「アントニオ・ダス・モルテス」1969年ブラジル・フランス


グラウベル・ローシャ監督 マウリシオ・ド・ヴァレ オソン・バストス

「前回の<黒い神と白い悪魔>の最後で女史が図らずも『このトシになってもまだワケが分からない世界と出会えるのは嬉しいことだ』と漏らしたのが僕には嬉しくて(笑)、それで引き続きローシャ監督のこの作品です」
「あ、あれはオフレコだったのに(笑)でも・・まあ、正直いってそんな感じ。でもちょっとは勉強したよ、カンガセイロのこと」
「へえすごい・・」
「カンガセイロっていうのはピストルだのナイフだのサーベルだのの七つ道具を持っていて、それをポルトガル語でカンガッソと言うことから付けられたんだって」
「カンガセイロはブラジルの東北地方、いわゆる最貧困地帯にチョーリョーバッコする山賊まがいのゲリラの首領たちのことで、極貧にあえぐ一般民衆にとってはまあ、ある種のヒーローなんだね。19世紀から20世紀初頭にかけては伝説的なカンガセイロが現れて、その第一人者がランピオンという奴なんだけど、彼は20年間にわたって何千人という軍隊と闘ったスゴい奴だったらしい・・」
「ある意味では日本のヤクザとかフランスのギャングとかマカロニのガンマンと同じように、映画のなかでは民衆的なヒーローとして描かれてるってことね。それと、このカンガセイロと並んでブラジルに特有なヒーローが『聖人』とか『聖者』と呼ばれる謎の人物と、彼らに付き従う奇妙な狂信者たち。彼らはとにかく干ばつだの水害だのといった自然災害や大地主の搾取で乞食同然になっていて、だからこそカリスマ的な『聖人』に対して狂信的に付き従うらしいのね・・」
「いんや、よ〜〜くお勉強してきたねぇ・・。それで今回の<アントニオ>はというと?」
「やっぱり全然わかんないよ(笑)ていうか、これはそんなに分かって見る映画じゃないなってことが分かった」
「(笑)物語はというと、カンガセイロ殺しに命をかけてる殺し屋アントニオが主人公で、彼は例によって町の大地主の大佐に雇われて、荒野の潜むカンガセイロを殺してくれと頼まれる。アントニオは『今どきカンガセイロなんかいるものか』なんてボヤきながらその相手コイラナ大尉と決闘して彼を倒す・・と、ここいらまではまあ、よく分かるでしょ」
「まあストーリーの展開はね。でもわたし、これは最初から一種の神秘劇っていうか寓意劇みたいな感じで観てたの・・物語の舞台となってるのはあくまでも現代でしょ。トラックとかタンクローリーとかがぶーんて走り去っていくヨコを、大きなライフル銃をもってドカドカとアントニオは歩いていくのね。なんかすっごく非現実的」
「それはまあ日本の常識で考えればね・・でも<仁義なき戦い>の最初のヤツなんか見ると、菅原文太が長いドスを持ってクルマに乗って駆けつけてくるとかさ(笑)・・ま、ヤクザ映画ってのも一種の神秘劇だけど(笑)」
「様式美で作られてるからかしらね(笑)・・って、冗談でなくこの映画の様式美はね、これはもうまたまたガーンて来るくらいにびっくりしたの。やっぱり普通の映画じゃないって感じ」
「オープニングでさ、アントニオがバンバン、ライフルを撃つんだね、特に狙いをつけたりしないで腰ダメで。そうするとしばらくしてギャア〜〜〜とかいって、スクリーンの隅からキリキリ舞したカンガセイロが飛び込んできて、そのままギャア〜〜ってのたうち回りながらブッ倒れる。ああいうのって、ほとんど歌舞伎のノリで様式美の極致を行ってる感じだ」
「圧倒的にバイオレンスなんだけど、どこかにユーモラスな大仰さがあるのね。それで物語はというと、主人公アントニオはカンガセイロのコイラナ大尉を倒したはいいけれど、町では大佐が妻に不倫されて逆上して、なんかワケが分からないうちに別の殺し屋を雇ってアントニオを殺せ、ってわめきだす・・あたりでわたし、なんか、脱落〜〜って感じ」
「新たに登場する殺し屋の名前がマタ・バカとか言うのには笑ったな(笑)、とそれはともかく、やっぱり女史の言うとおりこれ、どこか神秘的な寓意劇といった感じだね。要するに大佐ってのは搾取階級の比喩であり、その妻は色キチガイで、シニカルな教師は左翼インテリの象徴だろうし、そういった連中に抑圧されてる餓死寸前の民衆の希望が自由と暴力の象徴であるカンガセイロに集まっていくというのはまあ分かりやすいんだね」
