[付録] ニュースと感想 (96)

[ 2005.10.22 〜 2005.11.14 ]   

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● ニュースと感想  (10月22日)

 「個人情報と住民基本台帳」について。
 個人情報の保護を名分として、住民基本台帳の情報公開を制限する、という方針が示された。(21日・朝刊各紙)
 一方、つい先日、読売新聞は次のような連載を示した。
 「やたらと情報を制限するので、いろいろと不便なことが起こっている。学校の教師の住所も教えないので、卒業生が感謝の言葉を送ることもできない。町内会でも近所に誰が住んでいるのかさっぱりわからないで、住民関係が疎遠になる。幼稚園や小学校でも、PTAの個人情報が出ないので、クラスメートの両親についてもさっぱりわからない。電話番号さえわからないので、連絡網を作ることすらできない。大学の掲示板でも、学生を呼び出す際に、個人名の表示をしないで、学籍番号で示すので、掲示板がちんぷんかんぷんである。」
 ま、馬鹿げた話だが、やたらと個人情報の流出を制限すると、こういう馬鹿げたことが起こる、という見本となる。

 とはいえ、一方で、下らないダイレクトメール業者に、個人の生年月日などがやたらと流出したり、それに基づいて詳細なデータベースなどを構築されるのも、気持ち悪い。
 では、どうしたらいいか? 

 私の提案は、こうだ。
 「最低限の情報は、公開してもいい」
 つまり、
 「隠す必要のない情報は、隠さない。隠すべき情報だけを隠す」

 具体的に言おう。以下の通り。
 次の情報は、完全に公開する。
 「氏名と住所」
 これが公開されていないと、宅配便の業者が配達することもできない。近所のご用聞きの配達もできない。逆に言えば、容易に知ることができる情報だから、こんな情報をいちいち隠さない。隠すだけ無駄だし、社会の効率を低下させるだけだ。

 次の情報は、原則として公開しない。
 「生年月日」
 「家族間の続柄」
 ただし、こういうふうに生年月日を非公開にすると、業者が困る。塾や学童向けの販売業者にとっては、この情報を知るのと知らないのとでは、利益に大差がつくからだ。どうしても知りたくなるので、闇情報を業者から買うだろう。買った業者が利益を得るのだから、買いたくなるのが自然だ。そこで、この件は、以下のようにする。

 次の一覧情報を、公的機関が有償で販売する。
 「ある年齢層に該当する集団の一覧リスト」
 例えば、今年の春に新入生になる児童の一覧リストだ。ただし、ここで販売するときには、次の点に注意する。
 「このリスト自体をそのまま業者に渡すことはしない。ダイレクトメールなどの発送をする発送業者の発送システムにだけ渡す。一時的に渡すだけであり、すぐに消去される。そのデータは、原則として、誰も見ることはできない」
 たとえば、「一覧リスト」を、 CD-R に記録して渡すのではなくて、公的機関のメモリから、発送業者の発送システムのメモリに、転送する。発送業者が発送した時点で、メモリは消去される。(公的機関にだけは履歴が残る。)……こうすれば、ダイレクトメールを送りたい該当の業者(塾など)は、どの時点でも、個人情報に接することはない。かくて、個人情報は、守られる。と同時に、公的機関には、情報提供料として、なにがしかの料金が入る。それを自治体の収入とすれば、結果的に、個人情報を部分的に知られた住民は、免税を受けたのと同じことになり、得をする。
 さらに、この方法で発送するとき、発送業者が各種の発送物をまとめて発送すればよい。たとえば、塾のダイレクトメールと、ひな祭りのダイレクトメールと、ランドセルのダイレクトメールを、いっしょに発送する。すると、発送コストが低減する。国家的にも、無駄を減らす利益がある。

 以上のことの原則は、前述の通り、次のことだ。
 「最低限の情報は、公開してもいい」
 「隠す必要のない情報は、隠さない。隠すべき情報だけを隠す」
 この原則に基づいて、うまく取捨するわけだ。硬直的に「個人情報はすべて公開 or 非公開」と決めつけずに、柔軟にケースバイケースで適切に処理するわけだ。「可変化」という発想。


● ニュースと感想  (10月22日b)

 前項の続き。「個人情報と靖国参拝」について。
 「個人情報の保護」がそんなに大事であれば、次のことが成立するはずだ。
 「小泉首相が靖国に参拝したのを、私的行為と強弁するのであれば、それを個人情報(プライバシー)と見なして、マスコミが報道するのを禁止する(または辞退してもらう)」
 これは当然のことだろう。総理大臣であれ、プライバシーは尊重される。個人的にプライバシーの行為があれば、それを覗き見されない権利がある。たとえば、首相が毎朝、「アラーは偉大なり」と唱えて頭を床につけるとしたら、それを覗き見されない権利がある。同様に、靖国に参拝するとき、それを覗き見されない権利がある。だからマスコミに対して、
 「これは私的行為だから、絶対に報道しないでほしい」
 と要求するべきだ。ところが、現実には、違う。「総理大臣である小泉純一郎が参拝したのだ」とコメントする。こういうふうにコメントするのは、総理大臣としての職務としての行為だ。
 嘘つき野郎の自分勝手な論理が露見する。


● ニュースと感想  (10月22日c)

 前々項の続き。「個人情報と学校」について。
 学校のホームページについて、「個人情報の保護」の観点から、生徒を匿名にして、実名を削除する方向だという。というのは、実名を知って、女児を狙った犯罪の例があったから。( → Yahoo ニュース

 いかにも、という感じだが、どうも頭悪いですね。実は、まともな解決策があるのだが。次のように。
 「学校のホームページを、閉鎖的な集団で閲覧する」
 つまり、実名を掲載したページにログインするときに、パスワードを要求する。生徒や父兄はパスワードを知っているから、閲覧できる。一般の人は、パスワードを知らないから、閲覧できない。google の検索に対しては、パスワードをかけたページについては「検索拒否」の設定にする。

 と思ったら、実際に調べてみると、すでに「パスワードが必要です」という学校ホームページが、あちこちにある。たとえば、
    http://ita1es.homeip.net/
 の、「クラス」のページだ。
 現実には学校はちゃんとうまくやっているのに、為政者が追いついていないようだ。


● ニュースと感想  (10月23日)

 「環境と経済学」について。
 環境保全のためには、どうするべきか? 「規制で」とか、「法律で」とか、「悪化の是正」とか、そういう普通の処置もがあるが、もっと根源的な処置もある。「環境悪化が起こってから是正する」のではなくて、「環境悪化の発生そのものをストップする」ということだ。
 ところが、これは、容易ではない。というのは、通常、環境悪化をもたらす者は、自分だけは得をするからだ。「社会全体には迷惑をかけるが、自分だけは得をする」というのが、環境悪化が発生するときの基本的な原理である。
 そして、そのあとで、「一部の不心得者がやった環境悪化を、社会全体が莫大なコストをかけて是正する」というふうにする。……何だか、馬鹿みたいですね。

 この問題を解決するのは、普通の方法では駄目で、経済的な方法が有効である。すなわち、「環境悪化をもたらしたエゴイストが損をする」という仕組みを整えることだ。「罰金を科する」というのでは、「一億円の利益を上げた不心得者に、百万円の罰金を科する」というふうになるので、無効である。そこで、トータルで損をするような仕組みを整える。
 以上が原理となる。

 この原理のもとで、次の例を考えよう。
 「外来種の肉食魚が放流されたせいで、在来種の魚種が激減する」
 この問題に対処するのに、通常は、次の方法を取る。
 「放流をやめよう、というキャンペーンをする」
 「放流をしないように、見回りチェックする」
 「放流されたあとで、繁殖した外来種を駆除する」
 具体的な例は、新聞記事がある。オオクチバスやコクチバスを例に取り上げている。(朝日・夕刊・コラム 2005-10-22 )
 
 で、こんなことをいくらやっても、労多くして益少なしである。そこで、かわりに、前述の発想を取ろう。すると、次の案が思い浮かぶ。
 「外来種が魚が見出された河川では、釣りを禁止する。あるいは、禁漁期間を、大幅に長くする」
 これによって、釣りを目的にして外来種を放流した人は、かえって損をする。今までは、外来種を放流することで利益を得たのだが、今度はかえって損をするようなる。かくて、経済的な原理(損得勘定の原理)により、環境保全が実現する。
 なお、このように「釣りを禁止する」もしくは「禁漁期間を長くする」というのは、名分が立つ。というのは、外来種がいることで、在来種は激減してしまったのだから、資源保護の必要があるからだ。どっちみち、「自業自得」なのだから、文句は言えまい。
 善良な釣り人は、巻き添えを食う形になるが、やむを得まい。その理由は、すぐ前に述べた「名分」で示したとおり。在来種が激減して絶滅してしまったら、何もかも消えてしまうので、元も子もないはずだ。


● ニュースと感想  (10月24日)

 「日本シリーズ」について。

  (1)
 今度の日本シリーズは、どちらが勝ったにしても、おもしろくない。
 どっちが勝っても、すっきりしない。つまんないですね。これじゃ、ただの「秋期カップ戦」にすぎない。それとは別に、「真の年間王者」を決める戦いがないとね。

  (2)
 それはそれとして、別の話。
 最近、プロ野球の視聴率が下がっている。なぜか? 私の想像では、それは、テレビ局のせいだ。
 私がプロ野球を見なくなった最大の理由は、次のことである。
 「生中継と、直前のビデオ画像とが、切り替わる際に、切れ目に変なワッペンのような画像がデカデカと挿入されること」
 このワッペンのような画像が、目にチカチカして、不快で仕方ない。そもそも、プロ野球というのは、のんびりといい加減に見ているところがいい。ずっと興奮しっぱなしではなく、のんべんだらりと神経を休めているのがいい。若い人ならば娯楽が第一だろうが、大人ならば仕事が第一で娯楽は気休めだ。とすれば、気休めになるように、刺激は少ない方がいい。
 なのに、ワッペンのような画像が出るので、神経が刺激される。誠に腹立たしい。で、最初はNTVがこれをやったので、私はNTVを見なくなった。やがて、他社も同様のことをやるので、他社のも見なくなった。ついでに言えば、今回はテレビ朝日が日本シリーズ第一戦を放送しているが、ここでも同様のワッペンのような画像がチカチカして、気を刺激するので、五分間だけ見て、テレビから離れた。

 要するに、テレビ局自体が、「この番組を見ないでください」というふうな番組にしているわけだ。「見るな」と押しつけてくるのだから、たとえ見たくても見るわけには行かない。かくて、視聴率が急激に下がる。
 実際、プロ野球の視聴率が急激に低下した時期と、ワッペンのような画像が挟まれるようになった時期とは、ほぼ一致するのだ。

 [ 余談 ]
 なお、日本シリーズの最中、唯一、気休めになった画像は、美人女優のCMである。「え、どんな美人?」と気になる人は、次の画像をご覧ください。
  → 宝の缶チューハイのCM
 (広告です。念のため。なお、動画もあります。Win/Mac で異なるが。)
 

● ニュースと感想  (10月24日b)

 「ネット・ネズミ講」について。
 ネット・ネズミ講が繁殖している。ご注意あれ。
  → Open ブログ


● ニュースと感想  (10月25日)

 「HD-DVD とブルーレイ」について。
 HD-DVD とブルーレイの規格争いは、最近、ブルーレイが優勢になっているようだ。さもありなん、というのが、私の見通しである。ここで、これまで考えてきた私の判断をまとめると、次の通り。

 (1)
 ソフト会社の立場で言えば、「どちらか一本に決まること」が望ましい。設備の二重投資はしたくないからだ。
 とはいえ、現実が、ソフト会社の望むとおりになるとは限らない。現実が二本立てになった場合、ソフト会社は二本立てで生産するしかないだろう。たとえば、一方が4割で他方が6割のシェアを取ったとき、たとえ6割の方式を採ったとしても、残りの4割のシェアに相当するユーザに対して、ソフトを販売しないのは、損だからだ。いくらかコストアップになるとしても、高めの価格でソフトを販売した方が、得である。というわけで、現状が二本立てならば、「併売」がベストである。
 となると、現状が二本立てになるかどうかが、問題だ。そして、これは、ソフト会社の方針で決まるのではない。
 では、現実の状況は? 当面、双方の規格が並存することになりそうだ」というのが、共通認識であった。しかし、本当にそうだろうか? 以下で論じよう。

 (2)
 東芝の見込みであれば、「HD-DVD は、生産設備などが既存の規格と共通であるため、低コストで製造できる」というのがふれこみであった。
 これが事実であれば、HD-DVD の方が圧倒的に有利である。なぜなら、次のようになるはずだからだ。
  ・ 従来技術を生かして、ずっと早く機器を製造・販売する。
  ・ 従来技術を生かして、ずっと早くDVDを製造・販売する。
  ・ 従来技術を生かして、機器もDVDも安価に製造・販売する。
 そして、それができるとすれば、ブルーレイよりも1〜2年は早く販売を開始して、シェアを独占して、市場を確立していたはずだ。……こうなると、圧倒的に有利である。

 (3)
 しかし、現実には、そうならなかった。双方の規格は、同時期に発売となる見込みである。しかも、予想販売価格を見ると、従来の(ただの)DVDに比べて、圧倒的に高価である。どちらかと言えば、ブルーレイと同程度の価格だ。
 ということは、HD-DVD のメリットは、まったく存在しなくなった、ということだ。原理的には、(2) のように多くのメリットが生じるはずであったが、実際には、メリットは何もなかったことになる。
 これは、たとえて言えば、「すばらしい、すばらしい」と宣伝だけして、いつまでたっても出なかった、BTRON みたいなものである。原理的にはすばらしくても、現実に商品が出ないのでは、どうしようもない。そして、現実に商品が出たときには、ライバルはずっと先の方に進んでしまっている。

 結語。
 東芝は、「すばらしい」とだけ唱えて、商品を実際に出すことに、失敗した。オオカミ少年みたいなものである。嘘つき。
 そして、その理由は、「技術の独占」を狙ったせいだろう。「自社だけで技術開発しよう」としたせいで、研究開発費が不足して、細かなところで開発に手間取って、実用化が遅れた。仲間を作れば良かったのに、独りよがりで自惚れていたせいで、他社の連合軍に、負けてしまった。
 これ、ちょうど、VHS連合軍に負けたベータ(ソニー)みたいなものである。どうせやるなら、「市場の独占」なんかを狙わずに、仲間をたくさん作って、さっさと実用化してしまえば良かった。そうすれば、二年前に、市場を独占できただろう。

 教訓。
 すべてを独り占めしようとした欲張りは、逆に、すべてを失う。
 自分の能力は最高だと思い込んだ自惚れ屋は、逆に、自分の無能さで破綻する。
 (利口な人間は、自分の愚かさを、自覚して反省する。)


● ニュースと感想  (10月26日)

 「報道と宣伝」について。
 朝日新聞社は、「報道とは何か」をしっかりと考えた方がいい。というのは、報道と宣伝の区別ができていないからだ。
 報道とは何か? 事実を広く伝達することだ。事実とは何か? それは容易にはわからない。そこで、多くの人々から多面的な見解を得て、その総体として対象を示す。
 しかるに、これができていないと、一面的な見方となる。批判者の言葉だけを取れば「一方的な批判」になりかねないし、賛成者の言葉だけを取れば「一方的な賛美」になりかねない。また、当の対象自体の言葉を取れば「一方的な宣伝」となる。── そして、朝日がやっているのは、この「宣伝」である。特に、経済現象については、たいていそうだ。当該者の一方的な言い分だけを掲載して、批評的な視点がまったく欠落している。
 これがどうして問題であるかは、次のような類似例からわかる。
  ・ 水俣病の工場が「当社はクリーンです」と自己弁護する。
  ・ 小泉が「靖国参拝は私人として行動しました」と自己宣伝する。
 こういう一方的な主張だけを記事にして、反対の主張を掲載しなければ、ただの「宣伝」となり、「報道」ではなくなる。事実の報道どころか、虚偽の宣伝である。
 そして、これが、朝日の根本的な報道体質だ。
 最近の具体的な例を二つ示そう。

 (1) トヨタ
 10月の前半ごろ、「トヨタのカンバン方式はすばらしい」という称賛記事をたくさん掲載した。シリーズで。しかし、ここにあるのは、トヨタの側の一方的な主張だ。つまり、そこには、反対者の意見が欠落している。反対者の意見とは? たとえば、こうだ。
 「自動車絶望工場、という書籍でも知られているように、労働者にとって苛酷すぎる状況があった」
 「労働者がいくら成果を挙げても、成果主義とは正反対で、労働者への分配率が低かった」
 「トヨタはさんざん利益を上げたが、その利益を投資よりも貯蓄に回したため、日本全体としては、総需要が縮小して、デフレを悪化させた」
 「デフレが回復基調になったときも、ベアゼロなどを主導して、消費の拡大を阻害し、経済を低迷させた」
 要するに、労働者や日本経済に多大な損害を与えて、自社ばかりがやたらと高利益を上げたわけだ。あまりにもエゴイスティックである。「正当な配分をなさない」という意味では、(合法的な)泥棒に近い。……こういう身勝手な連中が、村上ファドと同様に、「社会に損害を与えて、自分だけが利益を上げる」ということをやっているのだから、当然、非難されるべきである。ところが、朝日の記事は、「トヨタはすばらしい利益を上げたから、トヨタは立派だ」と称賛する。
 馬鹿じゃなかろうか。トヨタがいくら利益を上げたとしても、それはトヨタが自分勝手なことをしたというだけであり、少しも立派なことではない。
 トヨタの「カンバン方式」が優秀な方式だ、ということは、正しい。しかし、その結果としてもたらされた利益は、トヨタが独占して、他社には与えなかったのだ。それどころか、他社の利益を奪っただけ、社会全体には損害を与えたのだ。(不況という損害。)……そういうマクロ経済学的な認識もなしに、トヨタという一社だけを見て、「利益が上がったからすばらしい」と称賛する。
 ここでは、多面的な見方が欠落している。すなわち、報道ではなく、ただの宣伝となっている。トヨタの提灯持ち。

 (2) 翻訳の新訳
 戦後の翻訳書に、次々と新訳が出ている、という記事があった。(朝日・日曜版・be 2005-10-23 )
 「星の王子様」の新訳がたくさんが出たので、それに乗じての記事だろうが、当該の出版社の言い分ばかりを掲載している。そのせいで、ただの宣伝に成り下がってしまっている。
 ここには、批評的な見解がない。そして、文芸の専門家の批評的な見解があれば、次のことがわかるはずだ。
 「現代的な新訳、という名分で、次々と新訳が出ているが、玉石混淆である。良いものばかりでなくて、悪いものがたくさんある。特に、もともと『名訳』とされている訳がある場合には、新訳は、改善されるどころか、改悪されている」
 具体的に言えば、「名訳」の誉れ高い内藤濯の「星の王子様」に比べると、新訳は、どれも「今一歩」であるようだ。直訳っぽすぎて、無味乾燥ふう。ま、それでも、一流の作家などが訳した場合には、「悪訳」にはなっていないが。
 一方、ひどい「悪訳」もある。新潮社の新訳「嵐が丘」だ。もともとあった薬は、とても良い役立ったのに、新訳は「現代風」というふれこみで、ひどい悪文になっている。読んでも頭に入らないような、ひどい低レベルの翻訳だ。
 ま、新しい翻訳が出ることは、それ自体では、特に悪くはない。しかし、その大小として、古い名訳を絶版にしてしまうのでは、「文化の破壊」に相当するので、ほとんど犯罪的な行為だ。タリバンがアフガンの仏像を破壊したように、新潮社は名訳を絶版して翻訳文化を破壊する。
 こういう見解があるのだから、こういう見解を報道するべきだ。なのに、朝日と来たら、「新訳は現代的ですばらしいですよ」という出版社の一方的な見解を掲載するだけだ。ここでは、多面的な見方が欠落している。すなわち、報道ではなく、ただの宣伝となっている。出版社の提灯持ち。
( → 7月27日 嵐が丘の絶版 )


● ニュースと感想  (10月27日)

 「天皇の皇位継承順位」について。
 天皇の皇位継承が話題になっている。「女系天皇でもいい」という方針が出るらしい。(朝刊・各紙 2005-10-26 )
 ま、「男系が絶えたときには女系でもいい」というのは、常識的だろう。問題は、男系がいるときだ。ここでは、皇位継承順位が問題となる。
 「単純に(女子であろうと)長子から」
 「男子を優先」
 という二つの案があり、前者にほぼ決まりかけているようだ。とはいえ、これには批判もある。では、私はどう考えるか? 

