[付録] ニュースと感想 (81)

[ 2005.01.17 〜 2005.01.29 ]   

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● ニュースと感想  (1月17日)

 「財政再建と橋本増税」。
 読売の社説が、「財政再建と景気回復の二兎を追え」という主張をしている。で、「消費税増税と量的緩和」という提案をする。(読売・朝刊・社説 2005-01-13 )
 財政再建の件は、前にも何度も述べたから、ここでは詳しく論じることはしない。ただし、一つだけ述べておこう。それは、「過去を振り返れ」「おのれの失敗を反省せよ」ということだ。
 この手の「財政再建と景気回復の二兎を追え」という主張は、橋本増税と同じ手法である。当然、その結果も、「二兎を追うものは一兎をも得ず」という結果になるに決まっている。そういう実例があったのだから、その実例を思い出すべきだ。
 あの当時、朝日も読売も、増税には「注意深く見守ろう」なんて主張をするだけで、「駄目だ」と全否定しなかった。それゆえ、その後のひどい不況が起こったのだ。……そういう過去があったのに、きれいさっぱり忘れてしまって、今また、同じことを主張している。健忘症。一度落ちた穴に、二度も落ちる阿呆。

 そもそも、経済学の根本を理解ないと、駄目だ。読売の社説では、「バブル期には過度の需要拡大策が取られたが」なんて主張してるが、とんでもない勘違いだ。バブル期にあったのは「過度の需要拡大策」ではなくて、「過度の金融緩和」である。あの当時、財政再建がどんどん進んでいたから、実質的には増税がなされていた。内需拡大(消費と投資の拡大)というよりは、単なる「投資拡大」だけがあった。そのせいで、資産投資が過剰に進んで、資産インフレが起こった。
 「過度の需要拡大策」は、インフレをもたらすが、「過度の投資拡大策」(マネタリズムの政策)は、資産インフレをもたらす。これがバブルの正体だ。つまり、バブルの失敗は、マネタリズムの失敗なのだ。
 そのことを忘れて、今また、マネタリズムの主張を繰り返す。自分の失敗を反省しないから、何度も何度も失敗を繰り返す。どうしようもない無知ですね。

(財政再建については、先日も長々と詳しく述べた。 → 11月21日 以降 ,12月13日 以降。)


● ニュースと感想  (1月17日b)

 「最近の金融統計」。
 日銀が 12日に貸出・資金吸収動向の速報を発表した。(読売・夕刊 2005-01-12 ,朝刊 2005-01-13 。産経新聞のサイト )それによると、次の通り。
 要するに、いくら「量的緩和」を実施しても、無効だ、ということ。企業の投資は増えないし、市中に市中には金が出回らない。金は単に倉庫に溜まるだけだ。無駄。無効。(かつ危険。)
 「量的緩和」なんていう経済政策がまったくの無効だということは、こうして明白に実証されているのだが、それでもまだ、頭の悪い人たちは、この無効な経済政策にこだわる。(天動説を信じる守旧派と同じ。)

 ついでだが、1997年以降の急激な景気悪化のきっかけは、1997年の「橋本増税」である。こういう阿呆なことをやると、とんでもない結果になる、ということ。……にもかかわらず、懲りない連中が多い。

 [ 付記 ]
 悪化の率は、前年よりは収まっている。その意味では、状況はいくらか改善されているのかもしれない。とはいえ、逆に言えば、景気回復なんてその程度だ、ということだ。貨幣量に着目する限り、「悪化していく角度がゆるやかになった」というだけで、「上向き」にはなっていないわけだ。


● ニュースと感想  (1月18日)

 「クルーグマン・モデルの否定」について。
 クルーグマンの主張を部分的に否定しよう。
 クルーグマンの業績は偉大だが、その業績についてうまく評価しきれないでいた。彼の主張する「インフレ目標」という提案は、日本では「過剰な量的緩和」というふうに拡大解釈され、その効果は皆無なまま、その潜在的な危険弊害ばかりが目立つようになった。
 とはいえ、どこが正しく、どこがおかしいかを、理論的にはともかく原理的には、うまく説明しきれないでいた。そこで、物事の本質について、あらためて考え直してみる。すると、彼の業績は、次の二つに分けることができる。
  ・ 「流動性の罠」についての解明。(均衡点の下落という説明)
  ・ 「インフレ目標」という提案。(将来の物価上昇の期待の反映)
 前者については、グラフ的・図形的に説明されている。これは私の「トリオモデル」の原型になったもので、実質的には等価である。これは問題ない。
 後者については、「子守協同組合」(ベビーシッター組合)の話でモデル的に説明している。これはまた、「不動産不況」の話とも関連する。……これらの話は、わかりやすいので、そのまますんなりと信じられているようだ。しかし、ここには、根源的な問題ないし誤解がある。そのことを、本項で指摘しよう。次の (1) (2) の順で説明する。

 (1) 不動産不況
 不動産不況の話については、以前も言及したことがある。( → 10月16日b ) 再掲すると次の通り。
 「地価が下げ渋っていると、土地取引がうまくなされないで、市場が停滞する。だから、どんどん地価を下げてしまえ。そうすれば取引が活発化して、市場が正常化する」
 これは、「完全な市場・不完全な市場」を主張する一派(アカロフ)の説明だ。これは今日、経済学界ではかなり広い支持を受けているが、どう評価するべきだろうか? 
 まず、この派の主張自体は、根本的に問題がある。これについては、「メニュー・コスト理論」の項で批判した。( → 7月30日
 要するに、「価格の下方硬直性」なんかで説明するのでは駄目で、トリオ・モデルの「下限直線」で説明するのが正しい。「価格の下方硬直性」を除去すれば、状況は改善するどころか、かえって悪化する。(たとえば、原価割れで赤字が増えたり、賃金低下で総需要が低下したりする。)
 さて。それはそれとして、不動産の問題の場合には、独特の事情がある。それは、「資産取引は何も生産しない」ということだ。
 アカロフの主張によれば、「価格を下げれば土地の取引が活発になり、市場は健全化する」という結論が得られる。それはそれでいい。しかし、取引が活発になり、市場が健全化して、それでどうなるか? 実は、たいして変わらない。正確に言えば、どんなに資産取引が活発になっても、土地の総量は増えない。これは、一般の商品とは、まったく異なる。
 一般の商品ならば、経済活動が活発になると、商品の総量が増える。たとえば、小麦や自動車やパソコンの生産量が増える。しかし、不動産の取引がいくら活発になっても、日本全体の不動産面積は変わらない。
 それでも、不動産の価格の総額は増える。では、それは、富の増大を意味するか? 意味しない。たとえば、日本全体の不動産価格が千兆円ほど増大したとしよう。それで、日本全体の富は増えるか? もし日本を外国に売り渡すのであれば、日本の富は増える。しかし、日本を外国に売り渡さないのであれば、日本人同士で富の配分が変更されるだけであり、富は少しも増えない。
 この配分変更では、金は、「土地の購入者 → 土地の売却者」というふうに流れる。たとえば、土地が1億円高くなると、購入者は1億円余分に払い、売却者は1億円余分に受け取る。そういう意味の、配分の変更が起こる。ただし、両者の総額は、まったく変わらない。(右手で1億円増えて、左手で1億円減るだけだ。)
 結局、「不動産不況」というのは、一般の「経済不況」のモデルにはならない。「不動産価格を下げると取引が活発になるぞ」という主張は正しいが、そんなことは一般の「経済不況」とは何の関係もない。
 経済の本質は、生産活動にある。この本質を見失って、不動産不況をモデルに取るのは、モデルの取り方が根本的に間違っている。「不動産不況」は、「経済不況」の、たとえ話にはならないのだ。

 (2) 子守協同組合
 では、子守協同組合( or ベビーシッター組合 )の場合はどうか? 実は、これも、不動産の取引と似ている。なぜなら、「子守券」というのは、「不動産」と同じで、一種の「資産」のようなものであるにすぎないからだ。
 子守券は、不動産とは違って、総量を増やすことができる。とはいえ、基本的には、「自分が与えて、それとまったく同じ分、相手から受け取る」というふうになるだけだ。損得勘定で言えば、誰も得しない。単に損得の時期をずらすだけの効果しかない。
 仮に、取引を活発にしたいとしよう。そのために、子守だけでなくて、犬(または子犬)の介護まで、子守券で実施できるようになったとしよう。その結果、取引が活発になったとする。それで、人々は、幸福になれるか? いや、かえって不幸になる。……たとえば、やりたくもない犬の世話をやる時間ばかりが増えて、肝心の働く時間がなくなり、仕事ができなくなり、金を稼げなくなり、生活が破壊されてしまう。下手をすると、餓死してしまう。(厳密に言えば、まるきりの損ではない。人間が世話をして損した分、犬が世話を焼かれて得をする。人間と犬の帳尻は合う。人間よりも、お犬様が大事。)
 一般の経済ならば、生産活動が増えると、金を得るので、それは人々を幸福にする。(働き過ぎがまずいのなら、単に休めばよい。)逆に、生産活動が縮小すると、生活費を稼げなくなるので、不幸になる。
 子守ならば、子守活動が増えると、余計な世話焼きばかりをするハメになり、肝心の経済活動ができなくなるので、幸福になるどころか、不幸になる。逆に、子守活動が縮小すると、取引は行なわれなくなるが、それはそれで、別に誰も困らないし、むしろ、余計な世話を焼く必要がなくなって、幸福になる。(その分、お金を稼げば、あとでベビーシッターが必要になったときには、お金で雇えばよい。)

 結語。
 不動産であれ、子守活動であれ、それらの取引を活発にすることには何の意味もないし、また、それらの取引が縮小する(不況になる)としても何の難点もない。とすれば、ここでは、「市場活動が活発になるかどうか」ということを考えても、何にもならないのだ。
 「市場活動を活発にするには、インフレ目標を実施すればいい」というのが、彼らの主張だ。なるほど、その主張は、それはそれで成立する。しかし、「市場活動を活発にすることは大切だ」ということのモデルとして、不動産不況や子守不況をモデルにしても、そんなモデルは、何の意味もない。これらの例は、モデルとしては、まったく不適切なのだ。
 インフレ目標の是非を論じるのはいい。しかし、それを「是」とするために、不動産不況や子守不況の例をモデルにしても、そんなたとえ話は、まったく無意味なのだ。
 それが、本項で言いたいことだ。

 [ 付記 ]
 では、どうすればいいか? 
 「市場の取引を活発にせよ」なんていう話ではなくて、「生産量を拡大せよ」というふうにマクロ的に考えるべきだ。
 物事の本質を示せば、次のようになる。
 典型的に例を示す。
 インフレ目標論者の理想状況は、死である。人間が死んで、残ったコンピュータ2台が土地または子守券の取引だけをしていれば、それは理想的な状態だ。
 マクロ経済学者の理想状況は、生である。人間が生きて、食物を取り、娯楽を得て、人生を生きる。より良い生を得るために、経済活動をして、金を得る。
 だから、死にたい人は、インフレ目標を選べばよい。そうすれば、死んだまま、ただ無意味に券の交換だけをしていられる。一方、生きたい人は、マクロ経済学を選べばよい。そうすれば、働いて金を得るという形で、人生をよく生きることができる。

( インフレ目標については → 「インフレ目標」 簡単解説
( クルーグマンの原論文 → 不動産不況の話子守協同組合ベビーシッター組合
( ※ 本項の話は、明日分に続く。)


● ニュースと感想  (1月19日)

