[付録] ニュースと感想 (88)

[ 2005.05.30 〜 2005.06.07 ]   

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● ニュースと感想  (5月30日)

 「日中の対立」について。その1。
 ( ※ 4回連続のシリーズ。4日目に完結します。全部読み終えるまで、判断を保留していてください。)

 日中が対立している。最近の動きをまとめれば、ざっと、こうだ。
 「中国の市民に反日運動があった。日本企業に被害が出た。しかし中国政府は反日運動に肯定的だった。」
 「日本側はそれに反発した。世界各国も、中国に批判的だった。すると中国は、掌を返したように、反日運動を抑圧した」
 「日本はいい気でいたところに、中国の副首相が来日して、小泉首相との会談をキャンセルして帰国した。日本は顔に泥を塗られた気分になり、『非礼』と非難した」
 「ここにいたって、長年の日中対立が噴出した。領土問題やら歴史問題やら反日教育やら、あれやこれやと対立が噴出した。ほとんど喧嘩状態である。」

 以上が、だいたい、最近の動きだ。で、「中国になめられるな」という論調が保守派では強い。このあと、私の見解を示そう。

 (1) イヤミ
 保守派はやたらと、威勢がいい。小泉の尻馬に乗って、小泉擁護のために、しきりに論陣を張っている。
 ここで一発、私のイヤミを利かせておこう。保守派の意見とは、こうだ。
   ・ 相手が○○であるとき …… 「国益」を理由に、卑屈になり、ぺこぺこ。
   ・ 相手が△△であるとき …… 「国益」を理由に、居丈高になり、威張り散らす。
 相手に応じて、犬のように卑屈になったり、逆に、やたらと威張ったりする。どうしてでしょうねえ。私の解釈を言えば、「白人コンプレックス」である。英語を話す白人に対しては、犬のように卑屈になる。中国語を話す黄色人種に対しては、やたらと威張り散らす。……その理由は? 自分が黄色人種だから。……正確に言えば、「自分は名誉白人だ」と信じている黄色人種だから。  (^^);
( → 「名誉白人」検索 …… このうち、最初のページのデータは、面白い。)

 (2) 二重基準
 冗談はさておき、論理的な話を述べよう。たいていの保守派は、「勝ちか負けか」を考えている。「卑屈になると、日本が負けて、国益を損なう。だから、ぺこぺこせずに、はっきり対立するべきだ」と。
 ふうむ。その意見は、わからなくもない。ただし、どうせ主張するなら、中国でなく、米国に向かって言ってほしかったですね。相手に応じてコロコロと態度を変えるポリシーというものは、ダブルスタンダード(二重基準)であり、とうてい説得力を持たない。

 (3) 核心
 では、核心は何か? 一言で言おう。それは、問題は「勝ちか負けか」ではない、ということだ。
 「勝ちか負けか」だけが問題であるなら、最終的に勝ちをめざすべきだろう。そして、その前提は、戦うことだ。戦う以上は、最終的に戦争に行きつくことを覚悟するべきだ。
 私ははっきりと問いかけたい。「あんたたちは本当に戦争をする覚悟があるのか」と。「命を賭けて中国と戦い、自分の命を銃弾の前にさらけ出し、血を流して死ぬ覚悟があるのか」と。
 靖国にまつられている戦死者は、その覚悟があった。だから、死んだ。しかし今、中国との戦いに勝とうとしている連中は、死ぬ覚悟があるのか。おそらく、あるまい。自分では死ぬ覚悟もないくせに、「中国に負けるな」とほざいている。自分では戦う覚悟もないくせに、やたらと威勢のいいことばかりを言っている。……こういう臆病者の連中が、「靖国、靖国」と騒ぎ立てているのだ。
 靖国に参拝することが大事か? 違う。靖国にまつられるように、命を賭けて戦い、そして死ぬことが大事だ。そして、死ぬ覚悟もないような臆病な連中は、靖国を語る資格はないし、中国と口喧嘩する資格もないのだ。「中国に負けるな」と口に出せる資格のあるのは、命を賭けて戦って死ぬ覚悟のある者だけだ。
 要するに、「靖国、靖国」と騒ぎ立てている連中は、最も臆病者の連中である。こういう連中は、やたらと戦争に仕向けたあとで、自分だけは徴兵から逃れようとする。小泉であれ、保守派のマスコミであれ、たいていはそういう連中だ。人間のクズと言えよう。
( ※ 相手が中国であれ何であれ、喧嘩をする気があるのなら、死ぬ気でやるべきだ。それだけの覚悟もなしに、ペラペラとタカ派的な主張をするのは、三下だ。本気で喧嘩をする度胸もなしに、口先だけでイヤミだけを言う。ドラエモンのスネ夫みたいなものだ。だから口先がとんがってくる。……小泉は、スネ夫に似ている。)

 (4) 本質
 本質を考えよう。日本と中国の間で大切なのは、何か? 日本の勝利か? 中国の勝利か? いや、どちらでもない。両国の友好だ。
 最終目的は、両国の友好なのだ。つまり、両国がともに得をすることだ。これは、マクロ的な発想だ。しかるに、保守派は、ミクロ的な発想をするから、すべてを配分の問題で片付ける。
  ・ 中国が得 (中国の勝ち)
  ・ 日本が得 (日本の勝ち)
 このどちらかから選択しようとして、後者を選択しようとする。そこに根源的な間違いがある。正しくは、「中国も得、日本も得」である。つまり、双方の利益がともに増えることだ。要するに、「平和と友好」だ。これが最終目的となる。
 そして、ここを理解しないと、「どっちが得をするべきか?」と考えて、「日本が自分の利益を増やせばいい。さもないと中国に日本の利益を食いつぶされる」と思い込む。
 「どっちが得か」「どっちが勝ちか」というミクロ的な判断を捨てて、マクロ的な判断を取るべきなのだ。

 (5) 「タカ・ハト」ゲーム
 では、マクロ的な判断を取らないと(ミクロ的に配分だけを考えると)、どうなるか? それは、「ゲームの理論」で明らかになる。双方が自分の利益を取ろうとすると、双方がともに傷ついて、双方がともに損をするのだ。つまり、マクロ的には、両者の利益の総和が減少する。
 このことは、「タカ・ハト」ゲームとして、先に述べた。( → 4月14日c )それを参照にしつつ、新たに述べ直そう。
 まず、「タカ・ハト」であっては、駄目だ。日本の利益を一方的に奪われるだけだ。
 そこで、それに反発した保守派が、「ハトでなくタカになれ」と主張した。すると、「タカ・タカ」になった。ここでは、双方が損をする。……これが現状だ。
 だから、日本としては、「ハト」であっても、「タカ」であっても、どちらでも駄目だということになる。「どちらがいいか?」と質問されても、「どちらも駄目だ」と答えるしかない。
 では、どうするべきか? 答えは、先に示したとおりだ。「タカ・ハト」では状況は安定してしまう。そこでいったん「タカ」に転じて、「タカ・タカ」になればいい。ただしこの状況は、双方にとって損である。そこで、いったん「タカ・タカ」にはなるが、その後、「ハト・ハト」に移行することを、目標にするべきだ。つまり、「ハト・ハト」をめざして、一時的に「タカ・タカ」になるべきだ。これが正解だ。
 現実は、どうか? 保守派は「タカ・タカ」であることが正解だ、と主張している。それは、とんでもない勘違いだ。「タカ・タカ」は、一時的には許容されるが、最終目的ではない。最終目的ではない状況にいつまでも安住すれば、破滅的な事態となる。最悪の場合、戦争になって、日本に中国の核弾頭が降ってかかる。
 「タカ・タカ」は、善ではなくて、一時的にのみ許容される必要悪だ。「タカ・タカ」政策を取ることはあってもいいが、「これは最悪の状況だ」とわきまえながら、その政策を取るべきだ。「これは最善の状況だ」と思い込んで「タカ・タカ」政策を取るとしたら、ほとんど狂気である。

 (6) チキンゲーム
 チキンゲーム( game of chicken )というものがある。二つの自動車が正面衝突する形で走行し、弱気になった方がハンドルを逸らして、負ける。
 ここで、通常、どちらかが勝ち、どちらかが負ける。しかし、最悪の場合、双方が死んでしまう。(映画の「理由なき反抗」では、崖に向かって二つの車が並走し、一方が崖から落ちて死んでしまった、というふうになった。これはチキンレースないしチキンラン。)
 今の日中は、チキンゲームの関係に近い。勝ち負けだけにこだわり、大切なことを見失っている。「勝とう、勝とう」とだけ主張して、空威張りの競争をやっている。狂気の沙汰だ。
 そして、それというのも、「最終目的は双方の友好だ」という本質を、理解しないからだ。

 [ 余談 ]
 ただし、私がこう言うと、タカ派が必ず、反発する。「友好なんて、軟弱だ。腑抜け野郎め。そんな軟弱なハト派の態度だと、相手に付け込まれるぞ」と。
 こういう批判をする人の頭には、「タカ」と「ハト」との二種類しか概念がないわけだ。物事を二分法で考える、単細胞の頭。ゲーム理論なんていう高度な理論は、とうてい理解できないわけだ。
 で、こういうふうに威勢のいい連中は、いざ戦争になったら、威勢よく戦うか? とんでもない。徴兵忌避をやる。その実例は? 米国大統領。ブッシュですよ。小泉の好きなブッシュさんですよ。……彼は、戦争に出て英霊になろうとはしませんでした。
 つまり、ハト派のことを「腑抜け」と呼ぶ連中こそが、一番腑抜けなのである。これを称して、「空威張り」という。小泉と同じかな。(中国には威張り、米国にはペコペコ。)
 イヤミな私としては、こういう連中に対して、「顔を洗って出直せ」と言ってやりたいね。正確に言えば、「温水洗浄便座 で顔を洗え」とね。


● ニュースと感想  (5月31日)

 「日中の対立」について。その2。
 前日分では、「何をなすべきか」という形で、問題を正面から扱った。本日分では、「何をなしてはならないか」という形で、問題を脇から扱おう。

 (1) 礼儀
 中国の副首相が会談をキャンセルしたことに対して、「非礼だ。礼儀をわきまえない」という批判の声が、保守派を中心にして、湧き上がった。一見、もっともらしいが、これは物事の本質を逸らす主張である。
 だいたい、非礼なら非礼で、どうってことはない。いちいち騒ぐ方がどうかしている。朝日の夕刊のマンガで、デートをキャンセルされた男が、「これは日中問題のキャンセルと同じだ」というような文句を言っていた。これは、マンガチックであり、冗談のようであるが、このマンガの意見が正しい。
 たかが会談のキャンセルぐらい、どうってことはないではないか。その分、首相に暇ができただけだ。だいたい、面会のキャンセルなんて、日常茶飯である。当の首相自身、毎日のように、陳情者を相手に、しょっちゅうやっているはずだ。「陳情を受けるアポを入れていましたが、キャンペーンガールと仲良くしている時間が長くなったので、アポの受け入れはキャンセルします」なんてことは、しょっちゅうあるはずだ。
 ついでに言えば、ホテルの予約だって、キャンセルはしょっちゅうである。( → 楽天トラベル 掲示板 。ここで表示ボタンをクリックすると、苦情の文句が山のように出てくる。客からのキャンセルを見込んだゆえの、オーバーブッキングがあり、そのせいでホテル側のキャンセルがある。)
 はっきり言っておこう。アポをキャンセルされたぐらいでガタガタ言うのは、男らしくない。そういうのは、女々しすぎる。女だったら細かなことにいちいちギャーギャー文句を言うのは仕方ないが、男だったらアポをキャンセルされたぐらいで騒ぐんじゃない。自分がみっともなくなるだけだ。(朝日のマンガを見れば、よくわかる。)
 だいたい、一国の首相の仕事は、「キャンセルされたから悔しい」と大騒ぎすることではあるまい。マスコミの仕事も同様だ。政治家もマスコミも、女の腐ったような連中が多すぎる。(……ついでだが、これは性差別の表現ではありません。)
 先のマンガとの比較で言おう。あのマンガの指摘は、なかなか秀逸だった。漫画家の方が、政治家よりも、ずっと優れた認識をしている。現実がマンガに追いついていない。現実がマンガ以下だ。

 (2) 政治問題
 では、礼儀の問題ではないとしたら、何の問題だったのか? もちろん、政治の問題だ。
 要するに、中国の副首相が会談をキャンセルしたのは、政治的な意味があったわけだ。「キャンセルすることによって、中国側の不快感を表明する」というふうに。つまり、暗黙のメッセージが込められていたわけだ。会って語ることをやめた、ということ。そこでは、何も語らないことによって、何かを語ろうとしたわけだ。沈黙によって語ろうとしたわけだ。
 こんなことは、まともな社会人なら、誰でもわかる。ところが、阿呆な政治家や阿呆なマスコミは、ここにある政治的なメッセージを理解できない。政治的に理解することができず、礼儀の問題に帰してしまっている。( → 週刊ポスト6月10日号 など。)
 これでは、物事の意味を何も理解できないことになる。低能。政治的音痴。文字を読めない人間を文盲というが、今の政治家は政治的な文盲に等しい。何しろ、暗黙のメッセージを読み取れないのだから。(政治的なメッセージを読み取れず、礼儀の問題としか解釈できない。)
 逆に言えば、小泉や保守派が、いかに政治的に無能であるかが、よくわかる。彼らは、日中の会談を、もともと、ただの礼儀としてしか認識していなかったのだ。「権力者同士が会う」というのを、礼儀の問題としてとらえるだけで、政治的に何かを解決するための場だとは考えていなかったわけだ。
 すべてをパフォーマンスの場とだけ考えていて、何一つ実行しようとしない首相。それは、どこの国の誰でしょう? セレモニーとしての会談をキャンセルされたら、彼は、喜ぶでしょうか、怒るでしょうか? 
 仮に、私が首相だったら、セレモニーがなくなったら、その分、実務ができると喜ぶが。たぶん、この首相にとっては、セレモニーというのは、美味しい食事を食べる場だったのだろう。で、美味しい食事を公費で食べられなくなったから、八つ当たりしているのだろう。