 単純に「男女平等」ということを原則とするなら、「男女に関係なく長子から」となるだろう。しかし、それより先に、もっと優先すべきことがある。それは、「職業選択の自由」だ。
 天皇家の場合には、「職業選択の自由」は、通常は認められない。「天皇なんてやってられんよ」と思って、「スポーツ選手になりたい」「学者になりたい」「電車の運転手になりたい」と思っても、そういうわけには行かない。好き勝手に生きることは許されないのだ。責任感ゆえに。
 また、同じような仕事をするにしても、タレントならば年収1億円以上になりそうだが、天皇の場合は上級サラリーマン程度の所得しか得られない。サラリーマンから見れば羨ましいだろうが、タレントとしてみれば人気の割にはごくごく薄給である。オマケに、休みも、自由に取れない。
 天皇という職業は、しんどい割には、報われない。としたら、まともな人間なら、こんな職業は放棄したがるだろう。私が同じ立場だったら、(許されるなら)ぜひとも辞退したいですね。

 現実には、責任感がある限り、辞退は許されない。おのれの希望を殺して、おのれの人生を捨てて、国家に奉仕する必要がある。そして、そのような義務を課されるのは、女性でなくて男性であるべきだ、と私は思う。国家の奴隷となって奉仕するべきは、女性でなくて男性であるべきだ、と私は思う。……これは、女性差別ではなく、男尊女卑でもなく、逆である。「男子としての義務感」だ。いわば、「戦争に出て命を賭けるのは男子だけで十分だ」というのと同じだ。
 男は命を賭けて戦い、女や子供を守る。同様に、人生を捧げて国家に奉仕するのは、女でなくて男のなすべきことだろう。
 何でもかんでも「男女平等」を貫けばいい、というものではない。戦地に出向くのが男子だけでいいように、国家のために自己犠牲するのも男子だけでいい。

 ただし、である。だからといって、女性がそうしたいと思うのを、妨げることもない。「国のために命を賭けたい」と思う女性自衛官がいてもいいし、「国のために人生を捧げたい」と思う女性天皇がいてもいい。
 とすれば、男子か女子かは、本人に任せるべきだ。── これが私の提案だ。
 具体的に言えば、天皇の皇位継承順位は、国が定める必要はない。本人が決めればよい。つまり、姉と弟が、たがいに相談して、どちらがふさわしいかを、自分たち二人で決めればよい。
 そして、二人の意見が対立した場合には、親である現天皇が決めればよい。「次の天皇はこの子にする」というふうに。なぜなら、親こそが、わが子の資質を最もよく理解しているからだ。そして、それについては、他人が口を挟むべきではない。どちらに決めたにせよ、現天皇の方針を支持すればよい。(あるいは、姉と弟の決断を支持すればよい。)
 結局、職業選択については、他人が口を挟むべきではない、というのが、私の判断である。
 なお、そうしなかった場合には、「不適切な状況」が成立する可能性がある。次のように。
 「姉は、自分ではやりたくないし、苦手だ。弟は、自分ではやりたいし、得意だ。にもかかわらず、制度でそうなっているので、制度に従って女系天皇となる。硬直的な規則があるせいで、規則を守ることばかりが優先され、最適の選択ができない。」
 これだと、本人たち二人にとっても、国民にとっても、不幸である。それで幸福なのは、頭を悩ませないで済む政府担当者だけだ。全員を不幸にして、政府担当者だけが幸福になるわけ。

 [ 付記 ]
 王と天皇との違いに注意しよう。双方を混同して、「天皇は王様のようにすばらしい身分だ」と勘違いしている人が多いが、とんでもない。
 王は、国民の上に立ち、何でもかんでも自由にできる。贅沢でも何でもやり放題だ。
 天皇は、形式的には国民の上にいるが、実質的には国民の下にいる奉仕者である。何をするにも、ほとんど自由はない。贅沢らしい贅沢もできない。何をするにも、国民の目がある。もちろん、浮気したり愛人を作ったり、なんてとんでもない。パチンコ屋に入ることすらできない。居酒屋も無理だし、本屋でぶらつくこともできない。いつでもどこでも、SPが付き添うので、煩わしいこと、この上ない。監視された囚人のようなものである。いっそのこと、「国民の奴隷」と表現した方がいい。
 現代の日本では、「生まれながらにして奴隷」という人間はいないが、ただ一つ、天皇家だけは例外的に、「生まれながらにして奴隷」となり、あらゆる自由を奪われているのだ。そこそこの金と引き替えに。
 オマケに、ケチな国民からは、さんざんイヤミを言われる。「紀宮の結婚支度金が1億5千万円」と報道されると、すぐに「削減せよ」という声が湧く。で、そうなったら、紀宮はスーパーのレジのパートでもやって生計を稼げばいいんでしょうかね。それでいて、公的な行事には、あれこれと出席せざるを得ないハメになる。出費ばかりがかさんで、国庫の補助はない。スーパーのレジのパートでもやって生計を稼がないと、飢え死にするハメになるかも。
 で、わがままな国民に文句を言われても、「やってられんよ」とぼやくこともせずに、着実に責務を果たす責任感が、皇族には必要だ。……こういう責任感がない皇族がいると、とんでもないことになる。英国の皇太子は、品位を落とすハチャメチャなことをやって、大いに国民の不興を買った。日本の皇族がそうでないことに、私は大いに感謝を捧げたい。
 例えば、次の仕事には、大いに謝辞を捧げる。
  → 皇后陛下の講演
 ( ※ 無償の活動です。皇后陛下は講演で1円ももらっていません。著作物に対して著作権料を受け取ってもいません。)
 ( ※ 「だったらアフィリエイトで儲ければいいのに」なんて思う人もいるかもしれないが、そういう人が皇族にならないで、ホントに良かった。)


● ニュースと感想  (10月28日)

 「日本シリーズ」について。
 ロッテが優勝した。ロッテにケチを付ける気はないが、野球界にケチを付ける気はある。今回、ロッテと阪神の戦いぶりを見ていると、次のように結論できそうだ。
 「ロッテと戦った阪神は、ロッテと戦った楽天よりも、弱い」
 何しろ、「10対1」のようなスコアが3戦目まで続いた。楽天よりもひどい負けっぷりだ。ここから得られる結論は、次の二つのいずれか。
  ・ 楽天は阪神よりも強い。(楽天はセリーグに入れば優勝。)
  ・ 日本シリーズなんて無意味。(セのチームはハンディ)
 
 私の見解はもちろん後者だ。プロ野球は馬鹿げたことをやっている。見放されるだけ。
 対等の条件で「真の日本シリーズ」をやった方がいい。つまり、リーグ戦終了直後に、阪神とホークスでやる。それをやらないんだったら、馬鹿げているから、テレビを見る人は、チャンネルを変えるのが最善でしょう。

 結語。
 「興行の面白さを狙って、金儲けばかりに勤しんで、プレーオフなんていう制度を導入すると、日本シリーズだけなら人気が出るが、プロ野球全体が下らないものになって、見放される。」
 目先のハシタ金を狙って、全体の金を失う。……で、たとえば、原巨人には、人気がまったくない。( → zakzak
 野球そのものが見放されてきているからだろう。

 [ 補説 ]
 「部分の利益をめざすだけで、全体の利益を見失う」という構図。マクロ無視と同様である。よくある錯覚。
 ともあれ、はっきり言えるのは、こうだ。
 「こんなスコアが続くようでは、試合にならん。というか、試合になってない。こんなもん見せて、ファンから金を取るな。テレビで放送するな。ファンを馬鹿にしている」
 交流戦のときのロッテ阪神戦ならば、白熱した試合だったので、とても良かったようだ。これなら、金を取る価値がある。( → 試合結果
 パリーグのプレーオフは、パリーグにとっては興行的に有益だったが、プロ野球全体にとってはマイナスだったのだ。野球が見捨てられるかも。特に、阪神ファンが野球から離れたら、野球界は壊滅する。(村上ファンドがやらなくても、野球界が自滅する。)

 [ 参考 ]
 昨年の日本シリーズは、10月16日から10月25日まで。西武4勝、中日3勝。
 これに比べると、今の阪神は「なまっている」のである。動物園で飼われていた虎のようなものである。休んでしまったせいで、闘争心を失っている。体もたるんでいる。(回復したのは、4戦目の6イニングになってから、のようだ。)
 阪神はどうも、報道によると、リーグ優勝決定後は、「シーズン中の疲れを取ること」に専念していたようだ。つまり、今年の日本シリーズのことなんかまるきり考えないで、来年のための対策をしていた、ということ。日本シリーズのことは、最初から無視しているわけ。
 ま、それが賢明かも。阪神はロートル選手が多いから、休んで体の手入れをした方が利口ですね。
 ついでに言うと、昨年、最後まで働きずくめだった西武は、今年はちっともさえなかった。ひょっとして、ロッテも来年はそう? 


● ニュースと感想  (10月29日)

 「新聞の回収」について。
 新聞の購読率が低下している。「インターネットの記事を読んで済ませる人が多いからだ」という説もあり、ある程度は納得できる。ただ、もう一つ、別の要因もある。
 先日、古新聞をリサイクル場所にまで運ぶ際、重たくて、一苦労した。あまりにも重たくて面倒なので、頭に来た。「こんなことなら、新聞の購読をやめてやる!」という気になった。
 ま、これは、怒りのあまりの発想だが、実際、女性などでは、こんなに重たいものを運ぶことは困難だから、否応なしに、新聞の購読をやめるしかないだろう。……というわけで、「新聞の購読率の低下」の理由は、こんなところにもありそうだ。
 では、なぜ、こうなったか? その理由は、こうだ。
 「古紙回収業者がいなくなったから」
 以前は、古紙回収業者が、各戸を訪問して、古紙を回収してくれた。人々は朝、自分の家の玄関先に、古新聞の束を出しておくだけでいい。すると昼間、各戸を純に訪問した業者が、古新聞を回収して、トイレットペーパーに置き換えてくれる。
 ところが現在は、古紙回収業者がいなくなった。というのは、自治体が、古紙回収業者を敵視して、絶滅に追い込んだからだ。というのも、自治体が、古紙回収による半端な金を、自治体の歳入にしたがるからだ。
 まとめると、こうだ。

 以前なら。
 各戸は …… 手間がかからず、トイレットペーパーをもらう。
 業者は …… 古紙回収業で生計が立つ。
 自治体は …… 古紙回収のために予算(支出)を必要としない。

 現在なら。
 各戸は …… 手間がかかり、トイレットペーパーをもらえない。
 業者は …… 古紙回収業で生計が立たずに失業する。
 自治体は …… 古紙回収のために予算(支出)を必要とする。
         ただし、赤字の一部を、古紙回収で補填する。

 全体としては、大幅な損失である。そして、その理由は、低コストの業者から、高コストの公務員(?)へと、担当者が交替したことで、古紙回収の業務効率が低下したからだ。
 で、ついでに、巻き添えを食って、新聞の購読率が低下するわけだ。
 
 かくて、「新聞の購読をやめました」という単身世帯は、どんどん増えている。従来の人々がずっと購読しているようだが、彼らも高齢になれば、古新聞をリサイクル置き場に運べなくなるので、否応なしに、新聞の購読をやめざるを得ない。さもなくば、古新聞の山のなかに埋もれて死んでしまうだろう。

 結語。
 新聞社は、自社の経営基盤を揺るがすような自治体の「古紙リサイクル」に、もうちょっと着目した方がいい。村上ファンドやTBSなんかに目を奪われていると、エゴイスティックな自治体のせいで、新聞社の存在基盤を脅かされる。官製のリサイクル運動が進めば進むほど、新聞社は倒産しかねないのだ。

 [ 付記 ]
 「 Yahoo がニュースに乗り出した」という報道もあった。ネット関係の会社が自社でニュースを集めるようになれば、紙の新聞社は消滅しかねない。もうちょっと、危機感を持ってほしいですね。倒産しかかってから騒いでも遅いのだ。


● ニュースと感想  (10月30日)

 「自衛隊と徴兵制」について。
 自民党の憲法改正の草案が出た。(各紙・朝刊 2005-10-29 )
 「ふーん」なんて思って他人事だと思っている人が多いだろうが、さにあらず。これは「徴兵制の復活」として、あなたの身に降りかかってくる可能性がある。今回の草案を見る限り、「法律で定めるところにより」という条文で細部が決まるから、「徴兵制復活」という法律が出る可能性もある。何しろ、自民党は、国会で圧倒的多数を握っているのだから、そのくらいはできる。
 「ふーん」なんて思っていると、そのうち赤紙が来るだろう。(先の選挙で詐欺師に投票した報い。)

 それでも、「自衛のためなら仕方ない」と思うかもしれないが、さにあらず。今回の草案では、「集団自衛権」も正当視される。ここで言う「集団自衛権」というのは、「米国にとっての自衛活動の協力」を意味する。しかも、「米国にとっての自衛活動」とは、「米国本土を守ること」ではなくて、「イラクなどを不当に(虚偽の理由で)攻撃した場合の自衛活動」である。つまり、「勝手に他国を侵略した米国軍を守ること」である。
 こんな理屈が成立するなら、あらゆる侵略活動は正当化される。たとえば、日本が中国を侵略した場合、中国は自衛活動をして、日本軍を攻撃する。そこで、「侵略した日本軍の自衛活動」という名目で、中国人を殺していくわけだ。
 つまりは、自民党(および前原)の言う「集団的自衛権」とは、ただの「(米国の)侵略権の擁護」のことにすぎない。だまされないように注意しよう。( → 10月13日b

 それでも、「正義の米国を守るためなら仕方ない」と思うかもしれない。犬はご主人様を信じて守りたがるからだ。しかし、さにあらず。イラク戦争を見ても、対テロ戦争を見ても、そこには正義などはない。むしろ、逆に、憎しみを駆り立てて、相手の攻撃をいっそう招くだけだ。たとえば、イスラエルは、パレスチナを弾圧することで平和をもたらそうとするが、逆に、弾圧された側の攻撃を招くだけだ。他の場所での対イスラム攻撃も同様だ。イラクを弾圧しても、アフガンを弾圧しても、問題は解決するどころか、いっそうひどくなるばかりだ。

 ここで、根源的に考えよう。
 自衛隊とは何か? 国民を守るためのものか? 本来なら、そうなるはずだった。そしてまた、米国軍は、日本人を守るために、日本に駐留しているはずだった。
 ところが現実には、米国があちこちを攻撃するせいで、米国軍が攻撃にさらされる。その米国軍を、「集団的自衛権」や「国際協力」などの名目で自衛隊が守るので、自衛隊を派遣する日本までもテロの標的となる。
 要するに、「日本人をテロから守るのが自衛隊」なのではなくて、「侵略する米軍に協力することで標的となった自衛隊の巻き添えを食うのが日本人」なのである。「日本人のために自衛隊が存在する」のではなく、「自衛隊のために日本人が存在する」というふうになっている。本末転倒。
 そして、それを推進するための方法が、今回の「憲法改正草案」であり、将来の「徴兵復活」だ。
 人々は今、「自分を守ってくれる米国にも協力しなくちゃ」と信じて、自民党の言うことを聞こうとする。しかし本当は、「悪の米国を守るために命を捧げる」というふうになるだけだ。だまされ、たぶらかされるわけだ。
 そして、そのあげく、徴兵されて、爆弾や銃弾に当たるのである。そして、死ぬ直前に、「詐欺師首相の言うことを信じなければ良かった」と思うが、そのときにはもう、手遅れだ。

 [ 余談 ]
 徴兵制を免れる方法は、一つだけある。選挙に立候補して、国会議員になることだ。国会議員だけは、わが身の保身のため、ちゃんと徴兵制を免れる。そういうふうになっているのである。


● ニュースと感想  (10月31日)

 「過去の戦争の例」について。
 自衛隊や安全保障の問題というと、「将来の戦争」のことばかりを想定するが、むしろ、「過去の戦争」を振り返ってみた方がいい。過去には、どうだったか? 
 最も近い例では、イラク戦争がある。ここでは、次の過程をたどった。
  1. ビンラディンがNYビル攻撃をした。
  2. ブッシュは頭に来て、ビンラディンを拘束しようとした。しかし、できず。
  3. とりあえず怪しい場所としてアフガン制圧をしたが、それでもビンラディンを拘束できず。
  4. アフガンのビンラディンが無理なら、イラクのフセインを、と対象を切り替えた。八つ当たり気味。フセインがNYテロを実行したわけではないのだが、どういうわけか「テロ対策」を名分にしたり、「大量破壊兵器」という虚偽をこさえたりして、戦争に踏み切る。
  5. 日本(小泉)は、ブッシュの嘘をまるまる信じて、「大量破壊兵器」という虚偽に従って、戦争を支持する。その後、イラクに自衛隊を派遣する。
  6. お馬鹿な日本のマスコミも、ブッシュの嘘を信じて、踊らされる。
  7. ブッシュがイラクを制圧。フセインを逮捕。「勝利」と叫ぶ。
  8. しかし「大量破壊兵器」はどこにも見つからない。
  9. 小泉も、日本のマスコミも、かつて「大量兵器があるから米国は正しい。米国は正しいから、日本は自衛隊を派遣する」と言ったことを、忘れたフリをする。健忘症か。
  10. 2005年10月末、NYタイムズの記者の逮捕事件にちなんで、米国の首脳の嘘が白日の下にさらされる。すなわち、「大量破壊兵器の存在」というのが、ブッシュ政権(の側近)が意図的にリークした嘘であった、と。
 要するに、「米国政府が意図的に大嘘をついて戦争を始めて、それを、馬鹿な日本政府や日本のマスコミが信じた」という図式だ。
 ま、これだけなら、「だまされた」と言うことで片付くかもしれない。しかし、「だまされた」ということ(米国政府が大嘘つきであったこと)について自覚せず、何も反省せず、「米国の攻撃に賛成しよう。集団的自衛権万歳」なんて叫んでいるようでは、馬鹿の上塗りだ。
 一度だまされるのは、トンマ。二度だまされるのは、低脳。だまされたことに気づかないで、無限にだまされたがるのは、白痴。
 そこで、「馬鹿は死ななきゃ治らない」という言葉に従って、自殺したがるのが、日本国民だ。レミング並みの頭しかない。

( ※ 「レミングの集団自殺」は、逸話だが、科学的には、これは正しくない。実は、この逸話もまた、大嘘である。)

 [ 付記 ]
 読売新聞などは、自民党の改憲の方針に賛成しているが、かつて自分が「イラクには大量兵器があるから、野蛮なフセインを攻撃する米国を支持する」と唱えたことを、すっかり忘れている。悪魔にだまされて、悪魔の片棒を担いだことを、けろりと忘れている。
 で、そういう過去の自分を忘れて、臆面もなく「米国は正しい」とまたしても虚偽を振りまくのが、無反省の(自らの過ちを反省しない)厚顔無恥の連中だ。これほど健忘症でいられるのは、よほど面の皮が厚いか、よほど知能指数が低いか、どちらかだろう。……あるいは、二年前のことも忘れてしまうほどで、痴呆症状が出ているのかもしれない。ま、社主が社主なら、年齢からして、それもやむを得ないが。
 とはいえ、小泉や前原も、早くも痴呆症状が出たのだろうか。比較的若いのに、お気の毒です。


● ニュースと感想  (10月31日b)

 「植民地根性」について。
 「自衛、自衛」と言う前に、「自立」を考えた方がいいだろう。というのは、保守派が「自衛、自衛」と言うとき、彼らは、「自分の力で守る」のではなくて、「アメリカに守ってもらおう」ということばかり考えているからだ。アメリカに「おんぶでだっこ」で、「自立」もできないくせに、大人のフリをして、「自衛」と口に出す。ひどいトンチンカンだ。

