[付録] ニュースと感想 (111)

[ 2006.08.11 〜 2006.09.04 ]   

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● ニュースと感想  (8月11日)

 「北越製紙の買収」について。
 王子製紙が北越製紙をTOBで買収しようとしている。これについてマスコミは、「TOBによる買収のビジネス的な是非」という話題を追っている。しかし、これは本質を離れた報道だ。
 「TOBによる買収のビジネス的な是非」という話題は、「ライブドアの日本テレビ買収の是非」とか、「村上ファンドによる阪神買収の是非」とか、そういう話題の二番煎じふうに論じているのだろう。あくまで企業ビジネスの是非だ。
 しかし、企業ビジネスの是非なんて、国民の知ったことではない。そんなことは当の会社同士が損得を考えればいいことであって、他人が大騒ぎするようなことではない。
 しかしながら、その一方で、国民全体が大騒ぎしなければならない点もある。

 まずは、この買収の本質を見抜くべきだ。この買収で、王子は得をして、北越は損をするらしい。では、なぜ、王子は得をするのか? それを考えるといい。すると、こうわかる。
 王子が利益を得るのは、古い自社設備を廃棄して、北越の新しい設備を使うからだ。(これは報道されたとおり。)……では、なぜ、王子はそれをめざすのか?
 本来ならば、市場原理に従って、自社でも新しい設備を導入すればよい。そうすれば競争は激化するが、その競争を通じて、需要側(客の方)は利益を得る。ただし、そうすると、競争激化によって、王子は割を食う。もともと古い生産設備があるからだ。また、競争激化によって、市場価格の低下も生じる。
 一方、王子が北越を買収すれば、自社で投資するかわりに、投資をした他社を買収することで、同等の効果を上げることができる。しかも、自社では新鋭設備を投資しないから、新鋭設備の和は、2ではなく1となり、新鋭設備の総量が少なくて済む。つまり、競争の激化がない。……比喩的に言えば、ライバルを消滅させる効果がある。

 ここまで見ると、王子の狙いがわかる。これは、ただのTOBではない。その本当の目的は、市場競争の制限である。本来ならば、1と1とが競争するはずだが、それだと値崩れを起こすので、1だけの状態にする。ただし、その利益をライバル社が得るのは気に食わないから、ライバル社を買収することで、その利益を頂戴する。
 だから、ここで王子が狙っているのは、北越の利益を頂戴すること自体ではなくて、市場競争の制限による利益を残すことである。……比喩的に言えば、ライバルを買収することで、合法的なカルテル状態を作り出したいわけだ。

 では、そのことによって損をするのは、誰か? 北越か? 北越は特に損をするわけではない。北越の株主は株を高値で買ってもらえるし、北越の経営者従業員も特に損するわけではない。経営者は独裁的な最良を得ることができなくなるが、そもそも経営者は株主によって選任されるものであって、経営者が会社を私物化することの方がおかしい。要するに、北越関係者は、特に損をしない。損をするのは、会社を私物化したい経営者だけだ。(ただし、そのまま経営者として残れるのであれば、経営者も損はしない。)
 損をするのは、実は、北越の関係者ではなくて、日本国民全体である。日本国民全体が、実質的なカルテルによって製品価格の上昇(または価格低下の廃止)という形で損をする。その損をした分を、王子が頂戴する。
 
 だから、ここで問題となっているのは、「TOBのビジネス的な是非」ではなくて、「カルテル的な寡占状態の是非」なのだ。「TOBのビジネス的な是非」であれば、王子は「カルテル的な寡占状態」によって利益を得る。また、北越は、特に損はしない。ゆえに、ビジネス的に見れば、プラスである。だから、。「TOBのビジネス的な是非」であれば、このTOBは善である。
 しかしながら、国民全体で見れば、市場競争の制限による不利益が発生するから、このTOBは悪である。

 結語。
 今のマスコミは、企業の利益の損得ばかりを考えていて、国民の視点が欠けている。「企業の利益が増えた、万歳」とだけ唱えて、国民の金がどんどん奪われていることを無視する。
 経済の本質を知らないで、経営のことばかりに目を向けているマスコミは、その無知ゆえに、国民にとってはあまりにも有害である。


● ニュースと感想  (8月12日)

 「阪神の保証金支払い」について。
 阪神球団に「新加盟」と見なして 30億円を払え、というプロ野球の決定について、広島が「阪神支持」の方針を打ち出した。( → ニュース )
 この件については、私は前に「阪神はプロ野球を脱退してしまえ」と述べことがあった。( → 7月07日b
 ただ、よく考えてみると、何も脱退する必要はない、と言える。何もしなければいいのだ。つまり、30億円を払わないで、ほったらかしておく。何かするとしたら、「絶対に払わないぞ」とだけ言う。
 すると、どうなる? プロ野球側は「ルール通り」という言い分に従って、新加盟を認めない。となると、阪神は自動的に、球界から追放となる。阪神が阪急と合体した時点で、阪神はプロ野球から追放だ。
 で、プロ野球で一番人気の阪神が抜けたら、他の球団は経営が成り立たないだろう。いい気味。その一方で、阪神は4球団だけで、新リーグを作ればいい。西武、広島、巨人が阪神の見方だから、この4球団だけで新リーグを作る。他の球団は、入れてやらない。
 すると、どうなる? 巨人や阪神は、巨人阪神戦が、5分の1から3分の1に増える。人気カードが増えて、とても儲かる。西武や広島に至っては、3分の2が巨人または阪神とのカードだから、大儲けだ。その一方で、儲からないヤクルトや横浜や駐日との対戦は削除される。
 結局、この4チームだけが大儲け。その一方で、残りの8球団は、楽天やオリックスや日本ハムみたいな脱殻チームばかりで、不人気チーム同士の対戦をやればいい。
 なお、こういうふうになった場合、交流戦もなくなる。そのせいで、巨人や阪神は、楽天やオリックスなんかと戦わずに済むから、交流戦がなくなった分、やはり儲かる。
 世間は「けしからん」と怒るかもしれないが、実際にはそんなことはないはずだ。何しろ、阪神が脱退したわけではない。他のチームが阪神の新加盟を認めずに、実質的に無理やり脱退させただけだ。脱退させた方が、「脱退はけしからん」と言っても、道理が通りませんね。
 いい気味。てんやわんやになってほしい。……これで、不人気のプロ野球も、人気が出るかも。  (^^);
 そういうもの。

● ニュースと感想  (8月13日)

 「中東紛争の解決法」について。
 → Open ブログ 「戦争とタカ・ハトゲーム」


● ニュースと感想  (8月14日)

 「読売の戦争記事」について。
 13日の読売朝刊に、先の大戦(太平洋戦争)を総括する記事があった。特に見解はなく、事実の叙述がほとんど。とても良く整理されている。ご一読をお勧めする。
 なお、個々の事件についての細部の情報は、Wikipedia などのネット上の情報でも得られる。ただ、細部の情報は得られても、全体像はつかみにくい。その点で、上記の記事はとても良い記事だ。傑出していると言える。スクラップにして保存しておく価値がありますね。
 
 なお、戦争の責任者の話も出てくるが、根源的には、マスコミの責任も大きい。国民に真実を報道せず、軍部からの提灯記事ばかりを書いていた。たしかに軍部の圧力は大きかっただろうが、だとしてもマスコミの責任が免責されるわけではない。
 特に問題なのは、「あれは昔のことさ」と思い込んでいるマスコミ関係者が多いことだ。
 とんでもない。あれは昔のことではない。今もまた同様だ。次の二点で。
 (1) ライブドア事件で、検察べったりの片面報道ばかり。大政翼賛会ふう。検察批判の意見はほとんど掲載されない。そのことを反省すらしない。「異説の掲載」ないし「多様な意見の掲載」というのをほとんどやらない。実は、ネット上には、異説はあふれているのだが、そういう異説をすべて無視する。……昔のことを笑えない。
 (2) 景気問題で、古典派べったりの片面報道ばかり。量的緩和をやったのにまったく効果がなかった、という認識はできるのだが、その先のことを、まったく反省できない。「量的緩和で景気回復」と唱えた連中はすべて自己の間違いが証明されたのに、そのことを報道しない。古典派による「景気は回復したがそれでも低金利政策を続けよう」という声ばかり。マクロ経済学による「需要サイドの経済学」の意見をまったく報道しない。そういう意見はちゃんとあるし、ネット上にもあるのだが、マスコミはまったく無視する。……「ネット上の声なんか無視していい」と思っているのかもしれないが、それでは自縄自縛だろう。「報道していないから、報道しなくていい」と言っているにすぎない。論理の循環。理屈になっていない。

 結局、(1)(2)からもわかるとおり、昔も今も、マスコミというのは無責任な報道をして国家を誤らせるのである。昔のマスコミは、日本の「戦争邁進」という行動を批判するどころか、阿諛追従するばかりだった。今のマスコミは、検察の「職権乱用」とか、古典派経済学者の「無効な金融政策を有効だと詐称する」という「経済崩壊政策」という行動を批判するどころか、阿諛追従するばかりだ。……どちらにしても、デタラメな片面報道で、真実を隠蔽する。かくて、国家を破壊する。
 昔も今も同じである。マスコミは真実を報道するためにあるのではなく、大量の虚偽を報道することで真実を隠蔽する。その結果は、国家の破壊だ。昔も今も同じである。過去の他人について反省しても、現在の自分については反省ゼロ。

( ※ 経済政策の無反省については、ここ一週間ほどの、読売・朝刊・経済面の記事を参照。古典派の意見ばかりがやたらと登場している。反省ゼロ。間違いを犯しておきながら、反省するどころか、自己の正当性を強弁するばかり。「反省」ならぬ「居直り」である。それを堂々と掲載する新聞社もどうかしているね。昔で言えば、「軍部賛美論」ばかりを掲載して、「戦争忌避論」を決して掲載しない、というようなものだ。悪の片棒をになっている。それがマスコミだ。……昔は軍部とマスコミが共謀して日本を戦争に追い込み、今はエコノミストとマスコミが共謀して日本を経済破壊に追い込む。いずれにしても日本を国家破綻に追い込む。)


● ニュースと感想  (8月15日)

 「A級戦犯と戦争責任」について。
 A級戦犯やら靖国やらが話題になっているので、これをめぐって、より広い見地から「先の大戦とは何か?」という本質を探ろう。

 まず、小林よしのりに代表されるように、次の意見がある。
 「A級戦犯という概念は不当である。そもそもその判決は勝者による裁判でって、国際法に基づくものというより、恣意的な法解釈にすぎない。法的にはまったくのデタラメである。こんな概念でA級戦犯を非難するのは不当なことだ
 この結論は正しい。ただし、注意しよう。
 「こんな概念でA級戦犯を非難するのは不当なことだ
 という結論において問題があるのは、「こんな概念で」というところであって、「非難する」というところではない。

 つまり、「A級戦犯だから悪い」という論理はたしかに成立しないが、だからといって、「A級戦犯は悪くはない」という結論にはならない。
 比喩的に言おう。殺人犯が被害者を殺したとする。ここで被害者の遺族が「こいつを死刑にしてやる」といっても、それは不当である。なぜなら被害者の遺族には、死刑にする権限がないからだ。もし勝手に殺せば、それは(復讐ないし仇討ちという形の)殺人になる。決して「正当な死刑」にはならない。しかし、だからといって、この殺人犯が「悪くはない」というふうにはならない。被害者の遺族には罰する権限がないという理由で、「殺人犯は無罪だ」という結論にはならない。
 A級戦犯も同様だ。戦勝国が「A級戦犯は悪い」と断じるのは不当である。が、だからといって、A級戦犯と見なされた人々が「まったく悪くはない」ということにはならない。
 要するに、A級戦犯と見なされた人々は、戦勝国から処罰されるいわれはないが、日本国からは処罰されるいわれがある。その罪は、政治上の罪であって刑事上の罪ではないから、死刑のような形にはならないだろう。とはいえ、死刑を除く形では、最高の刑罰を処せられてしかるべきだ。(本当ならば自決するのが正しいと思うが。阿南惟幾陸相のように。)

 ここでは「A級戦犯と見なされた人々」という言葉を使った。このような言葉を使わざるを得ないということは、日本には適当な概念がない、ということだ。日本人は戦争責任者を表現する言葉を持たないのである。それはつまり、「日本人が戦争責任をまったく考えてこなかった」ということだ。
 本来ならば、国民を何百万も死なせ、中国人などのアジア人を何千万人も死なせたような戦争の責任者は、激しく非難されるべきだし、その責任を問われねばならない。なのに日本という国は、そのすべてを戦勝国に委ねて、自分たち自身では責任問題を回避してきた。あげく、小林のように、「戦勝国の裁判は不当だから、A級戦犯は潔白である」というふうに詭弁を弄する人まで出てきた。
 ここには「自己反省の欠落」という問題がある。

 では、反省するとすれば、どう反省するべきか? 
 まず、当時の価値観で言えば、戦争の開始は、必ずしも責任を負わない。それは現代の戦争を見てもわかる。ブッシュであれ、イスラエルの首相であれ、戦争をしたことをもって「犯罪者」と見なされることはない。せいぜい政治的責任があるだけだ。
 特に、初戦では日本軍は連戦連勝だったのだから、この時点ではほとんど責任がなかったと言えよう。(なお、「勝ち目のないことは初めからわかっていた」という批判もあるだろうが、それは後出しジャンケンである。将来を正しく見通せないゆえの政治的失敗なら、歴史上で枚挙に暇がない。現在でも経済政策で失敗の連続だ。あの時点では、戦争を始めるという選択肢も、一応は成立した。未来の立場で過去を裁くわけには行かない。)

 しかし、である。戦争開始後の一年間はともかく、ミッドウェー敗北以降は、趨勢が変わった。これ以後、日本軍は、雪崩を打ったように敗勢の道をたどった。
 では、なぜ? ミッドウェーが「分岐嶺になった」という見解もあるが、これは軍事知識の欠落した判断だ。戦争の勝敗はそんな勢いだけで決まるものではない。(プロ野球の勝敗だと、数年前はやたらと「流れが変わった」という表現が見られたが、こんな非科学的なムードで勝敗が決まるものではない。)

 戦争の勝敗には必ず具体的な理由がある。局地的には偶然が作用することがあっても、大局的には偶然は作用しないで、必然的な理由がある。では、それは、何か? 
 日本軍には、実は、敗北するべき理由があった。次の二点だ。
 (1) 暗号を見破られていた。
 (2) 相手にレーダーがあったのに、日本にはなかった。


 第一に、日本軍は暗号解読器を米軍に奪われたあと、暗号が筒抜けだった。しかし日本軍は自惚れていた。「われわれの紫暗号(パープル)は、決して解読できない難攻不落な暗号だ。また、たとえ解読できても、元の言語は日本語だから、米軍にはわかりっこない」。ところが現実には、暗号解読器を奪われたので、暗号は解読されていた。また、日本語は「英語の禁止」という方針を取ったが、米国は「日本語の研究」という方針を取った。……かくて、情報が筒抜け。つまり、米国はを開いて攻撃し、日本は耳をふさいだまま。
 第二に、レーダーの有無だ。ミッドウェー以降、米軍はレーダーによって日本軍の配置状態を知っていた。一方、日本軍はレーダーが未開発で(実質的には)配備されず。つまり、米国はを開いて攻撃し、日本は目を閉じたまま。

 以上の二点により、米国は目と耳を開いたのに、日本は目と耳をふさいでいた。これではハナから勝負にならない。日本は目と耳を閉じてボクシングのリングに上がったのだ。なぶり殺しにされて当然だ。
 結局、情報戦の優劣が、戦争の趨勢を決したのだ。(物量の大小ということ以上に、情報戦の優劣が問題となった。)

 問題は、このあとである。
 こうして日本軍の敗勢は決定的になった。ミッドウェー以降、日本軍はほとんど連戦連敗だった。(当り前だが。)
 頼みの綱の零戦でさえ、当初は優位だったものの、グラマンが出るとほとんど五分五分かやや劣るようになり、マスタングP51が出現するとまったく劣勢になった。
 まして水上戦力では、米軍が空母を備えたのに、日本軍は武蔵と大和を撃沈されるためだけに建造するといったありさまだった。
 戦争も末期になると、日本軍の頼みの綱は、竹槍と玉砕精神だけ、というありさまだった。(というのはちょっと誇張が過ぎるが。)

 となると、ミッドウェー(1942)以降の戦争遂行は、まったくの無駄だったことになる。ただ日本の立場を悪くすること以外に、何の効果もなかった。とすれば、ミッドウェー以降は一刻も早く、降伏するべきであった。それが戦争遂行者の責任である。(降伏でなく部分講和にこだわったのは、政治的センスがひどく欠落していることを意味するだけだ。負けるなら全面降伏しかありえない。)

 しかるに、降伏の道を選択できなかったので、いつまでもだらだらと戦争を続けた。これが大失敗だ。(結果的に日本を破滅させた。)
 できれば、ガダルカナル玉砕の時点で、降伏するべきだった。(1943.2)
 その後、マーシャル諸島の戦いで次々と敗退を繰り返し、航空機などの戦力を大幅に失った。戦力激減。戦争継続能力をなくす。この時点で降伏すれば、まだしも賢明だった。(1944.2 ごろ)
 その後、サイパン玉砕。常識的には、この時点で降伏するべきだった。(1944.5)
 さらに、レイテ決戦で武蔵・大和を失った。手も足ももがれたという状態である。「決戦」と称して負けたのだから、この時点で降伏するべきだった。(1944.10)
 遅くとも、東京大空襲と硫黄島玉砕の時点で降伏するべきだった。もはや防波堤は決壊したのだ。(1945.3)
 どんなに遅くとも、ドイツ降伏後のポツダム宣言は必ず受諾する必要があった。ドイツ降伏後は、欧州戦線の米軍が日本に押し寄せてくるから、日本はこれまでに倍増する形で劣勢になるのは自明である。もはや戦争を継続するのは正気の沙汰ではない。そして、ここで降伏していれば、原爆投下とソ連参戦を免れることができたはずだ。(1945.7)
 ところが、いずれの時点においても、日本の戦争責任者は降伏を拒否した。あげくは、「一億総玉砕」まで口にするようになった。こうなると、戦争それ自体が目的となっており、本末転倒といえる。完全な狂気。判断力の完全喪失。