 前日分の続き。その1。
 前日分の話(クルーグマン・モデルの否定)の続きとして、補足としての話を二つ記述する。

 (1) モデルにおける失敗話
 クルーグマンのモデルが現実には成立しない、ということの具体的な例を示そう。
 食料ならば必要不可欠だが、子守は必要不可欠ではない。食料ならばなしでは済ませられないが、子守はなしでも済ませられる。だから、具体的に「なくても大丈夫」という例と、ついでに、「必要ないのに無理に増やそうとすると弊害が起こる」という例を示そう。
 たとえ話。
 子守協同組合がありました。あるとき、その国の経済中心の高層ビルに、テロのビルが突入して、六千人もの死者を出しました。その国の国民は怯えて、家庭に引きこもり、夫婦で抱き合いました。
 そして九ヶ月たつと、ベビーブームになりました。「将来の子育てが絶対に必要だ」と思ったので、夫婦や近親者は、「将来の子守券の必要」を感じて、せっせと子守券を貯めました。それまでは5歳ぐらいの子供の子守にも子守券を使っていたのですが、やがて生まれる甥や姪のために、自分の子供のためには使わず、子守券を貯め込むことにしました。
 かくて、子守券の取引はなくなりました。それで、どうなったか? 別に、どうもなりませんでした。人々は他人に子守をさせるかわりに、自分で子守をするか、あるいは、子守なんかしないで子供を自立させたからです。それはそれで、少しも困りませんでした。
 ところがマネタリストの経済学者が出てきて、こう主張しました。「取引をやれ。さもないと券のマネーサプライが減るから駄目なんだ。マネーサプライこそすべてに優先する神様なんだ」と。人々は「なぜ?」と不思議に思いました。しかしマネタリストは「マネーは神様だ。マネーは偉大なり、マネーは偉大なり」と叫んで、頭を地面になすりつけるばかりです。
 そこでマネタリストの政策に従い、子守券の発行量を増やしました。これで子守券の将来価値の低下が予想されるので、「早く子守券を使った方が得だ」というふうになりました。「これで子守券の利用が増えるぞ」とマネタリストは主張しました。
 で、それで、子守の取引は増えたか? 増えませんでした。なにしろ、ぐずぐずしているうちに、子供は自立してしまったからです。もはや子守の必要はなくなりました。必要もないものに券を使う必要はないからです。
 マネタリストは「早く使った方が得ですよ」と主張しましたが、人々は拒みました。「必要のないものは、たとえ1円でも高い。そんなものは欲しくない」と主張したのです。「それより、あとちょっとで、子供が生まれる。生まれた子供のために、子守券を使いたい」と人々は考えました。
 マネタリストは、困りました。子守券の取引がなくても、人々はちっとも困らなかったのですが、マネタリストの理論が崩れるので、マネタリストは困ったのです。そこでマネタリストは「券を無限に増やせ」と主張しました。まずは2倍、次に4倍、次に8倍……というふうに。初めのうちは、人々はそれでもまだ子守券を使いませんでした。(薪に火がつかないで溜まる状態。) しかし、あるとき急に、人々は不安に駆られました。「そのうち子守券の価値がゼロになるんじゃないか?」と。そこで試しに子守券を使おうとすると、莫大な量の子守券が必要だ、と言われました。ハイパー・インフレです。ここにいたってようやく、人々は、われもわれもと子守券を使いたがりました。(薪に火がつく状態。)
 結果的に、どうなったか? ものすごい混乱が起こりました。「十枚でやれ」「いや、十枚だけじゃいやだ」とか、「十枚でやるって約束したじゃないか。やらないなんて、約束違反だ」「ふん。状況が変わったのに、約束なんか守っていられるか」……あちこちで大喧嘩。殺人続発。
 かくて社会は大混乱になり、社会は破壊されてしまいました。しかしマネタリストだけは、大喜び。「これで取引が再開されたから、市場は正常化され、経済は正常化されたのだ」と。

 (2) かわりのモデル
 子守組合が例が正しいモデルにならないとしたら、どうすれば正しいモデルになるか? それは、子守券が「金券」としても役割をもった場合だ。たとえば、その券で食品を購入できる場合。
 子守活動の取引なんていうものは、存在する必要はないし、むしろ、存在しない方がいいかもしれない。必要もないのにやたらとおせっかいをして他人の家の子守なんかをやるより、おたがいにほったらかしにして、何もしないでる方が、よほどマシである。(特別な例外はあるにせよ。)
 一方、人間にとって食事は必要である。ゆえに食料の生産活動は必要である。特に自分が食料生産をしない場合には、食料と交換できるものの生産活動が必要である。ここで「金券」ないし「現金」が必要となる。この場合には、取引が必要不可欠だ。もしその取引がなされなければ(あるいは生産活動がなされなければ)、大量の餓死者が出る。
 というわけで、「食料と交換できる」ということの有無で、正しいモデルとなるか否かが決まる。子守券は、この要件を満たしていないから、正しいモデルではない。
 ついでに言えば、商品券は「食料と交換できる」という要件を満たすが、商品券がなくても現金があれば問題ない。商品券の取引がゼロになっても、別に問題はない。だから、券のモデルとしては、「食料と交換できる」という要件を満たすだけでは不十分だ。「食料と交換できるような、ほぼ唯一の券」というのが、券のモデルとしての条件だろう。つまり「現金」であることが、条件だ。……となると、結局、現金そのものになってしまう。とすれば、これはもはや、モデルではなくて、現実そのものだ。
 だったら、こんなモデルよりは、もっと別のモデルを使った方がいいだろう。それは、マネーそのものは金券のままにして、市場の規模だけを小さくしたモデルだ。つまり、「プチ・マクロ」のモデルだ。( → 12月03日


● ニュースと感想  (1月19日b)

 前日分の続き。その2。
 前日分の話(クルーグマン・モデルの否定)では、本題とは少し逸れたところで、「土地の総量は増えない」というふうに述べた。このことについては、疑問を感じる人もいるだろう。そこで、もう少し厳密に説明しておく。

 「土地の総量は増えない」ということは、何を意味するか? 「土地の面積が増えない」ということではなくて、「土地の価値が増えない」ということだ。
 ただし、そう説明すると、反論が出るだろう。「いや、違うぞ。都心部では、交通の利便が向上するから、土地の価値が上昇する。ゆえに、(面積でなく価格では)土地の総量が増えたことになる」と。
 なるほど、それはそうだ。ただし、注意しよう。ここで問題になっているのは、特定の都心部だけでなくて、日本全体だ。都心部では、ビル建設や地下鉄建設などに莫大な投資がなされているから、その分、価値が上がっても、不思議ではない。しかし日本全体では、そのような特定箇所の影響は、無視できる。

 日本全体の不動産価値の上昇は、どうやって測定するか? 地価上昇率か? いや、それは、取引金額の数値だから、過剰に上がったり下がったりする分が含まれる。では、真の「土地の価値」は、どうやって計算されるか? それは、土地の生産力によって計算される。その値は、局所的には「賃貸料」で計算されるが、日本全体では「総生産」の量によって計算される。日本全体の土地の生産力は、実際に日本全体で生産された量で計算される。
 とすれば、土地の価値の伸び率と、日本経済の伸び率とは、ほぼぴったり一致するはずだ。(ただし、「生産活動に対する土地の寄与率が一定である」と仮定して。この仮定は、中短期的には、成立する。)

 結局、こうだ。土地の価値の総額は、たしかに毎年どんどん上昇しているが、それは日本経済全体の伸び率と同じだから、相対的には、土地の価値は増えていないのと同じことなのだ。
 とすれば、バブル期に、GDPの伸び率を上回って不動産総額が上昇したときには、GDPの伸び率を上回る分が、過剰な伸びであったことになる。たとえば、経済成長が3%であるときに、地価の伸び率が 10%であったとすれば、差の7%は過剰であったことになる。(誤差があっても1%ぐらいだろう。)
 経済成長が3%であるときに、地価の伸び率が3%ある、という意味でなら、たしかに土地の総量(総価値)は増えている。ただし、増えているのは、3%だけだ。「地価が平均して 10%上がったから、土地の総量(総価値)が 10%増えたことになる」と思うのは、早計である。増えたのは3%だけであり、残りの7%の分は錯覚にすぎないのだ。その錯覚の分は、いつかは破裂する。それがバブル破裂だ。


● ニュースと感想  (1月20日)

 「郵政民営化と資金動向」について。
 「郵政民営化は構造改革だ。これで経済は良くなる」というのが小泉首相の主張だ。で、本当にそうか? これをめぐる討論会が政府主導で開催され、その討論会の記事が報道された。(朝日・朝刊・経済面 2005-01-18 )
  1.  郵政民営化がなされると、資金が国から民間へ移る。それは好ましい。(「小さな政府」主義。)
  2.  しかし、郵貯の資金で、国債を買っている。郵貯が国債を買わなくなると、国債の買い手が減るなるので、国債の価格が下がる。すると、金利上昇が起こり、経済成長が阻害される。また、金利が上昇すると、国の国債返済額も増える。これらは、副作用だ。
  3.  しかし、よく考えてみよう。どっちみち、特殊法人が一定の金を吸い上げるのであれば、どっちみち国の無駄遣いの額は一定だ。郵政民営化しようがしまいが、どっちみち変わらない。資金の提供者(入口)を改革するよりも、資金の使用者(出口)である特殊法人の支出を減らすことが肝心だ。国の公共事業もまたしかり。
 このうち、3番目は、林文夫・東京大学院教授。これだけが比較的しっかりしている。右手と左手のバランスを見ている。一方、1番目と2番目は、右手と左手の片方しか見ていないので、片方だけを見て「増えた、減った」と騒いでいるだけだ。馬鹿げている。こんなものは、ただの手前ミソに過ぎない。具体的に指摘しよう。

 (1) サプライサイド
 1番目は、サプライサイドの手前ミソだ。
 つまりは、「国の金を民に寄越せ。おれたち企業に寄越せ」という手前ミソ。「国は間違いだが、おれたちは正しい。だからおれたちに金を寄越せば、国は良くなる」という手前ミソ。
 これは、経済学でも何でもない。ただの「ぶんどり合い」だ。これがまったくの間違いであることは、現状を見れば、すぐわかる。
 今や、ゼロ金利であり、民間は最高に優遇された条件で資金を借りることができる。これ以上ないという条件だ。で、それで、民間に資金は流れるか? 流れない。ここでは、国が資金を奪っているわけではなくて、民間自体に資金需要がない。こういう状況で、「国の金を民間に寄越せ」と主張しても、何の意味もない。
 最初の主張は、「国と民間とが資金を奪い合っている」つまり「金利が高騰して、クラウディング・アウトが発生している」ということを前提としている。現実には、それとは正反対の状況にある。
 成立しないことを前提に主張しても、砂上の楼閣にすぎないのだ。
( ※ ここでは「無効だ」と判明する。正し正確には「有害」であることがわかる。後述。)

 (2) マネタリスト
 2番目は、マネタリストの手前ミソだ。
 つまりは、「金利が経済成長率を決める」という意見だ。これは、今日の経済学の主流だが、まったくの間違いだ。その理由は二つ。
 この二つは原則論だ。具体的な例で当てはめてみよう。現在、ゼロ金利という状況だ。ここでは、金利は最低限まで低下している。とすれば、国の資金が民間に流れているし、国債の返済額も最低限で済む。とすれば、マネタリストにとっては、理想的な状況だ。当然、経済成長は、最大レベルになっているはずだ。では、そうか? 逆だ。最低レベルだ。つまり、マネタリストの主張は、まったくの間違いなのだ。現実とは正反対のことを主張している。

 結語
 では、正しくは? 
 第1に、「投資」だけでなく「消費」も見るべきだ。
 第2に、資金の提供者としての日銀を無視するべきではない。
 第3に、民間の資金需要がないときに、いくら民間に金を流しても無駄だと知るべきだ。
 以上のことから、正しい方策はわかる。不況のときには、金を国から民間に流しても、まるきり無意味である。なぜなら、民間に資金需要がないからだ。(流動性の罠)
 では、どうするべきか? 投資を増やせないのだから、消費を増やせばよい。つまり「投資拡大」というマネタリズムの手法のかわりに、「投資抑制・消費拡大」という政策を取ればよい。と同時に、「総需要を増やす」という政策を取ればよい。
 この二つをまとめたのが、タンク法である。より簡単に単純化して言えば、「減税」だ。減税は、次の効果をもつ。
 このとき、経済政策としては、次のことに注意すべきだ。
 要するに、「投資」だけを見て、「投資を増やせば、すべて良くなる」なんていう古典派の主張は、現状(不況)にまるきり合致しないし、間違った政策である。本当なら消費を増やすべきときに、「投資を増やせ、投資を増やせ、」と騒いでも、何の益もない。不況を長引かせるだけだ。
 ただし、彼らはあくまで、「投資を増やせ」と主張する。なぜか? 手前ミソである。企業経営者が、「民間に金を寄越せ、民間に金を寄越せ」と騒いでいるだけだ。彼らは、国全体が不況になろうと滅びようと、どっちでもいいのだ。自分に金が入れば、それでいいのだ。(「企業が良くなれば、国も良くなる」という主義だから。)
 企業経営者は、いやしい餓鬼みたいに、国を食い物にしているだけだ。そういうエゴイストぞろいの企業の提灯持ちをしているのが、政府であり、古典派であり、マスコミである。国を滅ぼそうとしているわけだ。

 [ 付記 ]
 企業が「民間に金を寄越せ」と主張しているとき、それを聞いて、「じゃ、ぼくたちにも金が入るんだな」と勘違いしてはならない。企業の言う「民間」とは、「企業」のことであって、「国民」のことではない。
 簡単に言えば、「国民から増税して政府が金を奪い取り、その金を企業に渡す」という形で、「国民から企業へ」というふうに金を流すだけだ。それがつまり「消費縮小・投資拡大」という政策だ。
 つまり、「民間に金を寄越せ」という主張は、あなたの財布の金を企業に渡すということだ。あなたがパソコンや自動車を買う金を奪い、かわりに、企業が設備投資する金に回す。……ただし、実際にそうなるならともかく、実際には企業は設備投資しないから、経済は成長しなくなる。愚の骨頂。
( ※ こういうことを理解するには、ミドル経済学の知識を用いる。マネタリズムみたいに、「投資」のことばかり考えていては駄目なのだ。半面的すぎる。)


● ニュースと感想  (1月21日)

 「経済成長率の意味」について。
 前々項では、「土地の総量」と「土地の価値の総量」という話をした。これに関連して、経済成長率についても、少しコメントしておこう。

 「生産性の向上率が毎年 2.5%ほどある」ということを、前に述べたことがあった。そして、「生産性が向上するから、その分、生産量と消費をともに増やさなくてはいけない」と説明した。(需要統御理論など。)
 ただし、ここで言う「生産量」というのは、「数量」ではなく「金額」で計測されるものだ。その点、誤解しないようにしよう。