 (3) 謝罪と靖国
 もう一つ、根源的な勘違いがある。
 小泉と中国副首相との会談の前に、自民と公明の幹事長が、中国の主席と会談した。(読売・朝刊 2005-05-23 )
 ここで出た話などを読んでも、日本側がいかに物事を勘違いしているか、よくわかる。簡単にまとめると、こうだ。
  中国側 「靖国参拝をやめよ」
  日本側 「謝罪ならもう何度もやっている。日本は十分に反省している」
 これではまったく議論が噛み合っていない。そのことはわかりますよね? 
 中国側の要求は、謝罪ではない。「謝罪しました。反省します」なんて言っても、あまりにも食い違いが多すぎる。
 中国側は、「謝れ」なんて言っていないのだ。「謝れ」とわめく中国人もいるが、中国政府は「謝れ」なんて言っていない。単に「靖国参拝をやめよ」と言っているだけだ。両者は、全然別のことだ。なのに、どこをどう取り違えているんだか。与党の政治家に、「あんたたちの頭に論理力というものがあるのか?」と問い質したくなるね。
 要するに、日本の政治家が「謝罪した」なんていくら主張しても、相手の言い分を理解するだけの言語力がないという、おのれの白痴を示すだけだ。文句を言うより、言語力を身につけるべし。これでは、政治的な文盲というより、ただの文盲だ。

 (4) 内政干渉
 で、「靖国参拝をやめよ」といわれたあと、理解して、まともに反論することもある。(文盲でなくなることもある。)
 「それ(靖国参拝をやめること)は、内政干渉だから、受け入れられない」
 という理屈だ。これには、呆れたね。舌足らずかと思ったら、今度は二枚舌だ。そもそも、小泉はこれまで、何と言ってきたか? こうだ。
 「靖国参拝は、公的だとも私的だとも明言しない。内閣総理大臣として参拝するが、公務であるとは明言しない。」
 こういうふうに、あえて隠蔽してきた。ところが、今度は、「内政干渉だ」と言い出す。つまり、「靖国参拝は、公的な公務だ」と。日本に対しては「公務だとは言わない」と隠蔽し、中国に対しては「公務だ」と明言する。二枚舌。論理矛盾(言語矛盾)。とすれば、自分が何をやっているかぐらい、ちゃんと気づくべきだ。あまりにもみっともない。馬鹿をさらすだけだ。

 (5) 問題の核心
 ここで、物事の根源に立ち返るといい。
 そもそも、靖国参拝は、何が問題か? 「参拝」が問題ではない。「靖国」が問題なのだ。ここを誤解しないようにしよう。
 中国は「戦没者の墓地に参拝してはいけない」と言っているのではなくて、「靖国は駄目だ」と言っているだけだ。だったら、話は簡単だ。靖国神社でなく、千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に参拝すればいい。そうすれば、日中の問題は、一切なくなる。(このことは何度も指摘されてきた。たぶん十万回ぐらい。)
 ところが、あこぎな政治家が、英霊を自分の政治的利益のために利用しようとする。「靖国」が問題であるのに、「参拝」が問題であるかのように、論理をすり替える。そうして、「参拝の仕方はその国の自由だ。主権の問題だ」などと言い張る。
 ところが、その参拝というのは、靖国という宗教施設への参拝であるから、憲法違反(公務員の宗教活動)である。だから当然、公務でも政治行動でも非合法である。小泉の参拝は、「違法な政治活動」という犯罪であるか、「ただの私的行動」であるか、どちらかだ。ところが、どっちであるにしても、都合が悪い。そこで、二枚舌を使う。
  ・ 国内向け …… 「政治活動じゃないから、違法じゃありません」
  ・ 中国向け …… 「政治活動だから、干渉を受け入れません」
 まったく、ひどいご都合主義だ。呆れるね。では、どうするべきか? 
 「靖国」と「参拝」を切り離すこと。「参拝」でなく「靖国」だけが問題だ、と理解すること。── これが大事だ。逆に言えば、これを混同しているのが、多くの日本人だ。頭が混乱しているから、問題をいたずらに混乱させる。自分で罠に嵌って、からまってしまって、「どうしてだろう?」と不思議がっている。馬鹿丸出し。
( ※ 最近になって遅ればせながら、このことに気づいた政治家がいる。実を言うと、これまでは、気づかないフリをしていただけだが。で、ようやく、「私的参拝」および「A級戦犯の分祀」という提案をしている。 → ニュース一覧

 (6) 靖国の意味
 では、靖国と参拝(戦没者への追悼)を切り離すと、どうなるか? このことを理解するには、日本を中国の立場(被害者の立場)に置いて、相手の立場で考えてみるといい。それには、日本と中国との関係を、米国と日本の関係に置き換えるといい。
 首相の靖国参拝を見て、「米国大統領がアーリントン墓地へ参拝するのと同じだ」というような意見も出る。しかし、とんでもない勘違いだ。アーリントン墓地に相当するのは、千鳥ヶ淵である。
 では、千鳥ヶ淵がアーリントン墓地に相当するとしたら、靖国は米国の何に相当するか。たぶん、次の二つだ。
 「(原爆を落とした)エノラ・ゲイの爆撃機乗りの墓地」
 「東京大空襲や横浜大空襲をやったB29の爆撃乗りの墓地」
 仮に、米国大統領がアーリントン墓地には行かずに、かわりに、これらの二つの墓地だけを訪れたとしたら、日本人はどう思うだろうか? 
 たとえば、米国大統領がこれらの墓地の前で、こう感謝する。
 「あなたたち爆撃機乗りは、すばらしいことをやった。あなたたちが祖国のために命を賭けて戦ったことで、米国は勝利した。あなたたちは米国の自由を守ったのだ。その偉大さを称え、感謝しよう」
 これを聞いたら、日本人は怒り狂うだろう。
 「広島と東京と横浜で、何をやったか、覚えているのか? 広島でも東京でも横浜でも、無辜の市民を十万人以上も殺した。戦争とは何の関係もない、ただの市民虐殺だ。そんなことを称賛するとは、ふざけるな」と。
 なお、広島の場合は、都市を一挙に破壊しただけかもしれない。しかし、東京大空襲や横浜大空襲では、都市ではなくて市民を直接狙った虐殺だ。たとえば、横浜では、トンネルに退避した列車を狙って、トンネルの入口に爆弾を落とした。乗客は真っ黒焦げになって死んだ。あまりにも悲惨なので、「子供は見るな」と遠ざけられた。(読売・神奈川版。二週間ほど前。)
 しかも、こういう虐殺は、大統領の直接の命令でなされた。これは、ヒトラーされもなさなかったほどの、指導者による直接的な戦争犯罪だ。
 で、こういう戦争犯罪に対して、反省するならともかく、「すばらしい英雄的な行為だった」と称賛する。他の軍人のことはすべてほったらかして、日本市民を虐殺した軍人だけを称賛する。……こんなことをやったら、日本人は怒り狂うはずだ。
 そして、それと同じことをやっているのが、小泉だ。次の二つの理由による。
 「( 地図 を見ればわかるように) 千鳥ヶ淵と靖国とは、隣同士と言ってもいいぐらいに、近い距離にある。なのに、千鳥ヶ淵を回避して、靖国ばかりに参拝する」
 「首相就任前には、靖国参拝をしなかったくせに、首相就任後に一転して、靖国参拝をするようになった」
 この二つは、別に、小泉に限ったことではなくて、歴代の首相はたいていそうだ。まるで首相であることの儀式のように、在任中にばかり、靖国を参拝する。こういうデタラメなことをやって来たのが、日本の首相だ。それでいて、「英霊のため」というふうに、心にもない嘘八百の名分を唱える。
 中国が怒り狂うのも、当然だろう。

 (7) 中国の怒り
 では、中国が怒るからといって、なぜ、それに配慮しなくてはならないのか? その理由を言おう。
 実は、「中国に配慮しなくてはならない」という論理的な理由は、まったくない。日本が中国に配慮するのは、政治や経済などの利益が理由ではないし、論理が理由でもない。では、何が理由か? それは、「人間としての思いやり」だ。
 中国が怒ったとき、その怒りがどのような原因によるかは、ほとんど無視してよい。たぶん、江沢民政権の反日教育が、主な原因であろう。しかし、そのような原因は、どうでもいい。「靖国参拝で中国人がひどく傷つく」ということだけが大事だ。
 相手がひどく傷つくならば、理由のいかんによらず、相手が傷つかないように配慮すること。それは、「人間としての思いやり」だ。
 ここで、問題を、経済学的に考えよう。
  ・ ミクロ的な発想 …… 中国が得をすると、その分、日本が損をする。
  ・ マクロ的な発想 …… 中国が得をしても、その分、日本が損をするわけではない。

 ミクロ的な発想では、利益の総和は一定だ。配分比率だけが変わる。となると、中国が得をすれば得をするほど、日本が損をする。その場合、「日本は譲歩するな」という結論になる。
 ミクロ的な発想では、利益の総和は一定でない。中国が得をしたからといって、別に、日本が損をするわけではない。むしろ、得をすることすらある。靖国問題で言えば、靖国参拝をやめることで、日本は大幅な利益を得る。それは、「非合法な憲法違反の政治がまかり通る専制国家」から、「法律を遵守する法治国家」になる、という利益だ。
 だから、中国が「靖国参拝をやめよ」と言ったら、「中国に言われた通りにするのは沽券にかかわる」なんて否定しないで、「渡りに舟」とばかり、その言葉に乗ればいいのだ。それで日本は、損をするか? 損をしない。得をする。── ただし、小泉だけは、損をするが。
 要するに、今の問題は、「小泉の利益と日本国民の利益の、どちらを優先するか」という問題だ。……で、多くの国民は、「小泉の利益を優先する」と答える。政治でも、経済でも、そうである。私がいくら「日本にとって真に利益になる行動を取れ」と主張しても、ちっとも受け入れられない。大半の人が「小泉首相が政権を担当してほしい」と言い続ける。
 今回の事件も、しょせんは、そういう日本人の倒錯から生じたわけだ。一種の自爆である。
( ※ つまり、小泉というテロリストが、日中関係を破壊して、両国にひどい損害を与えているわけだ。このテロリストを称賛するマスコミも多い。「損得が問題じゃない、名誉が問題だ。神は偉大なり。神は偉大なり」と狂信的に唱えて、テロを称賛する。……で、「テロという破壊活動をやめろ」というのが、前日分の趣旨だ。)

  【 追記 】 (2005-06-01 )
 歴代の首相は、靖国だけでなく、千鳥ヶ淵にも行くか? 「行かない」というふうに上に書いた。しかし、本当は、少なくとも小泉は行っているそうだ。新聞報道によれば、次の通り。
 「小泉首相は30日、……千鳥ヶ淵戦没者墓苑で……献花した。首相は01年の就任以来、終戦記念日の8月15日には毎年同墓苑を訪れて献花している」(朝日・朝刊・2面・ベタ記事 2005-05-31 )
 千鳥ヶ淵にも行っているんですね。ただし、このことは、ちっとも強調しないが。そのせいで私も勘違いしていた。


● ニュースと感想  (6月01日)

 「日中の対立」について。その3。
 前々日と前日では、日中問題について扱った。補足ふうに、少し述べておこう。

 (1) まとめ
 まず、簡単にまとめれば、こうだ。
 「市場原理と利己主義による最適化」なんていう発想を取ると、経済も国家間関係も破壊する、ということだ。

 (2) 堂々か曖昧か
 前日分に補足する形で、少し述べておこう。
 「中国人の心を傷つけないように、思いやりをもつことが大事だ」
 と述べたが、これは別に、「相手への配慮のために、自分のやりたいことも我慢せよ」という意味ではない。やるべきことなら、堂々とやっていい。たとえば、景気回復策なら、中国が何を言おうと、堂々とやっていい。
 しかし、日本政府のやっていることは、何か? 堂々と何かをやることではなくて、「公務か否かは明言しない」というふうに、こっそりと隠れていやっている。公務なら公務だと明言して、公費を支出するがいい。(裁判所に訴えられるでしょうけどね。)逆に、私的参拝なら私的参拝だと、はっきりと明言すればいい。(それなら中国は目くじらを立てないだろう。もし非難すれば、個人の宗教の自由を侵犯することになるからだ。)
 結局、日本政府は、堂々と何かをやらずに、曖昧にやっている。卑怯千万。中国に対して卑怯だというよりは、国民に対して卑怯である。そのせいで、国民は大損害。

