[付録] ニュースと感想 (82)

[ 2005.01.30 〜 2005.02.14 ]   

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● ニュースと感想  (1月30日)

 「愛国心と教育」について。
 教育基本法の改正案の原案が報道された。愛国心教育を重視し、「郷土と国を愛する態度を養う」とのこと。(読売・朝刊・1面。日付は1月上旬ごろ。失念。)
 「国を愛せ」だって。情けないね。日本というのはいつから、いちいち「愛せ」と命令されないと愛されないような、情けない国になってしまったのだろう。これじゃ、まるで、北朝鮮だね。「偉大なる首領様」または「偉大なる首相様」と唱えて、みんなで団体舞踊をして、「日本はすばらしい、日本はすばらしい」と唱えるべきなんだろうか。でもって、それに逆らう人がいると、たちまち監獄にぶち込まれるのだろうか。
 そういえば、東京都は、こういう方針を取っていたな。国歌斉唱に賛同しない教師を処分する、と。これを拡張して、「偉大なる様」「偉大なる様」と唱えない人々を処刑するわけだ。冬ソナのファンが「偉大なるヨン様」なんて言い間違えると、ひどい目にあいそうだ。
 読売というのも、変な新聞だよね。普段は「北朝鮮はひどい国だ」とさんざん宣伝しているくせに、日本を北朝鮮にそっくりな国に変えようとしている。常に政府べったりで、政府批判をする人々を大攻撃する。

 ついでだが、フランスではどうしているか、教えよう。フランスでは、「を愛せ」なんて言わない。「自由・平等・博愛」を重視し、国旗がその三つを象徴していることを教える。対比しよう。
   ・ フランス …… 「国は国民を尊重せよ。人々に、自由・平等・博愛を」
   ・ 北朝鮮  …… 「国民は国を尊重せよ。国民はを愛せ。さもなくば処刑」
 日本はこの2国のうち、どっちにそっくりなんでしょう? 

 [ 付記 ]
 「生徒は国歌斉唱のときに、校長と同じくらいの声量で歌え」と指示する、という話が報道されていた。(朝日・朝刊・社会面 2005-01-20 )
 ふうむ。ますます北朝鮮に似てきたな。そういえば、某社のナベツネというのも、アンチ権力の人々をやたらと非難するので、どんどん金正日に似てきたな。
 なのに、彼はしきりに、自社に似ている北朝鮮を非難する。不思議。もしかして、近親憎悪というやつかな。


● ニュースと感想  (1月30日b)

 「総合学習」について。
 「総合学習の時間を削減して、かわりに主要学科の時間を増やす」という方針が出された。教育界ではカンカンガクガクであるようだ。(各紙・朝刊 2005-01-19 )
 私なりに評価して言おう。「総合学習」という理念はいいのだが、実際に教えるためのシステムが何もできていない。だから現実にはひどいレベルの教育しかなされていない。そこに問題がある。(理念と現実との落差。)
 では、どうするべきか? 「だったら理念を下げることなく、現実の教育レベルを引き上げればいい」という主張が成立しそうだ。しかし、これは、高望みに過ぎるだろう。
 現実の教師と言えば、生徒相手にわいせつ行為を行なう連中が結構いるし、そうでなくても、もともと教師は過剰業務でメチャクチャ忙しいし、おまけに少子化のせいで教師採用減が続いているから、教師は五十代ぐらいの高齢者が多い。こうなると、いくら目標を高く掲げても、実現不可能だ。
 となると、「総合学習の時間を削減して、かわりに主要学科の時間を増やす」という方針は、おおむね、妥当だろう。ただし、細かい話を言えば、次の二点に配慮するべきだ。あくまで私見だが。

 (1) 国語教育
 国語教育を重視する、というのは、好ましい。ただし、「読む」よりも、「書く」を、いっそう重視するべきだ。「読む」の方は、教育とは別に、読書時間を大幅に増やすよう、別に対処するべきだ。これは学校教育とは別の問題。読書は、各人が好きで行なうものであり、個人レベルのものであり、教育という形で行なうものではない。(道徳もちょっと似ている。)

 (2) 社会科教育
 総合学科は廃止・削減するにしても、総合学科の趣旨は、社会科教育で生かすことが望ましい。つまり、「歴史」「地理」なんていう記憶重視の学科は廃止して、歴史・地理・公民・文化・哲学・法律などの社会現象全体を、総合的に学ぶ教育があるといい。ここでは、記憶は一切不要であり、既存のデータを調べる能力だけがあればいい。
 たとえば、青森県でリンゴが取れるとか、岩手県で石炭が取れるとか、そんなデータは一切不要だ。また、何年に鎌倉幕府が滅びたとか、ナポレオンが何年に遠征したとか、そういうデータも不要だ。かわりに、「これこれの背景があってこのような大きな流れが起こった。それを裏付ける資料はこれこれだ」というふうに、総合的に理解することを学べばよい。
 つまりは、細部にとらわれず、本質を見抜く、という教育をすればよい。そして、そういうことは、「理科と数学の総合」という形よりも、「社会科の各科目の総合」という形でこそ、やるべきだ。数学は純粋であることに意義があるが、社会科は純粋であることに意義がない。この違いを理解しよう。

 結語。
 「総合学習」というのは、そもそも、「暗記主義」「詰め込み主義」に対するアンチ・テーゼとして生まれた。「記憶重視じゃ駄目だ、考える能力を重視しよう」と。
 そこでは、「何かをしては駄目だ」ということは理解されたが、では「何をすればいいか」ということは、まるきり頭になかった。いわゆる「何でも反対主義」に近い。
 というわけで、とりあえず「詰め込み主義」はやめたものの、現実にやったことは、下らない現場体験などばかりで、一種の社会科見学みたいなものが多かった。もうちょっとまともな取り組みもなされたことはあったが、いかんせん、単発的であり、とうてい体系的な教育システムは構築されなかった。結局、生徒は、教師の教育実験のモルモットにされただけだった。ほとんどのモルモットは、教師の下らない実験の犠牲になるだけだった。
 「考える」ことは、容易ではない。「総合学習」という授業をやれば、それでたちまち「考える」能力が身につくわけではない。そんなこともわからない連中が、時間割に「総合学習」という割り当てをして、それでお茶を濁していたわけだ。可哀想な生徒たち。
 では、「考える」能力を身につけるには、どうすればいいか? 実は、それは、教師が教えて可能になるものではない。生徒の一人一人が自ら考える訓練をする必要がある。つまり、思考訓練だ。そのための方法は、三つ。
 第1に、既存の情報を読み取る能力。つまり、「読解力」。
 第2に、さまざまな課題について、自ら考える能力。つまり、「思考力」。
 第3に、思考した内容を論理的に構成して書く能力。つまり、「表現力」。
 このうち、2番目は個人ごとに差が大きいので、教育はあまり適していない。「こういうふうに考えよ」と強制するのも問題だ。とはいえ、自由に考えさせること自体は、問題ない。
 残りの1番目と3番目は、教育が適している。教育はまさしく、こういう能力を高めるためにある。── この能力は、通常、「国語力」と呼ばれる。ただし、現状の国語教育では、小説などの感情理解を重視しているので、あまり適していない。「主人公の感情理解」なんていう文学趣味は、教育にはあまり関係ない。大切なのは、論理的な文章の、読解力と表現力だ。これを鍛えることこそ、「思考力」を高める道である。
 2番目の思考力を鍛えるのは、かなり先の課題だ。初等・中等教育では、まずは1番目と3番目を重視するべきだろう。

 [ 付記1 ]
 ついでだが、これらの能力を低下させる方法もある。それは、テレビゲームだ。ネット中毒も同様。子供をこういう中毒にさせたければ、子供が幼いころから、さんざん甘やかせばよい。いわゆる「スポイル」(甘やかして駄目にする)である。
 最近の子供が駄目になっている本当の理由は、親が子供をスポイルしているからだ。子供たちが駄目になっているのは、親の無責任の犠牲であろう。仕事ばかりやっていて、子供の躾をほったらかしにしているから、そういうことになる。
 ま、甘やかすことと愛情との区別ができていない親が多いのが、最大の原因でしょうね。その一例が、「ゆとり教育」だ。甘やかすことを教育だと勘違いしている。かつてはスパルタ教育で詰め込みすぎたが、今度は逆にゆとり教育でゆるゆるにしている。いつの時代も、子供は犠牲になるばかり。
 教育が必要なのは、子供よりも、阿呆な親や政府であるのかも。

 [ 付記2 ]
 じゃ、かわりに、何をやればいいか? ま、基本的には、読書をしたり、自然観察をしたり、子供同士で遊んだり。……いろいろと常識的にまともなことをやればよろしい。なお、自己反省できる能力が大事だから、親が躾をすることも重要だ。ただし、躾は、親が頭ごなしに叱るのでは逆効果であり、子供が自分で反省できる能力をもつようにするのが正しい。
 なお、小学生までは躾が大事だが、中学生以降は、別の道が必要だろう。具体的なノウハウみたいなのは、漫画週刊誌の「モーニング」に書いてある受験指導を読むといいだろう。非常にためになることが書いてある。
( ※ さて。私自身は、どうしたか? それを尋ねても、無意味です。私はそこらの人とは全然違うから。私の真似をしても、私そっくりにはなれません。良かったですね。  (^^);  )


● ニュースと感想  (1月31日)

 前項の続き。「総合学習」について。
 「総合学習には、これこれのメリットがある。簡単に廃止するべきではない」という意見があった。(朝日・朝刊・投書欄 2005-01-30 )
 メリットがあるのはわかっている。当り前だ。メリットのない教育などはない。
 問題は、メリットの有無ではなくて、他の教科との比較だ。他の教科をつぶしてまで、やる価値があるのか? たとえば、国語学習を減らしてまで、やるだけの価値があるのか? 

 なお、この意見(総合学習の是認)では、実社会との関連をつける実例が示されていた。なるほど、そのような教育は有効だろう。ただし、それは、既存の社会科でも、実行できる。それは「社会科の改革法」としては有効だが、「総合学習にこだわる理由」にはならない。
 前項(前日分)を参照。


● ニュースと感想  (1月31日b)

 「書く力」について。
 国語力の育成に関して、「書く力」が重視されている。特に、「漢字を手書きでかける力」が重視されている。(読売・朝刊・社説 2005-01-29 など。)
 ま、漢字の手書きも大切だが、それ自体が大切なのではない。それはあくまで準備だ。一番大事なのは、文章を書くことだ。(この段階では、パソコンでも構わない。)
 文章を書く力とは、何か? 単に国語の作文の能力か? 違う。思考をまとめる力だ。曖昧な漠然たる思考を、形式化・論理化する力だ。── 単純化して言えば、思考力そのものだ。
 この件は、前々項(総合学習)でも、関連する話題を述べた。
( ※ もっと詳しい話を知りたい? ま、それは、無料では無理。ホームページにあるのは、お金を払わなくてもいい話だけです。金を払うだけの価値のある話は、そのうち書籍で書きます。)


● ニュースと感想  (1月31日c)

 「津波と水俣病」について。
 津波災害への政府援助では、日本が突出して多いという。公約した額では、欧州の国も多いのだが、支出が遅れている。日本はさっさと拠出したので、拠出済みの額では突出して多いという。(1月25日ごろの新聞報道。)
 これはよろしい。褒めておこう。
 一方、水俣病への補償は、未認定被害者への補償を小額に値切ろうとしている。額をいくらか上積みするだけで、最高裁で判決が下った方針(被害者有利)には従わないという。なぜかというと、かつての政治決着(つまり被害者との妥協)に反するからだという。(読売・朝刊・1面 2005-01-30 )
 要するに、政治的な立場にこだわり、被害者の苦痛などは無視する、というわけ。被害者の苦しみよりは、完了のメンツの方が大事だ、というわけ。

 二つを比較すると:
 津波被害では、日本政府に責任はないし、金を出す義務はないのだが、大甘で巨額の金を出す。
 水俣病被害では、日本政府に責任はあるし(最高裁判決)、金を出す義務もあるのだが、渋ちんで小額の金を値切る。
 いやですねえ。日本政府って、どうしてこうなんでしょう。アメリカの前でええかっこしいばかりしたがって、国民の気持ちなどはまるきり考えない。ま、アメリカ政府の一支部だと思えば、納得は行くが。
 とにかくまあ、こういう足元を見ないまま、「国際貢献をしたわが国は立派だ」と鼻高々な首相がいるので、彼のパフォーマンスに拍手してあげましょう。ヒーローとしてではなく、道化として。

 [ 付記 ]
 水俣病の患者認定の問題は、最高裁で決まったとおり。つまり、水俣病は、特定の臓器の損壊をもたらすというより、全身に有機水銀が溜まって、全身の健康や免疫力が低下する。特定の急性症状が出ることもあるが、それはよほど重度の場合だけ。
 で、「重度の場合の急性症状が現れない被害者は、水俣病ではないから、補償しなくていい」というわけ。
 この理屈が成立すると、サリンをまきちらして、人々にひどい後遺症をもたらしても、被害者が死ななかったという理由で、犯罪は免責される。ま、日本政府は、サリンをぶちまける連中と、同類である。それがつまり、水俣病事件。
 当時の事情を知らない人のために解説しておこう。当時、サリンが問題になったのと同様に、水俣病はひどい社会問題となっていた。「オウムがやった」と指摘する声があったように、「チッソという企業がやった」と指摘する声があった。しかし国は、「因果関係が科学的に証明されていない」という屁理屈をこねて、有機水銀のまき散らしをずっと容認した。サリンのまき散らしを容認するのと同様。……「科学的に証明されていない」というのは、「科学的に証明していない」という自己の怠慢を意味するのだが、自己の怠慢を理由にして、責任回避をしたわけ。
 ま、現在でも、「煙草が有害だとは科学的に証明されていない」という屁理屈をこねて、煙草への「有害表示」を断固として拒んでいる。「健康のため吸い過ぎに注意しましょう」というのが長らく続いた文句で、最近ではちょっと改善されているようだが、「煙草を吸うと、癌になり、寿命が縮まります」とはっきり書いてある外国とは、事情が違う。


● ニュースと感想  (2月01日)

 「国語辞典と語義」について。
 新明解国語辞典の新版が出たので、あちこちで話題になっている。(たとえば、朝日・週末版・be 青色・コラム 2005-01-08 )
 この辞典の特色は、方針が、「言い換えをしないで、解説する」ことであるらしい。その意気やよし。ただし、現実には、ただの自己流の語義的な感想になってしまっている。辞書の本来の目的である「定義」ないし「語義説明」とは別のことをしている。

 例を挙げると、「きれい」という語がある。各辞典では、次のように説明される。
  1. 美しい、特に見た目がきらびやか・派手で美しい様子。(岩波国語辞典)
  2. 目に見て美しく心地よいさま。(大辞林)
  3. 美しくはなやかなさま。きらびやかなさま。うるわしいさま。(国語大辞典。Bookshelf 版)
  4. 美しい・(整った)状態にあるものに接して充足感や満足感を感じる様子。(新明解国語辞典)
 このうち、最後の 4 (新明解国語辞典)は、少し間違っているので、訂正しておこう。正しくは、「〜感じる様子」ではなくて、「〜感じられる様子」であろう。
 たとえば、薔薇ならば、「きれいな薔薇」というのは、それをきれいと感じる人の様子ではなくて、それがきれいだと感じられる薔薇の様子のことだ。
 また、様子自体のことではなくて、様子を形容するための言葉が「きれい」という言葉だ。だから「〜(という)様子の形容」と説明するのが正しい。

 さて。肝心の話をしよう。実は、これらの説明は、いずれも、ただの言い換えにすぎない。「きらびやか」「美しく心地よい」「充足感や満足感を感じられる」と説明しても、しょせんは、ただの言い換えにすぎない。
 では、言い換えを避けるには、どうすればいいか? 一つは、多くの言葉で説明することだ。しかし、それもまた、語数が多いだけで、しょせんは言い換えにすぎない。
 実は、「言い換え」というのは、辞書において避けがたい宿命なのだ。言葉を言葉で説明する限り、どうしても、「言い換え」は避けられない。根源的な宿命だ。
 では、どうすればいいか? 