 わかりやすく言えば、こうだ。生産量が毎年 2.5%増えるからといって、石油などの資源の使用量が毎年 2.5%増えることにはならない。(もちろん環境が破壊されることにはならない。)むしろ、ハイブリッド車などの普及にともなって、石油などの資源の使用量が毎年いくらか減少していくべきだろう。あるいは、石油価格の高騰にともなって、石油の使用量が減少していくのでもいい。
 ただし、数量は減っても、金額が増える。特に石油だけの金額が増える必要はないが、国全体の商品の金額の総額が増える。それがつまり、「生産量が増える」ということだ。

 とにかく、「経済成長率」や「総生産」は、金額で示されるものであり、物質的な数量で示されるものではない。単位は「円」や「ドル」であり、「キログラム」や「立方メートル」ではない。勘違いしないように、注意しよう。
 この件は、前にも述べたことがある。( → 第2章3月23日
 なお、直接の関係はないが、類似の話もある。( → 12月05日

 [ 付記 ]
 ここで言うことは、先進国には、まるまる当てはまる。たとえば、日本が経済成長をするからといって、石油の使用量が増えるとは限らない。
 ただし、途上国には、あまり当てはまらない。たとえば、中国の所得が急増すると、中国の鉄や石油の使用量も急増するだろう。
 こういう事情は、ケースバイケースである。ただし、どんなに経済成長が進んだとしても、しょせんは、石油や鉄の資源量には上限があるから、無限に資源の浪費が進むわけではない。資源の利用量は逓減するだろうし、同時に、環境悪化は累進的に進むだろう。……そのかねあいをどうするかを決めるのは、経済学ではなくて、もっと別の叡智である。
 ただし、その叡智を人間が持っているかどうかは、また別の話だ。たぶん、もっていないんでしょうね。たとえば、どこかの猿顔の大統領は、京都議定書(温暖化ガス抑制)を否定しているしね。


● ニュースと感想  (1月21日b)

 「景気動向」について。
 景気動向指数が発表された。昨年11月の時点で、一致指数が 50%を上回ったが、直前の 10月までは3個月連続の 50%割れだった。「悪化の一途」という懸念は薄らいだが、とうてい楽観できない、ということ。すでに後退局面に入ったかもしれない、という観測もあるが、政府は相も変わらず「景気回復が進んでいる」と誇大なラッパを吹いている。(各紙・朝刊・経済面など。 2005-01-19 )
 読売では、「上昇か下降か、民間エコノミストの見解も割れている」という記事があるが、それとは別に、データが興味深い。
 名目GDPはもちろん上昇とは言えないのだが、実質GDPで見ると上昇が続いている。ま、これは、単に物価が下落しているだけで、実質GDPが増えているだけだから、どうでもいい。
 肝心なのは、実質現金給与総額の指数だ。2000年以降、上下の変動はあるが、おおむね、なだらか下降傾向にある。要するに、消費に影響する総所得が低下傾向にある。それでも実質GDPが上昇しているのは、外需が増えているからだ。
 つまりは、「外需による景気回復効果はあるが、内需はお寒い限り」ということ。私が何度も指摘したとおり。この傾向は、中期的にずっと続いている。
 ついでに言えば、ここ数日、「今春の賃上げはなし。ベアはなく、定昇もおぼつかない」という報道が出ている。となると、総所得はどんどん低下する一方で、総生産もどんどん低下する一方になりそうだ。


● ニュースと感想  (1月21日c)

 「定昇廃止」について。
 「定昇廃止」がときどき話題になる。一部の企業(たとえばキヤノン)は、「定昇を廃止する」という方針を掲げて、「年功給を廃止して、能力給にする」と主張している。しかし、これは、とんでもない詭弁である。
 定昇というのを誤解してはならない。経営者は「自動的な昇給」のことだと解釈しているが、とんでもないことだ。定昇というのは、年功給に応じた賃金傾斜システムである。若手は低く、年輩は高い。だから、同じ人間が年を取れば、それに応じて、給料は上がる。ただし、ここで上がるのは、「給料が増える」という意味ではなくて、「これまでは安く抑制されていたのが、抑制されなくなった」という意味だ。
 経営者が、「定昇を廃止する」とか「年功給を廃止して、能力給にする」とか言うのであれば、高齢者の給料を下げるだけでなく、若手の給料をいきなり大幅に上昇させるべきだ。ところが、現実には、「定昇を廃止するが、若手の給料をいきなり大幅に上昇させることはない」と決める。これは、「あとで昇給させますから、今は安く我慢していてね」と契約したあとで、その契約をホゴにすることに相当する。詐欺と同様だ。一種の契約違反であり、詐欺師か泥棒みたいなものだ。
 定昇というのは、「自動的な昇給」のことではない。定昇があっても、労働者全体が受け取る総額は増えない。総額が増えるのは、ベースアップ、つまり、ベアだ。ベアがない限り、賃上げはなされていないことになる。勘違いしないように。(経営者はだまそうとするけどね。ついでに言えば、マスコミも経営者の肩を持って、読者をだまそうとするけどね。)


● ニュースと感想  (1月22日)

 「デフレとスタグフレーション」について。
 最近、鉄・原油などの素材を中心に、企業物価が上昇傾向にある。それがそろそろ消費者物価に転じるようだ。ま、当り前だが。すると、これを見て、「デフレが終息しそうだ」と報道する新聞がある。(朝日・朝刊・経済面 2005-01-21 )
 「消費者物価が上昇するから、デフレが終息する(インフレ傾向になる)」という主張だ。頭悪いですね。デフレが終息するのではない。デフレがスタグフレーションに転じるだけだ。状況としては、良くなるのではなく、むしろ悪くなる。
 鉄・原油などの価格が上昇するということは、日本の富が外国に奪われるということだ。たとえば、100円のものが 105円に上がって、差額の5円が外国人に渡る。日本人は5円分の富を失う。
 ところが、「 100円のものが 105円に上がるなら、デフレが終息するわけだ。嬉しいな」と報道するのが、朝日だ。金を奪われて喜ぶ阿呆。狂気的である。
 
 本質的に考えよう。
 景気というものは、物価上昇率だけを見ればいいのではない。(朝日はここを勘違いしている。)何を見ればいいか? 所得だ。特に、実質所得だ。
 朝日はこの二つの違いを理解できない。「物価が上昇する」ということだけを見て、「インフレだ」と勘違いする。本当は、スタグフレーションなのだが。かくて、金を失えば失うほど、「儲かった、得をした」と喜ぶわけだ。狂気的。

 [ 付記1 ]
 参考のため、物価下落の場合を場合分けすれば、次の通り。
 景気悪化の初期には、前者が成立する。ただし、企業業績の悪化にともない、まもなく後者に移行する。前者が成立するのは、ごく短期間だけだ。(次のボーナスまで。通常、半年未満。)

 [ 付記2 ]
 朝日のために弁護しておけば、このような阿呆は朝日だけではない。一般に、マネタリストはみんなそうだ。彼らは所得を考えず、マネーだけを見て、物価上昇率だけに着目する。……ま、マネタリズムの発想では、インフレとスタグフレーションとを区別できないのは、当然だ。彼らは、ケインズ批判のときには、クラウディング・アウトという概念を持ちだして、インフレとスタグフレーションのことを考慮した。しかし、デフレという状況では、自らに批判の矢を向けることができないのだ。(根源的に言えば、デフレのときには、マネタリズムが無効になるから。)
( → 12月28日 デフレとスタグフレーションの話。)


● ニュースと感想  (1月22日b)

 「通貨危機の予防」について。

 記述が不適切だと思えるので、夕刻に削除しました。
 (削除の説明は、次項。1月22日c )

 ※ 書いてすぐにアップロードしたら、あとで間違いに気がついたわけ。
   やはり、書いてすぐにアップロードするのは、まずいですね。反省。


● ニュースと感想  (1月22日c)

 訂正。
 特に読む必要はありません。

 前項(すでに削除済み) の記述では、アジア通貨危機の時期を「1994年」としましたが、正しくは 1997年でした。お詫びして訂正します。
 また、FRBの金利上昇(1994年)と、アジア通貨危機(1997年)との関係は、かなり微妙です。
 どうも、話は簡単には片付きそうもないので、「アジア通貨危機」については、判断を保留しておきます。
 [ 参考 ]
 クルーグマンの予想した「アジア通貨危機」は、「アジアの成長を見込んで、米国からアジアに過剰な投資がなされているが、現実にはアジアの成長は、生産性の向上というより、ただの失業率低下にすぎないから、失業者が減れば、成長も見込めなくなる。先行きは甘くはない」というもの。
 現実に起こったのは、1995, 96年における「投資過剰」と、1997年における「投資流出」。この「投資流出」が、アジア通貨危機。
 この「投資流出」の引き金は、ドル高にともなう、各国の赤字拡大。(各国通貨がドルに連動していたせいで。)
 こうして見ると、各国の「固定相場制」が根本原因であったかもしれないが、変な投機的な思惑も問題であったようだ。
 いろいろ考えてみると、アジア通貨危機というのは、ちょっと一筋縄では行かない。純然たる経済現象というよりは、投機という心理的な思惑がかなり影響しているようだ。
 話は簡単には片付きそうもない。判断を保留しておきます。
( ※ 経済現象でなく、投機の現象だとすれば、説明するのは、あまり意味がないかも。)


● ニュースと感想  (1月23日)

 「燃料電池」について。
 燃料電池の研究開発が進んでいる。自動車用のものは、電力専用で、現在コストは数千万円。家庭用のものは、熱電併給(コジェネ)と称すべきもので、現在コストは数百万円。「だから、普及を促進するために、政府が莫大な補助金を出せ」という意見もある。(朝日・夕刊・特集記事 2005-01-15 ごろ。日付は失念。)
 一方、コストを下げるため、簡易燃料電池の発明というのもある。これは高校生によるもので、ある学生科学賞を受賞している。高価な白金やパラジウムやニッケルを使うのでコスト高になりがちだが、安価な材料を使う、という技術。(読売・朝刊・化学賞の特集記事。2005-01-19 )
 
 二つの記事をまとめるとわかるが、燃料電池のネックは、高価な白金やパラジウムやニッケルだ。これらが触媒や材料として使われるが、これらが高価であるせいで、なかなかコストダウンできない。燃料電池の主たる問題は、コストなのだが、ここがネックになっていて、なかなか実用化しにくい。
 これは、太陽電池の場合とは、大きく異なる。太陽電池の場合には、材料はシリコンという安価な材料だ。(タダ同然である。)ただ、シリコンを使って、効率の高い太陽電池に変えるための結晶(半結晶)技術が、なかなか開発されない。これは純然たる技術的な問題だ。
 燃料電池の場合は、技術というより材料の問題だ。白金やパラジウムやニッケルがシリコンみたいにタダ同然になれば、燃料電池はあっさり実用化されるかもしれないが、そうはならない。
 また、仮に、今すぐ大幅なコストダウンに成功したとしても、そのおかげで燃料電池が莫大に普及すれば、需要急増のせいで、白金やパラジウムやニッケルの価格が莫大に高騰するので、しょせんは、意味がない。
 だから、燃料電池の場合には、「技術の向上のために補助金を出す」という政策は、まったく意味がない。普及させれば普及させるほど、どんどんコストが上昇しかねないからだ。むしろ、何らかの画期的な技術(白金やパラジウムやニッケルを使わない技術)を開発するために、研究室レベルで基礎的な研究を実施するべきだろう。
 朝日の科学記事はやたらと、「環境技術の促進のために、莫大な補助金を出せ」と進言する。しかし、補助金なんかを出しても、莫大な費用がかかるばかりで、効果はほとんどない。技術開発に大切なのは、金ではなくて、知恵である。どんなに金を出しても、知恵がなければ、新たな技術は産まれない。
 補助金という政策は、消費者に金を渡すことだから、技術を産まない。技術開発という政策は、研究者に金を渡すことだから、技術を産む。── この違いを理解しよう。
 ただし、青色LEDの例を見ても、日本では、技術者がないがしろにされている。こういう技術者軽視の風土からは、新しい技術というものは生まれにくい。莫大な金を費やしても、血税をドブに捨てるだけの結果になるだろう。たとえば、太陽電池には、これまで莫大な補助金を費やしてきたが、補助金の効果はほとんどない。どうせなら、その金を風力発電の補助金に回していれば、よほど環境改善の効果があったのにね。

 [ 付記1 ]
 一般に、独り立ちできる寸前の技術に対する補助金は、有効だが、独り立ちできない卵状態の技術に対する補助金は、無効である。
 風力発電やハイブリッドに対する補助金は、数年前なら、十分に有効であった。ただし、これらの技術は、もはや独り立ちしているとも言える。(特にハイブリッドは、売れて売れて仕方がない状態だから、補助金のメリットはあまりない。)
 燃料電池や核融合技術は、どんなに莫大な補助金を出しても、短期的に実用化できる見込みは、まったくない。たとえ地球上の全部の金を使ったとしても、2年以内に実用化される可能性はゼロ同然である。
 ついでに言えば、コンピュータは有益だが、百年前なら、どんなに費用をかけても、コンピュータを開発することは不可能だった。何しろ、量子力学がわかっていなかったんだから、半導体技術以前の段階である。

