[付録] ニュースと感想 (80)

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● ニュースと感想  (1月08日)

 「愛と経済学」について。
 経済学や科学に「愛」というものを持ち込むのは、好ましくないことだから、むしろ理性的であれ、と考えている人が多いようだ。しかし、そうか? 
 仮に人間が物理学の対象となるような、単なる物質であるとしたら、科学的に取り扱うべきだろう。人間を物質的に扱うことで、真実を理解することができるだろう。しかし、本当にそうか? 
 
 そのような発想をした一例として、古典派経済学がある。経済現象において人間を無視し、人間性を無視する。単に金銭や帳簿などの数字だけを重視する。そして、その結果は? 現在の不況だ。企業の収益性は改善し、黒字が出ており、まさしく古典派の望むような「最適化された、質的に向上された経済」が実現しつつある。しかしながら、その半面では、多くの人々が苦しんでいる。失業したり、低賃金になったり、苛酷な労働環境に悩んだりして。(実例は次々項。翌日分。)
 ただし、人間や人間性を無視する限り、そういうことは視野に入らない。人間がいかに苦しもうと、苦しみや感情や精神というものは物質的に数値化されないから、そういうものは無視されるのだ。── それが古典派経済学の主張であり、現代の科学の主張でもある。
 
 一例として、ノーベル賞学者の見解がある。「人間精神はただの物質的な分子のふるまいにすぎない」という見解だ。(DNAの模型を出したクリックの主張。利根川進が同意している。読売・朝刊・科学特集 2005-01-05 )
 本当にそうか? 「人間精神は神秘的なあやふやな存在物ではなく、物質的な裏付けのある現象だ」という意味でなら、正しい。しかし、「物質的な分子のふるまいがわかれば、人間精神がわかったことになる」という意味でなら、正しくない。たとえば、ミスターAの人間精神の働きを完全に数式で記述して、それを別の箇所で完璧に分子的に再現することはできるかもしれない。しかし、たとえそういうことができたとしても、そこにおいてどのような精神活動がなされているかは判明しない。
 別の例で言おう。コンピュータ・マシンAのCPUやメモリにおける電子のふるまいを完璧に数式で記述して、それを別の箇所で完璧に電子的に再現することはできるかもしれない。しかし、たとえそういうことができたとしても、そこにおいてどのようなプログラム(ソフトウェア)が存在しているかは判明しない。

 精神というものは物質的な現象ではあるが、物質だけで説明がつくものではないのだ。物質だけで済ませようというのは、あまりにも浅薄な発想である。それは、いわば、素晴らしい名画を見て、色と形の物質的な配置で片付けようとするようなものだ。しかし、名画というものは、色と形の物質的な配置で表現されているとしても、名画の価値は、色と形の物質的な配置にあるのではない。本物にそっくりな偽物には、ほとんど価値がない。つまり、美の価値は、ごく微細な細部にあるのだ。生命もまた同様だ。精神活動というものは、ごく微細な細部の違いとして現れるものであるから、物質レベルで99.99%を理解したとしても、ほとんど何も理解していないのに等しい。── こういうところは、物理的な現象とはまったく異なる。(カオス理論を理解すればわかる。)
 
 科学の力というものは限られている。人間精神を理解するためには、人間精神そのものを感じることが必要だ。そのとき大切なのは、「共感」や「想像力」だ。他人の痛みをわがことのように感じる力だ。
 真実を理解するためには、愛や悲しみや怒りや喜びなどを、ありありと感じる感受性が必要だ。そういう感受性を育てることが、人間にとって何よりも大切になる。そのことをわきまえておこう。
 逆に言えば、「科学的」であろうとして、人間的な感情を捨てれば、真実に近づくことになるどころか、かえって真実から遠ざかることになるのだ。

 [ 付記1 ]
 たとえば、長崎の女児殺人事件のようなことが起こるのも、人間的な感情をうまく育てられなかったからだ。
 たまにある児童による殺人・障害の事件では、出来損ないのような頭の悪い生徒が暴走するが、長崎の事件では、頭の良い生徒が暴走した。ここでは、生物学的・先天的な問題があったのではなくて、後天的な問題があった。
 ネット掲示板なんかで感情を暴走させたりして、自己の感情を制御できなくなってしまった。── こういう現象は、長崎の女児だけに見られることではなくて、広く日本中で見られることだ。例としては、イラク人質事件における人質への攻撃がある。
 私がこの事件について「狂気」と語ったのは、これが長崎の女児の殺人事件と同じ構造をもつからだ。女児が親友を殺害したのも、日本中のネットオタクが人質を攻撃したのも、精神的には同じことなのだ。

