「ドイツ零年」1947年イタリア


ロベルトロッセリーニ監督 エドムンドメチェク

「僕はね、これ見ると、ドイツ人てのはコワイなあ・・ナチスもさもありなんって思うよ」
「ネオリアリズム映画の傑作として、伝説的な映画ね。ロッセリーニ監督が<無防備都市><戦火のかなた>の後に敗戦間もないベルリンに行って撮った、ドイツ舞台のネオリアリズム」
「まあ例によってストーリーは特に無いわけだよ。戦争被災者たちが狭いアパートにすし詰めになって暮らしてる。病気の父親。もとナチスの軍人で、逮捕されるのが怖くて部屋から一歩も外に出られない兄。かわりに働かなきゃならない小学生くらいの弟。働くったって、ヤミ屋と物々交換したり、カッパライしたり。あとは米兵相手ににダンスホールに出かけてタバコを貰ってくる姉、とかね。ま、要するに救いようがなく貧困で・・ドキュメンタリータッチの描き方」
「でもストーリーが全くないかっていうと、そうでもないのよ。弟役がエドムンド少年で彼が一応は主人公ね。彼が学校の先生と再会して、ヒトラーの声の入ったレコードを総統官邸でかけるとかいう仕事を頼まれて・・結局ペイを誤魔化されたり。そしてヤミ市の不良少年たちと知り合ったり」
「その風物はいずこも同じだねえ。東京もローマも、そしてベルリンも同じだ。僕は特に不良少年について回ってる金魚のフンみたいなシーンは印象的だった。特にあの女の子がね」
「ああいう、戦争の記憶っていうものが、最近の映画から全く無くなってるってことに実は驚いてるんだけれど」
「おっしゃるとおりだねぇ。もはや題材たりえなくなってるんだろうか・・?」
「それで・・、ドイツ人てのはコワイっていうのは? やっぱりあの直情的なラストの展開、ということね?」
「そうなんだ。次第に父親の病気は重たくなり、手の施しようがない。それに極限生活で家族全員は無闇にイラ立つている。そこでエドムンド少年は元先生に相談するが、先生はすっかりシニカルな男で、世の中、弱肉強食だ・・みたいなことを少年に言うんだね。病院から薬をくすねた少年は父親にそいつを飲ませ、父親は弱々しく死んでいく。罪をおかしたことの自責に耐えられずエドムンド少年は悩みに悩んだ末に、なんと自殺!」
「行動原理がストレートすぎるっていうのかしら、ちょっとそこはわたしも、ええーっ?って感じはしたの」
「要するにドイツ人的な行動なわけだよ(笑)合目的性っていうか合理性っていうか、因果関係が明解で、あんまり情緒的でないっていうかな。これをイタリア人のロッセリーニが撮ったっていうことも、僕にはちょっと理解しにくいわけ。子供の悲惨さを強調するあまり、まるで枝葉がなくて、たったの70分で直線的に終わっちゃう」
「確かにそこはちょっとツライものがあったよねーま、ああいうのがネオリアリズムだったっていうのは分かるけれど、例えば<無防備都市>でAマニャーニが連れ去られる恋人を追って街路を走るじゃない。ああいった胸に迫る濃密な情感みたいなものがヒューマンなものに変わっていく、そこが例えばチャプリン映画をネオリアリズム映画の先鞭と見なすみたいな見方で、そういう見方は確かにあると思うの。でも、この映画は・・」
「うんうん。テーマとして収斂されすぎてるっていうのかなあ・・今の時代となってはネオリアリズム映画の見方というのが分からなくなってるという気もする、これは僕自身の問題だけれど」
「あの先生が冷笑的で一癖あって、そこを頼りにした少年の失敗というかしら・・その部分では因果関係が明解ではないの。どうしてああなっちゃつたか? 実はよく分からない映画なのね」
「敗戦後、夢も希望も無いけれど元気いっぱいなんとかやっていこう!みたいなヒューマンな部分が全くないから、かえって悲劇的という感じが強まらないしね」
「難しい映画・・」
「それじゃゴダールの<新ドイツ零年>にいきましょか・・」(1999.7.28)

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