 正しい方針は、次のことだ。
 「語を、基本語と一般語に分ける。一般語は、基本語だけによって説明する。」
 「基本語は、語によって説明するのではなくて、語と現実との関連のさせ方を説明する」
 
 たとえば、「東」という言葉がある。これを言葉で説明しようとすると、「西の反対」などと説明するが、「西」を見ると、「東の反対」と説明してあって、堂々めぐりだ。そこで、「東」という言葉を説明するには、他の言葉で説明するのではなく、現実と関連させて定める方法を示す。
 たとえば、現存の辞典では、たいていが「太陽の出る方向」というふうに「東」を説明している。ここでは、「現実と対応させることで語義を定める」という方針が取られている。これは、基本的には正しい。(ただし、季節ごとに「東」の方向が変わってしまうので、科学的な説明としては、不正確だ。だとしても、「春分の日に太陽の出る方向」と修正だけどすれば、かなり正しくなる。だけど、北極点にいる人にとっては、困るけどね。)
 
 「きれい」という言葉も、同様だ。一般に、形容詞は、現実の対象の状態を説明するのではなく、その対象を感じる人間の感覚に依拠する。たとえば、「緑」という色は、「特定の波長の電磁波(を発するもの)のことだ」なんていう説明もあるが、これは、とんでもない間違いだ。なぜなら、波長が「黄」と「青」の混在であっても、「緑」と感じられるからだ。
 「きれい」も同様だ。その言葉は、対象自体によって決まるのではなく、対象を感じる人の感じ方によって決まる。たとえば、磯野貴理子や青木さやかは、「きれい」と思う人にとっては「きれい」だが、「きつい」と思う人にとっては「きつい」となる。
 こういうふうに、形容の仕方は感じる本人しだいなのだが、その状態があたかも対象自体に備わっているかのように感じるのが普通だ。だから、「うちの嫁さんはきれいだ」と夫が言い張って、友人が「蓼食う虫も好き好きだね」と陰口をたたいても、そのどちらが正しいということはない。彼女がきれいかどうかは、彼女の性質ではなくて、それを受け止める人の感じ方であるからだ。

 実は、これが言葉の本質だ。形容詞だけでなく、名詞もそうだ。一つのリンゴを、「リンゴ」と呼ぶこともできるし、「果物」と呼ぶこともできるし、「球体」と呼ぶこともできるし、「赤いもの」と呼ぶこともできる。言葉と対象を結びつける作用は、対象そのものによってなされるのではなく、表現者によってなされる。
 そして、表現者がどういうこと場を選ぶかは、表現者の感覚によって決まる。たとえば、「緑」と感じる視覚。「痛い」と感じる痛覚。「きれい」と感じる美的感覚。……こういう感覚を通じて、表現者と現実とが結びつきを得て、そのことで、言語的・概念的な認識がなされる。

 だから、言語的・概念的な認識のためには、感覚や肉体というものが、必要不可欠である。何も感じないで、頭だけで抽象的に理解しようとしても、何も理解できない。対象を正しく理解するには、言語的・概念的な認識だけでは不完全であり、感覚や肉体というものが必要なのだ。このことをよく理解しよう。

 [ 付記 ]
 その応用を、いくつか示す。
 各項を比較すると、政治家と経済学者は、どちらも「考える能力のないロボット」と同様だ。現実無視。指令装置のコンピュータが勝手に暴走して決断する。……だから、日本経済はひどくなる。


● ニュースと感想  (2月02日)

 「『障害者』という用語」について。
 「障害者」という用語が、しばしば話題になる。「害」という言葉を使うことで、差別している感じがある、というわけだ。
 念のために解説しておくと、この言葉は本来、「障碍」という用字が正しい。ただし、「碍」という字が当用漢字になかったことから、代用で「害」という字を用いた。
 ここでは、別に、差別していたわけではなくて、当時の人々は「道路の障碍」や「政策の障碍」などを考えていただけだ。それを「障害」と書き換えたとしても、あながち不適当とは言えない。
 ところがその後、「身体障害」から「障害者」という用字に発展して、「害」の字が問題になったわけだ。

 さて。私としては、本来ならば、用字にあまり目くじらを立てるほどのことはないと思う。漢字と熟語とは一致している必要はないからだ。たとえば、「新聞」という用字にしても、「新」でなく「古」に当たるニュースはいっぱいあるし、「聞」でなく勝手に一方的に「話」すだけの論説もいっぱいある。「電脳」というコンピュータにしてもそうで、コンピュータの本体はソフトであって、ハードはただのソフト駆動機にすぎないのだが、「電脳」なんていう用字で「脳」のごとく扱ったりする。(これは中国の話だが。)
 また、差別について言えば、これは言葉の問題ではなくて、人々の心の問題である。北欧のように、身障者に対して優しい心があふれていれば、よほどの差別語を使うのでない限り、身障者は差別されているとは感じまい。
 だいたい、「制度を正せ」と唱えるかわりに、「言葉を正せ」と唱えるのは、日本人の悪い癖だ。上面(うわつら)だけを改めて、本質をほったらかす、という癖が出ている。もっと本質的に、社会システムを弱者に優しくするようにするべきだろう。身障者だけを意識せずに、高齢者や妊婦にも優しくするべきだ。誰もが高齢者になるし、誰もが人生のどこかで家庭に妊婦が一人はいるはずなのだから。
 
 さて。さはさりながら、現状では身障者が不快感をもっているというのであれば、改めるのにやぶさかではない。なぜなら、政府はいつまでたっても弱者を守ろうとしないからだ。政府の無能のせいで、弱者が虐げられるのであれば、国民の間で自衛措置を取るのもやむを得まい。
 では、どうするべきか? 「障害者」という言葉がまずくて、不快に感じるのであれば、適当に他の用語にすればいいだろう。しかし、「要介護者」「要支援者」みたいな用語は、断じてダメだ。これは、言葉によって政治や世論を動かそうという方針であり、姑息である。こんなことをすればするほど、「政治や世論を正面から動かす」という方針が崩れてしまう。政府は「政治なんかやらなくてもいいさ。言葉を直せば、それでおしまい」と思うようになる。
 とすれば、勝手に変な名称を使うべきではなく、なるべく元の用字から離れていない用字が好ましい。私としては、一つ、提案しておこう。それは、「障碍」または「障害」に代えて、「障該」にすることだ。これなら、意味は通るし、音も同じだし、用字もあまり違わない。だから、たとえば、「身障者」という用語も、変更する必要がない。(仮に「障害者」を「要支援者」という用語にしたら、身体障害者を意味する「身障者」に代えて「身要者」なんていう馬鹿げた用語を作る必要がある。キリがなくなる。[ 付記 ]を参照。)

 [ 付記 ]
 言葉だけを改めるというのは、国語レベルでは、メチャクチャである。たとえば、「二重盲験」という医学用語を、朝日は「二重目隠し法」なんていう変な用語に書き換えてしまって、意味が通らなくなってしまっている。(朝日・夕刊・2面 2005-01-25 )この「盲」は、blind の直訳であり、「目をふさぐ」「見ない」という意味の比喩であって、「盲目」や「目隠し」という意味ではないのだが、一方的に文字を規制してしまっている。こんなことが横行すると、「色盲」は「色目隠し」になるし、「盲腸」は「目隠し腸」になるし、「盲点」は「目隠し点」になる。わけがわからなくなってしまう。ついでに言えば、カーテン代わりのブラインドは、「他人の視線を遮る」という意味であって、「誰かの目隠しをする」という意味ではない。
 参考で言えば、厚生労働省の「痴呆症」を「認知症」という呼び方も、メチャクチャだ。なぜか? 「認知障害」ならばまだわかるが、「認知」が症状であるのなら、正常な人間はみんな(認知ができるゆえに)「認知症」である。逆に、「認知症」の人間が認知できないことになる。これでは、言葉と現実とが、正反対だ。狂気的。たとえて言えば、狂人のことを「正気症」と呼ぶのと同様だ。オマケで言えば、正常な人間のことを「狂気症」と呼ぶのと同様だ。

 [ 補足 ]
 誤解を招くといけないので、もう一度、強調しておこう。私が言いたいのは、「身障者を言葉で差別してもいい」ということではない。「身障者への差別を改善するには、言葉で片付けようとはせずに、政治と民心で対処せよ。言葉による対処という、上面だけの姑息な脇道を取らずに、正面から堂々と王道を取れ」ということだ。一言で言えば、「表面でなく本質を見よ」ということだ。
 そもそも、言葉の言い換えだけをしても、ただの一時しのぎにしかならない。言葉を換えても、人々の差別感情が残っていれば、今度は新たな言葉に差別感情が付くだけだ。キリがない。
 どうせやるなら、言葉を換えるよりは、心を変えさせるための措置を取るといい。具体的には、疑似体験。たとえば、学校教育で生徒に、身障者の疑似体験をする。運転免許の更新の際にドライバーに、高齢者や妊婦の疑似体験をさせて、自動車にはねられる疑似体験をさせる。
 だいたい、いくら言葉を換えようと、他人の痛みを理解できない人間に、優しさが備わるはずがないのだ。大切なのは、「愛」なのだ。「愛」のない人間が、心をなくしたまま、単に新しい言葉を操作しても、ただのロボットのようなものだ。無意味である。

 [ 余談 ]
 私がこう言うと、「そんなことは言われなくてもわかっている」と威張る人も多いだろう。さて。わかっているなら、さっさと実行しよう。まずは、電車などで、席を老人に譲りましょう。
 私が見たところ、席を老人や妊婦に譲る人は、非常に少ないですね。たいてい、私以外は、やる人がいない。私が高齢の両親と出かけると、白髪頭の両親が席を譲ってもらえることは、ほとんどない。
 これが日本の現実だ。「高齢者」を「実年」と言い換えても、高齢者は席に座れるようにはならない。


● ニュースと感想  (2月02日b)

 「子供の躾」について。
 子供の躾(しつけ)は、どうするべきか? 小学校高学年以上ならば、諄々と諭してやればいいだろう。手間はかかるが、それが親の教育というものだ。一時的にぶん殴って黙らせても、あまり効果はない。
 問題は、幼児期だ。いくら諄々と諭しても、なかなか言うことを聞かない。そのときはおとなしくなっても、あとでけろりと忘れてしまう。いくら諭しても、効果がない。
 実は、これは当然であって、幼児期はまだ大脳の前頭前野が発達していなくて、人間としては未完成なのである。猿に近い。こういう状態で、一人前の人間扱いしても、猿に「理性的であれ」と命令するようなものだ。方法が根本的に間違っている。
 だから、幼児期には、「良し悪しを理性的に判断する」というような高度なことは、子供に期待しない方がいい。むしろ、「何が良く、何が悪いか」ということを、単純に記憶させればよい。猿だって、「これをしろ」「これをしてはいけない」ということだけなら、覚えられる。「良し悪し」を判断するのではなくて、状況に応じた行動だけを単純に記憶する。
 そのためには、諭すよりは、体罰の方が効果的であるだろう。ただし、注意。これはいわゆる「スパルタ式の体罰」ではない。竹刀でぶん殴るような体罰ではない。通常、お尻をぺんぺんとたたく、というふうになる。あるいは、手の甲をつねる。……これらが、伝統的な方法だ。一方、頭を殴るのは悪い、と見なされる。
 ただし、私のお勧めは、頭をたたくことだ。とはいえ、痛みを与えるようなきついたたき方ではなくて、軽くこつんとたたくだけ。これは、体罰というよりは、体罰の形のシグナルである。痛みはほとんど感じないが、頭という重要なところをこつんとやられることで、「悪いことしたんで叱られた」ということを子供は理解する。
 結局、叱り方を分類すると、次の三つ。
  1. 諄々と諭す。
  2. ひどい体罰で痛みを与える
  3. シグナル的な体罰で警告を与える
 私のお勧めは、三番目だ。

 [ 付記 ]
 ただし……私は今のところ、子供がいないので、この方法が有効かどうかは、確認済みではありません。
 有効かどうかは、読者が実際にしばらく実行してみてから、結果を私に教えてください。なお、対象となる子供は、幼児期です。普通、小学校入学または小学校低学年まで。


● ニュースと感想  (2月03日)

 「大学の海外進出」について。
 日本の小中一貫校で、英語による教育(英語で算数などを教える)を、初等教育段階から始めているところがあるという。教育特区など。
 また、中国の大学が、日本に分校を作る予定らしい。
 ま、それはそれでいいのだが、どうせなら、逆の方がいいだろう。つまり、日本の大学を中国などのアジアに進出させて、そこで日本語による教育をやる。
 現状は、どうか? 中国人などのアジア人が日本に留学して、日本の大学で日本語による教育を受けている。これでは、低所得の国から高所得の国に出掛けるわけだから、コストがやたらとかかって、無駄だ。あげく、学費を払いきれなくなって、犯罪に走ったりする。日本もいい迷惑。
 だから、日本の大学が外国に出向けばよい。メリットは二つ。
   ・ 現地の若者は、留学と同じことを、低コストで可能。
   ・ 日本の大学は、本来解雇すべき教員を、外国で雇用できる。
 一石二鳥ですね。日本では少子化で、大学教員は余っていくが、それを外国に出して雇用すれば、問題ない。また、日本語による教育だから、現地語ができなくても問題ない。ちょっと英語ができれば、それでいいだろう。あと、日本語のできる助手を低コストで雇ってもいい。
 あまり高い給与は払えなくても、定年退職すべき高齢の教員を多めに雇うのなら、何とかなる。たとえて言うと、50年前の日本に、オックスフォード大学やハーバード大学の分校ができたら、そこに通う人もかなりいたでしょう。ちゃんと資格が取れるなら、現地に出向くよりは低コストですしね。(当時は外貨が入手難で、なかなか留学できなかった。)
 なお、このことの最大の目的は、コスト低下ではなくて、国際交流だ。

 [ 付記 ]
 小中一貫校については、前にも話題にしたことがある。「中高一貫より、小中一貫の方がいい」というような話。( → 6月30日b


● ニュースと感想  (2月03日b)

 「燃料電池とハイブリッドとコジェネ」について。
 「燃料電池はすばらしい。国もあれこれ合わせて350億円の資金を投じる。これで素晴らしいバラ色の未来」という、(ピンク)色のついた誘導記事があった。例によって、朝日である。(朝日・夕刊・2面・特集 2005-02-01 )
 どうも朝日は、技術について何もわかっていないらしい。たぶん、「燃料電池は水素と酸素を化合させて水しか出さないから、素晴らしい環境技術だ」とでも思っているのだろう。そこで、正しい科学情報を示しておこう。
 なお、関連記事は、前回分。 ( → 1月23日1月24日

  【 追記1 】 ( 2005-02-05 )
 ハイブリッド車は、燃費が良いだけでなく、環境にも良い。炭酸ガスの排出量は、燃費と同様だからだ。ガソリンを食う量が半分なら、炭酸ガスの排出量も半分になる。
 燃料電池なんていう、実現するかどうかもわからない技術より、確実に効果の出るハイブリッドを促進した方がずっと良い。
( ※ ただし、最も効果的なのは、悪いものを抑制することであり、良いものを促進することではない。理由は、統計的な分布を見れば、すぐわかる。……というわけで、補助金を出すよりは、課徴金を徴収する方が、ずっと効果的。)
( ※ トヨタのハイブリッド車のプリウスとハリアーは、爆発的な人気を呼んでおり、生産が需要にまったく追いつかない。つまり、普及促進のための需要刺激は、まったく必要がない。にもかかわらず、日本政府は、ハイブリッド車に補助金を出している。これで地球上のハイブリッド車が増えるわけではなく、ただの1台も台数は増えないのだが、まったく無意味な補助金をせっせと出す。国民の税金を使って、官僚が補助金ごっこして、勝手に遊んでいるわけだ。……どうせなら、需要でなく供給を増やすための政策を取ればいいのだが、倒錯的。結局、ハイブリッドには、供給増加よりも需要増加を狙う。国家規模の不況では、需要増加よりも供給増加を狙う。方針が狂っているね。それとも、頭が?)
( ※ もうちょっと根源的に言うと、「需給の均衡」が大事なのだが、古典派は「市場原理で需給は必ず均衡する」と考えるので、「需要を増やすのも供給を増やすのも同じことだ」と結論する。だから、ハイブリッドであれ国家経済であれ、「需要刺激も生産刺激も同じく生産量を増やす」と考える。……狂っているのは、古典派の理論ですね。かくて、国の政策が狂う。)

  【 追記2 】 ( 2005-02-06 )
 ディーゼル車の排ガスはひどい。体験記。
 私がジョッギングをしていたら、そばでディーゼルトラックが急発進した。とたんに、青白いガスがあたりに広く霧のように立ちこめ、悪臭が襲いかかり、呼吸困難になる。毒ガスで殺されそうになった感じだ。逃れるために、20メートルぐらい、無呼吸で走る必要があった。
 排ガスは、ディーゼル車1台で、ガソリン車換算、何台分でしょう? 1万台分? で、ハイブリッド車を燃料電池車に置き換えたとしても、ディーゼル車を野放しにしておくと、環境はどのくらい改善されるでしょう? 0.1%ぐらい? で、そのために、費用はどのくらいかかるでしょう?
 マスコミに任せると、まったく無意味なことのために、莫大な金を奪われる。その一方で、毒ガスは放任される。ゴホゴホ。


● ニュースと感想  (2月03日c)

 「技術開発の方法」について。
 燃料電池の新技術を開発するために、国が企業の共同グループに資金援助する方針だという。54億円。(朝日・朝刊・3面 2005-01-31 )
 技術開発への補助金は、製品への補助金(消費者に金を渡す形)よりは、ずっとマシである。( → 1月23日
 とはいえ、「金を出せばいい」という発想は、最善ではない。もっと根源的なことを忘れている。
 技術開発に大切なのは、アイデアと意思だ。ひらめきと気力だ。そのどちらも、金では買えない。アイデアを出す環境だけは、金で用意できるが、アイデアそのものは、金では買えない。
 金よりも大切なのは、何か。人だ。つまり、「金を出せばいい」という金権主義の発想を捨てて、「人を大切にすることこそ大事だ」という人権主義(?)を取ればいい。
 そして、そのためには、「技術者優遇」という根本的な態度を取る必要がある。少なくとも、「成功したら、それに見合った報酬(5%程度)はちゃんと与える」というだけの方針は示すべきだろう。たとえば、1000億円の利益を出したら、50億円を配分する。
 ところが、先の青色LED訴訟から見てもわかるとおり、日本には、そのシステムがない。これでは、いくら国が補助金を出しても、研究者に意欲が湧かない。「成功しても、どうせ利益はみんな会社に吸い上げられるんだ。だったら、いい加減に仕事をして、いい加減に成果を出せばいいさ」というぐらいの意思しか湧かない。

 例示しておこう。青色LEDはいかにして開発されたか? 莫大な研究資金を投じたからか? 違う。どんなに莫大な研究資金を投じても、そのすべてはほとんど無駄になった。なぜなら、道の進み方を根本的に間違えていたからだ。AとBの二つの道があった。Aの道は容易であり、Bの道は非常に困難である。誰もがAの道を進んだ。企業などもAの道のために莫大な資金を投じた。ただし、中村修二だけは、Bの道を進んだ。その道は非常に困難だったが、強い意思で突き進んで、独創的なアイデアを導入した。そのために必要だったのは、意思とアイデアであり、金ではなかった。(機械も自作したから、あまり金はかからなかった。)
 今、燃料電池において、国はどの道を取ろうとしているか? Aの道だ。「安易な方法を選び、多額の資金を投入する」という道だ。しかし私は、Bの道を推奨する。すなわち、「金よりも人を重視せよ」と。
 ただし、である。本当は、両方やった方がいい。凡人は、Aの道。天才は、Bの道。……しかしね。現状では、Bの道がふさがれている。それが問題だ。そして、そういう政策を取るのは、凡人でも天才でもなくて、愚人の官僚である。(マスコミも同罪。)


● ニュースと感想  (2月04日)

