「エル・トポ」1969年 アメリカ・メキシコ


アレハンドロ・ホドロフスキー監督 アレハンドロ・ホドロフスキー

映画とは体験するものだっていうのが僕の持論で、そのためには現実的に五感をフル稼働させなきゃならないし想像力だって掻き立てなきゃならない。それで映画の側も、五感に訴えるものであるべきだし、実際には描かれていないことについても想像力が働くような作りになっているべきだ、と思うんだよね
「で、この映画は、そういう狩刈くんのお眼鏡にかなっている、と言いたいわけでしょ」
「お見通し・・でも最後まで言わせてよ(笑)。つまり、なぜなら映画は限りなく現実と幻想の境界線に肉薄しながらその一線を行ったり来たりする芸術ジャンルだからだってね」
「この映画を見て、こないだ久々に<サンタ・サングレ>も見直してみて思うのは、ホドロフスキーの作品は、ある種の論理的な一貫性で堅固に貫かれていて、その回りに、メキシコだの南米だのに特有の風物と彼独自のグロテスクな造形美とがないまぜになって満艦飾って感じ」
「確かに<サンタ・サングレ>はトラウマに起因するマザコンというロジックがあって、そこは論理的だったよね。じゃ今回の<エル・トポ>は・・というと、これはエピグラフの通り、モグラは太陽を見ると目がくらんで死んでしまう、と(笑)。これはもう一種の仏教説話みたいな無常の世界だね(笑)」
「映画は二部構成みたいになっていて、前半はどんな強者であっても生命は支配できないっていう思想の現れ・・」
「つまり、さすらいのガンマン、エル・トポは、砂漠に住む四人の銃の達人たちを相手に勝負を挑んで、まあ結構姑息なテを使って次々に倒していくんだよね。でも最後の達人は、相手を倒すなんてことは無益な殺生だ・・みたいなことを言って自分から死んでいく。目的を失ったエル・トポは女に撃たれて、死んでいく」
「この前半は、まったく仏教的というのかしら、乱暴者の孫悟空がどんなに偉そうにしていてもお釈迦様の手のひらからは逃れられないっていうロジック(笑)」
確かにエル・トポは孫悟空に似ているな(笑)。晩年の宮本武蔵の心境という感じもある・・けど、この前半で僕が好きなのは、当時のヒッピームーヴメントの香り高い西部劇を展開してくれてるってところなんだ。女ガンマンなんて眉がなくてまさにヒップな感じだし。馬をバイクに変えればそのまま<イージー・ライダー>みたいな無目的な世界と地続きだよ
「あれだけ砂漠と青空を見せてくれながら、そこに突き抜けていかない、不思議な閉塞感があって、それは多分にエル・トポの内面的な行き詰まりが反映しているんでしょうけれど、なんかもう血しぶき上げる暴力で突破していかなきゃこの先がないっていうような枯渇したエモーションを感じるの」
「ははあ、なるほどね。物語の背景は東洋的で、四人のガンマンなんてほとんど隠者・行者って感じだ。最初はインドの苦行僧だし二番手はラヴ&ピース。ウサギと住んでるヤツはワケが分からないけどね(笑)。それなのに、エル・トポ一人は血に飢えたマカロニウェスタンなんだよね」
「マカロニっていうか・・ペキンパー?(笑)。ま、冗談はよしといて、映画の後半はもう『恩讐の彼方に』ね
「言うと思った(笑)・・女に撃たれフリークスたちが住む洞窟に引き取られて、守護神として何年もあがめられていたエル・トポは奇跡的に生き返り、今度はフリークスたちのために、洞窟と外の世界を繋ぐトンネルを掘ることに生涯を捧げようとする。それで街まで金を稼ぎに行くと、ひょんなことから、昔、修道院に捨ててきた自分の息子と出くわして、息子はその恨みを晴らすために父エル・トポと決闘をしようとする。でエル・トポは『せめてこのトンネルを掘り抜くまで仇討ちは待って下され』(笑)と、菊池寛の世界に入っていく」
「で、息子は仇討ちをやめてトンネル掘りに協力して、堀り上がった時にはもう恨みも消えて一人去っていくのね・・でも洞窟のフリークスたちは完成したトンネルを通ってみんなで街まで走っていって、街の人々に撃ち殺されてしまう」
「エル・トポは自分が良かれと思ってしたことが全て裏目に出てしまい、絶望に陥って街の人々を撃ち殺し、自分は焼身自殺の即身成仏を遂げる・・と。これもまた仏教的な無常の世界だ。モグラの目潰しだったわけだ」
「要するにそういう無常が、この映画のロジックとして強く太く映画を貫いていて、その周辺に今回は西部劇の造形が散りばめられてるって感じね」
「でもただ単に装飾的に散りばめられてるってだけじゃなくてさ・・うまく言えないけれど、映画の世界観にしっかり食い込んで、全体として映画の血肉と化している」
「例えばあの街の描き方ね。一見すると普通の西部の街なんだけど、へんてこなマークの新興宗教に皆が陶酔状態になっていたり。でもその宗教の核心に隠されているものはただの空虚なまやかしに過ぎないっていうのが、ロシアンルーレットを題材に、やっぱり説話的に描かれてた」
「そうそう。そういうのがこの映画の血肉だと思うんだよね。あの街の描き方は、なんていうか僕にはエキサイティングだったなあ」
「あとは黒人奴隷やフリークスたち、つまり社会的弱者に対するサディスティックな暴力が蔓延してたりね・・」
「そう。あれは暴力の街で、都会というのは本来的にああいうものだって、僕なんか、もの凄く納得しちゃった・・つまり都市というものは文化の凝縮地帯であって、文化が価値観と不可分であるとすればおのずと差別がなくては成立しえない。文化=価値観=差別化、というロジックがあの街には確かにあったように思うんだよね」
「それが直接は描かれていないにせよ、そういうところまで想像力が働いてしまう、というのが、最初に狩刈くんが言った『映画的体験』ということでしょ? なんか昔<ホーリー・マウンテン>で例の喧嘩さわぎになった時の狩刈くんの言い分を思い出したよ(笑)」
「(笑)またその話か(笑)。それはさておき、ホドロフスキーはエル・トポの息子の後日談で映画を作ろうとしていた時期があったけれど、その後、さっぱり聞かないね」
「彼には、いつもなにか息子に対する複雑な感情があるみたいにも思えるよね(笑)<サンタ・サングレ>とかでも結構イタめつけていて・・なんていうか、男としての脱皮・成長みたいなもののロジックが、彼の心の底には流れていて、それは決してヒロイズムじゃない、なんていうか、精神的に地べたを這うみたいな苦闘を思わせるの」
「はあ・・それはまた随分と直感的な言いぐさだけど、なんとなく分かるような気もする。とにかく語り尽くせない映画というのは、こういう映画だね」
「これまでロジック、ロジックと言ってきたけれど、むしろホドロフスキーの精神世界・世界観と言い直した方が正確みたい」
「世界観であり文明観、歴史観ということかな。この暴力、血しぶき、死体にフリークスだらけの映画をそのまま受けとめたら大変なことになる・・か、或いは、精神的なものはまったく何も伝わらないかもね。生死を剥き出しにする荒野・砂漠というものが魂の上昇過程には必然的に必要で、そこを通ってきた者だけが街・文明・歴史と対峙出来る。そんな精神世界が、この映画の背景にはある・・と、いうわけでそろそろ<ホーリー・マウンテン>に行く心の準備が出来てきたみたい(笑)」(2000.1.6)

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