「真夜中のカーボーイ」1968年アメリカ



ジョンシュレジンジャー監督 ジョンボイド ダスティンホフマン

「昔見た時はグッと来たの、Dホフマンの最後とか、すごくジィンと来たのよ、でも見直してみたら、どうかなあ?って感じだった」
「うーん。訳知り顔で言っちゃうと、60年代末のアメリカの精神状況っていうのかな、閉塞感からの脱出、悪あがき、みたいなものは感じる。ただ30年経ってそれも遠くなりにけり、という感じなのかな」
「テキサスの田舎ッペ大将Jボイドは、ハスラーで食べていこうと単身ニューヨークに赴くのだけれど、どうも女達には見向きもされない。そこで脚が不自由で肺病病みのDホフマンと知り合って、いざこざの末に二人はまあ行くアテの無い者同士で友情に結ばれる・・」
「で、Dホフマンはフロリダに憧れていて、病気がひどくなってきたんで死ぬ前になんとかフロリダへ行こう!と二人はグレイハウンドに乗り込むわけだ。僕は、例えば<イージーライダー>との比較で言えば、この映画はまだ既成の文脈で作られてると思うね、田舎の青年が都会に憧れて出てきたはいいけれど、そこは住みにくくて、アメリカ人なら誰もが老後に住みたいというフロリダを目指す・・」
「まあね、印象的なのは時折フラッシュバックされるJボイドの過去。どうやらテキサスの田舎じゃ恋人をレイプされたらしいのね、しかも集団で。そういう暗黒の暴力が潜んでいる中西部と、一方ではホモだのドラッグだのに耽ってばかりいる東部の大都会、そして安息の地フロリダ」
「それじゃなんだか北米大陸パノラマ映画みたいだ(笑)フロリダに着いてJボイドはカウボーイスタイルを捨てる。無造作に。それは彼の新しい門出だし、とても前向きには思う。あの童顔で純朴な感じのJボイドの風貌は、この映画が直接には語らなかった、イージーゴーイングでリカバリーして行こう、みたいな要素をよく表現してた」
「そうね。<イージーライダー>が、ちょっと哲学的でしかめっ面をしてみせたアメリカの精神的閉塞状況を、この映画ではあっさり、Jボイドのスネて突き出した唇で表している感じね。その反面<イージーライダー>が結局はアナーキズムに到達して、一種の詩に突破口を見出したのに比べると・・」
「この作品は従来からの文脈で臭いモノにフタをしてかかった、というかな(笑)」
「それは言い過ぎ。確かにアメリカは広い、だから、こんなところばかりじゃないっていうような希望の持ち方は、彼らに特有の、やっぱり前向きな価値観なんだと思うわ」
「Dホフマンはどうだった?詐欺まがいのかっぱらいの役」
「彼にはぴったりよね、なんかコバンザメみたいな感じ(笑)」
「(笑)それからサイケなパーティの場面では、ヴィヴァとかインターナショナルベルベット、ポールモリッセイらAウォーホル一家が揃い踏みしてた。当時の状況をよく伝えているんじゃないかって思う、よく知らないけど(笑)」
「オープニングで、一面真っ白、そこに地平線が出てきて、あっ空かあ、アメリカってすごい広いわーとか思って見ていると、実はドライヴインシアターの巨大スクリーンが大写しになっていた、と分かる、またまた広いなーって関心する」
「サイモンとガーファンクルに、アメリカという歌があるよね、恋人たちが真のアメリカを探し求めてヒッチハイクしたりする歌」
「let us be lovers and marry our fortunes togather♪♪ね」
「翻って、日本で、こういう土地柄、というか精神風土を活かして映画が撮れるか、というと、まあムリだろうね」(1999.2.5)


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