 「頭脳流出」について。
 中国では「優秀な人間を米国に留学させてから、中国に環流させて、中国本国での科学技術を発展させる」という「頭脳環流」政策を取っている。その中国人や外国人の頭脳の力を借りて、米国自体も発展している。一方、日本では「頭脳流出」ばかりが目立ち、米国と中国の間に埋没しして、競争に取り残されて、没落しそうだ。そこで、日本も米国並みに、優秀な人間を結集する政策を取るべきだ。── という趣旨の特集記事があった。(読売・朝刊・1面 2005-02-01 )
 記事では、「産学連携」だの「政治の助力」だの、「産・学・政の力の結集が必要だ」という提案をしている。しかし、馬鹿げた話だ。そういう発想そのものが、日本の技術を没落させている。
 産・学・政の行政力(事務力)がいくら結集されても、技術は開発されない。技術を開発するのは、行政力(事務力)ではなくて、技術者だ。その技術者を、日本は、どう扱っているか? 青色LED問題を見てもわかるとおりだ。日本では技術者は、ただの奴隷である。莫大な努力をして、多大な成果を出しても、その成果のすべては、企業や政府に吸い取られる。つまり、「働いても報酬をもらえない奴隷」である。日本で求められているのは、企業や政府を強化するための奴隷技術者であって、独創的な技術者ではないのだ。(企業がそう公言している。経団連の各社社長も同様。)……記事の趣旨も、それと同じ。
 結局、日本は、「独創的な技術者はいらない、奴隷技術者だけいればいい」というのが、国策だ。そして、「独創的な技術者は、日本には不要だから、アメリカにでも追い出してしまえ」という方針だ。
 これは、つまり、「優秀な頭脳は不要だ。安上がりな頭脳だけがあればいい」というコスト優先主義だ。それでいて、他方では、「優秀な頭脳を結集させよ」と主張する。自分が論理矛盾をしているのがわからないのだろうか? ……日本で一番問題なのは、優秀な頭脳が足りないことではない。優秀な頭脳を奴隷扱いするような、愚劣な頭脳があふれかえっていることだ。そういう愚劣な頭脳の連中が、企業やマスコミや政府を牛耳っているから、日本の技術は劣化していく。

 結語。日本の経営方針は、こうだ。
 「企業の経営とは、コストを下げることである。そのためには、技術者への支払いを減らせばよい。そのためには、技術者が技術を開発しなければよい。これで、コストは、最も削減できる」
 つまり、日本の途上国化という政策だ。ま、それはそれで、構いませんけどね。下向きなら下向きでいいが、「下向きと上向きを同時にめざす」なんていう、論理矛盾した方針は取らないでほしいね。それじゃ、馬鹿丸出しでしょ。恥さらし。

 [ 付記1 ]
 このシリーズ記事の翌日分では、別の話。宇宙開発で、中国に後れを取っている、とのこと。縦割り行政に弊害がある、など。(読売・朝刊 2005-02-02 )
 そういう目先の問題じゃないと思うんですけどね。そもそもに本の宇宙開発は、「やらない・縮小する」というのが方針であったはずだ。「なるべくコストを下げよう」というコスト優先主義。「なるべく金をかけまい」という費用節約主義。その根源には、「国の努力は最小限でよく、民間の力を生かすのが大事」という、「小さな政府」主義があったはずだ。
 当然、「小さな政府」で「小さな科学力」で、「小さな国」(卑小な国)になる。中国の後塵を拝するのは、たまたま失敗したからではなくて、むしろ、最初にめざした通りになっただけだ。目標の達成に、失敗したのではなく、成功したのだ。── 問題は、「小さな科学力」という、目的自体だ。
 日本の科学予算の小ささを思えば、日本の宇宙開発は、よくやっていると思う。たしかに失敗はいっぱいあるが、NASAだっていっぱい失敗している。失敗は当然、つきものだ。
 失敗を非難するよりは、失敗を乗り越えるだけの力(予算)を、あらかじめ用意しておくことだろう。失敗への対処は必要だが、それはそれで、別の問題だ。たとえ失敗がなくても、現状の予算では、とうてい、まともなことはできない。たとえ完璧に成功したって、たいしたことはない。
 つまりは、政府の「ケチ主義」が原因だ、ということ。都市計画でも科学計画でも、国の立案や計画性が重要だ。ところが、日本は、「市場原理」なんてのを信奉しているから、「国家の計画性」なんてものは、ハナから重視されていない。中国に負けるのは当然。何しろ、二十年前の旧ソ連の水準にすら、まったく届いていない。これで「先端科学」を口にしたら、笑われるでしょう。

 [ 付記2 ]
 技術者優遇について、参考となる話。1月27日頃の読売夕刊の漫画。
 子供が「将来の夢は?」と語りあって、「メジャーリーガーになって 10億円稼ぎたい」とか、「サッカー選手になって 10億円稼ぎたい」とか、夢を語る。もう一人は、「ぼくは科学者になりたいんだけど、10億円稼げるかなあ」だって。それを聞いた他の子供たちは唖然。
 ふふふ。科学者が 10億円稼ぐなんて、たとえノーベル賞クラスのすごい業績を上げても、日本では、無理ですね。日本という国では、科学者や技術者は、プロのスポーツ選手ほど、大切にされていないんです。ただの使い捨てです。
 日本という国は、こういう国なんです。なお、科学者や技術者を大切にするのは、米国や韓国です。日本で大切にされるのは、科学者や技術者ではありません。ヨン様です。


● ニュースと感想  (2月04日b)

 「風力発電と科学技術予算」について。
 風力発電は、環境に優しい発電と知られているが、あまり普及しないという。理由は、発電の変動があるので、電力会社が嫌がっていること。また、ゴミ発電の方が低コストであるので、電力会社はそちらを好んでいること。(朝日・夕刊・2面 2005-02-02 )
 例によって朝日らしく、ゴミ発電を悪者扱いしている(というニュアンスがある)が、とんでもないことだ。風力発電とゴミ発電は、対抗関係にはなく、既存の火力発電と対抗関係にある。ゴミ発電を減らせばいいのではなくて、火力発電を減らせばいいのだ。敵を間違えてはいけない。
 では、風力発電の振興のためには、どうすればいいか? 簡単だ。補助金を出せばよい。ここでは、補助金は、とても有効である。
 一般に、「燃料電池の購入者」とか「太陽電池の購入者」とかだと、特定の少数の人に数十万円または数百万円を渡すだけだ。これだと、不公平である。かつ、それは、(しょせん赤字にしかならない)非効率な無駄な事業だから、やればやるほど、無駄が増える。
 逆に、「風力発電の購入者」に補助金を出すのであれば、その補助金は、電力会社を通じて、電力消費者(つまり国民全体)に渡る。これだと、公平である。かつ、補助金を出しても、ちっとも無駄ではない。財源は国民全体の金であり、渡す先は国民全体である。しかも、風力発電は、火力発電よりも低コスト(または同等)であり、非効率な無駄な事業ではないから、やればやるほど、無駄が減る。
( ※ ただし、環境への影響を考慮することが、必要だ。風力発電は、「風の道」に置かれることが多く、鳥の衝突被害が多くなりやすい。要注意。)

 [ 付記 ]
 ケインズ派ならば、「財政支出の額だけが問題だ」と主張する。その主張では、「公共事業も減税も同じことだ。どっちもただの需要創出だ」というふうになるだろう。しかし、本当は、公共事業は無駄な需要であり、減税は無駄でない需用だ。公共事業は国民の金を政府が勝手に使うことであり、減税は国民の金を国民が使うことだ。
 「燃料電池の購入者」や「太陽電池の購入者」への補助金は、特定の人が国民全体の金を勝手に使うことであり、「風力発電の購入者」への補助金は、国民全体の金を国民全体が使うことだ。前者は不公平かつ無駄であり、後者は公平かつ無駄がない。
 金の使い方をちゃんと理解しよう。「同じ金を使うのなら同じことだ」というケインズ派の発想は、まったく正しくない。たとえば、あなたの金をあなたが使うことと、あなたの女房が使うことは、同じではない。
 「どっちにしたって、家計簿の項目は同じよ。だから、どっちだっていいじゃない。あたしが買ったものは、あなたにも使わせてあげるからさ」
 と女房は言うが、ルイ・ヴィトンの女物バックが増えることと、あなたの欲しいDVD機器や缶ビールが増えることとは、まったく別のことだ。
 つまりね。朝日は「燃料電池への補助金を増やせ」と主張するが、それは無効かつ有害だ。「燃料電池の購入者」や「太陽電池の購入者」への補助金が増えても、あなたの財布の金が減るばかりで、環境はちっとも改善されない。一方、「風力発電の購入者」への補助金が増えれば、あなたの財布の金はほとんど変わらないまま、環境だけが改善される。
 この違いを理解することが大事。「どうせ環境予算だから、どっちだって同じことさ」と思うと、朝日や女房にだまされます。
( → 1月23日 燃料電池への補助金 )


● ニュースと感想  (2月05日)

 「リサイクル推進」について。
 日本のリサイクル事業が減っているという。ペットボトルなどのゴミを中国に輸出しているせい。日本では人件費が高いが、中国では人件費が安い。だからゴミが中国に流れる。しかし中国では、環境対策が進んでいないので、有害なゴミ焼却もなされる。これはまずい。だから国内でリサイクルするべきだ。根本的には廃棄物そのものを減らすことが大切だ。……という報道・意見の混合記事。(朝日・朝刊・特集 2005-01-30 )
 例によって、朝日の「事実報道と意見主張の混合」という記事。困りますねえ。事実報道と意見主張は、別にしてほしい。こういうふうに「特定方向への世論誘導」はやめてもらいたいものだ。朝日にはやたらとこういう洗脳記事が多い。
 以下、個別に指摘。

 (1) 総量削減
 廃棄物の総量を削減するべきだ、という最後の結論は、正論ではあるが、今回の問題とは関係ない。
  ・ 廃棄物の産出
  ・ 廃棄物の処理
 この両者は、まったく独立している。それぞれ独自に推進するべきであり、一方が他方の代替になるということはない。業者は産出を減らすような商品を作るべきだし、一方、いったん業者から渡された廃棄物は、消費者としてはどうしようもないのだから、あとは行政の仕組みでやるしかない。たとえば、「ビニール包装をやめよ」という主張は成立するが、だからといって、いったん渡されたビニール包装については、消費者はどうしようもない。「業者が渡さなければいい」なんて主張しても、消費者としてはどうしようもない。

 (2) 原則
 人間がやる分別ならば、人件費の高いところでなく人件費の安いところでやる、というのは、当然だ。あえて「国内でやる」というのなら、次のことが必要だ。
  ・ そのためのコスト負担。増税。
  ・ そのための人員確保。
 特に、後者は、そのうち、「単純労働者を外国から招け」というふうになるかも。廃棄物を外国で処理するかわりに、日本に外国人を招いて、高コストの処理をする、というわけ。馬鹿げている。

 (3) 対策
 中国で有害な処理をする、というのは、中国の問題だ。「だから海外処理をやめてしまえ」というのは、暴論だ。「中国(など)で無害な処理をする」というのが正解だろう。
 方法は? 簡単だ。「有害な処理をする国には、廃棄物の輸出を認めない」というふうにすればよい。たとえば、フィリピンで、「無害の処理」を保証する半官半民の会社を作り、そこに輸出する。同時に、中国への輸出を禁止する。
( ※ 激変緩和措置を付けることが必要。そうすれば、中国でも、対策できる。)

 (4) 公的処理
 記事はやたらと公的な処理を勧奨しているが、公的な処理なんてのは、「民営化」とは逆の流れで、経済的に非効率だ。
 たとえば、私の住んでいるところでは、古新聞の処理が次のように変更された。
 公的処理をすると、自治体には、古新聞の売却代が手に入る。儲かる。その金額は、だいたい、トイレットペーパーの価格ぐらいだろう。1個あたり、30円ぐらいかな。
 一方、各戸は、公的処理の、あらゆる点でデメリットがある。骨折り損のくたびれもうけの損害は、だいたい、500円分ぐらい。
 結局、自治体は 30円を儲けて、各戸は 500円ぐらいの損だ。差し引きして、大損だ。
 こういう馬鹿げたことを推進しているのが、朝日新聞。国民の迷惑なんかまったく考えないで、「リサイクル」という理念ばかりに突っ走る。リサイクル教の信者。リサイクル馬鹿。

 [ 付記1 ]
 古新聞の運搬は、私のような力のある男性ならともかく、高齢者や女性には、とても大変だろう。では、どうするべきか? 対策は、ただ一つ。新聞の購読をやめることだけだ。(かわりにネットの無料ニュースを見ればよい。)
 要するに、朝日新聞は、「新聞の購読をやめさせる」という努力をしているわけだ。自社を倒産させようと努力しているわけだ。「リサイクルは良いことだ、ゴミを出すのは悪いことだ」としきりに読者を洗脳して、「じゃ、ゴミを減らすために、新聞の購読をやめよう」と読者を仕向けているわけだ。愚の骨頂。
 読売や毎日も、何とかした方がいいですよ。さもないと、朝日のキャンペーンの巻き添えを食って、共倒れだ。
 ああ、それにしても、古新聞回収業者が、また復活してくれないかなあ。さもないと、私も、年を食ったら、新聞の購読をやめる必要が出るかも。そうなったら、新聞の悪口を言う楽しみもなくなる。  (^^);

 [ 付記2 ]
 ついでだが、今の若い人は、新聞を読まなくなっている。この現状に、朝日は「ゴミが出なくなった」と大喜びしそうだ。しかしその半面で、若い人々は、ネットでエッチ画像を見たり、ゴミ掲示板にのめりこだり、迷惑メールをいちいち開いたり、ケータイで無意味なメールを打ったりしている。要するに、白痴化だ。
 ゴミ減らし優先で、白痴化していく。本末転倒とは、このことだ。ゴミ減らしを進めて、自分自身がゴミになっていく。


● ニュースと感想  (2月05日b)

 「インターネット接続」について。
 ネット環境の体験記。
 低速のダイヤルアップから、高速なADSLや光通信などへと、通信環境が向上してきたが、それでどうなったか? たしかに時間は節約できたが、その節約した時間で、何ができたか? 結局は、ネットサーフィンの量を増やして、ネット上の無料のエッチ画像をコレクションするのに熱中しているだけ。「少年じゃあるまいし」と妻には呆れられ、自分でも呆れながらも、やめられない。……という体験記。「速さを追求したあげくに辿り着く先はしょせん、この種の暇つぶし作業である」というのが結論。筆者は、作家の島田雅彦。(朝日・週末版 be 赤色版・ e7面 2005-01-29 )
 ふふふ。馬鹿ですねえ。……だから私は何回も言っているんだが。「ネットに接続する時間はなるべく減らしましょう」と。……とはいえ、世の中、彼のご同輩ばかりだろう。

 ところで、代々木の国立競技場のスケートリンクが閉鎖されるそうだ。スケート客が減って、採算に乗らないせい。日本中でリンクが閉鎖されつつあるという。(朝日・夕刊・社会面 2005-01-29 )
 体を動かすよりは、ネットサーフィンをしている若者ばかりが多いせいらしい。本当のサーフィンならば、まだいいんですけどね。そうじゃない。スケートリンクに行くかわりに、ホームページのリンクをクリックしているだけ。
 スケート場の閉鎖。いやですねえ。私は若いころは、けっこうスケートをやっていたんですけど。けっこうスケートがうまいんですよね。大学が近かったから、代々木にもけっこう行ったんだけど、もう行けないのかなあ。
( ※ そのうち、スケートをするかわりに、バーチャル・スケートでもやって、それで満足するようになるのかも。下手をすると、バーチャル・セッ○スなんてのが盛んになって、人類は少子化のはてに滅亡するかも。)
( ※ 冒頭の作家も、すでに、バーチャル・セッ○スだけなのかもね。)

 [ 付記 ]
 スケートの没落がネットのせいだとしたら、ネットの普及につれ、あれもこれも状況は悪くなるばかりみたいだ。
 そういえば、先日(1月29日 )の既述では、「ネットと無料新聞の普及で、新聞の未来はない」という話もあった。


● ニュースと感想  (2月06日)

 「携帯電話よ、さようなら」について。
 携帯電話をもつと、いろいろと便利な点があるが、その半面、いつも気にしていなくてはならず、わずらわしい。そこで、きれいさっぱり携帯電話との縁を切ったら、すごく快適。ちっとも不便でない。固定電話と電子メールがあればいい。3年たったが、ちっとも問題はなかった。── という体験記。(読売・朝刊・生活面 2005-02-01 )
 携帯電話なんてものは、現代人という犬に対する首輪だが、首輪をはずせば、犬は自由になり、人間に戻って生きられる、というわけ。かねて私の主張してきたとおり。
 ただし、本人は、一つだけデメリットをあげている。「携帯電話なんかないんです」と言ったら、意気投合した相手に「隠しやがって。私を信用していない」と怒られたそうだ。
 そこで、対策。名刺を用意して、固定電話番号と電子メールだけを記しておきましょう。さらに「携帯電話ははありません」と注記しておきましょう。その名刺を相手に渡せば、「お、そうか」と信用してもらえます。

 [ 付記 ]
 ただし、できれば、名刺は何通りも用意しておきましょう。「電子メールだけ」とか、「住所もあり」とか。……ついでに、「携帯電話あり」というのも用意しておくと、携帯電話をもっていても、ないフリができます。  (^^);
 なあに、大丈夫。どうせ相手は、あなたが名刺を何通りも用意しているとは、思いません。たとえば、二通りの名刺を用意して、一方だけを引き出せば、相手は、そこに二通りがあるとは見抜けず、一通りしかないと思い込むから、うまくだませます。(たとえば、片方は表側から引き出し、片方は裏側から引き出す、というふうにしておけば、任意の方を引き出せる。)
 手品みたいなものですけどね。


● ニュースと感想  (2月06日b)