 [ 付記2 ]
 私のヤマカンでは、燃料電池が実用化される(十分にコストが低下する)ことは、近い将来ではありえないと想像される。私の存命中では、たぶん無理だろう。百年前のコンピュータみたいなものである。
 十年前なら、燃料電池の研究は不十分だったから、「将来は何とかなるかも」と期待をもてた。しかし、今や十分に、燃料電池の研究がなされている。世界中で莫大な実験がなされているのに、高価な白金などをあまり使わないで発電できる方法は、ついぞ見つからなかった。たぶん、このあとものすごく実験を重ねても、見つからないだろう。
 ひょっとしたら、燃料電池は、永遠に実現しないかもしれない。その前に、別のものが実用化される可能性もある。それは「高機能蓄電池」だ。夜中に風力などで発電して、その電力を溜め込んで、昼間に自動車で使う。これだと、環境汚染がゼロで、燃料コストもほとんどゼロだ。高価な水素を使う燃料電池よりも、有利である。だいたい、燃料電池というのは、水素を燃やすから炭酸ガスを出さないと言われるが、水素を製造する段階では炭酸ガスを出すことがあるから、必ずしも環境に無害であるわけではない。原発を使えば別だが、原発は漸減傾向だ。
 ま、いずれにせよ、「燃料電池は理想的」なんていう甘い妄想はもたない方がいい。自動車会社はそういう甘い妄想を振りまくが、そんな妄想に染まって踊らされるのは、阿呆と朝日だけでたくさんだ。
( ※ なお、業界がそういう甘い妄想を振りまくのは、何とかして国の税金を食い物にしてやろうと虎視眈々で狙っているからだ。ふだんは「国の規制を排除せよ」と唱えるくせに、いざとなると国から補助金をかすめ取ろうとする。そういう二枚舌の連中が、企業だ。詐欺師にだまされるのは、お人好しと朝日だけでたくさんだ。)


● ニュースと感想  (1月23日b)

 「ソニーの携帯ゲーム機の欠陥」について。
 ソニーが携帯ゲーム機を新発売したが、これがトラブル続出の欠陥商品だという。電源が入らなかったり、操作ボタンが作動しなかったり、機器の動作中にディスクが勝手に飛び出してゲーム中止になったり。ひどいありさまで、インターネットでも話題になっているという。この機器に限らず、最近のソニー製品は、やたらと故障が多いという。(週刊ポスト 2005-01-17 発売号。)
 ふうむ。ソニーも落ちぶれたものだね。とはいえ、これは、ちっとも不思議ではない。ソニーの体質は、ここ数年で、すっかり変わってしまったからだ。昔は高品質の製品を生み出していたが、今のソニーは過去のブランドにあぐらをかくばかりだ。昔はひたすら技術を追求していたが、今はひたすら利益を追求するばかりだ。これでは、ユーザーにそっぽを向かれて赤字化するのも当然だし、粗悪な欠陥品ばかりを産むのも当然だ。なぜか? 「技術軽視」は「技術者軽視」の結果であるからだ。
 昔のソニーが技術的に優れていたのは、技術者を優遇していたからだ。技術音痴の管理職なんかはあまり口を出さないで、技術に詳しい技術者が先導して技術開発をした。しかし今のソニーは、やたらと管理職が口を出して、技術者を圧迫する。「社の方針」というのを最初に立てて、その方針に技術者を奴隷のごとく従わせるだけだ。威張っているのは、(たいていが文系の)管理職だけ。そして、その頂点にいるのが、出井社長だ。
 「この社長は駄目だな」というのは、就任時の私の印象だった。その印象は、今や、はっきりと実証されたことになる。私は結構人の目を見抜く力があるのかも。
 ま、私が「駄目だな」と思ったのは、「やたらと文系っぽくて、理系的な素養がまったくない」という印象からだったが、その印象は、やはり的中していたようだ。
 実際、私の加入している so-net も、ユーザ無視のひどいプロバイダだ。最低のプロバイダだね。(腐れ縁で、仕方なく続けているが。……ま、結婚みたいなものです。離婚するにはものすごいエネルギーが必要とされるので、簡単には離婚できない。ええと、この結婚の比喩は、私のことではありませんが。)
 
 ま、とにかく、「技術者を軽視する会社は駄目だ」ということ。理系の会社は、理系の人々を優遇するべきであり、文系の管理職ばかりが威張っているようでは駄目だ、ということ。経営というのは、経営者が従業員に命令することではなくて、経営者が従業員に奉仕することである。実際に働くのは従業員であり、その従業員がしっかりと働ける環境を整えるのが、経営者の仕事だ。
 こういう基本を理解しないようでは、まともな経営者になれない。そういうダメ経営者がいる会社の典型が、ソニーであるわけだ。
( ※ ここでは、技術者軽視を話題にしている。別に、ソニーの悪口を言いたいわけじゃありません。悪口は、別のところで言いました。 → 11月12日b

 [ 付記 ]
 ソニーの決算が報道された。利益が大幅に低下して、業績予想を大幅修正した。「ブランド神話に陰り」とも書かれている。(読売・朝刊・経済面 2005-01-21 )
 「過去のブランドにあぐらをかくばかりだ。昔はひたすら技術を追求していたが」とすぐ上で書いたのと同じ。過去のブランドに頼るから、今のブランドが劣悪化する。


● ニュースと感想  (1月24日)

 「燃料電池の話」について。
 前々項(前日分)で、燃料電池の話をした。 22日の午後に公開。すると、23日発行の朝日新聞・朝刊で、そっくり同趣旨で、燃料電池についての特集記事が出た。記事の内容はもちろん、前々項の通り。これは偶然でしょうかね?  (^^);
 ま、朝日がこれまでの「燃料電池礼賛」一本槍の素人報道をやめて、否定的な見解も掲載したのは、良いことだ。「これがよい、これにしろ」というふうに、ある方針を決めつけて世論を一方向にリードしようとすること(世論誘導)は、朝日の悪い癖だが、これまでの「燃料電池礼賛」もそうだった。今回、そういう世論誘導をやめて、多様な意見を報道して、物事には賛否両論がある(長所も短所もある)のだというのを示したことは、いいことだ。
 いまだ実現していない研究途上の課題には、長所も短所もある。その両方を客観的に報道することこそ、マスコミの使命だ。

 なお、今回の公正な報道をした朝日の記者は、東京本社の記者ではなく、ニューヨークの記者。東京本社の記者は、やはり、頭が偏向しているようだ。
 それにしても、ニューヨークでも「小泉の波立ち」が読めるとは、世の中、便利になりましたね。  (^^);

 [ 付記 ]
 燃料電池で書き落としたことがあるので、二つ、補足しておく。
  (1) 家庭用の燃料電池
 家庭用の燃料電池(コジェネ)というのは、はるかに遠い先の課題だ。たとえこれが実用化しても、大量に生じたお湯をうまく使える見通しがない。お風呂だけで使い切れるとは思えない。
 それよりは、集合住宅で、実現するべきだろう。たとえば、50軒のマンションで燃料電池を設置して、20軒分の発電し、50軒分のお湯を作る。これなら、お湯は全部使い切れる。また、電力需要の変動はなだらかになるから、発電の余りもなくなる。さらにまた、一度に50軒分を設置するから、コストは大幅に低下する。(1軒ずつだと、50個も設置するので、工事費などが大変だ。)
 燃料電池を開発するにしても、家庭用ではなく、集合住宅用を開発するべきだ。目標からして狂っているのではダメだ。「とりあえず小型のを開発して、あとは補助金で面倒を見てもらおう」なんてのは、さもしい根性である。小型のものは、研究レベルであって、実用レベルではないのだから、市場に出すべきではない。
( ※ 新築マンションの場合、別のメリットもある。お湯の給油タンクを作るコストがかからない、ということだ。なぜか? その分、水の給水タンクを減らせるからだ。お湯と水の使用量の合計は同じだから、お湯のタンクを作った分、水のタンクを減らせる。)
 (2) ハイブリッド
 ハイブリッド車が脚光を浴びているが、実は、純粋に燃費を考えると、ハイブリッドは特に優れているわけでもない。というのは、軽自動車にも、ハイブリッド車とほぼ同じくらい良好な燃費であるものもあるからだ。(少し劣るが。)
 ハイブリッド車は、けっこう価格が高い。二百万円を超える。一方、軽自動車だと、百万円ぐらいだ。パワーや居住性や安全性は劣るが、価格の安さは大きなメリットだ。安全性が気になるなら、リッターカーにすればいいだろう。これなら、ハイブリッド車に燃費はいくらか劣るが、他の面ではさして劣らないし、価格はずいぶん安い。
 だから、純粋に環境問題を考えるなら、「ハイブリッド車を普及させよう」なんて唱えるより、「燃費を馬鹿食いするRV車や大型車をやめて、リッターカーにしよう」と唱える方が、はるかに有効だ。
 ただし、おおかたの家庭用の車は、「ほとんど運転しない」状態にある。だったら、どっちみち、あまり変わらないだろう。タクシーや業務用社用車なら、たくさん走っているから、これらをハイブリッドにするのがいいだろう。
 とにかく、燃費などを気にするのなら、台数よりは、走行距離で決めるべきだ。単に多くの車で改善するべきなのではなくて、走っている多くの車で改善するべきだ。走っていない車で改善しても、あまり意味がない。(だから、単なる「補助金」というのは、あまりうまい手ではない。走っていない家庭用の車でハイブリッドが普及するだけかも。)


● ニュースと感想  (1月24日b)

 「携帯型の音楽再生機」について。
 iPod という携帯型の音楽再生機が話題になっている。これについての話が報道された。アップルの成功を見て、マイクロソフトが対抗する規格を出して、日本企業を含む世界各国の企業が採用した、という。アップルがハードとソフトの両方を押さえたのに対して、ハードは各メーカーで、ソフトはマイクロソフト、という構図。(読売・朝刊・経済面 2005-01-23 )
 「21世紀のウォークマン」とアップルは豪語しているということだが、これで哀れなのは、ソニーだろう。iPod と同種の製品は、ソニー内部でも開発されていたが、あえてお蔵入りにしたという。なぜなら、こういう製品が出ると、グループ内のソニー・ミュージックとかいう音楽会社の著作権が侵害されかねないから、という。
 ここでも、文系経営者の「利益優先主義」がアダになったことになる。目先の利益ばかりを追うから、せっかくの技術を出し惜しんで、市場全体を失う。馬鹿丸出し。(前日分のソニーの話を参照。)

 ま、ソニーの馬鹿さ加減は極端だが、日本の各メーカーの馬鹿さ加減も、五十歩百歩だ。マイクロソフトの規格を採用して、みんながマイクロソフトに従属する。なぜその規格を採用するかといえば、規格の特許使用料が極端に安いから。
 まったく、懲りないんですかね。MS-DOS がなぜ普及したか、忘れてしまったようだ。MS-DOS が普及したのは、初期のバージョンが無料だったからだ。で、各社が採用して、業界標準規格になったところで、新バージョンを高額の有償にする。かくて、マイクロソフトはボロ儲け。……で、M$ と揶揄される会社は、柳の下のドジョウの、二匹目を狙っているわけだ。あげく、各社は二の舞を食う。

 で、なんでまた各企業は、こういう馬鹿げたことをやるか? 根源を見ると、一つの事実にたどりつく。それは「技術者軽視」だ。電子機器の規格づくりなんてのは、本来なら、日本企業が得意にしていたはずだ。暗号技術だって、日本は世界最先端だった。ただし、これらの技術者は、いくら素晴らしい技術を発明しても、ちっとも報われなかった。技術者軽視。こんな馬鹿げたことをやっているんだったら、技術者には、意欲が湧かないですよね。
 ま、まともな才能のある人だったら、さっさとアメリカに渡って、アップルやマイクロソフトに入社して、独自の技術開発をして、アップルやマイクロソフトを大儲けさせてやるといいでしょう。すると、
   日本企業 → アップルやマイクロソフト → 社員
 という形で、社員にもお金が入ります。アップルやマイクロソフトは、仲介するだけで、ボロ儲け。
 だから、アップルやマイクロソフトがボロ儲けしても、それは、この二社がずる賢いからではない。日本企業がマヌケすぎるからだ。このマヌケさ加減は、何とかならないんでしょうかねえ。

 [ 余談 ]
 日本各社が出す iPod 対抗機の名称には、共通のブランドが付きます。 iPod に似た名称にすることにして、idiot という名称にします。(名は体を表す。  (^^); )( P をひっくり返すと d だから、けっこう似た名前だ。)