「じゃ殺し屋アントニオってのはナンなわけぇ?」
「彼は・・まあ狂言回し、かな。観察者、っていう役割もあって、彼は聖女と呼ばれる女と、歌を歌い続ける素朴な民衆と、その民衆のリーダー格みたいな黒人の狂信者といった、抑圧される側の生態をつぶさに見守っているんじゃないかな」
「ただ見守っているだけじゃなくて、映画のエモーションの底を支えてるって感じもあったよね。彼は次第に自分の真の敵はカンガセイロじゃなくて町の大佐なんだって確信していって、それでインテリ代表の学校の先生とふたりで大佐や殺し屋たちに立ち向かう・・」
「そして大殺戮のあと、再びさすらいの旅に出る・・と、なんだ、じゃこれはただの用心棒西部劇だったのか(笑)」
「クリント・イーストウッドね。太めの」
「まあとにかくカンガセイロとか狂信者とか、その他ブラジル高地特有の風土とかさ、これは前回の<黒い神と白い悪魔>の時にも言ったけれど、そういった普段見慣れないようなモノがバンバン出てきてそこに目を奪われてるうちに、なんかすっごい世界に足を踏み込んじゃったような錯覚に陥るのかもね」
「でも、その感覚は錯覚というだけじゃないとは思うよ・・うまく言えないのがもどかしいけど、なんか凄く暗いのね。暗いっていうか、黒いの、黒々としたものがあって、しかも重たい。痛切で、陰惨なの」
「どことなくパゾリーニの<王女メディア>に出てきた未開の国コルキスを思い出させるような荒野でね、人々が地べたに座り込んで歌をうたい、踊り、そして次の瞬間ライフルの乱射で血だるまになって転がっていくんだね。で、そんな圧倒的な血飛沫のあとのヒンヤリした沈黙のなか、ゴロゴロ転がってる死骸の間にスクッと一人の若い『聖女』が平然と佇んでいて、しかも何一つ言葉を発しない。で、そこに弱々しい風だけが吹いてくる。髪がはらりと揺れる・・なあんていう映像がね、これはもう圧倒的に神話的で、とてもこの世のモノとは思えないフォトジェニックな美しさにガーンとやられちゃう(笑)」
「そういうのが狩刈くんの美学に響いてくるわけでしょ・・まあ映画作りとしても素朴っていうか、長回しで一巻ずっとセリフがないとかね。感情表現とかもオオゲサで、芝居があまりにも芝居がかっていて、まったく異化って言葉を思いだしちゃう。それから面白かったのは最後に黒人が馬に乗って大佐を槍で突き殺すのね。で、それは聖ゲオルギウスの伝説と被さっていて、映画の冒頭でもコメントされてる通り、これはそういう民間信仰みたいなものへのオマージュというかしら、本場ブラジル人にとっては娯楽活劇なのかも知れないのね」
「まあ<黒い神>、あれは明らかに一種、脱出のドラマであり、若い夫婦が貧困から狂信者に身を投じカンガセイロに助けられ殺し屋アントニオに襲われて、そしてどこまでも逃げる、逃げるのだ〜〜みたいな一貫した筋立てがあった」
「でもその筋立てはずいぶん後になってから分かったよ(笑)映画を見てる間はとにかく長回しと沈黙と真っ黒な画面に圧倒されっぱなしだったの」
「ま、そうした超常的な迫力をスミに置いて見れば、今いったみたいな<黒い神>のストーリーは、民衆的でもあり、ひょっとしたらロマンチックな逃亡劇とさえ言えるのかもね。けれど今回のやつはプロットはもっと複雑で、アントニオがカンガセイロ殺しから大佐殺しへと変貌していくあたりに観客は共感していく・・ような作りになってるのかも知れないな」
「ストーリー仕立てという意味では今回の方が、登場人物も多いし、人々のエモーションもまあ分かりやすいし、全体として見ていてツラくはなかったのね・・ただ人間離れさは、<黒い神>よりもっとすごかったかも」
「また機会があったら、こういう体験はしてみたいよね。まったくいくつになっても、驚くってことはいいことだよ」(2001.10.3)

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