 (3) 詭弁
 保守派の詭弁にだまされるべきではない。「靖国がいけない」と文句を受けたたときに、「(靖国でなく)参拝は正しい」と言い返す。こういうのを、「論理のすり替え」という。
 小泉は国会答弁で、やたらとこういう「論理のすり替え」をやる。引っかからないように、注意しよう。
 なお、日本人はたいてい引っかかるが、中国人は引っかからない。そこに、両国の対立の理由がある。

 (4) 関連1 (島耕作)
 関連して、興味深い話題を述べておこう。
 週刊マンガ雑誌「モーニング」の「島耕作」というマンガの今週号に、日中対立の話が掲載されている。中国では反日で一枚岩かと思いきや、そうではなくて、中国政府による国民弾圧(天安門事件)などが、批判されることもある。「日本もひどいが、中国政府はもっとひどい」というふうに。かくて、容易に、反日から反政府に向かうことになるという。
 で、これを読んで、「ふうむ、中国人もまともなやつがいるな」と思う保守派がいるとしたら、その人は、人間として駄目ですね。むしろ、こう思うべきだ。
 「中国人は、自己批判ができる。中国政府を批判できる。なのに、日本人である自分は、自己批判ができない。日本政府を批判できない。政府べったりだ」
 これが正常な判断だ。まともな人間というものは、自分を反省できるのだ。
( ※ このマンガで一つ、不思議なところがある。反日から反政府に向かった掲示板サイトが中国政府によって閉鎖された、というところ。海外サイトにある、自由な言論の中国語掲示板はないんですかねえ。 → 検索1
( ※ あとでまた調べると、海外の自由な掲示板は、ろくにないみたいですね。場所はあっても、閉鎖されたようだ。→ 検索2

 (5) 関連2 (米国の論調)
 もう一つ、関連する話題を述べておこう。
 米国では中国に同情的であるようだ。「日本は南京虐殺をしてけしからん。反省が足りない」なんて述べている。
 なるほど、日本は確かに、反省が足りないかもしれない。しかし、「よりによって、あんたに言われたくないね」と反論したくなるね。
  ・ 原爆による大量虐殺
  ・ 東京空襲による大量虐殺
  ・ ベトナムにおける大量虐殺
 これらは、歴史的に、はっきりと判明している。明白な大虐殺だ。
 米国が中国びいきなのは、真珠湾の恨みがあるからだ。「おれたちは日本にひどい目にあった。だから反日的になろう。相手が中国であろうが何だろうが、とにかく反日である国を応援しよう。真珠湾の恨み!」というわけだ。
 で、こういうふうに無反省で身勝手な米国が何かを言うと、すぐペコペコと頭を下げるのは、どこの国の首相でしょう? ○○にはペコペコして、△△にはふんぞりかえるのは、どこの国の保守派でしょう? 

 (6) 私の中国観
 私はここまで、日本政府を大きく批判してきた。しかし、このことを、勘違いしてほしくない。
 私が日本政府を批判するのは、私が日本人であるからだ。すなわち、自己批判の一環として、日本政府を批判している。もちろん、その批判の矢は、私自身にも向けられていることになる。私もまた日本人であるからには、日本人として何らかの批判を受けるべきだ。
 ただし、これはあくまで、「自己批判」である。「中国擁護」ではない。どちらが悪いかと言えば、自由を弾圧する政府のある中国の方がずっと悪いに決まっている。はっきり言って、大嫌いだ。
 しかし、中国がどんなに間違っていても、私はあまり中国のことを批判しない。なぜなら、私は、中国人ではないからだ。
 中国が日本に注文すると、「内政干渉をするな」と頭に湯気を立てる保守派もいる。ふん。みっともない。私はそんなことは言いません。かわりに、中国の内政には、(ほとんど)口を出しません。口を出したって仕方ない。また、そもそも、私は中国のことを愛していない。私が中国のことをあまり批判しないのは、私が中国のことを愛していないからだ。
( ※ ただし保守派の連中は、勘違いするかも。「南堂が中国をあまり批判しないのは、南堂が中国びいきだからだ。国賊め」と。ふん。私はそんなに暇人じゃないんですけどね。他国や他人への批判が生きがいであるわけじゃない。……私が悪口を言う相手は、愛情を感じる相手だけです。……女性に悪口を言うときは、必ずそのことを強調します。……じゃなかった。女性に悪口を言ったあとは、必ずそういうふうに弁解します。  (^^); )

 (7) 私の中国人観
 私は、中国政府は大嫌いだが、中国人は嫌いではない。(そもそも、個人的にはろくに知らないので、好き嫌いが起こりようがない。)
 雑誌などでは、中国人が「むしろ中国は、反日運動を恥ずかしく思って反省する」なんて言葉を聞くと、「いいなあ」と思う。私は、友好や愛が大好きだ。喧嘩は嫌いだ。(そのわりには、このホームページでは、……むにゃむにゃ。  (^^); )
 自己を反省をする中国人は美しい。悪口ばかりを言う中国人は醜い。……そして、このことは、日本人にも当てはまる。自己を反省をする日本人は美しい。悪口ばかりを言う日本人は醜い。……小泉は特別、醜い。

 (8) 侮辱
 最後に重要なことを指摘しておこう。そもそも、小泉のやっていることは、何か? 日本にとっては、いい加減な行為だ。一方、中国にとっては、何か? ただの侮辱である。
 ここが重要だ。日本がどう思うかはともかく、中国はそれを侮辱だと感じている。だったら、そんなことはやらないのが、賢明だろう。
 もちろん、中国が侮辱だと感じたとしても、日本には堂々とやるべき大義名分があるのなら、やればいい。しかし前述のように、日本は堂々とはやらない。だから、単に、侮辱しているだけだ。
 この侮辱は、前日分でも述べた。「原爆爆撃機への機長だけを参拝する」というような行為だ。他に例を挙げるなら、「黒人を『黒んぼ』(nigger)と呼ぶ」とか、『日本人を『 Jap 』 と呼ぶ」とかの例もある。いずれにせよ、悪意の有無がどうのこうのというより、相手がそれを聞いて「侮辱された」と感じるということが肝心だ。
 というわけで、一般に、相手が「侮辱だ」と感じるようなことは、やらないのが当然だ。これは、善悪というよりは、紳士としてのエチケットである。
 とはいえ、小泉とか自民党とかの田舎人間に、エチケットを説いても、無駄かもしれない。しょせん犬には、紳士としてのエチケットというものは、理解できないのだから。
 彼らにエチケットを説くのは、蛙の面にションベンである。あるいは、小泉の顔にシャワートイレ。
 で、犬にできることと言えば、ご主人様のために尻尾を振ることと、隣家のご主人に吠えて噛みつくことだけだ。かくて、問題が起こる。
( ※ 小泉のような連中は、自分がどんなことをやらかしているか、まったく無自覚なのである。似た例は、家庭で言えば: → トイレの汚れ
( ※ つまりね。男女間のトイレ問題であれ、日中間の参拝問題であれ、相手に対する思いやりがないと、紛争が起こる。思いやりの欠けた人間は、相手と共存することは不可能なのだ。男女ならば、離婚。日中ならば、紛争ないし戦争。……それを回りから見れば、「馬鹿な二人」である。)
( ※ 小泉といっしょに、バカップルになる女性は? 井川りかこです。)


● ニュースと感想  (6月02日)

 「日中の対立」について。その4。
 悪口ばかりでは、後味が悪い。そこで、きれいなことも述べておこう。

 (1) 人間性の問題
 まず、人間性の問題がある。
 そもそも、どこの国にも、痛みを感じる場所をある。その痛みを感じる場所を狙って、あえてゴリ押しをするような無神経な人間は、「他人の痛みを感じることのできない」人でなしなのだ。そういう人間には、人間として大切なものが欠落している。(ロボットみたいなものだ。)
 人間として大切なのは、他人の痛みを感じる心だ。靖国の問題は、政治的にどうのこうのという問題ではなくて、人間として相手を傷つけることに平気でいられるか、ということだ。相手が「傷つくからやめてくれ」と頼んでいるのに、「ふん。知ったこっちゃないね。こっちの自由だ」と言い張る。あくまで自由を主張して、他人の心を理解しない。どんなに他人を傷つけても、平気でいられる。……そういう自由至上主義を私は批判する。
 本来の自由とは、自分自身の内面における、精神的な自由のことだ。自分は内心で何を思ってもいい、という自由だ。そしてそれは、他人の心を踏みにじってもいい、という自由ではない。……そこを理解しないのは、自由のはき違えだ。
 傲慢な人間は、他人の心を傷つけても、気づかないで、平気でいられる。それでいて、他人がおのれの自由を行使すると、「非礼だ」とものすごく立腹する。わがままな人間ほど、他人の自由を尊重できないのだ。

 (2) 参拝の意義
 ここまでは、「靖国」を問題としてきた。そして、「靖国でなくて千鳥ヶ淵ならば問題はない」というふうに述べてきた。ただし、それとは別に、「参拝」の問題を扱おう。
 「参拝」は、それ自体は、問題はない。小泉のように政治的に利用するのはとんでもないが、本来、参拝は、私的なことであるから、私的に参拝するのは、まったく問題はない。
 ただし、問題の有無は別として、その意義について考えよう。参拝の意義だ。
 先の戦争では、多くの先祖が死んだ。そこで、先祖である戦没者に対して、子孫である現代人は参拝する(ことがある)。では、何のために? ── この参拝の意義を、多くの人は誤解している。
 先祖の人々は戦争で死んだ。だから後世の子孫であるわれわれが、先祖をまつることは、たしかに大切なことだ。ただし、注意しよう。先祖は、死んだから立派なのではない。彼らは死んだが、同時に、他者を殺した。彼らは殺して、死んだ。……だから、そのようなことが立派であるわけではない。「その行為は立派だから、もう一度殺せ」と命じることはできない。
 後世の子孫が先祖様をまつること。その意味は、何か? 先祖を「立派だ」と称えることではなくて、先祖をそのような運命に追い込んだことに「済まない」と詫びることだ。
 先祖は、他者を殺してから、自分も死んだ。しかし先祖は、好きこのんで、殺してから死んだわけではない。運命のせいで、やむなく、殺してから死んだ。だから、そのような運命をとることになった先祖に「申し訳ない」と思うことが、死なずに生きているわれわれの責務だ。
 なぜ責務か? なぜなら、先祖が死んで残したものを、われわれは引き継いでいるからだ。先祖が死んでしまったがゆえに、先祖の残したものをわれわれは引き継いでいる。日本の先進技術であれ、土地であれ、また、われわれが子供時代に受けた教育であれ、そのすべては、過去から脈々と引き継いだものだ。われわれは子供時代に、自分の金で教育を受けたわけではない。親の金で教育を受けた。その親は、そのまた親の金で教育を受けた。そういう脈々たる系譜がある。その系譜の最後の位置に、われわれがいる。
 この系譜がなければ、あなたも私も、途上国(のような日本)に生まれたはずだ。その場合、今のような豊かな生活はできず、貧しい生活しかできなかっただろう。たとえば、中国人のように。
 先祖は、おのれの命を失い、われわれに何かを残した。われわれは、先祖から何かを受け取り、かわりに、先祖を死なせた。……これはほとんど、墓泥棒のようなものだ。
 だから、われわれがなすべきことは、先祖の墓の前で、つぐないの意を込めて、頭を垂れることだけだ。そして、その行為は、先祖が人を殺したことに対してではない。先祖が命を投げ出して、祖国を守ろうとしたことに対してではない。先祖が命を投げ出して、子孫を愛してくれたことに対してだ。
 先祖が命を投げ出したのは、戦争で勝つためではなくて、子孫を幸福にするためだったのだ。自己の利益のためではなく、他者の利益のためだったのだ。そのために、命を賭けた。── この歴史の意義を理解しない人々が、戦没者の霊を自分の利益のために利用する。

 [ 参考 ]
 先祖が何を考え、どう行動したかについては、貴重な一次資料がある。戦死した本人の残した手紙だ。
   → 岩波 「きけわだつみのこえ」 
 靖国や戦没者について、何かを語りたければ、最低限、先祖の声に耳を傾けるべきだ。つまり、ここに書いてあることを、しっかりと読むべきだ。(たいていの図書館にある。) そういうこともしないで、靖国や戦没者について語るのは、基礎知識なしに専門的な学問を語るのも同然だ。素人丸出し。
 ここに書いてある手紙を読めば、こう気づくはずだ。
 「生きているわれわれには、ああだこうだと主張する資格はない」
 そうだ。「参拝すべきだ」とか、「参拝は正しい」とか、そういうことを主張する資格は、生きているわれわれにはないのだ。何かを主張する資格があるのは、戦死者だけだ。われわれにとってなすべきことは、何かを主張することではなくて、口をつぐんで頭を垂れることだ。
 「中国政府はけしからん」とか、「日本政府は断固とした態度を取れ」とか、そういうふうに自己の主張を出すために、戦死者の死を勝手に利用することは、とんでもない冒涜だ。まともな倫理があれば、そんな冒涜の主張はできないはずだ。