 そもそも、米国というのは、理想の国家でもないし、正義の国家でもない。古臭い宗教国家である。最近の最高裁判事の問題を見ても、進化論論争を見ても、やたらと古臭い宗教が政治に介入する。(日本も他国のことを言える立場にはないが。小泉という首相が古臭い宗教心で、靖国神社に参拝して、しきりに、政教一体化を図ろうとする。口ではゴマ化すが。)また、米国は、核不拡散でも、地球温暖化でも、国連の強化でも、イスラエル批判でも、やたらと世界のなかで一国だけ異を立てる。「五対五」ならば賛否両論だが、「一対他(他の全部)」の形で、孤立する。……こんな国が、正義であるわけではないし、民主的であるわけでもない。
 具体的な例で言えば、米国は日本の真珠湾攻撃を「宣戦布告がなかった」と非難するが、米国自身、ベトナムでもイラクでもアフガンでも、さらには中南米のあちこちでも、一度も宣戦布告なしに、攻撃を開始した。
 で、こういう米国を「すばらしい民主国家」と妄信している白痴が、小泉や前原だ。「カムカム・エブリバディ」なんていう英語を学ぶことで洗脳されてしまったようだ。こういうのを「植民地根性」という。
 とにかく、「自衛」を口にする前に、まず「自立」をするべきだ。「自立」もできないようでは、まったく情けない。その植民地根性を、たたき直すべし。

 [ 付記1 ]
 ま、今の若い人も、日本語と英語をチャンポンにした白痴的な歌謡曲を歌っているい。これも同様だろう。
 なお、英語の歌を歌うことは悪くない。しかし英語と日本語のチャンポンで歌うのは、ソースと醤油をチャンポンにするのと同じで、狂気的である。……元はと言えば、植民地根性の結果だが。

 [ 付記2 ]
 「植民地根性を捨てて自立する方法は?」という方法論(防衛論)については、翌日分で。


● ニュースと感想  (11月01日)

 「あるべき軍隊像」について。
 前日分では、憲法改正の草案について、問題点を指摘した。ただし、これは、社会党などの「軍備放棄」を主張するものではない。むしろ、逆である。
 そもそも、自衛隊は、何のためにあるか? もちろん、自衛のためだ。外国に出掛けた米国軍を守るためではなく、日本国民を守るためだ。ところが、現実には、このことがまったく忘れられている。
 自衛のことを本気で考えるのであれば、「集団的自衛権」などはむしろ忘れるか捨てた方がいい。かわりに、「自衛」の本質を考えた方がいい。
 「自衛」の本質は、何か? 現状では、政府見解により、こう見なされている。
 「攻撃能力をもたず、敵の攻撃を阻止する能力」
 つまり、槍に対する盾である。しかし、軍備常識では、こんな発想はまったく無意味だ。なぜなら、「攻撃は最大の防御なり」だからだ。ゆえに、上記の政府見解は、まったくの無意味な解釈だ。
 そこで、私は、次の解釈を示したい。
 「防御力には、攻撃力を含める」
 「その攻撃力は、敵の軍事力のみを攻撃することを意味し、敵の民間施設や民間人を攻撃することを意味しない」
 「攻撃力を発揮するときは、必ず、敵の先制攻撃を受けたあとにする。こちらから先制攻撃をしない」

 以上の三点を厳守する限り、「攻撃力」があってもいい、と考える。具体的には、ステルスだ。攻撃対象は、テポドンの軍事基地などだが、広義では、発電所も軍事施設に含める。(なお、ステルスは民間施設への無差別大量爆撃能力はもたない。)
 
 一方、アメリカの戦略は、正反対である。
 「防御のためではなく、自分から一方的に攻撃する」
 「その攻撃には、相手の民間人への攻撃や虐殺を含める」
 「相手から攻撃を受けないうちに、自分の側から先制攻撃をしてもいい」

 以上の三点は、イラクで実証済みだ。通常、これは「侵略」と呼ばれる行為だ。そして、そういう非道な侵略をする米国軍に協力する行為を、「集団的自衛権」と呼ぶ。── 今回の憲法改正の狙いは、それだ。そして、そのために、あなたもまた、徴兵されかねないのだ。

 結語。
 真に「自衛のため」であれば、軍隊があってもいいだろう。しかし現在の状況では、「自衛のため」という虚偽の名称のもとで、米国による侵略に加担するだけだ。虚偽の政治的詐欺。そうやってだまして、国民の命を危険にさらそうとするのが、小泉と前原の仲間だ。日本は第二次大戦前と、同じ状況にある。軍事狂による国家の軍事化。……そして、彼らにその権力を与えたのは、だまされた国民たちだ。

 [ 付記1 ]
 本項の立場は、「集団的自衛権」と、関連する。
 「集団的自衛権」の意味は、「外国に出た米国部隊を守ること」ではなく、「攻撃された米国本土を守ること」である。( → 10月13日b
 そして、その立場からは、「米国本土が攻撃された場合には、日本軍が侵略者の基地を叩く」ということが許されるはずだ。たとえば、北朝鮮が米国本土を攻撃し場合には、テポドンの基地をステルスで叩く。……こう言うのを「集団的自衛権」と呼ぶ。
 一方、「イラクを侵略した米国軍に給油する」なんてのは、「集団的自衛権」ではなく、ただの「侵略の幇助」であるにすぎない。この場合、日本がテロで攻撃をされても、仕方あるまい。こちらが侵略軍に加われば、敵視されるのは当然である。「ぶん殴れば、ぶん殴られる」というのが、世の常である。
 なお、「僕は手を出さなかったよ。兄貴が女子供をぶん殴るのを、そばで手助けしたけど、僕自身は手を出さなかったよ」なんて言い訳しても、そんな言い訳は誰も聞いてくれない。法律用語で言えば「共犯」だ。

 [ 付記2 ]
 本項で唱えていることの基本は、前項からわかるとおり、「植民地根性を捨てること」である。
 ここでは、「自立」という形の「防衛力」を提唱しているが、これは別に、「国粋主義」とは違う。「米国から独立して、日本だけで暴走して、他国を侵略してしまえ」という意味ではない。では、何か? 
 単純に言えば、「世界標準」の発想を取れ、というだけだ。つまりは、欧州の普通の民主主義の国家と同様に、米国の傘下(手下)ではない「自国の軍備をもとう」ということだ。フランス並みになれ、ということだ。
 より基本的に言えば、軍隊や武器が異なるわけではない。精神が異なる。「米国に守ってもらおう。だから、米国の犬になって、ご主人様のためにワンと吠えよう」という飼い犬精神を捨てて、「自分の頭で判断しよう」ということだ。……それがつまりは、「植民地根性を捨てること」である。
 ただし、こういう当り前のことを主張すると、たちまち、「危険な思想だ」と見なされる。保守派からは「反米主義」と見なされ、左翼からは「軍国主義」と見なされる。……政治的な「トンデモ」か。
 まともなことを主張すれば、たちまち「トンデモ」という言葉で呼ぶのが、この国の人々だ。だから、「とんで、とんで、とんで、とんで」なんていう歌が流行ったこともあるのかも。頭が「まわって、まわって、まわって、クルクルパー」だ。


● ニュースと感想  (11月02日)

 「サイボーグ番組」について。
 ロボットばかりでなくサイボーグを研究するべし、というのが私の主張だった。
 これに関連する話だが、NHKで「最近のサイボーグ技術」という特集を、11月05日に放送するという。
 記事は、読売・夕刊・特集面 2005-11-01。
 ネット上の案内による番組解説では、こうだ。
NHKスペシャル「立花隆・最前線報告”サイボーグ”が人類を変える」
       11月05日  21:00-22:15(75分) NHK総合   (8486124)
解説: 体の一部を機械に置き換え、脳が機械と直接つながったサイボーグ。小説の世界の話と思われていたサイボーグが今、現実のものになろうとしている。脳研究を中心に科学の最前線を取材してきた立花隆さんとともに、サイボーグの開発技術を世界各地で取材。サイボーグは人類に光をもたらす技術なのか、あるいは悪魔の人体改造か。最先端の現場から報告する。
 もっと詳しい情報は
  → NHKの番組紹介
  → 立花隆の報告

 [ 参考付記 ]
 私の書いた過去のサイボーグ関連の話。
( → 5月31日7月29日9月26日  ロボットよりもサイボーグ )
( → 11月23日
( → 3月08日 ロボット様による侵略 )
( → 3月28日 サイボーグ技術 )
( → 5月31日

 [ 付記 ]
 私の感想を言えば、こうだ。
 IT企業は、ホンダのアシモが目立ったとなると、たいていの会社がアシモの真似をする。トヨタであれ、ソニーであれ、アシモの物真似である。恥ずかしくないんですかね。ロボットなら、恐竜型であれ、ムカデ形であれ、蛇形であれ、ケンタウルス型であれ、多様なロボットがあるが、多くの企業はホンダの物真似だ。あるいは、ちょっとだけ顔を変えたぐらいにすぎない。
 で、新聞社(朝日・読売など)は、日本のIT企業の自己宣伝を丸写しする形で、ロボット技術ばかりを書くので、報道の名に値しない。広告をやっているだけだ。「当社はこんなにすばらしい製品開発をしているんですよ」という宣伝だけ。
 一方、NHKは、私の指摘にしたがった感じで、サイボーグ研究をするので、報道機関として立派である。
 なお、余談で言うと、冒頭の読売の新聞記事は、NHKの広報(上記のリンク)の丸写しであるようだ。


● ニュースと感想  (11月03日)

 「ロボット兵器」について。
 「ロボットが進歩してすばらしい」という趣旨の記事がマスコミをにぎわせているが、そういう単細胞的な発想とは別に、現実には「ロボット兵器」という恐ろしいものが開発されている。オタクのSFふうのガンダムみたいな話だけでなく、現実にロボット兵器が登場しつつあるのだ。形状は、人間ふうのヒューマノイドではなくて、もっと兵器らしい形の兵器が多い。まずは、「無人飛行機」や「無人車両」の形で、米軍が研究しているが、そのうち、人間ふうの形のものや、手足が十本ぐらいある大化けタイプや、ゴジラふうのもの(ロボ・ゴジラ or メカ・ゴジラ)ふうのものも、登場するだろう。それらに共通する点は、「殺人ロボット」という点だ。
 その問題は、どこか? ロボットはどんどん進歩するが、人間の倫理はちっとも進歩しない、ということだ。ロボット兵器を開発する米軍は、どんどん高度な武器を開発するが、倫理の方は相も変わらず、「自衛の名目(嘘)で、他国人を虐殺する」ということだけだ。(前出)

 ま、文句を言っても、米軍がロボット兵器を開発するのをやめることはあるまい。そこで、私としては、一つの倫理基準を提出したい。それは、ロボット三原則に基づいて、次のことだ。
 「ロボット兵器は、他の兵器への攻撃は許されるが、人間への攻撃は許されない」
 これは「人間に危害を加えない」というロボット三原則にかなう。
 さて。この倫理基準に照らすと、次のように例示できる。

 <許可>
  ・ 相手の基地への攻撃
  ・ 相手の兵器(自国の領域外)への攻撃
 これらの場合、基地や兵器を操作する兵士(人間)も、巻き添えになるかもしれないが、それはやむを得ない。
 (※ 別に、正しいことだとは思わないが、かろうじて許されるとすれば、このくらいだろう。これさえも禁じると、ロボット兵器そのものが不許可となる。)

 <不許可>
  ・ 相手の市民への攻撃。
  ・ 都市攻撃。大規模爆撃。
  ・ 兵士やテロリストの巻き添えの形で一般市民の生命を奪うこと。
 ( ※ これらはもちろん、不許可である。ただし、米軍は、これらを許容している。そこで、これを「不許可」と見なすのが、本項の意義だ。)

 さて。以上のように「許可」「不許可」を区別することの意義は、何か? 
 それは、「結果によって区別する」ということだ。目的がどんなどんな目的であろうと、上記の「不許可」に該当するものは許容されない。

 一方、アメリカの主張は、「目的が手段を正当化する」という発想だ。次のように。
  ・ 正当な目的のためであれば、一般市民を虐殺する核兵器を許容する。(広島)
  ・ テロ撲滅のためであれば、他国の民間人を殺すことを許容する。(イラク)

 かくて、「結果」による区別と、「目的」による区別とが、対立する。本項では、前者を主張し、後者を否定する。……そういう形で、「戦争」の価値判断の理論を提出しているわけだ。
 なお、小泉や前原も、米軍と同じ発想を取っている。それは、こうだ。
 「対米追従が、国益のためになる。国益のためになるならば、どんなに非倫理的なことも、やむをえない。善悪の価値判断を捨てて、損得だけを考えて、米軍の言うことにはすべて従おう」
 これは「金のためには悪魔にも魂を売り渡す」という発想だ。

 [ 付記 ]
 もう少し、現実の例を挙げると:
  ・ 東京大空襲 …… 一般市民を虐殺するので不許可。
  ・ ベトナムでのナパーム弾攻撃 …… 同じく、不許可
  ・ ステルスによるピンポイントの攻撃(軍事施設破壊) …… 許可

 なお、一般に、ステルスが行なうのは、軍事施設破壊のピンポイントの攻撃だけである。なぜなら、ピンポイントの攻撃は非常にコストが高くつくからだ。また、テポドンなどのミサイルは、ピンポイントでないにもかかわらず、非常の効果である。
 一方、普通爆弾による大量爆撃は、ずっと安価である。そして、この場合には、一般市民が犠牲になる。例。東京大空襲やベトナム空爆。
 
 [ 参考 ]
 現実に開発されているロボット兵器は
  → 殺傷能力を備えた軍用ロボット車両、イラクに配備へ


● ニュースと感想  (11月04日)

 「戦争の現実」について。
 戦争というと、ハイテク兵器やロボット兵器で映画のように派手な戦闘があると思われている。しかし、戦争の現実は、戦闘場面だけではない。その前後の「戦闘前」および「戦闘後」の時期がある。
 では、その時期の意味は? それは「死と隣り合わせの日常」だ。それはきわめて人間的なものだ。今は生きているが、明日には死ぬかもしれない。昨日は生きていた友人が、今日は死体となっている。それは明日の自分かもしれない。そしてまた、かろうじて生き延びたときには、生きているということだけで喜ぶ。

 それが戦争の現実だ。その現実をうまく描写した画像集がある。
  → Until Then (フラッシュ・ムービー)
  ( ※ サイズはかなりデカい。ダウンロードにはけっこう時間がかかる。)

 兵士は相手国の子供に共感することもある。それは決して憎むべき敵ではなくて、ただの普通の人間だ。戦地に出向いた人間は、人間の生命の重要性をよく理解する。自分の命を賭けたものだけが、命の大切さを身にしみて理解する。
 自分の命を賭けずにいる臆病者だけが、「集団的自衛権」という名称で、やたらと戦争をしたがる。最も戦争をしたがるのは、自分では戦う勇気のない臆病者だ。……その典型が、ブッシュである。徴兵逃れをした卑怯者が、イラク戦争をやりだす。自分はホワイトハウスに引きこもって。
 小泉は? それほど臆病ではあるまい。自分で戦う気はあるかもしれない。だから、自衛隊を派遣しても、給水ぐらいしかさせなかったのだろう。その点では、私は小泉を評価してもいい。
 前原は? 部隊を派遣したがらないようだが、基本的には軍備オタクであり、武器を使いたがっているようだ。SLファンであるせいですかね。SLをいじるつもりで、兵士の生命をいじりたがるのだろう。(仮にそうでないとしたら、何もしないつもりで「集団的自衛権」と口に出しているわけだから、とんでもない嘘つきだ。)
 ま、前原が首相になったら、徴兵制が実施されて、あなたもまた、上の画像の苦しむ兵士のうちの一人のようになる。あれは、あなたの姿だ。


● ニュースと感想  (11月05日)

 「ネパールの現況」について。
 ネパールの状況がかなり混迷しているようだ。王の独裁政権と、反政府共産勢力とで、対立している。武装対立もあるが、下手をすると、ひどい内戦になりかねない。戦争の芽がここにもある。(朝日・朝刊・国際面 2005-11-04 )

 ネパールのここ5年ほどの状況については、次に簡単なまとめがある。
  → ウィキペディア
 これを見ると、まるで「現代のハムレット」みたいだ。(弟王による、兄王の殺害。)
 ここでは、現国王は、クーデターをなして、王位についた。兄国王および他の王族をすべて虐殺して、事件を隠蔽し、嘘の事件(他人が虐殺した)を捏造した。
 これが捏造だということは、次のことからわかる。
 さて。ここで肝心なのは、事件の背景である。なぜ、こんなことが起こったのか? そしてまた、なぜこんなことが見逃されたのか? 
 実は、背景には、アメリカによる協力がある。近年、この手のクーデターの背後には、たいていアメリカ(CIA)がいる。この事件でもそうだ。クーデター前の国王は、国民に人気があったが、親中派であった。これを快く思わないのが米国だ。そこで、王族のなかで親インド派の弟王の申し出(クーデターを起こしたい)に協力して、クーデターを成立させた。あまりにも手際がいいのは、CIAの協力があったからだろう。
 このことの傍証は、現実を見るとわかる。ネパールの王族による独裁は、アメリカに支持されている。(フセイン独裁との場合とは正反対だ。)
 なぜアメリカは、独裁政権を支持するか? これは、多くの中南米の独裁政権と同様だ。「反共」というただその一点ゆえに、アメリカに支持されるのである。このことは戦後一貫して続いてきたアメリカの国策だ。
 つまりは、ビンラディンと同様に、暴力と虐殺に協力する国家が、アメリカであるわけだ。ビンラディンと違うのは、次の点。
  ・ ビンラディン …… 国家に反逆して国家転覆を試みる。(テロ)
  ・  アメリカ   …… 国家の側から民衆を弾圧する。(独裁専制)

 問題。
 (1) 独裁者を苦しめる民衆と、民衆を苦しめる独裁者。どっちがより悪質か? 
 (2) アメリカは民主主義を支持する国家か? 
 (3) 日本はなぜアメリカを支持するか? 