 「銀行のキャッシュカード犯罪対策」について。
 銀行のキャッシュカード犯罪があるが、これに対する銀行の対策は、なかなか進んでいないという。(読売・朝刊・1面 2005-02-02 )
 記事にするのはいいが、せっかく調べた情報を出し惜しみするようでは、困りますね。どの銀行がどのくらい対策しているか、はっきりと情報を出してもらいたい。そうすれば、預金者は、自分に最適な銀行に、乗り換えることができる。なのに、情報を隠すなんて、とんでもない。
 「情報を出すと、銀行に有利・不利が付いて、不公平だ」と新聞社は思っているのだろうが、とんでもない。銀行に有利・不利が付くことこそ、好ましい。こういうところでこそ、「市場原理」は働くべきだ。
 新聞社は普段、「構造改革」だの「市場原理」だの、さんざん主張しているくせに、肝心の所で、自社の情報の出し惜しみにより、市場原理や自由競争を阻害している。自己矛盾。
 そのくせ、新聞社は、「各社の製品の一覧表」なんて記事で、各社の製品の長所ばかりを羅列して、記事において宣伝・広告を書いたりする。これもまたふざけた話で、メーカーのカタログの羅列を記事にするなんて、読者を馬鹿にしているとしか思えない。
 要するに、企業の宣伝はするが、企業の批判はしない。企業のためになる報道はするが、読者のためになる報道はしない。── こんな新聞に金を払うなんて、馬鹿げている。そのうち、有料の新聞なんて、消えてしまうかもしれない。何しろ、必要な情報はなくて、企業の広告と政府の広告しか書いていないんだから。読者としては、金を払うよりは、金をもらいたいくらいだ。
 最後に、読者として、ひとこと言っておこう。「金返せ!」と。(ケチですねえ。  (^^); )

 [ 付記1 ]
 情報を隠すなんて、とんでもない、と述べた。
 ここでは、「情報の不足による市場の歪み」を唱える経済学者の理屈が、かなり当てはまる。ただし彼らの主張だと、「そのせいで不況」または「そのせいでインフレ」という、正反対の二つの結論が出るのが、学説の泣きどころ。自己矛盾。
 ま、これは、別の話題だが。

 [ 付記2 ]
 イーバンク銀行(という変な名前の銀行。イー銀行銀行ですね)が、引き出し時間などを任意に設定できる、というサービスを始めた。ネット経由で設定するという。(朝日・朝刊・3面 2005-02-05 )
 やらないよりはやった方がいいが、IPアドレスを調べて銀行に申し出るなんて、馬鹿げている。たったいっぺんの登録のために、何でまたそんなめんどうなことをしなくてはならないのか。やる人は少数だから、実効性が薄い。
 むしろ、(時間や金額を)ATMで設定すればよい。方法は、次の通り。
  1. 通常の暗証番号でATMにログインする。
  2. すでに設定済みかどうか調べる。
  3. 設定可能状態で、設定する。
 「三日後から」というのが不便な場合は、銀行員と対面で引き出しをすればよい。当然、顔はVTRに記憶され、指紋は紙に残され、DNAは保存される。
 ついでだが、銀行の預金口座を開設するときにも、顔写真を撮影しておくべきでしょうね。「盗まれないため」なんだから、預金者も喜ぶはず。(いやなら拒否していいが、盗まれる危険性が高まる。)


● ニュースと感想  (2月06日c)

 「ネット株取引」について。
 ネット株取引では、儲かった人は 25%で、損をしたのが 53%だ、という。調査会社による調査結果。(朝日・朝刊・経済面 2005-02-03 )
 つまり、「一部の人が儲けて、大半がカモになる」という図式。これで、私の主張が裏付けられたようだ。前にもそう指摘しておいた。( → 8月07日9月27日
 朝日(新聞や週刊誌)は、「ネット株取引をやろう」なんてい記事をよく掲載するから、自分の新聞に掲載したこういう調査結果を、しっかり読んで、過去の煽動記事について、ちゃんと正誤訂正をするといいだろう。
 それとも、朝日の記者は、自分の新聞を読まないのかな? 「新聞を読め」と自社の記者に勧告しましょう。


● ニュースと感想  (2月07日)

 「ネット・カジノ」について。
 ネット・カジノ(賭博)がまかり通っているという。国内では違法だが、ネットでの規制は困難であることが理由。で、これを、「なし崩し的解禁状態」と呼び、「規制が困難だから、規制を見直せ(合法化せよ)」という結論する。(朝日・週末版・be 青色版 2005-02-05 )
 またしても出ました。朝日お得意の、「報道と主張の混合」という煽動記事。「賛否両論の併記」もせずに、特定の方向に導こうとする。しかも、その方向が、「犯罪の助長」だ。呆れて、ものも言えないね。
 この根本発想は、「市場原理が良い。規制は悪い。規制緩和が最善だ」という「神の見えざる手」だ。(本当は悪魔の手先。)
 で、記事の趣旨は、「規制は困難だから規制をやめよ」ということ。たとえば、「麻薬はいくら規制しても、とうてい取り締まりは無理だから、麻薬を自由化してしまえ。規制緩和をせよ」というわけ。暗黙裏に、「そうすれば、麻薬業者が利益を上げるから、日本は景気が良くなるだろう。国民が廃人になってもいい」と考えている。
 
 あまりにも偏向しているので、対立する意見も示しておこう。
 カジノや賭博は、経済活動ではない。それは何も生産しない。単に国民間の配分を変えるだけだ。大多数が金を奪われ、特定の少数者が儲ける。ただし、トントンではなくて、「親」が寺銭を奪う。
 ただし、それで参加者が満足をするのなら、それでいい。しかし現実には、大多数は「後悔」するだけだ。「やらなければよかった」と。
 では、なぜ、参加者はそれをやるか? 「やらなければいい」というのは、本人もわかっている。ただし、やめられないのだ。中毒ふうの依存症になっているから。
 この点で、賭博は、麻薬と同じである。財産を奪い、精神を荒廃させる。人格の破壊といってもいい。そして、それを代償として、「親」ばかりが儲かる。(談合して国の財産を奪う土建業者に似ているが、もっと悪質だ。)

 国民が正しくないことをしたなら、「それをやりましょう、規制を緩和しましょう」なんて語るべきではなく、「規制を強化しましょう」と語るべきなのだ。暴力団みたいな犯罪者が「合法的な犯罪」をやっているのなら、「みんなでその手の上で踊りましょう。金を奪われましょう」となんて語るべきではなく、「踊らされないようにしましょう」と語るべきなのだ。つまり、危険を警告するべきなのだ。それがマスコミの使命だ。
 しかし、朝日だけは、例外だ。危険を警告するのとは逆に、国民の生活を破壊するために、自社の紙面を勝手に使っている。
 はっきり言っておこう。あなたの精神はしっかりしていても、あなたの配偶者や子供はネットカジノにはまるかもしれない。そして、その理由は、そのときまで知らなかったのに、朝日の紙面にそういう記事が出たからだ。しかも「やめましょう」ではなくて「やりましょう」と書いてあったからだ。
 まともな人間は、朝日の購読はやめた方がいい。家庭生活や人生を破壊される。こんな下らない新聞を購読するのは、ただ悪口を言うために購読している私だけでたくさんだ。私ならば毒に強いが、たいていの人は毒が回って死んでしまう。死にたくなければ、朝日の購読をやめましょう。

 [ 付記 ]
 前項 の「ネット株取引」にせよ、本項の「ネット・カジノ」にせよ、朝日の記者というのは、バクチのことしか考えられないのだろうか? 普段、仕事をサボって、バクチばかりやっているせいかも。そのうち、自分たちの経験を生かして、朝日には「ネットでやる、飲む・打つ・買う」という特集が出るでしょう。(注釈すると、「酒・バクチ・女」のことです。そのうち、前者の二つは掲載済み。近いうちに、「ネットでコール○ー○を買う方法」が掲載されるんでしょうね。)
 ただ、実を言うと、朝日にも、まともな記者はけっこういる。たとえば、NHK事件で、「事前説明はダメ」という報道があった。(三日ぐらい前。)
 これは、私の 1月29日b の指摘をそっくりそのまま報道した感じだ。つまり、「小泉の波立ち」を読んでから報道すれば、正しい報道ができる。(この点、読売は最悪で、この件をまったく報道していない。社主による報道管制がなされているようだ。)
 ただし、朝日のうちでも、週末版・be 青色版 だけは、最悪だ。be 青色版は、やたらと経営者の宣伝をするばかりで、消費者の視点がまったく欠落している。「国民をだまして金儲けするにはどうすればいいか」ということばかり書いてあって、「国民がだまされないためにはどうすればいいか」という消費者の視点がまったく欠落している。
 たぶん、デスクが悪いんだろう。私が社長だったら、デスクを即刻解雇しますけどね。たぶん、そうならないでしょう。だから、読者が、朝日を購読停止にするべし。

( ※ 同じ日の be 青色版 では、女性経営者のインタビュー記事があったが、批評的な視点がない。本来なら、「女性をうまく活用すれば、企業は伸びることができる」という教訓が得られるはずなのに、そういう視点がまったくない。かわりに、何があるか? 「他人の成功談を聞こう、それを真似して、自分も儲けたい」という、さもしい心根ばかりだ。卑しいね。さもしいね。情けないね。……自分の財布の金のことしか考えていない。報道人の使命感がまったくない。下賤。)


● ニュースと感想  (2月07日b)

  (1) 参考ページ
 「HTMLメールの危険性」について。
 HTMLメールの危険性を示したページを紹介しておく。ほぼ必読。

  → 該当ページ

 (2) 朝日の記事A
 上記サイトは、HTMLメールの危険性を指摘している。
 一方、朝日新聞は、「 HTMLメールは便利だ、素敵だ」と推奨している。( → 10月31日b
 こういう素人記者の書くデタラメ記事を信用してはいけない。一般に、朝日のIT記事は、すべてデタラメだ。ホントも混じっているが、嘘がいっぱいある。(特に、週末版・be 青色版 がそうだ。)
 始末が悪いのは、「自分が無知である」と理解していないこと。普通の人なら、「自分は無知だ」と理解して、自分の無知を他者に伝染させるような恥知らずなことはしない。ところが朝日は、素人の癖に、自分の無知を他者に伝染させようとする。
 「専門家に記事を書いてもらう」というふうにすればいいのだが。……たまに、そうすることもあり、その場合はミスがない。なぜいつもそうしないんでかね。ごく小額の原稿料を惜しんでいるせいかな? 

 (3) 朝日の記事B
 「パスワードの設定法」なんていう無駄記事が出ていた。(週末版・be 青色版 2005-02-05 )
 パスワードの話で言うと、そもそも、パスワードなんかいくら設定しても、パスワードを知られてしまっては意味がない。スキミング詐欺も同様。
 そこで、私がパスワードの設定法を教えます。それは「語呂合わせ」です。ちょっと常識的ですけど。たとえば、1107で「いいおんな」など。とにかく、自分の誕生日や妻の誕生日はダメ。(語呂合わせは、漫画の「ののちゃん」にも出ていた。記事より漫画の方が役立つ。)
 パソコンのキーボード入力だったら、子音だけの入力がいいでしょう。「なんどうひさし」なら「NNDUHSSH」とかね。ただし、一般に、自分の名前を使うのはやめた方がいい。バレやすい。ひそかに好きな彼女の名前なら大丈夫かも。(ただし、ご注意。忍ぶれど色に出にけり……)
 凝った方法だと、キーボードのキートップの、カナ部分を見ながら、ローマ字で打鍵する。「なんどう」なら「UYS4」となる。
 お勧めは、外国人の人名のローマ字読み。たとえば「dabinti」や「gohho」。これなら、辞書にはないから、まずバレない。

 [ 付記1 ]
 「パスワードの設定法」なんていうのは、まったくの無駄とは言えないが、ほとんど無駄である。
 第1に、業務用のファイルなら、「厳格な機密防護」か「社内ではオープン」か、どちらかであるはずだ。中途半端な機密防護は、あまり意味がない。
 第2に、私的なファイルなら、携帯電話か電子メールか、どちらかであろう。通常、不倫用。(独身者の社内恋愛もあるが。)……この場合、パスワードをかけるなら、携帯電話か電子メールでパスワードをかける必要がある。となると、今回の記事の方法( MS-Word または zip ファイル)は、無効。

 [ 付記2 ]
 そこで、私が、不倫をするための方法を教えます。じゃなかった、メールで秘密を守る方法を教えます。それは、パスワードじゃなくて、ファイルを削除することだ。だいたい、パスワードなんかかけていたら、怪しい。また、不便である。(公開鍵を使う方法もありますけどね。面倒だし、あまり実用的じゃない。そもそも、秘密保持の方向が違う。)
 では、どうするべきか? 不倫メールは、さっさとメールソフトから削除しましょう。そして、かわりに、別の場所にこっそり保存しておく。ファイル名は、「企画会議資料」なんていう名前にしておく。場所も、似たような名前のフォルダを作っておく。
 さらに、念を入れて、文書を暗号化する。暗号化のためには、フリーソフトがいっぱいある。適当に利用すればよい。(実は私も暗号ソフトを作ったが、それはまた別の話。)
 なお、復元後のファイルは、エディタで開いてはいけない。それでは、エディタのファイル履歴から、すぐにばれてしまう。頭隠して、尻隠さず。復元後のファイルは、必ず完全削除しましょう。ゴミ箱に入れておくだけじゃダメですよ。
 とはいえ。怖いのが、妻の目だけであれば、最初の方法(削除とファイル名の変更)だけで、まず大丈夫。隠していることがバレなければ、隠しているものもバレない。
 えーと。私がいろいろと書いたのは、私の不倫体験記ではありません。また、これ以上、細かなことを書くと、あとで不便なので、やめておきます。

 [ 付記3 ]
 不倫メールが妻にバレて、大変な事態になった、という恐怖の体験記があります。読売新聞の人生相談のコラム。(読売・朝刊 2005-02-06 )


● ニュースと感想  (2月08日)

 「ネット詐欺」について。
 ネット詐欺が話題になっている。ヤフー・オークションなど。
 引っかかる方が悪いと思うのだが、一応、常識的な指摘を二つ。

 (1) 新品
 「新品・未開封・高額」なんてのは、絶対に買ってはいけない。そんなのは詐欺に決まっている。高額の新品ならば、ちゃんとしたお店で買いましょう。もちろん、保証書つきで。
 中古ならば、こちらがお勧め。
   → kakaku.com の中古

 (2) 銀行振り込み
 原則として、銀行振り込みはやめましょう。詐欺が多い。かわりに、代引きにする。代引きならば、開封後、詐欺だとばれた時点で、「詐欺だ。支払うな。警察に通報せよ」と宅配業者に連絡すればよい。
 ま、それがわかっているから、詐欺師は代引きには応じない。「代引きはダメ」と言った時点で、詐欺とわかる。
 ただし、代引きだと、コストがかかる。で、小額ならば、銀行振り込みでも良い。小額なら、詐欺はあまりないから。(手間と危険がある割には、詐欺師の儲けが少ないので。)
( → 11月15日


● ニュースと感想  (2月08日b)

 参考サイト。
 おもしろい話があった。
 → 中村正三郎のページ
 ついでに、コメント。

 (1) 一太郎と松下
 松下への悪口が書いてある。まったく同感。私も松下、嫌いになりました。
 実は私も同趣旨の話を書こうとしたのだが、こちらのサイトの方がずっと詳しいので、私が書くまでもないようだ。
 【 追記 】 ( 2005-02-09 )
 関連サイト。
  → がんばれゲイツ君
 (2) ICカード
 ICカードのスキミングという問題があるそうだ。( → ネタ元
 【 追記 】 ( 2005-02-09 )
 実は、この番組情報は正しくないという。ICカードは、そんなにひどいものではなくて、ちゃんとスキミング対策がなされているという。詳細は、同じサイト にある修正文。( 2005-02-08 の箇所。)

 (3) 量子力学
 量子力学の「波動関数の収束」という伝統的な解釈がある。だが、これを信じている物理学者はほとんどなく、「多世界解釈」というメチャクチャな解釈を信じている物理学者も少数派だ。大半の物理学者は、「わからない・不明」だ。かくて、「教科書を書き換えるべき時が来ている」という結論。
 さて。教科書を書き換えるべきだとして、どう書き変えるかが問題だ。その解答は、ここにある。
   → 二重スリットと観測問題

 なお、「波動関数の収束」と「多世界解釈」が矛盾だらけだということは、ここに示してある。
   → シュレーディンガーの猫

 [ 付記1 ]
 「波動関数の収束」と「多世界解釈」が矛盾だらけだということは、私はかつて上記ページで指摘した。すると、「いや、そんなことはないぞ。従来の解釈が絶対的に正しいんだ。南堂の解釈は、物理学を否定するトンデモだ」という意見が来た。困ったものだ。
 「従来の解釈が正しくない」ということは、今日ではもはや物理学の世界の主流となっているのだ。物理学の最前線を、ちゃんと理解しましょう。

 [ 付記2 ]
 二つの解釈が有名だが、どっちにしたって、問題がある。二つの解釈は、シュレーディンガーの猫の問題についてなら、曲がりなりにも(メチャクチャな)解答を出せるが、二重スリットについては、まったく解釈を出せない。あげく、「一つの粒子が二つのスリットを通る」という結論を出す。しかしこれは、言語矛盾だ。
 これをまともだと考えるようでは、物理学者は言語と論理をまともに使えない狂人ばかりだと見なせるだろう。彼らは「1」と「2」の区別もつかないのだ。小学生レベルの数学力さえない。いや、鳥レベルの数学力さえない。

 [ 付記3 ]
 では、正しくは? 上記の二重スリットのページに書いてある。簡単に言えば、こうだ。
 普通の立場は、「量子は波と粒子の両方の性質をもつ」という、折衷主義だ。しかし、「現実にうまく当てはまるから、それで解釈しよう」なんていう御都合主義では、いつか矛盾にぶつかる。そこで、かわりに、物事の本質を突き詰める。すると、可能な解釈は、たった一つしか残らない。それは、「波動関数は(粒子でなく)波を示す関数だ」ということだ。それに適合するのは、まったく新たな原理だ。


● ニュースと感想  (2月08日b+)  ( 場所はここだが、公開は 2月23日 )