 [ 付記 ]
 最後に、私の小泉観を述べよう。
 小泉が黙って靖国に参拝するのならば、私は彼の良心を信じよう。しかし、彼が声高に靖国参拝を唱えて、それを政治的に利用しようとする限り、私は彼の良心を信じない。そこにあるのは、戦死者に対する良心ではなくて、政治的な利害判断に基づく邪心だけだ。
 さて。
 ここで、あなたが戦没者の立場だった、と仮定しよう。今から60年ぐらい前に、あなたは徴兵されて、戦争に出向いた。とうてい勝ち目のない戦いである。しかし、何としても、戦う必要があった。なぜなら、戦わなければ、植民地になるからだ。当時は人種差別の時代だった。アジア人は「黄色い猿」と呼ばれ、人間扱いされなかった。欧米の植民地になったアジア各国では、現地人は奴隷のように扱われた。米国では当時、国内の黒人でさえ奴隷のごとく扱われた。(大戦よりもいくらか前までには、本当に奴隷だった。「風と共に去りぬ」ふうだ。)( なお、白人による日本人蔑視の調査がある。1944年。 → 「名誉白人」のページ
 で、あなたは、命を賭けて戦った。祖国をベトナムやビルマのような植民地にしないために。祖国の子孫を白人の奴隷にしないために。自分の行為の価値を信じて。後世の子孫に感謝されるだろうと信じて。
 で、それから60年たって、どうなったか? あなたは祖国の子孫のために、貴重な命をなげうったはずだった。ところが、歴代の首相は、自分の政権維持のために、あなたを利用する。あなたの死を、首相の個人的な政治活動に利用する。(遺族会の票が目当てだ。)
 というわけで、あなたが命を賭けて戦っても、エゴイスティックな首相に利用される結果になってしまってしまうのだ。……で、それで、喜びますか? 
 とにかく、はっきり言っておこう。小泉も保守派も、「戦没者のための参拝」と口に出すが、彼らは「国益」という言葉で、自分の利益を考えているだけだ。戦没者のことなど、何も考えていない。……それが証拠に、千鳥ヶ淵は、野ざらしのようにほったらかしだ。(というのは誇張があるが。いずれにせよ、靖国と比べて、月とスッポンだ。)
 要するに、日本人はみんな、小泉にだまされているわけだ。で、私が例によって、「だまされるな」と警告を発しているわけだ。

     夏草や つわものどもが 夢の跡

( ※ 千鳥ヶ淵っていうのは、どういうところか? 施設は少なく、緑地が多い。慰霊の場というよりは、公園ですね。 → 千鳥ヶ淵の写真靖国の写真 。)
( ※ 上の千鳥ヶ淵の写真は、縮小しない画像を使っている。画像サイズが巨大である。いったん保存してから、単独で開くと、大きな画面で見える。……これは、間違ったHTMLですね。HTML作製予算さえも削られているようだ。金欠ですね。……なお、管理人は、(財)千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会である。サイトは独自ドメインでなくて、 nifty の一部。ひどい冷遇。虐待されているのかも。)

( ※ 本項とほぼ同趣旨のことは、前にも述べた。 → 8月11日5月28日 [ 付記2 ]5月16日b
( ※ 靖国の話は、これで完結。ただし本項の余話が、明日の分にある。)


● ニュースと感想  (6月03日)

 「日中の対立」について。補足。
 靖国問題について、ちょっと反響があったが、私の書いたことの趣旨を取り違えている人が多いようなので、補足しておこう。
 反発を感じる人は、「南堂は、反日・親中なので、けしからん」と思っているようだ。
 しかし私の趣旨は、「反日・親中」ではない。「反日・反中」に近いが、それとも違う。正確には、「反 日本政府・反 中国政府」であり、その核心は、「反政府」である。そして、その本質は、「政府にだまされるな」ということだ。
 つまり、「ある政策を取れ」と述べているのではなくて、「洗脳されるな」と述べているのだ。どういう行動を取るべきかについては述べていない。どういう行動を取るかという問題については、各人が自分で決めればいい。私が述べているのは、ものの考え方だ。

 反発を感じる人は、「南堂は、反日・親中なので、けしからん」と思っているようだ。しかし私が述べているのは、「反日・親中」と「親日・反中」に分けるような、そういう二分的な態度を改めよ、ということだ。
 たとえて言おう。喧嘩している二人を仲裁して、私が「喧嘩はやめよ」と言う。「おまえたちはどちらも馬鹿だ。たがいに傷つけ合っているのがわからないのか」と喧嘩を止める。すると、双方が文句を言う。
 「正しいのは、こっちだ。それなのに、あんたはおれだけに文句を言う。あんたは態度が偏向している。あんたはトンデモだ。あんたは間違っている」
 ま、中立的な立場に立つと、双方から文句を言われて、割が合わない。どちらかに賛成した方が、仲間が多くて、安心だ。とはいえ、私は、そういう態度は取らない。

 私は日本政府に批判的である。同時に、当然ながら、中国政府の反日教育にも批判的だし、中国民衆の反日運動にも批判的だ。ただし、そのことには言及しない。なぜなら、私は中国人ではないからだ。また、私は中国を愛していないからだ。(前出)
 「中国の反日運動はけしからん、中国の反日教育はけしからん」と私が述べても、それは、ただの悪口にしかならない。犬の遠吠え。居酒屋の憂さ晴らし。その程度の意味しかない。そんなものを聞かされた方は、たまったもんじゃないだろう。
 「おれは中国人じゃないんだ。中国人への悪口は、おれに言わないでほしいね。言いたければ、中国語で書いて、中国人に発言すべし」
 となるだろう。その通り。私が悪口を言うときは、本人に聞こえるように、堂々と悪口を言う。居酒屋の隅でこそこそと語るようなことはしない。(みなさんも、そうするといいでしょう。もし中国人の悪口を言いたいのなら、日本にいる中国人を捜して、本人に直接言うといいでしょう。……ただし、命懸けでね。それが怖かったら、居酒屋の隅で、中国人に絶対に聞こえないように、こそこそと語るべし。「中国人の耳はロバの耳」というふうに、穴に向かってこっそり語るべし。臆病者は、それが最適。)

 そもそも、私のサイトは、悪口を言うためのサイトではない。日本人に向けて悪口を言うためのサイトでもないし、中国人に向けて悪口を言うためのサイトでもない。何かを批判的に語るとしたら、常に、批判を通じて、ある真実を得ようとしているのだ。悪口自体を目的とする悪口は書かない。

 だから、「中国の悪口を聞きたい」「他人の悪口を聞きたい」と思っている人は、私のサイトの記述を読んでも、失望するだけだ。また、「小泉の悪口を読みたい」と思っている人も、失望しそうだ。
 私が小泉の悪口を言うときは、小泉自体に文句を言いたいわけではない。小泉という象徴を通じて、日本全体のことを語りたいのだ。
 実を言えば、個人的には、私は、小泉純一郎という男は、けっこう好きである。こそこそと逃げ回るブッシュみたいな男に比べれば、ずっとマシな人物だと思える。少なくとも小泉純一郎は、卑怯という言葉は似つかわしくない男だ。
 私が小泉を批判するときには、小泉という人形を通じて、その背後にいる操り師を批判しているのだ。その操り師は? それは、われわれ(あるいは日本)自身にある、固定的な先入観だ。その巨大なものを相手にしている。小泉という特定の人形を相手にしているわけではない。
 「小泉は犬だ」と語るとき、彼個人が問題になっているのではない。彼に代表される保守派の全体が問題となっている。小泉一人をクビにすればカタが付くという問題ではないのだ。

 私が靖国問題で語りたいことも、同様である。「小泉は正しい」と信じるかわりに、「日本の保守派は正しい」と信じている人々がいる。そういう人々の思い込みを、裏返しにして、裏側にある面を見せてやりたいだけだ。
 「戦没者のための参拝は当然だ」という美しい表側の奥には、「戦没者の死を私益のために利用してやろう」という醜い裏側がある。人々は、その裏側に気づかないで、保守派の言葉にだまされる。こうして人々は、だまされ、洗脳され、政府を支持するようになる。「日本万歳」「小泉万歳」「自民党万歳」と主張するようになる。
 これはちょうど、ブッシュがイラク戦争を始めたときと、同じ図式だ。無能な政治家は、いたずらに国家間の対立を深める。国家間の対立を通じて、自分の支持率を上げようとする。ちょうど、ブッシュが、おのれの無能さを隠そうとしたように、小泉は自らの景気対策の失敗を隠そうとして、あえて日中の対立を深める。人々は、祖国を支持しているつもりになって、権力者を支持するようになる。かくて権力者は、「しめしめ」と思う。……そういう図式を、私は指摘している。「だまされるな」と。

 私の個人的な話を言おう。私の親戚(年上の世代)には、戦死者がいる。私の母は、そのことを、今でも思い出しては、悔しがり、涙する。たいていの読者にとっては、戦死者など、どこかの他人の出来事なのだろう。しかし私にとっては、ごく身近な出来事だ。60年後の今でも母をひどく泣かせるほどの、激しい出来事だ。
 たいていの人には、それが理解できまい。自分の肉親を失う痛み。かけがえのない大切な人を失う痛み。どんなに悲しんで涙を流しても、戦争で失った人を決して取り戻せない痛み。……それを理解できまい。だから平気の平左で、「中国には断固とした態度を取れ」「やられたらやり返せ」なんて言えるのだ。
 その結果、どうなるか? 現時点で、反日運動が起こって、中国にいる日本人の誰かが死ぬかもしれない。日本人が靖国問題で、「相手の心を傷つけても平然としている」という態度を取れば、相手もまた、「日本人を傷つけても平然としている」というふうになりかねない。こちらが「やられたらやり返せ」と思っていれば、相手も「やられたらやり返せ」と思うことになりかねない。そのあげく、何人かの日本人が、肉親を失うハメになるかもしれない。
 なのに、そういうことを想像すらできないから、国家間の対立をあおるのだ。まるで、双方に戦争をけしかける悪魔のように。あるいは、戦争によって利益を得る死の商人のように。
 
 今の日本政府も同様だ。かつて大戦で犠牲になった戦死者の死を、政権支持率という自分の利益ために、勝手に利用する。だから政府側の与党は、必ずこう言う。
 「首相は必ず靖国に参拝するべきだ」
 ここでは、「議員は自らの良心に従って、靖国に参拝すべきだ」とは言わない。「首相は首相として、靖国に参拝するべきだ」と言う。小泉を例にすれば、「首相になる前は参拝しなくてもいいが、首相になってからは参拝するべきだ」というわけだ。
 では、その意味は? 参拝の意義は、個人としてでもなく、(首相という)公務員としてでもなく、自民党総裁としてだ。つまり、自民党の利益のために、靖国参拝が必要なだけだ。
 だからこそ、「(与党の総裁は)首相になるまではともかく、首相になったら、首相という肩書きを利用して、靖国参拝をするべし」と与党幹部は言うのだ。また、「票にならない千鳥ヶ淵で参拝する必要はまったくないが、票になる靖国だけは絶対に参拝すべし」と言うのだ。すべては、票という、私利私益のためだ。
 そして、人々は、それにだまされて、ホイホイと小泉を支持する。本当は「自民党支持」が目的なのだが、いつのまにか、それが「日本支持・中国非難」という形に姿を変えてしまうので、それに賛同する。「中国はけしからん、日本は正しい、小泉も正しい、小泉がんばれ、自民党がんばれ」と。
 だから私は強調するのだ。「だまされるな」と。

 最後に一言。
 狡猾な政府にだまされない方法はある。それを教えよう。それは、愛を知ることだ。
 自分の命よりももっと大切だと思えるほどの、愛を体験するがいい。そうすれば、愛する人を失うことの、痛みが想像できる。何よりも大切なものを失う痛みが想像できる。
 「どんなことがあっても、この人を失いたくない」
 そういう思いが生じる。それほどにも深いを知れば、国家間に憎悪をかきたてて、人々を危険にさらすことなど、できるはずがないのだ。
 人を愛せない人々が、国家間の憎悪をあおる。

( ※ オマケに一言。女性は男を見るとき、やたらと威勢のいい男にだまされていはいけない。威勢のいい男というものは、男らしいのではなくて、他人に対する優しさが欠落しているだけだ。そんな男と結婚したら、身勝手なエゴに耐えきれずに、逃げ出すハメになるだろう。)(……これは、特定の首相のことを言っているわけではありませんが。でも、当てはまりますね。 → 参考

 [ 参考 ]
 漫画誌の週刊モーニング(6月02日)に、「島耕作」というマンガがあり、日中問題を扱っている。「反日運動の運動家にたぶらかされた従業員に、島耕作が堂々と反論したら、中国人は恥ずかしがって反日運動をやめた」というストーリー。
 馬鹿な中国人に対し、利口な日本人が、洗脳から救う、という構図。これじゃ、まるで、善玉悪玉のアメリカン・ストーリーだ。
 ここでは、「中国人の痛み」というものを、まるきり理解していない。中国は確かに、侵略されたゆえの痛みがある。謝るかどうかという礼儀や金銭が問題ではないのだ。痛みがあるという心理的なことが問題なのだ。なのに、島耕作は、相手の心の痛みをまるきり理解できない。礼儀と金銭の問題だけにしてしまって、それで説得できたと思い込んでいる。
 なるほど、中国人は確かに、政府の反日教育によって、洗脳されている。しかし日本人もまた、政府の日の丸教育によって、洗脳されているのだ。「日の丸掲揚」「君が代斉唱」という教育は、中国政府の愛国教育とまったく同様である。靖国もまた、それと同様だ。
 なのに、他人の醜さはよくわかるが、自分の醜さはまるでわからない。相手が洗脳されていることを指摘するが、自分が洗脳されていることを自覚しない。なぜ? 他者の痛みを理解するという、人間的な優しさが欠落しているからだ。人間的に欠陥があるから、金銭のことだけを考えて、相手の心の痛みを理解できないのだ。
 はっきり言っておこう。中国も日本も、どちらも「自分は正しい」と主張する。しかし、本当は、どちらも正しくないのだ。だからこそ私は、「自らを反省する方がいい」と唱える。他人に向かって「反省せよ」とゴリ押しするだけでは、反省よりも反発が起こるだけだ。中国も日本も、同じ穴のムジナである。つまりは、「馬鹿な二人」である。(前述の通り。「小泉と井川りかこ」みたいなものだ。)