● ニュースと感想  (11月05日b)

 「ネット暴力」について。
 インターネットのブログや掲示板の匿名性を利用して、誹謗中傷などのネット暴力が盛んになっている。始末の悪いことに、プロバイダが海外にあるせいで、法的な効力が及ばない、ということもあるらしい。「解決不可能だ」という見解を出す弁護士もいる。(読売・夕刊・社会面 2005-11-03 )
 そこで、私なりに、解決策を示そう。次のようにすればいいだろう。
 「誹謗中傷の削除」を、法的に単に命じるだけでなく、罰金を科する。つまり、「当局がプロバイダに対して、その項目の削除を命じ、それが実現できない場合には、プロバイダに罰金を科する」
 これを字義通りに解釈すれば、ただの「罰則」である。ただし、実質的には、次のことをもたらす。
 「プロバイダは、その罰金の費用を、サイト開設者に要求する。サイト開設者が罰金を支払わない場合には、サイトを丸ごと削除する」
 要するに、削除するのは、プロバイダではなくて、サイト開設者本人である。プロバイダは、サイト開設者に対して、「当局からの削除命令」を伝えるだけだ。そして、「サイト開設者がその削除命令に従わない場合には、プロバイダとしてもサイトの維持を拒否する」といふうにするわけだ。

 一般的に、法的命令敵というものは、「直接的な効力」ばかりを求めがちだ。しかし、現実には、金銭を通じた「間接的な効力」の方が、ずっと効果的であることが多い。たとえば、道路におけるスピード違反を減らすには、速度違反したその場その場で、毎度いちいち「速度を下げよ」と個別に命じるよりは、「スピード違反を摘発された人に罰金を科する( or 保険料を値上げする)」というふうにした法が、ずっと効果的である。
 同様のことは、ネット暴力にも当てはまる。一つ一つ個別に摘発して命令する、というのは、非常に非効率的なのである。


● ニュースと感想  (11月06日)

 「ダイヤルアップの利用者」について。
 ダイヤルアップの利用者は現在どのくらいか? ちょっと調べると、3月の全国データがある。(7月発表)
 総務省は7月11日,2005年3月末時点での通信サービスの契約数動向をまとめた「ブロードバンド契約数等の推移」を発表。
 FTTH,ADSL,CATV,FWAを合計したブロードバンド契約者数は1951万2415。ダイヤルアップ接続とブロードバンド接続を合計したインターネット接続サービスの契約数は,14万2011増の2968万9396。 ( → 該当記事
 つまり、だいたい3人に1人がダイヤルアップであるわけだ。
 なお、現在、ダイヤルアップで特に不便を感じていない人は、ダイヤルアップを継続することをお勧めする。コスト的にはADSLの方が安いかもしれないが、それでもダイヤルアップの方がいいと思う。その美点は、「不便さ」である。
 この件は、本日別項の「ネット中毒」を参照。

 [ 付記 ]
 電力ケーブルを使ったブロードバンドも実用間近。
  → 本格普及の兆しを見せ始めた電力線ブロードバンド


● ニュースと感想  (11月06日b)

 「ネット中毒」について。
 インターネットの常時接続が常識化しているせいで、ネット中毒の患者も増えているようだ。
 実際、常時接続の環境では、ついつい、ネットに接続しすぎてしまうものだ。ケチ根性のある人ほど(たとえば私)、「タダならもらおう」というふうに、余計な情報をいっぱい得てしまう。しかし、入手する情報量が多いことは、喜ばしいことではなくて、恥ずべきことなのである。なぜなら、ゴミ情報ばかりを得るからだ。
 ネットにある情報のほとんどはゴミ情報である。こんなものはなるべく遮断した方がいい。「常時接続でうまく自己を統制して、やたらとネットに接続しすぎません」ということができる人は、よほどの大人物である。普通の人はそんなに自己統制ができないものだ。
 私のこれまでの経験からして、ネットに接続するべき時間は、一日5分。長くて10分。それ以上の接続は、やればやるほど、人生の無駄。……ダイヤルアップをやめたことを、私は何度後悔したことだろう。同時に、おのれの弱さも反省することしきり。
 ネットは麻薬だ。

 [ 付記 ]
 この問題に対する解決法。
 「ブラウザやメーラーを、ランチャー or クイック起動に登録するのをやめる。一発で起動できる状態をやめる。つまり、ブラウザやメーラーを起動するのに、さんざん手間がかかるようにする。これだと、ボタン一発で起動、というのがなくなるから、やたらとネットに接続する中毒から、脱することができる」
 あとは本人の心がけしだいか。ものぐさな人ほど有効。(私のこと?)


● ニュースと感想  (11月07日)

 「ゲーム中毒」について。
 「ワンダと巨像」というゲームが話題になっているらしい。下記記事など。
  → 今年最高の作品? PS2用ゲーム『ワンダと巨像』レビュー
 ここに、プロモーションビデオみたいなのがあるので、ざっと閲覧してみた。その感想。

 ま、面白いといえば、面白い。やっている最中は、夢中になれそうだ。
 ただし、いかにも子供じみている。小学生ぐらいの頭の子供ならば、これで「面白かった」と喜んでいられるだろうが、まともな頭のある大人ならば、やり終えたあとで、「馬鹿らしかったな」と感じて、虚しくなるだろう。
 ま、パチンコとか何とか、その手のくだらない暇つぶしと同様である。やっている最中は夢中になれるが、やり終えたあとは虚しくなるだけだ。一般に、テレビゲームというものは、そういうものだ。

 これと比較すると、似ていても映画はまったく違う。自分は参加しないので、特に夢中になるわけではなく、単に物語世界に引き込まれるだけだ。のめりこむことはない。ただし、熱中度は低くても、見終えたあとには、感動や充実感が残ることがある。傑作ならば、「人生の真実に目を開かれた」という感動がある。年を取った音など、そういうことは少ないかもしれないが、若いころだと、映画に大きな感動を受けることもあるはずだ。たとえば、「第三の男」の最後のシーンなんか、とてもいい感動を与えられる。(ただし、最近の若い人は、テレビ画面で見るだけで、映画館の大画面で見ることは少ないだろうから、ちょっとかわいそうですね。あの最後のシーンは、大画面で見たときに、はっきりと感動が出る。ヒロインが映画の画面の外に去るとき、ヒロインが世界から去る感じがする。)

 別の芸術で言うと、文学や音楽だと、画像では表現できないような「魂の震え」を感じることがある。それは悲しみや喜びなんていう、誰にでもわかるような感情とは異なるものだ。ゲームで味わえる感動とはまったく別の次元のものだ。
 このような芸術的な感動というのは、漫画の世界でも、たまに見られることがある。たとえば、「火の鳥」とか「ガラスの仮面」にも、芸術的な感動がある。
 先の「第三の男」には、人生的な感動があったが、この手の感動も、漫画に見られることがある。たとえば、かなり小さなレベルでは、「めぞん一刻」にも見られる。

 で、ゲームには、この手の感動はあるか? あるかもしれないが、非常に低いレベルのものだ。「サクラ大戦」というのが有名らしいし、また、「萌え」系ゲームというのもあるらしいが、「めぞん一刻」とは比較にならないだろう。
 で、「ワンダと巨像」は? ただのお子様ランチみたいなものだ。子供だましにすぎない。こんなものを「最高のゲーム」なんて言っているところからして、テレビゲームというものがいかに低レベルのものであるかがわかる。たしかに、画像だけなら見事かもしれないが、その奥にあるものがあまりにも浅薄なのである。

 このことは、よく考えれば、誰にでもわかるはずだ。たとえば、漫画好きの人には、次の意見が強い。
 「高橋留美子は、犬夜叉なんかやめて、めぞん一刻みたいなラブコメを描け」
 まったく、その通り。犬夜叉なんてのは、テレビゲームの漫画化にすぎない。そんなものは、いかに画像が面白くて わくわくしても、ただの子供だましだ。一方、めぞん一刻は、画像的には技術レベルが低いが、深い人間性を感じさせるものがあった。これは大人向けであり、子供向けではない。

 テレビゲームというのは、しょせんは、子供だましにすぎないのだ。そんなものにいつまでも引っかかっていると、頭がいつまでたっても大人になれない。大人なら、まともな頭があれば、やるべきではない。また、子供なら、まともに成長したいのであれば、やるべきではない。
( ※ 参考  → 「ゲーム熱」はなぜ突然冷めるのか

 [ 付記1 ]
 めぞん一刻が傑作であったわけは、なぜか? そこには「深み」があったからだ。たとえば、管理人さんが「あんたなんか大っ嫌い!」と叫んだときには、そこには、文字通りの意味と、逆の意味との、二通りの意味がある。こういう「深み」が、作品に魅力を与える。
 こういう「深み」がめぞん一刻にあったのは、ストーリーを書いたのが、高橋留美子一人ではなくて、もう一人の共作者がいたからだ。私の推測では、高橋留美子は管理人さんの性格で、共作者は五代くんの性格だ。たぶん、前者はA型で、後者はB型だ。(違っているかも。)……で、ここで、性格の対立と食い違いが、話を面白くしている。
 一方、ゲーム機にあるのは、たいていが「正義と悪」である。こういうのは、ただの子供だまし。馬鹿らしくてやっていられない、と思うのが、大人の感覚でしょう。

 [ 付記2 ]
 どうせやるなら、まだしも、将棋などの方がマシである。
 将棋は、いつでもやめることができるし、また、無限に繰り返すことができるからだ。一方、テレビゲームは、やめることが容易ではなく、また、いっぺんやったゲームは二度と繰り返さないものだ。(バリエーションの数が異なるから。将棋に正解などは存在しない。)

( → 11月09日b に続く。)


● ニュースと感想  (11月08日)

 「迷惑電話」について。
 ネットの迷惑メールも困りものだが、電話の迷惑電話も困りものだ。電話による勧誘販売は、まったく迷惑である。貴重な時間を奪われる。
 たとえば、「先物取引の電話勧誘に引っかかって、虎の子の退職金を奪われた」という被害がある。(読売・朝刊・投書欄 2005-11-04 )
 こういうのは「引っかかった方が悪い」というのが普通の解釈だが、そういう解釈だと、詐欺師がのさばる犯罪社会となる。やはり、詐欺師の暗躍は、規制するべきだろう。何でも「自由にすればいい」「規制緩和にすればいい」というものではないのだ。

 詐欺は悪いことだ。ただし、詐欺でなくても、迷惑電話は悪いことだ。たとえ正直な勧誘販売でも、迷惑電話は悪いことだ。その理由は、迷惑メールの場合と、同様である。
 次の記事がある。
  → 迷惑メール:従業員1人当たり損失額が年間1934ドルに倍増
 迷惑メールは、時間を奪う「時間泥棒」である。そのことで、社会に莫大な損失を与えている。迷惑電話もまたしかり。

 迷惑メールであれ、迷惑電話であれ、発信コストは非常に低い。しかし、発信者のコストは低くても、受信者のコストは高い。なぜなら、時間を奪われるからだ。このような行為は、金銭を奪うかわりに、時間を奪うのだから、確かに泥棒なのである。明白に規制するべきだろう。

 ついでに言えば、「時間泥棒」をする販売は、原理的には、「詐欺」的なものが多い。そのわけは? こうだ。
 「通常の販売では、利幅が低いので、従業員に手間暇をかけさせる(販売経費の高い)電話販売は、ペイしない。しかし、利幅が非常に高い場合には、ペイする。利幅が非常に高いというのは、詐欺的な販売である。原価が1万円であるものを、普通は1万2千円ぐらいで売るが、2万円とか3万円とか10万円で売れば、利幅が高くなる。かくて、電話販売をする業種は、原則として、詐欺的である」
 というわけで、迷惑電話は一律に規制して構わないのだ。迷惑メールと同様に、禁止すべきものなのだ。スパム・メールならぬ、スパム・コールと呼んでいいだろう。


● ニュースと感想  (11月08日b)

 「電子書庫」について。
 学術的文献の引用元として、ネット上の電子文書は駄目で、紙の書籍は良いという。理由は、ネット上の電子文書はいつ消えるかわからないが、紙の書籍ならばいつまでも残るからだという。
 こんなところで、電子文書の弱点がさらけ出されてしまった。としたら、この弱点を、解消するべきだろう。すなわち、「電子書庫( web archive )」が必要となる。消えぬ資料として。
 この件は、ときどき話題になるが、たいてい著作権が問題となる。というのは、一網打尽にネット上の文書を勝手に収録して公開すると、著者の著作権に抵触するからだ。
 で、「著者が拒絶する旨をマークアップした文書については収録しない」という案がある。しかし、ここはむしろ、逆にするべきだろう。つまり、「著者が登録する旨を申し出た文書については収録する」とするべきだ。自己申告制である。これなら、著作権問題はクリアされる。
 このくらいのことは、国会図書館などがやってもらいたいものだ。しかしながら、現実には、ちっともなされていない。困ったものだ。遅れている。

《 参考サイト 》
http://hermitage.rdy.jp/media/archives/200507/21ndl_archive.html
http://takagi-hiromitsu.jp/diary/20050701.html
http://www.horagai.com/www/salon/edit/ed2005g.htm
http://www.horagai.com/www/home.htm
google検索「国会図書館、情報保存はお堅いサイト限定」

( ※ 次項に続く。)


● ニュースと感想  (11月09日)

 「公的な無料ホームページ」について。
 前項では「電子書庫( web archive )」の必要性を述べた。ただし、よく考えると、これは「公的な無償ホームページ」というふうに発想を転換した方がいいだろう。
 たとえば、私がこの「小泉の波立ち」を公開しているが、これを so-net で公開し、同時に「公的な電子書庫」で蓄積しても、手間が二度になるだけで、面倒だ。両方が検索の対象になると、二重にヒットして、まずい。かといって、一方だけしか検索しないと、他方が漏れる可能性がある。あちらが立てば、こちらが立たず。
 だったら最初から、「公的な電子書庫」を「公的な無料ホームページ」にした方がマシである。これなら問題はない。

 「無料ホームページ」なら、FC2 という会社が無償サービスしている。xrea という会社もある。民間企業でできることなら、政府でだってできるだろう。
 政府ならではのことは、次のことだ。
  ・ 広告が皆無
  ・ 永続性の保証
 このくらいのことは、予算的にも、たいしたことはない。ぜひとも政府にやってもらいたいものだ。やり方がわからないのだったら、FC2 を買収するだけでもいい。

 [ 付記1 ]
 「google のキャッシュに入れば、電子文書は永続する」と思っている人も多いようだが、そんなことはない。元のサイトが消失してから、しばらくはキャッシュは残るが、やがてはキャッシュは消滅する。
 たとえば、「小泉の波立ち」は、元は JustNet に存在していたが、 JustNet の消滅にともない、そのサイトにあったデータは今はすべて消滅してしまった。少し前までは残骸が残っていたが、今では残骸さえも消滅してしまった。

 [ 付記2 ]
 実際にやるときには、サブドメイン方式にすることが必須。さもないと、うまく検索されないからだ。つまり、現状では、検索の際に、同じサイト内の2番目以下が無視される(隠れてしまう)ことが多いが、サブドメイン方式ならば、そうならない。
 → サブドメイン形式のブログはなぜSEO的に有利なのか?


● ニュースと感想  (11月09日b)

 「ゲーム中毒と社会的影響」について。
 11月07日 ではゲーム中毒について述べたが、その続き。
 テレビゲームについて「子供だまし」と評したが、これについて補足ふうの見解を Open ブログ のコメントに記述した。次のように。
子供だましと大人向けの違いは、次の点にあると思えます。
   ・ 悪い怪獣をやっつけて喜ぶ (ウルトラマンふう。幼児向け)
   ・ 敵を殺すことの罪と悲しみを自覚する (文学性。大人向け)
 では、なぜ、そうなのか? なぜテレビゲームでは、敵を殺すことの罪と悲しみを自覚しないのか? 
 もちろん、自覚するようなソフトを作成することもできるだろう。ただし、作っても、あまり売れそうにない。いちいち罪や悲しみを自覚するのでは、没入してのめりこむことができないからだ。中毒性がないからだ。
 映画や小説では、ストーリーが決まっているので、見続けたり読み続けたりする限り、いかに不快な感情(罪や悲しみ)を感じさせられても、そこから逃れることができない。否応なしに、罪や悲しみを味わわされる。しかしゲームだと、罪や悲しみを味わわされると、ユーザは利用をやめてしまうだろう。「選択」が可能だからだ。
 結局、「選択」が可能であるというゲームの特性が、かえってゲームの世界の幅を狭めている。
 かくて、ゲームはどうしても、「ウルトラマン」ふうの怪獣退治みたいなものになりがちだ。実際、ネットで「ゲームに感動した」という話を検索しても、「CGがきれいなので感動」というのと、「友情の大切さに感動」というのぐらいが目につくだけだ。あまりにも子供じみた感動である。お子様ランチふう。

 より根源的に考えよう。ゲームにおいて罪や悲しみが感じられないのは、なぜか? それは、そもそも、他人の痛みに共感できないからだ。たとえば、殺された敵の痛みに共感できない。
 では、なぜ? それは、そもそも、自分自身が何の痛みも感じないからだ。ゲームで殺しあいをして、負けたとしても、自分自身は何の痛みも感じない。架空の世界でキャラクターが消滅 or 死亡するだけだ。現実に手や指で痛みの感覚を味わうわけではない。まして、肉体が切れて血を流すわけでもない。自分自身で痛みを味わうことがないから、他人の痛みについても共感することがない。

 ここまで考えると、ゲームの虚構性の悪影響がいっそう明らかになる。それは、次のことだ。
 「他者を攻撃したり殺したりしても、他人の痛みや苦しみに何ら共感せずに、平然としていられる。」
 このような人間は、昔は特殊な精神異常の犯罪者だけに見られたが、今ではごく普通に見られる。たとえば、先日の「実母にタリウムを呑ませた(殺害未遂)」という女生徒。また、長崎女児殺害事件の女児。……ここでは、頭の壊れた出来損ないが異常犯罪をするのではなく、成績優秀な正常な人間が異常犯罪をする。脳が壊れているのではなくて、性格が壊れている。つまり、先天的に異常があるのではなくて、精神発達の形成期に異常な精神形成がなされた。そして、それは、近年においてのみ顕著なことだ。
 ここには、どうしても、ゲームの影響を考えざるを得ない。その意味は、次のことだ。
 「他者を攻撃したり殺したりしても、他人の痛みや苦しみに何ら共感しない」
 「なぜなら、攻撃したり殺したりすることについて、自分自身で何ら痛みを感覚しないから」

 この問題を解決するには、子供同士の「喧嘩」が必要だと思う。喧嘩することで、攻撃したり攻撃されたりするときに、現実の痛みを感じる。殴ったら、殴られて、その痛みを感じる。
 しかるに、現代では、そういうことが少ない。たいていは一人っ子か、男一人だけで、「男二人」という兄弟は少ない。また、引きこもりふうにゲーム中毒であることが多く、男の仲間同士で腕力の喧嘩することも少ない。
 現実に痛みを感じないから、容易に他人を殺すことができるのだろう。スイッチをポンと押す感じで。

 [ 付記 ]
 こういうことを書くと、ゲーム中毒の読者から反論が来そうだ。ま、その気持ちは、わからなくもない。しかし、反論するぐらいなら、まず、ゲームで敵の誰かを殺すたびに、自分自身が殺される痛みを味わうべきだ。あるいは、敵の攻撃を受けて負けるたびに、ゲームパッドから電撃ショックを受けて、「しびれのせいで一日中、何もできなくなった」というふうにするべきだ。
 「友情」とか「CGの美しさ」とか、楽しいことばかりに感動しているのは、子供だけである。大人が感動するのは、悲しみや苦しみを含む複雑なことに対してだ。「愛する人を失う悲しみと、思い出された過去の喜び」や、「地獄のような不幸に落ちた苦しみと、それでもひしげない勇気」など、単なる楽しさを越えたところに、大人の感動が生じる。
 ゲームというものが真に大人のためのものになるには、ユーザに徹底的に不快さを味わわせるべきだろう。「しんどくてやってられないね」と思うほどの不快さを。……当然ながら、売れないでしょうけどね。
 かくて、ゲームというのものは、原理的に、お子様ランチふうのものとなる。大人向けの感動を味わいたければ、「しんどくてやってられないね」と思うほどの不快さを否応なしに見せつける媒体を用いるしかない。つまり、ユーザの参加・選択の不可能なタイプだ。それは映画や漫画や小説である。そして、不快さを経た先に、真の感動がある。


● ニュースと感想  (11月09日c)

 東証のシステム障害の話。(大型コンピュータの話。システム技術者向け。)
  → Open ブログ


● ニュースと感想  (11月10日)

 「ゲーム中毒への賛否両論」について。
 11月09日b ではゲーム中毒について再度述べたが、その続き。
 読者から、興味深い意見が来たので、紹介しよう。( → Open ブログ のコメント
 南堂さんの政治経済評論はいつも非常に納得・感心させられていますが、ことゲーム論に関してはゲーム脳の著者同様、ゲームを知らない人の論評(ゲームをインベーダーとマリオとテトリスとドラクエだけで語るような)で短絡的です。
 ゲーム会社に勤めた経験もあり、今も多少関わっていますが、個人的には、ほとんどの人にとって、ゲームが生き方とか考え方にそれほど大層な影響を与えることはまずないと思っています。
 ただ、小説や映画ほどではない別の興奮や感動を提供してくれるソフトもあるのは事実だと思っていますし、自分のキャラが死んでも(敵が死んでも)全く痛みを感じないかといったら、小説を読むよりはるかに主人公や相手に感情移入して絶望を感じたり、大の大人が泣いてしまうRPGもあります。
 あるいは将棋と比較するという点では、将棋や麻雀に迫る魅力のあるシステムを持つ思考(テーブル)ゲームも存在します。
 「悪い怪獣をやっつけて喜ぶ」といってしまえばそうですが、では指輪物語などのファンタジーはすべて子供だましなのか、アラブのテロリストを悪として殺してよしとするハリウッド映画を観て罪と悲しみを自覚するかは観る方の自覚にもよるでしょうし、最近の邦画のようなお涙頂戴ラブファンタジーで感動していてよいのか等々、ゲームも映画もひとくくりで語るべきではないと思います。
 「ワンダと巨像」にしても、感動云々というよりは、テレビを前にして、通常体感できない(巨人に振り落とされないようなドキドキ感・叶わないと思われる巨大な敵の弱点を探る探索性など)攻略感を楽しむものという価値があるのでは?これを否定するのは将棋等も無駄な遊びと否定することにならないかと。
 更にいえば、タリウム少女などを生む背景として、ゲーム等の影響などは皆無か、あっても微々たるもので、善悪道徳教育以前に人を殺す方法や毒薬爆弾拳銃入手等々の情報が溢れ、それを誰もチェックできない状況こそ問題ではないかと思ってます。
 その点では書物とかウェブ(ブログ)こそ、頭でっかち人間を生む諸悪の根源ともいえるでしょう。
 この意見は、趣旨はもっともだし、共感する人も多いと思うので、解説しておく必要がありそうだ。そこで、以下は解説。