 前項の続き。「現代物理学のナンセンス」について。
 現代物理学というのが、いかに下らないナンセンスな状況に陥っているか、私はかねて「シュレーディンガーの猫」のページで紹介してきた。また、それとは別の話題を「二重スリット」のページでも紹介してきた。 ( → シュレーディンガーの猫二重スリット
 これと同種の話題をめぐって、中村正三郎のページ ( 2005-02-21 )で、下記のサイトが紹介されていたので、ちょっと見てみた。
   → 宮沢弘成のサイト

 これを読んだあとで、感想をかねて、コメントしておこう。
 まず、基本としては、この人のセンスは、なかなかいい。「シュレーディンガー方程式と確率解釈ですべて片付く」なんていう発想を捨てて、「発散問題を解決しなくてはダメだ」と主張している。そこには、物事の本質を探ろうというセンスがある。その意味で、センスはいい。
 また、(電子・量子は)「質点か場か」というテーマを掲げているのも、センスがいい。ただし、これの本質は、あまりよくつかめていないようだ。「質点か場か」というのは、本質的には、次のことだ。
 「粒子か波か」
 これに対して、通常は、「質点である」( = 粒子である)という立場が優勢だ。それに対して、この人は「場だ」( = 波だ)という立場を取る。とてもセンスがいい。主流派に逆らっているのも、見上げた根性だ。

 ただし、である。話はそこでストップしている。その先に行っていない。
 もっと本質的に言おう。「光は粒子か波か」という話題は、十九世紀からある話題だ。それに対して、現代の量子力学は、一応の解決を出しているのだが、それが、現実をうまく説明できない。その典型が、「シュレーディンガーの猫」と「二重スリット」だ。
 そして、(電子・量子は)「質点か場か」というテーマは、「粒子か波か」という問題だから、この問題を純粋に扱うならば、「質点か場か」という一般的なテーマを掲げるよりは、「二重スリットの問題をどう扱うか」という典型的な問題に絞った方がいい。そうすれば、問題が純粋に現れる。
( ※ もっとセンスがあれば、そこがわかるんですけどね。)

 さて。「粒子か波か」という問題に、どう答えるか? 通常は、「粒子だ」と前提とした上で、「確率波」という概念を用いる。しかし、それだと、「二重スリット」の問題をうまく扱えない。
 一方、この人のように、「場だ」(波だ)と考えると、問題を容易に扱えるようになる。

 ただし、である。「粒子だ」と答えるかわりに、「波だ」と答えるのでは、ある点では便利だが、同時に、量子力学の豊かな成果を扱えなくなる結果になる。だから、二者択一の形で、「粒子か波か」という問題を掲げて、どちらか一方だけを取るのでは、不十分なわけだ。
 さて。ファインマンの経路積分の発想もある。これだと、「粒子でもあり波でもある」という発想を取る。ここに、正解のカギがある。
 そして、その正解のカギを得たあとで、真実を探ると、本当のことがわかる。それは、
 「量子は、粒子であり波であるような、独自の性質をもつ」(単なる質点でも場でもない。双方である)
 という発想だ。そして、そこから、本当の真実が見える。それは、こうだ。
  「量子は、粒子でもなく波でもない。量子は、『粒子の波』である」
 このことは、図で説明するしかない。上記の「二重スリット」のページにある図を参照。

 [ 付記1 ]
 要するに、「AかBか」というテーマを掲げて、「Aだ」「Bだ」と頭をひねっても、正解にはたどりつけない。「Aであり、かつ、Bである」というモデルを提出することが必要だ。従来の発想の枠組みを壊し、それを超越して統一化する発想が必要だ。
 真実というものは、常に、そういう形で現れる。つまり、「既存の思考の枠組みを超える」という形で。

 [ 付記2 ]
 不毛な研究は、不毛なテーマから生まれる。「AかBか」というテーマは、「Aである」か「Bであるか」、どちらかが正しいことが前提されている。しかし、その前提自体が狂っているのだから、どっちみち、正解にはたどりつけない。それが不毛なテーマだ。
 同様の例は、歴史上にもある。錬金術だ。「化学反応によって黄金を作成するには?」というテーマを掲げて、正解を得ようとした。しかし、「その方法がある」という前提自体が狂っているのだから、どっちみち、正解にはたどりつけない。これも不毛なテーマだ。
 冒頭の著者の「質点か場か」(AかBか)というテーマは、まさしく昔の錬金術のテーマと同様なのだ。

 [ 付記3 ]
 この世で最も虚しいことは、こうだ。
 「真実が判明しているときに、あえて真実を無視して、別のところに真実を求めること」
 こういうことをやると、人生がまったく無駄になる。なぜか? 科学というものは、真実を証明するためにあり、虚偽を証明するためにあるのではない。(つまり、自分が「真実だ」と勝手に思い込んだものを、真実だと証明するためにあるのではない。)
 科学のために必要なのは、真実を見たとき、虚心にそれを理解する素直さだ。「これは自分好みじゃないから」という理由で否定すれば、真実よりも虚偽をめざすことになる。
 では、真実であるか虚偽であるかの判定基準は? それは、次の二つだけだ。
 「理論内部が無矛盾であること」
 「理論と現実とが合致すること」
 ここには、直感や好みの入る余地はない。しかしながら、残念なことに、多くの科学者は、この二点をなおざりにして、直感や好みだけで真偽を判断する。「粒子」派も、「波」派も、そうだ。……仮に、彼らが上記の判定基準をもつならば、「矛盾した自説を捨てるしかない」と気づくはずなのだが。
 心が曇れば、目も曇る。

  【 追記 】 ( 2005-02-26 )
 上記のサイトの話は、問題提起としては、とてもいいと思う。そこで、この問題提起に対して、正解を示しておこう。 ( ※ 専門的な話となるので、普通の人は読まないでよい。)

 Q 電子は、質点か場か? 
 A 電子は、質点または場で近似されるだけだ。 
       ・ 電子がほぼ静止しているとき …… 質点 で近似される。
       ・ 電子が高速で動いているとき ……  で近似される。

 要するに、電子が物質中に束縛されていて、静止しているも同然のときには、質点で近似される。しかし、電子が真空中を光の速度に近い高速で動いているときには、場で近似される。
 遅いときは、古典論的な世界像(質点)であり、速いときには、非・古典論的な世界像(場)である。……これはちょうど、ニュートン力学と相対論の場合に似ている。
 相対論は、物質の速度が「ほぼ静止しているとき」と「高速のとき」という二つを、統一的に解釈するような、新しいモデル(相対性原理)を提出した。量子力学も、かくあるべし。つまり、「ほぼ静止しているとき」と「高速のとき」という二つを、統一的に解釈するような、新しいモデルを出すべし。どちらか一方ならば、「質点」または「場」で済むが、双方を統一的に解釈するには、新しいモデルが必要だ。── そのモデルが前記の「二重スリット」にあるモデルだ。つまり、「虚数エーテル」というモデルだ。
 このモデルを使えば、ついでに、次の問題にも答えることができる。
 「すべての電子はどうして同一なのか?」
 これについては、次の一文のある箇所を参照。(続編[ 2slt_zip.zip ]のなかにある。)
 プランク定数は、勝手に定まった適当な量ではなくて、量子力学の根本を規定する量なのだ。それは、われわれのいる実数世界における基本的な量なのではなくて、実数世界と虚数世界とを橋渡しする際の基本的な量なのだ。
 つまり、虚数エーテルから電子が生成される際に、プランク定数を通じて電子が生成される。だから、すべての電子は同一なのである。(もちろん、電子以外の他の量子も同様だ。)
 なお、「電子を質点と見なすと、それぞれの電子が同一であることが、なかなか説明しがたい」というふうに問題提起した上記サイトは、なかなか慧眼である。たしかに、その通りだ。( → 後述の 【 補足 】

 さて。この問題提起に、虚数エーテルの理論は、明白な解答を示せる。逆に言えば、この問題提起があることによって、虚数エーテルの理論が真実であることが確信できるわけだ。── 虚数エーテルの理論は、単に「無矛盾で現実をうまく説明できる」という、一種の仮説にすぎないとも感じられた。しかし、上記の問題提起に対して解答を出すためには、虚数エーテルという概念以外にはありえない、とわかる。この問題提起に対して、虚数エーテルという概念だけが、自然でエレガントな解答を与えてくれるからだ。
 この自然でエレガントな解答を見れば、自然というものがいかに美しい調和のもとで統一的な原理をもつか、はっきりとわかる。この美しさは、相対論の美しさに似ている。古典力学の発想ではあちこちで歪みが見出されたのに、相対論では「相対性」「対称性」という概念のもとで、「自然は美しい調和のもとで統一的な原理をもつ」ということが判明した。量子論も同様だ。「虚数エーテル」という概念のもとで、「自然は美しい調和のもとで統一的な原理をもつ」ということが判明する。今はただ、自然のもつ美しい調和を、心から味わえばよい。
 自然の世界にさまざまな歪みがあると見えるのは、自然そのものが歪んでいるからではない。単に、自然を見る人間の目が歪んでいるからなのだ。それだけのことにすぎないのだ。目の歪みを正せば、自然の美しい調和が眼前に現れる。

【 補足 】
 上記サイトでは、「電子を質点と見なすと、それぞれの電子が同一であることが、なかなか説明しがたい」というふうに問題提起した。この件について、補足しておこう。
 この問題提起に対して、「電子をクォークに還元する」という解釈もある。そうすれば、「それぞれの電子が均一のクォークの組み合わせ」として説明できる。
 しかし、この説でも、それぞれのクォークが同一であることが、うまく説明されない。要するに、さらに小さな要素に還元していっても、その小さな要素がたがいに同一であることが説明できない。通常、「公理」のように、天下り的に受け入れるだけだ。そこに、従来の量子論の限界がある。(一方、虚数エーテルの概念を使えば、この問題に明白な解答を示せる。)
 なお、通常の数学のモデルでは、このような問題は生じない。たとえば、「群の要素」というものがたがいに同等であることは、あらかじめ規定されている。それを規定するのが、「集合論」だ。これが公理となって、無数の要素を生み出す。……しかし、量子論の場合には、何が同等の量子を生み出すか、そこのところが未解明である。それを未解明のまま、「電子」という言葉を使うと、「電子」という言葉の意味が不明確なままとなる。かくて量子論の体系は、基礎理論としては曖昧になる。応用理論としてなら一応成立するが、それとは別の基礎理論を必要とする。……つまり、現状の量子論は、この宇宙の基礎理論とはなっていないのだ。
( ※ その意味では、クォーク理論も、超ヒモ理論も、この宇宙の基礎理論とはなっていない。これらの理論は、「どういうふうになるか?」を示す応用理論に過ぎず、「なぜそうなるのか?」を示す基礎理論とはなりえないのだ。このことを指摘した宮沢弘成の論説は、非常に慧眼だ。)
なお、「虚数エーテルとは何か?」について、簡単に答えておこう。以下、箇条書きで示す。
  1. この理論の内部では、「虚数エーテル」という言葉と、「真空」という言葉とは、まったく同義である。
  2. 真空は、虚数の次元をもつ媒体である。
    • この媒体は、「場」と同じ性質をもつ。
    • この媒体は、「場」とは違って、何もない状態[無]ではなくて、何らかの実体をもつ。
    • その実体は、単位量をもつ。つまり、下限がある。ゆえに、発散の問題を起こさない。
    • その実体は、虚数の次元をもつ。だから真空は、実数の世界には現れない。
  3. 量子は、真空において、発生したり消滅したりする。
  4. 量子が移動するというのは、同一の粒子が移動することではない。いったん量子Aが消滅して、別の場所で同種の量子Bが発生することだ。
  5. 量子は移動しないが、エネルギーは移動する。エネルギーの移動は、「真空という媒体をエネルギーが波として移動する」という形でなされる。
  6. 「量子Aが消滅して、エネルギーが真空を移動して、量子Bが発生する」という過程を、「量子が移動する」というふうに認識(誤認)する。
  7. 観測とは、人間または機械が「量子を検出するか否か」ということではなくて、人間または機械が「量子を検出できるか否か」ということ、つまり、消滅した量子がふたたび発生することである。
  8. 量子が発生したり消滅したりするときは、プランク定数の単位を通じて、確率的になされる。ゆえに、同種の量子は、すべて同等である。たとえば、二つの電子はたがいに同等であり、区別不可能である。
 このうち、最後の項目から、「シュレーディンガーの猫」の問題もわかる。要するに、こうだ。
 「ミクロの世界の量子は、確率的に発生したり消滅したりする。しかし、マクロの世界の猫は、確率的に発生したり消滅したりしない。(量子はたがいに同等だが、猫はたがいに同等ではない。)」
 ゆえに、こう結論できる。
 「量子力学は、ミクロの現象については確率的に言える。しかし、マクロの現象については何も言えない」
 だから、「量子力学は、猫の生死については、何も言えない」というのが正解である。こう答えれば、何も矛盾は起こらない。(量子力学は、ミクロの世界の理論であり、三毛猫やペルシャ猫の飼育法の理論ではない。量子力学は、猫について語れないことはたくさんある。)
 一方、「猫の生死について、何らかのことが言えるはずだ」と考えると、矛盾が生じる。これが、「シュレーディンガーの猫」の問題だ。

 また、「二重スリット」の問題については、次のように言える。
 「一つの粒子が二つのスリットを通過するのではない。電子Aはいったん消滅する。そして波が二つのスリットを通過し、波同士が干渉しあったあとで、最終的にどこかで電子Bが発生する」
 この発想では、一つの電子が移動するのではなくて、一つの電子が消滅してから、別の電子が発生するだけだ。ただし、消滅した電子と発生した電子は区別不可能である。ゆえに、一つの電子が「移動した」とか「ワープした」とか認識することもできる。
( ※ 詳しい話は「 二重スリットと観測問題 」のページを参照。)


● ニュースと感想  (2月08日c)

 「恐竜と人間の進化」について。
 進化について、二件。恐竜と人間。

 (1) 恐竜の進化
 恐竜の進化をシミュレーションするゲームソフトが、朝日のサイト( http://www.asahi.com/dino2005/ )で公開されるという。2月25日から。 (朝日・朝刊・特集面 2005-02-02 )
 記事によると、恐竜のシッポが短くなったり、羽毛が生えたりして、新しい身体的特徴を獲得する、という。手が翼になることもあるらしい。
 馬鹿げている。それは恐竜にとって、新しい身体的特徴を獲得することにはならない。むしろ恐竜としては、奇形であるがゆえに、死んでしまうだけだ。たとえば、こうだ。
  ・ シッポが短くなる → 重い頭とバランスが取れず、歩けなくて死ぬ。
  ・ 羽毛が生える → 硬い表皮(装甲)を失い、闘争で傷ついて死ぬ。
  ・ 手が翼になる → 手で獲物をつかめないので、絶食して死ぬ。
 要するに、形質を一つずつ獲得するだけでは、進化するどころか絶滅するのだ。こういう事情を見抜けず、デタラメなモデル or ストーリーを勝手に構築しても、何の意味もない。
 それがいかに馬鹿らしいかは、次のストーリーを考えるといい。
  ・ 人間にシッポが生える
  ・ 人間に羽毛が生える
  ・ 人間の手が翼になる
 こんなことは、とうてい、ありえない。仮にあったとしたら、奇形として、死ぬだけだ。(それとも、羽毛と翼のある天使になるのかな? ついでに、シッポを生やして、悪魔になるのかな? 荒唐無稽。)
( ※ 進化の詳しい話は → 7月29日b [ 付記 ] )

 (2) 人間の進化
 初期の人類の化石が発見された。ラミダス猿人の仲間らしい。当時の環境は、草原ではなくて、森林または森林・草原の混合だったらしい。つまり、「草原に住んでいた」という従来の説が正しくないことが裏付けられたらしい。
 実を言うと、「草原」説では、「当時は草原だった」という根拠が疑われている。本当はそうでなかったらしい。しかし、これは別の話。
 なお、「猿が草原に出たから、直立して人間になった」という説については、私はかねて全面否定している。そんなことはありえない。猿が草原に出たら、肉食獣の餌食になって、食い殺されるだけだ。あるいは、四つ足で逃げ回る。猿にとっての直立は、不利なだけで、メリットなど何もない。本当にそんな説が成立するなら、森を出て動物園に入ったチンパンジーは、今ごろ人間になっているはずだ。

 [ 付記 ]
 「生きた化石」と言えば、シーラカンスが有名だが、もっと古く、アメーバのような原始的な生物の化石が見つかった。8〜10億年前。(各紙・朝刊 2005-02-04 ,朝日のサイト
 これが意味するのは、「突然変異の蓄積で進化が起こる」というシナリオの否定だ。仮にそのシナリオが成立するなら、この原始的な生物は今ごろは人間になっていていいはずだからだ。
 あるときは「猿が草原に出たら、好都合な突然変異が生じたので、猿が人間になる」と主張する。あるときは「アメーバが深海にいると、突然変異が生じないので、アメーバのまま」と主張する。こういうのを「御都合主義」または「二枚舌」という。
 突然変異というのは、学者の都合に応じて、うまく起こったり停止したりしてくれるわけじゃないのだ。


● ニュースと感想  (2月09日)

 「三宅島への帰島」について。
 火山活動が小康状態になったということで、三宅島への帰島が始まった。これを「喜ばしいこと」と報じているマスコミも多い。朝日の社説に至っては、大はしゃぎだ。
 しかし、私はこれには批判的である。理由は先にも述べたとおり。( → 5月23日b 砂防ダム )
 つまり、三宅島は過去も現在も未来も、いつの時点でも活火山であり、危険である。そこは命を賭けて住むような場所ではない。避けられるなら、避けるべきだ。また、住みたい本人だけが住むならともかく、本人の家族(子供)まで住ませるのは、親の横暴だ。子供の生命と人権を誰かが守られねばならない。にもかかわらず、危険を止めるのとは逆に、「危険な地帯に出向かせるために、一家族あたり3千万円以上もの公金を支出する」(砂防ダム建設)なんていうのは、とんでもないことだ。
 こんな横暴が許されるなら、帰島賛成論者の子供を勝手につかまえて、イラクに送致して、命の危険にさらせばよい。そのための拉致費用を1千万円ぐらい使えばよい。……たとえば、朝日の社員の子供。