● ニュースと感想  (6月04日)

 「参拝の意義」について。(前々項と前項の話の補足。)
 保守派はやたらと「靖国」と「参拝」を混同する。「参拝」とは「靖国」だけのことだと見なす。そこで私は、「混同は駄目だ」と否定しているわけだ。

 はっきり言っておこう。参拝とは、先祖の霊に向かって、頭を垂れることだ。そして、それは、一人一人の個人がなすべきことだ。
 「参拝するべきだ」
 と思う人は、その人自身が、自分の信じるところ(靖国でもいい)に行って、先祖の霊に向かって頭を垂れればいい。それだけのことだ。(小泉もまた同様である。)
 ところが、自分一人では参拝できない、という子供のような人がいる。「自分一人じゃいやだ、みんなといっしょでなくちゃいやだ」というふうに、駄々をこねる。あるいは、「自分だけじゃいやだ、総理大臣にも参拝してもらわなくちゃいやだ」と駄々をこねる。「オモチャがほしい、オモチャがほしい」と駄々をこねる子供と同様だ。
 たとえて言おう。戦争ではなくて一般の事故死でもいい。そのとき、「あの人にも参拝してもらわなくちゃいやだ」なんて駄々をこねるのは、子供だけだ。まともな大人ならば、駄々をこねるよりも、心から悲しんで、頭を垂れるべきだ。「ああしろ、こうしろ」と声高に主張するよりも、無言で黙祷(ネ壽)するべきだ。
 慰霊の場とは、先祖の前で喧嘩する場ではない。政治のための主張をする場でもない。一人一人が悲しんで、頭を垂れる場だ。── そのことを、保守派の人々は忘れてしまっている。
 では、なぜ? 彼らには、真の悲しみはなくて、政治的な利害だけがあるからだ。

 私はむしろ、JRの事故死の遺族に、共感する。多くの遺族は、こう感じていたはずだ。
 「JRの経営者が葬式に参列する? どの面下げて、おめおめと、葬儀の場で顔を見せられるのか。ハシタ金の香典で、済ませようとするのか。人間の命は香典で済むほど、安いもんじゃない」
 そう言って、JRの経営者を、おっぽり出そうとするだろう。実際におっぽり出すかどうかは、わからない。はらわたを煮え繰り返させながら、我慢するかもしれない。いずれにせよ、事故の責任者なんか、邪魔なだけだ。
 ところが、靖国では、「総理大臣が来てくれるから嬉しい」と喜ぶ遺族がいる。日本という国家のせいで殺されたのが戦死者なのに、その国家の責任者を喜んで歓迎する。責任者が「申し訳ありません」と頭を下げるのならともかく、そうじゃない。こうだ。
 「戦死者よ。あなたたちは立派だった。なぜなら日本のために戦ったからだ。つまり、おれ(たち)のために戦ったからだ。おれ(たち)の言うことを聞いて、犬のように死んだからだ」
 こういうふうに、犬扱いしているのだが、ホイホイと喜ぶ。戦死者や遺族は、本当は犬扱いされているのだが、それに気づかないで、ご主人様に褒められてもらって、喜んでいる。さらには、「もっと頭を撫でてほしい」と要求する。
 小泉を歓迎する人の気が知れないね。小泉は本来なら、一国の責任者として、戦死者に向かって、土下座して詫びるべきだったのだ。なのに、戦死者を崇めることで、自己を正当化し、戦時日本を正当化する。自己を正当化するために、戦死者を利用する。
 で、犬のような人々が、政府にうまく利用されていることも気づかずに、「小泉さん、ありがとう」と礼を述べるのだ。小泉は、たとえ靖国に来ても死者には一言も詫びないのに(戦争にまんまと利用された戦死者を称賛する[ふたたび国民を利用しようとする]だけなのに)、そんな小泉を見て、「来てくれてありがとう」と感謝するのだ。

 だから、私は何度も言う。「だまされるな」と。

 [ 付記 ]
 私が小泉に対して、気に食わないのは、中国に対して謝らないからじゃない。戦死者に対して謝らないからだ。 ( → 5月16日b [付記3]
 私が戦死者の直接の遺族だったとしよう。仮に小泉が、その墓に来て、「戦死者を称えたい」と言ってきたら、私はおっぽり出してやりますね。
 「称える? ふざけるなよ。まず、詫びるのが先決だろう。あんたはJRの事故を起こした経営者の立場になっても、詫びる前に、事故死者を称える気なのか?」
 つまりは、無責任野郎が、死者を自分の政権の道具に使うのが、気に食わない。おまけに、その場その場で、言を左右する。( → 次項。小泉の詭弁。)
( ※ 「称える」という首相の言葉の出典は、中日新聞 にある。「多くの戦没者に敬意と感謝の意を表したい気持ちからだ」。)
( ※ ついでに言っておくと、戦争をやる指導者は必ず、戦死者を賛美する。歴史上、どの国でも、いつの時点でも、必ずそうだ。「彼らは死んだが、彼らのために敬意と感謝を示そう」というふうに。)

 ついでに一言。もし小泉が「詫びています」と口先で言ったら、許せないですねえ。
 「嘘もたいがいにしてほしいね。詫びているなら、黙って頭を垂れるはずだ。なのにあんたは、堂々とテレビに向かって宣伝している。自分はこういうことをしていますよ、と大々的に宣伝している。それが詫びる態度かね?」
 そう言えば、オタクの監禁事件があった。オタクに娘を陵辱された父親が、「殺しても殺しきれない」と言うほど、犯人の男を憎んでいた。……で、あとでこの犯人が、被害者の家を訪れて、涙ぐんで、頭を垂れるなら、まだわかる。しかし、被害者の家を訪れて、
 「私はこんなに詫びているんですよ。私は本当はとても善良なんですよ。記帳もしたし、金一封もはずんだしね。だから、この善良な私を、テレビで放映してくださいね。さあ、カメラで私をアップにして」 v(^^)
 なんて言い出して、ニコニコしながら、指でVサインを出したら、どうなることやら。
 こういうふざけた男が、日本の首相になっている。呆れたもんだ。だまされる方も、いい加減、目を覚ましてもらいたいものだ。
(どこかの誰かが、「だますのは、ちょろいもんだ」と思いながら、内心、アッカンベーをしているだろう。)


● ニュースと感想  (6月04日b)

 「小泉の詭弁」について。
 小泉が「靖国参拝は私的だ」と主張した。(各紙・朝刊 2005-06-03 )
 呆れた。こいつは、どうしようもない馬鹿だ。「内閣総理大臣 小泉純一郎」と記帳して、それがどうして「私的」なのか? そんなこともわからないようでは、まともではない。
 小泉は、近年では肩書きなしに氏名だけを記帳することもあるようだが、少なくともかつては「内閣総理大臣 小泉純一郎」と記帳して、公費を支出した。その後も、「私的だ」とは明言せず、「どちらとも言わない」と曖昧にしていた。
 仮に「私的」であると今回改めるならば、「これまでの行為は間違いだった」と反省する必要がある。逆に、「これまでの行為は正しく、今回の変節も正しい」と主張するのであれば、どうしようもない馬鹿である。馬鹿につける薬はない、と言えよう。自分の言っていることも覚えていないし、自分が何をしているのかも理解していない。単に、その場その場で、言い逃れを考えているだけ。
 つまり、最初は「どっちとも言わない」と主張しておいて、旗色が悪くなったら、「私的参拝です」と言葉をひっくり返して、ゴマ化す。過去にやったことをゴマ化す。
 どうせなら、言葉でゴマ化すのではなくて、行動を変えて、正々堂々と語るべきだ。
 「過去の私は、ずっとゴマ化してきました。でも、これからはゴマ化さずに、私的に参拝します」
 これならば、信じることができる。しかるに、実際には、その場その場で、ゴマ化すだけだ。今は何かを語っていても、明日になればまた別のことを語るかもしれない。口先男。
 まったく、どうしようもない人間だ。こんなのにまともに反論しても、議論にすらならない。さっさとクビにするのが賢明。(クビにしないと、どうなるかは、本項の最後を参照。)
( ※ 過去の記帳については → 検索判決の解説 )

 [ 付記1 ]
 どこが問題なのかを、簡単に示しておこう。
 「これからは、私的に参拝します」というのならば、それでいい。それは、将来の方針だ。しかし、過去の行為について、「私的ではない振りをしてきましたが、やっぱり、私的であることにします」というのは、駄目なのだ。
 つまり、「黒だ」といったん述べたあとで、都合が悪くなったとたん、「やっぱり、やーめた」と言って、「黒じゃなくて白だったことにします」と述べても駄目なのだ。黒なら黒、白なら白。どちらかにすべきだ。

 [ 付記2 ]
 「公私の区別が必要か?」という意見もある。そこで、説明しよう。
 「公私の区別を付ける」とは、「法律を守る」ということだ。たとえば、小泉が、公金を何らかの目的のために使う。その目的が、公務ならば合法、私的用途ならば違法。公務として葬儀に参列するときに花束を買う金ならば合法、私人として愛人に贈る花束を買う金ならば違法。
 会社の経営者であれ為政者であれ、トップというものは、自らを厳しく律する必要がある。「曖昧にしてゴマ化そう」なんていう態度を取ってはならない。そういう態度を取る経営者が、不祥事を起こす。今回の靖国問題も、不祥事のようなものだ。国家にこれほどの損害を与えて、平然としていられる。……小泉に比べれば、三菱自動車のトラックとか、JR西日本の事故とかは、まだしもかわいらしいものだ。何しろ、日中両国の十数億人を苦しめたわけではないからだ。
 法律を遵守すること。自らを厳しく律すること。責任を問われたときに、責任を曖昧にゴマ化さないこと。それができない権力者や経営者は、大事故が起こる前に、潔く辞するべきだ。なのに、そういう連中がいつまでも居座るから、大事故・大災害が起こる。
 企業の経営者であれ、国家の権力者であれ、愚かな人間がトップに居座ると、国民全体がひどい目にあう。想像力のない人のために、具体的に画像を示しておこう。
 ( → 画像1画像2画像3

 《 オマケ 》
 ( → 画像4 ……原爆の写真。これは、正視に耐えない画像です。戦争の真実を見たくない人は、見ないでください。15歳以下および心臓の弱い人は、見てはいけません。)
 ( → 画像(横浜大空襲) ……あらかじめお断りしておきますが、横浜大空襲で真っ黒焦げになった市民の写真です。気の弱い人は見ないでください。)


● ニュースと感想  (6月04日c)

 「政教分離」について。
 靖国に関連して、「政教分離」という問題もある。これについて、説明しよう。
 政教分離とは、「国は宗教には関与してはならない」という原則だ。欧州のほとんどの国はそうだし、共産圏やアジアの国もそうだ。ただし、いくつかの途上国や、イスラム圏では、政教分離がなされていないところもある。
 政教分離は、なぜ重要か? それは、次の歴史的な事実による。
 「歴史的に、ほとんどの戦争は、宗教戦争であった。」
 つまり、宗教の対立が、国家の対立となり、戦争が起こったわけだ。このことは、政教分離のなされていない国同士の現実を見ると、よくわかる。
  ・ 米国とイスラム諸国の武力対決
  ・ 英国とアイルランドの武力対決
  ・ イスラエルとパレスチナの武力対決
 この三つの武力対決では、いずれも、双方がともに政教分離がなされていない。だから、武力対立が、宗教戦争の色合いを帯びる。「聖戦」というような宗教的な名分で、戦争が正当視される。
 ほとんどの国は、歴史に教訓を得た。だから戦争を避けるために、「政教分離」という原則を取った。一方、歴史に教訓を得ない愚かな国だけが、「政教分離」という原則を取れず、あげく、国家間の対立を生じさせるのだ。
( ※ 一方、フランスでは → 10月08日


● ニュースと感想  (6月05日)

 前日分の記述に、次の言葉を追加した。

( ※ 「称える」という首相の言葉の出典は、中日新聞 にある。「多くの戦没者に敬意と感謝の意を表したい気持ちからだ」。)
( ※ ついでに言っておくと、戦争をやる指導者は必ず、戦死者を賛美する。歴史上、どの国でも、いつの時点でも、必ずそうだ。「彼らは死んだが、彼らのために敬意と感謝を示そう」というふうに。)

 要するに、狡猾な指導者にだまされると、こういう目になる、ということだ。政府は「戦死者を賛美しよう」なんていう美しい言葉で飾っているが、戦争の現実とは美しいものではない。多くの保守派は、そのことを認識できていない。現実を無視して、夢ばかり見ているのだ。……いや、「現実を無視して、夢ばかり見よ」と国民を洗脳したがっているのだ。ある目的のために。


● ニュースと感想  (6月05日b)