 (1)
 まず、私は一律に「ゲームは悪だからやめよ」と述べているわけではない。「中毒性のあるもの」の「中毒性」を問題にしている。というわけで、「中毒性のないもの」であれば、「ゲームは悪だからやめよ」ということはない。具体的には、次の例。
  ・ コンピュータ将棋
  ・ シム・シティ
  ・ カード・ゲーム (Windows付属のものなど)
 これらは、いつでも好きなときに始めて、好きなときにやめられる。コンピュータ将棋なら、ちょっとやっていて、途中で切り上げて外出することにして、途中までやったものは捨ててしまう、というふうにしても、ちっとも問題ではない。
 これらは、ただの「暇つぶし」に近い。良くも悪くもないだろう。(時間を奪う、という意味では、良くないが、この程度は、仕方ない。)

 (2)
 「ゲームに感動がある」という点では、このことを否定しない。しかし、感動があるということが、それ自体、問題となる。「中毒性」を発揮しやすいからだ。
 仮に、ファイナルファンタジーのようなゲームが、1回が2時間で完結して、その先はもうない、というのであれば、アクション映画を見るのとさして変わりはないから、特に問題にするには当たらないだろう。しかし、現実には、毎日何時間もやって、ずっとはまりっぱなし、ということが多い。一カ月ぐらい、毎日、ファイナルファンタジーばかりやっている、という例も聞く。これは明らかな「中毒」だ。
 そして、「中毒」には、明らかに害があるのである。

 (3)
 感動の質も問題だ。ゲームをやっている人の「感動」という話はよく聞くが、その「感動」の質があまりにも子供じみた「感動」にすぎない、ということは、やっている人には理解できないらしい。たぶん、閉じた世界に閉じこもっていて、その世界の外に出られないせいだろう。
 確かに「感動」はある。ただしそれは、「子供向け」あるいは「少年向け」の感動にすぎない。たとえて言うと、子供向けのスポコン・ドラマふうの感動だ。「努力して、頑張って、仲間と力を合わせて、成果を達成する」というふうな。……ま、そういう感動は、少年向けにはいいだろう。しかし、まともな大人なら、こんな「感動」には飽き足らないはずだ。ゲームに「感動」しているばかりだと、まともな大人になるための精神発達が阻害されてしまう。

 (4)
 では、まともな大人になるための精神発達とは? それは、「他者との関係」だ。特に、「仲間」「味方」以外の相手との対人関係の構築だ。
 そして、それを理解するためには、「相手の気持ちを理解すること」が必要であり、そのためには、「相手が何を感じているかを、想像する」ための想像力・共感力が必要だ。……ところが、今のゲームでは、これがまったく欠落している。相手を殺すことばかりに熱中して、相手を殺したときに相手が感じる痛みをまったく理解しない。だから、平気で相手を殺していられる。というか、相手を殺すことに、平然としていられる。これが問題だ。

     *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 以上のことに基づいた上で、先の読者の意見にコメントしよう。

 ほとんどの人にとって、ゲームが生き方とか考え方にそれほど大層な影響を与えることはまずないと思っています。

 それはその通り。多くの人に大幅な影響を与えることはない。ただし、少数の人に大幅な影響を与えることはある。(たとえば女児による殺害。)また、大多数の人に、小幅な影響を与える。その影響は、殺害をもたらすほどではないが、対人関係による精神形成を阻害する、という効果がある。
 だいたい、コスプレふうの萌えにはまって、恥ずかしさも感じない、なんているのは、頭がイカレている証拠でしょう。たいていの女性は、こういう男を見て、気持ち悪がります。

 ただ、小説や映画ほどではない別の興奮や感動を提供してくれるソフトもあるのは事実だと思っていますし、

 それはその通り。しかし、その興奮や感動のせいで、中毒になりやすい。それが問題。(子供じみた)興奮や感動があることが、かえって問題となる。興奮や感動のないもの(将棋など)なら、問題にするには当たらない。

 自分のキャラが死んでも(敵が死んでも)全く痛みを感じないかといったら、小説を読むよりはるかに主人公や相手に感情移入して絶望を感じたり、大の大人が泣いてしまうRPGもあります。

 小説では、読者は自分で「殺す」という選択肢を取らない。殺すのは、作中の誰かである。そしてまた、「殺す」には、何らかの動機がある。その動機を丹念に書くのが小説だろう。たとえば、ラスコーリニコフがいかにして「殺す」という行為を取ったのか。その精神を描くことに、文学性がある。
 ところがゲームでは、何の思慮もなく、単にボタン一つで、平然として相手を殺す。怪獣であろうがエイリアンであろうが、ためらいもなく平然として相手を殺す。……こういうことをやっていると、頭が異常になるものだ。
 こういうことを避けるには、自らの肉体で「痛み」を感じる必要がある。心の痛みではなくて、肉体の痛みだ。「殺される」ということに対して、悲しみを感じるのではなくて、自らの肉体で苦しみを感じることが必要だ。「悲しみ」は他者の死に対して感じるものであり、「苦しみ」は自らの怪我や病気として感じられる。「感情移入」ではなくて、生身の体験として「苦痛」を感じるべきなのだ。
 その例が、実際の喧嘩だ。「殴ったら、殴られる」ということで、まさしく痛みを感じる。それは仮想体験の痛みではない。

 あるいは将棋と比較するという点では、将棋や麻雀に迫る魅力のあるシステムを持つ思考(テーブル)ゲームも存在します。
 「ワンダと巨像」にしても、感動云々というよりは、テレビを前にして、通常体感できない(巨人に振り落とされないようなドキドキ感・叶わないと思われる巨大な敵の弱点を探る探索性など)攻略感を楽しむものという価値があるのでは?これを否定するのは将棋等も無駄な遊びと否定することにならないかと。

 これも前述の通り。ゲームについて「否定する」というわけではない。つまり、「将棋は良くて、ゲームは悪い」とか、「あらゆるゲームは有害だ」とか、そういうふうに述べているのではない。「暇つぶしふうのものは、しょせんは暇つぶしにすぎない」と述べているだけだ。「やってはいけない」とは言わないが、「中毒にならないように、ほどほどにしましょう」と言っているだけだ。
 将棋ならば、中毒になることはないから、たまにやるぐらいなら、問題はあるまい。(しかしちょっとは中毒になりやすい。あまりやらない方がいいですね。人とやるなら、「相手を見つける」という手間がかかるから、自然に頻度は減るが。)
 「ワンダと巨像」なら、1ゲームだけやっておしまいにするなら、まったく問題はない。ただし、これを何回も続けたり、毎日毎日続けたり、というふうにすると、中毒性が出るから、まずい。

 更にいえば、タリウム少女などを生む背景として、ゲーム等の影響などは皆無か、あっても微々たるもので、善悪道徳教育以前に人を殺す方法や毒薬爆弾拳銃入手等々の情報が溢れ、それを誰もチェックできない状況こそ問題ではないかと思ってます。

 私はまったくそうは考えない。「平然と殺しをする」ということを繰り返していれば、(大人はともかく精神の未発達な子供では)必ず精神に悪影響が出る。たとえば、子供なら、親がちゃんと躾をして、他人に対して思いやりをもつように育てた場合と、親が子供をほったらかして、ゲームばかりをやらせて、わがままのし放題にした場合とでは、子供はまったく別の性格になる。大人ならあまり差は出ないだろうが、子供の精神形成では大きな差が出る。
 武器との関連で言えば、私の考えは、こうだ。
 「武器が悪いのは、武器そのものが悪いのではなく、武器を扱う人間の心が悪い。」
 武器が人殺しをするから武器をなくせ、と主張しても、現実的ではない。個人への銃規制ならば可能だが、国への兵器規制など不可能だ。
 たとえば、米国に「核を保有するな」と命じたり、北朝鮮に「テポドンを廃棄せよ」と命じたりしても、まったく不可能だ。だとしたら、その前に、人の心を正すべきだろう。ブッシュみたいなアホな戦争マニアの政治家を落選させるためにキャンペーンを張るとか、北朝鮮を民主化するとか。……こちらの方が、ずっと、平和の実現性が高い。
 大切なのは、人の心だ。そして、そのために必要なのは、「善悪道徳教育」なんかではない。「他者に対する思いやり」や「他者への共感力」だ。相手を傷つけたら、相手がどんなに苦しむか、ということを理解するだけの、感情の豊かさだ。
 そのためには、日ごろから、豊かな感情を養っておく必要がある。仲間同士で遊んで傷つけたり仲直りしたりすること。バーチャルな世界でなくリアルな世界で、人間同士として、関係を持つこと。それが大切だ。
 バーチャルな体験が大切なのは、仲間のいない無人島に暮らす人だけだ。普通の人なら、ゲームを捨てて、友と語り合い、ライバルと傷つけあい、異性にアタックして愛されたり振られたりする方が、よほど大切である。

 その点では書物とかウェブ(ブログ)こそ、頭でっかち人間を生む諸悪の根源ともいえるでしょう。

 これは、ある意味では、正しい。書物やネットにはまるのも、あまり良くない。しかし、だからといって、書物やネットをすべて捨ててしまえ、ということにはなるまい。書物には、捨てるべきでない大切なものもある。学問や芸術などの書物だ。
 だから、書物やネットに適度に接しつつ、同時に、リアルな世界にも触れるといい。
 ただし、である。ゲームの世界なら、すべて捨ててしまっても、何ら差し支えはない。むしろ、その方が好ましい。「ゲームをやった方がいい」と言えるのは、ゲームに代わるものが何もない状態(無人島にいる状態)である。そこでは、ゲームがあった方がいい。しかし、文明社会に生きるならば、書物や映画やテレビや缶蹴りやクラブ活動や恋愛などに少しずつ触れる方が、ずっと有益である。

 「悪い怪獣をやっつけて喜ぶ」といってしまえばそうですが、では指輪物語などのファンタジーはすべて子供だましなのか、アラブのテロリストを悪として殺してよしとするハリウッド映画を観て罪と悲しみを自覚するかは観る方の自覚にもよるでしょうし、最近の邦画のようなお涙頂戴ラブファンタジーで感動していてよいのか等々、ゲームも映画もひとくくりで語るべきではないと思います。

 これは、書物や映画も玉石混淆だ、という意味では正しい。なお、ここで例示された作品は、すべて「子供だまし」である。子供ならおもしろがってみるだろうが、大人が感動するようなものではあるまい。ただの暇つぶしの一種である。
 指輪物語は、世評は高いが、私としては、やはり「子供だまし」と評価したい。ただし、「最高レベルの子供だまし」かな。「大人の世界の内容に近いことを、子供向けに書いている」という感じ。これを読むのは、大人にとっては、どうしても、お子様ランチの味になる。(文体が子供向けだから。大人には読むに耐えない。)
 アクションのハリウッド映画? 論外ですね。ただの暇つぶしでしょう。ダイハードも、ランボーも、面白いとは思うが、2時間だけの暇つぶし。それ以上でもそれ以下でもない。一つだけ見るなら、良くも悪くもない。ぶっつづけで10本以上見るなら、中毒になるので、有害。

 まとめ。
 ゲームの難点は、「中毒性」と、「殺しのマヒ(平然と殺すこと)」と「相手への共感のなさ」と、「リアルな世界への参加がないこと」である。
 こういうことに対して、自覚的であればまだしも、無自覚で、「ゲームなんかちっとも悪くないんだ」と思うようだと、もはや頭が破壊されている、としか言いようがない。
 たとえば、酒を飲むなら、「飲み過ぎは有害だ」とわきまえて、適量を夕食時に飲むのなら、問題はない。しかし中毒的にやたらと飲みすぎるのは、有害だ。
 ゲームをやってもいいのは、ゲームの危険をわきまえた上で、自己を制御できる場合だけだ。「ゲームはまったく問題はない」と思い込んで、はまりこんでしまうようだと、非常に危険である。

 [ 付記1 ]
 比喩的に言うと、「ゲーム中毒」というのは、「sex 中毒」みたいなものである。朝から晩までエッチのやりっ放し。毎日毎日、それだけ。(男だと不可能だが、女性だと可能かも。)
 ま、二十歳ぐらいの初体験の新婚さんなら、そういうことも人生に一度だけあってもいいが、十代の子供がそんなことに熱中していたら、どうしたって有害でしょう。
 ま、「やってはいけない」とは言いません。全然やらないと、少子化などで、人類は絶滅してしまうから。とはいえ、やりすぎは、良くないですよね。特に、未成年は。成熟した大人だと? やりすぎにしたくても、それだけの体力がないから、大丈夫……かも。たいていの男だと、奥さんから、「もっとやって」と要求されているかも。で、「僕、萌えゲームにはまっているから、現実の方はできないんだ」と言い逃れする。

 [ 付記2 ]
 私の意見に反対したがる人もいるだろうが、誤解しないようにしてほしい。私は、次のように述べてはいない。
 「ゲームはすべて悪だから、あらゆるゲームを廃絶せよ」
 かわりに、次のように述べている。
 「どんなゲームであれ、やりすぎに注意しましょう」
 少しならいいが、やりすぎの中毒はまずい。で、問題は、うまく中毒にならない適量で済むかどうかだ。ところが、現実には、たいていのゲームは面白すぎて、はまってしまうので、中毒になりがちだ。そこが危険なのである。逆に、ちっとも面白くないゲーム(クソゲー)ならば、危険性はないだろう。すぐに放り出すから。ここでは「優れていれば優れているほど、危険だ」という逆説が成立する。
 とすれば、「CGが美しい」とか「感動が得られる」なんて主張しても、駄目である。それこそがまさしく、ゲームの危険性だからだ。
 比喩的に言えば、男をたらし込んで破滅させる魔性の女について、いくら「顔が美しい」とか「快感が得られる」とか、そんなことを指摘しても駄目だ。その魅力がかえって男を破滅させるからだ。


● ニュースと感想  (11月11日)

 「ゲームの中毒性」について。
 前日分に続いて、ゲームの「中毒性」の問題を論じよう。落ち穂拾いふう。Open ブログに寄せられた意見に答える形。

 ドラマは古典しか認めないというのであるなら、仕方ありませんが、映画を見ることと、ゲームをすることは、同じくらい「時間の無駄」だと思います。

 これは、前日とは違う人の見解。
 この「ゲームのドラマ性」については、私は否定しない。確かに、映画と同様であり、差を付ける必要はないと思う。ついでに言えば、画像は「アニメ」と同様であり、これも差を付ける必要はあるまい。また、ゲーム音楽は、それはそれで、優れたものも多い。
 私は別に「ゲームはすべて悪だ」と述べているわけではない。「2時間のドラマ」として見るのならば、まったく問題はない。問題があるのは、「何十時間もかけてやりすぎる場合の中毒性」のことだ。
 ゲームがまずいのは、「面白すぎる」ことである。ちっとも面白くなくて、すぐに投げ出せるような詰まらないゲームなら、まったく問題はないと思う。ちょっと遊んで、すぐ放り出す。これなら、どうってことはない。

 ゲームが中毒と言う表現を当てはめられる背景には 映画やアニメと違い、提供者側から強制的に打ち切られる要素が緩いためで、 常に映画やアニメの新作を追っかけている人も ゲーム中毒と何ら変わりないかと思います。

 これも、前日とは違う人(上記とも違う人)の見解。
 ゲームが他の媒体と違うのは、「何十時間ものめりこむ」というところ。映画みたいに2時間だけでぽっきり終わるゲームなら、問題ない。また、テレビみたいに週に2時間だけのゲームも、問題ない。
 書籍だと、十時間ぐらい要することもあるが、これは、受動的だし、視覚要素もない(抽象概念だけだ)から、中毒性は少ない。
 ま、「うちの子は本ばかり読みすぎて困る」と嘆く親はいないだろう。

 「常に映画やアニメの新作を追っかけている人」は、確かに問題だが、だからといって、「他に悪があるから、こっちの悪は悪くはない」ということにはならない。どっちも悪である。どっちの中毒も駄目だ。ただ、ゲームの方が、中毒になりやすいのである。そこが問題だ。
 たとえば、「スターウォーズ」なんてのは、いくら世評が高くても、下らないお子様ランチみたいなものであり、RPGゲームと大差ない、と言える。ここでは、「スターウォーズが立派な映画だから、ゲームだって同じぐらい立派だ」というふうにはならず、「どっちもお子様ランチにすぎない」というふうになる。
 ただし、スターウォーズには、美点がある。それは、シリーズ6作を追いかけるのに、十年以上もの長い時間がかかる、ということだ。この点は、映画の美点だ。……とはいえ、シリーズ6作をまとめて一日で見るのであれば、中毒症状だから、害がある。

 〈 前日分の 〉(4)は対人関係に精神成長を求めると言う意見には賛成ですが、 ゲームに精神的育成の矛先を求められても困る。 ゲームしかない環境を作る実社会を改めるべきだと思っています。

 精神的育成のためには、何らかのこと(読書・交友)をする必要がある。ところが、ゲームにはまっていると、それができない。「機会を奪う」「時間を奪う」ということが、ゲーム中毒の難点であろう。ゲームそのものが悪であるわけではなくて、機械や時間を奪うことが悪であるわけだ。
 「ゲームしかない環境を作る実社会」なんてものを作るのは、為政者の仕事ではなくて、親の仕事である。要するに、ゲーム機を取り上げてしまえばいい。簡単だ。私の友人はちゃんとそうしている。
 ただし、これを実現するには、親子間で密接な信頼関係が必要となる。ふだん子供の躾をほったらかしておいて、いきなりゲーム機を取り上げれば、子供は反発するだろう。ゲーム機を取り上げるには、親の深い愛情と手間暇が必要だ。それができない親が、子供をスポイルする。自分が教育の手間暇をかけたくないから、子供を駄目にするわけだ。
 で、駄目になった大人が、「自分と同じような子供を育てよう」として、ゲーム付けの子供を育てる。中毒の再生産。