 最後に、きつい一言を言っておこう。今後、三宅島で、火山爆発や有毒ガス流出で、人命が奪われるかもしれない。もしそうなったら、帰島賛成論者が、殺人犯なのだ。なぜなら、帰島のための公金支出に賛成しており、まさしく税金を投入して、その殺人に加担したからだ。殺人費用の支出をして、かつ、殺人の意思があれば、殺人の実行犯となる。── 今のマスコミには、人殺し連中がのさばっている。
 なお、「これぞ正論」と彼らが思うのであれば、自分の子供か孫でも、三宅島に強制的に送致するべきだろう。火山が爆発したとき、自分の罪深さをはっきり自覚できる。
 あるいは、自分自身が、三宅島のガスのそばで、社説でも書けばいい。たとえば、「本日のガス濃度。危険な体験記」なんてルポを掲載すれば、それぞジャーナリズムの鑑だ。一方、築地のビルで、冷暖房完備の部屋でのんびりして、パイプを吹かして紫煙を出している連中は、ジャーナリズムの恥だ。

 [ 付記1 ]
 じゃ、どうすればいいか? 三宅島なんかはイラクよりも危険なんだから、(基本的に)居住禁止にすればよい。どうしても住みたければ住んでもいいが、公金支出は一切停止する。また、子供連れの居住は禁止する。
 一方、三宅島を離脱するための生活支援は、ちゃんとやる。これだと、一家族あたり3千万円もかからないから、ずっと安上がりだ。しかも、これが肝心だが、死者が出ない。

 [ 付記2 ]
 ただし、絶対的に「居住禁止」にする必要はないと思う。危険を覚悟で「死んでもいい」という人たちもいるはずだ。それは、余命の少ない高齢者だ。次の爆発はたぶん 20年後ぐらいだろうが、それまでに寿命が来ている。とすれば、高齢者本人だけが「命を惜しむより、思い出を大切にしたい。死んでもいいから」と思うのは、自由だろう。それは本人の自己責任である。
 例示しよう。生活基盤が三宅島にある 80歳の高齢者であれば、あえて死の危険を冒してもいいだろう。この場合、三宅島は、ホスピスみたいなものである。わずかな余命をそこで過ごすためにあり、死の前の充実を味わうためにある。癌患者にモルヒネを打つようなものだ。……生のためではなくて死のために、その場所はある。
 とはいえ、高齢者はともかく、次のことは好ましくない。
  ・ 子や孫を居住させる。
  ・ 危険地帯の居住に高額の補助金を出す。
 生存のための補助金ならともかく、死のための補助金など、許されるはずがない。「死の危険を覚悟に生活基盤を築く」なんてのは、とんでもない。死にたい人には、死なせてあげればいいのであって、「死を前提とした生」なんてのは、論理矛盾だ。

 [ 付記3 ]
 私の主張には、かなり反論が来ることが予想される。
 「故郷に戻りたいという人を邪魔するなんて、他人への優しさが足りない」
 と。なるほど、その通り。私は、そういう意味の優しさはないし、むしろ、厳しい。しかし、ここでは、「優しさ」と「甘やかし」とを混同するべきではない。
 たとえば、子供が「火遊びをしたいんだ。火薬をたくさん使って、爆弾ごっこしたいんだ」と言ったら、優しい親は、
 「じゃ、お金を出してあげるから、火遊びしなさい。一人あたり3千万円あげるから、それで命懸けで爆弾を作りなさい」
 と言うだろう。そして、「もし死んだとしても、本人のせいで、私のせいじゃないね」と釈明するだろう。自分が金を出したことを忘れて。
 そういう優しさは、ただの「甘やかし」または「無責任」であるにすぎない。本人が間違ったことをしたときに、それを止めるどころか促進するのは、天使の仕事ではなく、悪魔の仕事だ。
 なるほど、そうすれば、相手に迎合できるし、自分は「人助けをした」と、いい気分になれるだろう。しかし、そういうのは、ただの自己満足だ。明白に間違ったこと(死の行為)をしようとしている相手には、たとえ相手に嫌われたとしても、「やめた方がいい」と忠告するべきなのだ。
 今の日本には、「優しさ」と「甘やかし」とを混同して、自分だけが自己満足したがる連中が多すぎる。マスコミはしきりに三宅島帰島を賛美するが、それが「死地への帰還」であることを明示しない。甘い楽観ばかりを振りまいて、危険を隠蔽する。
 ま、それが、マスコミの体質だ。不況のさなかでさえ、朝日は「景気は回復しつつあります。楽観しましょう」と言って、悪魔のごとくたぶらかす。三宅島に帰還した島民が死ぬことになったとしても、「すばらしい、すばらしい」と言って、悪魔のごとくたぶらかすわけだ。かくて人々は、自分が善行をしていると信じて、楽観する。
 私が痛み与える言葉を与えて、人々の心を覚醒させようとしても、ほとんどの人は痛みに気づかないのだ。── 三宅島でも、不況でも。
 かくて、島民と国民は、死地に赴く。優しい仮面をかぶったマスコミに鼓舞されて。(船の出航時の伴奏音楽は軍艦マーチかも。地獄行き、片道切符。)

 [ 注記 ]
 念のために言い添えておくが、「自然災害の被害者に補償するな」という趣旨ではない。「火山の被害地は限定されている。避けられるものは避けよ」ということだ。
 日本では、地震を避けようにも、逃避先がない。しかし、火山ならば、いくらでも避けることができる。そこが違う。
( → 5月23日b 砂防ダム )

  【 追記 】 ( 2005-02-10 )
 08日夜のNHKニュースによると、有毒ガスの高濃度な流出があって、警報が出たそうだ。ただし、今回は、たまたま人のいない地区だったという。仮に、マスコミの促進に従って、この地区に帰還した人がいたら、被害が出ていたかも。
 なお、調査によると、今でもガスマスクの携行義務があるが、ときどき所持を忘れる人がいるという。(読売・朝刊・社会面 2005-02-09 )
 要するに、ここは、危険地帯だ。ガスマスクの携行義務があるし、実際に有毒ガスが流れる。そこへの帰還を「すばらしい、どんどんやりましょう」とキャンペーンを張るマスコミってのは、いったい何様なんだろう。また、「何とかなるさ」と勝手に楽観・誤解している人も多いというが、彼らの誤解をほどくどころか、誤解を増幅させようとする。……マスコミってのは、真実の報道より、虚偽の流布が仕事なんですね。他人の人命をもてあそんでいる。
 で、こういう悪魔みたいにたぶらかすマスコミのかわりに、私が指摘するわけだ。「危険だぞ、真実を見よ」と。


● ニュースと感想  (2月09日b)

 「杉林と花粉症」について。
 花粉がひどく飛び散っていて、被害を受ける人が多く出るようだ。で、その理由は、杉林だ。理由は二つあるらしい。
 第1に、伐採コストが安すぎること。大木でも、1本 900円だという。搬出コストを考えると、採算割れ。かくて、放置される。
 第2に、間伐がないこと。最初に、雑草に負けないように多めに植栽されるが、その後、木の生長につれ、間伐される必要がある。ところが、第1と同じ理由で、間伐もされない。(間伐の木材価格は、小さい木なので、900円どころか、タダ同然。)

 なお、第2の点に関しては、まともな方法もある。混合林だ。背の高い杉と、背の低い樹木とで、混合林にする。杉ばかりを密生させない。その後、数年たつと、他の木は背が頭打ちだが、杉はどんどん伸びていく。結果的に、間伐したのと、同じこと。コストもゼロ。……これが常識。
 頭の悪い人がやると、混合林にしない。だから、花粉が飛び散る。でもって、今になって、「間伐の費用を出してくれ。そのために水道に水源税をかけて、それを間伐の費用に回す」なんて案が出ている。自分の失敗の尻ぬぐいを、全然関係ない人々に払ってもらう、という発想。気違いじみていますね。(国民を「金のなる木」と思っているらしい。そんな木があるんでしょうかねえ。……この木、何の木? 気になる木。なお、気になるリンゴは、青森特産銘菓。)

 [ 付記1 ]
 私の対案。
 もはや、花粉症対策は、どうにもならないようだ。全国の杉林を焼却処分するのが、最善かもしれない。山火事にして、全部燃やす。これだと、コストはあまりかからない。その後、放置すれば、自然林になる。ブナやケヤキなどが生える。当然、維持コストはゼロ。
 山火事にする方法は? 木が燃えないと困るから、前もって枯木にする必要がある。枯れ葉剤を撒くと良さそうだが、ベトナム同様、環境汚染が怖い。すぐに分解する特別な枯れ葉剤があるといいかも。でも、何だか、気持ち悪いですねえ。
 なお、アメリカには、山火事対策のレンジャー部隊があって、特殊な道具を使ったりする。しかしこれは鎮火の方だ。
 とにかくまあ、人力でいちいち燃やしたとしても、燃やさないで搬出するより、コストは安そうですね。どこかの誰かは、「杉林を燃やすなんてけしからん」と怒り狂いそうだが、私としては、杉に同情するよりは、花粉症の患者のみなさんに同情します。杉には愛を感じませんが、困って苦しんでいる人々には愛を感じます。
 でもまあ、某新聞社の人だと、人間よりも杉に愛を感じそうですね。一種のオタクないしフェチシズムかも。  (^^);

 [ 付記2 ]
 神奈川県では「水源税」を審議中。納税者一人あたり年間 1900円。使途はいろいろだが、名目は「森林の維持」。つまりは「自然林のかわりに人工林にするために、巨額の税金が必要」ということ。
 ついでに言うと、「花粉のあまり出ない杉」というのに植え替えるという案もあるが、それでも花粉は、いくらかは出るらしい。皆無ではない。杉以外にすれば、皆無に近い状態(つまり被害を出さない程度の状態)になるはずだが。(昔の自然林はそうだった。)
 なお、杉にすると、花粉は出なくても、台風などで、倒木の恐れがある。(杉は背がすごく高いから。)また、針葉樹なので、保水力もない。
 さらに、間伐のために、高額の維持費が必要だ。(混合林でない場合。)
 かくて、杉の人工林はまずいことばかり。そうわかっていても、杉ばかり。どこもかも、杉ばかり。そのわけは? ……杉田かおるの結婚祝いかも。  (^^);
( → 8月05日b 水源税 ,8月29日b 環境税 )

  【 追記 】 ( 2005-02-14 )
 政府が花粉対策を考えるが、妙案がない、という記事があった。間伐しても、(花粉の少ない杉に)植え替えをしても、とうてい追いつかない。「五十年か百年かかるのでは」という声もあったという。(朝日・夕刊・1面)
 そこで、私の案を新たに出そう。上記の案を改定して、次のようにする。
 「ナパーム弾(焼夷弾)を、杉林に落とす」
 秋頃に、ナパーム弾を縞状に落とす。3カ月後に、杉の枯木地帯が、縞状にできる。そのあと、枯木地帯に、ナパーム弾をふたたび落とす。枯木地帯の枯木はすべて燃えて消え、枯木でないところは防火林として役立つ。
 翌年、縞状の枯木地帯はすでに何もない。ここは防火地帯となる。ここを残して、残りの杉を、ふたたびナパーム弾で燃やす。
 これで、杉はすべて消失する。そのあと、ほったらかしておけば、自然に広葉樹林の自然林が育つ。杉の炭が、次の時代の森林を育成する。
 なお、この方法の美点は、低コストで大量処理が可能なこと。仮に、人力でやったら、莫大なコストと多大な年数がかかる。ヤマカンで推定すると、国民一人あたり十万円から五十万円ぐらいの費用がかかり、かかる年数は五十年。その五十年の間は、国民は金をふんだくられるだけで、花粉の被害は減らない。コストだけかかって、効果なし。


● ニュースと感想  (2月10日)

 「科学とマスコミ」について。
 日本の科学政策の失敗。ヒトゲノム計画では、日本の貢献度はわずか6%だった。(米国 59%、英国 31% )。ゲノム解読の高速自動装置の構想を出したのは、日本の科学者(和田昭允)だったが、彼が物理学者であったせいで、「外野が口を出すな」とばかり、生物学者の総スカンを食ったため。(読売・朝刊・政治面・コラム 2005-02-08 )
 たぶん、「トンデモだ」とでも、非難を食ったのだろう。(ついでに言えば、エサキダイオードの江崎玲於奈も、光ファイバーの西沢潤一も、同様の憂き目にあった。画期的な成果を挙げたせいで、ひどい目にあった。中村修二も似たような感じかも。日本の電子技術に多大な成果を与えたせいで、企業から総スカンを食った。狂気の国ですね。)

 さて。では、どうすればいいか? 「政府がダメだ。科学技術政策がなっていない」なんていう意見が出ている。しかし、これは、政治だけでなくマスコミの問題でもある。 ( → 次々項
 たとえば、ゲノム解読の高速自動装置なら、これをマスコミが報じるべきだったのだ。政府に任せようという「あなた任せ」ではいけない。だいたい、官僚なんかに、科学政策の判断はできない。仕方なく、適当な担当者を任命するが、たいていは、学界のボスの息がかかった人間が任命されて、ボス好みの政策に金が回るだけだ。旧態依然。旧弊ばかり。……だからこそ、政府に任せきりにせず、マスコミが報道するべきなのだ。そもそも、「情報提供」という、そのことのためにこそ、マスコミは存在しているはずだ。

 マスコミがやるべきことは、学界で話題になっている「時代の寵児」みたいなのを追うことではない。学界の端っこにある「猛反発を食った論争児」を取り上げることだ。そうすればこそ、和田昭允であれ、江崎玲於奈でれ、西沢潤一であれ、中村修二であれ、世間で話題になっただろうし、そのことで、日本の科学技術は進歩したはずだ。現実には、マスコミは口にチャックをしていたし、だからこれらの人々は貧弱な開発環境や他人の攻撃で苦しんだ。……要するに、これらの独創的な人々をあえて無視することで、日本の科学技術を低下させたことの主犯は、マスコミなのだ。そのことを自覚するべきだろう。(政府を批判するのは、責任転嫁である。)

 [ 付記1 ]
 たとえば、現状を見よう。進化論にも、別の意見がある。シュレーディンガーの猫にも、別の意見がある。しかし、論争や問題があっても、問題があることすら報道しないで、目を閉じ、口を閉じている。あたかも「すべては解決済み」と見なすがごとく。
 日本のマスコミが、科学技術に関してやっていることは、何か? ただひたすら、主流派(保守派)に阿諛追従(あゆついしょう)して、新たな萌芽を隠蔽しながら、科学技術の進歩を阻害し、状況を停滞させることだけだ。つまり、ただ「報道しないこと」だけだ。
( → 2月08日b シュレーディンガーの猫 )
( → 2月08日c 進化論 )

 [ 付記2 ]
 「ニュートリノ検出のカミオカンデの研究は重要だ」という記事があった。(読売・朝刊・科学特集コラム 2005-02-09 )
 ま、カミオカンデは、それなりに重要だ。とはいえ、物理学全体では、片隅の話題であるにすぎない。本質を逸らして、トリビアな話題ばかりに走る、という、マスコミの癖が出ている。
 どうせなら、片隅の話題で騒ぐよりは、物理学の根幹の話題で騒ぐべきだろう。つまり、「波動関数とは何か」という核心的な話題だ。それが、シュレーディンガーの猫や、二重スリットの話題だ。


● ニュースと感想  (2月10日b)

 「科学技術の予算」について。
 科学技術の予算について、かなり有名な科学者がこう提言している。「3億円プロジェクトを一つやるより、3千万円ずつ若い十人に配って自由に研究させる方がいい」と。日本は、試すアイデアの総数が、米国に比べ圧倒的に少ないという。調べると、競争的な研究資金 3400億円のうち、40歳未満に分配されたのは14%だけ。(朝日・朝刊・科学面 2005-02-09 )
 この提言は正しい。私も前に、同趣旨のことを言ったことがある。( → 10月07日b【 追記 】

 では、どの程度、実行されているか? 同じ記事に、実施状況がある。── すでに一部では、その試みがなされているという。若手に年1千万円程度を3年与える。その結果、半分は成功し、30人に一人は抜群の結果を出す、という。
 なるほど、やればやっただけの効果があるわけだ。私の予想以上に、良い結果だ。
 ただし、である。記事によれば、このプロジェクトの総額は、たったの 20億円だけ。アメリカに比べると、月とスッポン。
 なぜ? 金がないから? いや、日本の経済規模は、アメリカの半分はあるから、アメリカの半分は出せる。(軍事費の少なさを考慮すれば、もっと出せる。)また、科学技術予算の総額を見ても、こんなスズメの涙みたいな金額ではない。では、なぜ、若手に回らないか? 金が巨大プロジェクトに回るからだ。たとえば、核融合予算には、5千億円出せ、という案がある。燃料電池には、すでに 350億円も出している。
 結局、金がないというより、金の使い方を間違えている。金がないというより、知恵がない。研究者の知恵はあるが、研究者に金を渡す方法の知恵がない。そこが問題。
 では、知恵不足を解決するには、どうすればいいか? それを示すのが、次項。(つまり、マスコミの役割。)

 [ 付記 ]
 燃料電池には、すでに 350億円も出している。この金は、ほとんど無意味だ。なぜなら民間企業は総計・累計で数千億円も燃料電池に研究資金を出している。一方、 350億円の大半は、研究資金ではなくて、消費者に渡す補助金だから、単に無駄[赤字解消]のために消えてしまうだけだ。 ( → 1月23日2月04日b


● ニュースと感想  (2月10日c)

 「政治とマスコミ」について。
 技術開発に関する記事があった。倫理問題と技術問題との関係について、政治が不在だ、という指摘。(読売・朝刊・特集 2005-02-04 )
 この記事に関連して、「政治とマスコミ」という話題を考えよう。

