「天井桟敷のみだらな人々」1999年アメリカ



ジョン・タトゥーロ監督 スーザン・サランドン クリストファー・ウォーケン

「う〜〜〜ん。これはもっと楽しめる作りになるはずだった映画、という感じかなあ」
「あら、結構ネツ入れて最後まで見ていたじゃない?わたしはちょっと、寝ちゃったけど」
「まあね。一言で言って、これは言葉に従属した映画だってこと。セリフが多すぎる。しかもそのセリフがあまりグッと来ない・・」
「物語は、19世紀末の芝居小屋の人々が織りなす群像劇で、その中心はJタトゥーロ扮する劇作家トゥッティの新作上演が成るかどうか、という点ね。それを巡って恋人で座長の主演女優とかホモの批評家ウォーケンとか往年の大女優サランドンとか、あと劇場支配人夫婦の浮気とか、まああれこれとみだらな展開が散りばめられてる」
「そこで、映画の中心にあると女史が言うトゥッティの新作というのが、どうにも魅力的でないんだよね。なんか非常に理屈っぽく愛を語ろうとしているらしいんだけれど、結局語り切れてない」
「実人生に反映されてこない感じってことかしら」
「実人生もそうだけど、映画としてね、不向きなんだよね、それは劇場支配人も言ってる通りで、なんだか展望がなくてこれすべて内的な独白みたいなもので、一種の象徴に収まっているかというとそうでもなくて、映画に描かれたみだらな人々のあれやこれやを収斂していかないし・・
「ウラを返せば、みだらな人々のやってることが、本当に『不完全な愛云々』だったらいいんだけど、単に、狂騒的で興味本位のツマミ喰いって感じで・・まあ、あんまり本気になって見る映画じゃないのかもよ」
「そりゃ女史は寝ていたしね・・久しぶりに女史の寝顔を見た(笑)」
「なんか最近ツカレがとれないのよ・・だから難しい映画は苦手なの。でもクリストファー・ウォーケンのシーンだけは(笑)最高にオカシかったけれどね、あのカルーソを掛けながら段々とムードを作っていくところなんかね」
「そういう意味ではスーザン・サランドンも年増女優の色気ムンムンで、もともと彼女はコミカルで憎めないところがあるから、そこはハマってた。問題は俳優タトゥーロ監督だ」
「はあ・・そう・・?」
「この映画、彼の業ってもんが感じられなくてね、監督業で大変だったのかな、珍しく彼の存在感てもんが希薄」
「初めにこの映画のウワサを聞いた時、彼が芝居の脚本家を演じるってことで、わたしは<バートン・フィンク>みたいに虚実入り乱れて作家の苦闘を繰り広げてくれるのかと思っちゃったの」
「ああ・・現代劇みたいにしていたら、もしかしたらもっとメリハリが効いたかも。この映画の時代設定は随分と昔で、だから例えばイプセンの『人形の家』が新鮮な驚きとともにインテリに持てはやされていたという時代。女の自立とか夫婦愛の新しい姿とかが発見されていった、そういう時代に、トゥッティの新作が、不完全な人間の愛でもいいの? みたいなセリフで観客の心を掴もうとするのは、まあ正当だよね。でも今の僕らの時代には、それももう古めかしい・・」
「一カ所、モダンな演出があったよね。トゥッティの新作が全然ウケなくてボーゼンとしてるタトゥーロのシーン」
「言いたくはないけれど僕は<恋に落ちたシェイクスピア>の旨さと比べざるを得ない・・あの<シェイクスピア>が紛れもなく劇中劇から抜け出て映画自身のエンドマークを打ち出したのに比べると、この映画は結局、劇中劇の終わりで映画を終わった。それは僕、映画としてまったく弱いと思う」
「芝居小屋の人々の、芝居を作ろうとする熱意はまあ伝わったと思うよ、若い俳優たちから」
「いいや、僕にはあまり伝わらなかったな(笑)。そういやベルイマン監督の<ファニーとアレクサンデル>を彷彿とさせるあのオープニングの人形。プロセニアムのなかにオリジナリティ豊かな味わいを感じさせたのは、あの人形の寡黙で雄弁な風貌だけだった」(2000.2.25)

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