 結局、戦争遂行者は誰一人、戦争を止める能力をもたなかった。最終的には、天皇の判断(ご聖断)により、降伏が決まった。要するに、最後まで、戦争を止める能力をもたなかったことになる。
 戦争を止める能力をもたないまま戦争を始めたこと。── ここに戦争遂行者の最大の罪がある。
 これはいわば、「ブレーキが壊れた自動車を発車させる」というような罪だ。ブレーキが壊れているのであれば、どんなことがあっても自動車を発車させてはならない。アクセルを踏んではならない。にもかかわらず、そういうことをやった。その結果として、自動車の登場人員(日本国民)を莫大に死なせた。……こういうことには、途方もない罪と責任がある。
 結局、戦争遂行者には、そういう責任がある。彼らは「A級戦犯だから」という理由で責任があるのではない。「壊れた自動車を発車させて搭乗員を大幅に死なせた」という責任があるのだ。
 「太平洋戦争は歴史的に避けがたかった」という主張がある。私はそれに同意する。しかし、避けがたかったということと、反省しないということは、別である。おそらく日本はどうしてもこの敗戦の道をたどる必要があったのだろう。だとしても、その敗戦を、最も小さな形で済ませることができたはずだ。それをなさなかった責任がある。
 また、たとえ被害を最小限に済ませたとしても、それでもやはり責任を負う必要がある。仮に、私が当時の首相または陸将であったなら、早期降伏を主張しながら、周囲に抗せずに、戦争を遂行しただろう。とはいえ、その戦争遂行の責任を、「自分の意見ではないから」という理由で、避けることはない。たとえ自分が平和論者だったとしても、自分の手を汚して国民を多大に死なせたならば、自分がその責を負うべきなのだ。最高権力者というものは、それだけの責任感が必要なのである。
(一方、小泉みたいに、辞任直前に靖国参拝をする連中もいる。「イタチの最後っぺ」「あとは野となれ山となれ」「立つ鳥跡を濁す」わけで、最低だ。)

( ※ 過去の言及分もある。 → 参考1参考2
( ※ 本項は、翌日分に続く。)


● ニュースと感想  (8月16日)

 「戦争と天皇制」について。
 前項では戦争遂行者の責任について論じた。ただ、話はまだ片付かない。前項の話の先に、本質がある。
 戦争を遂行するなら、戦争を止める能力をもつ必要がある。自動車を発車させるなら、ブレーキが働く必要がある。しかるに、ブレーキは壊れていた。戦争遂行者は、戦争を止める能力をもたなかった。
 では、いったいなぜ、自動車のブレーキは壊れていたのか? それが問題だ。
 その理由は、「天皇制」という概念と結びつく。

 「天皇制」とは何か? 現在では「象徴天皇制」であるが、当時は「現人神」としての「天皇制」であった。それはつまり、「宗教としての天皇制」である。
 そうだ。「宗教としての天皇制」。ここには宗教性がある。この宗教性こそが、決定的に重要だ。
 先の大戦では、日本は、「植民地解放戦争」とか「欧米の植民地化に反対して大東和共栄圏を作る」とか言っていた。しかしそれは、あくまで、名分にすぎない。そういう名分が成立する余地もある。しかし本質は、そういう立派なご大層な理由ではない。
 先の大戦は、日本にとっては、「宗教戦争」だったのだ。イスラム教徒が「アラーのために聖戦(ジハード)を戦う」と叫んでテロ活動をしたり、キリスト教徒が「神のために宗教の布教」と唱えて十字軍を送り込んでイスラムを虐殺したり、イスラエルが「神のためにテロリストの撲滅」と叫んでパレスチナ人を虐殺したりする。それと同様に、日本もまた「天皇陛下(=神様のため)のため」と叫んで「宗教戦争」をやらかしていたのだ。
 そして、宗教戦争に共通することは、「神のためだから絶対的に正しい」と信じて、物事の是非を現実レベルで考えられなくなっていることだ。つまりは、プラスとマイナスの計算というような現実判断をするための頭が働かなくなっていることだ。単純に言えば、頭が洗脳されて、思考停止状態になっているのだ。

 ここまで考えれば、小泉がどうしてあんなに靖国にこだわるのかも、よくわかる。彼は宗教的に「天皇」という神様を信じているのだ。そして、それについては、あるときは「個人的なことだから、ほったらかしておいてくれ」と言い、あるときには「一国の総理として記帳します」というふうに言う。ほとんど支離滅裂であるが、そのすべては、「小泉は天皇をとして信じている信徒である」と認識すれば、合点が行く。

 政治の問題に宗教が入り込むと、なかなか解決が付かなくなる。たいていの問題がそうだ。そして、戦争においては、特にそうだ。
 先の大戦では、人々が「天皇教」の信徒となっていたがゆえに、まともな判断力をなくして、「戦争を止める能力」をなくしていた。止める能力をもつのは、皮肉なことに、「天皇教」の信徒ではないたった一人の例外としての、天皇だけであった。
 小泉の強引にやる「参拝」は、政治的な行為ではなく、ただの宗教的な行為にすぎないのだ。その点では、イスラムの自爆テロリストと同様である。他人にどんなに迷惑をかけようが、自分の信じているものだけに盲目的に従う。

 天皇を絶対視していた半世紀前であれ、検察を絶対視している現代であれ、人々は何かを信じすぎるあまり、自己の思考能力をなくしてしまっている。心が盲目になってしまっている。それが人々の判断を誤らせる。
 いつの時代であれ、「自ら考える能力」こそ、最も必要とされるのだ。
( ※ 「ライブドア・二重の虚構」にもさんざん書いたとおり。)

 [ 付記 ]
 この問題の根源は、日本人が戦争責任をまともに考えてこなかった(回避してきた)ということにある、と思える。
 左翼は、「戦争責任はA級戦犯にある」と主張する。しかしその論理は穴だらけだ。
 そこで小林よしのりは、「A級戦犯の責任なんてない。米国には裁く資格はないし、国民だって同罪だからだ」と語る。その論理は形式的には正しいのだが、一番最初の前提が狂っているので、以後のすべては砂上の楼閣となってしまっている。その前提とは、「だまされた国民には責任がない」ということだ。
 一方、私は、「すべてに責任がある」と唱える。戦犯とされた人々には(戦争犯罪の責任はなくても政治責任としての)戦争責任があるが、同時に、国民全体にも戦争責任がある。A級戦犯はその責任が最も重いというだけであって、国民全体もまた同罪だ。
 私見では、A級戦犯を「死刑」にするのは間違いだ、と思う。とはいえ、「A級戦犯を靖国に祀って神のように崇拝せよ」というのも間違いだ、と思う。戦争責任者は、真っ黒ではないが、ダイヤのごとく輝かしい白色でもないのだ。かなり黒に近い灰色である。また、国民全体もまた、黒っぽい灰色である。……ここでは誰一人、白などはない。もちろん、戦勝国の側だって、白などはなく、黒っぽい灰色だらけだ。
 まとめて言えば、次の通り。
  ・ 左翼 …… 戦犯は黒、国民は白 (責任をすべて他人になすりつける)
  ・ 小泉 …… 戦犯は白、国民は白 (どっちも白にしたい自己肯定主義)
  ・ 小林 …… 戦犯は白、国民は白 (黒でないから白、というエセ論理)
  ・ 南堂 …… 戦争遂行者は黒に近い灰色、国民は白黒まだら。 (後述・付記1)

 [ 付記1 ]
 すぐ上では国民の評価として「白黒まだら」と述べたが、これは次の二つの意味による。
  ・ 実質的責任 …… 白。(戦争遂行の権限がないから。)
  ・ 道義的責任 …… 黒。(戦争に心情的に賛成したから。)
 比喩的に言うと、殺人犯が殺人行為をしていると気にに、それを見ながら、「面白いぞ」と喜んで見ているようなものだ。自分では手を下していないので無罪だが、倫理的・道義的には非難されるべきだ。そういうこと。
 とはいえ、国民の多くは戦死したりして莫大な被害を負ったのだから、罪に比べて罰ないし被害は大きすぎる。差し引きすれば、罪は帳消しにされるだろう。

 [ 付記2 ]
 国民に責任がないとなると、結局、戦争遂行の権限があった者だけが大きく責任を問われることになる。
 当然、こういう連中が靖国に祀られて尊敬されるというのは、とんでもないことだ。
 仮に、「これらの戦争遂行者が尊敬されるべきだ」と思うのであれば、その人は、今すぐ赤紙一枚で招集されて、中東にでも行って、あっさり殺されてしまえばいいのだ。たとえば、赤痢で苦しみながら、ひもじさのあまり餓死しなさい。そして、そのことに、感謝すればいいのだ。「私の命を無意味に粗末にしてくれてありがとう。そのすばらしい政治的決断に感謝します」と。
 ついでに言えば、イラクに進駐した自衛隊員は、無意味に玉砕して全員死んでしまった方がよかった、となりそうだ。(私の意見ではなくて靖国賛成者の意見によれば、だが。)そういうふうに無駄死にすれば、靖国賛成者は、「小泉はすばらしい決断をしたので、小泉は死後に靖国に祀られるべきだ」と賛美するだろう。

 [ 参考 ]
 朝日にも似た趣旨の社説がある。(朝日・朝刊・社説 2006-08-13 ,asahi com
 ひところの朝日と違って、なかなか中立的な見解だ。本項の私の趣旨にちょっとだけ似たところもある。(ただし書いた時点は、本項が先です。12日に書いたので。私は朝日の記事を見てアイデアを借用したわけではありません。念のため。)
 なお、朝日の社説の最後には、次の文句がある。
 「新聞も、戦争をあおった責任を忘れてはいけない。失敗を再び繰り返さないことで罪を償うしかないと考えている。」
 また、読売の特集でも、昔のマスコミについての反省がある。(2006-08-15 朝刊・特集)
 いずれも、書いていることは立派だが、行動が言葉にともなわない。それは、ライブドア事件を見ればわかる。この事件では、検察とマスコミによる「魔女狩り」があった。マスコミはこの騒ぎをさんざん煽った。大政翼賛会ふうに一面的な報道ばかりを繰り返した。
 にもかかわらず、今現在、そのことをまったく反省していない。他人(過去のマスコミ人)のなした失敗についてはたっぷりと反省するが、自分自身(今現在の各人後がなした失敗についてはまったく反省しない。知らんぷりだ。
 比喩的に言えば、先祖のなした殺人については反省するが、自分のなした殺人については反省しない。それでいて「反省しています」と主張する。呆れたものだ。
 マスコミは今現在、その厚顔無恥さにおいて、「失敗をふたたび繰り返している」ことになりますね。自分の姿をよく見つめたらどう?
 
  【 追記 】 ( 2006-08-20 )
 戦争についての朝日の社説。
 読売新聞は検証の総括で、「軍の力がそれほど強くなかった満州事変の時点で、メディアが結束して批判していれば、その後の暴走を押しとどめる可能性はあった」と書いた。全く同感だ。
 メディアが権力を監視し批判する使命を放棄したらどうなるか。この重い教訓を忘れないようにしたい。
( → asahi.com ,朝日・朝刊・社説 2006-08-19 )
 他のメディア(マスコミ)のなしたことについてはさんざん反省できるが、自分自身のなしたことについてはまったく反省しない。呆れたものだ。
 実は、戦争時代のマスコミだって、それ以前のマスコミ(過去の他人)についてなら、十分に反省することができた。ただし、自分自身については、反省できなかったのである。
 昔のマスコミも、今のマスコミも、同様だ。それでいて反省した気分になるなら、ちゃんちゃらおかしい。
( 同趣旨の話 → 8月14日。現代のマスコミがどう無反省であるかを示す。)


● ニュースと感想  (8月17日)

 「戦争の意義」について。
 前日では小林よしのりの意見について批判的な見解を書いたが、補足を少々。
 小林よしのりの見解では、「戦争は歴史的な必然だった」となる。これには賛成する。というか、小林よしのりがそう書くよりもはるか前から、(私が未成年だったころから)私はそう思ってきた。小林よしのりの戦争論には、とても同意できることが多い。というか、十年ぐらい前に小林の見解を読み始めたころには、「私が書きたかったことをそのまま書かれてしまった」と感じていた。  (^^);
 というわけで、あの戦争の歴史的な位置づけについては、私は小林と大差はない。五年ぐらい前の朝日とは対極的だし、ひところの保守系新聞とも大きく違う。単純に言えば、「日本が悪くて、中国が正しい」という左翼とも違うし、「日本も正しく、米国も正しい」という保守系新聞とも違って、「日本も世界も全部駄目だった」という立場のもとで、「戦争は不可避だった」というふうになる。
 こういう基本的な位置づけについては、いくらか評価の差はあるものの、基本的な認識という点では私と小林とは大差がない。一言でいえば「あの戦争は歴史的必然だった」ということである。

 とはいえ、戦争の開始については「必然」だとしても、戦争の終結(降伏)を遅らせたことについては、とうてい「必然」とは言えないはずだ。この意味で、私と小林では大差がある。
 当然、A級戦犯と見なされる戦争責任者についても、戦争の後半の役割の評価について大差がある。一言で言えば、戦争責任者が敗戦時に「腹を切らなかったこと」について、私と小林では評価の差がある。

 A級戦犯の処遇については、私と左翼では大きな差がある。彼らは米軍に処刑されたが、「米軍の処刑は正当だった」というふうには判断しない。米軍の処刑とは別に、日本国民によって断罪されるべきだった。
 さらに言えば、その断罪は、(刑法的な)「死刑」であったはならなかった。あくまで行政罰でなくてはならなかった。
 なぜか? 東条英機たちは、直接的には日本国民を殺してはいないからだ。彼らは「米国民を殺した」罪はあるとしても、「日本国民を殺した」という罪はない。罪は「日本国民を戦争に駆り立てた」ということである。結果的に多くの人が死んだが、それは、政治家としての責任であり、殺人者としての責任ではない。
 この意味で、東条英機たちを「死刑にせよ」という左翼には賛同しない。また、逆に、「免罪にせよ」という小林にも賛同しない。
 私としては、「長期の禁固」という行政罰がふさわしい、と思う。
 東条英機たちには、死刑という刑はもったいなすぎる。死刑にすれば、後世の人々から殉教者扱いされかねない。彼らはむしろ、生き恥をさらしつつ、人々から罵られて弾劾されるべきだったのだ。動物園の動物のように、檻に入れたまま、人々の見せ物になって、唾でも吐きかけられながら生きていくのが、最もふさわしい人生だったと思える。
 と同時に、その檻の脇には、鏡を置いて、人々自身の姿をも映すべきであるのだ。できれば、「東条英機万歳」と叫ぶ人々の漫画でも描いて、「昔のあなた」と題して、鏡の脇に添えておくといい。

( ※ 東条英機の責任については、読売朝刊 2006-08-15 に詳しい。大々的に説明されている。小林や保守ポチにかぶれた人たちは、是非ご一読あれ。読んでなければ、図書館にでも行って、探すべし。)
( ※ どうしても読売を探せなければ、私の前々日の話[15日分]を読み返すといい。戦争の後半に、戦争を継続し続けた行政責任は、あまりにも重い。ただし、これは、行政責任[政策の誤り]であって、刑事責任[殺人行為]ではない。この点を勘違いしないように。)
( ※ 刑事責任[殺人行為]を問うなら、東京大空襲や原爆二発の米国大統領の方が、よほど罪は重いですね。アウシュビッツのヒトラーを上回る大犯罪だ。米国大統領を死刑にするという前提でなら、A級戦犯を死刑にすることに賛成できる。)

 [ 付記1 ]
 責任ということで言うと、小泉と東条英機に共通するのは、「自分のやったことに無責任だ」ということだ。昭和の無責任男と、平成の無責任男。自分のやったことをけろりと忘れる二大無責任男。(もう一人加えるなら、植木等だろうか。……あまりにも古すぎるギャグ。)
 小泉というのは、登場したときには「構造改革」とか何とかさんざん威勢のいいことをいっていたが、結局、五年もやった末に、何一つ成果を残さなかった、と言える。五年間はまったくの空白だった。いや、たった一つ、やったことがある。靖国参拝で、対中・対韓関係を悪化させたことだ。これだけが彼の業績。喧嘩の種を見事に振りまいて、外交関係をひどく破壊した。これほどまでに破壊した首相は、歴代でもまれである。(歴代の首相は、対外関係を良くすることをめざしてきた。悪化させることをめざしたのは、小泉だけでしょうね。空前絶後。)
 で、そのあとは、どうなる? 「あとは野となれ山となれ」だ。無責任男の真骨頂。

 [ 付記2 ]
 オマケで言えば、小林よしのりもまた、無責任男の一人だ。「戦勝国が戦犯を裁いたのは不当だ」という主張自体は正しいが、だからといって、日本における戦争遂行者の責任が免責されるわけではない。なのに、「……だから免責されるぞ」というふうに論理をもっていく。詭弁。その理由は 8月15日 に述べたとおり。
 要するに、小林の言っていることの大部分は正しいのだが、ただ一つ、自己への反省が欠けているのである。ゴーマンですね。
 「ゴーマンかましてよかとですか」「よかないです」。
 ついでだが、私は、小林よしのりは嫌いじゃないですよ。心情的には共感します。また、「戦争論」はアンチテーゼを掲げたという意味で「名著」だと思いますよ。内容は不正確で暴走しているけれど。 ( → Wikipedia

( ※ 本サイトにおける「小泉の靖国参拝」の過去記事は → 「英霊」の検索「靖国参拝」の検索
( ※ 靖国問題については、明日分で核心を記す。)


● ニュースと感想  (8月18日)