 マスコミはしばしば「政治が不在だ」とか、「国会論議が足りない」とか、政治家を批判する。(この記事も同趣旨。)しかし、国政というものは、政治家だけが決めるものではない。政治家はあくまで国民の代表・代替である。国民の意思を委託されたものであり、自分勝手に権力をふるうべきものではない。
 だから、政治家が勝手に議論をするべきだ、ということにはならない。政治家は、国民の委託を受けて議論し、国民のチェックを受ける。そして、政治家と国民との間をつなぐ役割を果たすが、マスコミだ。
 一般に、次の経路を取る。

  start
 専門家 → マスコミ → 国民・政治家
                 ↓
  国民  ← マスコミ ←  国会討論
  ↓
  世論  → マスコミ →  国会決議
                goal

 マスコミの役割は、情報伝達だ。それには、国民と政治とをつなぐという意味もある。それはつまり、民主主義を形成するということだ。この役割をしっかり自覚しよう。
( ※ 朝日みたいに、「記者個人の主張を国民に伝えること」と勘違いしてはならない。読売みたいに、「政府の主張を国民に伝えること」と勘違いしてはならない。一方通行ではダメなのだ。)
( ※ なお、今回の記事の趣旨は、「スタートもゴールも政治家だけ」である。しかしそれでは、専門家も国民も不在である。政治家任せではダメ。)


● ニュースと感想  (2月11日)

 「ES細胞の技術開発」について。
ES細胞(胚性幹細胞)の技術開発に関する記事があった。倫理問題と技術問題との関係について、政治が不在だ、という指摘。( 前項 と同じ記事。読売・朝刊・特集 2005-02-04 )
 前項では一般論として述べたが、特にES細胞について言おう。これは、技術問題というよりは、宗教問題であろう。
 実際、批判をするのは、宗教関係者ばかりだ。「ES細胞は神の意思に逆らう」というような主張であるが、なぜ神が出てくるかと言うと、「神が人間を作った」という創造説に基づくからだ。馬鹿げている。
 一般に、「行為と技術とは別だ」というのが、技術開発の原則である。「科学技術を悪用する人がいるから、科学技術の開発をやめてしまえ」ということはなくて、「科学技術を悪用する人がいるから、科学技術を悪用した実行犯を処罰せよ」というふうになる。これが近代的な発想。「技術開発をやめてしまえ」というのは、前近代的な発想。
 国会で論議するとしたら、「技術開発の是非」ではなくて、「技術開発のお墨付きを与えて、宗教関係者から防護すること」であろう。同時に、宗教関係者の疑惑を避けるために、技術の悪用を処罰する法整備も必要だ。

  【 追記 】 ( 2005-02-12 )
 ただし、「技術開発ならば何でもいい」というふうにはならない。たとえば、クローン胚の作成は、「人造人間の作成」に近いから、何らかの規制は必要だろう。どこかで線引きしないと、人造人間を作って喜ぶ狂人科学者が出現する。(出来損ないができると、大変なことになる。フランケンシュタインみたいなものだ。……たとえば、あなたが出来損ないの人造人間として生まれたとして、その苦しみを想像してください。)
 私の意見は? 「神経細胞の作成は構わないが、脳細胞の作成はダメ」というあたりが適当だ、と思える。クローン胚は、脳細胞ができる以前ならばいいが、以後はダメ。
 ただし、異論もあるだろうから、決定的なことは言わないでおく。


● ニュースと感想  (2月11日b)

 「朝日の科学記事」について。その1。
 前日の 2月10日b への補足。
 この朝日の記事(独創的な若手の優遇)は、朝日には珍しく、良い記事だ。なぜか? 独創的な研究者に話を聞いて、その意見を掲載したからだ。
 通常の朝日の記事は、どうか? 記者の個人的な見解か、政府または企業の旧弊ボスの見解か、どちらかである。「ネタを勝手に書く」か、「ネタをもらって書く」か、どちらかだ。いずれも、好ましくない。正しくは、「ネタを探して書く」である。
 ただし、そのためには、日頃の研鑽が必要だ。中心にいるボスの話を聞くだけではダメで、周辺にいる独創的な研究者に目を向けるべきだ。
 今回の記事は、ノーベル賞学者というのは超有名だが、もう一人は超有名ではない。というわけで、そこに目を向けたのは、なかなかよろしい。記者の勉強を物語る。私には珍しく、褒めておこう。
 ただし、である。「ネタを探して書く」だけなら、いちいち足をすり減らして、ネタを探す必要はない。パソコンの前で、坐っているだけでいい。で、ネットを検索するか? 違う。「小泉の波立ち」をあさるだけでいい。そこにはちゃんと、ネタがすべてそろっている。
 たとえば、今回の記事でも、「小泉の波立ち」にもともと同趣旨の話がある。先日の「NHKの事前説明」でも、「小泉の波立ち」にもともと同趣旨の話がある。「燃料電池の記事」でも、「小泉の波立ち」にもともと同趣旨の話がある。つまり、「小泉の波立ち」をあさるだけで、一流の記事を書けるのだ。
( ※ ただし、ほとんど盗作ですけどね。バレなきゃ大丈夫、ということかな。……念のために言うと、「小泉の波立ちから引用」と記しておけば、正当な引用行為であり、完全に合法的です。無断引用の類は、著作権法違反になるので、解雇の恐れがあります。……参考は、完全な盗作ではないが真似した、安倍なつみ。恥をさらして、活動の一時停止。)
 
 [ 付記1 ]
 朝日のついでに、言っておこう。朝日の科学部には、近年まで、超優秀な女性記者のM・Tさんがいた。だけど彼女が別の不得意な分野に転出したせいか、以後、朝日の科学記事はレベルが下がったようだ。本人も朝日も不幸だ。朝日は人の使い方を間違えているようだ。朝日は社内でも、知恵の使い方を考えた方がいい。

 [ 付記2 ]
 日本のマスコミで、比較的マシなところがある。それは、NHKだ。「プロジェクト 」なんてのは、過去を探求して、企業から協賛金をもらうだけの、企業宣伝番組にすぎないが、それ以外では、心ある番組もときどき放送される。
 たとえば、西沢潤一についての「独創的技術者ここにあり」というような番組も、かなり前に放送されて、記憶に残っている。最近では、進化論についての話も、なかなか興味深い。英国のBBCとの提携もうまく行っているようだ。
 NHKの科学番組に比べると、朝日や読売の科学記事は、ほとんど子供だましですね。お手軽に片手間でチョコチョコっと書いただけ。昔、朝日には「科学朝日」という雑誌があって、なかなか優れた編集者が良い記事を書いていたが、今はもうない。アサヒパソコンなんていうゴミみたいな雑誌があるだけだ。
( ※ そう言えば、子供向けの科学雑誌は出るらしい。ま、ないよりマシですかね。)


● ニュースと感想  (2月11日c)

 「日本の最先端の研究環境」について。
 前日の 2月10日b への補足。その2。
 日本の最先端の研究環境は、どのようなものか? それを示しておこう。(マスコミがちっとも調査報道しないので、私が調査報道をするわけだ。)

 (1) 大学
 一つは、誰でも知っているように、大学の教授だ。その研究室は、少し前まで、ひどいオンボロだった。最近では、科学予算の増額を受けて、いくらかマシになってきたが、それでも、大学教授の個人の給与は、ひどいレベルだ。自動車会社との比較で言うと、係長ぐらいだろうか? だいたいそんなものだろう。
 「金を出せばいいってものじゃない」という批判も出るだろうが、金のないところに、人材が来るとは思えない。実際、あなたは、どうでしたか? 大学を出るとき、「大学教授になりたい」と思いましたか? まさか。博士課程では無収入だし、助手でも薄給だし、大学教授でも世間並み以下だ。一方、民間企業に入れば、けっこう優雅な生活ができる。「貧乏でも好きでやる」のでなければ、とうてい、大学の研究室には残りたがらないだろう。ま、研究室というより、タコ部屋である。

 (2) 理研
 もう一つは、行政法人・特殊法人など。いろいろな機構があるが、一番有名なのが、理化学研究所(理研)だ。実は、日本の研究機関で最高水準を保っているのが、ここだ。朝日の記事には野依教授が登場しているが、彼もここに属する。また、量子力学の外村彰も、ここに所属しながら日立にも勤務している。(けっこう柔軟な勤務形態だ。)
 で、ここで最高の肩書きを有するのが、チームリーダーだ。いったん任命されると、人事権と予算権を握り、あとは予算の範囲内で、好き勝手に研究活動ができる。いちいち事務局の認可を得ないと予算を使えないような大学とは違う。── この点では、理研は理想的だ。
 ただし、理研にも、泣きどころがある。それは、金銭面の不足だ。
 第1に、予算(研究資金)が不十分だ。大学よりはマシだが、理研全体でも、たいした額ではない。ちなみに、同じ環境にある米国の研究所では、はるかに多額の予算を使える。たとえば、部下の人数でも、全然違う。米国なら、海外からどんどん研究者を呼び寄せて部下にすることができるが、日本では雇える部下の数はちょっとだけ。当然、こぢんまりとした研究室にしかならない。当然、こぢんまりとした研究テーマしか扱えない。当然、成果もこぢんまりとしたものになる。(だから利根川進たちは、米国に逃げ出す。そこで、こぢんまりとしていないテーマを扱う。)
 第2に、給与も不十分だ。大学よりはマシだが、それでも、民間企業並みだろうか。国内で最高の(最高レベルでなくて純粋に最高の)研究者なら、民間企業の重役並みの給与を得てもいいはずだが、現実には、民間企業の管理職並み。しかも、である。任期は、5年に限られている。5年間のうちにちゃんと成果を出さないと、あっさり再任を拒否される。たとえば、某氏は、科学誌の Nature に研究成果を掲載されるほどの研究成果を出したが、それでも不十分と見なされ、再任を拒否された。つまり、クビ。
 ついでに言うと、民間企業では、管理職に「5年任期」なんてものはない。たとえば、日産では、新車開発で失敗した連中がいっぱいいるが、「失敗したからクビ」なんてことはなくて、ずっと日産に留まっている。

 なお、理研の悪口を言いたいわけではない。理研は、貧弱な予算の割には、とても良くやっていると思う。問題は、理研ではなくて、日本の科学開発体制であり、研究予算の少なさだ。
 そして、そのお先棒を担ぐ連中の一つが、朝日新聞だ。「科学技術に補助金を出せ」とせっせとキャンペーンを張って、消費者と企業に金を渡し、その分、研究者から研究資金を奪う。もうちょっと、マスコミも、しっかりしてもらいたいものだ。

 [ 付記 ]
 マスコミだけじゃなくて、企業もしっかりしてもらいたいものですね。米国では、国の予算のほか、企業の研究所もしっかりしている。一方、日本は、どうか? 日本で一番ボロ儲けしているのはトヨタであり、GMやフォードをはるかに上回る利益を出しているのだが、科学技術にはまったく貢献していない。自動車というものは、地球の空気を勝手に食い、かわりに、排ガスを撒き散らす、という有害なものなのだが、そのお返しとしての社会貢献もなさない。
 米国の企業は、社会貢献をする。日本の企業はいつも「米国の真似をしよう」とばかり提言しているのだから、たまには米国のいいところを真似したらどうか? 戦争賛成だの、環境税反対だの、京都議定書の非批准だの、米国の悪いところばかり真似しようとしないで、たまには米国のいいところを真似したらどうか?
 どうです、トヨタの会長さん? いったい何のために、経団連の会長になったり、政府の委員になっているんですかね? 責任を果たすため? 国民を食い物にするため? いや、ただ自社利益を拡大するためでしたね。
 でもって、そういうトヨタの大幅黒字の決算を見て、「利益を拡大してすばらしい」と賛美するのが、朝日や読売だ。情けない。

  【 追記 】 ( 2005-02-13 )
 いろいろ調べてみると、日本では、「研究職」というのは、職業として成立しないようだ。最高レベルの研究者の経歴を見ても、純粋なプロの研究者というのは、あまりいない。通常、若い時期には、純然たるプロの研究者ではありえなかった。つまり、アマチュアとして、次のどれかを得ていた。  ほとんどの人が、このうちのどれかを得ていたはずだ。
 逆に言えば、このうちのどれかを得られない人(つまり普通の人)は、若い時期を過ごせないから、研究者にはなれない。かわりに、会社員か公務員になって、生計を立てるしかない。
 結局、職業としての「研究職」というのは、日本では成立しないわけだ。
( ※ なお、例外として、「奨学金」というのがある。これは正規の制度だから、これをもらえた人は、研究者になれる。これがあれば、問題ない。とはいえ、奨学金をもらえるのは、ごく少数の人だけであるようだ。)
( ※ 給与であれ援助であれ奨学金であれ、額は不十分である。ま、小額でも、独身ならば何とかなるかもしれない。しかし、妻子を養えない。とすると、結婚できず、子供を産めない。結局、結婚するなら、「国の科学水準の低下」。独身なら、「国民の遺伝子の劣悪化」。そのどちらかが不可避となる。)
( ※ で、どうしてそうなるかというと、政府と企業が金をケチるから。アメリカだと、政府と企業が奨学金をたくさん出すので、研究者がたくさん育つ。)


● ニュースと感想  (2月12日)

 「海外からの研究者」について。
 海外からの研究者を招くことが、日本の研究体制を活性化させる、という指摘があった。そのためには、大学の閉鎖性(日本人研究者ばかりを優遇すること)を改めるべきだ、という。(読売・朝刊・特集 2005-02-10 )
 正しいことを言っているようだが、実は尻抜けである。そのせいで、結果的に、間違ったことを主張している。
 仮に、海外からの研究者を招いたとしよう。一人雇用して、その分、日本人研究者を解雇する。将来的には、その研究者は本国に戻って本国に貢献し、日本はその貢献を失う。だったら、最初から、日本人研究者を雇用していた方がマシだ。

 この問題の本質は、どこにあるか? 
 「全体量を増やすことが大事だ」ということだ。記事は、全体量に着目しないで、単に「海外からの研究者を招け」と主張して、「大学の閉鎖性」を問題にする。しかし、「大学の閉鎖性」を改善するだけでは、日本人研究者が解雇される。
 だから、(研究予算の)総額を増やすことが大事だ。特に、人件費を増やすことが大事だ。それなしに、海外からの研究者を招いても、その分、日本人研究者が解雇される。かくて、状況は改善されるどころか、悪化する。── 小さなコップのなかで奪い合いをしても、仕方ないのだ。
 
 教訓。
 経済学であれ、研究開発予算であれ、マクロ的な視点が大事だ。目先の小さな領域ばかりを考えていると、全体を見失う。そのせいで、良いことをしているつもりで、結果的に状況を悪化させてしまう。
 物事の本質を見抜く目がないと、道を誤るのだ。

 [ 付記 ]
 次の式に注目しよう。
     人件費総額 = 平均給与 × 人数
 前項 では、「平均給与」について扱った。
 本項 では、「人数」について扱った。
 次項 では、人件費と機材購入費との関係を扱う。


● ニュースと感想  (2月12日b)

 「研究投資と経済効果」について。
 研究投資をすると、どのくらいの経済効果があるだろうか? 
 初歩的に考えると、「千億円の研究投資をすると、乗数効果を考えて、その2倍の千億円ぐらいの経済効果が出る」と結論しそうだ。しかしこれは、古典派流の発想だ。つまり、「他の条件が一定であれば」という、ありもしない仮定に基づく発想だ。
 マクロ的に考えると、どうなるか? 千億円の研究投資をすると、その分、他の分野の資金が千億円、削られる。となると、同じ千億円を使ったとき、研究投資と他の支出との差が、問題となる。
 これについては、おおむね、次の二通りに分けて考えるといいだろう。
   ・ 基礎研究 (使途の半分近くが人件費)
   ・ 応用研究 (使途の大部分が機材購入費)
 だから、使途が「人件費」と「機材購入費」との差が出る。すると、どうなるか? 