  【 追記 】 ( 2005-01-25 )
 どうでもいい話だが、細かな技術解説を加えておく。
 iPod の意義は、次の通りだ。
 (1) 「最初」というのは、日本国内ではなくて、世界(特に米国)で、最初であった、ということ。日本国内に限れば、アップルは他社に先行していない。ただし、日本市場は後回しだから、どうでもいい。
 (2) iPod は、ハードの技術が画期的だったのではなくて、商業的なシステムが他社よりちょっと先行しただけだ。(著作権問題の処理の仕方。) ここで、独自のソフト技術を使ったが、これ自体はただの技術規格だから、似たものは他社にもある。(たとえばMSやソニー。)
 (3) だから、iPod というのは、機器のことではなくて、機器と音楽配信システムを一体化した総合システムのことだ。で、この総合システムを他社に先行させたから、先行者利益として、アップルは莫大な利益を得た。一方、ソニーは、利益減少で青息吐息だ。(先日述べたとおり。)
 以上が、iPod の意義だ。ついでだが、アップルが大幅利益を出しているのは、機器の方である。肝心のネット配信の方は赤字。だから、日本では、ネット配信は他社に任せるらしい。もっと細かな事情はいろいろとあるようだが。
 なお、それとは別の話だが、歴史を述べておこう。開発の歴史では、アップルよりも、ソニーの方が先んじて、このシステムを研究していた。(さすがソニーですね。)しかし、理系の技術者が提案したシステムを、文系の経営者がにぎりつぶしてしまった。「そんなことをしたら、CDの売上げが減って、ソニーミュージックの利益が減ってしまうじゃないか」と。(これも報道済み。)
 本項で述べたいことは、「アップルは技術者を優遇していたから、優秀な技術が生まれた」ということではない。「ソニーは目先の利益を追うから、せっかく優秀な技術があっても、それを生かせなかった」ということだ。日頃、技術者を軽視しているから、いざというときにも、こういう馬鹿げた判断をする。(アップルのジョブズは正反対だ。彼は技術を重視する。……彼自身が優れた技術者だという意味ではなくて、技術を尊重できる経営者だということ。)
 ついでに言うと、idog という冗談みたいな名前の犬ロボット(ふうの情報オモチャ)が出た。週刊アスキーに出ている。 これも idiot に似た名前。idiot というのは、日本の経営者のことですね。……そういえば、日本の首相も、poti-dog だった。


● ニュースと感想  (1月24日c)

 「カモ類の化石」について。
 恐竜絶滅の前に、(新鳥類である)カモ類がすでに存在していた、ということが化石から判明した。(各紙・朝刊 2005-01-20 ,毎日新聞ページ
 このことの意義をよく理解できない人が多いようだろうから、解説しておこう。

 まず、新鳥類はいつから存在していたか? 実は、「恐竜絶滅以前から新鳥類は存在していた」ということは、とっくに判明している。(ヘスペルオルニスなど。)ただし、それらの新鳥類は、現生の新鳥類とは異なる「種」であるとされた。
 ところが、今回の化石からは、「種」のレベルでも、現生の新鳥類と同じものがいたのだ、とわかった。つまり、現生の新鳥類は、恐竜絶滅の時期を生き延びたことになる。これが、今回の発見の意義だ。
 換言すれば、(現生の種のような)多様な種に分岐したのが、恐竜絶滅の「後」ではなくて「前」だった、と判明したわけだ。
 要するに、もはや存在しないヘスペルオルニスなどが現生の新鳥類の祖先だと思われてきたのだが、実はそうではなくて、現生の新鳥類(特にカモ類)がそのころすでに存在していた、ということ。現生の新鳥類の祖先を捜すのならば、ヘスペルオルニスなどを見るのではなくて、もっと前の時期で探すべきだ、ということ。
( ※ では、現生の新鳥類の祖先は何か? 「走鳥類のようなもの[恐鳥類]だ」というのが私の説。)

 [ 付記1 ]
 なお、新鳥類のなかで、「小型鳥類 → 走鳥類」という順を否定するのは、今回の化石とは別の理由である。(具体的には、上記の毎日新聞のページに書いてある。つまり、DNAによって、「走鳥類 → 小型鳥類」という順がわかること。)

 [ 付記2 ]
 今回の化石の発見で、私の説も、いくらか修正を受ける。つまり、「小型鳥類は、恐竜絶滅期にいったん滅びて、走鳥類だけが生き延びた」という点だ。実際には、走鳥類だけでなく、小型鳥類も生き延びたことになる。そこで、この形に、修正しておこう。
( ※ この修正は、分岐の時期の修正だけだ。小型鳥類の分岐が、恐竜絶滅の「前」か「後」かという違い。話の大筋は変わらない。)

 [ 付記3 ]
 新たに私の推定を書くと、鳥類(新鳥類)の誕生は、白亜紀中期である。白亜紀前期に、いわゆる「鳥類の祖先」と言われる恐竜が存在していたことがわかっているが、白亜紀中期には走鳥類が誕生していたはずだ。理由は省略。その後、白亜紀中期か後期に、小型鳥類が分岐したことになる。

 [ 付記4 ]
 今回の発見は、かなり意義が大きい。というのは、[ 付記3 ]の推定が成立することで、鳥の進化について、すべては矛盾なく説明されるからだ。
 仮に、恐竜絶滅後にカモ類が登場した(白亜紀後期にカモ類はいなかった)とすると、次の二つのいずれかとなる。
  ・ 白亜紀後期に、走鳥類が出現した
  ・ 白亜紀後期に、走鳥類はほとんど進化しなかった
 そのいずれも、不自然である。(理由は省略。)というわけで、この二つを否定して、「恐竜絶滅前にカモ類が登場した」と考えると、「走鳥類 → 小型鳥類」という順で、すべてが矛盾なく説明される。(詳細は省略。)


● ニュースと感想  (1月25日)

 「市場主義と技術革新」について。
 日本経済をどうすればいいか? それに答えて、こういう主張がある。(読売・朝刊・1面コラム 2005-01-22 )
 「経済を成長させるのは、技術革新である。そのためには、市場原理が大切だ。小さな政府にして、大きな民間にする。かつ、市場を開放する。そうすれば、一人の天才より、多くの凡人の努力で、技術革新がどんどん進む」
 これは政府にも大きな影響のある、有名な東大教授(伊藤元重)の主張。情けないね。こんなことを主張するなんて。(掲載する新聞もどうかしているが。)

 (1) 陳腐
 こんな「市場原理至上主義」なんていうのは、1世紀以上も前から言われているアダム・スミスの主張とまったく同じだ。新味はないし、誰でも知っている。「市場原理」にするだけで、自然に経済は最適化する、という、単純素朴な主張。こんな作文を書いて済ませるのだったら、そこらの小学生にでも作文してもらえば良かったのだ。そこらの小学生だって、もうちょっとまともなことを書ける人がいる。(小学生の作文コンクールでも開けばよい。どっちみち、知識は同程度だ。)

 (2) 不成立
 こんな「市場原理至上主義」では片付かないことは、現実によって実証されている。「市場原理」なんてのは、どの途上国でも、あるいは、アフリカの原始的な社会でも、あるいは、初期の物々交換の時代や貝殻貨幣のころにも、実現していた。しかしそんなことでは、技術革新は進まなかった。技術革新と市場原理は、まったく別のことである。
 市場原理は「劣者の排除」を意味する。技術革新は「優者の誕生」を意味する。両者は、まったく別のことである。前者をいくら実施しても、後者をやったことにはならない。
( ※ 進化論の知識を使うとわかる。)

 (3) 経済と経営
 経済と経営の分野をちゃんと理解しよう。
   ・ 市場の規模の調整  …… マクロ経済学
   ・ 市場内部の最適配分 …… ミクロ経済学
   ・ 個別企業の経営方針 …… 経営
 このうち、技術革新をするのは、個別企業であるから、経営の問題だ。古典派がいくら「市場原理」や「市場の最適化」を主張しても、それはミクロの問題であって、経営の問題ではない。トンチンカン。

 (4) 経営と技術革新
 では経営は、技術革新のために、どうすればいいか? 簡単だ。
 第1に、「多数の凡人」が大事だと思うのなら、一人の天才を冷遇して、多数の凡人を優遇すればよい。そういう企業に、凡人が集まり、天才は逃げ出す。(下らない特許を量産できる。)
 第2に、「一人の天才」が大事だと思えば、天才を優遇すればよい。そういう企業に、天才は集まる。(画期的な特許が生じる。)
 要するに、論者は、第1に道を取ることで、「技術革新をするには、下らない特許を量産せよ」と主張しているわけだ。ま、そうしたければ、そうすればいい。で、肝心な重要な特許は、アメリカの企業から購入するのだろう。あるいは、そのうち成長した韓国の企業(サムスン)から、特許を購入するのだろう。
 つまり、日本が技術革新をするには、「米国や韓国の配下に成り下がって、素晴らしい技術革新をした米国や韓国から、特許の使用権を購入すればいい」というわけだ。

 [ 付記1 ]
 実は、冒頭の論者は、自己矛盾を犯している。
 一方では、「各人は自己の利益をめざして行動する」と考える。(「市場原理」)
 他方では、「各人は自己の利益を放棄して、無償奉仕をめざして行動する」と考える。これは、「独創的技術者の冷遇」という形で現れるが、その根っこには、「全員平等」という発想がある。つまりは、日本伝統の集団主義のように見えて、その実は、共産主義だ。
 冒頭の学者も、多くの企業の経営者も、独創的技術者に対しては、「平等主義」「共産主義」を唱えて、市場原理の根幹である「働きに応じた報酬」または「商品に応じた価格」を全否定しているのだ。ここでは、「市場原理」のかわりに「価格統制」(賃金統制)が主張されている。共産主義そのものだ。
 凡人優遇による、企業の凡企業化。これが東大教授の提示する案であり、同時に、日本の企業のほとんどが実行中の方針だ。日本風「市場原理」。馬鹿げているね。
( → 前々日の「ソニーの技術者軽視」の話。 1月14日 青色LED訴訟の話。)

 [ 付記2 ]
 馬鹿げている、と思ったが、よく考えると、きわめて優れた案であるかもしれない。なぜか? 天才が優遇されると、こういう凡庸な経済学者は、追放されてしまう。一方、凡人が優遇されると、こういう凡庸な経済学者は、東大教授でいられるし、政府でも威張っていられる。── つまり、国を滅ぼしても、凡庸な自分だけは得をする、というシステム。それが日本風「市場原理」だ。
 日本風「市場原理」ってのは、「悪貨は良貨を駆逐する」というシステムだ。悪貨のごとき無能な経済学者にとっては、最適のシステムである。それを提示するとは、この学者、なかなか頭のいい凡人だ。
 「凡人を優遇せよ」と言う凡人は、「利口を優遇せよ」と言う利口と、同じぐらい賢いのかも。(本人にとってはね。国にとってはともかく。)

 [ 付記3 ]
 「利口を優遇せよ」と私が主張すると、凡人が「オレは利口じゃないし、関係ないもんね。ふん」とすねるかもしれない。しかし、さにあらず。凡人にも、大いに関係がある。
 「利口が得をすると、その分、凡人は損をする」と思うかもしれない。しかし、それは古典派の発想だ。つまり「全体量を一定だと仮定して、配分だけを考慮する」という発想だ。現実には、異なる。
 「利口を優遇する」という会社には、利口が集まるから、会社全体の利益が増える。すると、凡人もおこぼれをもらえて、給料が良くなる。逆に、「利口を冷遇する」という会社には、利口が集まらないから、会社全体の利益が減る。すると、凡人はおこぼれをもらえないから、給料が良くならない。
 これを知るには、現実の各社を比べると、よくわかる。一流の大企業にも、優秀な社員と、ダメな社員がいる。優秀な社員は、他人の何倍も働くが、給料はちょっと良くなるだけだ。しかし、ダメな社員は、ろくに働かない無能であるのに、一流の大企業にいるおかげで、世間よりもずっと良い給料をもらえる。……要するに、利口の集まる環境では、凡人社員も得をする、ということだ。
 だから、あなたが「働かないで金を得たい」と思うのであれば、無能なあなたのかわりに、優秀な人間をどんどん引き込めばよい。たとえば、中村修二みたいな人間を5億円ぐらいの年収で引き込めばよい。そうすると、彼はあなたの何十倍もの給料を得るが、彼が会社に莫大な利益をもたらしてくれるので、あなたの給料も何パーセントか上がる。(ろくに働かなくても昇給するわけだ。)
 逆に、冒頭の経済学者みたいな口先男が入社すると、「いくら成果を挙げても給料は上がりませんよ」と口先でペラペラしゃべって、利口な社員の士気をおおいに下げるので、会社の利益が低下して、あなたの給料は何パーセントか下がる。

 [ 参考 ]
 週刊ポストの最新号(24日に発売)に、中村修二の長文インタビューが掲載されている。「普通なら『獲得利益の5%』になるはずなのに、そうすると巨額になるから、『他社へのライセンス料の5%』にしてしまっている。つまり、払う額を先に決めて、そのために無理な理屈を後付けで提示している」という趣旨。
 なるほど。裁判所の論旨は、メチャクチャですね。企業が他社にライセンスしない場合(ライセンス料を得ない場合)には、技術者に払う金はゼロ、ということになる。だったら最初から「ゼロ」と言えばいいのにね。
 もっとも、日亜は最初から「ゼロ」と言っている。だから裁判所は、勝手に変な理屈をつくりあげないで、日亜の「ゼロ」か、中村側の「巨額」かの、どっちかにすればいいのだ。
 日本の裁判官は、ひどい屁理屈屋だ。「三百代言」という言葉がぴったり。このままだと、国が滅びますね。(ま、実際、国が滅びかけているが。サムスンは大儲けで、日本は不況。)