 ゲームのみで人の健全さを話すのは軽率であって、 ゲームに責任を問う物ではなく、実社会の環境に解決を求める

 何度も繰り返したが、「あらゆるゲームは悪だ」と述べているわけではなくて、「中毒にならないようにしましょう」と述べているだけだ。「ゲームをしている人は不健全だ」と述べているわけではなく、「ゲームのやりすぎだと健全な人間になる機会を奪われる」(特に子供は)と述べているだけだ。
 ゲームそのものが悪なのではない。たとえば、普通の大人なら、ゲームをやったとたんに犯罪者になる、ということはありえない。ただし、子供の場合には、健全な発達をする機会を奪われてしまう。「万年幼児」みたいなものである。実際、ゲームにのめりこんだ人間は、「万年幼児」に似ている。「萌え」にはまる連中は、みんな、ロリコンふうだ。精神が成熟しないのである。
 私は「ゲームが悪い」と述べているわけではない。また、「実社会が悪い」と述べているわけでもない。「子供をゲームづけにする親が悪い」と述べている。悪いのは、ゲーム会社でもないし、政府でもない。大和が悪いのだ。子供に対する親の躾の不足、つまりは愛情の不足が、問題なのだ。
 ちなみに、親が躾も何もほったらかして、「バーチャル親」からすべてをゲームを通じて躾される、なんていう子供が出たら、哀れなものであろう。こういう子供ならば、親にタリウムを飲ませてやろうと考えても、ちっとも不思議ではない。
 大切なのは、ただの情報ではなくて、リアルな関係なのだ。昔の言葉で言えば、「スキンシップ」である。現代では、やたらと情報に比重が置かれすぎたせいで、情報にはならないものが軽視されすぎている。「情報社会」や「IT化」なんてのは、すばらしい未来社会のことではなくて、機械化された冷たい非人間的な社会のことなのである。……その証拠が、タリウム事件などだ。
( ※ ついでだが、これは極論である。私の毒舌的な誇大表現。このような極論はいちいち「極論だ」と注釈しないが、レトリックはレトリックであると理解してほしい。文字通りに解釈しないでほしい。……昔なら、このくらいのことはいちいち注釈しないで済んだのだが、最近の人々は、言語理解力が著しく低下しているせいで、逆説や極論などのレトリックを字義通りに解釈して誤解する人が増えすぎている。私みたいな毒舌レトリック主義者には、まことに過ごしにくい社会だ。少知化社会は、私には住みにくい。)

ゲームと言う性質上、 「相手に勝つ」と言う要素が必要なため相手を殺していました。 その点は業界でも問題として上がることも多く、 現在、多くのゲームでは「殺す」のではなく「倒す」と言う表現を用い 力比べによる(ゲーム中の)経験値の向上と言う形に変化しつつあります。

 これは、言わずもがなのことだと思ったので言及しなかったが、その通り。ただ、「倒す」という形では、「殺す」という行動を取りながら、「実査には死ななかった」というふうになるだけだ。たとえば、「光線銃や聖剣で相手を攻撃するが、相手は倒れるだけで死なない」というふうに。馬鹿げている。「武器で攻撃すれば相手は死ぬ」と言うことを隠蔽しても、本質的には何も変わっていない。
 殺害の問題がないのは、スポーツのように、「試合での得点争いをすること」だけだ。ただし、「ゲームについてのゲーム」になってしまいますね。ま、悪くはないけれど。
( ※ この件は、翌日分で再論する。)

 [ 付記1 ]
 中毒性があるのは、ゲームだけではない。先のべた「ネット中毒」も問題だし、ひところの「テレビ中毒」も問題だし、最近の「ケータイ中毒」も問題だ。すべて問題である。最近は「テレビ中毒」はあまり話題にならないが、たぶん、より深刻な別の中毒があるせいで、テレビの方は歯牙にもかけられなくなったのだろう。あるいは、生まれたときからテレビがあるせいで、免疫ができているからだろう。いずれにせよ、他の中毒もまた、やはり問題である。
 私としては、ネットもケータイもテレビも、どれも危険だと思う。なお、新しいものだけが悪い、というわけでもない。パチンコも競馬も、古くからあるが、中毒になりやすい。酒と女も、中毒になりやすい。麻薬は、言わずもがな。
 絶対に安全なのは、男にとってのエッチ行為だけだ。これなら、肉体的に限度があるから、中毒にはならない。

 [ 付記2 ]
 「中毒性」の観点から言うと、ゲームと対比すべきは、文学や映画ではなくて、パチンコや競馬なのかもしれない。つまり、ゲームというのは、「パチンコと映画の中間的なもの」と言えるかもしれない。
 しばしば映画と比べて「参加する」という特徴が指摘される。だが、参加するだけなら、パチンコでも競馬でもできる。そして、その参加することゆえに、いずれも中毒性が生じる。
 これらのなかでは、パチンコや競馬に比べれば、ゲームの方がずっとマシであるだろう。何万円もすってしまうことはないし、それなりの(子供っぽい)感動も得られる。「ゲームは感動できてすばらしい」という意見は、文学などの芸術に比べればお笑いぐさでしかないが、パチンコや競馬と比べれば納得できる。
     パチンコ・競馬 < ゲーム < 大人向けの芸術
 という感じだ。なんだか、やっている人の知能指数の順序みたいですね。
 そして、そうだとしたら、私が「ゲームをやめよ」と言っても、無意味かも。子供ならともかく、大人というものは、今さら知能指数は変わらないからだ。パチンコばかりやっている人に、高尚な文学を薦めても、とうてい理解できまい。ゲームマニアに対しても、同様だろう。馬の耳に念仏。猫に説教。
 魂を震わせる言語芸術に共感したことのない人には、芸術の「崇高さ」をいくら告げても、まったく理解できまい。(この件、翌日分に続く。)

 [ 付記3 ]
 なお、私は、ゲームを必ずしも敵視するわけではない。「良いゲーム」というのも、ある。たとえば、次のもの。
 「現実の機械装置のシミュレーター」……フライトシミュレーターや、レースのシミュレーター。これで飛行機や自動車の運転の訓練をすると、確かに、有効だ。
 「他者への思いやりを養成する人生ソフト」……老人や弱者への思いやりを訓練するゲーム。だけど、あんまり売れそうにない。かろうじて、萌え系のゲームなら、女の子に優しくするにはどうすればいいか、ということを、教えてあげるのが役立つ。

 だけどまあ、こういうことは、ゲームよりも本物を使う方が、ずっといい。どうしても本物を使えない場合には仕方ないが。
 ま、実物の飛行機で訓練するのは大変だから、シミュレーターを使うのはいい。しかし、現実の女性を相手にするのは、ちっとも大変ではないのだから、ちゃんと現実の女性を相手にして恋愛をした方がいいですね。たいていの萌え系のゲームだと、やればやるほど、かえって馬鹿になるだけかも。

 [ 付記4 ]
 たいていのゲーム賛成論者は、私の主張を誤読している、と思える。このことは、ゲームと酒とを比べて語るとわかる。
 酒について言えば、私は、次のようには主張しない。
 「酒は人間に有害である。その証拠に、酒でアル中になった人がたくさんいる。ゆえに、アル中の問題を解決するために、酒を一律に禁止するべきだ。」
 かわりに、私は次のように主張する。
 「酒は中毒になるほど飲み過ぎると有害だ。その危険性をわきまえて、適量をたしなむ程度にしよう。ただし、子供の場合には、脳の形成に悪影響を及ぼすから、酒を一律に禁止した方がいい。たまにビールを一口飲むぐらいならともかく、子供を酒浸りにするなんて、とんでもない。そんなふうにされた子供は、脳を破壊されたあげく、暴力や殺人などを犯すこともある」
 だから、ゲーム賛成論者が、「ゲーム(酒)はそれ自体では特に悪くはない」なんて主張しても、それはただの誤読にすぎない。私の主張に反論したければ、「子供をゲームづけにしてしまえ」と主張するべきだ。そして自分の子供を社会から隔離して、ずっとゲームだけやらせればいいのだ。
 で、そのあげく、金属バットで殴り殺されても、私は責任を持てませんが。……ただし、そんな殺害事件では、親を弁護するつもりはないが、子供に対して弁護するつもりはある。「それは子供のせいじゃない。親のせいだ。親が殴り殺されたのは、自業自得でしょ」と。
 ま、私に反論したいのなら、自分の子供をモルモットにして、ゲームづけにする実験をしてみてもいいでしょう。(というか、現実には、多くの子供たちが、なかばモルモットにされている。かわいそうに。現代の子供たち。)
 ゲームなんてのは、人間のためにあるのではなくて、ゲーム会社のためにあるだけだ。人々がどんなに苦しんでも、ゲーム会社だけはボロ儲けだ。他人の魂を荒廃させて、自分だけはしこたま儲ける。頭いいですね。悪魔並みに。……自分の利益を度外視して子供を成長させるのが、良き教師。自分の利益を増やすために子供の脳を破壊するのが、良き企業。(たとえば、ソニー。)

 ついでだが、誤読の例を一つ。
 「要するに南堂氏はゲームを知らないのである。少しはやったらしいが、数が足らない。たとえば、目利きの助言もなしに、適当にCDを10枚聴いたぐらいで「洋楽はつまらない」とかなんとか言われたら、洋楽ファンは怒るだろう。」
( → http://akihiroino.exblog.jp/m2005-11-08/ )
 よくある誤読である。ここでは、私が言っていることと正反対のように誤読している。
 私は「ゲームなんか詰まらない」と主張しているのではない。「ゲームは面白すぎる(ゆえに、はまりやすくて危険だ)」と述べているのだ。「詰まらない」と述べているのではなく、「面白すぎる」と述べているのだ。(だから「クソゲーならばOK」とも述べている。)
 比喩的に言えば、「酒はまずいから飲むのをやめよう」と述べているのではなく、「酒の中毒になると酒がおいしすぎてやめられないので危険だ」と述べているのだ。
 上記サイトの人は、他にもあれこれと誤読している。一般に、ゲームマニアの意見を見ると、言語の理解力が極端に低下しているようだ。酒の中毒になると頭が酩酊状態になるようなものかな。

 [ 付記5 ]
 オマケで言おう。Open ブログにいろいろと意見が寄せられたが、こういうふうにあれこれと考えることは、いいことだと思う。「ゲームに夢中になるとはどういうことか?」「ゲームの良し悪しは?」という問題について、いろいろと考えることは、いいことだ。
 一方、「ゲームって素敵だ。CGが美しくて楽しい」なんて言うばかりで、自分がなしていることの意味をろくに意識しないでいる人は、ゲーム会社の掌の上で踊らされていることになる。こういうのは、困りものだ。
 ついでに言えば、ゲームをやりすぎるのは困りものだが、ゲームを作成するのはよいことだ。そこには創作活動がある。自分でゲームを作って金儲けをできるのなら、ゲームをやるのもまんざらではない。一方、金を払うだけなのは、困りものだ。最悪なのは、自分で稼ぎもしないで、親の金をもらって、ゲームにのめりこむ子供だ。ごくつぶし。白痴化 or 少知化。


● ニュースと感想  (11月12日)

 「ゲームの中毒性(続き)」について。
 ずいぶん多くの意見が来た。( → Open ブログ 。一部、nando ブログ)。
 で、これらについて、まとめて扱いたい。
 おおむね、「誤読が来そうだな」と予想したとおりの誤読が多い。典型的なのは、次のことだ。

 (1) ただの誤読
 文章のうちのごく一部を取り出して、その一部に対して反論する。文脈を無視しているので、全然、見当違い。
 例。「ゲームは面白すぎるから危険だ」→「面白いのが危険だなんて馬鹿げている」
 これは誤読。前日では、次のように述べた。
  酒の中毒になると酒がおいしすぎてやめられないので危険だ」
 この下線部が重要だ。ここでは、「酒がおいしいから危険だ」と述べているのではない。「酒の中毒になると」酒がおいしくなる、ということだ。酒がまずいかおいしいかを論じているのではない。話の前段を抜かして読む誤読。
 ま、いちいち私が注釈しなかったのが悪い、と言えるかもしれないが、子供じゃないんだから、いちいち注釈しなくても、ちゃんと読み取ってもらいたいものだ。前日分では、すぐ前に
  「酒はまずいから飲むのをやめよう」と述べているのではなく、
 というふうに注記している。当然、
  「酒はおいしいから危険だ」と述べているのでもなく、
 という記述がすぐあとに来てもいい。
 とにかく、酒がまずいかおいしいかではなく、また、「酒を一切飲むな」と述べているのでもない。中毒の良し悪しを論じているのだ。

 (2) 論述対象の誤解
 最も多いタイプの誤読は、次の誤読だ。
 「ゲームについて一般的に論じたことを、あらゆるゲームについて網羅的に扱ったことだと勘違いして、例外を示すことで、反論とする」
 たとえて言うと、「暴力団は悪い」と一般論で述べると、「いや、暴力団にも良い面はあるぞ」とか、「暴力団員にも例外的に良い人はいるぞ」とか述べて反論とする。
 まあ、それはそうでしょうけれど、私が述べているのはあくまで一般的な傾向だけだ。ゲーム全般について網羅的に述べているわけではない。もちろん、例外はたくさんある。だから、例外をいくら述べても、無意味である。私が述べているのはあくまで「おおまかにはこうだ」ということだけだ。だから、「中毒性の高いもの」(ファイナルファンタジーなど)はまずいが、「中毒性の低いもの」(将棋・フライトシミュレータなど)はそんなに悪くはない、とも述べている。あくまで一般的な中毒性の良し悪しを論じているだけだ。
 つまりは、「ゲーム一般」と「読書・映画・交遊」などを比較しているのであって、個別のゲームについて良し悪しを論じているのではない。だから「このゲームはあんまり問題はない」と述べても、話の趣旨がまったくズレている。

 (3) ゲーム以外
 ゲームに中毒性があるのを問題視しているからと言って、ゲーム以外のものを何でも「良い」と見なしているわけでもない。
 「コンピュータゲームよりも、パチンコの方が、はるかに人間性を破壊すると考えています。」(*)
 という意見があったが、十分に、成立する。実際、前日には、次のように記述した。
 「私としては、ネットもケータイもテレビも、どれも危険だと思う。なお、新しいものだけが悪い、というわけでもない。パチンコも競馬も、古くからあるが、中毒になりやすい。酒と女も、中毒になりやすい。麻薬は、言わずもがな。」
 というわけで、上記の反論(*)は、反論になっていないわけだ。
 なお、パチンコなどはともかく、読書についても、「読書ならばすべて良い」と述べているわけでもない。ちょっと前に、「バトル・ロワイヤル」という「中学生同士の殺しあい」の書籍が話題となった。この書籍もまた、ゲームと同様に、ひどい悪影響を及ぼすことがある。たとえば、実際に殺人行為を行なった生徒は、この書籍にのめりこんでいたようだ。(ただし、念のために言うと、私は「だから発禁にせよ」とは言わない。「書籍そのものが悪い」ということはあるまい。この書籍を読んで不快感を感じる子供も多いだろうし、不快感を感じる子供にとっては有害ではないのだ。……ともあれ、「書籍でもひどい悪影響を及ぼすものがある」というのは事実だ。決して「書籍ならば例外なく善である」ということはない。この件は、上記の (2) と同様だ。)

 まとめ。
 前日でも述べたが、どうも、私の主張を誤解している人が多すぎる。私は決して「ゲームはすべて悪だ」と述べているのではない。「中毒になりやすいから危険だ」と述べているだけだ。
 つまり、「ゲームという商品(ソフト入りのCD-ROMなど)が悪い」と述べているのではなくて、「ゲームにはまるという人間の行動が悪い」と述べている。対策としては、「悪いゲームをこの世から抹殺せよ」と(商品について)述べているのではなく、「中毒になりやすいゲームからなるべく遠ざかろう」と(人間行動について)述べている。商品の問題ではなく、人間の問題なのだ。だから、私としては、世の中にどんなにゲームがあふれていても、ちっとも問題ではない。なぜなら私は、ゲームなんか買わないからだ。同様に、まともな親は、子供にゲームを買い与えなければよい。それだけのことだ。人は、買わなければいいだけであって、ゲームをたたきつぶす必要などはない。
 なお、ゲームの危険性については、「ゲームをやるとみんな殺人狂になる」と述べているのではなくて、「近年の子供の異常殺人にはゲームの影響があるだろう」と述べているだけだ。「子供がゲームをやると、みんな殺人行動を取るぞ」と述べているわけではない。

 ただし、あらゆる子供にとって成立する危険性もある。それは、「精神発達の機会を奪われること」である。つまりは、「時間を奪われること」である。人のもつ時間は一定であるからだ。換言すれば、私は「ゲームと読書(または交遊・運動など)を、同時になすことはできない」ということを言っているだけだ。この問題の件は、本日別項(次々項)で。


● ニュースと感想  (11月12日b)

 「ゲームとストレス発散」について。
 たくさん来た多くの感想のなかでは、次の感想だけは注目できる。
 「自分は小学4年生くらいから楽器をやっていまして、最近は自分の職業にするつもりです。というわけで楽器を練習する為にそれ以外の事の時間を少し減らしていまして、そのおかげでゲームなどがどれだけ時間の無駄かを実感しました。しかしそれでも時々発作的にゲームをやったりゲームのキャラクターに夢中(萌えてやつでしょうか?)になったりします。ストレス発散に近いですね。」
 ここで言う「ストレス発散」という効果は、確かにある。この「ストレス発散」について言及しよう。
 「ストレス発散」のためには、ゲーム以外にやるとしたら、何があるか? 次のようなのが代表的だ。
    パチンコ/競馬/酒/煙草/女遊び
    暴力非行/暴走族/(女ならば)水商売や売春
 これらはいずれも「非行」とされる行為だ。そして、これらのことは、近年では非常に減ってきている。パチンコと性的非行だけは盛んだが、それ以外のものは大幅に減ってきている。なぜか? 彼らは、ストレス発散のために、暴力などの非行をやるかわりに、ゲームをやるようになったからだ。
 こうしてみると、「ゲームにもメリットはある」と見えるかもしれない。しかしそれは、本質を逸らした発想だ。根本としては、非行やゲームに走るようなストレス状態が問題となる。
 「だからそのストレス状態を解消せよ」
 とは述べない。人々の人生の問題はそう簡単に片付く問題ではないからだ。たとえば、両親が離婚した少女が売春に走るとしても、この問題を容易に片付けることはできない。
 ただ、だからといって、「この少女はゲームでストレスを解消すればいい」というのは、あまりにも短絡的だ。私としては、むしろ、次のことを指摘したい。
 「ゲームにのめりこむ人は、現実世界において不幸である。その不幸から逃避するために、現実逃避の形で、ファンタジー世界で遊ぼうとする。」
 家庭が壊れていたり、勉強がうまく行かなくなったり、恋愛がうまく行かなくなったり、……という、そういう不幸から逃れたくなる。そこで、ゲームに走って、ストレスを解消することがある。
 ここでは、「ストレス解消にはゲームがいい」と結論しないようにしよう。ゲームの世界に逃避するよりは、不幸な現実の世界を直視して、自ら正面きって対処するべきだ。人生に対しては、逃げることなく、正面からぶつかるべきだ。それが私の見解である。

 [ 余談 ]
 いやみったらしい悪口で言うと、こうだ。
 「ゲームというのは、現実世界では恋人ができないような、サイテーの醜男と醜女のためにあるものだ。彼らはいくら頑張っても、現実世界にはまともな恋人を見出せない。そこで仕方なく、ゲーム上の恋人と仮想体験をして、慰めを感じるのだ」
 まともな人間なら、これを読んで「まさにその通り」と感じるだろう。ゲームのなかの美女と遊ぶより、現実の恋人と楽しく過ごすだろう。そちらの方がずっとまともなのである。
 ただし、イカレた男は、彼女が部屋に遊びに来ても、彼女をほったらかして、ゲームばかりをやっている。
 「ねえ、ダーリン、二人でトランプでもしない?」
 「うるさいな。今、ゲームの萌えちゃんとうまく行くところなんだ。チャカチャカ。」
 こういう男がけっこういるんですよね。
 私としては、子供には「読書をしろ」と言うが、大人には「恋人とちゃんと過ごせ」と言いたいですね。恋人ができないで孤独なままゲームばかりやっているなんて、情けないと言ったら、ありゃしない。さっさと恋人を探しに街に出向くべし。ゲームを捨てて、恋人をゲットしよう。
( ※ ただし、妻帯者は、恋人を探して浮気するよりは、ゲームの方がマシかも。……妻にとっては。一方、本人にとっては、どうでしょうかねえ。)

 なお、「南堂はどうなんだ?」という声に対しては、こう答える。
 「まともな恋愛をやっているときには、ゲームなんか馬鹿らしくて、やってられません。素敵な彼女のことばかり考えているので、それだけで頭がいっぱいです」
 だから、私が暇つぶしをするなら、ゲームなんかやるより、次に記したサイトを読む方がずっと面白い。
  → 7月18日 (恋愛情報サイト)
 でもまあ、現実には、暇つぶしをするほどの暇がないんですけどね。