 「靖国参拝の核心」について。
 小泉首相が靖国参拝をした。これについて世間は侃侃諤諤の声が渦巻いているが、本項でも簡単に論じよう。
 まず、小泉首相自身の行動は、論じるのも汚らわしい。「私人の行動だ」と言い張っていたかと思うと、辞任の直前になって、「自民党の総裁選の公約を守る」という形で、参拝を実施する。肩書きは「内閣総理大臣」というのを堂々と呼称する。これでいて「私人の行動だ」と言い張るのだから、詐欺とか二枚舌とか言うより、人間としての人格を疑う。どうせ参拝するなら堂々と「公約を果たします。私人としての行動ではありません。私の意思を貫徹するためです」と主張すればいいのだ。そうすることもできない。人間として評価するに値しない。犬としてしか評価できない。

 ま、それはそれとして、靖国の問題の一般論について論じよう。
 まず、世間にある参拝賛成論の根拠は、こうだ。
 「国のために戦って死んだ人の魂(英霊)に首相が参拝するのは当然だ」
 ま、宗教と憲法とのかねあいを無視するなら、この見解はもっともである。私としても賛同しよう。というか、大賛成である。しかし、それならば、結論はこうなる。
 「国のために戦って死んだ人の魂(英霊)のいる千鳥ヶ淵に首相が参拝するのは当然だ」
 その一方で、靖国は、上記の条件に適しない。なぜか? 東条英機を代表とするA級戦犯(戦争責任者のうちの存命であった者)は、戦争中に死んだのではないがゆえに、英霊ではないからだ。
 英霊とは、日本を守るために敵と戦って死んだ人の霊を言う。一方、A級戦犯とされた人の責任は、戦勝国である米国にとっては「米国民を殺した罪」であろうが、日本にとっては「日本人を死なせた罪」である。
 東条英機たちに責任がある理由は、米国民を殺したことではなくて、日本人を死なせたことであるのだ。東条英機たちは、国に命じられて一命を差し出したのではなくて、自ら国を勝手に動かして国民を死なせたのだ。
 一命を差し出して死んでいった国民は、英霊となる。一命を奪い取って国民を死なせた戦争責任者は、英霊とはならない。にもかかわらず、靖国は、東条英機たちを英霊と見なす。その意味で、靖国神社は、一命を差し出して死んでいった人々を冒涜しており、英霊を辱めている。白い清らかなものを、クソとごちゃ混ぜにして、汚してしまっているのだ。
 彼ら戦争責任者は、「一億総玉砕」と叫んで国民を全員死なせようとしたにもかかわらず、その「一億総玉砕」のなかには自分を含めなかったのだ。
 「国民は一億総玉砕、だけど、自分だけは指導者だから生き延びたい」
 というわけだ。そういうさもしい根性だ。
 (だからこそ、敗戦時に、彼らは割腹しなかった。本当に「一億総玉砕」という言葉を信じたならば、自分だけでも割腹するべきだった。阿南陸将のように。)

 昭和天皇の言葉からわかるように、靖国神社は、ある時点を境に、その意義が一変してしまった。その時点までは、英霊を祀る場所だった。それ以後では、英霊とクソをともに祀る場所となった。靖国神社とは、決して同一のものではないのだ。ある時期を境に、その意義が一変してしまったのだ。
 そして、このように意義が一変してしまったことは、自民党の保守政治家にとって、好都合だった。なぜなら、彼らは、対米従属主義だからだ。対米従属とは、ただの犬ころである。ご主人様のため、ワンワンと吠えて、シッポを振るだけだ。そのようなことは、彼らの自尊心にとって、堪えがたい。そこで、半面では対米従属をして屈服し、残りの半面では対中・対韓で居丈高に威張り散らして、精神の平衡を保つのだ。
 比喩的に言えば、会社でやたらと威張り散らす上司にぺこぺこと屈服する社員は、家に帰ってから妻や子供にやたらと威張り散らそうとする。それと同様だ。半面で威張られたら、半面で威張る。
 小泉が対中・対韓でやたらと外交問題を引き起こすのは、彼に外交センスがないからではない。外交センスどころか、頭がないのだ。ただの犬にすぎないのだ。彼の方針は、ただの「アメリカン」である。
  ・ 外交では対米従属
  ・ 経済では米国流の市場経済主義 (別称、構造改革)
  ・ 音楽ではプレスリーの物真似
 おそらく幼児体験で「米国への憧れ」に染まったのだろう。アメリカ兵にチョコレートかガムでももらって嬉しかったのかもしれない。それが尾を引いて、頭がアメリカンになったのだ。
 要するに、彼は、いわゆる「バナナ」なのである。
( ※ 皮は黄色いけど、中身は白い。白人の物真似をする黄色人種。)

 結語。
 東条英機たちは、戦争の最中に戦死したのではなく、戦争の後に獄死した。国を守るために死んだのではなく、国を破壊した罪ゆえに死んだ。ゆえに彼らは、英霊ではない。その彼らを「英霊」と呼んだ時点で、靖国神社はその性質を一変した。以後の靖国神社は、英霊を祀る場ではなく、国民を犠牲にした張本人たるクソをいっしょに祀る場になった。
 にもかかわらず、「クソへの参拝」を、「英霊への参拝」と称するならば、そこには嘘がある。その嘘に、人々はだまされている。
 参拝賛成者であれ、米国や台湾などの諸外国であれ、「英霊への参拝は当然だ」と小泉を擁護している。彼らはいずれも、小泉の嘘にだまされている。小泉の参拝しているところにいるのは、英霊だけではなくて、英霊とクソとの双方なのだ。そして、小泉が参拝したいのは、英霊ではなくて、クソの方なのだ。(それゆえ、千鳥ヶ淵でなく靖国だけに参拝したがる。)
 小泉は本当は英霊を侮辱しているのである。「一般市民の英霊なんて、憧れの東条英機さまに比べれば、ただの添え物にすぎない」というふうに。

 [ 付記 ]
 小泉は本心では、「おれも東条英機やヒトラーみたいになりたかったなあ」と思っているのかもしれない。
 余談だが、小泉とヒトラーと東条英機という三者に共通するのは、学生時代に、落ちこぼれでひどいコンプレックスを持っていたことだ。このことで、のちに強い権力志向を帯びるようになる。
 小泉は、慶大時代に落第して[婦女暴行もやらかして]ロンドンに逃避したが、単位を一つも取れなかった。東条英機は、陸軍大学を首席卒業した父親とたえず比べられて、コンプレックスに苛まれた。ヒトラーは、落第画学生であった。(ヒトラーに絵の才能があったなら第二次大戦は起こらなかっただろう、と言われている。クレオパトラの鼻みたいなもの。)……以上のことは、ネットで調べれば、すぐにわかる。


● ニュースと感想  (8月19日)

 「靖国参拝の実務的な提案」について。
 靖国参拝の問題について、是非を論じるのではなく、「今後どうすればいいか」という実務的な見地から、提案しよう。

 まず、靖国神社を宗教団体と見なすか否か、という点が問題になる。これについては、私としては特にどちらに見なすか、つまり、次のどちらも可能だ。
 ただし、そのいずれであるにしても、どちらか一方である必要がある。両者をともに取ることはできない。それが肝心だ。
 「当り前じゃないか」
 と読者は思うだろうが、残念ながら、現実には、当り前のことができていない。両者をともに採用する矛盾した見解が多い。次のように。
 「靖国神社は宗教団体でないから、首相は参拝しても構わない。同時に、靖国神社を宗教団体であるから、国は靖国神社に干渉してはならない」
 これが自民党で主流となっている考え方だ。つまり、自己矛盾がある。そこで、次のいずれかにする。
  1. 靖国神社を宗教団体と見なす 
     → 首相は参拝しない。国は干渉しない。
  2. 靖国神社を宗教団体と見なさない
     → 首相は参拝する。国は干渉する。
 どっちでもいいが、必ず、どちらかでなくてはならない。
 前者(a)ならば、首相は参拝しない。首相でないときには参拝してもいいが、首相の在任期間中は参拝を自粛する。記帳して肩書きを記述するのはもってのほかだ。どうしても参拝したいときには、首相を辞職する。
 後者(b)ならば、首相は参拝する。同時に、靖国神社には国の指導で、A級戦犯の分祀を要求する。神社が要求を受け入れようが受け入れまいが、とにかく国として要求する。(宗教団体ではないのだから宗教への干渉とはならない。)……そのあとは、行政指導でも民事訴訟でも、いろいろと手がある。とにかく国家として、分祀に向けた積極的な行動を取ることが重要だ。

 なお、後者に関連するが、別途、次の行動を取ることが好ましい。
 後者が重要だ。このことで、「A級戦犯の合祀」を、国として解消する。靖国神社が「合祀している」と主張したとしても、あとはただの宗教論争にしかならない。行政的には、「A級戦犯の合祀」は解消された、と見なせるはずだ。
 ついでに言えば、B級やC級の戦犯であっても、合祀にふさわしくない連中はたくさんいるから、そういう連中の合祀も取り消すといい。さらには、「これは対中・対韓へのお詫びもある」と言葉を追加するといい。リップサービス。
 ま、外交家というものは、口先のリップサービスも必要なのである。国民をだますのは困るが、外国にリップサービスをしてもバチは当たるまい。どうせお金は一円もかからないのだ。


● ニュースと感想  (8月19日b)

 「東条英機の自殺未遂」について。
 馬鹿マスコミの代表である朝日新聞が、またしても珍記事を掲載した。(朝日・夕刊・1面・特集コラム 2006-08-18 )
 東条英機の遺族に話を聞いて、次の趣旨。「東条英機は天皇の身を守るために、戦争の全責任を一身に負った。自己犠牲して、天皇を占領軍の処刑から守った」と。(

 これだけを読めば、「東条英機は天皇陛下を守るために自己犠牲をして命を投げ出した立派な人物」と読める。しかし、こんな記事を書くのは、歴史の基礎知識も知らないことを暴露するだけだ。
 ちょっと調べればすぐわかるとおり、東条英機は自殺未遂をしている。そのせいで、世論からは冷笑された。そして、「天皇陛下を守るために、自己責任を明らかにせよ」と世間から非難された。
 つまり、冒頭()の趣旨は、東条英機自身の自発的な意図ではなくて、世間から教わった知った意図である。彼は、自分では死に方もわからないから、世間が死に方を教えてあげただけのことだ。

 ちなみに、Wikipedia から引用してみる。
 「東条元首相の自殺を図りたることに付ては、『死に遅れた現在に於ては戦争の最高責任者として男らしく裁判にかかり大東亜戦争を開始せざるを得なかつた理由を堂々と闡明したる上、其責任を負ふべきであつた』となし、又、米兵に連行を求められて初めて自殺を図りたるは生を盗みおりたるものと見るの外なく、然も死に切れなかつた事等詢に醜態なりとし同情的言動認められず」(京都府警察部特高課の報告)
 「卑怯といわれようが、奸臣といわれようが国を誤まったといわれようが、文字通り自分を乱臣賊子として国家と国民を救う意志であったならそれでよい。それならしかしなぜ自殺しようとしたのか。死に損なったのち、なぜ敵将に自分の刀など贈ったのか。『生きて虜囚の辱しめを受けることなかれ』と戦陣訓を出したのは誰であったか。今、彼らはただ黙して死ねばいいのだ。」 「なぜ東条大将は、阿南陸相のごとくいさぎよくあの夜に死ななかったのか。なぜ東条大将は阿南陸相のごとく日本刀を用いなかったのか。逮捕状が出ることは明々白々なのに、今までみれんげに生きていて、外国人のようにピストルを使って、そして死に損っている。日本人は苦い笑いを浮かべずにはいられない」(山田風太郎)
 このような歴史的知識は、本来なら、私がいちいち指摘するようなことではない。イロハのイと言ってもいいぐらい基本的な知識だ。東条英機を論じるなら最低減の基礎知識だ。(実際、誰でもすぐにわかる。本項でいちいち引用するまでもない。)
 にもかかわらず、朝日新聞の記者には、その知識がない。インタビューをして、その意見をそのまま垂れ流すので、聞いた相手の(歪んだ)見解をそのまま事実のごとく報道することになる。
 ほとんど誤報と言える。戦前の日本のマスコミと同様だ。「すばらしい東条英機さま」という、嘘八百の提灯持ちの記事を、そっくりそのまま繰り返している。
 こういうデタラメ記事を書くのは、たぶん、小林よしのりの漫画でも読みすぎたせいだろう。漫画を読んで記事を書く。朝日のレベルも落ちに落ちたり。
( ※ 本来なら、記事を書く際には、その記事の正当性を検証する必要がある。インタビューをした相手の言葉が歴史的事実に反していないか、一面的な見解になっていないか、重大な事実を見落としていないか、……というふうにチェックをする必要がある。最低限、百科事典に当たるぐらいのことはするべきだ。それもできないボンクラ記者。ボンクラ記者の指導もできないボンクラ・デスク。そういうボンクラ新聞社)


● ニュースと感想  (8月19日c)

 「靖国参拝と世論」について。
 靖国参拝については、世論に次のような意見がある。(非常に多い世論。)
 「中国や韓国が靖国参拝に反対するが、それは内政干渉である。日本は日本として自律的に行動を決めるべきだ。ゆえに、靖国参拝は正しい」
 まともなことを言っているようでいて、完全に論理が破綻している。自己矛盾の論理の典型。
 「自律的に行動を決める」のであれば、他国の思惑にかかわらず、「自分にとってこれこれの理由で、これこれのことをなす」というふうに決めるべきだ。そこには他国の意見は関係ない。
 しかしながら、上記の意見では、「他国が反対するから、その反対に逆らうために、自分の行動を決める」というふうに主張している。
 つまり、「他国がAと言えば反A」で、「他国がBと言えば反B」というわけだ。これは、自律的に決めているように見えるが、実は、他国に行動を決めてもらっているにすぎない。他国の意見なしには、自分の意見を自分で決めることができない。皮肉。

 まとめれば、こうだ。
   ・ 左翼 …… 中国や韓国がAと言ったから、にします。
   ・ 保守 …… 中国や韓国がAと言ったから、反Aにします。
 後者は、ただの天の邪鬼である。いちいち逆らうことだけが生きがいだ。ガキと同じ。しかし、大人ならば他人の意見に関係なく、自分の意見を決めるべきだ。
 靖国参拝について、「中国が言ったからこれこれのことをする」というような左翼も保守も、どちらも自律的な意見をもてないのである。「自分で考える能力」を失っているのだ。

( ※ ここまで見ればわかるとおり、靖国問題というのは、実は、論理的な外交問題ではなくて、「日本人が中国や韓国に対して威張りたがるか否か」という、自尊心の問題であるにすぎない。アメリカ人にペコペコしたあとで、アジア人に威張るかどうか、という問題。前日分に同趣旨の話がある。)

 [ 付記 ]
 「中韓が反対するから」という理由で、反発して「靖国参拝」を決めようとするのは、子供の喧嘩と同じである。
 「嫌いなあいつがこう言ったから、それとは逆のことをしてやれ」
 と。あまりにもガキじみているし、昔は大人はこんなことはやらなかったものだが、今では頻繁に見られる。どこで? ネットの掲示板で。まったく、この手の喧嘩が多いようですね。(……たぶん。)
 そこで、この種の考え方を、「2ちゃんねる外交」と呼ぶことにしたい。子供の喧嘩と同じで、「中韓のいやがることをしてやれ」というだけの、ガキじみた外交。
 今では大新聞にも、この手の意見が結構見られる。というのも、政治家がそういうことを主張しているからだ。政治家も2ちゃんねると同じレベル。……ま、それは、昔からそうだったかもしれないけれど。
 こういうふうに掲示板を利用するのは、Web 2.0 であるのかもしれない。  (^^);

( ※ 本項には、反発が来ることが予想されるが、反発するなら、明日の話を読んでからにしてください。重要な話があります。)


● ニュースと感想  (8月20日+)

 次の箇所を、先日分に追加した。
    → 8月16日 追記  (マスコミの反省について)


● ニュースと感想  (8月20日)

 「戦争と右傾化」について。
 靖国参拝の世論調査を見ると、国民の過半数が小泉首相の参拝に賛成しているという。直前の調査では、「参拝反対」の方が上回っていたのだから、これは矛盾した結果だとも言える。単に現状追認をしているだけだ、とも言えるが、これは、国民の考えが定まっていないからだろう。
 というわけで、この種の世論調査で、「勝った、負けた」と騒ぐのは本質的ではない。国民は自分でも自分の考えがわかっていないのだ。
 それより、本質的な問題がある。それは「国民の右傾化」である。一昔前に比べて、戦争問題に関する限り、かなり右傾化が進んでいる。北朝鮮に対する強硬姿勢もそうだ。戦争に対するアレルギーが薄れているようだ。では、なぜ? ── それが本項のテーマだ。

 この疑問に対し、私はこう考える。
 「『戦争』という言葉に対して、人々が感じる概念が、正反対になってきている。『戦争』という言葉は、かつては『自分が死ぬこと』を意味していたが、今では『他人を死なすこと』を意味するようになった」

 20世紀後半のほとんどにおいて、「戦争」とは「自分が死ぬこと」を意味した。戦争が始まれば、自分が赤紙で徴兵されて、否応なしに銃を取らされ、あげく殺される。そして、そういうことを決めるのは、東条英機のような首相である。── そういうことを意味した。ゆえに、たいていの人が、「戦争反対」と唱えた。「戦争賛成」と唱えるのは、自分が徴兵に取られることのないような、50代以上の高齢者ぐらいのものだった。
 ところが現代では、その構図が一変した。「戦争」とは、自分が死ぬことではなくて、他人が死ぬことである。たとえば、イラク戦争でなら、米軍におんぶにだっこのまま、イラク人を殺すことである。北朝鮮との戦争を考えるなら、米軍におんぶにだっこのまま、北朝鮮人を殺すことである。……これなら、自分が死ぬ恐れはない。せいぜい、自衛隊員が少し死ぬだけであって、自分は徴兵制とは関係ない。だから威勢良く、「戦争賛成」と叫べるわけだ。