 「戦争とノース2号」について。
 戦争の話を聞いても、若い人は遠い過去のこととしか感じられないかもしれない。「きけわだつみのこえを読め」と言われても、とうていその気にならないかもしれない。そこで、かわりに、お勧めの本を挙げておく。
  「PLUTO」1巻 (浦沢直樹 & 手塚治)
 この本は有名だから、若い人はたいてい知っているだろう。本書のうちで、「ノース2号の巻」の話が白眉だ。( → 感想の検索
 この話では、ノース2号という戦争ロボットが登場する。ただし、話がうまい。戦争ロボットとして作製されながら、戦争ロボットである自分自身に懐疑的である。つあり、自己批判する。そして、主人の感情を理解しようとして、ピアノを弾いたりして、いろいろと努力する。それは人間的な感情を理解しようとする努力だ。このロボット(彼)は、もはやただの戦争ロボットではなくて、いくらか人間に近い存在になっている。
 あるとき、彼のそばに危険な敵が襲来する。それを察知した彼は、ピアノを弾く普段の姿をかなぐり捨てて、一挙に戦争ロボットに変身する。そして空に飛び立ち、敵と戦う。戦い、敗れて、こっぱ微塵になる。そのあと、空では、彼の残骸しか落ちてこない。ただし、空には、彼の練習したピアノの曲が流れる。
 この話は感動的だ。ここで書くと、ネタバレみたいになるが、実際のマンガは、このような文章では語り尽くせないほど、感動的だ。マンガの生命は画力にある、ということを実感させる、すばらしい画力で描かれている。だから、購入しても、決して損はしない。
 
 この話で肝心なのは、何か? 彼が自己犠牲をした、ということだ。
 彼が戦ったのは、彼の利益のためではない。また、戦争ロボットとして、戦うことが好きだったからでもない。彼は、戦い、敗れて、粉々になった。では、何のために? 何かを守るためだ。危険な敵が世界を破壊しようとしているときに、世界を守るために、守る側ではおそらく最強の一人である自分が、おのれの生命を顧みずに、自己犠牲をした。……そこに人々は感動する。
 ノース2号は、ロボットではあるが、人間の象徴なのである。彼はまったくロボットの形をしているが、人間以上に人間的だ。小泉であれ、保守派の論客であれ、国益だの何だの、利益のことばかりを言っている。しかしノース2号は、おのれの利益なんかよりももっと大切なものがあることを、人間に教えてくれるのだ。
 国家間の利益ばかりを唱える人々は、ノース2号を理解できない。ノース2号の話を読んでも、感動することすらないだろう。なぜなら彼らには、人間的な感情が欠けているからだ。物事をすべて損得や数字だけで考える人々は、人間として大切なものが欠落しているがゆえに、ロボット以上にロボット的なのだ。
( ※ 小泉は? ちょっと似ているものがある。 → ロボット犬


● ニュースと感想  (6月05日c)

 「ウォーターゲート事件の現在」について。
 ウォーターゲート事件の「ディープスロート」が判明した。(夕刊・各紙 2005-06-01 )
 この件では、記者の二人は、大統領という巨大なものと戦った。この当時、大統領はケネディの記憶がまだ新しいころだったし、神聖不可侵の存在とされていた。神のように。その崇高な存在を、記者の二人が相手にした。まるで、虫ケラが巨人と対決するように。彼らは、政府の提灯をもつかわりに、政府と全面対決したのだ。真実を示すことで。
 この二人の行動は、われわれ現代人にさえ、命懸けの戦いの場があるのだ、ということを教える。それだけの勇気と使命感が、あの二人にはあった。── 私もまた、この二人を見習いたいと思う。政府べったりで紛争をしかけるだけの連中には、何の価値もないが、国家に真実をもたらす少数の人々には、かけがえのない価値がある。

 なお、この事件のことを知らない人も多いようなので、簡単に解説しておこう。ディープスロートは、情報を漏洩したのではない。調べたのはあくまで、記者の二人だ。記者の二人が、自力で調べて、それを報道した。
 ただし、二人は、全容を知らなかった。何を調べればいいかわからなかったし、調べたことが正しいかどうかもわからなかった。そこで、調べ方を教えたのが、ディープスロートだ。
 たとえて言うと、マラソンを走ったのが高橋尚子であり、それをコーチしたのが小出監督だ。高橋尚子は一人では走り方がわからなかったので、細々と指図を受けた。ただし、実際に走ったのは高橋尚子である。
 ついでに言えば、ニクソンを極悪人のごとく扱うのは、正しくない。いろいろ調べてみると、ニクソンというのは、失敗もあったが、非常に優れた大統領である。ジョンソンやフォードやブッシュやレーガンなんかと比べれば、はるかに上の存在だ。物事を一面的に見るのは危険である。常に注意しておこう。
 ニクソンがやった犯罪は、たかが盗聴(および職権乱用)である。一方、小泉は、国家間に巨大な対立を引き起こし、国民間に多大な憎悪の火を掻き立てている。かくて中国内で日本人をひどい状況に置いている。どちらが悪質かと言えば、まったく大差がつく。「無銭飲食」と「大火事の放火」ぐらいの差がある。


● ニュースと感想  (6月05日d)

 「少子化とフリーター」について。
 少子化が進んでいる、と報道されたが、これについて、「若者世代は、フリーターが多いからだ。低所得で、将来の保証がない。子供を生むどころか、結婚さえもままならない」という。(読売・朝刊・3面 2005-06-02 )
 この件は、何度も指摘されたとおり。若者が悪いんじゃなくて、不況を続けている政府が悪い。もうちょっと正確に言えば、雇用環境は最悪なのに、企業の決算だけを見て、「景気は回復している」なんて浮かれている政府が悪い。マスコミも同罪。
 記事は「安心して家庭を築けるように、社会全体を見直すべきだ」と結論しているが、こういうふうに、まったく見当違いのことを主張する。世論のミスリード(誤誘導)。
 マスコミがなすべきことは、政府の責任をごまかすことではない。真実を告げることだ。「政府の経済政策が間違っているのが、根本的な原因だ」と。
 政府はデタラメだし、マスコミは輪をかけてデタラメだ。政府が嘘をつくのは毎度のことだが、マスコミが政府のめくらましを是認して、どうするんですか。
 真実を書いているのは、小泉の波立ちだけ。これを転載すれば、マスコミも真実を書けるのだが、その気はさらさらない。
 マスコミの記者にとって大切なのは、真実の報道ではない。自分の給料をもらうことだけだ。そのためには、当たり障りのないことを書いていればいい。火中の栗を拾う必要はない。
 政府にたてつくことのできない腰抜け記者たちが、日本の社会を悪くする。


● ニュースと感想  (6月05日e)

 「読売の社説」について。
 驚いたことに、靖国問題で、読売が態度を急変させた。こうだ。
  →  「国立追悼施設の建立を急げ」(社説 2005-06-04 )

 なお、過去では、もちろん、靖国参拝に大賛成だった。(この社説は読売のサイトでは消えてしまったので、ネットのキャッシュなどをご利用下さい。)
  →  「首をかしげざるを得ない「違憲判断」である。」(社説 2004-04-08 )

 読売、豹変す。どうしてでしょうかね。  ?(^^)
( ※ なお、新しい方の社説は、歯切れが悪い。「しぶしぶ方針を変えた」という口調であって、あれこれと留保などを付けている。いつもの威勢のいいタカ派の口調がない。誰かに言われて、無理やり方針を変えさせられたみたいですね。 (^^) )


● ニュースと感想  (6月06日)

 「A級戦犯と犯罪性」について。

 (1) 読売の社説1
 前日に紹介した読売の社説では、こう述べてある。
 “犯罪人”として認識しているのであれば、「A級戦犯」が合祀(ごうし)されている靖国神社に、参拝すべきではない。
 これは、「合法・違法」の差、つまり、「遵法か否か」を問題としている。しかし、これは、あまりにも形式にとらわれすぎていて、本質を見失っている。
 「遵法」が重要なのは、「曖昧な問題を法できっちり明確化する」ということにある。ただし、法そのものが狂っている場合には、当てはまらない。
 A級戦犯の違法性は、それに該当する。
 
 「A級戦犯」というのは、いわゆる「戦争犯罪人」である。その犯罪の意味は、「敵国の国民を殺したこと」にある。彼らは、犯罪者と見なされたが、それはあくまで、敵国の国民に対する罪だ。そして、この判決は、「勝者が敗者を裁く」という形を取る。勝者が敵国市民を大量に虐殺すること(広島・東京)は善行であり、敗者が敵国国民を殺害・虐待することは犯罪である。
 このような犯罪者は、形式的には犯罪者だが、国際法違反の犯罪であって、国内法違反の犯罪ではない。だから、普通の意味での「犯罪者」と同じに見なすべきではあるまい。
 私見を言えば、「A級戦犯は犯罪者ではない」(国内法に照らして)、と見なしたい。

 では、A級戦犯は、罪がないか? ある。戦争を遂行した、という罪だ。そして、それは、国内法違反という意味での罪ではなく、倫理的な意味での罪だ。法律違反にならないように、勝手に法律を作ってから、大量の日本国民を死に至らせた。……とすれば、法律違反であろうとなかろうと、これは倫理的に罪があるのだ。
 だから、A級戦犯は、犯罪者ではないが、罪がある。倫理的な罪が。……それが私の解釈だ。
 読売の社説は、「A級戦犯が犯罪者ならば、犯罪者に参拝するべきではない」と言う。しかし、靖国には、A級戦犯のほかにも、たくさんの犯罪者がいる。戦時中には、営巣に入れられたような犯罪者が、たくさんいたはずだ。たとえば、食料泥棒のような。そういう犯罪者もいっしょにまつられているが、だからといって、「靖国に参拝するな」というような意見は、聞いたことがない。

 形式的に法律違反であるかどうかが問題なのではない。大量の日本国民の命を奪ったことが問題なのだ。そして、それゆえ、戦争責任者である「A級戦犯」がまつられている靖国には、首相は参拝するべきではないのだ。なぜなら、彼は、「A級戦犯」と同じく、権力者であるからだ。権力者の責務を考えるならば、権力を乱用して戦争に導いた権力者を、参拝できるはずがない。── 中国のためではなく、日本の戦没者のためを思えば、これが当然の結論だ。

 なお、私の個人的な見解を言おう。A級戦犯で最悪なのは、生き恥をさらしたことだ。かりそめにも戦争遂行の権力を握っていたのなら、玉音放送を聞いたとき、責任を取って、腹を切るべきだった。では、何のために? 死んだ仲間のためにだ。「生きて虜囚の辱めを受けるな」と命じて大量に命を無駄にさせたからには、「無駄死にさせて申し訳なかった」と詫びるためにだ。それは権力者なら当然の責務だ。
 要するに、「A級戦犯」は、人を死なせる覚悟はあったが、自分では死ぬ覚悟がなかった、ということになる。生き恥をさらした連中を崇めるなんて、馬鹿げている。
( ※ 念のために注釈しておくと、「責任者は死ね」と主張しているのではなくて、「処刑される前に自らを処刑せよ」と述べている。ほんの数カ月の余命を惜しんで、占領軍に首を吊られるなんて、みっともないだけだ。それ自体、一つの罪である。)
( → 名簿一覧。阿南惟幾陸相 「一死を以て、大罪を謝し奉る」など。)

 (2) 読売の社説2
 読売の社説には、こういう文句もある。
 「A級戦犯」として禁固7年とされた重光葵氏は、戦後、鳩山内閣の副総理・外相となった。終身刑「A級戦犯」だった賀屋興宣氏は、池田内閣の法相を務めている。言うなれば“犯罪人”が法の番人になったわけである。  しかし、「A級戦犯」が閣僚として、“名誉回復”されたことについて、諸外国からとりたてて異議はなかった。
 しかし、これは、法的な認識を欠いている。Wikipedia には、こう記してある。
 近代法の理念に基づいて刑罰が終了した時点で受刑者の罪は消滅する。従って処刑されたA項戦犯者は、現在では犯罪者ではない。
 結局、読売が靖国参拝に反対するのはいいのだが、そのための理由として「A級戦犯」の「犯罪性」を持ち出すのは、無理があるのだ。A級戦犯は、犯罪者だったから悪いのではない。他国の国民を殺したから悪いのではない。自国の国民を死なせたから悪いのだ。
 しかもまた、本当を言えば、A級戦犯は悪くも何ともない。彼らは単に戦争をなしただけであり、ブッシュが戦争をなしたのと、まったく同様である。小泉がイラクに自衛隊を派遣したのと、まったく同様である。
 問題は、悪いかどうかではなくて、責任感をどうするかだ。自らの権力を行使して、そのあげく、とんでもない結果を招いたならば、その責任を取るべきなのだ。つまり、犯罪性ではなくて、責任感の問題なのだ。
 それゆえ、無責任野郎が合祀されている靖国なんかは、戦没者に対する侮辱の場所なのだ。そして、戦没者を侮辱する神社に首相が参拝するということは、戦没者に対する侮辱であるのだ。
 私が問題にしているのは、戦没者に対する侮辱を許容する小泉の、首相としての無責任さだ。(ま、無責任さでは、A級戦犯も小泉も、似たり寄ったりだ。……不況のAAA級戦犯は、小泉だ。)

