「ブエノスアイレス」1997年 香港



ウォンカーウェイ監督 トニーレオン レスリーチャン

「ホモの二人がブエノスアイレスに行って痴話喧嘩ばかり繰り返してる話・・」
「というまとめ方は出来るけど、もうちょっとないの?」
「(笑)例えば?なにが面白いのか分からない、とか?」
「うーん、特に話はないっていうのはいつもの通りだし映像でエモーションを見せるだけと言えばそれまでなんだけれど、わたしはどうしてホモなのか・・とか、こだわっちゃった」
「男と女だったら、結構当たり前すぎて映画にならないからだと思うよ・・僕はちょっとこの作品には乗れなかった。いろんな連想は湧いたけどさ、例えばアパートのなかでシャツにパンツで男二人がウロウロなんていうのは、実は僕もヨーロッパやタイで同じように男と二人旅したことがあるから、なんか懐かしいムサ苦しさだったな(笑)例えば猿岩石とかドロンズといったことも思い浮かべちゃったしね」
「わたしは南米ってこともあって<蜘蛛女のキス>とかも思い出したの。痴話喧嘩ばかりっていうのは始終悶々として陰に籠もっていて、作品世界はかなり鬱屈した閉鎖的な感じ。だから牢屋に閉じこめられたホモっていう連想で蜘蛛女・・」
「相変わらずの刹那的という世界はヒシヒシと伝わったけれど、人物たちは目的も意味も見いだせないし、なにかあらかじめ見いだすことを放棄させられてるような気がしたんだよ、女史は映像でエモーションを・・というけれど僕としては今回は却ってエモーションは伝わりにくかったんだ」
「というのは?」
「というのは、露出オーバーで、手持ちのガタガタ映像、しかもコマ落としにストップモーション・・いい加減にしてくれっていう感じが募った。あれはヤリスギ」
「確かにミュージックビデオの演出という気はしたわね」
「ああいう凝りに凝った映像は却って人物の深い感情を雲散霧消させるキライがある。岩井俊二監督がそのいい例。人物の情感が、演出によってご都合主義に操られてるようにも思えるってこと。トニーが、レスリーが泣く時、僕にはその涙が演出上の効果にすぎない、こじつけがましいものに思えた」
「なるほどね。わたしはそれは音楽にも言えると思うの、ピアソラの音楽は時にはMナイマンかと思えるくらいに前頭葉をマッサージしてくれるんだけど、ハタと気がつくと、なんか出来過ぎウルサすぎで、絵に合ってないっていうか、あのひたすらに沈黙を続けてきたこれまでのカーウェイ映画はドコに行ったの?って感じ。でも映画全体としては楽しめたと思うし、声を録音するエピソードとか、それを灯台で聞こうとするところ、そういった細部は例によって詩情が豊かだったと思ったわ」
「まあ・・僕もそんなにケナす映画じゃないとは思うし、実はとても好きだ(笑)けれどねー女史のお言葉を借りれば、閉鎖的でしかも刹那的ということになると、ドダイ展望は見いだせないよね、展望って何のことだか分からないけど(笑)」
「<欲望の翼>で最後にフィリピンに行くじゃない。言ってみればそういう新しい地平に立つということが展望だとすれば、わたしはこの映画は多分イグアスの滝の場面で終わるんだろなって予感がしてたの・・裏切られたけど」
「だってそれじゃ工夫がないよ、あまりにも当たり前」
「ううん、裏切られたというのはそうじゃなくて・・なんて言うのかしら。イグアスの滝、あの、この世のモノとも思えない猛々しい大自然の前には、さすがにカーウェイ監督もタジタジしたというのかしら。映画はあの雄大な滝に負けていたような気がするのよね、どんなに映像をこねくり回して人物たちの情感の突き上げをモロに観客に突きつけて見せたにせよ、あの悠久な滝を前にすると人間界すべては絵空事なんだぁ・・って感じ。うまく言えないけど」
「ああ・・それは分かるような気がする。<楽園の瑕>では、背景は、ただ風ばかりが吹く砂漠だった。それはそれで人間存在と時には対峙し、時には包含しすべてをひっくるめた宇宙なるものを感じさせたよね」
「そう。でも今回の滝は、人間たちの、それもつかず離れずホモ二人の痴話喧嘩と対比するにはもう圧倒的に過ぎて、この映画が描こうとしたみたいなものは些末で吹っ飛んじゃう」
「そうか!その吹っ飛びに、まるで違う展望の可能性があったのかも知れないね」
「ところが滝を使いこなせなかったのね・・」(1998.12.25)


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