 もう少し端的に言おう。現代人の大半は、半ばオタク的なゲームマニアであり、彼らにとって戦争とは、ただのゲームにすぎない。痛みを感じることもないし、画面上で死んでもリセットして再スタートできる。愛する人や友人が死ぬ悲しみを味わうことはあるが、自分自身が死ぬ苦しみを生々しく味わうわけではない。それでいて、「戦争のリアリティを感じた」などと平気でほざく。ちゃんちゃらおかしい子供じみた感想だ。(これは若者に限ったことではない。同様のことは小泉にも言える。)

 このままでは、下手をすると、日本人の全員が「戦争賛成」と言い出しかねない。下手をすると日本はふたたび戦争に邁進するだろう。昔の日本が「ロシアに勝った強い日本! すばらしい日本! 神国日本!」と自惚れて米国との戦争に踏み切ったように、中国あたりとふたたび戦争を始めて、核爆弾が落とされるハメになるかもしれない。そうなってふたたび、「不戦の誓い」を繰り返すようになるのだろう。懲りない連中。
 そこで、提案しよう。次のことだ。
 「徴兵制を復活する」
 徴兵訓練を通じて、戦争とはどういうことかを、はっきりと肉体で理解させるべきだ。人を殺すとはどういうことか。人に殺されるとはどういうことか。そのことをはっきりと自覚させるべきだ。
 たとえば、人間の姿をした人形を銃剣で突き刺して、人形から生々しい血が流れて死ぬ様子を見る。(「ぐぇー、げっ、げっ」というような声が出る。)
 かわいい犬や兎を一カ月ぐらい飼わせたあとで、その犬や兎の首を自分で切らせる。(人間を切るよりはずっとまともだ。)
 たとえば、防弾チョッキを着て、そこに実弾を受ける。ものすごい衝撃で内臓が強く圧迫される苦しみを受ける。
 たとえば、ケガはしない程度にひどい電気ショックを与えて、肉体的な苦痛を味わわせる。
 たとえば、一週間ぐらい、ほとんど飲まず食わずの飢餓状態にする。
 たとえば、荷物を40キロぐらい担がせて、一日に50キロ程度の進軍をさせる。
 たとえば、安全保護をした上で、十メートルぐらいの距離で爆弾を爆発させて、その埃を浴びさせる。爆発とはどういうものかを、身を以て味わわせる。できれば、そのそばに犬でも置いておいて、犬がこっぱ微塵なって腕や足がちぎれる、というのを確認させる。
 ともあれ、上記のように、殺したり殺されかけたりする体験を実際に味わわせる。(つまり、死をまじまじと体験させることで、生の価値を理解させる。)
 こういう体験を味わわせたあとで、「国民を戦争に向かわせながら、自分自身は生き残った東条英機を、あなたはどう思いますか?」と尋ねる。「英雄として尊敬するべきですか? 日本の首相が崇めるべきですか?」と尋ねる。
 ま、イエスと答えるなら答えてもいい。ともあれ、戦争というのは、「先祖が死んだ過去の出来事」と見なすよりは、「われわれが参加するかもしれない将来の出来事」と見なす方がいい。他人の出来事と見なすよりは、自分の出来事と見なす方がいい。
 そして、「自分が死ぬかもしれない」と感じた上で、その上で「戦争は怖くない」と思うのであれば、それなら私はその人を称賛しよう。そういう人はきっとイラク戦争のときにも、国民を代表してイラクに赴任したはずだ。
 自衛隊を派遣した政府や賛成した国民はどうしようもない臆病者ぞろいだが、派遣された自衛隊員自身は勇敢である。他人を死地に赴かせた者は臆病者だが、自ら死地に出向いた者は勇敢である。そういう勇敢な者なら、私は心から称賛しよう。勇敢な人は、さっさとお国のために戦地に向かってください。
( ※ 一方、その逆の人をどう思うかは、言わずもがな。)

 [ 付記 ]
 この件は、イラク人質問題に似ている。非難された人質三人は、危険なイラクに出向いて貢献した。非難する大多数の人々は、安全な日本から出ないで閉じこもっていた。臆病者が、勇敢な者を非難した。
 要するに、威勢のいい言葉を語る連中に限って、口先だけは威勢がいいが、やることはまったく臆病なのである。臆病だからこそ、やたらと口先だけは威勢がいいのだ。── 自ら死ぬ覚悟がないがゆえに。


● ニュースと感想  (8月21日)

 「戦争と金」について。
 Open ブログの「戦争とタカ・ハトゲーム」について、次の質問が寄せられた。
皮肉で言うと、「土地の精神的な価値は経済学では計れない」=「経済学は戦争抑止に何の役にも立たない」ということでしょうか。
 この質問について答えよう。
 実は、質問の意見とは逆で、こうなる。
 「戦争はしょせんは、金を理由に始まっている」(だから、しょせんは金で解決が付くものだ)

 ユダヤの大義だのアラブの大義だの言っていても、大義なんて口先だけであって、本当は金が目当てで戦争しているのだ。土地の精神的な価値なんて言っているのは口先だけにすぎない。それは表面的には立派な大義ではあるが、本当は金を生むものとしての土地がほしいだけなのだ。つまり、「金が欲しい」というのを「土地が欲しい」と言い換えているだけだ。(イスラエルのある場所は、中東では珍しく水が豊かにある肥沃な土地だ。それ以外の場所は砂漠や荒れ地であって、価値がない。日本で言えば、関東地方をイスラエルが占めており、パレスチナは険しい山岳地に追い払われている。そこで、「肥沃な平野が欲しい」という争いが起こる。)
 結局、どんなに立派な大義を言っても、ただの口先だけだ。それにだまされるべきでない。
 人間はしょせんは金で動く動物なのだ。(たとえば戦争の名分などで)立派な名分があっても、その名分にだまされてはならない。── それが実は、この項目の基礎となる思想基盤だ。

 アメリカが「テロリスト撲滅」などと言っても、しょせんはアメリカの利益が目的であるにすぎない。イスラエルが偉そうなことを言っても、しょせんはイスラエルの利益が目的であるにすぎない。アラブだって同様だ。
 どこの国だって、金さえ出せば、土地を売りに出すものだ。アメリカのどこだって金を出せば買えるし、ロシアのどこだって金を出せば買える。(ま、頑固な地主がいる例外的な場合もあるが、同等の土地はすぐそばに別件で見つかるから、同じこと。)(なお、ここでは、「北方領土だって金で買える」ということを主張している。単にロシアは高く売りつけたくて、日本は安く買いたいだけだ。)

 例外的に、どうしても金で買えない土地もあるだろうが、それは、エルサレムぐらいだろう。(となると、ここだけは「双方の共有」にするしか、解決策はなさそうだ。)
 とはいえ、歴史的には、「アラブとユダヤとキリスト教の聖地」であるエルサレムを、キリスト教徒はあっさりと譲り渡した。そのことを気にしているキリスト教とはほとんどいない。となると、ユダヤとアラブも、ここをあっさりと譲り渡す可能性はあるのだ。金さえ払えば。

 金の力を見くびらない方がいい。金を馬鹿にしている人に限って、金を望みながら金をもてないだけだ。貧乏人のひがみ。(私の同類かも。  (^^); )
 ともあれ、「金は戦争さえも引き起こすのだ」と、はっきり自覚するべきである。金は病人の命を救うことはできなくても、金は健康人の命を破壊することはできるのだ。戦争もまたしかり。

 [ 付記1 ]
 太平洋戦争も同様である。いくら立派なことを言っていても、しょせんは各国の利益争いが理由で始まった戦争であるにすぎない。
 日本は、欧米に植民地にされそうだったから中国に進出したのではなくて、欧米に対抗する一大勢力圏を構築しようとしたから戦争が起こったのだ。
 なお、「日本は欧米に植民地にされそうだ」という懸念をもつべきだとしたら、幕末のころだ。このころなら、その危険はあった。軍備も極貧弱だった。
 しかし、その後、日本は急速に富国強兵政策を取った。ゆえに、昭和の時点では、日本が植民地にされる危険はなかった。仮に欧米がそうしようとすれば、日本と激しい戦争をしなくてはならないので、欧米が日本を侵略することなどはありえなかった。
 日本が戦争を始めたのは、日本にとって「自衛のため」ではなくて、金に目がくらんだからにすぎない。中国や満州には金がたっぷりと合って、それを簡単に奪えそうだから奪ったにすぎない。で、それを見て、欧米がカチンと来たわけだ。なんでカチンと来たかと言えば、欧米もまたそこにある金を奪いたがっていたからだ。で、自分で取ろうと思ったら、黄色い猿に取られたから、頭に来たわけだ。
 どっちもどっちである。当時の全員が愚かだった、というしかない。この意味で、戦争は不可避だった。馬鹿と馬鹿が対面すると、どうしても戦争が起こる。

 [ 付記2 ]
 現在の日本と中韓の関係も、馬鹿と馬鹿の関係である。馬鹿と馬鹿が対面すると、どうしても争いが起こる。
 ただし、欧米は、この争いには加わらない。かつては黄色い猿に利益を奪われて憤慨したが、今では黄色い猿はすっかり手なずけられて、米国のペットになり下がったからだ。その典型が、靖国参拝賛成論者である。
 「ご主人である米国に対しては従順である。それで不満が溜まったときは、米国でなく中韓に向かって不満を爆発させる」
 こういうふうにして不満を解消させている。この猿にちょっとでも気概があれば、米国にたてつくだろうが、そんな気概はないから、中韓にだけやたらと威張り散らすのである。
 強きにはへつらい、弱きには威張る。── これが当世のはやり。代表は小泉首相。そのお仲間は国民の大半。そのうちまた、中韓を相手に戦争でも始めるかも。
( ※ 米国のブッシュも似ている。支持率が低くなると、イラクを相手に戦争を始めて、支持率を上げた。馬鹿な米国民はだまされて、「ブッシュ万歳」と叫んだ。今の日本国民も同様だ。だまされっぱなし。)
( ※ ブッシュは最近は支持率が激減。日本が他国と戦争を始めたら、当初は国民が一丸になって政府を支持するだろうが、戦争のあとでは戦争責任者を弾劾するだろう。……で、そうなると困るから、小泉は今のうちに「靖国の戦争責任者は立派でした」というふうに取りつくろおうとするのだろう。)


● ニュースと感想  (8月22日)

 「戦争と金 2」について。
 前日分への補足。
 前日分への反論がOpen ブログに寄せられた。誤読があるようなので、ちょっと注記しておく。

 「戦争はカネを理由に始まっている。血と憎悪を理由に継続する。多くの血を代価とせねば止まらない。」
 「テロ集団に金をあげるから武装解除しろ、とはいかない→なら無理矢理ねじ伏せてやる、
 というのが問題なのでしょうが。」

 (1)
 まず、前項の趣旨は、「戦争の分析」ではなく、「戦争をやめさせるにはどうするか」ということだ。「戦争はやめさせにくい」ということはわかっている。にもかかわらず、終結させる必要がある。ならば、どうするか? 現状は米国の方針に基づく「ヒズボラ撲滅のための攻勢強化」である。それでいいのだろうか? それで本当に戦争が終結するのだろうか? いや、パレスチナ人を皆殺しにするまでは、無理だろう。しかし、「民族粛正」というナチスのユダヤ人粛正みたいなことをするのが、本当に正しいのか? 「戦争とはそういうものだ。終結させるには一方が勝利する形でしかありえない」というふうに「戦争強化」の道を取って、「和平」を諦めるべきか? いや、それは馬鹿げている、というのが私の見解だ。
 ここでは、「和平」が最優先の目的となる。そのための方法が確実性を帯びる必要はない。とりあえず可能性の高い道を取るしかない。
 たとえば、人が海で船から落ちたとする。沖まで10キロある。泳ぎが下手なので、岸辺まで到達する可能性は低い。しかし、成功の見込みがあろうとなかろうと、是が非でも岸辺まで泳ぐ必要がある。ここで、「成功の可能性が低いからやっても無駄だ」と諦める人もいるだろうが。

 (2)
 「和平のためには、パレスチナ側に金を与えればいい」と述べているのではない。「イスラエルから金を奪え」と言っているのだ。そのことによって、イスラエルにも戦争の継続をやめさせる。
 たとえば、イスラエルが攻撃を完全にやめて、毎年イスラエルの軍事費用と同額をパレスチナに与えたとする。パレスチナとしては、攻撃されてもいないのに、イスラエルを攻撃する必要があるのか?
 前項で提案した状況は、「パレスチナが大家になって、土地をイスラエルに高額で貸す」という状況だ。この状況では、パレスチナにとってイスラエルは、金の卵を生むガチョウである。
 パレスチナとしては、金の卵を生むガチョウを殺す必要など、さらさらない。遊んでいても、現状の何倍もの金を与えられる。遊ぶのをやめて、ガチョウを殺せば、その大金を失う。そんなことをするはずがないだろう。
 「パレスチナのテロリストに金を恵んでやれば、テロリストはあっさりと引き下がる」
 というふうに読んだ人がいるとしたら、完全に誤読している。われわれが金を出すのではない。イスラエルを「金の卵を生むダチョウにしろ」と言っているのであり、イスラエルが金を払うのだ。ただ、そういうふうに状況を改定するには、何らかのコストがかかる。そのシステム改革のコストだけを、世界が払えばよい。基本的には、パレスチナに金を払うのは、イスラエルだ。
 なお、パレスチナがそれを拒むなら、方向を逆にしてもいい。「パレスチナが金の卵を生むダチョウになれ。大金を払って、イスラエルから金を借りよ」と。……その場合、パレスチナとしては、極貧の生活となる。誰もそんなことには耐え切れまい。

 [ 付記 ]
 ただ、この話は、あくまで経済面に限った話だ。「それで万事片付く」というわけではなくて、あくまで基本的構図を示しただけだ。
 たとえば、日韓で紛争となっている島の領土問題なら、「共有」というような案も検討に値するだろう。(島ならば「共有」が可能だ。エルサレムも同様。現在のイスラエルの土地の全体ではちょっと無理だが。)
 ま、「戦争で血を流すしかない」と思う人は、勝手にどんどん流血をけしかけてください。そのうち、その人に誰かが喧嘩をふっかけたとき、自説の正当性が検証されるでしょう。「血を流して、ぶん殴られるって、すばらしいなあ。もっと殴って。殴って。うっふん」と。


● ニュースと感想  (8月23日)

 「戦争と金 3」について。
 前日分への補足。
 戦争が起こる原因は、通常、金である。次の二つの例を示す。

 (1) パレスチナ
 イスラエルとパレスチナの戦いは、現在では「大義の戦い」のように見えるが、根源的には、金の争いである。
 ここでいう金とは、紙幣や貨幣や黄金や銀行預金のことではない。金をもたらすものとしての「土地」のことだ。
 つまり、パレスチナ地方で「土地の奪い合い」が起こっているのは、本当は、地面そのものを奪い合っているのではなくて、「富をもたらす土地」を奪い合っているのだ。
 なぜか? 日本人には理解できないだろうが、あの地方では、水が貴重品である。まわりには砂漠がたっぷりとあるが、水がある領域はごく限られている。(ナイル流域のエジプトと、パレスチナ地方の、二つのみ。あとは荒地。)
 このような貴重な土地をめぐる争いなのだ。「土地の奪い合い」というよりは、「水の奪い合い」という表現の方が近い。
 仮に、水なしで土地だけが欲しいというのであれば、イスラエルもパレスチナも、勝手にサハラ砂漠で建国すればいいのだ。誰も嫌がらないだろう。どうせ誰もいない土地なのだから。
 とにかく、イスラエルとパレスチナの戦いは、現在では「大義の戦い」のように見えるが、根源的には、金の争いである。土地の奪い合いではなく、富の奪い合いなのだ。このことを理解しよう。
(大義はあくまでも名分にすぎない。だまされるべからず。)

 (2) ナチス・ドイツ
 ヒトラーのいたナチス時代のドイツもまた、戦争をもたらした理由は、金である。ケインズが指摘したとおり、第一次大戦後の莫大な賠償金が、ドイツ経済を破綻させて、ドイツにとんでもないインフレをもたらし、ドイツ国民の生活状態を破壊した。
 これを救ったのが、ヒトラーだ。莫大な賠償金を一方的に破棄することで、国民の生活を救った。ほとんど天使のような存在だ。誰も「悪魔だ」とは思うまい。
 もちろん、こんな方針を取れば、各国から反発を受けるので、戦争に至りやすい。というわけで、戦争はある意味、必然的であった。
 そしてまたここでも、戦争の理由は金であった。あるいは、経済的な苦境だった。そのまた理由は、当時の経済学者の失敗である。ケインズが「巨額の賠償金は絶対に駄目だ。戦争をもたらす」と警告していたのに、当時の政治家や経済学者はケインズの主張に耳を貸さなかった。
 当時のマスコミが、この真実を大々的に伝えていれば、ドイツ経済は破綻しなかっただろうし、ヒトラーは登場しなかっただろう。「マスコミが真実を伝えない」ということこそが、戦争をもたらしたのである。

 (3) 戦前の日本
 戦前の日本も同様だ。これは、話が長くなるので、翌日分に記す。

 (4) 現代の日本
 現代の日本も、あながち、他人事ではない。若者たちは独身のまま、結婚することもなく、一生を終えてしまいそうだ。その理由は、政府の経済政策の失敗にある。
 にもかかわらず、マスコミは、その真実を伝えていない。「政府の経済政策が根源的に間違っている」と告げずに、「景気が回復しつつあるからすばらしい」と提灯持ちの記事をやたらと書いてきた。(最近はちょっと毛色が違って、政府批判も見られるが、いかんせん、真実を告げるまでには至っていない。政府批判はあっても、真実の提供がない。)
 このままだと、下手をすると、また二・二六事件が起こるかも。「少子化政府の妥当!」と叫んで、クーデターを起こすかも。クーデターの後、景気が急速に回復したならば、国民は軍事政権を支持するだろう。……そして、そうなったとしたら、今のマスコミが真実を告げずにいるからなのだ。


● ニュースと感想  (8月24日)