● ニュースと感想  (1月26日)

 「銀行預金のスキミング犯罪と市場原理」について。
 銀行の預金カードの暗証番号を盗んで、預金をごっそり盗む、というスキミング犯罪がある。私も7月20日b に話題にしたが、最近、新聞でも話題になっている。「けっこうなことだ」と思っていたが、例によって、朝日の社説が変なことを書いている。「何とか対策せよ」と唱えたついでに、「法律やルールの制定を待たずに、銀行ができることも少なくない」という主張。(朝日・朝刊・社説 2005-01-24 )
 これは「規制よりも市場原理」という「市場原理」至上主義だ。で、その結果が、多くの人の泣き寝入りだ。銀行の怠慢のせいで、数千万円を奪われても、泣き寝入り。1年以上前から言われていても、銀行は何もしない。なぜ? 裁判に訴えられる恐れがないからだ。なぜなら、被害者は、金をなくしたので、裁判を起こせないからだ。……堂々たる悪漢ぶりだ。
 朝日は「ああしろ、こうしろ」と特殊な対策を提案している。(生体認証システムなど。)しかし、そんな特殊な対策は必要ない。次の二つだけで当面は済む。
  ・ 被害者の被害届を、夜間でも受け付ける。
  ・ 夜間の異常な巨額引き出しを不可能にする。
 これなら、簡単だ。前者は、夜間に社員を勤務させるだけ。後者はソフトをちょっと訂正するだけ。すぐにもできる。しかし、銀行は何もしない。夜間に被害届を出そうとすると、「営業時間外です」という録音テープが聞こえるだけ。夜間に何十箇所もある預金支払機をあちこちで転々として20万円ずつ引き出す、という異常な行動があっても、チェックせずに、素直にあっさり支払う。……これじゃ、銀行もグルですね。
 で、こういう銀行の自分勝手を放置するのが、「市場原理」至上主義だ。何でもかんでも「規制緩和」「自由放任」と言って、経済犯罪の自由を容認する。
 「市場原理」至上主義とは、こういうものだ。経済テロの思想的基盤である。これを信じるのは、ずる賢い犯罪者と、怠惰な銀行と、経団連という経済マフィアと、狂気的な経済学者だ。そして、それらすべての悪漢どもを支援するのが、朝日新聞だ。
 こういう新聞社は、マフィアを支援する悪徳弁護士と同様だ。「犯罪者にも自由と権利はある」と言って、犯罪者をしきりに弁護する。犯罪者の自由を弁護するために、一般市民の自由と財産と生命を奪い取る。こういうのは悪徳なのだが、「自由」という概念に洗脳されているので、犯罪者の悪徳を正当視する。……ここには、倫理観がない。しかし、それ以前に、人間的な愛がない。愛がないから、「自由」という名目でどんなにひどいことを主張しても、自分で気づけないのだ。人間性の喪失。

 [ 付記1 ]
 読売新聞では、スキミング対策の方法として、私の主張と同趣旨の提案がなされていた。(読売・社会面 2005-01-24 ) ま、いずれにせよ、常識的な提案ですね。いちいち私が提案するまでもなく、まともな頭があれば、誰もが同様の提案をできる。
 ただし、「自由」という概念に洗脳されていると、こういう常識的なことを理解できない。「自由」を絶対視すると、常識をなくし、愛をなくす。……本項で主張したいのは、そういうことだ。(スキミング対策が主眼ではない。この話は、例である。)

 [ 付記2 ]
 念のため、「自由」を絶対視する経済学者のために、解説しておこう。
 「自由は大事だ、規制はすべきでない」
 という主張は、それ自体は、間違っていない。ただし、そこには、暗黙の前提がある。それは、
 「適正なルールを守れば」
 ということだ。ここで、ルールは天下り的に固定されたものではないし、また、「少なければ少ないほどいい」(小さな政府主義・規制緩和主義)というものでもない。仮に、そんな説が成立するとしたら、原始的な無秩序社会が最適だ、ということになる。(中世欧州の、犯罪野放しの社会など。略奪や強姦のやり放題。無政府社会。)
 だから、正解は、「適正なルールを作ること」である。社会の状況が変化すれば、その変化に応じて、ルールも改める必要がある。公害が出れば、公害対策。スキミングが出れば、スキミング対策。常に適正なルールが必要だ。それを定めるために、政府と立法府がある。
 政府と立法府は、国民や企業を統制するためにあるのではなく、犯罪者を統制するためにある。ところが、馬鹿な新聞社と馬鹿な企業は、ここを勘違いして、「自由は多ければ多いほどいい」と主張して、「犯罪者にも自由を与えよ」と主張する。
 「一定の規制は必要だ」という暗黙の前提がある。なのに、そのことに気づかないから、彼らは「自由至上主義」を唱えて、国民生活を破壊するのだ。(現在の不況も、その根っこは同じ。)

 [ 余談 ]
 小説を読んでいたら、「生体認証システム」を悪用する例が出ていた。システムを通過するために、当人を殺して、目玉をえぐり取ったり、指をちょん切って指紋を頂戴したり。……「生体認証システム」なんてものがなければ、この人たちは殺されなかったのにね。
 「生体認証システム」って、いやですねえ。気持ち悪い。実は、「死体認証システム」になっているんですけどね。
( ※ じゃ、どういうのがいいか? 私だったら、「意思認証システム」にしますけどね。ただし、使いやすいパスワードという方法もある。 → 2月15日


● ニュースと感想  (1月26日b)

 「景気診断」について。
 昨年の百貨店とスーパーの売上高が判明した。どちらも前年比マイナス。百貨店は 2.8%減。スーパーは 3.5%減。(いずれも既存店ベースで。)これを見て、「個人消費はまだ回復しない」というのが、記事の判断。(朝日および読売の朝刊・経済面 2005-01-25 )

 コメントしておこう。
 第1に、解説が不足する。「需要の大半を占める個人消費こそ、景気回復の大切だ」ということ。企業は、業績を改善しても、投資を増やさない。「企業業績の改善で景気回復」というシナリオは整理立しないので、個人消費こそ大切だ、とはっきり解説する必要がある。(気の抜けたビールみたいな記事だ。味がしない。)
 第2に、個人消費について「まだ回復しない」というのは、間違った表現だ。これではまるで、「いつか回復するはずだ」ということを前提しているようだ。馬鹿げている。次の[補説]でまとめて解説する。

 [ 補説 ]
 何度も述べたが、所得の拡大なしに、消費は拡大しない。
 なるほど、景気悪化の直後ならば、所得は維持されたまま、消費だけが減る。この場合、人々の消費意欲が向上すれば、消費は増える。
 しかし、景気悪化が長く続けば、所得は減る。この場合、人々の消費意欲が向上しても、消費は増えない。手元に金がないからだ。
  ・ 前者では、「平均消費性向」の低下によって消費が減る。
  ・ 後者では、「所得」の低下によって消費が減る。
 この二つは、別のケースである。はっきりと区別する必要がある。前者の場合ならば、「まだ回復しない」という表現は成立するが、後者の場合には「まだ回復しない」という表現は成立しない。なぜか? 消費が増えるとしたら、「回復した」からではなくて、単純に「増えた」からだ。それは「所得以上に消費する」という過剰消費があったからだ。
 過剰消費が起こるということは、元に戻ることではないし、普通のことでもない。きわめて特殊な(異常な)ことである。そういうことが「いつかあるはずだ」と信じるのは、馬鹿げている。
 要するに、「まだ個人消費が回復しない」という表現は、「まだ天が落ちてこない」という表現と同様で、無意味なのである。とうていありえないことを、「まだかまだか」と待つのは、狂人だけだ。
 そして、それが、今の新聞記事だ。まったく、読者をだますことばかり考えている、嘘つき連中。政府とつるんで、国民をたぶらかし、「このままでいつか良くなるさ」と嘘の期待ばかりを持たせる。そのことで、現政権を維持させ、かつ、国家経済を地獄に落とす。政府とマスコミはつるんで、肩を組んで、国民を地獄に蹴落とす。
 マスコミの使命は本来、真実の報道である。しかし今のマスコミのやっているのは、真実の報道ではない。真実を隠蔽して、虚偽をふりまくことだ。

 [ 付記 ]
 同じ日の読売の紙面では、「個人所得に課税」という大幅増税の記事が出ている。本来なら所得増加のために減税が必要なのに、逆のことを政府やらろうとしている。なのに、それを、指摘できない。マクロ音痴は、かくも無理解だ。
 実際、読売は、普段から社として、「消費税増税」を支持している。不況のさなかの増税という狂気の政策。いわば「百円の金で、二百円分のものを得よ」という主張。病気のときに薬代(減税)に金を回すべきなのに、「薬もほしいが、借金返済もする」というふうに、二兎を追うことを主張する。「百円の金では、二百円分のものを得られません」というふうに、小学生から教わるべし。
( → 1月17日 「二兎を追え」という主張。)


● ニュースと感想  (1月27日)

 「プリペイドカードの規制」について。
 プリペイドカードの規制策がまとまった。ただし、実効性は、不十分らしい。根絶はとうてい不可能であるようだ。というわけで、プリペイドカードを利用した詐欺や犯罪は、なくならないらしい。(朝日・夕刊・1面 2005-01-25 )
 これもまた「自由経済こそ素晴らしい」という主張を逆手に取った、「犯罪の自由」である。
 で、これを解決するのは簡単で、本人確認をしっかりやればよい。本人確認をしっかりやるには、そのための情報システムがあればいい。つまり、IDカードだ。これとID口座( → 2月28日b )を併用すれば、十分な実効性がある。
 ただし、こういうのは、「規制強化」にあたる。で、古典派が「規制強化は反対。規制はむしろ緩和すべし」と主張する。かくて、犯罪者天国となるわけだ。
 犯罪者は情報機器を上手に利用するが、政府は情報機器をまともに利用しない。それというのも、古典派経済学者が反対するから。なぜ? ……ううむ、たぶん、古典派だからでしょう。頭が 19世紀のままで古いから、情報機器をちゃんと使えないわけ。  (^^);

 [ 付記 ]
 詐欺の手口も、だんだん手が込んできたようだ。気をつけていても、ついつい引っかかってしまいそうな、巧妙な手口まで出てきた。( → がんばれ!ゲイツ君
 ふうむ。犯罪者ってのは、「自由経済」を実にうまく使いますねえ。経済学者の頭が犯罪者に追いつけるのは、いつのことになるのだろう? たぶん、時代遅れの古典派が退場したときだろう。ただし、それは、「経済学が正しくなったとき」と同じだから、あと1世紀はかかるかも。何しろ、地動説が出てから、天動説が普及するまで、長い時間がかかったんだから。
 後世の人々は、情報詐欺を規制できない愚かなわれわれを、猿並みの知恵だと嘲るだろう。「自由放任ですべてが済む? そんなことを信じるとは、まさしく猿知恵!」と。
 なお、政府が猿でなければ、情報犯罪を根絶できます。たとえば、迷惑メールや詐欺メールを根絶できます。( → 8月30日 の「罰金」)……とはいえ、現実には、そうなっていない。なぜ? だって猿なんだもん。
 実際、猿知恵でも、東大教授になれる。( → 1月25日

 [ 余談 ]
 それとは別の話だが、最近、迷惑メールがホントにうるさいですねえ。「『広告』という文句を入れろ」という法律ができても、そんな法律を守らない業者が多すぎる。ま、ザル法だから、当然ですけど。サルの作った法律だから、ザル法なのか。業者が悪いというより、取り締まらない政府が悪いんですけどねえ。なんとかしてくれませんかねえ。


● ニュースと感想  (1月27日b)

 「ストックオプション課税」について。
 ストップオプションの課税が変更された。一時所得から給与所得へ。税率は2倍。これが裁判で係争されていたが、最高裁で確定した。(各紙・朝刊 2005-01-26 )
 これを読んで雑感。
 「こういう課税法では、ベンチャー事業が不利だ」なんていう報道もあった。(朝日・同日)
 ま、一理あるようにも思える。ストックオプションには事業成功に対する「成功報酬」という性格があるからだ。
 しかし、よく考えれば、そんなことはあるまい。なぜなら、一時所得でも給与所得でも、課税総額はたいして変わらないからだ。
 一時所得に比べ、給与所得だと、社員の税率は2倍になるが、会社側は給与を費用として計上できるので、その分、利益を圧縮できる。その分、法人税が減額される。
 たとえば、ストックオプションで千万円の場合。
  ・ 一時所得 …… 社員に 2百万円の課税
  ・ 給与所得 …… 社員に 4百万円の課税。企業に3百万円の減税
 これだったら、給与所得の方が、支払い税額の総額は減る。となると、給与所得にしたって、別に問題はないし、かえって有利かもしれない。(ただし、国にとっては減収なので、国にとっては不利だが。)
 これだったら、給与所得にしたって、別に問題はない。その分、最初のストックオプションの額を増やしていけばいいだけだ。たとえば、千万円のかわりに千三百万円にしておく。(社員は増えた三百万円で税を払う。企業は千三百万円に対してまるまる費用計上ができるから、納税額が四百万円ぐらい減る。ただし国は、税収が差し引き百万円減る。)
 ただし、そのためには、「あらかじめ課税法の変更を知っておくこと」(周知期間があること)が必要だ。となると、問題は、「あるとき急に課税法を変更すること」だ。国民に周知期間を与えないで、勝手にあるとき急に課税法を変更するのでは、国民生活が成り立たなくなる。……ここが問題の本質だろう。
( ※ ただし、こういうふうに国が勝手なことをやると、国は得をする。社員に対しては「給与所得だから高額納税せよ」と言い、企業に対しては「給与所得じゃない[配当である]から費用計上を認めない」と言う。二枚舌を使うわけだ。二重課税みたいなものですね。)

 [ 付記 ]
 それとは別の感想。
 真面目に働いて得た所得と、一時の偶然の所得とで、前者の税率が2倍。一方、贈与税だと、とても高い税率。……直感的には、納得できませんねえ。
 もしかして、日本では、労働は罪悪なのだろうか? 