 ついでに余談ふうに言っておこう。要するに、私が言いたいことは、こうだ。
 「自分で死ぬ気もないくせに、戦争賛美なんかするな」
 なのに、死ぬ覚悟もない臆病者が、やたらと戦争を賛美する。その典型が、小泉という口先男だ。彼がかつて口先で言ったことを覚えていますか? ( → 検索
 「改革なくして、景気回復なし!」
 「痛みに耐えよ!」
 こういうふうに、国民に痛みを強いていた。その本人が、苦しむ国民をよそに、すごい豪邸である首相官邸首相公邸 に住んでいるのだ。(しかも、豪華さが恥ずかしいらしくて、豪邸の内部をろくに公開しないで、隠しているが。)
 戦犯、相哀れむ。

 (3) 朝日の社説
 以上を書き終えたあとで、朝日の社説に、読売とほぼ同趣旨のことが掲載された。一部抜粋しよう。(朝刊 2005-06-05 。この日に限り、ネットでも社説が読める。)
 命を落とした人々を追悼し、その犠牲に敬意を払うことと、戦争指導者の責任問題とを混同するのは誤りだ。上官の命令に従わざるを得なかった兵士らと、戦争を計画し、決断した軍幹部や政治家の責任とは区別する必要がある。
   ……
 中国が問題にしているのは一般兵士の追悼ではなく、戦争指導者の追悼である。A級戦犯が合祀された靖国神社を、日本国を代表する首相が参拝するのが許せないというのだ。
 侵略された被害国からのこの批判を、単純に「反日」と片づけるわけにはいかないと思う。
 前半はもっともらしいが、後半が問題だ。中国との関係で、国の方針を決めようとしている。この趣旨は、前から変わらない。先日(2005-05-18)の社説では、こう述べている。
 中国や韓国との間ではいま、激しい反日デモなどで険悪になった関係を立て直す大事な時期にある。
  ……
 戦後の日本は、A級戦犯を裁いた東京裁判の結果を受け入れてサンフランシスコ講和条約に調印し、国際社会に復帰したはずだった。そのA級戦犯を合祀(ごうし)した靖国神社に首相が参ることに、欧米のメディアからも疑問の声が出ている。
 「欧米のメディアがこう言ったから」というのは、子供じみていて、失笑ものだが、それはどうでもいい。
 朝日はここでも、中国との関係で方針を決めようとしている。「A級戦犯は犯罪者だから」というふうに主張する読売と、ほぼ同様である。
 しかし、私は、それを批判する。A級戦犯が悪いのは、形式的に国際法違反をしたからではないし、敗者として勝者によって一方的に断罪されたからでもない。では、なぜ悪いか? 日本人を死なせたからだ。日本人に対して責任があるのだ。ここを勘違いするべきではない。
 結局、読売も朝日も、靖国参拝の本質を勘違いしている、というのが私の判断だ。謝るべき相手を間違えている。

( ※ 過去の社説を読むには、上記の引用部分の一部をネットで検索するといいだろう。過去の社説の一部引用をしたページが見つかる。たとえば、google 検索 。)

 (4) 中国の勘違い
 実は、中国もまた、靖国参拝の問題を勘違いしている。ただし、これは、日本にとって好都合な方向の勘違いだ。
 中国は、中国侵略の責任を、「A級戦犯」に限定している。「A級戦犯のいる靖国に参拝することがいけない」とだけ主張して、「A級戦犯以外」については(ほぼ)免罪している。
 しかし、私の考えでは、違う。日本人を死なせた責任は、戦時日本の権力者だけが負うが、中国人を死なせた責任は、日本人全体が負う。A級戦犯だけが悪いのではない。
 ただし、誤解してほしくないのだが、このことは「日本人が中国人に永遠に頭を下げ続けよ」ということを意味しない。悪いと言えば、他国も悪い。日本人を虐殺した米国だって悪いし、便衣兵という形で市民にまぎれこんで市民を戦争に巻き込んだ中国だって悪い。悪くない国など、戦争中には、一つもない。
 では、誰が誰に頭を下げるべきか? 誰が誰に責任を負うか? それは、現代人だ。このことは、次に示す。

  (5) 現代人の責任
 責任を負うべきは、現代人だ。生きている現代人が、過去の死者に責任を負うのだ。なぜなら、生きているわれわれは、過去において生き残った人々の子孫であるからだ。
 たとえば、あなたが生まれたのは、あなたの父や母が生きていたからだ。あなたの父や母が生まれたのは、そのまた父や母が生きていたからだ。ほとんどの人は、戦争中に生き残った人々の子孫である。(戦争孤児という例外もあるが。)
 要するに、われわれは、生きているがゆえに、死者に対する責任がある。それは国籍を超えたものだ。生き残ったわれわれは、過去の日本人に対しても死なせた責任があるし、過去の中国人に対しても死なせた責任がある。……その責任は、自分自身がなしたことの責任ではなくて、過去から引き継いだ責任だ。
 なのに、その責任を忘れて、「現代人であるおれは、過去の人を殺さなかったもんね」という形で、責任を放棄すること。その半面で、過去からの有利な遺産だけを引き継ぐこと。── そういうふうに、過去の好都合なつまみ食いをすることは、許されないのだ。それはいわば、借金だけをして、返済をしないようなものだ。踏み倒しのようなものだ。
 われわれは歴史の伝統の末端にいる。過去からプラスを引き継いだなら、過去からマイナスも引き継ぐ必要がある。それが現代人の責務だ。
 中国は「A級戦犯」だけを問題視する。すると、「中国に言われたから参拝をやめるのは国辱的だ」という反発が起こる。なるほど、その通り。中国に言われたから何かをする、というのは、とんでもないことだ。
 そして、それならそれで、中国に言われる前に、自発的に何かをするべきだ。「言われたからやらない」というふうに無責任になるのが正しいのではなく、「言われる前にやる」というふうに責任感を感じるのが正しい。(学校の掃除でも同様だ。「級長に命じられたからやらない」とほざく不良がいるが、「級長に命じられる前にやる」というのが正しい。「他人にやれと言われたからやらない」なんて主張するのは、不良のガキと同じだ。)
 われわれはどうするべきか? 中国はA級戦犯だけを問題視するが、われわれは中国に言われる前に、自ら頭を下げるべきだ。A級戦犯といっしょに自分も責任がある、と感じるべきだ。中国が「小泉は頭を下げよ」と主張したら、「小泉は頭を下げる必要はない」と反発するのではなくて、小泉だけでなく国民全体が頭を下げるべきなのだ。
 ただし、頭を下げる相手は、現代の中国に対してではない。(ここを中国は勘違いしているが。)……われわれが頭を下げるべき相手は、現代の中国ではなく、過去の戦死者のすべてだ。そのなかには、日本人も中国人も米国人もアジア人もいる。その戦死者すべてに頭を下げるのが、生きているわれわれの責務なのだ。
 そして、そういう反省の上に立ってこそ、こう誓うことができる。
 「われわれは、歴史を教訓として、二度と戦争を起こさないことを誓います。平和のために努力することを誓います」
 そういうふうに「平和の誓い」をすることが大切だ。そのために、過去への反省をなすべきなのだ。
 なのに、それを忘れた人々が、やたらと国家間の対立を深めようとする。そして、きたるべき開戦の日のために、権力者は大々的に、戦死者を称える。「国のために死ぬことはすばらしい、彼らを称えよう。敬意と感謝を込めて、国のために戦った兵士を称えよう」と。
 そして、多くの人々は、それに付和雷同して、「日本万歳」と唱和する。「バンザーイ、バンザーイ!」……その結果、どうなるかも知らないで。

 [ 付記1 ]
 「戦争なんか、現実に起こるわけないだろう」と思う人もいるだろう。しかし、第二次大戦も、同様だった。起こりそうもない戦争が、突発的に起こった。そして、いったん戦争が起これば、国民は権力者を支持する。そのことは、現状を見ればわかる。

 [ 付記2 ]
 先日の画像リンクの箇所に、次のリンクを追加した。
   → 画像(横浜大空襲)

 ※ あらかじめお断りしておきますが、真っ黒焦げになった市民の写真です。
    気の弱い人は見ないでください。

  【 追記 】 ( 2005-06-11 )
 あとで調べると、朝日の社説のうち、5月28日の社説では、次の文句がある。朝日の意見というよりは、靖国神社の意見の紹介だ。( → 出典
 一宗教法人とはいえ、靖国神社も同様だ。そのパンフレットで「日本の独立を守り、アジアの国々と共に栄えていくためには戦わなくてはならなかった」と先の戦争を正当化し、戦犯を「連合軍の形ばかりの裁判によって一方的に戦争犯罪人というぬれぎぬを着せられた方々」と位置づける。
 驚いた。「ぬれぎぬ」という言葉を使うとは。すると、「戦争を遂行した」ということの是非を評価しているのではなくて、「そんなことはなかった」と空とぼけていることになる。
 たとえて言うと、電車内で「女性の胸に触ったのは事実だが、たまたま電車が揺れて手が触れただけです」と弁解するのではなくて、「女性の胸に触ったことはありません」と空とぼけるようなものだ。現実には、れっきとした証拠写真があるのだが。( → 目撃写真(へのリンク)。)
 ま、冗談はさておき、こんなふうに、事実について空とぼける神社に参拝するということは、首相自身が空とぼけていることになる。困ったものですねえ。……と思ったが、小泉という人物にとっては、毎度のことですね。  (^^);

 《 注記1 》
 すぐ上のことについて、誤解を避けるために、注記しておこう。
 私はここで、靖国神社を批判しているわけではない。日本には、言論の自由があるのだから、靖国神社が何をどう主張しようが、靖国神社の勝手である。
 問題は、何か? 「ぬれぎぬ」と述べるような意見に、首相が賛同するかどうかだ。その意見をもつ靖国神社と、首相が共同行動を取れば、首相のその行動は当然、政治問題となる。
 遺族会や靖国神社が「参拝してほしい」と望む問題も、同様だ。彼らがそう望むのは、彼らの勝手である。問題は、その望みに、首相が応じることだ。
 「近代国家では、政府は心の問題には踏み込まない。(一人一人に委ねて介入しない。)」
 これが原則だ。この原則について、よく噛みしめよう。

 《 注記2 》
 「ぬれぎぬ」なんて言葉を語る靖国は、ほとんどトンデモと言っていいが、実は、これに近いのが、たいていの保守派だ。
 保守派は、さすがに「ぬれぎぬ」という言葉は使わないのが普通だが、かわりに、「反日教育」という言葉を使う。あらゆる問題を「反日教育」のせいにする。(たとえば、読売・夕刊 2005-06-08〜09 )
 ここで、明示しておこう。中国や韓国で「反日教育」が問題の主因だ、というのは、正しい。なぜなら、「反日教育」がなかった他国(台湾やマレーシア)では、反日どころか親日的な国民風土があるからだ。その意味で、「反日教育」が問題の主因だ、というのは正しい。
 しかし、である。「反日教育」は、問題の主因ではあるが、すべてではない。なぜか? それは、台湾やマレーシアを見るといい。彼らが日本を非難しないのは、日本がその地で植民地政策を取らなかったからではない。日本がなしたことを、台湾やマレーシアが赦してくれたからだ。
 赦してもらうことと、罪がないこととは、まったく異なる。殴ってから赦してもらうことと、殴らなかったこととは、まったく異なる。
 中国や韓国が、日本を非難するのは、主として「反日教育」のせいだ。しかし、「反日教育」があろうとなかろうと、日本がなしたことの責任は消えない。── なのに、ここを意図的に勘違いしているのが、保守派だ。
 殴られた者の痛みは、殴られたものにしか、わからない。私が「痛みを理解せよ」というのは、そういう意味だ。ところが保守派は、「こっちの戦士も、痛がったぞ。殴った方も、殴った手が痛いぞ」と主張する。
 これじゃ、論理になっていませんね。 ……唖然。絶句。  (*o*) 

 《 感想 》
 それにつけても思うのは、「日中両国民とも、たがいに相手を理解しようとしない」ということだ。両国とも、ただひたすら、「自分は正しい、相手は間違っている」とだけ主張する。「相手の主張を理解しよう」という気配は、ほとんどない。索漠としますね。
 情報化時代の、情報拒絶。頭にフィルターがかかっていると、どんなに情報があっても無駄であるようだ。これを称して、「偏見」または「洗脳」と呼ぶべきかも。


● ニュースと感想  (6月06日b)

 「政教分離」について。
 政教分離については、6月04日c でも言及したが、追加情報を記述しておこう。
 新刊書(リービ・英雄「千々にくだけて」 )の書評があった。以下の通り。(読売・朝刊・読書欄 2005-06-05 )
 日本語に堪能なアメリカ人が飛行機に乗っていると、突然、日本語に直しにくい英語にぶつかる。NYの9・11事件のときだ。バンクーバーのテレビでは、テロリストについて、「悪を行なう者ども」とか、「異教徒ども」とかいう言葉が飛び交う。何と訳したらいいのかと思って、呆然とする。
 なお、注釈しておくと、「異教徒」( heathen と pagan )という概念自体が訳しにくいということもあるが、そこにこもるニュアンスが訳しにくい。なぜなら、日本語では、「異教徒 = 悪」という等式は成立しないからだ。このことから、アメリカがいかに前近代的な宗教国家であるかが、よくわかる。
 ただし、である。日本でも、一部の人々は、日本を前近代的な宗教国家にしようとしている。……ま、戦争をするためには、それが好都合だからだが。
 戦争のためには、宗教が必要だ。なぜ? 死者をまつるには、宗教が必要だからだ。戦争を遂行し、国民を死なせるためには、権力者が宗教性を帯びることが、是非とも必要なのだ。権力者が宗教性を帯びれば、権力者の指示のもと、国民は戦争を忠実に遂行する。「死は名誉である」という言葉を信じながら。
 ビン・ラディンを見ても、ホメイニを見ても、その通りだ。ブッシュも同様だし、小泉も同様だ。前近代的な宗教国家であることは、戦争のためには必要なことなのだ。