 「太平洋戦争の原因」について。
 読売の先日の記事(13日特集)は、とてもよかった。数日後の朝日の社説でも、異例ながら、称賛している。本項では、これを読んで、戦争について考察しよう。
 読売の特集では、次のように分析している。
 「あの戦争は、絶対に避けられないわけではなかった。戦争開始の時点では、東条英機がマスコミを弾圧して、異端の意見を吐く人々を次々と押しつぶした。しかし、それより前に、軍部がまだ弱体であったころに、マスコミが一致して反軍キャンペーンを張っていれば、軍の暴走を阻止することができたはずだ。」

 なるほど。これはいかにももっともらしい意見である。
 ただし、歴史においては、このような「 If ..... 」を想定するのは、禁物である。それよりは、原因をはっきりと分析した方がいい。「 If ..... 」のうちの「 If 」以降の「 ..... 」の部分だ。なぜ、そういうことが起こらなかったのか? その分析が肝心だ。

 あの当時、マスコミは反軍キャンペーンなどをしなかった。それは、なぜか? 
 その理由は、明日分(次項)で述べるように、マスコミ自体の問題もある。とはいえ、より根源的には、もっと重要な問題がある。
 そのことを理解するには、まず、歴史的事実を並べるといい。逆順に並べると、次のようになる。
( ※ 歴史の流れを逆順に見ると、「結果から原因を探る」というふうに考察できる。)

  1941年12月  日本軍が真珠湾攻撃
  1941年8月  米国が対日禁輸 (石油禁輸など)
  1940年     日本軍がアジア各地に進出
  1937年     日本軍が盧溝橋事件
  1936年2月  二・二六事件。これ以後、軍部の暴走を止められず。
  1931年     日本軍が満州事変 (中国への進出・侵略の開始)

 ここまでを見ると、阻止できる可能性があったのは、1931年から1936年までの間だ。以後では手遅れとなる。その意味では、読売の見解はかなり妥当である。
 しかし、である。「マスコミが阻止する」という発想そのものが、傲慢かつ無効だ。マスコミにそんなことなど、できはしなかったのだから、そんな仮定をしても意味がないのだ。
 現在のマスコミについてなら、「このあとの未来を変更する」ということは可能だが、過去については「あのときの過去を変更する」ということは不可能だ。過去についての仮定などは無意味な空論なのだ。(現在と未来についての仮定ならば有効だが。)

 仮定ではなく、事実を見よう。
 1931年に、満州事変があった。では、なぜ満州事変があったのか? 満州事変の原因を探ることが重要だ。つまり、
 「戦争の原因は満州事変だ」
 と述べて片付けるのではなく、さらにその先の原因を探り、
 「満州事変の原因は何か?」
 と考える必要がある。そこで、年表を見ると、次のように続く。

  1930年     昭和恐慌
  1929年     世界恐慌 (ニューヨーク)

 つまり、世界規模および国内規模の大規模な不景気(恐慌)があった。これが基本的な原因なのだ。
 人は、幸福なときには、戦争などをしたがらないし、軍にも頼りたがらない。しかし、不幸になると、軍に頼りたがる。ここに、基本的な理由がある。
 あの当時、軍が急激に勢力を拡大したのは、マスコミが軟弱だったからではない。人々がそれを望んでいたからだ。人々が「強力な軍」を望んでいたからこそ、人々の意を受けて、「強力な軍」が出現したのだ。

 あの当時の状況を良く理解しよう。なぜ人々は、「強力な軍」を望んだか? 理由は、こうだ。
 当時の民間人政府は、まったくの無能だった。恐慌があったときに、それに正常に対処するどころか、金本位制によって、状況をますます悪化させた。何もしなければ状況は不変だっただろうに、余計な経済政策を取ったせいで状況がひどく悪化した。特に農家は悲惨だった。人々は生きるために借金をするしかなく、借金をしても返済する手段がなかった。残る手段はただ一つ。娘を女郎屋に売ることだけだ。こうして多くの子女が女郎屋に売られた。彼女らの兄であった青年将校は憤慨した。
 「国民はこれほどの不幸に苛まれているというのに、政府の高官や豪商は状況を利用してさんざん遊びふけっており、女郎屋通いをしている。こんな無能な腐敗した政府は、打倒するべきだ」
 こうして「政権を打倒するべきだ」と思った人々の代表が、二・二六事件を起こした。クーデターであるから、徹底的に弾劾されてしかるべきであったが、国民の多くは青年将校に共感した。(昭和天皇は「自分への反逆」と見なして掃討を指示したが、別に「民主主義への反逆がけしからん」と思ったわけではない。あくまで天皇制の立場からの方針だ。)
 
 この事件のあと、民間人の政府高官は びびりだし、軍が勢力を伸ばした。そして、その結果は、めざましいものだった。盧溝橋事件のあと、日本が満州やアジアに進出すると、日本の景気は軍需景気によってとても好転した。一種のケインズ政策ではあるが、馬鹿な民間人にはできなかったことを軍人がやって大成功を収めた。
 つまりは、民間人の経済政策よりも、経済音痴の軍の経済政策の方が、はるかに正鵠を射ていたわけだ。国民は、不幸から幸福に転じたのを見て、軍を大賛美した。
 ( ※ 訂正。民間人はまったくできなかったわけではなく、高橋是清はうまくやっていた。民間人にも、うまくやった時期はあった。ただしその期間はあまり長くはなかった。)

 ここまで見ると、わかるだろう。
 当時、国民が軍を支持したのは、国民が好戦的だったからではない。当時の経済政策がデタラメすぎたからだ。
 ( ※ ただし、高橋是清時代を除く。この時代は好況だった。駄目だったのは、それ以前。……なお、このように高橋是清時代という好況期があったことを考えると、本項の趣旨は、妥当性がいくらか失われる。……後日注記。)

 あの時点で軍に逆らうことなどできるはずがない。なぜなら、軍は正しいことをしており、政府は間違ったことをしていたからだ。── 少なくとも、経済政策については。つまり、人々の財布や生存については。
 あの時点で軍に逆らうとしたら、好況の経済を破壊して、恐慌のどん底にする、ということだ。誰がそんなことを望むのか? 新聞がいくら「反軍キャンペーン」などをやっても無駄である。なぜなら、かわりの選択肢としては、「馬鹿な政府による経済的破滅」しかないからだ。

 結語。
 まとめて言おう。戦争の根源には、経済的な苦境がある。人々はあとになって、「あんな戦争などをしなければ良かった」と思い、「戦争をしたのは軍の暴走を止められなかったからだ」と思う。
 違う。あの当時、軍の暴走を止められなかったのではない。軍の「暴走」を、軍の「善良な行動」だと錯覚していたのだ。馬鹿な政府にはできない「正しい経済政策」を、軍はなしたのだ、と思えた。実際、アジア各地への進出にともなって、日本人の財布は豊かになったのだから。大東亜共栄圏のすばらしさを、身をもって感じていたのだから。
 結局、戦争を止めるために必要なのは、マスコミの反軍キャンペーンなどではなくて、経済を正常にすることなのだ。経済が正常であれば、子女が女郎屋に売られることもなく、青年将校が立ち上がることもなかったからだ。
 戦争の根源には、経済的な苦境がある。その原因は、経済政策の誤りだ。── これが真実だ。そして、この真実を伝えることこそ、マスコミの役割である。
 マスコミがなすべきことは、人々を洗脳するためにキャンペーンを張ることではない。「経済政策の誤り」という真実を伝えること、ただその一事である。
 あの当時、文人政府は「これで景気は良くなります」と嘘をついた。軍人政府は「これで日本はすばらしい国になります(負ける戦争はしません)」と嘘をついた。「神国日本」や「大東亜共栄圏」というような嘘もついた。
 こういう政府の嘘を暴露することこそが、マスコミの役割である。しかしながら、現実には、マスコミは真実を伝えなかった。
 で、どうするべきだったか? 現在のマスコミは、「嘘のキャンペーンに対しては、別のキャンペーンを張って、国民を洗脳すればいい」と主張する。しかし、もしそうしたなら、戦争を回避することはできたとしても、経済的には地獄になるのだ。そんなことも気づかないで、利口ぶって、「あの当時の国民を洗脳すれば良かった」と主張する。無知の極み。(経済学の無知。)
 嘘に対しては、別の嘘をつけばいいのではない。嘘に対しては、真実を語ればいいのだ。それこそがマスコミのなすべきことだ。そして、そのためには、真実を語る声に耳を傾けることが必要なのだ。(現実には、たとえ聞いたとしても、耳をふさぐ。耳に何も聞こえないのではなくて、心が耳に栓をする。)

 [ 付記1 ]
 蛇足だが、本項の趣旨を、あらためて解説しておこう。
 あの当時、「反軍キャンペーン」で「軍は日本を破滅させる」などと主張しても、意味はない。むしろ、「文民政府は間違った経済政策を取っている」と主張するべきだった。その意図は、「文民政府は間違った経済政策を取っているから、文民政府は正しい経済政策を取れ」というふうに、政府の方針転換を迫ることだ。そのことで、日本の経済苦境を解消することだ。……これが、正しい選択肢だった。(現実には、それは不可能だったとしても、とにかくそれが、正しい選択肢だった。)
 現時点でも同様だ。「小泉政権は間違った経済政策を取っている」と主張すること。それによって、現在の財政再建路線(増税政策)を否定し、将来の経済破滅を回避すること。……これが、正しい選択肢だ。この正しい選択肢は、現在の経済学で判明している。
 しかるに、現在のマスコミは、どうか? 現在の最先端の経済学に目をふさぎ、古臭い古典派経済学の意見ばかりを報道する。片面報道。ライブドア事件のときと同じで、賛否両論のかわりに片面だけを報道する。こういうマスコミの偏向的な姿勢が、日本を破滅させる。

 [ 付記2 ]
 経済学ではしばしば、こう言われる。
 「大不況を終わらせるものは、戦争しかない」
 これは、歴史的な事実ではあるが、真実ではない。── では、その意味は? 「経済学の不完全さ」である。
 経済学が不完全だからこそ、その不完全な経済学にとっては、
 「大不況を終わらせるものは、戦争しかない」
 というふうになる。なぜなら、経済学は「不況解決のために緊縮財政」を主張し、軍は「膨張財政」を主張するからだ。そして、この場合、経済学が誤りで、軍が正しいのである。
 だから、われわれがなすべきことは、「経済学は正しい」と仮定した上で、
 「大不況を終わらせるものは、戦争しかない」
 というふうに結論することではない。むしろ、
 「大不況を終わらせるものは、戦争しかない」
 という主張を取る経済学は不完全なのだ、と理解した上で、その経済学を捨てて、別の経済学を取るべきなのだ。それこそがわれわれの取るべき道だ。
 そして、その道を教えること(つまり真実を教えること)が、マスコミの仕事なのである。にもかかわらず、現在のマスコミは、古典派経済学者の嘘だらけの経済学ばかりを報道する。「量的緩和」だの、「インフレ目標」だの、「生産性向上」だの、「構造改革」だの、「財政再建」だの。── こうして、マスコミは経済を破壊することに加担する。現在のマスコミは、次の戦争を準備することに、加担しているのである。


● ニュースと感想  (8月25日)

 「太平洋戦争の阻止」について。
 前項(前日分)に引きつづき、戦争について考察しよう。
 読売の特集では、次のように分析している。
 「あの戦争は、絶対に避けられないわけではなかった。戦争開始の時点では、東条英機がマスコミを弾圧して、異端の意見を吐く人々を次々と押しつぶした。しかし、それより前に、軍部がまだ弱体であったころに、マスコミが一致して反軍キャンペーンを張っていれば、軍の暴走を阻止することができたはずだ。」

 なるほど。これはいかにももっともらしい意見である。
 ここで、問題だ。「軍部がまだ弱体であったころに、マスコミが一致して反軍キャンペーンを張る」ということは、可能なのか? 
 換言すれば、こうだ。
 「現代において、検察が独走するときに、マスコミが一致して反検察キャンペーンを張る」ということは、可能なのか? ── 絶対に不可能だとはいえない。意思さえあれば、可能だろう。しかし、意思がない。意思がなければ、どうしようもないのだ。
 要するに、現代の視点から、「あの時点で反軍キャンペーンを張っていれば」というのは、妄想のようなものである。それは、ありもしないことをあると仮定することだ。現実の自分にはできないことを、過去の他人には「できるはずだ」と想定する。荒唐無稽というしかない。

 では、なぜ、意思がないのか? 実を言えば、あの当時にも、「反軍」を唱える人はいた。ただし、少数であった。「あの時点の南堂久史」みたいな人が、せっせと反軍キャンペーンをやっていたが、現時点の南堂久史に対するのと同じく、マスコミはすっかり無視した。南堂を無視するというよりは、「政府の意見に反対する在野の意見」というものを、まとめてすべてゴミ箱に捨ててしまったのだ。
 では、なぜ? その方が儲かるからだ。あの時点でいえば、軍に逆らうよりは軍に従順である方が儲かった。現時点でいえば、検察に逆らうよりは検察に従順である方が儲かる。実際、読者や視聴者だって、アンチ・ホリエモンの記事や番組を見たがる。というわけで、権力(軍 or 検察)や世論に迎合して、マスコミは自らの本分を忘れた。「多様な意見の提供」という役割を放棄して、「受ける意見ばかりを提供する」というふうにした。(……こういう話は、「ライブドア・二重の虚構」でいろいろと述べたとおり。)

 結局、こうだ。
 現代の時点から見て、「あのとき××をすれば」と仮定することはできる。しかし、問題は、方法ではなくて、心の勇気なのだ。勇気がないと、真実を見ることもできないし、真実を伝えることもできない。
 あの時点のマスコミに欠けていたのは、知恵ではない。勇気なのだ。「軍部が暴走すれば、日本はとんでもないことになるだろう。戦争で破滅するだろう」ということは、容易に予想できたし、当時から心配する人はいた。しかしながら、マスコミは、そういう少数派の意見を聞いても、耳に蓋をした。目に蓋をして軍部の暴走を放置し、耳に蓋をして警告の言葉を聞き入れなかった。
 自分自身の暴走を阻止できない人間が、他人の暴走を阻止できるはずがないのである。……それは、あの当時のマスコミもそうだし、現代のマスコミもそうだ。違うのは、阻止すべき対象が、軍であるか検察であるか、という違いだけだ。軍は超強大だが、検察はたいして強大ではない。にもかかわらず、牙を抜かれた狼のように(または飼い猫のように)、ごろごろと寝転がって喉を鳴らすことしかできないのが、現代のマスコミなのである。
 目くそ鼻くそを笑う。大便が小便を詰る。大馬鹿が小馬鹿に「あのときはこうすればよかった」と勧告する。……それがまあ、読売に代表される現代マスコミである。
( ※ これは読売への悪口ではない。「右同じ」の代表例にすぎない。)

 [ 補説 ]
 屋上屋を架するようであるが、重ねて、前項と本項の意図を説明しておく。
 現代人は、過去の人間が戦争をしたのを見て、「過去の人々は何と愚かだったのだろう」と見下す。そして、「賢明な現代人が過去の人々に正解を教えてあげれば、過去の人々は歴史の誤りを犯さなかったはずだ。われわれがあの時点に戻って、歴史をやり直せたら、どんなに良かったことか」と夢想する。
 しかし、そんな夢想など、いくらやっても、無駄である。夢想は夢想であり、しょせんは過去に戻ることなどはできない。
 それよりは、今現在のわれわれについて、反省するべきだ。「過去の歴史から学んで、歴史を他山の石とする」というふうに。では、どういうふうに? こうだ。
 過去の人が道を間違えたのは、過去の人々が愚かだったからではないし、馬鹿だったからでもないし、狂気だったからでもない。むしろ、正常だったからだったのだ。正常であるがゆえに、道をまっすぐに進んだ。そのせいで、最終的に、落とし穴に落ちてしまった。とはいえ、その時点では、先に落とし穴が待ちかまえていることは見通せなかったのだから、「未来予知能力がない」という理由で過去の人々を非難することはできない。
 過去の人々に欠けていたものは、知性や知識ではない。自己反省能力だ。「自分たちは間違っているのではないか?」と反省する能力だ。もしその能力があれば、「間違いですよ」という声に耳を傾けただろう。そして、穴を警告する声を理解して、十分に警戒しただろう。
 現実には、そうではなかった。警告に耳をふさぎ、「精神力で勝つ」とか「神風が吹く」とか、理屈を越えたことを主張していた。
 そして、この点では、現在のマスコミもまた同様である。自己反省能力。「自分たちは間違っているのではないか?」と反省する能力。その能力がないので、「間違いですよ」という声に耳を傾けない。そして、穴を警告する声を理解せずに、誤った道を突き進む。……結局、過去から何も学んでいないのだ。
 歴史を学ぶことが大切なのは、歴史を見れば将来を予想できるからだ。それは「同じ事件が二度起こる」という意味ではなくて、「人間は何度も同じ失敗を繰り返す」ということだ。個々の歴史的事件は異なっても、大失敗の理由は常に同様である。いずれも同様の人間性の欠陥から発生する。
 過去について盲目である者は、未来についても盲目なのである。
( ※ ワイツゼッカーの言葉のもじり。原文は「過去について目を閉ざす者は、未来についても盲目なのである。」……微妙に異なる。目を閉ざさなくても盲目であることはある。いわゆる「明き盲」のことだ。)


● ニュースと感想  (8月25日b)