 (1) 人件費
 使途が人件費の場合。人件費は、研究者の所得となる。研究者もまた、ただの消費者であるから、その所得は、平均的な所得となる。結局、人件費は、普通に「消費」を増やすだけだ。常識的。

 (2) 使途が機材購入費
 使途が機材購入費の場合。機材購入費は、企業の収入となる。ここで、企業というのが、問題だ。
 次項 でも示すとおり、先端技術の機材開発体制は、日本では崩れている。だから、先端技術の機材を購入するとすれば、ざっと8割ぐらいが、輸入品となる。つまり、経済拡大の効果はあるにしても、「日本経済の拡大」の効果ではなくて、「外国経済拡大」の効果があるだけだ。……これでは、GDP拡大の意味はろくにない。(GDPは国内総生産。GNPは国民総生産。国内景気に関係があるのは前者。)
 なお、朝日の大好きな「購入者への補助金」も同様である。金の大部分は、機材購入費となって、その多くが外国に流れる。(8割とは言わないが、かなり多くが。)

 結語。
 どうせ金を使うなら、基礎研究に金を使った方が、景気のための効果はある。人件費に金を回せば、所得向上の効果を通じて、薄型テレビや自動車などが売れる。
 しかし企業は、目先の売上げに目を奪われるので、「機材投資に金を回してくれ」と言う。しかし、それで潤うのは、外国企業ばかりだ。その一方で、薄型テレビや自動車などの売上げは減る。
 これが経済学だ。「所得が企業の売上げを増やす」ということ。こんなこともわからない企業が多いの現状だ。呆れるね。

 [ 付記1 ]
 頭の古い企業人向けに解説しておこう。
 「人件費に金を回すなんて、無駄だ。みんな消えてしまう。物として残らない」
 と思う経営者が多いだろう。しかし、そういう発想は、時代遅れだ。現代の発想は、こうだ。
 「ハードよりも、ソフト」
 「機械や物質よりも、知恵」
 だいたい、トヨタの「カイゼン」運動だって、その本質は、生産工程の機械ではなくて、生産工程の工員の知恵である。知恵こそが利益を生むのだ。知恵こそが途上国と先進国とを隔てるのだ。だからこそ、人件費に金をかけて、知恵を生むことが、大切なのである。

 [ 付記2 ]
 「そんなこといちいち言われなくてもわかっているぞ」と思う企業経営者がいたら、その経営者は、狂人も同然である。自分で自分を理解できないからだ。
 ケチならケチでもいい。しかし、自分のことを誤解する狂人には、ならないでほしいね。── 守銭奴は自分を守銭奴と理解している限りは守銭奴だが、守銭奴が自分を逆のものだと理解したら狂人である。
 トヨタであれ、キヤノンであれ、その経営者が、青色LED訴訟で何を言ったか、思い出すといい。いずれも「技術開発よりも、金(人件費)を削ることが大事」と言っただけだ。

 [ 付記3 ]
 だから、新聞は、こういう真実をちゃんと報道して、経済音痴の企業に教えてあげればいいのだ。愚者は自分で自分の首を絞めているのだから。
 また、「研究開発費のこれくらいの割合が外国に回る」ということも、詳しく調べて報道してもいい。次項 は、これに類する記事だが。


● ニュースと感想  (2月12日c)

 「科学技術と政治」について。
 日本の科学技術の根幹が崩れているという。たとえば、電子顕微鏡の技術者がいなくなったり。その理由は、20年前にアメリカの「バイ・アメリカン」運動で、日本の製品が購入されなくなり、産業として成立しなくなったことだ、という。(読売・朝刊・科学特集コラム 2005-02-05 )
 このシリーズは、なかなか優れた特集だ。ただし、この記事については、趣旨が狂っている。記事の結論は「科学政策には中長期的な視点が必要だ」ということだが、別に、そんなことはあるまい。馬鹿じゃあるまいし、中長期的な視点なら、当時の人々だってもっていたはずだ。当時の日本が「バイ・アメリカン」運動を取ったのは、短期的な視点を取ったからではない。
 だいたい、「バイ・アメリカン」運動そのものが狂っているのだ。アメリカからの輸入を増やしたければ、円高・ドル安にすればいいのであって、「国産の最先端技術をつぶしてしまう」というのは、短期的にも間違っている。

 より根源的には、「対米従属」という基本方針が狂っている。だいたい、「対米従属」と「日本の独創技術の確立」は、たがいに矛盾する。一方では「従属する」と言い、他方では「独立する」と言っても、論理矛盾だ。
 日本が技術的に独立したければ、まず、精神そのものを独立させる必要がある。根源的には、「アメリカが右と言えば、右」、「アメリカが黒を白と言いくるめれば、黒を白と呼びます」という従属精神そのものが問題だ。「バイ・アメリカン」運動も、そういう従属精神から生まれたのだ。(当時の日本は、中長期的な視点がなかったのではなくて、中長期的な視点があってもそれを見捨てたのだ。親米路線ゆえに。)
 読売は、立派そうなことを言う前に、まず、自分の精神を自立させる必要がある。そしてまた、それは、読売だけに限らず、あらゆる日本人に当てはまることだ。

 [ 付記 ]
 ただし、こういう意見を聞くと、保守派はすぐに「赤だ」と非難するんですよね。「自立せよ」「大人になれ」と言われると、「赤だ」と文句をつける。この幼児体質を、何とかするべきだろう。幼児が自立できるはずがないんだから。


● ニュースと感想  (2月13日)

 「虚構の権威の打破」について。
 独創性のついでに、対比的なものに言及しておこう。それは(古い・間違った)権威である。そして、それを打破するのが、マスコミの使命だ。
 マスコミというと、何もしないでいる無能な連中ばかりだろうか? そうでもない。なかには、まともなマスコミもある。
 特に、めざましい成功をなした例を掲げておこう。それは、石器捏造(ねつぞう)事件の解明だ。朝日を代表とする各社が、学界の権威に従って、当人を「神の手」と称賛していた。しかし毎日新聞だけは、調査報道をして、石器の捏造を暴露した。( → 10月15日 。新潮文庫にも書籍がある)

 この件では、毎日新聞は、マスコミとして最高のことを成し遂げた。では、なぜ、成し遂げることができたのか? 毎日新聞は、考古学界で、最高の知識を得ていたからか? いや、上記の書籍によれば、そうではない。毎日新聞の記者は、考古学の知識は、素人同然だった。ただし、学界にある「異端の声」に耳を傾けたのだ。学界の大部分が「神の手」と称賛していたときに、ごく少数の異端者が、「捏造だ」と強く示唆した。その声を聞いたのだ。つまり、毎日新聞は、目をふさがず、耳をふさがなかったのだ。
 ここでは、知能や能力が問題だったのではなくて、マスコミとしての心構えが問題だったのだ。「権威に盲従する」かわりに「間違った権威を正す」という心構えが。
 しかるに、たいていのマスコミは、どうか? 読売のように政府の腰巾着みたいなところは論外だとしても、いちおう反権威的な朝日でさえ、(政府でなく)学界の権威にはたてつこうとしない。この点、毎日新聞とは、月とスッポンだ。

 具体的に例を挙げよう。「シュレーディンガーの猫」の問題がある。この問題では、学界の権威の主張はみな矛盾を出している。そういう矛盾のある権威の主張を、人々は「はいはい」とまともに信じ込んでいる。「間違った権威を正す」という心構えが欠落している。
 この心構えが問題なのだ。

 [ 付記1 ]
 権威の矛盾は、次のようにまとめることができる。
 どれもこれも、気違いの説ばかりだ。こういう狂気の説ばかりを容認して、矛盾を起こさない説を無視する。なぜ? 偉い権威にはひれ伏すことしかできないから。へいこら へいこら。
 結局、記者にとって、真実の報道など、どうでもいいのだ。彼らにとっては、新聞の紙面を埋める記事を書くことだけが重要であって、それが真実であるかどうかということなどは、二の次なのだ。……つまり、記者というのは、石器の捏造をやった変人と、五十歩百歩である。同じ穴のムジナ。
( ※ 矛盾の簡単な言及は、先日  → 2月08日b [ 付記2 ]
( ※ 真実に目をふさぐマスコミの話は  → 2月10日 [ 付記1] )
( ※ 矛盾の詳細は、別サイト  → シュレーディンガーの猫二重スリット

 [ 付記2 ]
 「権威にたてつくこと」から、独創的な成果は生じる。中村修二であれ、江崎玲於奈であれ、西沢潤一であれ、既存の常識をひっくり返す形で、独創的な成果を出した。
 エサキダイオードなんてのは、従来の常識から言えば、まったく正反対の結論を出すわけだから、当時の学界では、「トンデモ」のごとく扱われた。人々は、「そんなことはありえない」と勝手に決めつけて、現実の実験データをあえて無視した。つまり、あえて真実に目をふさいだ。
 凡人は、独創性を産み出すことはできなくとも、独創性のある人々をつぶすことはできる。そして、今、マスコミがやっているのは、そういうことだけだ。
( ※ 物理学も、生物学も、経済学も、み〜んな、そうだ。ついでに言えば、サッカーの代表監督はジーコチューみたいな名前で無能なのに、彼を「神」と崇めるのも、マスコミだ。有能な人間を踏みにじり、無能な人間にはひれ伏す。それがマスコミ。)


● ニュースと感想  (2月13日b)

 「異端者と経営」について。
 科学技術について、独創性のある異端者について述べたが、ついでに、経営の異端者についても述べておこう。
 ライブドアがニッポン放送の株の買収に乗り出した。これを見て、各界は大騒ぎだ。フジテレビは「事前相談(根回し)がなかったから提携するつもりなどない」と反発し、朝日や読売の社説はあれこれと余計なことを心配している。

 そこで、私なりに、はっきりと指摘しておこう。ライブドアの行為は、良いとか悪いとかいうものではない。ただの経済活動であるにすぎない。株の買収というのは、ただの取引であり、良し悪しの問題ではない。株式市場というものは、株の取引のためにあるのだから、そこで株の取引があっても、ただの当り前の行動だ。
 問題があるとしたら、メディア王マードックのように、「マスコミを次々と買収して、保守派の論調に衣替えさせて、国民を洗脳し、政治を支配しよう」という野望があった場合だ。(イタリアではメディア王が、自社メディアで社主を宣伝して、社主が首相になってしまった。げっ。)
 だから、経営者が編集内容に介入しているかいないかが問題だ。そして、問題は、それだけだ。それ以外なら、ただの経済活動だ。良くも悪くもない。

 しかるに、である。朝日も読売も他社も、ライブドアに警戒の目を向けている。なぜ? 若手の異端者だからだ。異端者であるというだけで、警戒の目を向けられる。普段は「規制緩和」を唱えている朝日・読売も、さっそく「規制しよう」という方向での論調だ。呆れるね。
 どうせ問題視するなら、老人の守旧派こそ、問題視するべきだろう。たとえば、近鉄の経営者は、球団売却に反対した。自社に損害を与えてまで、オリックスの経営者との口約束という義理に忠義立てした。他にも、老害のある企業は、山のようにある。
 なのに、そういう旧態依然の連中を放置して、若手の異端者ばかりを警戒する。ここに、日本の困った体質がある。
 そして、こういう体質は、科学技術の分野における「独創性の排除」と、根っこでは同一だ。

 結語。
 ライブドアの問題は、ライブドア自体が問題なのではない。それを警戒する日本人の偏見こそが問題なのだ。この偏見が、独創性を排除し、日本を停滞させる。

 [ 付記1 ]
 念のために注釈しておくと、ライブドアを擁護しているわけではない。他者を批判しているからといって、ライブドアを擁護していることにはならない。ライブドアが良いか悪いかは、同社の今後の行動によって決まる。私は単に「偏見を持つな」と言っているだけだ。正確には、「偏見を持つことが、われわれの問題だ」と言っているだけだ。

 [ 付記2 ]
 なお、一般的に言えば、この種の買収は、あった方がいい。生ぬるい経営者天国では、経営者ばかりがいい思いをして、産業が停滞するからだ。比喩的に言えば、日本の産業すべてが、郵政公社みたいになっている。黒船来襲が好ましい。
 実例としては、日産自動車の成功例がある。ゴーンという黒船が来襲したおかげで、日産は見事に再建された。最新決算では、利益率が 10%もある。(読売・朝刊・経済面 2005-02-10 )
 そもそも、日本企業は、外国の企業をけっこう買収している。その割には、日本の企業は、買収されていない。もっと黒船が来た方が、グローバル時代には適している。何しろ、日本の企業の経営者は、非常に劣悪なのだから。その証拠は、経営者の平均年齢と、従業員の女性雇用率。ひどいものです。質的に劣悪。途上国並みですね。それが日本の経営。……だから、黒船が来て、一掃した方がいい。黒船のかわりに、ライブドアでもいいけど。
 ヘボ川柳を一つ。
 「大衆の 眠りを覚ます ライブドア たった二回で 蜂の巣騒ぎ」

 [ 付記3 ]
 今回に限って言えば、「ライブドアの勝ち」というのが、私の予想。
 その理由は? 村上グループや浮動株を合わせれば、ニッポン放送の過半数の株を得る。とすれば、あとは、経営者を送り込めば、株式の時価発行ができる。とすれば、フジテレビの持ち分を下げることは、いくらでも可能だ。(資本主義の世界では、過半数の株を得たものが勝ち。)
 だから、フジテレビが 25%の株を取っても、意味がない。結局は、負ける。だから、フジテレビの社員は、「ライブドア反対」なんて言わない方がいいですよ。それは以前の日産の社員が、「ゴーン反対」「ルノー反対」と言うのと同じ。傘下に入ったあとで、自分の首が寒くなる。
 ま、基本的に言えば、ライブドアとフジテレビは仲良く協調すれば、両者がともに利益を得る。これしかありえない。喧嘩を主張しているのは、頭の古い経営者だけ。彼らはたぶん追放されるだろう。フジテレビの社員は、誰の頭が古いか、今のうちにチェックしておきましょう。


● ニュースと感想  (2月13日c)

 「デザインと科学技術」について。
 科学技術の話のついでに、デザインにも言及しておこう。実は、デザイン開発も、科学技術開発と同様だ。「独創性の重視」という点で、事情は似ている。
 特に、日産の例がある。新車の失敗例として、ゴーン体制下の近年でも、スカイライン、プリメーラ、プレサージュ、ステージア、マキシマなどがある。いずれも、大失敗だ。なぜ失敗したか? 車の出来が悪かったからか? いや、デザインが悪かったからだ。
 では、なぜ、デザインが悪かったか? 理由は、二つ。
 一つは、デザイナーをうまく使いこなせなかったこと。ヘボなデザイナーを、あえて採用したこと。(スカイライン、プレサージュ、ステージア。ティーダも同様。)
 もう一つは、デザイナーのデザインは良くても、他人が勝手にデザインを変えたこと。特に、顔だ。もともとのデザインは良くても、開発リーダーが勝手にデザインを変えて、いやらしい日産顔にする。(プリメーラ、マキシマ。最新型のノートも。)……これらは、開発途中段階では、格好良かったのに、製品版では、いやらしい日産顔になる。カッコいいのを、あえてカッコ悪くするわけ。もともとは独創性のある作品でも、経営方針で、あえて醜くするわけ。……で、売れなくなって、企業自身が大損。馬鹿丸出し。ギョロ目丸だし。
 国であれ企業であれ、独創性をないがしろにして、特定の型に嵌めようとすれば、全員が大損するのである。


● ニュースと感想  (2月14日)

 「留学生とアルバイト」について。
 海外からの留学生は、日本および本国の科学技術に貢献しているが、アルバイト先をなかなか見つけられないで、困っているという。(朝日・週末版・be 青色版・3面・コラム 2005-02-12 )
 これに対して「どうするべきか」は別として、「どうしてはいけないか」は、はっきりしている。「単純労働者の流入」である。
 アルバイト先は、まず留学生に与えるべきであって、世界中に数十億人もいる平凡な失業者なんかではないのだ。こういう数十億人もいる平凡な失業者を救おうとしても救えないのに、そのうちごく少数だけを抽選で選んで職を与えても、何の意味もない。効果をはっきり理解しよう。

 [ 付記 ]
 効果はないが、逆効果はある。結果として、頭のいい留学生が消えて、犯罪者になるような頭の悪い連中が増える。日本社会を破壊する。
 ただし、朝日はこれを主張する。なぜ? 「自分は善行をした」という自己満足が得られるからだ。
 つまり、留学生の職を奪って、その職を貧しい失業者に与える。留学生の金を奪って、その金を貧しい失業者に与える。で、「自分はちっとも損をしていないし、貧しい人は豊かになった。だから、自分は財布の鐘を傷めずに、自分は善行をできた」と思うわけだ。
 これが朝日の、ジコチュー善行。朝日はやたらと、この手のキャンペーンをやるので、だまされないように、注意しよう。


● ニュースと感想  (2月14日b)

 「風力発電」について。
 風力発電については、けっこう報道されている。商業ペースにも乗っているようだ。(読売・朝刊・2面・コラム 2005-02-11 )
 これは、「燃料電池や太陽電池なんていう研究途上段階のものに、莫大な補助金を出して、莫大な赤字を埋める」なんていう無駄遣いに比べれば、ずっとよい。
 とはいえ、別の問題もある。環境問題だ。先に書いた文句を引用すれば、次の通り。
風力発電は、「風の道」に置かれことが多く、鳥の衝突被害が多くなりやすい。要注意。
( → 2月04日b
 この環境問題については、新聞はあまり報道しない。そこで、上記のように喚起しておいたわけだ。

 さて。この話を継続して、ついでに、対策を提案しておこう。それは、次のことだ。
 「風力発電の風車のそばには、鳥よけの措置を用意しておく。」
 たとえば、鷹の凧(たこ)などを飛ばしておく。あるいは、同種の鳥のさえずりを聞かせて、「縄張りに侵入するな」と警告する。あるいは、ときどき地上で火を燃やして、鳥を遠ざける。  その一方で、近くには、「鳥の道」を用意する。風はなくても利便がある、という場所。たとえば、森林や湿地・沼など。
 
 結語。
 「環境とは何か」という本質を、はっきり理解しよう。「環境保護のために風力発電をして、(鳥という)自然の生態系を破壊する」というのでは、本末転倒だ。
 環境とは、酸素や炭酸ガスだけではない。鳥や植物などの自然生命もまた、環境の一部である。環境保護は、人間のためにやるものでもないし、金のためにやるものでもない。この地球を守るためにやるのだ。「温暖化で不便になる」なんていうふうに、人間の都合ばかりを考えるべからず。


● ニュースと感想  (2月14日c)

 「炭酸ガス削減」について。
 炭酸ガスを削減する技術がある。海底または地中に閉じ込める、という方法。かなり低コストで、大容量を処理できる。(先日の新聞報道。日付は失念。)
 これを批判して、「環境への影響が不明だから、当てにするな。むしろ、社会的に生活を改善して、炭酸ガスを出さないようにすることが大切だ」という指摘があった。(読売・朝刊・1面・特集コラム 2005-02-12 )
 まっとうな意見のようでいて、間違っている。ピンボケというべきか。炭酸ガスを閉じ込める方法が好ましくないのは、本当は、次の理由だ。

 仮に、その方法が成功したとしよう。どんどん化石燃料を燃やして、炭酸ガスを出して、その炭酸ガスを海底・地中に閉じ込めたとしよう。差し引きして、炭酸ガスの濃度は変わらない。では、何も変わらないか? いや、地球の酸素の濃度が減る。酸素消失だ。これでは、あらゆる生物が生存できなくなる。「死の惑星」である。(「猿の惑星」より、もっと悪い。)
 これが本質だ。目先の(一部の)炭酸ガスの濃度だけを見ても仕方ない。全体を見る必要がある。そういう全体的な視点が大切だ。

 だから、正しい対策は、「地球の緑化」つまり「砂漠化の阻止」である。あちこちで熱帯森林やサバンナの樹木を伐採しているのを、やめることが大切だ。それなしに、炭酸ガス処理技術を向上させたり、燃料電池で有毒ガスを減らしたりしても、たいして意味はない。「燃料電池は水素と酸素で水を生むだけだから、無公害だ」なんてのは、考えが甘い。長期的には、酸素が減少するのだ。「燃料電池は無公害だ」なんて言っていると、地球から酸素が消えて、窒息死するハメになる。
 「環境保護」とは、人間のためだけにあるのではない。美しい森林や海や川や湿地を守るためにある。炭酸ガスの濃度だけを見て、それで片付けようなんていうのは、視野があまりにも狭すぎる。







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「小泉の波立ち」
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