● ニュースと感想  (11月12日c)

 「ゲームの危険性」について。
 ゲームの「中毒性」の問題とは別に、ゲームの根本的な「有害性」や「欠点」についても論じよう。

 (1) 殺害
 ゲームのなかには、「敵を殺す」というタイプのゲームがある。これは明らかに有害だ。「殺す」ことに対して、感覚がマヒするからだ。
 相手が怪獣である場合には、あまりはっきりとしないかもしれないが、相手が人間(または人間そっくりの妖精)である場合には、はっきりとする。いくら悪い敵だからといって、平気の平左で人を殺せるようでは、その人の感覚は正常さを失っているのだ。
 人を殺すときには、「こんなことをしてもいいのか」と反省するのが正常な人間である。そこには、「殺される相手はひどく苦しむはずだ」という想像力・共感力がある。なのに、それがないとしたら、その人はもはや人間性を消失している。頭がイカレているのである。
 こういうふうにイカレた例としては、殺害事件を起こした女児などがある。まともな精神形成ができなかった例としては、萌えゲームにはまっているオタクがある。(これはどう見ても、ゲームによる悪影響だろう。)
 ちなみに、似た例で、もっと極端なものに、「ベトナム戦争症候群」というのがある。平気で人を次々と殺していくうちに、精神に異常を来たするようになる。あげく帰国してからも、対人関係をうまく構築できず、社会に適応ができなくなる。自殺する人も非常に多い。……これは、ゲーム中毒に似て、もっとひどい例だ。
 ここで思い出すのは、イラク人質事件のときの対応だ。ネットには、人質を攻撃する悪意の声がたくさん出回った。あのときは人々はほとんど発狂していた。ここで発狂していた人々と、ネット中毒の人と、ゲーム中毒の人とは、ほとんど重なりあうのである。……あのとき彼らは、平然として、「人質になった三人は死んでしまえ」というふうに語っていた。血も涙もなく。悲しみもなく。単にスイッチを押して殺すように。
 ここには、ゲームとの関連性がありそうだ。
   「ゲーム好き」=「殺人への感覚マヒ」=「現実の人間を平然と殺せる」
 という相関関係だ。
 ま、「ゲーム中毒は人を発狂させる」または「ゲーム中毒は人を殺人者にする」と言うと、言い過ぎかもしれないが、それでも、そういう一面はあるのだ。
( ※ これに該当するゲームは、「武器で相手を倒す」というタイプ。たいていのRPGが相当する。一方、これに該当しないのは、野球のようなスポーツゲーム。境界線上なのは、武器を使わないで手足を使う格闘系のゲーム。……なお、論述の対象外なのは、闘争のないゲーム。シムシティや萌え系や将棋などのゲーム。これらは、闘争の是非などは論じられない。)(チャンバラや西部劇などの映画は、似ているが、異なる。なぜなら、殺す意思をもつのは、登場人物であって、観客ではないからだ。ゲームの場合、ユーザーが参加するという特性ゆえに、危険性がある。悪役が死ぬとしたら、ユーザーが殺したからなのだ。「悪いやつを殺すのは良いことだ」と思い込んで、平然と殺しをするようになる。)

 (2) 虚構性
 虚構の世界はあくまで虚構の世界である。そんなところに閉じこもっていると、リアルな世界に入ることができなくなる。
 このことは、冗談ふうに言うと、こうだ。
 「ゲームでバーチャルな恋愛をするよりは、リアルな女性と恋愛をした方がずっといい。それが無理なら、テレビドラマで伊東美咲の電車男ドラマでも見ていた方がマシである」
 ま、ゲームもテレビドラマも大差ない、といえば、それはその通り。しかし、私がここで言いたいのは、「テレビドラマがいい」ということじゃなくて、「現実の方がいい」ということだ。
 なお、ゲームとの比較で言うと、テレビドラマがゲームよりも明らかに優れている点がある。それは、週にいっぺんしかやらない、ということだ。「いつでも自由にできるオンデマンド」ふうの長所こそが、ゲームの最大の難点である。皮肉。
( ※ DVDで「24」というドラマをぶっ続けで見る、という人がいるが、こういのは、ゲーム中毒と同じだから、有害だろう。仕事ができなくなりますね。テレビならともかく、DVDの長編は、危険である。)

 (3) 芸術との比較
 ゲーム好きの人の「ゲーム肯定論」というのを見ると、共通した難点がある。それは、次のことだ。
 「最高レベルの芸術と対比せずに、最低レベルの芸術と対比して、ゲームの優位性を主張する」
 最低レベルの芸術というのは、たとえば、ハリウッドのアクション映画だ。こんなものは、芸術としては、ゴミも同然である。こんなものと比較しても仕方ない。
 比較対象とするべきは、最高レベルの芸術だ。それは「崇高さ」を感じるような芸術だ。優れた文学や音楽には、そういうものがある。
 ただし、そういうものに触れても、いきなり感動できるわけではない。そういうものを理解するには、あらかじめ、低レベルの作品に触れて、自己を高めておく必要がある。最高レベルの芸術に共感できるように、自らをかなり高いレベルに高めておく必要がある。そのためには、日ごろから、文学や音楽に接しておく必要がある。
 とはいえ、ゲームばかりやっている限り、それは不可能だ。実際、ネットには「ネット語」とも言えるような、変な言葉遣いが流行っている。ここには明らかに言語能力の衰退が見られる。ゲーム中毒と、言語能力の衰退には、何らかの関連性がある。そしてまた、それは、思考能力の衰退とも、関連がある。
 人は、ゲーム機のボタンを選択する訓練をするよりは、自ら言葉で語る訓練をした方がいい。その意味では、「ブログ」は、なかなか良いものだ。どんなことであれ、毎日毎日、自分の感想を言葉にする訓練をしておくと、その人の精神を成長させるだろう。(ただし、掲示板に悪口を書くことばかりやっていると、精神を荒廃させる。だから、掲示板ではなくて、ブログに書きましょう。自分の言葉に責任を持って。)

 (4) 比喩で言うと
 芸術の「崇高さ」については変な比喩で言うと、次のように言える。
  ・ ゲームの感動 …… 性的快感
  ・ 芸術の感動  …… 初恋の感覚
 ゲームの感動というのは、「気持ちいい」という感覚であり、これは性的快感に似ている。直接的な感覚的な刺激としての快感。そのときだけは快感を感じるが、やり終えたあとは虚しくなる。(ついでに言えば、ゲームの場合には「リアルな性的快感」というより「バーチャルな性的快感」である。)
 芸術の感動は、初恋の感覚に似ている。それを知ったとたん、世界が一変する。感覚がすこぶる敏感になり、世界のすべてが色鮮やかになり、この世界のすべてが美しく見えてくる。あの少女の微笑する一つ一つの動作で、世界がすべて明るくなる。……そういう感覚は、性的快感とは、まったく別のものだ。
 「性的快感」しか知らない人に、「初恋の感覚」の大切さを説いても、馬の耳に念仏かもしれない。とはいえ、私としては、後者の大切さを述べておきたい。
 また、私が親の立場ならば、子供に対しては、前者しか理解できない人間ではなく、後者をしっかりと理解できる人間に、子供を育てたい。だから、私は、子供にはゲーム機を与えたくない。それが親として子供になし得る、最大の愛情だと思う。(ゲーム業界の人からは総スカンを食うだろうが。)

 [ 付記1 ]
 私はゲームについて「子供だまし」と述べたが、これはゲームというジャンルに対する批判ではない。あくまで「子供向けだ」という意味であって、世の中にある子供向けのアニメや子供向けのテレビ番組などと同様である。良し悪しではなくて、単に対象が大人でなくて子供である、というだけのことだ。
 で、子供が子供向けのソフトを見て喜ぶのは、当り前のことであり、別に、良くも悪くもない。ファイナルファンタジーやドラクエに子供が夢中になるのは、子供向けのものに子供が夢中になるわけだから、ごく当たり前のことである。良くも悪くもない。
 問題は、子供向けのもの(お子様ランチみたいなもの)を、大の大人がやって、それにはまりこんでいる、という状況だ。たとえて言うと、甘いケーキばかり食べたがって、普通のおいしい料理を食べたがらない、という状況だ。
 子供向けのものを「ガキっぽいな」と理解しながら、ゲームをやるのなら、まだわかる。しかし、子供向けのものを「子供だましだ」と理解するだけの能力がないとしたら、その人の知的水準は、子供レベルのまま、ちっとも発達していないことになる。
 子供がファイナルファンタジーにはまったからと言って、私はその子供を「幼稚だ」とけなすことはない。「子供らしい子供だな」と思うだけだ。ただし、大人がドラクエなんかにはまりこんだなら、「大人らしい大人だな」とは思わず、「子供っぽい大人だな」と思うだけだ。
 だいたい、ファンタジーという分野そのものが、ガキっぽいのである。子供がファンタジーに夢中になるのは自然だが、精神が発達するにつれて、ファンタジーという分野からは卒業するのが普通だ。
 具体的に言うと、lineage というネットゲームがあり、その動画(極端にデカいサイズ)がネットで公開されているが、これを見れば、「きれいだな、面白いなあ」と感じることはあっても、同時に、「馬鹿馬鹿しくてやってられないな」と思うのが、普通の大人であろう。そう感じないとしたら、現実認識が不足しているのである。
 人は、成長するにつれて、現実というものをよく認識するようになる。現実世界のさまざまな現象に深く興味をもつようになる。たとえば、荒唐無稽なSFドラマなんかよりも、ニュースを知りたがる。新しい怪獣や魔法が登場したかどうかなんかよりも、政府の景気対策や衆院解散を気にする。……こういうふうに現実社会に対する興味をもつのが大人であり、現実社会を無視してファンタジー世界にのめりこむのが子供じみたオタクだ。ファンタジーを好むゲームマニアが、現実から逃避して引きこもり症候群になりがちなのは、ごくごく当然なのである。
 というわけで、私は「ゲームは芸術的の低い下劣なジャンルだ」とは述べず、かわりに、「ゲームに接していると精神発達が阻害される」と述べるわけだ。
 ゲームを形容した「子供だまし」というのは、「芸術性が低い」という意味ではない。たとえば、「指輪物語」や「モモ」などは、子供向けの作品としては、かなり芸術性が高い。これらの作品は、子供ならば、ぜひ読んだ方がよい。とはいえ、これらの作品は、大人には読むに耐えないのだ。どんなにすばらしい芸術的な童話も、童話である限りは、大人には読むに耐えない。……それがつまり「子供だまし」という意味だ。
 ついでに言えば、あらゆるゲームが「子供だまし」であるわけではない。フライトシミュレータやシムシティは、子供向けではあるまい。また、18禁のエロゲーも、子供向けではあるまい。私が「子供だまし」と評価したのは、ファンタジー系のゲームに限られる。「ドラクエ」「lineage」「ワンダと巨像」などが該当する。
 オマケで言えば、私がフセインみたいな独裁者になったら、国民にゲームを無料で頒布する。たとえば、ファイルファンタジーやドラクエを無料で配布して、国民には一日中ゲームづけになるように強制する。なぜか? そうすれば誰も独裁政権を批判しなくなるからだ。夢想世界にのめりこんで、現実のことを忘れるからだ。そして、そうなったら、国民は喜んでゲームづけになるだろう。すばらしい洗脳政策。

 [ 付記2 ]
 前日分では、ゲームに限らず、テレビも映画も下らないものはみんな駄目、というふうに述べた。では、あれもこれも駄目なら、何ならばいいのか? 
 直接的には、崇高な芸術となるものがいい。とはいえ、崇高な芸術がたくさんあふれているわけでもない。ごく少数、あるだけだ。そして、その少数のものに触れることが、大切だ。
 具体的に言うと、崇高な芸術の例とは、たとえば、これだ。
   → ボードレール「悪の華」
 これにいつも触れていればいい、というわけではない。とはいえ、人生において一度は触れておくべきだし、その価値を十分に味わう体験が必要だ。

 [ 付記3 ]
 すぐ上では、「崇高な芸術」の例を示したが、だからといって、「これを読め」と進めているわけではない。「これを読めば万事OK」というほど甘くはない。なぜか? 読んでも理解できないことがあるからだ。
 崇高な言語芸術を、読んで十分に理解するには、それなりの言語能力が必要だ。当然ながら、そこいらの小学生は、「悪の華」を読んでも理解できない。「何だかめんどくさいことを書いているなあ」と思うだけだ。同様に、ゲームばかりやっている高校生や大学生も、小学生と同様に、貧困な言語能力のまま、「難しい言葉が使われているなあ」なんて思うだけだろう。
 というわけで、あらかじめ言語能力を発達させておく必要がある。崇高な芸術に触れる前段階として、幼稚な作品でもいいから、言語体験が必要となる。つまり、「多大な読書経験」だ。これが大事なのだ。
 子供なら、指輪物語のような幼稚な作品でもいいから、そういう幼稚な作品に触れるといい。そうして自己の言語能力を高めたすえに、何年かかけたすえに、優れた芸術作品に感動できるようになる。
 テレビゲームをやるより指輪物語を読むといい、というのは、前者よりも後者の方が優れた作品だ、ということではなくて、読書の経験が言語能力を養う、という意味だ。目の前に現れた画像を美しいと思うことは、馬鹿でもできるが、文字を読んで幻想的な世界を想像することは、馬鹿ではできないのである。
 無知な子供を利口にするのが、読書の役割だ。読書が大切だ、というのは、そういう意味だ。そして、そのことをよく示しているのが、次の文書だ。
   → 皇后陛下の講演

 [ 付記4 ]
 一般に、言語能力を高めるのには、非常に長い時間がかかる。単にしゃべるだけなら、一年間の訓練でも可能だが、五万語以上の単語の意味を理解できて(読めて)、1万語以上の単語を自由に駆使できる(書ける)、というふうにするには、普通の人生の二十年では足りない。ちなみに、高校を卒業したレベルでは、漱石を読んでもうまく理解できないだろう。(「こころ」だけは平易なので理解しやすいが。)
 言語能力と思考能力は深く結びつく。人間にとって「人間であること」は、「思考すること」とほぼ同義であり、「言語能力を十分にもつこと」とほぼ同義である。それゆえ、人間が人間らしく「自らの頭で考える」ためには、日ごろから十分な読書経験が必要なのだ。
 にもかかわらず、ゲーム浸りになると、読書する時間が奪われる。時間は限られているからだ。……かくて、ゲームをやればやるほど、「人間らしくなる」という成長の機会を奪われるのだ。これ以上成長したくない大人ならともかく、子供ならなるべくゲームよりも読書をするべきだ。大人であっても、自己を成長させたいと望むならば、ゲームよりも読書をするべきだ。特に、「漫然と読む」のではなく、「自らの頭で考えながら読む」というふうにするべきだ。
 私のゲーム論考を読んで、「おかしいぞ」と思ったり、「それはそうだ」と思ったり、いろいろと感想があるだろう。そして、それは、あなたが言語を通じて「小泉の波立ち」を読んだから、なしえたことだ。「小泉の波立ち」は決してゲームではない。言語表現だ。そしてまた、私の意見に対して読者の意見が寄せられたり、読者の意見に対して私が書いたりするのも、言語表現だ。
 言語と思考とは、ほとんど一体化しているのである。言語というものは、それほどにも大切なのだ。そして、その言語に触れる機会を奪うものがある。そこに私は警告をしているわけだ。

 [ 付記5 ]
 余談だが、上記の趣旨からすると、ゲームに代えて是非ともお勧めするものがある。それは「ブログ」だ。
 自分で毎日、何かを書くことは、とても有益だ。ただの日記だと、人の目を意識しないが、ブログだと、人の目を意識する。それゆえ、しっかりした文章を書く訓練になる。読書による「読む」訓練と、ブログによる「書く」訓練とを、ともになすべきだ。……自らの精神を発達させたいと思う人には、この二つを強くお勧めする。
( ※ なお、そういうことをやっていると、自然に、ゲームをする時間はなくなるし、パチンコや競馬をする時間もなくなる。時間は一定だから。当り前ですけど。)

 [ 付記6 ]
 誤解が来そうなので、あらかじめ注釈しておくと。
 私は別に、「ゲームは文学に比べて芸術性が低い」と述べているのではない。文学や映画にだって、芸術性の低い下劣な作品は山のようにある。ただし、クズの山のなかにも、ごくわずかながら、非常に優れた作品がある。それは人類の至宝だ。それに触れることが大切だ、と述べている。
 一方、ゲームは? 人類の至宝なんてものは、ありえない。なぜなら、「売れ線」狙いで、「面白い」ものだからだ。一般に、「エンターテインメント」とされるものは、とても面白いが、芸術性は低い。その点、あらゆるゲームはエンターテインメントだから、すべて芸術性は低い。ゲームというものは、「売れ線」を狙う限り、どんなに良くても、たかが知れているのである。ま、子供なら感動することもあるだろう。というわけで、「下らない」と述べるかわりに、「子供だまし」ないし「お子様ランチ」と表現したわけだ。
 とはいえ、このことは、あくまで、現時点でのゲームについて述べたものだ。ファイナルファンタジーや leneage なんていうお子様ランチとは違って、もっと深い人間性を感じさせるゲームが将来出てくる可能性を、否定するわけではない。そのヒントはある。「推理小説ゲーム・ブック」という書籍があって、あらゆる証拠などが提示されて、読者に推理を促すゲーム・ブックがある。これは大人向けであり、お子様ランチとは違う。
 で、これをさらに発展させると、犯人の心理を深く探る探偵ものになったり、人間心理を探索させる心理分析物になったりする。……で、これをテレビ・ゲームにすれば、大人向けのテレビゲームもできるだろう。「刑事コロンボ・ゲーム」なんてね。
 で、売れるか? 全然、売れないでしょうね。頭を高度に使うので、子供は買ってくれないので。というわけで、お子様向けのゲームばかりがあふれ、結果的に、ゲームはすべてお子様ランチとなる。
 一般に、小説というものは、一冊千円で十万部売れれば、採算に乗る。売上げ総額1億円。ゲームだったら? コストからして、売上げ総額1億円じゃ、とうてい採算に乗らない。賢い大人向けではなくて、馬鹿な大衆向けの、レベルを下げた作品しか商品化されない。というわけで、ゲームに芸術性なんかを期待するのが、もともと間違っているのである。ゲームという商品の狙いは、「大量に売れること」それだけだ。
( ※ また補足しておくが、「レベル低下」は、ゲームだけの特性ではない。映画であれ、文学であれ、売れ線狙いだとどうしてもレベルは低下する。ゲームの場合には、「売れ線狙い」がいっそうはっきりするから、レベルの低さがいっそうはっきりするだけだ。……なお、同様のことは、文学で言えば、「語彙レベルの低下」という形ではっきりと現れる。最近の文学は、村上春樹を初めとして、やたらと語彙レベルが低下している。情けないことだ。村上春樹も、「ノルウェイの森」のころにはもうちょっとまともな語彙レベルだったのだが、最近の作品ではどんどんひどくなってきている。読者の知的水準に合わせているのかも。)


● ニュースと感想  (11月13日)

 「良いゲーム」について。
 これまでに述べたことについて足りない分を、簡単に補足しておこう。
 私は別に「あらゆるテレビゲームは悪だ」と述べているわけではない。現状のテレビゲームの状況を見て、「テレビゲーム好ましくないものがほとんどだ(ゆえに注意)」と述べているだけだ。
 では、良いゲームというのは、あるか? そう考えてみると、ごく少数ながら、ある。
 まず、「良いゲーム」の条件を述べると、次の二点だ。
  ・ 中毒性がない。ちょっとやって、いつでも中断できる。
  ・ 相手を攻撃せず、相手に優しくする。
 これに適合しそうなものとして、「萌え系のゲーム」があるが、これは、優しくするように見えて、しょせんは下心があるゲームだ。相手のために優しくするのではなくて、相手を自分のものにするために一時的に優しいフリをするだけだ。「萌えちゃんをゲットしたら、あとはもう優しくしない。釣った魚に餌はやらない」というタイプだ。というわけで、これは「良いゲーム」とは言えない。
 とはいえ、上記の条件を満たした「良いゲーム」もある。