 「ガウス賞の伊藤清」について。
 伊藤清が第一回ガウス賞を受賞した。めでたい話だというわけで、マスコミは大はしゃぎだ。たとえば、朝日の社説は次のように述べている。(朝日・社説 2006-08-24 ,asahi com
 60年以上も前に考えた数式が、いま世界でもてはやされている金融工学の基礎を築いた。その功績が認められ、90歳の伊藤清・京都大学名誉教授に第1回ガウス賞が贈られた。
 最初の受賞者に日本数学界の先駆者が選ばれたことを心から喜びたい。
 しかし、喜んでばかりもいられない。これは逆に、日本社会の知的な貧困さをも示すからだ。
 上記の社説は、こうも述べる。
 おおもとの理論式は日本生まれでも、最先端の金融工学は米国で花開いた。日本はなぜ立ち遅れたのだろうか。
 この疑問に、社説は「金融商品や技術を生み出す土壌となる市場の発達の違いは無視できないが、数学の理論は強いのに、応用面は弱いという日本の体質にも行き当たる。」と答えている。つまり、「応用面の弱さ」である。
 しかし、私は、そうは考えない。むしろ、こうだ。
 「日本は、立派な業績を上げた人に対して、正当に評価していない」
 朝日の別の記事によれば、「77年度に朝日賞、2003年に文化功労者」とのことだ。つまり、現在 90歳の伊藤清が国に業績を認められたのは、87歳になってからだ、ということだ。仮に平均寿命で天寿を全うしていたとしたら、国は偉大な数学者に対して何も評価せずに来た、ということになる。何たる知的貧困! 
 このような知的貧困。それは、「偉大な才能を正当に評価できない」という日本の科学の根源的な難点に結びつく。伊藤清だけでない。他のノーベル物理学賞受賞者もまた、ノーベル賞を受賞してようやく広く認知されるに至った、という例が多い。日本という国には、偉大な才能を正当に評価するシステムが存在しないのだ。
(青色LEDの中村修二もまた、会社にまったく評価されなかった。これも似た事情にある。彼の名が知られたのは、彼の特許訴訟による社会的な話題からだ。社会が彼の業績を評価したのではなくて、下世話な金銭的話題から興味をもっただけだ。ま、これで騒がれて、有名になったが、本来のまともな評価法とは異なる。)

 こういうふうに、「まともな業績をまともに評価できない」という社会システムこそ、反省するに値する。工学などの民間企業の努力が不足しているというより、基礎的な分野の偉大な業績を紹介する科学報道の分野の努力が不足しているのだ。
 その点では、朝日新聞社が朝日賞を授けたのは、非常に立派だった。(1977年の受賞者は伊藤清。)……ただし、立派だったのは、1977年の朝日新聞社であって、現在の朝日新聞社とはちょっとだけ違うが。(だから「おれが偉い」と威張らないでほしいね。「先輩が偉かった」と見なすべき。)
 昔の朝日は、唯一のまともなマスコミだった。他のマスコミ(および現在の朝日新聞)も、見習ってほしいものだ。別に、「朝日賞」のように、金を出す必要はない。「偉大な業績」という紹介記事を書くだけで済む。
 たとえば、西沢潤一。もっと広く紹介記事を書いて、一般人(特に小中学生)にその業績を知らせた方がいいと思うが。……ただし、その業績を知らせると同時に、氏をいかに冷遇してきたか、という日本社会をも、同時に紹介するといいだろう。
(西沢潤一は現在ではとても評価されているが、海外で大いに評価されてから、それが波及して、日本でも評価されるようになったにすぎない。日本社会が自発的に評価したのではない。この点に触れる必要がある。必ず。)

( 参考 : 伊藤清の業績の紹介  →  Openブログ「確率解析」


● ニュースと感想  (8月26日)

 冥王星の話。
  → Open ブログ 「冥王星の位置づけ」


● ニュースと感想  (8月27日+)

 小惑星の話。
  → Open ブログ 「小惑星の起源」
 (小惑星と冥王星はちょっと似た事情にあるので。)


● ニュースと感想  (8月27日)

 「著作について」について。
 私の著作「ライブドア・二重の虚構」について、下記サイトで紹介していただいた。
   → がんばれ!!ゲイツ君
 引用すると:
なお、南堂さんは続編も予定されているようなのですが、こうした経済の話もいいのですけれど、ぜひとも「マイクロソフト・シンドロームII 」でも書いていただいて、IT社会の問題点でも深くえぐっていただければ幸いです(^^;。ゲイツ君も引退発言なんてしちゃったものだから一時期よりは話題にされなくなって大変寂しがっているようにも思いますのでちょうどよろしいかと(笑)。
 この「マイクロソフト・シンドローム」という本は、上記サイトの著者である外崎則夫さんの著作。けっこう有名。(残念ながら絶版。)

 で、上記の提案に応じるような形で(というわけでもないかな?)、次の著作を書くことにしました。
 話のテーマは、「誰もがビル・ゲイツになれる」というような話。だけど、ビル・ゲイツになれるからといって、幸福になれるとは限りません。むしろ逆ですね。そのあたりを、皮肉を効かせて、ピリリと辛く書く。
 この本を刊行したら、ビル・ゲイツから顔にパイを投げられるかも。  (^^);

 ま、次のご期待にお応えします。
 以上のことをテーマとした上で、冒頭の引用部分へのご期待にも、応じます。
 「バンバン儲けるなんて、そんなうまい方法はあるか?」という疑問を持つ人もいるでしょうけど、あります。ただし、「うまい方法」じゃないですけどね。「辛い方法」です。
 書いてある内容は、内容は既存の本に書いてあることの、ほとんど正反対(一見したところ)。……ただの裏返しというよりは、逆説に近い。嘘みたいに見えるホント。目からウロコの連続、という感じ。
 なお、現時点で、草稿は完成済み。完成は、一カ月では無理で、二カ月後がメド。とりあえず、予告しておきます。

 [ 参考 ]
 上記で紹介したサイトでは、次の文章もある。
ちなみに、来年から税金が大幅に増えることを知っている人ってどのくらいいますでしょうか。私の場合定率減税の廃止やらサラリーマン増税やら消費税アップなどの影響を計算したら……(以下略)
 これ、相当多額の金額になるようです。来年は大変ですね。
 ま、所得税の増税だけならたいしたことはないかもしれないが、社会医療費だの何だの、いろいろとあります。身近なところでは、第三のビールも第二のビールもすでに税率アップしましたしね。

( ※ 上記のサイトには、いろいろとおもしろい話がある。なかでも、「見るだけで涼しくなる画像」は、傑作。)


● ニュースと感想  (8月27日b)

 「日本のジョンベネちゃん事件」について。
 殺害された美少女のジョンベネちゃんの、殺害容疑者が逮捕された。これについて、次のような反省がある。(読売・夕刊・コラム・よみうり寸評 2006-08-18 )(部分抜粋)
 〈ジョンベネちゃん〉――海の向こうの米国の10年も前の被害少女の名だが、それと聞けばすぐ思い出す。それほど騒がれた美少女の殺害事件だった。
 この事件は、両親による犯行が示唆されるなど、警察のミスリードやメディアの過熱報道で特異な展開をたどったものだ。
 警察は初動捜査の誤りを、メディアはそれに乗った報道の過熱を、それぞれに猛省が必要な事件だ。
 マスコミについて「猛省が必要」というので、一見、しおらしく見える。しかししょせんは、他人のやったことについて、他人の反省を促しているだけだ。自分自身で反省しているわけではない。これっぽっちも。
 
 日本にも、「日本のジョンベネちゃん事件」ともいうべきものがある。ただし、かわいい美少女ではなく、太った男だったが。その名は、ホリエモン。ここでもまさしく、「検察のミスリードやメディアの過熱報道」があったのだから、はっきりと反省するべきだ。
 しかし、他人の失敗については「マスコミは反省を」と主張できるが、自分の失敗については「マスコミは反省を」と主張できないのである。それが日本のマスコミだ。
 口先ばかり立派で、肝心の行動がともなわない。「反省しよう」と口先で唱えながら、行動では半年前の自分の行動について知らんぷり。「過熱報道? そんなことありましたっけ?」という調子。呆れたものです。
( 同趣旨の話 → 8月14日8月16日 追記


● ニュースと感想  (8月28日)

 「マスコミの小泉批判」について。
 最近、朝日に小泉政策への批判がけっこう出ている。たとえば、次のことだ。(二週間ほど前の記事)
 「産業再生機構はまったく無意味だった。民間がやろうとしていたことを取り上げて自分でやっただけだ。結果は同じ。ただ、何もしないで民間に任せておけばすぐに済んだことを、産業再生機構が介入したせいで時間的に遅らせただけだ。」
 痛烈な皮肉ではあるが、これは実は、私がずっと前から言っていたことだ。( → google 検索

 これのほかにも、「弱者への犠牲」とか何とか、いろいろと小泉の「構造改革路線」への批判が出ている。
 では、朝日もやっと目が覚めたということだろうか? そうかもしれないが、むしろ、「権力者が退場すると決まったので、やっと猫に鈴をつける気になった」ということかもしれない。臆病者なので、死にかけたレームダックにしか吠えることができないのである。

 ま、それでも、何も吠えないよりはマシかもしれない。しかし、吠えるなら吠えるで、ずっと前の「小泉賛美」をしていた自分を反省することが先決じゃないですかね? 「戦争賛美をしていた戦前のマスコミを反省する」としおらしく述べるなら、「小泉賛美をしていた現在のマスコミを反省する」というふうに反省するべきだ。
 ちなみに、「小泉の波立ち」の過去記事をいろいろと眺めてみるがいい。政権発足してまもないころから、小泉批判と同時にマスコミ批判がわんさとある。( → google検索
 マスコミは5年たってようやく、小泉の波立ちに追いつこうとしたのである。最初からこっちを見ておけば良かったのに。


● ニュースと感想  (8月29日)

 「構造改革のてんまつ」について。
 小泉の構造改革路線は、「 e-Japan 」と称して、パソコン教育講座などを実施した。「これでIT産業を振興し、日本をIT化します」というわけだ。そのお粗末な発想については、私は当時さんざん批判してきた。( → google検索
 で、今になって、その結果がはっきりと判明した。

 教育訓練給付金の不正受給
 失業予防や再就職支援を目的に創設された「教育訓練給付金」の不正受給が、1999年度の給付開始以降、計3926件、総額約6億3000万円に上ることが、厚生労働省の調査でわかった。
 判明分は氷山の一角とみられ、制度のあり方そのものが問われることになりそうだ。
 厚労省によると、99年度〜2003年度に判明した不正受給額は、70万〜2000万円だったが、04年度には一気に約3億7000万円(2323件)に急増、昨年度は約2億2000万円(1266件)だった。
 情報処理の通信講座を開設した大阪府内の業者の場合、「自己負担は不要」などと広告して受講者を集めては、ニセの講座修了証明書を発行、受講者に支払われた給付金を回収していた。
 愛知県警が捜査する事件では、「パソコン検定合格講座」などが悪用された。受講者には負担金として約6万円を支払わせてパソコンと教材を支給するが、実際には「講座そのものが架空」(同県警)だった。犯行の手口は、ニセの講座修了証と受講料の架空の領収書を用意、本人に受給申請させ、給付金約23万円の全額を同社に振り込ませていた。
 労働局の担当者は、「不正受給の疑いがあっても、本人が講座を受けたと主張して、修了証や領収書があれば、それ以上追及できない」と調査の限界を認める。
( → 読売新聞 2006-08-18 : サイトはあったがリンク切れ)

 要するに、国民の金が詐欺師に食い物にされただけだ。
 「それでも効果があるならいい」という主張もあるかもしれないが、「役に立たなかったはずだ」という論説もある。(読売・朝刊・解説面 2006-08-18 )
 ま、当り前ですね。付け焼き刃のIT知識など、屁ほどの役にも立たない。そんなことは自明である。(私がかねてさんざん主張してきたとおり。上記の検索)
 
 問題は? 単に「無駄だった」というふうに、厚労省の発表をそのまま記事にしていることだ。頭がないんでしょうかねえ。「五年前の e-Japan という政策はまったくの無駄だった」とはっきり書くべきなのだが。もう忘れてしまったんでしょうか? 頭がボケているね。痴呆マスコミ。


● ニュースと感想  (8月29日b)

 「ビラ配りと人殺し」について。
 マンションへのビラ配りで「無罪」という判決が出た。(夕刊各紙 2006-08-28 ,asahi.com
   ( ※ 今回の判決は一審判決です。 最初にアップロードした原稿では、「二審判決」
       と間違って書いたので、訂正します。正しい事実関係は、上記のサイトを参照。)


 この件については、前にも言及したことがある。( → 12月11日b12月19日b )。
 私としては、前にも述べたことだし、ここでは特に繰り返さない。「常識通りの判決が出たな」と思うだけだ。上級審でも、たぶんこのままだろう。
 今回の判決について、常識的な見解は、朝日の夕刊にいろいろとある。判決そのものをめぐる考察は、これで十分だろう。
 
 で、何が言いたいか? 言いたいことは、判決そのものではなくて、次の二つだ。

 (1) 公権力の横暴
 警察はこういう下らないことをやって、国民を弾圧している。
 たかがビラ配りで逮捕して、そのまま23日間も拘留する。公権力の使い方を勘違いしている。朝日の記事では「たとえ犯罪性があるとしても、注意して、そのまま追い出せば、それで済んだことだ」というマンション住人その他の声を紹介している。まさしく、そのとおり。ちょっとだけ違法性があるからといって、いちいち目くじらを立てて、23日間も拘留する、なんていうことになったら、横断歩道で信号無視をやたらと繰り返している私などは、このあと一生、豚箱に入れられてしまいそうだ。……もちろん、あなただって。

 (2) 公権力の怠慢
 その一方で、パロマはまったく放置されている。検察も警察も出てこない。ここでは、人が何人も死んでいるのに、ちっとも摘発しないのだ。捜査もしない。拘留もしない。
 「違法性がありそうだから、しょっ引いて、何十日も牢屋に入れる」
 というのは、本来は好ましいことではないにせよ、パロマの場合には、あっても当然のことだ。何しろ、利益重視という欲得ずくで、欠陥を放置して、人を死なせたのだから。悪質性は、非常に高い。サリン事件よりももっと高い、と言ってもいいだろう。サリン事件は、ただの気違いの犯行だ、と言えなくもないが、パロマの場合は、露骨な金銭的エゴと保身のせいで、人を死なせている。これほど悪質性の高いものはない。
 当然、経営者は、死刑になってもいいくらいだ。私が遺族だったら、「死刑にしてくれ」と望む。にもかかわらず、警察も検察も、ほったらかしだ。
 政府が何をやったかと言えば、注意処分と回収処分ぐらいだ。( → asahi.com

 結語。
 以上の (1)(2) を比較すれば、あまりにものアンバランスに、愕然とする。一方は微罪で大々的に逮捕され、他方は極悪の犯罪をしても放置される。警察や検察は、いったい何をやっているのだ? 
 ライブドア事件では、「検察も経済事件に介入して、市場経済を正常化する」なんて口に出して、「検察による経済政策」を正当化していたが、経済政策についてはいろいろと介入するくせに、経済的犯罪(利益目的の殺人)については放置する。……本末転倒じゃないですかね? 
 警察や検察は、いったい何をやっているのだ? 年がら年中、夏呆けですかね? 地球温暖化のせいかな?

 [ 付記 ]
 ネットには、有罪への賛成論を述べる人もけっこう多い。以前、私のブログに書き込んできた人もいる。( → Open ブログ のコメント )


● ニュースと感想  (8月30日)

 「戦争と経済」について。
 8月24日 の項では、「太平洋戦争の原因」という話題で、「戦争の原因は当時の経済失政にある」と述べた。ここでは、「金本位制による状況悪化」などに言及した。
 ただ、これについて言及するなら、その後の高橋財政にも言及するべきだった、とも言える。とはいえ、いちいち言及しなかった。なぜなら、それは、当時の経済と軍事の関係については基礎的な知識であって、調べれば誰にでも簡単にわかることだからだ。( たとえば、「高橋財政」で検索するといい。 )
 とはいえ、私の記事を読んだせいかどうかは知らないが、読売に竹森俊平の解説が出た。(読売・朝刊・1面・コラム 2006-08-27 )
 その趣旨は次の通り。
 経済政策には、重要な対立がある。それは井上財政と高橋財政で対比される。前者は金本位制、後者は財政拡大。その根源は、前者は為替レートの維持、後者は景気の安定。歴史的には、後者が正しいと見なされることが多いようだが、前者には不運があった。それは米国連銀の裏切りである。米国連銀は、当時のバブルを抑制するために、いきなり高金利政策に転じた。そのせいで、米国に大恐慌を引き起こし、かつ、日本や欧州の経済政策をも破壊した。この大失敗がなければ、前者が駄目だとは決められない。とにかく、このような対立は重要なので、今一度、こういう対立軸を考えよう。
 まことにもっともらしいが、完全に間違っている。その理由は、「ある前提にとらわれている」ということだ。それは「マネタリズム」という前提である。この前提にとらわれているせいで、物事の真実が見えないのだ。

 一般に、正しそうな説が二つ並立しているときには、その二つの説のどちらも正しくない。そのどちらの欠陥をも越えた、別次元の新説が正しい。
 たとえば、光について、古典的な粒子説と古典的な波動説が兵損じているときには、そのどちらも正しくない。そのどちらの欠陥をも越えた、別次元の新説(量子論)が正しい。ここでは「古典物理学」という枠組みを超える必要がある。その枠組みを超えられないから、正しい説を見出せないのだ。
 上記の二つの説も同様である。どちらも「マネタリズム」という枠にとらわれている。だから、そのどちらも、真実らしいが、真実ではない。真実は、マネタリズムという枠組みを超えたところにある。

 まず、竹森俊平の説のおかしいことは、次のことからわかる。
 「米国連銀は、どうすればよかったか? 高金利にすれば、バブル破裂を引き起こして、大恐慌をもたらす。低金利を維持すれば、バブルがどんどん膨張して、将来のバブル破裂をいっそう大きくする。高金利にしても低金利にしても、駄目である」
 こうして、矛盾が生じる。
 これに対して、「高いのと低いのとの中間の金利にすれば良かった」という説もあるが、残念ながら、そういう甘い発想は、現実には成立しない。日本のバブル破裂を見よう。バブル破裂期には、大幅に金利を引き締めたから、バブルが破裂したわけではない。当時の金利の引き上げ幅は、ごく小量だ。また、「総量規制」はたしかに有効ではあったが、そう教を激減させたわけではなくて、ちょっと引き絞っただけだ。……いずれにせよ、マネーサプライを一挙に大幅に縮小させたわけではない。
 つまり、日本のバブルの破裂は、金融政策の大幅な変更によって生じたのではなくて、金融政策の小幅の変更によって生じた。なのに、何でこんなに大きな影響が生じたかというと、実体経済(生産活動)そのものが変化したというよりは、バブル部分(投機部分)が吹っ飛んだからだ。ここで吹っ飛んだのは、「この先もどんどん上昇するだろう」という心理的な見込みである。この見込みの変動が、バブルの破裂をもたらした。とすれば、ここでは、「上がるか、上がらないか」のどちらかしかない。中間などはないのだ。上がるならばどんどん上がるし、下がるならばどんどん下がる。投機というのは、そういうものなのである。

