恋さえ思い起こさせるしねぇ(笑)」
「こらこら(笑)。わたしはあまりにも中に入り込んで見ちゃって、なんかしばらく余韻から醒めなかったの。でも、その入り込み方がデジャヴみたいな感覚だった」
「だから僕たちの・・って、まあ(笑)それは置いといて。僕はね、この映画は好きだ。すごくいい。久しぶりにこういう映画らしい映画を見たって感動があるな。でも、それはね、もちろんこの映画のオリジナリティの素晴らしさもあるけれど、そのオリジナリティの大半はシェイクスピアの傑作と映画の物語との距離の置き方にあると思うな。虚実入り交じりの面白さはそのバランスにあると思うんだけど、この映画は、実在のシェイクスピアという『実』と、彼とグゥイネスとの恋という『虚その1』と、もう一パラメータとしてつロミオの物語という『虚その2』がある、その絶妙なバランスがオリジナリティの方程式だね」
「はあ、なんかまた狩刈節が聞こえて来そうだわ」
「ダメ?」
「いいよ、べつに(笑)数学は得意だったもん。その方程式を解いてよ」
「じゃ始めるよ〜(笑)。でも僕は文系だから数学はちょっと(笑)。それはさておき、まずこの映画はこれまでの数多くの傑作を実にうまくパクってる。いや、パクりというのはフェアじゃないな。つまりそれはある種の映画芸術の王道なんだし。僕は真っ先に<天井桟敷の人々>のことを思い出した。フォーミュラとしてはほとんどリメイクに近いくらい。でも<天井桟敷>にしても『ロミオとジュリエット』の発想を下敷きにしてる、という意味で、要するにシェイクスピアそのもの、つまり演劇的感動にも直結してるんだね」
「確かに、芝居小屋の人々、舞台を作り上げていこうとする人々の熱意、そのなかの劇中劇が表に出て来ちゃった形で物語られる実際の悲恋・・そこは<天井桟敷>ね」
「でも、僕はあまりそれは言いたくなくて、コトの本質はまずはシェイクスピアの傑作の感動そのものにある、と思うんだよね。ロミオの物語は、もうキリストの生涯と同じくらい誰もが知っている物語でね」
「わたしのデジャヴは、もちろんそこにもあったけど、映画としてもデジャヴなの。例えば同じヅラ物という意味では<アマデウス>ね。あそこでモーツァルトの音楽がそのものズバリに出てくるでしょ。そりゃモーツァルトの伝記映画なんだから当然だけど・・それとほとんど同じ効果でシェイクスピアの台詞がズバリと出てくる。効果ってヘンな表現だけど」
「言いたいことは分かるような気がするなあ・・迫真性というか真正性ということだよね。シェイクスピアの物語をナマで見ている。けれど、この映画はまた独自な世界も持っていて、決してロミジュリ物語を換骨奪胎したとか贅肉つけたとかでなく、極めて高いオリジナリティを持ってると思うな」
「観客のなかにはロミオなんか読んだこともない人もいるはずで、そういう観客も感動させると思うしねぇ」
「そこなんだ、そこが僕のさっきの方程式で、なんか、実にうまく作っている、というふうに見ちゃうんだけどね。つまり誰もがシェイクスピアとロミジュリ物語は知ってるけれど、実際に読んだことがある人は少ないかもしれない。その『知ってる』と『読んだ』の間に、ロミオの物語をなぞる形でシェイクスピア本人と男装の美少女との悲恋物語をパラメータのように自在に挟み込んだ。つまりさっきの『虚その1』を、『実』と『虚その2』の間に挟み込んで自由に『虚その1』を出したり引っ込めたりする構造を作った。その結果グゥイネスとの恋という、この映画独自の本当のフィクシォン『虚その1』は、実在のシェイクスピアその人と、実在する『ロミオとジュリエット』の間でリアリティを勝ち取った。そこがオリジナリティの勝利だと思う」
「要するに作者が自分の経験を自作の物語に書いていく・・で、その所産としての『物語』の方は誰もが大体は知ってるからこそ、作者の『経験』のリアリティと自由度が確固としたものとして保証される、という方程式ね」
「あ・・そういうこと。解かれちゃった(笑)」
「観客のわたしはそれを単にデジャヴと解いたの(笑)。そしてこの映画はハイクォリティの娯楽的要素、つまりそれはあのきらびやかな衣装や時代考証に始まってエリザベス女王の水戸黄門的決着、更にはひとつの芝居が、傑作が生まれつつあるというそのingに観客を立ち会わせてくれる躍動感とかも渾然一体になってる」
「うまいよねぇ。例えば、役者たちの芝居が大仰でシバイがかっていても別にいいんだ。だって彼らは『役者』そのものなんだから」
「そういう十重二十重の劇中劇のなかに埋没しないだけの生身の現実を、グゥイネスとファインズはよく演じてたと思う」
「映像も徹底的にアップを多用して、観客の視線を登場人物の言動や心理描写に釘付けにしていたからね。そして最後のシーンだね。新世界を生きていこうとする女性を表現したラストシーンは、それまでのアップの映像から大きく離れて、広大なロングショットで見せた。映画的文法からすれば常套なんだけど、さっきのロミオを『知ってる』と『読んだ』の間のデジャヴからキッパリと離れて、つまりシェイクスピアから離れて、確実にこの映画自身の物語の結末を結んだ。その見事な変換に女史の余韻があったんじゃないかな? 少なくとも僕の余韻はそうだったんだ」
「そうね。もし、その変換がなくて、例えばシェイクスピアの方で結末をつけたら・・例えば次の『十二夜』が大成功を納めたところで終わるとか、エリザベス女王に謁見したところで終わったりしたら、結局はこれはシェイクスピアの世界に従属しちゃって、彼の伝記を飾る一人称的なエピソード映画になっていたかも知れないよね」
「けれど、その変換点があの嵐の海の中から一人の女性が泳ぎ始めるという幻想的なシーン、つまり『十二夜』を構想するシェイクスピアの幻想のなかにあったこと。それがまた心憎い。グゥイネス本人は多分、傲慢不遜な夫との冷淡で悲劇的な生活を送るのは目に見えてる。だから実際のグゥイネスでも映画の結末をつけるわけにはいかない。実に、ファンタジーとしてこの映画は終わる。見事だった」
「そこが映画らしい映画、という感じね」(2000.1.15)


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