 (1) タマゴッチ
 タマゴッチは明らかに上記の条件を満たす。相手は人間ではなくヒヨコだが、人間のもつ優しさ(母性愛)を涵養する。おままごとふうでもあるが、これは、やればやるほど、その人が優しくなる。このゲームは、良いゲームだ。
( ※ この点からして、攻撃ばかりをするゲームは、小中学生の男子向けだ、とわかる。小中学生の男子がはまるのはわかるし、「絶対にやめよ」とは言わないが、いい年をした大人がやるのは、子供じみている。相手を攻撃して喜ぶなんて、私だったら倫理観からして、吐き気がしますね。……それが正常な大人の感覚だろう。)

 (2) ドライブ・シミュレータ
 ゲームセンターにあるレース・マシンをちょっと変えたもので、スピードを出す競争のかわりに、一般道路上の安全運転を訓練するもの。スピードを出すと高得点になるのではなく、事故を起こさないと高得点になる。
 要するに、事故を起こさない訓練になる。どういう場合に減点されるかは、JAFの発行する会員向けの月刊誌にある「次の一瞬」というような例を見ると良い。たとえば、信号の手前で、自動車が停止している。そこに横付けしようとする。そのとき、あなたは、どこに注意するべきか? 注意すべきところをうまく理解しないと、「歩行者の飛び出し」や「対向車の出現」などのせいで、事故を起こす。突発的な事故というのは、実は、ドライバーがうまく注意しておけば、次の一瞬を予測できるので、事故を防止できる。……こういうことを、シミュレータで訓練しておけば、とても役に立つ。

 まとめ。
 とにかく、「良いゲーム」の条件は、先の二点だ。逆に言えば、現状のゲームのほとんどは、それを満たさないので、「悪いゲーム」だ。「あらゆるゲームが悪い」ということはないが、「ほとんどのゲームが悪い」とは言える。ただし、例外はあるから、あらゆるゲームを排除するわけではない。子供が「タマゴッチがほしい」と言ったら、できれば、買ってあげましょう。

 [ 付記 ]
 ちょっと思ったのだが、兵器でゲームで相手を倒して喜んだりする人は、現実には、同級生と喧嘩することなんて、ほとんどないのではないか? 
 「相手を倒す暴力が面白い」と平然として感じられるようだったら、バーチャルではなく、リアルな体験を。つまり、夜の裏通りに出て、不良にからまれて腕力をふるうといい。それで殴ったり殴られたりすることで、暴力とは何かという意味をよく理解できるだろう。
 ゲーム機でバーチャルな暴力をふるって、それでストレスを解消するなんて、ひどい男だと思いますよ。私が女だったら、こんな男には絶対に惚れない。結婚したら、暴力をふるわれそうだ。
 一方、男の立場としては、「タマゴッチにはまっている女の子」というのは、かわいいと思いますよ。逆に、「格闘系のゲームにはまっている」という女の子は、願い下げだ。(男をボコボコにするのに快感を覚えるだろうから。怖い。)

 なお、ゲームの格闘マニアはともかく、リアルな格闘マニアは悪くない。たとえば、プロレス好きの男ってのは、悪くないですね。さらに言えば、自分の肉体で柔道をやる男は、とても良い。人を傷つける痛みを知っているゆえに、柔道をやる男は、かよわき女を傷つけないだろう。真に強い男は、一般に、むやみに暴力をふるわないものだ。暴力の痛みを自分の肉体で知っているがゆえに。


● ニュースと感想  (11月14日)

 「ゲームの芸術性」について。
 私があらゆるゲームを否定するわけではない。実際、次の記事の趣旨には、おおむね賛成する。
 http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20051111201.html

 ゲームはこれよりもっと深い心の奥まで入り込めるものだろうか。優れた小説や演劇のように、より繊細な感情――他人の不幸を喜ぶ気持ち、悲しみ、嫉妬――を刺激することができるのだろうか? 人はゲームで泣けるのだろうか?
 どうやらそのようだと、市場調査の米ボーエン・リサーチ社のヒュー・ボーエン氏は語る。
 実際、そのように大きな感動をもたらすゲームが存在してもいい。ただし、である。記事は次のように、具体的に例示する。
 最も感情的に影響を受けたゲームは何かという調査で、圧倒的な差をつけて1位になったのは『ファイナルファンタジー』シリーズだった。少女が殺されるシーンでは、涙を流し悲しみに暮れるプレイヤーも多い。感情喚起の点で、ゲームはやがて映画や音楽と並ぶか、もしくはそれらを凌ぐという意見もある。
 友人の目を見たとたん、私は何か悪いことが起こったのだと悟った。それは1997年のことで、友人はリリースされたばかりの『ファイナルファンタジーVII』(FFVII)をプレイしていた。その日の午後、友人は最愛の魔法少女エアリスがいきなり理不尽に殺されてしまう有名な衝撃的シーン(WMV動画)に行き着いたのだ。
 友人は、まるで家族を失ったかのようだった。
 結局のところ、1997年に悲しみの底に沈んだのは私の友人だけではなかった。『FFVII』でのエアリスの死は「ゲーム業界にとってある種の重要な転機」だった。ボーエン氏は、ゲーマーたちがアンケートに記したコメントを根拠に、ゲームで初めて本物の心痛を味わったからという理由で、多くのゲーマーが『FF』を選んだのだと論じている。改めてそのシーンを観返してみて、私は理由が理解できた。その悲しみはほとんどワグナー的と言ってもいい。エアリスが倒れ込むと、生命力の玉が彼女の体内から現れ、ゆっくりと弾みながら離れ去っていく。跳ねる玉に合わせて葬送のメロディーが奏でられる。現代のティーンエージャーたちが『FF』に使われた音楽を演奏する(日本語版記事)オーケストラの公演に列をなすのも頷ける。それほど心に染みるのだ。

 この動画を見て、私が感じた感想は……
 感動のあまり、涙をこぼしたか? とんでもない。「爆笑」である。あまりにも幼稚な画像は、操り人形(マリオネット)ふうだが、もっとひどい。しいていえば、ひょっこりひょうたん島だが、もっとレベルは低い。幼稚の極み。見たとたん、爆笑。
 ま、画像のレベルは、最近のファイナルファンタジーなどでは非常に洗練されてきたから、画像の良し悪しはここでは論じないことにしよう。それでも、上記の「エアリスが倒れ込むと、生命力の玉が彼女の体内から現れ、ゆっくりと弾みながら離れ去っていく。跳ねる玉に合わせて葬送のメロディーが奏でられる。」というのは、幼稚の極みですね。これを最新の画像できれいになめらかに描写したとしても、「生命力の玉が彼女の体内から現れ、ゆっくりと弾みながら離れ去っていく」というファンタジー性そのものが、現実性がなくて、馬鹿らしくて見ていられない。……「生命力の玉」? そんなもの、大の大人が、信じるはずがないでしょうが。ガキじゃあるまいし。
 「最高のゲーム」と圧倒的な評価を得ているゲームでさえ、このようなガキっぽいものだ。で、「だから駄目だ」とは言わない。「だから子供向けだ」と言うだけだ。
 こんなものに感動する人たちってのは、大人向けの作品で感動したことはないのだろうか? 別に、「悪の華」という崇高なものでなくてもいい。通俗的な映画の「カサブランカ」「第三の男」「風と共に去りぬ」でもいい。こちらの方が圧倒的に深い感動がある。それは「人間性を示す」という感動だ。「男と女が、愛と悲しみと苦しみで引き裂かれる」ということの感動だ。
 「生命の玉」? 感動するどころじゃないでしょう。まともな大人から見れば、馬鹿馬鹿しくて、ゲラゲラと笑い出してしまうだけだ。泣けるとしたら、笑い泣きだ。あんまり馬鹿馬鹿しくて、腹をよじって、涙が出てしまう。

 最後に、はっきりと言っておこう。「星の王子様」に次の言葉がある。
 「本当に大切なものは目に見えないんだよ」
 その通り。どんなにCGが発達しても、愛や優しさや生命そのものは、決してCGにはならない。かろうじて、CGにしようとすると、それを象徴化して「生命の玉」のように画像化するだけだ。しかし、そんなふうに画像化しても、何にもならない。
 大人向けの作品では、「生命の玉」や「愛の箱」なんかを一つの画像で描写するのではなく、生命そのものや愛そのものを、多大な分量の媒体で描く。見えないものを見える形にCG化する、という手法を取った時点で、その作品はもはや強い制限を受けているのだ。テレビゲームは、豊かな画像を駆使するから従来の芸術にない広い範囲を扱えるのではなく、逆に、画像で表現できる狭い範囲のものしか扱えないのだ。
 人が愛や生命を理解したいと思えば、「CGにしてほしい」と思うのではなく、愛や生命を「目を閉じて感じる」ことが大切だ。── 「本当に大切なものは目に見えないんだよ」と私も言いたい。

( ※ この点で言えば、比較的まともなのは、映画の「トイ・ストーリー」などだ。この会社[ピクサー]のCGアニメは、ちゃんと愛や悲しみをうまく表現している。だから、「CGでは絶対にできない」とは言わない。とはいえ、現実には、こういう良質のものは非常に少ない。また、「トイ・ストーリー」は、ゲームではなく映画だ。良質なものになると、ゲームよりも映画の方が適しているのかもしれない。実際、最近のゲームは、どんどん映画に近くなってきている。ゲームの限界を自覚し始めたのかも。)

 [ 付記1 ]
 上記の記事を見て思うのは、ゲームというのはやはり弊害がある、ということだ。「精神発達の阻害」という弊害だ。あんな子供じみたものを「すばらしい」と称賛する記事を書いて平然としていられるなんて、この記者は精神がまともに発達していない。12歳ぐらいの精神レベルでストップしてしまっている。
 このような記者だと、たぶん、複雑な精神をもつ大人の女性と交際することは不可能だと思える。……そういえば、「オタク」という用語は、それを意味するのかも。

 [ 付記2 ]
 ゲームについて「子供じみている」と述べたのは、「多くのゲームが子供じみている」ということ。大人向けのゲームがあったとしても、それはそれでいい。別に「あらゆるゲームは子供じみている」と主張しているわけではない。「子供向けのゲームは子供じみている」と主張しているだけだ。
 子供向けと大人向けの違いは、単なるパズルを越えた深い人間性が含まれているかどうかだ。文学で言えば、ただのパズルのような推理小説は子供じみているし、背景の心理が十分に書き込まれていれば大人向けだ。……この意味で言うと、大人向けに刊行された名探偵ホームズは、子供じみている。だから実際、リライトされて、子供に大人気だ。
 なお、ファンタジーという分野そのものを否定しているわけではない。たとえば、東野圭吾「秘密」という小説がある。「人格の交替」というファンタジーものの一種だ。ただ、そこらのゲームと違って、事件にともなう人間精神を深く描写しているので、深い味わいがある。大切なのは「攻撃に参加する楽しさ」なんかではなくて、「人間性の描写」なのだ。……その意味を理解するためにも、この小説はお薦めである。

 [ 付記3 ]
 ついでに言えば、「ゲーム」というジャンルを必ずしも全否定しているわけでもない。現実にはほとんどが子供じみてはいるが、将来的には高度な芸術性をもつものが出るかもしれない。その具体的な形として示唆的なのは、映画の「2001年 宇宙の旅」だ。……これは、映画ではあるが、現在のゲームの世界とだいたい同じような分野を扱っている。しかも、高い精神性がある。小学生には理解できないだろうが、大学生には理解できるだろう。これに似たゲームができる可能性も、なくはない。
( ※ とはいえ、お子様は買ってくれないから、売上げはあまり期待できないが。……ただし、画像を貧弱にして、ストーリーを主流にすれば、低コストで作成できるので、採算に乗るかも。「画像の貧弱なゲーム」こそ、将来的に見込みがある。)
( ※ ところで、「誰でもゲームを作成できる、ゲーム作成ソフト」って、ないんですかね? マックの何とかカードみたいなので、できないのかな? 静止画の紙芝居ふうでいいんですけど。もしかしたら、すでにあるかも。ゲームをやるよりは、ゲームを作る方が、お勧めです。)


● ニュースと感想  (11月14日b)

 「ゲーム論議の補足」について。
 どうも私の主張を誤解している人が多いようなので、補足しておく。(特に読む必要はない。)
 私は別に、「ゲームをすること」の意義を論じているわけではない。ゲームをすることにメリットはあるか、と問われれば、メリットを否定しない。いわゆる「感動があるぞ」という意見のほとんどは、メリットを主張しているのだろうが、私は別に、「メリットはないぞ」というふうには主張していない。
 私が主張しているのは、「デメリットがある」ということだ。メリットがあろうとなかろうと、とにかく、デメリットがある。ここに警告を発している。その上で、
 「デメリットがあるのはわきまえながら、ゲームをするのなら、まだいい。しかし、デメリットを理解しないで、メリットばかりに注目していると、中毒になる」
 と警告を発している。
 とにかく、私は、ゲームの良し悪しを評価している(メリットとデメリットの総計見る)わけではない。「ゲームをやってはいけない」と言っているわけでもない。 「やると危険性がありますよ」と警告するだけだ。その警告を聞くかどうかは、各人が決めればよい。

 [ 付記 ]
 次の意見が Openブログに来た。

> 「推理小説ゲーム・ブック」〜略〜「刑事コロンボ・ゲーム」なんてね。
> で、売れるか? 全然、売れないでしょうね。

11年も前の時点で「かまいたちの夜」が出ていますよ。普通に子供にも売れた有名作品です。
いわゆるノベル系ゲームはほとんどゲームブックの延長線上と捉えられるでしょう。多数の作品があります。
現代の推理モノでは(かまいたちの夜とは趣が違いますが)「逆転裁判」が大人子供ともに大人気です。
他に探偵モノとしては「探偵 神宮寺三郎」シリーズがSFCの時代からPS2まで末永く続いていたりしますね。

以上が、南堂さんがゲームを知らないという理由です。(他にも出てくるでしょうけど)
そもそもゲームをやってないから当然な話なんですけどね…。
 言っていることはまったく正しい。ただし、そういうものがあろうがなかろうが、「ゲーム中毒の問題がある」という趣旨には影響しない、と思う。
 私は別に、「あらゆるゲームは駄目だ」と述べているわけではない。「刑事コロンボふう」が、あるかないかとか、売れるか売れないかとか、そういうことは別として、そういうゲームならば問題ない、と述べている。また、そういうゲームがあってもなくても、どっちでもいい。やってもいいし、やらなくてもいい。
 私は、「あらゆるゲームは駄目だ」と述べるかわりに、「ゲーム中毒という問題がある」と指摘しているだけだ。「刑事コロンボふう」であれ、他のゲームであれ、中毒にならずに、ただの軽い暇つぶしふうにしているだけなら、特に問題にするには当たらない。(攻撃性のないただの娯楽ゲームならば。)
 前にも述べたが、「あらゆる酒は駄目だ」と述べているのではなく、「酒の中毒に注意しよう」ということだ。そして、酒は確かに、「飲み過ぎは有害」なのである。「あらゆる酒は有害だ」とは言わない。
( ※ で、私が「酒の飲み過ぎに注意」と警告したら、「飲兵衛(のんべえ)でもないくせに、酒を論じるな。最高級のワインやドンペリのうまさも知らないくせに」という批判が来そうだが、別に、飲兵衛でなくても、「飲み過ぎ注意」と言ってもいいんじゃないですか? ……逆に言えば、飲兵衛の人が「飲兵衛になるのをやめよう」と警告しても、全然説得力がないと思いますが。)


● ニュースと感想  (11月14日c)

 「ゲームと攻撃性」について。
 ゲームをやること自体の論議とは別に、その背景について、心理学的に言及しよう。
 「ゲームをやるとストレス解消になる」
 と多くの人が言う。たしかに、その通り。では、なぜか? この問題に、あなたはどう答えるか? 
 「画像がきれいだから感動する」
 「音楽がきれいだから感動する」
 「キャラクターがかわいいから感動する」
 「暇つぶしになるからリラックスする」
 という意見も出そうだが、どれもが見当違いだろう。心理学的に言えば、こうだ。
 「人であれ、動物であれ、ストレスが溜まるとやたらと攻撃的になる」
 このことは心理学・生物学的に、はっきりと裏付けられている。そして、ストレスを解消する方法として、従来は次のようなことがなされてきた。
 「プロレスやボクシングで、他人が代理的に攻撃するのを観戦する」
 「柔道や剣道で、攻撃性をスポーツに転じたのを実行する」
 「ゲームのモグラたたきをやる」
 「パンチング・バッグをぶん殴る」
 これらは特に問題がないだろう。しかし、次のようになることもある。
 「学校のクラスメートのうちの、弱い奴をぶん殴る」
 「学校のクラスメートのうちの、弱い奴をネチネチといじめる」
 こういう「暴力」や「いじめ」は、なぜなされるか? 彼らが根本的な悪人であるからか? 違う。彼らはストレスが溜まっているから、ストレスを発散するために、他者を攻撃するのだ。実際、「暴力」や「いじめ」をやる子供は、心に鬱積した不満が溜まっているのが普通だ。「幸せいっぱい」と感じている子供は、他者に優しくなるから、決して他人を攻撃したりしない。

 大人についても、同様のことは言える。一般に、ゲームにはまるのは、妻帯者よりも独身者が多い。なぜなら、「家庭の安らぎ」を得られないからだ。逆に、「恋人と恋愛していて幸せいっぱい」と感じる人は、彼氏や彼女のことを思って、頭がハートマークでいっぱいだから、(他者を攻撃することで満足するような)ゲームなんかやる気はしない。

 というわけで、誰かが「ストレス解消のため」と主張したら、その人の背後の心理に注目しよう。「ストレス解消のため」と主張してゲームをする人は、内面に問題を抱えており、しかも、それを、間違った方向(他人への攻撃性)で解消しようとしているのだ。
 このことは、タマゴッチを例にすると、よくわかる。タマゴッチをやる女性とは、自分の優しい母性本能を発揮するためにタマゴッチをやる。決して「ストレス発散のため」にタマゴッチをやるわけではない。

 なお、私としては、ストレス解消のためには、次のことをお勧めする。
   ・ 妻帯者ならば家庭で妻子と遊ぶ(旅行など)
   ・ 独身者ならば恋愛する
   ・ 適度に酒を楽しむ (ビール1本)
   ・ 音楽を聴く
   ・ 休む
   ・ スポーツ(ジョギングなど)をする
 最後の二項目は、私が心がけて実施していることだ。ゲームなんかより、こちらがお勧め。お金もかかからない。
( ※ 絶対にお勧めしないのは、ネットの掲示板で下品な悪口を書き散らすこと。これじゃ、攻撃的なゲームをやっているのと、同様だ。)

 [ 付記 ]
 「有益なゲーム」というのも考えられる。それは、現状のゲームとは、正反対のものだ。つまり、
 「自分は正義だから、悪の敵をやっつけていい」
 というのではなくて、逆に、
 「正義を自称する相手から殺されかかって、必死に逃げる」
 というタイプだ。たとえば、こうだ。
 「『われわれは正義の星条旗軍である。われわれは悪の敵を全員殺しても良い』という相手がやってきて、『大量兵器がある』という嘘の名分をこねあげて、あなたの周辺を探索する。それに反発した一部の若い男が星条旗軍を攻撃する。すると、星条旗軍は怒り狂って、あなたの仲間の全員を『テロリスト』と呼び、女も子供も老人も見境なく、どんどん殺していく。あなたは必死に逃げる。ときどき対抗して、落とし穴などに相手をはめるが、すると相手はますまし怒り狂って、必死に殺そうとする。……うまく生き延びれば、ステージをクリア。星条旗軍に殺されたら、ゲームオーバー」
 これは、殺される側の苦しみを仮想体験できる。できれば、死ぬときには電撃ショックが手を襲うといい。殺される痛みを実感できるように。……こういうゲームはお勧めです。(売れないでしょうけど。)
 今のゲームは、殺す(倒す)ことの快感を味わうためにある。「攻撃性」だ。





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「小泉の波立ち」
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