 とすれば、なすべきことは、バブル膨張以前に、あらかじめ金利を高めにしておくことだった。しかるに、そのことは、マネタリズム自身が否定している。
 「金利はなるべく低くするべきだ。そのことで投資を拡大して、高い経済成長率を維持するべきだ」
 これが基本的にはマネタリズムの方針だ。そして、バブル膨張期には、この方針のもとで、低金利政策が取られる。間違って低金利政策を取ったのではない。意図的に「これが正しい」と信じて低金利政策を取ったのだ。なのに、バブルが膨張したからといって、今になって「低金利政策は駄目だ」なんて述べるのは、二枚舌である。つまりは自己矛盾。論理が破綻している。

 では、正しくは、どうすれば良かったか? マネタリズムの発想を捨てればよい。つまり、「金利で景気を調整しよう」という発想を捨てればいい。
  ・ 金融政策で、為替レートを安定させる
  ・ 金融政策で、景気を安定させる
 このどちらも駄目なのだ。なのに、この発想を取るところに、竹森俊平の勘違いがある。(正確に言うと、高橋財政は、金融政策だけでなく財政政策を含むが、竹森俊平はマネタリストなので、金融政策のことばかり考えている。また、金融政策の他に、財政政策があってもなくても、大差はない。)

 では、マネタリズムの発想を捨てて、どうすればよかったか? 税政策を取れば良かったのだ。
 「税政策で、景気を安定させる」
 これが正解である。その意味は、「経済税帯の規模を正しく調整する」ということだ。
 ひるがえって、マネタリズムは、どうか? 良くて、先の二つのうちの後者である。つまり、
 「金融政策で、景気を安定させる」
 この場合、どうなるか? 景気は安定するか? 小規模ならば、うまく行く。しかし、大規模ならば、うまく行かない。なぜか? 金融政策が大幅になると、次の二つばかりが膨張するからだ。
  ・ 企業の投資
  ・ 国民の投資
 これらの投資の規模が小規模であるならば、正常の範囲内に収まる。しかし、過剰に投資を拡大しようとすると、必要以上に投資が拡大させられるので、必要以上の分、つまり、投機が増える。それは通常、株式や土地の投機となる。
 つまり、マネタリズムの政策は、本質的にバブルを引き起こすものなのだ。だから、マネタリズムの政策とは、次のことである。
 「景気を拡大しようとして、金融緩和をして、そのあげく、バブルを膨張させる。バブルを破裂させようとして、ふくらんだバブル破裂の影響をまともに食らって、実体経済をも縮小させてしまう」
 
 これは、どういうことか? 
 経済(GDP)は、「主」たる消費と、「副」たる投資との、二つからなる。消費の量が多く、投資の量が少ない。
 なのに、金融政策ばかりにとらわれると、投資ばかりを制御して、消費を制御できない。消費不足のときに、経済を拡大しようとして、投資ばかりをやたらと増やす。そのせいで、消費がふくらむかわりに、投資がふくらみ、あげく、投機がふくらむ。つまり、バブル膨張。
 その後、バブル膨張を止めようとして、金融を引き締める。ある程度までは無効だが、ある程度を越えると急激に効果を発する。そのせいで投機が激減する。そのせいで消費も激減する。そこであわてて金融緩和をするが、激減した消費をまかなうまでにはいたらず、不況のどん底になる。(流動性の罠。)
 結局、金融政策というものは、「副」たる投資にしか作用しないのに、その「副」たる投資ばかりをいじる金融政策に頼るから、肝心の消費を調整できない。そのせいで、バブル膨張やバブル破裂という歪みが発生する。
 つまり、経済の本体を動かさずに、脇役ばかりを動かそうとするから、経済全体が歪んでしまうのである。
 比喩的に言おう。自動車で言うなら、自動車の向きを変えたいときには、ハンドルを操作して、自動車本体の方向を変えればいい。しかるに、外部から自動車のバンパーの一部に金具を引っかけて、強引に自動車の向きを変えようとすると、金具の引っかかったところが歪んで、自動車が壊れてしまう。
 マネタリズムの発想は、「経済とは何か」という本質を見失っていることにある。彼は単に、「金融政策は操作しやすい」という方法の簡単さを優先して、「結果がどうなるか」ということをほとんど無視する。そのせいで、あくまで金融政策だけにこだわる。あげく、バブルを膨張させたり破裂させたりする。そして世界を戦争に導く。
 それでもまだ、そのことに気づいて反省すれば、まだいい。しかし、マネタリズムというものは、その反省ができない。「右の馬鹿と、左の馬鹿の、どっちがいいか? その対立を考えよう」というふうに悩むばかりであって、「正解は右でも左でもなく、別次元の上方にある」ということに気づかないのだ。


● ニュースと感想  (8月31日)

 「小林慶一郎の詭弁」について。
 またまた出ました、小林慶一郎の詭弁。(朝日・朝刊 2006-08-28 )
 意見の対立という形で、不良債権処理を論じる。これを見て、「ほう、不良債権処理論者の小林が、不良債権処理についての反論も恒星に掲載するのか」と感心したが、記事を読んで、愕然としましたね。やはり、とんでもない詭弁だ。賛否両論という形式を取りながらも、自説への批判は完全に削除している。

 記事の趣旨は、「不良債権処理による景気回復の是非」であるが、是非は次の通り。
 何ですか、これは? 全然、賛否両論になっていない。では、正しくは? 「非とする説」はこうなる。
最近の景気が回復したのは、不良債権処理をしたからでない。逆に、不良債権処理政策の完了にともなって、不良債権処理をもはややめたからだ。悪いことをやめたから、効果が出ただけだ。良いことをしたからではない。
 これが「非とする説」だ。で、どちらが正しいかは、数字を見ればわかる。
 前者(是)ならば、「金融システムの健全化にともなって、企業への融資が急速に拡大したから」となる。この場合、銀行の融資残高は、急増しているはずだ。
 後者ならば、「企業への融資はほとんど拡大していない」となる。この場合、銀行の融資残高は、ほとんど増えていないはずだ。
 で、数字を見ると、後者となっている。ゆえに、前者は間違いで、後者が正しい。
 だいたい、そんなことは、とっくの昔からわかっていた。仮に、「金融システムの不全」が理由だったなら、貸出が不十分であったせいで、金利が大幅に上昇していたはずだからだ。実際には、金利はゼロ同然だった。とすれば、資金は、供給が不足していたのではなく、需要が不足していたのである。……というわけで、「不良債権処理」論は、間違いであることは、最初からわかっていた。

 で、小林の意見は、その間違いを糊塗して、自説の誤りを覆い隠しているわけだ。自分の間違いを間違いだと自認することもできない。ひどい詭弁で、ゴマ化す。困った人だ。

( ※ 格差の拡大というのは、「景気回復が嘘だ」ということであって、不良債権処理の是非とは直接の関係はない。不良債権処理をしようがしまいが、国の景気政策が失敗すれば、国民は苦しむ。それだけのことだ。……何しろ最近じゃ、「年収150万円時代」とも言われているんですからね。)
( ※ こういう問題の本質は何か? 「教えてくれ」という読者も多いだろうが、一言では片付かない。本格的な、長い話を要する。経済学の根本に関わる話だ。で、その話は、次の著作に書きます。……「何だ、金取るのか」と腹立たしく思う人もいるだろうが、ただの情報だけで金を取ることはしません。「深く考えさせられて、大きな感動を得る」というふうにします。払った金だけの価値はもらえるようにします。……「それもできれば無料でほしい」というのは、勘弁してください。実を言うと、「ライブドア・二重の虚構」も、少し赤字が出そうなあんばいです。決してボロ儲けしているわけではありません。)

 [ 付記1 ]
 本項では、何が言いたいか? 小林への悪口か? いや、別に、私は彼に恨みがあるわけじゃないから、個人的に悪口を言うつもりなんかない。私が指摘したいのは、朝日の体質だ。
 そもそも、新聞(マスコミ)の役割は、何か? 公正な情報伝達だ。しかるに、小林の記事は、特定の意見の押しつけである。いや、もっとタチが悪い。「賛否両論を並べて、公正な報道をします」という形を取りながら、一方だけの意見を掲載して、他方の意見を掲載しない。(かわりに全然無関係の意見を「他方の意見」と詐称する)。
 「Aと反Aの対立」という形を取りながら、「AとB」というふうにすり替えて、 「反A」つまり「Aへの批判」を隠蔽し、Aを是認させる。── こうして、「不良債権処理は正しい」という意見を一方的に押しつけて、その意見で読者を洗脳しようとする。……まったくもって悪質だ。これほど悪質な報道姿勢はない。
 小林が経済学者としての立場を取るのであれば、どんな意見を取ろうと勝手である。ただし、その場合には、「これは私の意見です」と明示する必要がある。
 しかし、小林の記事では、「公正な解説者です(公正な審判です)」という顔を鳥ながら、特定の方向の意見ばかりを押しつけて、他方の意見を隠蔽する。……これは、マスコミとしては、絶対にやってはならないことなのだ。たとえて言えば、先日のボクシングの八百長と同じで、初めから勝敗の決まっている出来レースである。八百長記事。
 朝日に少しでも良心があるのであれば、自社の姿勢(不良債権処理賛成)への批判をも掲載するべきだ。たとえば、私やリチャード・クーは批判しているのだから、ちゃんと批判記事をも掲載するべきだ。何だったら、私が公開論争をしたっていい。
 しかし、朝日は、決して受け入れないでしょうね。八百長新聞社だから。自社批判なんて、絶対に受け入れないんですよ。「聞いても知らんぷり」がこの新聞社の姿勢だ。そのことは、小林よしのりとまともに対決しようとしないことからも、ちゃんとわかる。偉ぶっていながら、批判を聞こうとはしないのである。聞く耳持たず。……小泉やブッシュと同じ体質ですね。
(せいぜい、自分の選んだオンブズマンの意見だけを聞く。これも、出来レース。一種の八百長。仲間内の馴れ合い。)

 [ 付記2 ]
 ついでに一言。
 新聞社が大々的に自社の主張をキャンペーンしてもいい場合がある。それは、「反政府の意見を言う」という場合だ。政府が圧倒的な力で特定の意見を押しつけているときに、それへのアンチ・テーゼを掲げることは、一社のうちでは偏向していても、国民全体のうちでは偏向していないことになる。むしろ、「多様な意見」を提出していることになる。
 実際、報道記事では政府の見解ばかりを主張するのだから、それへの反対意見を出すことは、全体としてみれば、バランスが取れている。
 しかし、自社と政府が同じ意見を取る場合は、どうか? 政府(特に竹中)が「不良債権処理を」と述べているときに、新聞社もまた同じ意見だけを述べるとしたら、どうか? この場合には、反対意見が抹殺されることになる。
 この場合には、むしろ、何も意見を言わない方がいい。また、意見を言うとしたら、「政府の意見の解説」という形にした方がいい。
 一方、朝日や小林の方針は、逆である。政府の意見と同じことを、さも自分の意見だという顔をして、大々的な記事に仕立て上げる。気持ち悪くて、反吐が出そうだ。政府の意見と同じ意見を、「自分の意見だ」というような顔はしないでほしいものだ。まったく、提灯持ちよりもタチが悪い。
 少なくとも、倫理があれば、「不良債権処理」論を主張するとき、「これは政府と同じ意見です」というふうに注記しておくべきだ。また、「反対意見もある」と述べて、その反対意見をきちんと紹介しておくべきだ。なのに、それをしないのだから、悪質であること、この上ない。戦前の洗脳したがる報道と同様である。最悪。悪魔的。
 新聞は悪魔の道具になり下がってしまった。
(ま、朝日だけでなく、読売だって、五十歩百歩だが。だとしても、朝日[特に小林]は、傑出して悪質だ。報道のバランスという精神が完全に欠落している。……よく考えたら、この人、記者出身じゃないんですね。公正な記事なんて、もともと無理なのかも。だとしても、チェックシステムが働かないで、こういう偏向人間に大々的に権限を与えている朝日というのは、どうしようもない愚劣。狂人に権力を与える。気違いに刃物。……気違いが悪いのではなくて、気違いに刃物を与える新聞社が悪い。)


● ニュースと感想  (9月01日)

 「外国人労働者」について。
 朝日がまた洗脳キャンペーン記事。「外国人労働者をたくさん日本に入れよ。そうすれば日本経済が国際化する」という趣旨。(朝日・朝刊・特集 2006-08-29 )
 これが洗脳キャンペーンであることは、特定意見の押しつけであることからわかる。反対論は掲載されないし、長所短所の比較もない。片側だけの意見しか掲載しない。
 さらには、自説の根拠すら、ほとんど示していない。「経済の国際化に乗り遅れるな」というような抽象的な理念ばかりが大々的に唱えられ、「こうすればこうなる」とか「経済的効果がこれこれ」というような実利的なことは語られない。まったく、洗脳的である。「実際的な効果は述べずに、単に結論だけを押しつける。そのために大量の情報を垂れ流して、否応なしに押しつける。しかも、反対意見はまったく掲載しない。……まさしく「洗脳キャンペーン」の条件を満たしている

 で、私なりに実利的な効用を示すなら、次のことだ。
 「企業は低賃金労働者を雇用することで、労働コストを下げることができる」
 たとえば、危険な仕事や力仕事や深夜勤務は、本来ならば高い賃金を払わなくては、労働者が集まらない。そこで、外国人労働者を野党と、低賃金で労働者を雇用できる。おかげで、賃金コストが下がる」
 しかし、これは裏返せば、「労働者にとっては賃金が下がる」ということだ。「おまえの賃金を下げるぞ。いやならクビにして、かわりに外国人労働者を雇うぞ」と脅して、労働者の賃金をどんどん切り下げる。
 これは別に、日本の経済体質を強化することにはつながらず、単に「賃金コストの切り下げ」を推進するだけだ。低賃金労働者に頼らなくてはならない粗悪な産業が低賃金労働によって繁栄し、高賃金を払える企業がその煽りを食って倒産し、かくて、日本全体が非効率な途上国社会になる。……つまりは、外国人労働者を招くということは、「日本の途上国化(中国化)」を推進するだけだ。

 これが経済学的な説明だ。その意味は、「外国人労働者を雇用する個別企業は、目先では得をするが、日本全体では、状況が悪化する」ということだ。「合成の誤謬」と同様。個別企業が利益をめざすことで、国全体ではかえって悪化する。非輸液に言えば、「公衆便所のトイレットペーパーを盗むこと」と同様だ。「自分さえ良ければ、他人はどうなっても構わない」というエゴイズムの貫徹。(そういう犯罪的行為を合法的にやる、というだけだ。法律を改悪して、悪しきことを合法化する。)

 では、なぜ、朝日はそういう犯罪的行為を推進するのか? 理由は二つ考えられる。

 (1) 悪党
 非常に頭がいいので、国民を騙して、企業利益に奉仕する。産経新聞と同じようなもので、赤旗とは正反対。国民の利益を簒奪して、ひたすら企業に利益を与えることを目的とする。目標は、「国民の賃金を年収百万円にすること」である。そうすれば、低賃金の労働者を雇えるので、企業は目先の利益が増大する。(長期的には日本全体が衰退するが、そんなことは知ったこっちゃない。自分だけが良ければいい、というエゴイズムの発想。)

 (2) 経済音痴
 非常に頭が悪いので、前述(上記)の経済学的理解が欠落している。「自分だけが良ければいい」という発想では、全体が損なわれるので、長期的には自分自身も損をする」ということがわからない。

 たぶん、後者だろう。悪党ではなく、経済音痴。文学部出身みたいな発想だ。
 その上で、数字を無視した文学的な観念から、「国際協調が大事だ」「異文化との交流が必要だ」と信じて、外国人労働者を招こうとする。自分では理想を実現しているつもりになる。(しかし実際には、企業経営者の思惑に乗せられて、掌の上で踊らされている。哀れな道化。)

 さて。朝日の愚かさに対して、賢明な判断を教えてあげよう。
 「国際協調が大事だ」「異文化との交流が必要だ」と信じて、外国人労働者を招こうとすること自体は、間違いではない。問題は、その方法だ。
 企業の主張は、こうだ。
 「低賃金の単純労働者を招いて、労働コストを下げること」
 しかし本当は、こうするべきだ。
 「高賃金の高技能労働者(高度な技術者)を招いて、日本の産業水準をレベルアップする。(国の所得水準は上がる。無理に上げるのではなく、自然に上がる。)」

 実は、後者をやっているのが、米国である。たとえば、米国の研究機関には、外国人の研究者がわんさと押し寄せている。国立の研究所でも大学でも、また民間の研究所でも、外国の叡智がたくさん押し寄せている。それだけ、研究の職場が開放されている。また、多くの外国人技術者が、IT産業などで多彩に働いている。こうして、国全体を、高度化している。どんどん高賃金の労働者を招いて、どんどん体質を高度化している。
 日本ではどうか? その反対だ。単純労働者ばかりを招いて、どんどん体質を途上国化している。これでは、なすべきことをなさず、なしてはならないことをなしていることになる。
  ・ 日本 …… (賃金の外国人労働者の導入によって)体質を低下させる
  ・ 米国 …… (賃金の外国人労働者の導入によって)体質を向上させる

 経済音痴というものは、こういうものだ。たとえて言えば、「自動車のペダルを踏むことが大事だ」とだけ理解して、右のペダルと左のペダルの区別ができないので、アクセルとブレーキを逆に踏んでしまう。それでいて、「自分はペダルを踏んだから、正しいことをしている」と信じ込む。……自分が何をしているか、わかっていないのだ。無知の極み。
 
