「甘い生活」1960年イタリア

Fフェッリーニ監督 Mマストロヤンニ

「どのエピソードも、もはやノスタルジックだな
「フェッリーニ自身も<インテルビスタ>でトレビの泉のシーンを回想してたわね、すんごいお婆さんになったAエクバーグとマストロヤンニ老人と一緒に」
「ああいうノスタルジーには耽ってもらいたくなかったな僕は。老醜だよ。<オーケストラリハーサル>以降、晩年のフェッリーニは衰える一方だった」
「とはいえこの作品は脂がのりのり」
「どのエピソードにもハッとさせる印象的なシーンがあって、それが後年のフェッリーニ映画のインデックスみたいになってるよね。聖母出現のエピソードで突然嵐になるところは<ローマ>の交通事故に通じるし、ラストの乱痴気パーティは<サテリコン>のトリマルキオンの饗宴や<8・1/2>のマルチェッロの入浴に続く阿鼻叫喚の超超ラフスケッチだし・・」
「その意味では圧倒的なフェッリーニワールドの奔流で目がくらんだわ。ただいちいちのエピソードをよくよく考えてみると、あまりにも分かりすぎるっていうか、ちょっとくどい。あからさまな風刺で、とても饒舌な作品だと思うの。約3時間、長い感じは否めないよね」
「全体のテーマと各エピソードの響き合いが、これみなドミソみたいな協和音なんだ。くどいのは不協和音がないせい、かな?」
「不協和音といえば・・例えば友達が自殺してショックを受けたっていうのは分かるけど、わたしはあの友達が自殺する理由が分からなかったの。不条理な死。しかも子供も道連れで」
「あの悲惨な自殺は、あれだけを取り上げるんじゃ観客に対して充分な説得力がない。むしろマストロヤンニ自身こそ理由が分からない、という描き方なんだろうな。インテリ然とした友人でさえ、この虚飾の世界から身を守る術がなかったのか、とマストロヤンニは思ったかもしれない。ましてゴシップライターの自分をや・・それが絶望的に虚無的に彼を乱交パーティへと駆り立てる。悲惨さを強調するために子供まで道連れにして、そのうえ夫の自殺を知らされていない奥さんはパパラッツォに取り巻かれてにっこり笑い髪の乱れを直したりする」
「やっぱり、ちょっとやりすぎよね。これでもかこれでもかっていう感じ」
「例えばさ・・エピソードの順番を組み直すと、もう少しスマートな作品になると思うんだ。乱交パーティの翌朝、友人が自殺して、その後に聖母出現の取材に行くが嵐で混乱、教会に入ってオルガンでジャズをひき、最後はキリスト像を吊り下げたヘリコプターがローマ上空を飛び去って行くのをマストロヤンニは雑踏からぼんやり見上げている。・・とかいうのはどう? もはや神も仏もこの世にいないっていうメッセージだよ」
「それはブニュエル的! キリスト像と鮫だかエイだかの魚と、どっちがしめくくりにふさわしいかと聞かれれば、やっぱり魚よ。腐ってるもん。全編どこを切っても金太郎だからラストを飾る決定打として結局、腐った魚そのものを出しちゃったというわけ」
「腐った生活、というのが本当のタイトルかな?」
「まあね。苦い生活、とかさ。でもわたしは、田舎からお父さんが出てきてキャバレーに案内するあたり、あの地味なエピソードがとても好きなの。窓辺でお父さんが夜風にあたってる姿にはじいんと来る。あそこは苦み走ってる」
「あのお父さんは<8・1/2>では死んじゃってるしね」(1998.5.3)

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