● ニュースと感想  (6月07日)

 「靖国と私の立場」について。
 靖国の問題について、私の立場を、ざっとまとめておこう。
 私のことを「親中派」と思っている人が多いようだ。そこで、「中国の言い分は納得できない」と文句を言う人もいる。何か、勘違いしているようだ。もちろん私だって、中国の言い分には、まったく納得できない。中国政府の言い分は、メチャクチャだ、と思う。
 私が言っているのは、何か? 「中国政府に言われたから靖国参拝をやめよ」ということではない。そういうふうに主張しているのは、朝日などであり、私はこれを批判する。(前日分。)

 私が言っているのは、こうだ。
 (1)「中国政府に言われるかどうかに関係なく、公的参拝は駄目だ」
 (2)「一方、中国政府ではなくて中国人民の心の痛みについては、理解するべきだ。彼らの痛みは、われわれの痛みと、同じである。その痛みを感じよう。」

 (1) について言おう。
 靖国参拝の是非は、中国に言われれるかどうかでなく、自分たち自身で決めるべきだ。「中国が中止せよと言ったから、中止する」というのは左派。「中国が中止せよと言ったから、中止しない」というのは右派。そのどちらも、相手によって、自分の方針を決めている。
 で、私は、そのどちらでもなく、「自分で決めよ」と主張する。
 特に、右派に言っておこう。「中国が中止せよと言ったから、中止しない」というのは、それもまた、自国の方針を、中国しだいで決めることになる。情けないですね。自分の方針ぐらい、自分で決められないのか。「相手がこうしろと言ったから、こうしない」というのは、単に駄々をこねるだけで、子供主義だ。大人というものは、自分のことは自分で決めるものだ。ひねくれたガキみたいなことはやめろ、と言っておこう。

 (2)について言おう。
 参拝は本来、一人一人が自らの心に従って、自分の行為として、なすべきことだ。「首相は参拝せよ」というふうに、他人の行動を決めるべき事柄ではないのだ。心の問題は、政治の問題にするべき事柄ではないのだ。愛であれ、悲しみであれ、それは心の問題であるからこそ、政治的な利害を離れて、純粋なものにするべきだ。
 男と女が愛しあうときに、政治的な利害がまぎれこむと、不純になる。「菜々子と結婚すると、わが家の利益になるな」とか、「京子と結婚すると、わが家の不利益になるな」とか、「紀香と結婚すると、親戚のみんなが賛成するな」とか、そういう利害を離れるべきだ。男と女は心だけで純粋に愛しあうべきだ。
 そのことはまた、戦死者に対する気持ちについても同様である。「中国に従属すると、日本の利益になるから、参拝をやめよう」というのは、戦死者を侮辱している。同様に、「中国と喧嘩すると、日本の利益になるから、参拝をやろう」というのも、戦死者を侮辱している。……そんな利害を離れて、戦死者の前で、頭を垂れるべきなのだ。
 参拝の問題は、心の問題であり、政治の問題ではない。なのに、こんなふうに政治の問題にしてしまったら、戦没者の霊が浮かばれない、と私は思う。戦没者は、「われわれの霊を崇めるかで、子孫は争うべし」と思ったはずがないのだ。逆に、「子孫が争わなくて済むように」と思って、命を犠牲にしたのだ。
 というわけで、現代人の一人として、私は先祖に詫びたい。「争ってはいけない、喧嘩してはいけない、ということを主張するために、私自身、別の次元で、争ってしまいました。ごめんなさい。」と。

 [ 余談 ]
 それにしても、死者に悲しみを表するのに、どうして首相なんかを必要とするのか、私にはわかりかねますね。そういう人は、妻や子を愛するにも、首相の力を借りないと、駄目なんでしょうか?
 悲しみや愛は、心の問題であり、行政の問題ではない。そんなところに行政府がしゃしゃり出てくるのは、お門違いとしか思えないんですけどね。
 でもまあ、「結婚式には偉い人に出席してもらいたい」という人も多いから、仕方ないのかも。私だったら? 上司を呼ぶことはあるかもしれないが、「いやだ、いやだ」と思いながら呼ぶだけだ。二人の愛の場に、上司や政治家が出てきたりしたら、愛が汚れてしまう。上司が「出席させてくれ」と言ったら、できれば蹴っ飛ばしてやりたいですね。……こういう私は、変人なんでしょうか? (陰の声 : 「あったりまえだろ!」)

 [ 補足 ]
 なお、以上の話からして、私が中立のように見えるかもしれないが、とんでもない。私は、中立ではない。「参拝を政治的に利用するな」と言っているのだから、まさしく、反小泉であり、それと同時に、反左翼である。「どちらにも反対しない」という中立的な立場ではなくて、「どちらにも反対する」という立場であり、つまり、双方の敵である。
 たった一人で、世間の全体を敵に回している。両方から集中砲火を浴びかねない。負けそう。……私も戦死者になるかも。


● ニュースと感想  (6月07日b)

 「靖国は墓か」について。
 靖国問題の話はそろそろ終えるが、「靖国は墓ではない」という指摘があった。確か、前にも、同じ指摘をどこかで聞いた気がする。で、念のため、私の記述を確認すると、次の記述があった。

 これだけである。別に、「靖国は墓だ」という記述があるわけではない。勘違いしないようにしてほしい。
 ただ、誤解を避けるために注釈しておこう。上の三つの記述で言っている「墓」は、靖国のことではなくて、まさしく個々の戦死者の「墓」のことである。私が主張しているのは、「各人が個々の戦死者の墓の前で頭を垂れるべきだ」ということであって、「靖国でまとめて、戦死者全体に頭を垂れるべきだ」ということではない。

 なお、戦死者全体に頭を垂れる場としては、自宅でもどこでもいいと思う。もちろん、千鳥ヶ淵でもいい。何だったら、靖国でもいい。ある人が靖国に参拝して、戦死者全体に対して頭を垂れるのならば、私はそれを非難しないし、むしろ尊重する。
 私が問題視しているのは、靖国参拝という一般的な行為ではなくて、首相公務として靖国に参拝することだ。一般国民が参拝するなら問題ないし、私的に参拝するのでも問題はない。……ま、このことは何度も繰り返して強調したから、誤読する人はいないと思うが。

 なお、小泉の靖国参拝と、米国大統領のアーリントン墓地参拝とは、同列に扱えない、という指摘もある。これは、そうでしょうね。
 実は、靖国参拝の賛成論者が、「アーリントンと靖国は同じだ」と主張するので、私はそれを批判した。その意味で、「この二つは同じではない」という点は、私もそう思う。(根拠は違うが。)

 [ 付記1 ]
 ついでに言うと、靖国は「神社」であるから、神様のいるところ。一方、お墓は「寺」にあるのが普通であり、寺は仏様のいるところ。
 神社は神道系であり、寺は仏教系。神道系には、お墓は存在しないのが普通だ。ただし、「境内」という用語は、どちらでも使われるようだ。

 [ 付記2 ]
 さらに言うと、神社であれ寺であれ、宗教性を帯びた施設に首相が参拝することを、私は問題視する。「政教分離」は、絶対に必要なのだ。
 首相が戦没者に詫びることは大切だが、そのためには宗教性はあってはならないのだ。なぜなら、戦没者には、キリスト教徒もいるからだ。
 どうしても「戦没者は宗教性を帯びるべきだ」と主張する人がいたら、その人の先祖の分だけは、イスラム教のモスレムにでも納めてしまえばいい。参拝者には、イスラム式に、床に頭を付けることを強制するといい。すると、「おれの先祖はイスラム教じゃないぞ! 馬鹿にするな!」と怒り出すだろう。そのとき、政府は「駄目だ、イスラム教にせよ」と強制する。反対者を、強引に弾圧する。……かくて、宗教戦争の勃発。
 ついでだが、イスラム教が駄目なら、ユダヤ教にしたらどうでしょうか? あるいは、創価学会にしたらどうでしょうか? 靖国のかわりに、創価学会の総本山にでも参拝したら?
 実は、もっといい宗教がある。集団結婚で有名な世界統一教会(神霊教)です。さらにまた、もっといい宗教がある。オウムです。   (^^);
 というわけで、政府は宗教性を帯びてはならないのだ。(わが身をつねって、人の痛さを知る。)

( ※ 「神道は多数派だから、神道だけは例外だ」という説もある。それは、「多数派による専制政治を許容するかどうか」という問題である。今回の話題とは、別の問題だ。そういう専制政治が好きなら、ヒトラーでもムッソリーニでも、レーニンでも江沢民でも、勝手に選んでください。……ま、小泉でも同様だが。)


● ニュースと感想  (6月07日c)

 「遵法精神」について。
 法治国家というものは、法律を守るべきだ。そのことを、先の話題では、次の例で主張した。
  ・ 政教分離を規定した憲法を守ること。
  ・ 公私の区別をはっきりさせること。(法の適用。曖昧にしない。)

 さて。こういうふうに法を遵守することは大切だ。では、なぜ? 靖国のために? 政治的な思想のために? 違う。国民を守るためだ。
 そもそも、法は、政府が政府のために恣意的に利用しがちだが、本来は、国民を守るためにある。そして、法の遵守が守られなくなったとき、国民の幸福が脅かされる。
 「政教分離なんて、曖昧でいいさ」
 「公私の区別なんて、曖昧でいいさ」
 なんて言っていると、そのうち、
 「法の遵守なんて、曖昧でいいさ」
 ということになる。で、その結果、たとえば、こうなる。
 「賃金不払いなんて、曖昧でいいさ」
 「サービス残業なんて、仕方ないさ」
 あげく、こうなる。
 「研修医のサービス残業も労働超過も、仕方ないさ」
 で、そのうち、研修医がうたた寝しながら、手術を手伝って、薬や装置の処置を間違えて、患者が死ぬ、というようなハメになる。あなた自身は、まだ死の実感はないだろうが、そのうち、あなたの両親が病院に入る。で、疲れ切った研修医の、デタラメな処置のせいで、薬を間違えたりして、生きるべき両親が死んでしまう。
 しかし、たとえそうなっても、研修医が責任を問われることは、絶対にありえない。そんなことを公言すれば、病院の信頼はがた落ちだ。だから、箝口令が敷かれて、「心臓マヒ」というような適当な名称の死因が、カルテに書き加えられる。(昔は一律に「心臓マヒ」だったが、今はそう甘くはなくて、もうちょっと別の名称が使われるが、どっちみち、「治療ミスを別の病名にする」という点では、同じである。)
 
 私がこう書くと、「南堂がまた誇張して冗談を言っている」と思う人もいるかもしれないが、とんでもない。医者が治療ミスをゴマ化すというのは、世界中で広く行なわれているのだ。……当り前でしょうが。世界中で莫大な手術が行われて、当然、莫大な治療ミスが起こっているのだが、ちっとも報道されない。特別に悪質なもので、かつ、証拠がたまたま露見したものが、報道されるだけだ。
 三菱自動車の欠陥なら報道されるが、手術のミスなら報道されない。で、それをいいことに、研修医のデタラメな労働環境が、まかり通っている。(朝日・夕刊 2005-06-03 )
 
 「首相が法律を遵守しないのは仕方ないさ」
 なんて言っているうちに、誰もが法を守らなくなり、医師には法律違反のサービス残業がまかり通り、そのせいで、国民の命が奪われる……という構図。
 ま、ちょっと、「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいだが。  (^^); ……でもまあ、デタラメな研修制度が容認されるせいで、国民の人命が奪われる、というのは、まぎれもない事実だ。問題は、その被害者が、誰か、ということだ。運が良ければ、赤の他人。運が悪ければ、あなたの肉親。ひょっとしたら、あなた自身。

 [ 余談 ]
 政府のデタラメのせいであなたが死んだとして、あなたの葬儀に首相に来てもらいたいかどうかは、前もって遺言で指定しておきましょう。
( ※ 私は? 葬儀があるとしたら、首相なんかよりは、きれいな女優に来てもらう方が、ずっと嬉しいけどね。……けど、まあ、それは生前の善行しだいでしょう。  (^^); )


● ニュースと感想  (6月07日d)

 【 予告 】
 「靖国の話はもううんざりだ」と思っている人が多いでしょう。実は、私もそうです。 (^^);
 死者の話は、いい加減、うんざりしてきたので、明日からは、もっと気楽な話題を述べます。(先端技術の話。乞う、ご期待。)
 
 [ 余談 ]
 全然関係ない話だが、双子山親方の葬儀の件。
 これで思い出すのは、貴乃花と宮沢りえの破談だ。あの破談のせいで、損をしたのは、ふられた宮沢りえの方だと思ったが、さて。そうだったんでしょうか? 貴乃花と結婚しないで、かえって良かったかもね。……理由は?
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「小泉の波立ち」
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