 朝日は、まずは、「隗より始めよ」という言葉に従って、自社の記者を外国人記者に置き換えるべきだ。たとえば、今回の記事を書くような愚劣な馬鹿記者をさっさと解雇して、中国人あたりの優秀な記者を雇用するべきだ。別に、日本語はいい加減でもいいから、しっかりした考えをもつ記者を雇用するべきだ。(記事を書くときには日本人が推敲すればいいだけのことだ。)
 朝日の記事の経済音痴(というか単なる論理的思考力不足)は、目に余る。およそ常識的な判断ができていない。「異論を聞いて自説を検証する」という、最低限のこともできずに、自説ばかりを得意げに橙的に吹聴する。有害無益。さっさと解雇するべき。かわりに、「自説を客観的に検証しよう」という態度のある賢明な記者を雇用するべき。
 朝日がそういう形で、(単純労働者でない)高度労働者を雇用すれば、まさしく、「外国人労働者による経済強化」は可能になる。そして、それこそ、正しい道なのだ。(馬鹿な記者が解雇されると、本人は損をするが、それはやむを得ない。馬鹿な記者自身が悪い。読者がその被害を受けるのは、まっぴらだ。)

( ※ 過去にも同趣旨の記事があり。 → 検索


● ニュースと感想  (9月02日)

 「さまざまな危険と対策」について。
 さまざまな危険についての対策。時事的な話題。

 → Open ブログ 「危険学」
 → Open ブログ 「地震対策」


● ニュースと感想  (9月03日)

 「戦争の本質」について。
 二週間ほど前には、清掃とは何かについていろいろと論じたが、その続きふうに述べよう。とはいえ、ただの落ち穂拾いではなくて、最も核心的なことを述べる。それは「戦争の本質は何か」ということだ。
 一般の戦争の本質ではなくて、日本の太平洋戦争(というよりは満州事変以降の対中戦争を含む戦争)の全体を見て、その本質を探ろう。
 ただし、本質を探るからといって、「先へ先へ」と昔に遡るのではなく、最後の方を見る。(昔に遡るのならば、1930年代の「経済的な苦境」が原因となる。 → 8月24日

 先の大戦の本質を探るために、最後を見よう。すると、「ポツダム宣言の拒否」という不思議な出来事にぶつかる。常識的に言って、これを受諾するのは絶対的に必要であった。( → 8月15日 )。それにもかかわらず、受諾を拒否した。ほとんど狂気的である。
 ここで、ポツダム宣言を拒否した理由は、何か? ソ連の仲介による講和を期待していたらしい。( → Wikipedia
 とはいえ、ソ連は日本に宣戦布告することになるのだから、この状況認識はほとんど馬鹿らしくて笑い出してしまうぐらいのデタラメさだ。(たとえて言えば、悪魔が幸福を運んでくれると期待するような、馬鹿げた認識。)
 その後、原爆2発とソ連参戦があった。ここでようやく日本は条件つきの降伏を決めた。では、その条件とは、何か? どうしても譲れないものとは、何か? 
 「国体の護持」
 これである。つまりは、当時の日本にとってどうしても譲ることのできないものが、これであった。たとえ「一億総玉砕」と唱えて、日本国民全部が滅びても、天皇制だけを維持しようとした。
 このように、最高のものとして、「天皇制」を掲げること。これが当時の日本の状況であった。では、それは、何を意味するか? このことが重要だ。

 国民全員が死んでも天皇一人が生きればいい、と思うこと。そこには合理性が欠落している。では、なぜか? これが重要だ。
 答えを言えば、それは、「宗教性」だ。つまり、現人神である天皇のもとで、国民が信者として、最高の神を称えることだ。

 宗教性。つまりはこれが、当時の戦争の本質だ。そして、その意味は、こうだ。
 「特定の神を信じる形で、宗教性を打ち出して、国民を洗脳すること。その洗脳状態を利用して、軍部が勝手なことをするのを正当化すること」
 社会学的な用語でいれば、天皇は社会的な「シンボル」であった。その「シンボル」のもとに、集団の成員は結集した。ここで、「シンボル」が何であるかは、あまり重要でない。とにかく、「シンボル」を用意することで、集団を結集させる。その結集を利用して、軍部などが国民を煽動する。
 
 似た例は、たくさんある。
 「アラーのために!」と叫んで攻撃する現代イスラム教徒。(アルカイーダも)
 「キリストのために!」と叫んで攻撃する中世の十字軍。
 「女王陛下のために!」と叫んでスペイン商船を攻撃する英国人海賊。
 「天皇陛下のために!」と叫んで英米軍を攻撃する旧日本軍。
 このように、戦争をしたがる人々は、シンボルをいだきたがる。なぜ? 「この戦争は私利私欲のためではなくて、崇高な目的のためだ」と大義名分を掲げるためだ。そして、その大義名分の下で、自分のエゴイスティックな利益を求めるのだ。その典型が海賊だ。
( ※ もちろん、小泉の靖国参拝も、この宗教性の延長上にある。「天皇陛下のために」「英霊のために」「東条英機のために」という三つは、それぞれ、小泉にとってはほとんど渾然一体化している。その名分のもとで、しょせんは自分を正当化したいだけだ。)

 宗教性。── これが当時の日本においては、戦争の核心となる。となると、戦争の責任が誰にあるかもわかる。
 戦争決定者(開始と継続の決定をした権力者)は、戦争を決定したという責任があったが、彼ら権力者だけが戦争を遂行したわけではない。ここでは、宗教性を帯びていた全員が、何らかの責任をもつ。つまり、だました方が悪いが、だまされた方だって悪い。
 宗教性のもとで、国民は洗脳されていた。洗脳した軍部が最も悪いが、洗脳に加担したマスコミもかなり悪い。また、洗脳された国民も自ら戦争を推進したという責任がある。……これは、オウムに似ている。中心者は麻原であり、こいつが最も悪いが、信徒もまた共犯者である。信徒の全員が共犯者だと言える。同様にあの戦争の当時の国民全体もまた共犯者であった。
 ここでは、「全員が犯人だ」というふうになる。クリスティの小説みたいだが、これが事実だ。
 こうなると、もはや、「誰が悪い」と人を責めるべきではあるまい。むしろ、社会システム全体の問題だった、と認識する方がいい。洗脳した権力者の誰それが悪いとか、洗脳された国民が悪いとか、そういうふうに「犯人捜し」をしても、何の意味もない。ここでは、「犯人がいたから犯罪が起こった」というふうにはなっていない。「社会システムが間違っていたから事件が起こった」と見なすべきだ。

 そうだ。あの戦争では、「東条英機が悪い」「戦犯が悪い」というふうに、特定の個人に責任を帰するのは、正しくはない。たしかに、「東条英機が悪い」「戦犯が悪い」という意見は部分的には成立するし、したがって「東条英機を崇拝する」「戦犯を崇拝する」という靖国参拝論者は批判されて当然だ。が、だからといって、「東条英機が悪い」「戦犯が悪い」というふうに、特定の個人に責任を押しつけて片付く問題ではない。「あの当時の全員が共犯者だった」と理解した上で、「当時の社会システムに問題があった」と理解するべきだ。

 この社会システム。それは、洗脳の社会システムである。真実を隠蔽し、虚構を信じさせる社会システムである。
 では、この社会システムの責任者は、誰か? 社会システムの頂点に立つが天皇が責任者か? いや、天皇の意味は、「最高の権力者」ではなくて、「傀儡」(操り人形)であった。天皇は、いわば御輿のように担がれたが、天皇もまた利用されたのであって、天皇自身の責任はほとんどないだろう。(王制ならば王がすべてを決定するが、昭和天皇はそういうことはしなかった。)
 社会システムの責任者は、やはり、社会の全員であった、というべきだろう。主として軍部に責任があったが、軍部を支持したのは国民だった。国民が軍部を支持したことの根源には、政府の経済政策の失敗があったが、だとしても、国民が軍部を支持したことには、国民に責任がある。
 しかし、国民に責任があるというのは、しょせんは、「誰にも責任がない」というのと同様だ。というわけで、結局、責任問題を追及しても、何の意味もないのだ。「戦争の責任は誰にあるか?」という質問には、「誰にも責任はない」と答えるのが一番正当だろう。(しいて言えば、A級戦犯の責任が多大だが、A級戦犯が単独で戦争を遂行したわけではない。国民の支持がまさしくあったのだ。)

 では、結局、本項は何を示したいのか? 「誰にも責任はない」と述べて、責任問題をうやむやにしたいのか? 違う。真実を示したいのだ。では、真実とは? 
 それは「社会システムに問題があった」ということだ。その社会システムの本当の問題は、国民を洗脳することそれ自体にあったのではなく、国民を洗脳するのを防止する声を抑圧することにあった。── このことで、異論が封殺され、誤りを訂正するすべをなくした。ここに根源がある。

 そして、そのことは、あの戦争のときだけでなく、あれ以後もずっと綿々として続いてきているのだ。今現在の社会システムを見るがいい。やはり、国民を洗脳する、という状況がある。
 こういうふうに、嘘ばかりをばらまく。かつ、それに対する異論をまったく掲載せず、国民を一種類の情報で洗脳する。こういう「偏向報道」こそ、最大の根源なのだ。
 単純に言えば、あの戦争のときの人々も、今現代の人々も、同じように、マスコミの洗脳報道にだまされている。かくて、昔は「神国日本!」や「鬼畜米英!」と叫んだし、現代では「悪魔のライブドア!」「守銭奴のホリエモン!」と叫んだ。さらには、「不良債権処理万歳!」とか「量的緩和万歳!」とかの嘘八百の言葉で洗脳することもある。その代表者が、「構造改革!」と叫んだ詐欺師首相だ。

 あの当時の国民はずっと騙されていた。あの時代のマスコミは戦後には懺悔したが、あの時代ではまったく懺悔しなかった。
 現代ははどうか? ライブドア事件では、国民はずっと騙されていた。しかも、現代のマスコミは、まったく懺悔していない。「ライブドア・二重の虚構」を読んだマスコミ人も多いだろうが、決して懺悔しない。「検察の根拠は不明だ」とか「検察は国策捜査をしている」とか、他人である検察を非難することには熱中するが、マスコミがマスコミを非難する(または自己反省する)ことはない。自分たちが共犯者だという意識がまったく欠落している。
 かくて、あの戦争の当時も、現代も、同じく社会システムに根源的な問題がある。それは「自己の誤りを直視しない」ということだ。それはまた「真実を直視しない」ということである。それゆえいつまでも、真実から目を逸らして、洗脳されたままでいるのだ。( → 「ライブドア・二重の虚構」202頁以降を参照。)
 現代のマスコミに欠けているのは、自己を直視する勇気である。そして、自己を直視しない狂気のマスコミのもとで、国民は洗脳されて、狂気の渦に巻き込まれる。
 このような状況で、現代のマスコミが東条英機を批判するのは、ちゃんちゃらおかしいと言える。国民に狂気を掻き立てているという点では、東条英機も現代のマスコミも、まったく同罪なのだ。そしてまた、自分自身の愚かさを理解しないことも、自分を批判する声に耳をふさぐことも、両者は同罪なのだ。
 こういう狂気のマスコミのもとで、国民は狂気に導かれる。── これがつまりは、(過去と現代に共通する)社会システムの問題だ。ここに本質がある。


● ニュースと感想  (9月04日)

 「イラク戦争の根源」について。(前日の話の続きふう。)
 イラク戦争を検証する特集が朝日新聞で連載されている。「テロとの戦いを標榜したあげく、テロというよりアラブ全体との戦いになってしまっている。アラブ世界を民主化すると標榜したあげく、宗派対立と内戦を招いて、戦争前の秩序を崩壊させ、混乱を招き、状態をかえって悪化させてしまっている」という趣旨。(朝日・朝刊・特集 2006-09-03 連載開始)
 これはマスコミには珍しく優れた記事だ。マスコミのあるべき姿を示したと言えよう。絶賛しておこう。
 で、なぜこれが優れているかというと、政府発表の官製報道に反する形で、事実を報道しているからだ。通常なら、政府発表の官製報道と、米国初の報道との、二つがあるだけ。どっちみち、お下がりの情報を転載して、お手軽に「記事が出来上がりました。コストは低く済みました。これで儲かります」という記事ばかり。その一方、今回のような調査報道は、現地で調査する必要があるので、コストがかかる。掛かるとはいっても、企業みたいに開発投資が何億円もかかるわけではなくて、優秀な記者を数人ほど派遣するだけでいい。何だったら、超優秀な記者を一人派遣するだけでいい。人件費は? もともと社員だから、追加負担はない。結局、交通費と出張手当ぐらいで、立派な記事が書ける。……これがマスコミのあるべき姿。
 本来なら、他の記事でも、こういうことをやるべきだ。たとえば、机の前に坐っているだけでもいい。ネットで情報検索すれば、世の中には異論というものがたくさん見当たるし、書籍だってネットで注文できるから異論を見出せる。「安楽椅子探偵」ならぬ「安楽椅子記者」だって、まともな記事が書ける。……なのに、そうしないで、記者クラブに行って政府のお下がりの情報をもらうだけだから、くだらない官製情報ばかりを垂れ流すことになる。
 かくて、検察発表の文句を転載するだけの、提灯記事ふうマスコミがのさばることになる。彼らの努力は、検察の上層部に取り入って、リーク記事をもらうことだけだ。こぼれた肉を頂戴したがる犬と同じである。「記事ちょうだい、わんわん」「よしよし。じゃ、骨を投げてやるぞ、ほら」と骨を投げると、大急ぎで骨を追いかけて、その骨を口にくわえて、本社にもっていく。すると本社は、その骨を記事にして印刷する。その骨がどんな骨であるかを検証しない。かくて「悪のライブドア」というような検察好みの嘘八百記事が大量に1面を飾った。しかも、正式発表ではないから、検察には嘘の責任がまったくない。「マネーロンダリングや風説の流布という疑惑は間違いでした」というふうに検察が訂正する必要はない。なぜなら、それらは、正式発表というよりは、マスコミが勝手にくわえて報道しただけだからだ。愚かなのはマスコミであって、検察ではないのだ。
 で、そうだとしたら、馬の骨みたいなものを勝手に印刷したマスコミは、「虚報・煽動」の責任を取って、「間違いでした」と懺悔するべきだろう。しかしマスコミは、ライブドアの不正経理については「ひどい嘘つきのインチキだ」と非難するのに、自社の不正報道については「そんなことはどうでもいい」というふうに無視する。同じような嘘つきの不正について、他人については「死刑にせよ」というふうに非難し、自分については「ほっといていい」というふうに免罪にしたがる。……自己反省ゼロ。(前項の最後と同様。)

 さて。ここからが肝心の話。
 こういう日本のマスコミと似た事情にあるのが、アメリカの報道だ。なぜ? それは米国のイラク戦争開始の根源を探るといい。
 米国のイラク戦争開始の根源は、何か? もちろん、馬鹿ブッシュだ。そして、馬鹿ブッシュが当選したことの原因は、国民のブッシュ支持だ。そのまた原因は、マスコミの偏向報道である。
 マードックの FOX テレビ以降、米国では保守派のマスコミ支配が続いた。もともとユダヤ系によるマスコミ支配が少しあったところへ、マードックまで登場して、米国のマスコミは保守派に牛耳られた。革新派のCNNは隅っこに追いやられた。こうして米国のマスコミは保守派の牛耳る状況となった。で、どうなったか? アラブ批判や共和党支持の情報がわんさと垂れ流されるようになった。── つまり、報道管制による洗脳状態である。これは前項述べたとおりで、戦争の最大の理由となる。
 国民は報道管制のもとで、正しい情報を与えられないまま、アラブ批判や共和党支持の見解をもつように洗脳されていった。まずは、馬鹿ブッシュが、その知能の低さにもかかわらず、当選した。その次は、イラク戦争で不支持率の高かったブッシュがうまく再選に成功した。大統領選の直前に急に支持率が上がったのだ。── ここでは、ケリーの馬鹿さにも理由があったが、その馬鹿さを際立たせて、逆にブッシュの馬鹿さを隠蔽するという、マスコミの洗脳体制が大きな理由だっただろう。
 マスコミによる国民の洗脳。それが、ブッシュを当選させ、ブッシュを再選させた。知識人が見れば馬鹿としか見えない低IQの元落第生のボンクラ大統領を、米国の冠に戴いた。かくて、イラク戦争が起こった。その結果が、中東の大混乱だ。
 要するに、現在の中東の大混乱の理由は、米国のマスコミの洗脳報道なのだ。前項では、戦前の日本の洗脳報道(そういう社会システム)が戦争の理由だと述べたが、同様のことは、現代の米国でも起こったのだ。

 結語。
 イラク戦争の結果を詳細にレポートするのは好ましい。ただし、それだけでなく、戦争の根源も知るべきだ。それはマスコミによる報道管制であり、マスコミによる国民の洗脳だ。── これが、社会を変質させて、社会を狂気に導く。
 そして、そのことは、米国だけに当てはまるわけではない。昔の日本も、現代の日本も、同様だ。(前項で述べたとおり。)
 朝日などのマスコミが、米国によるイラク戦争を検証して、米国を批判するのもいい。しかし、その同じ矛先は、自分自身にも向ける必要がある。他人への批判はめっぽう鋭いが、自己への批判はからきし駄目、というのが朝日の体質だ。
 自己の姿について盲目である者は、決して真実を理解することはできないのだ。
 「汝自身を知れ」


● ニュースと感想  (9月04日b)

 ポアンカレ予想を解決した(らしい)のにフィールズ賞を辞退したロシア人数学者がいた。その世俗的な話題。(難しい数学の話じゃありません。)
    → Open ブログ 「変人科学者」

 ※ 私が思うに、証明に成功したことには、秘訣がある。
    それは、顔写真でわかるように、ヒゲもじゃだったことだ。  (^^);






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「小泉の波立ち」
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