● ニュースと感想  (1月27日c)

 「科学教育」について。
 科学教育について、朝日の特集記事があった。そこで、識者の意見として、興味深いことが書いてある。「天動説と地動説は、説としては、どちらも成立する。どちらの説が正しいかは、ニュートン力学や天体現象を観測して判明する。だから、地動説が正しいという知識だけ教えても、仕方ない」と。(朝日・朝刊・特集面 2005-01-25 )
 これはなかなか良い指摘である。たしかに、その通りだ。知識だけ与えても、仕方ない。かくて、「何をしてはいけないか」はわかった。

 では、何をすればいいか? とりあえず、「どちらの説も成立する」ということを教えればいいだろう。つまり、次の二つだ。
   ・ 地球を中心として星が回転する。(そう見える。)
   ・ 地球自体が自転している。(「自転」という概念が必要。)
 後者では、「自転」という概念を教えることになる。これを教えることで、「二つの味方がともに一応成立する」ということを教える。実際にはどちらか一方だけが正しいが、どちらが正しいかを教える必要はない。(検証はまた別のことだ。)

 こういうふうに教えると、次の教育効果がある。
   ・ 物事には複数の説明が可能だ。
   ・ 複数の説明のうち、どれが正しいかは、検証によって決まる。
 これこそ、「科学的態度」と呼ぶべきであろう。

 さて。現実には、どうか? 「教科書の知識を詰め込む」ということばかりを、やたらとやっている。これでは、昔の教会主導の「天動説」のころとほとんど変わらない。教える内容が違うだけで、教え方そのものは非科学的だ。事実との照合なしに、単に天下りに知識を記憶させている。

 [ 付記 ]
 実を言うと、経済学も、同様である。── 事実との照合なしに、単に天下りに知識を記憶させている。特に、「神の見えざる手」または「市場原理」という知識だ。この知識だけを教条的に信じて、押しつけている。
 いやですねえ。古典派って。「神(の手)はすばらしい」という宗教をやたらと押しつけるばかり。
    古典派経済学 = 天動説
 という等式が、比喩的に成立しそうだ。現代は何とまあ、非科学的な時代だろう。


● ニュースと感想  (1月28日)

 「市場原理と進化の袋小路」について。
 駅前商店街が空洞化して、郊外型の大店舗が繁栄している。これを当然視する解釈もある。(「状況の変化に応じて、栄枯盛衰があっただけだ。ただの市場原理だ」と。)しかし、こういう現状には問題がある。郊外型の店舗は、自動車で訪れることを前提としている。自動車を運転しない高齢者には訪れにくい。今はそれでいいとしても、やがて、人々が高齢化して、若い人は都会に出て行く。残ったのは高齢者ばかりだが、高齢者は郊外型の店舗には行けない。一方で、駅前商店街は、すでにない。だから、結局、市場原理でうまく行くとは限らない。行政の積極的な都市計画が必要だ。── という主張があった。(朝日・夕刊・株式面・コラム・経済気象台 2005-01-26 )
 これは卓抜な意見である。ここ数日の私の「市場原理」至上主義への批判と軌を一にする。

 さて。このことについて、私なりに、数学的( or モデル的)に説明しよう。すると、このことは、「進化の袋小路」という概念で説明できる。
 そもそも、「市場原理」というのは、「局所的に最適化すると、全体状況でも最適化する」ということだ。つまりは、「小進化の蓄積で大進化になる」ということだ。ま、それで、うまく行くこともある。しかし、そういうことをやっていると、状況が大きく変動したときに、うまく状況の変動に適応できなくなる。それが「進化の袋小路」だ。
 たとえば、恐竜だ。そのときの環境において「大型化」というのが最適化だったから、ハ虫類としてどんどん大型化していった。ところが、気候が温暖から寒冷に大きく変動すると、その新たな寒冷という状況にうまく適応できなかった。今さら少しずつ変化しようとしても、一挙に変化することはできない。かくて、「進化の袋小路」にはまって、絶滅した。
 郊外型の店舗も、同様だ。どんどん巨大化していくが、やがては「寒冷」ならぬ「高齢化」という環境変化に適応できなくなる。そのときになって、あわてて姿を変えようとしても、巨大施設は今さら一挙に変動させられない。かくて、滅亡する。あとには、恐竜の骨のように、巨大な建物の残骸だけが残る。

 要するに、「市場原理で最適化」というのは、必ずしもうまく行くわけではない、ということが、数学的・モデル的にも、ちゃんと説明できるわけだ。
 逆に言えば、古典派の信じることは、標準的な場合に成立するだけであって、あまりにも単純素朴すぎるわけだ。単細胞と言ってもいい。たとえて言えば、「数にはプラスの数がある」とだけ信じて、「マイナスの数もある」ということを理解できないわけ。数学音痴。それが、古典派。

 [ 付記 ]
 郊外型店舗の繁栄は、市場原理・自由放任で片付くだろう。ただし、駅前商店街の空洞化という問題は、市場原理・自由放任では片付づかない。実は、駅前商店街は、「進化の袋小路」にはまってしまっているのだ。過去の「市場原理・自由放任」のなれのはてである。
 ここでは、各店舗が一つずつ競争して変動すればいいのではなくて、全店舗がそろって変動する必要がある。となると、「都市開発」という形の計画性が必要だろう。
 しょせん、一軒一軒は、小規模な零細店舗であることが多い。こうなると、共倒れだ。店舗の大規模化や、人件費の削減。こういう形で、駅前に高機能な店舗が出現すれば、郊外型の店舗に対抗できる。単機能専門店舗に替わる、総合商店街だ。価格は高くても、付加価値がある。
 一般に、「都市開発」という計画性は大切だ。建築分野では、「自由」と「無秩序」はほとんど同義である。(建築家はそれを理解している。経済学者よりもはるかに賢いので。)


● ニュースと感想  (1月28日b)

 「ドラフト改革と職業選択の自由」について。
 ドラフト改革で、ウェーバー制(下位球団からの指名)という案が浮かんでいるが、巨人などからの反対意見がある。これについて、細かな話を四つ。
( ※ なお、本項で大事なのは、最後のあたりの[付記2]だけだ。「職業選択の自由」の話。)

 (1) 企業努力
 「企業努力が大事」という主張については、「共存こそ大事」と断じていいだろう。たとえば、米国のバスケットボールでは、ウェーバー制のおかげで、毎年、優勝争いが変わって、白熱して、とても人気がある。一方、上位と下位との戦力差が大きい日本のパリーグは、ちっとも人気がない。でもって「赤字で困った」と嘆いている。自分で赤字にしておいて、「赤字で困った」だって。( → 12月31日 過激な改革案 )

 (2) 選手の意思
 「選手の意思」という問題については、ウェーバー制そのものを廃止するのではなくて、制度を改良すればいいだろう。たとえば、下位球団ほど、契約金を高くして良い。例を示すと、ウェーバー制の1位は 3億円。2位は2億5千万円。3位は2億2千万円……というふうに。これなら、納得できますよね。たとえば、「楽天に入って3億円もらうのと、巨人に入って1億5千万円もらうのと、どっちがいいかな?」と。

 (3) 財政事情
 上の (2) に関して、3億円も払いたくないというチームは、ドラフト1位の権利を返上すればよい。1位のかわりに6位あたりを選べばよい。他のチームが喜んで権利の交換に応じるだろう。だけど、どうせなら、ドラフトを全部辞退した方が、費用の節約ができます。(古典派経済学者の主張しそうな案。)

 (4) 分離実施
 どうしても巨人が反対なら、パリーグだけで分離実施(先行実施)してもよい。セリーグでは早々と優勝が決まったあと、パリーグでは毎年白熱した優勝争いがなされるとなれば、パリーグの人気が高まるだろう。(だけど昨年のようなプレーオフ制度だと、年間優勝をしてもは何の意味もないから、こっちを廃止する方が先だと思うんですけどね。 ( → 10月19日

 [ 付記1 ]
 「ウェーバー制にすると、選手がみんなアメリカの大リーグに行ってしまう」という懸念がある。しかし、これは、ありえない。
 まず、ウェーバー制にすれば、どの球団も同じようになるのだから、「好きな球団」なんてものが、あまり意味をもたなくなる。巨人・阪神以外の球団は、どれも、似たり寄ったりだろう。
 また、「巨人・阪神以外の球団はいやだ」なんていう説が成立するとしたら、元もと、今のプロ野球は成立していないはずだ。何しろこの2チーム以外の 10チームには選手がいないんですから。  (^^);
 現実には、選手は、アメリカよりも日本にいたがる。例の一場選手だって、「最低球団の楽天の方が、大リーグよりもいい」と判断した。ま、常識ですね。少なくとも新人選手に関する限り、アメリカのマイナーと日本の2軍とを比べると、前者は地獄、後者は天国である。マイナーの選手は、オンボロアパートで暮らして、ハンバーガーを食べて、オンボロバスにゆられて長距離移動する。日本の2軍の選手は、球団の立派な無料の寮に住み、シェフの料理した美食が食べ放題で、新幹線で移動する。……だから、「新人でデビューして、いきなり大リーグの一流選手」という自信がなければ、日本の方がずっといい。

 [ 付記2 ]
 「職業選択の自由」についても述べておこう。
 (2) の「選手の意思」に関して、「好きなチームに行けないのは、選手の職業選択の自由を侵す」という主張がある。巨人がそう主張している。しかし、これは、「自由」という言葉の意味を勘違いしている。
 「職業選択の自由」とは、「好きな職業に就ける」という意味ではなく、「嫌いな職業には無理やり就かなくてよい」という意味だ。たとえば、次の希望は、(実力がなければ)叶えられない。
  ・ プロ野球選手になりたい
  ・ 小説家になりたい
  ・ 画家になりたい
  ・ 大学教授になりたい
  ・ 一流ピアニストになりたい
  ・ 美人タレントになりたい
 同様に、「財務省に入りたい」とか「三菱商事に入りたい」とか「スタジオ・ジブリに入りたい」とか希望しても、そんな希望は容易には叶えられない。また、たとえどこかの会社に入社しても、「広告部に移りたい」「デザイナーになりたい」「社長になりたい」という希望は容易には叶えられない。
 「職業選択の自由」とは、「好きな職業に就ける」という意味ではない。もちろん、プロ野球だって同様だ。希望したからといって、誰もが巨人の4番打者になれるわけではない。だから、巨人がそんな阿呆なことを主張するのであれば、とりあえずは、清原を毎試合、4番打者にしてあげなさい。ついでに、清水も高橋由も阿部も小久保も、みんな4番打者にしてあげなさい。せっかく4番打者ばかりコレクションしているんだから、みんな4番打者にしてあげなさい。(あと、上原を大リーグに出してあげるといい。この件が一番の問題だな。退団したいというのを拒否して、球団に無理やり所属させようとする。巨人の二枚舌。)
 ついでに、オマケで言っておこう。「恋愛の自由」というのは、「いやな相手とは恋愛しなくてもいい」という意味であって、「お好みの相手と恋愛ができる」つまり「お好みの相手を勝手に恋人にできる」という意味ではない。勘違いしないように。
 仮に、勘違いすると、例の少女誘拐犯のようになります。……あの犯人、たぶん、巨人の言い分をまるまる信じていたのだろう。
 巨人ファンのみなさん、注意しましょう。さもないと、知らず知らず、少女誘拐犯になりますよ。(あるいは、現実と仮想との区別がつかなくなって、秋葉原に行ってコスチュームのメイドにはまるオタクになります。ここでは「お好みの相手を勝手に恋人にできる」という妄想が実現します。……世も末かな。)


● ニュースと感想  (1月29日)

 「新聞と市場原理」について。
 前々項では、「市場原理と進化の袋小路」という話題を取り上げて、「市場原理による進化のすえに、袋小路に突き当たって、絶滅へ至る」ということを述べた。ここでは、商店が主題だったが、新聞も同様になりそうだ。
 最近、世界各国で、無料新聞というのが流行っている。「広告が半分以上で、ニュースは必要最小限で、あとは下らない実用情報」といったものである。米国では、ニューヨーク・タイムズなども「時流に乗り遅れるな」と参入するらしい。かくて、自分で自分の首を絞めるようなありさまだ。「もはや新聞業界に未来はない」という識者の予想モデルほどだ。(読売・朝刊 2005-01-28 )
 これで言うと、今の新聞業界は、かつてのラジオ業界みたいなものだろうか。テレビの隆盛で、ラジオの没落。ネットの隆盛で、新聞の没落。
 新聞が没落するとすれば、「悪貨が良貨を駆逐する」という類だし、政府にとっては、こんなにありがたいことはないだろう。批判はなくて、政府のプロパガンダばかり載せるのかもしれない。無料の「人民日報」または「プラウダ」みたいなもの。(日本で言えば、「読売新聞の社説」みたいなものかな。)
 「市場原理は素晴らしい」と毎度述べているのは、古典派だが、マスコミでは、朝日新聞がそうだ。で、そのあげく、朝日は自分で自分の首を絞めるわけ。「市場原理で進化する」と主張したあとで、進化の袋小路に入って、絶滅に至る。……そういうことですかね? 
( ※ たとえ絶滅しなくても、現状のマスコミは、進化していないらしくて、いまだに猿です。 → 次項の最後を参照。)


● ニュースと感想  (1月29日b)

 「言論の自由」について。
 最近、朝日とNHKが喧嘩している。(朝日・朝刊・社説と読売・朝刊・社会面 2005-01-22 を参照。)
 私としては、事実関係がよくわからないので、放置していたが、どうも、こういうことであるようだ。
   ・ 慰安婦の問題を扱う番組をNHKが放送しようとした。
   ・ 内閣官房副長官と衆院議員1名がNHKの幹部と会って、内容の説明を受けた。
   ・ 二人はNHK幹部に、何らかのことを言った。
   ・ NHK幹部は、それを聞いたあと、番組担当者に指示を出して、番組を改編した。
   ・ 実際の放送では、該当の箇所は削除された。番組は44分から40分まで短縮された。
 ここまでは、事実であるようだ。二人とNHK幹部を含めて、誰も否定していない。問題は、3番目。「何らかのことを言った」というが、何を言ったのか? 朝日は「圧力をかけた」と言う。NHKは「圧力を受けなかった。話を聞いたあと、自主的に番組を変更しただけだ」と言う。圧力の有無が問題になっている。で、NHKは朝日を「嘘つき」と非難しているわけだ。
 これは、水掛け論というより、馬鹿げた争いですね。次の二点で。

 第1に、「圧力はあったか」と言えば、なかったに決まっている。日本の政治家は、腹芸がお得意だ。明瞭な意味の言葉で圧力をかけることなんて、あるはずがない。
 たとえて言おう。私が小泉の悪口を言う。すると内閣官房副長官が私のところに来て、面会を求めて、「どういうことなんだ」と腹芸で恫喝する。あげく、「小泉の波立ちなんていう下らないホームページは、もう潮時じゃないかね。公開するコストを削減した方がいいと思うよ。読者が下らない文書を読まないで済むように、自主的な処置を取った方がいいんじゃないかね。きみ自身だって、いちいち書く時間を浮かせた方が、身のためだよ。いや、別に、圧力をかけるわけじゃないんだ。きみのためを思って、言っているんだ。どうだい。私のアドバイスを聞く気はないかい? もし聞かなかったら、どういうことになるか、わかっているんだろうな」と腹芸ですごむ。
 で、私が「圧力を受けた」と叫ぶと、相手は「圧力なんかかけていない。そのことはちゃんとメモしてあるから確実だ」と釈明する。
 いやですねえ。日本はますます、北朝鮮に似てきた。こうなると、私も、「偉大なる純様」または「偉大なるナベツネ様」としか、書けないようになる。もし政府に反することを主張すると、国営放送(?)に、延々と非難されるようになる。げっ。

 第2に、論点だ。両者は、関係のないところで争っている。NHKと政治家二人が、意図的に論点をずらしている。「圧力があったかなかったか」と。
 しかし、仮に否定するのなら、別のことを言えばいいのだ。たとえば、「番組は改編されなかった」と主張すればいいのだ。しかし、事実を見ると、そうは言えないから、そうは主張しない。(で、かわりに、圧力の有無という問題に論点を転化してしまっている。)
 そもそも、「圧力をかけなかった」と主張するのなら、かわりに、NHKで何を話したか、それを語るべきだ。もしかして、「チェ・ジウって、かわいいよね。僕も冬ソナのファンなんだ」と話していたのかな? 

 さて。以上の二点を振り返って、本質を考えてみよう。この問題で肝心なことは、「事前検閲を認めるか否か」である。
 なるほど、番組の主張はたしかに偏向している、と私も思う。しかし、それならそれで、放送にどこかで反論すればよい。あるいは上司が自主的にチェックして、反対側の意見を番組に挿入させればよい。いずれにせよ、政治家が事前にチェックして(腹芸で)放送禁止を指図するべきではない。
 これは、言論の自由の問題だ。言論の自由を否定して、政府が事前チェック[つまり検閲 ]をするのは、今も中国や北朝鮮で行なわれている。そして、それと同じことが、日本でもなされているわけだ。特に、NHKの言明によると、こういうのは日常茶飯のことであるらしい。NHK というマークは Nihon Hoshu Ken-etu-zumi のマークだ。あるいは Nihon Haragei Ken-etu-zumi のマークだ。

 そもそも、「言論の自由」とは、何か? 好き勝手なことを言う自由ではない。好き勝手なことを言うだけなら、どの国にも、ある程度の自由はある。たとえば、米国では「ブッシュの馬鹿野郎」とけなす自由があるし、北朝鮮でも「ブッシュの馬鹿野郎」とけなす自由がある。北朝鮮でも、米国と同じぐらい言論の自由がある、というジョーク。
 だから、「言論の自由」とは、好き勝手なことを言う自由のことではなくて、政府批判をする自由のことだ。政府べったりの論旨ばかり張っている保守派のマスコミには、「好きなことが言えるぞ」と思えるので、とうてい理解できないことだろうが。
 とにかく、肝心のことを指摘しておく。肝心なことは、番組が偏向しているかどうかではなくて、偏向している番組をいちいち事前チェックして、「発禁処分」「放送禁止処分」みたいにすることの是非だ。
 だいたい、こんなことが許されるのだったら、読売自身、偏向した記事を書くかどうか、政府の事前チェックを受けるべきだろう。でもまあ、ナベツネさんがやっているから、同じことなのかな? 
 ところで、私のところにも、「小泉の波立ちを公開する前に、事前チェックさせてくれ」という連絡が来たんだが、あの連絡を寄越したのは、ナベツネさんですかね? アベさんですかね? 

 [ 付記1 ]
 この分だと、どさくさにまぎれて、「言論の自由」が憲法から削除されそうだ。「どうせ、自衛隊があるのだから、憲法を改正せよ」というのが改憲論だ。で、改憲のついでに、「どうせ、言論の自由はないのだから、言論の自由を憲法から削除せよ」と調子に乗るわけだ。……もしこうなったら、読売新聞社は、大喜びだ。なぜなら、朝日や毎日みたいなのは廃刊になり、政府べったりの御用新聞が市場を独占できるからだ。ま、編集主幹は金日成と同じく独裁者ですしね。(あの二人は、顔も似ていますよね。メガネをかけて、太っていて、脂ぎっていて、権柄ずくで。)
 ついでだが、中国にも、読売そっくりな新聞社がある。政府べったりで、「靖国なんかに行くな。尖閣列島はおれたちのものだから占拠せよ」と。で、「小泉の馬鹿野郎」とけなしている。彼らは、いくらでも好きなことを言える。だから「中国には言論の自由がある」と主張するわけだ。
 まったく、読売みたいな連中は、中国にも北朝鮮にも、いっぱいあふれている。日本にいるだけじゃない。なお、彼らを称する言葉は、「権力の手先」である。

 [ 付記2 ]
 「圧力の有無」を問題にしている論調もある。(NHKが代表的。)
 なるほど、これだと、「政治家の(露骨な)圧力はなかった」とうまく言い逃れているように見える。しかし、これは、まったく馬鹿げている。「圧力がまったくなかった」というのは、「政治家はNHKに出掛けて、お茶を飲んできただけだ」と言っているのと同じだ。あるいは、「冬ソナの話をしていただけだ」と言っているのと同じだ。(前述。)
 こんな詭弁にだまされないようにしよう。だいたい、政治家が、言質を取られるような露骨な圧力をかけるはずない。政治家の言葉を額面通りにしか受け取れない人は、国語の点数が零点です。例文は、下記。
  「前向きに善処します」
  「可及的速やかに対処します」
  「私は金をくれとは言わんが、きみたち(医師会)がどうしても受け取ってほしいというなら、そこに紙袋を置いても構わないがね」
  「私は放送するなとは言わんが、おたく(NHK)がどうしても放送するというなら、あとでどうなるか、わかっているんだろうな」
 国語の問題です。言外の意を正しく読み取りましょう。

 [ 付記3 ]
 読売の社説に、本項の趣旨とは正反対の意見が出た。「政治家との距離が本質だというのは、論点をずらしている。事実関係の確認が重要だ。番組内容の改変は、政治家が見る以前に開始された」という主張。(社説 2005-01-23 )
 私は、そんな事実関係はどうでもいいと思うんですけどね。だいたい、その場にいなかった人間が、客観的に検証のしようがないでしょうが。
 目を向けるべきことは、今回の特定ケースの事柄ではない。番組の放送前に、いちいち政治家が事前チェックすることの是非だ。今回の処理が適正かどうかという一事件が問題なのではなく、日本に「事前チェックなしの報道」つまり「言論の自由」が可能かどうかという基本原則が問題なのだ。

 [ 付記4 ]
 勘違いされると困るので、朝日への批判もしておこう。
 私は政府について「事前チェック」を批判したが、だからといって朝日を擁護しているわけではない。朝日の報道態度は間違っていると思うし、その前提としての慰安婦問題のNHK番組は偏向にあふれていると思う。私の政治的な見解は、朝日や番組制作者とは、反対だ。
 しかし、私がここで述べたいのは、政治的な内容ではない。むしろ、「相手が自分とは反対意見の立場であろうと、その人の言論の自由を守る」ということだ。ここが、読売や週刊新潮などの保守派とは違う。
 彼ら保守派の意見は、「片側だけの自由」だ。「金正日を批判する自由はあるが、ブッシュを批判する自由はない」とか、「日本政府に賛同する自由はあるが、日本政府を批判する自由はない」とか、「国歌を歌う自由はあるが、国歌を歌わない自由はない」とか。……しかし、この手の片方向の自由なら、北朝鮮にもある。そして、そのような自由は、もはや自由という名に値しない、というのが、私の見解だ。
 保守派は、「朝日の態度や番組の内容は偏向している」というふうに、しきりに主張する。なるほど、彼らは、自分たちの意見に合致しない限り、相手の自由を認めないのだろう。しかし、私は、そうは思わない。番組の主張はまったく偏向に満ちていると思うが、だとしても、私と異なる意見の人々には、言論の自由がある。彼らが間違っているとしたら、いったん発表させた上で、彼らに正々堂々と批判すればよい。一部の論者は、「これは慰安婦についての論争だ」と主張してるが、実は、「論争にならなかったこと」が問題なのだ。論争になるためには、賛否両論が必要だが、そうならなかったのだから。
 とにかく、発表する前の段階で事前チェックして、発表を禁止する、というのでは、もはや「自由」は破壊されてしまう。たとえば、偏向を理由にするなら、朝日だって読売だって、さんざん偏向した報道をしている。しかし、どんなに偏向していても、語る権利はあるのだ。
 だからこそ、私は今回の事件でも、「彼らは間違っているが、間違っていても弾圧されないだけの権利がある」と主張するのだ。今は、戦前の日本とは違って、自由があるのだから。

 [ 付記5 ]
 ただし……ひょっとしたら、私は、勘違いしているのかもしれない。「日本には言論の自由がある」ということを前提にして話を進めたが、日本にはひょっとしたら言論の自由なんか、もともとないのかも。どうも、アベさんも、ナベツネさんも、「自由なんかない」と前提しているとしか思えないんですよね。
 そう言えば、保守派の連中は、久米宏のニュースステーションを「偏向している、つぶしてしまえ」と批判していた。今回、例の番組を批判している連中も、同様なのだろう。ニュースステーションをつぶせなかった憂さを晴らすために、今回、つぶしたのかも。
 そのうち、気に食わない番組は、みんなつぶされるのかもね。インターネットでも、私のホームページは、つぶされそうだ。日本の中国化。……でもって、そういう言論弾圧を喜んでいるマスコミ連中が多い。なるほど。彼らは、政府べったりだから、彼らだけは「自由」を謳歌できるわけだ。
 動物園のに、「そんな狭いところじゃ不自由でしょう」と尋ねたら、猿はこう答えた。「いや、おいらはとても自由だよ。片隅の猿山でも、真ん中の猿池でも、行きたいところには、どこでも勝手に行けるんだ。おいらは自由だ」
 今や、日本のマスコミ連中は、猿ばかり。







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