 [ 付記2 ]
 人間にとっては、(愛を含む)感情が何よりも大切なのだが、現実には、「感情を無視せよ。感情をなくせ」と主張する人々が多い。そういう主張は、「人間のロボット化」を主張しているのだが、本人は気づかないようだ。
 例として、「憎しみを捨てよ」という趣旨の記事がある。長崎女児事件その他の事件に関連して、被害者の家族などが加害者を憎むことをやめるべきだ、という趣旨の記事。(朝日・朝刊・社会面・コラム 2005-01-06 )
 こういうふうに「憎しみを捨てよ」という主張は、普通、まともで理性的だと見える。しかし、精神医学的には、まったく間違ったことだ。こういうことをすると、当の人々は、憎しみを捨てるかわりに、憎しみを抑圧するだけだ。すると、マグマが抑圧されるようなもので、しきりに溜め込んだあとで、急激に爆発することすらある。その爆発の際に、自分自身を破壊してしまうことすらある。
 だから、「憎しみを捨てよ」なんていう主張は、知ったかぶりの利口ぶった浅薄な人間の主張だ。どうせなら、次のようにする方がいい。
  (1) 何も語らずに聞くだけの牧師やカウンセラー
  (2) 憎しみの発散を助太刀する友人
 後者の例としては、ベストセラーになった「永遠の仔」に描写がある。被害者が「馬鹿野郎、おまえなんか死んじまえ!」と叫びながら、古ベッドに向かって思い切り石を投げる。それを友人が促して、いっしょにやる。こうして、被害者の苦しみを分かちあう。
 はっきり言っておこう。憎しみというのは、「忌まわしい感情」ではない。人間に「愛」というものがあるからには、愛するものを奪われたとき、悲しみを覚え、同時に、愛するものを奪った相手を憎むのは、自然なことだろう。幸福な人にとってはともかく、不幸になった人にとっては、愛と悲しみと憎しみとは一体である。
 たとえば、わが子を殺された親にとって、胸にある悲しみゆえに、犯人を憎むことと、わが子を愛することとは、一体である。犯人を憎むのをやめるということは、わが子を愛するのをやめるということだ。そんなことは、愛や悲しみがある以上は、不可能だ。……通常なら、何年かたてば、犯人への憎しみは薄らぐだろうが、それは、理性ゆえに憎しみが薄らいだのではなく、わが子への愛が薄らいだゆえに憎しみも薄らいだのだ。つまり、わが子を生者として愛することをやめて、死者と見なして受け入れたとき、わが子への愛は消え、同時に、犯人への憎しみも消えるわけだ。
 とすれば、他人が、「憎しみを捨てよ」と述べるのは、「愛を捨てよ」と述べるのと、同じことだ。それは、越権である。親が子を愛さなくなることはあるが、他人がそれを命じるべきではないのだ。あえて命じるとしたら、そんなことは、人を愛することのできない機械的な人間のやることだ。(朝日の記者は、たいていそうだ。人間性や愛をなくして、機械的な冷徹さだけがある。)
 しかし、人間にとって大切なのは、数字や物質ではなくて、愛なのだ。そしてまた、他人の愛への共感なのだ。

 [ 付記3 ]
 他人の苦しみや悲しみを感じ取る(共感できる)心は、「優しさ」と呼んでもいいだろう。
 「優しさ」とは、単に身のまわりの品物などで世話を焼くことではなくて、相手に対する思いやりに基づくものだ。「相手の手間を減らしてあげよう」というふうに物質的な利益をもたらすことではなくて、「相手の心を喜ばせてあげよう」という心理的な贈り物のことだ。
 現代人は、自分では「優しさがほしい」とか「優しい異性がほしい」とか、勝手なことを主張するが、自分からは「優しくしよう」とはしない。ネットなどでは、優しさとは正反対の、他人への攻撃ばかりが幅を利かせている。
 ネット時代では、情報ばかりが増えて、愛や優しさの交流が減っているのかもしれない。誰もが、求めるばかりで与えないから、全体における愛の総量が減ってしまう。人々は、古典派的に「自分の取り分」だけを増やそうとするから、愛の総量が減ってしまう。
 少子化という現状は、愛の総量が減ったことによるのかもしれない。奪い合いばかりがあり、マクロ的な総量を見ないということの結果が、「不況」という状況だ。この状況は、経済的にそうなっているだけでなく、社会的に心理的な分野でもそうなっているのかもしれない。
( ※  いわば愛が、「不況」という「総量縮小」の状態になっている。「不況」というか、「不毛」というか。……いずれにせよ、全員がほしがるばかりで出し惜しみするせいで、デフレスパイラルの状況になっている。ここでは、配分だけを変更しても、無意味。)

 [ 付記4 ]
 現代人はあまりにも物質や機械にとらわれ、すべてを数字で片付けようとして、人間的なものを見失っている。だからこそ、真実から遠ざかる。
 現在の不況もまた、その結果だ。数字だけにとらわれる結果、企業の業績の向上ばかりをめざし、それが実現するが、その半面では、企業の業績向上のために賃下げや失業が発生して、人間が苦しむ。数字ばかりが向上して、人間の幸福は失われる。── こういう倒錯的な結果が現実に発生するのは、人々のめざしているものが根本的に倒錯的であるからだ。人々(経済学者や政府)がめざすのが、数字ばかりであり、人々の幸福ではないから、目標通り、不幸な現実が襲いかかるのだ。
 人々が幸福な現実を望みたければ、まず、数字や物質や企業利益なんかよりも、愛や人間性や国民の幸福をめざすように、方針を変える必要がある。
 経済学もまた、同様だ。経済学において最も大切なのは、企業の数字なんかではなくて、人間の愛や幸福だ。そのことを理解しない限り、人々はめざすものを間違い続ける。そのあげく、現実から裏切られる。

 [ 余談 ]
 津波被害で、アジアで数万人の死者が出た。多くの有名人が寄付をした。ヨン様 3千万円。松井秀喜 5千万円。いずれも立派ですね。松井秀喜は年収の1割ぐらいになる。
 で、年間利益が1兆円ほどあるトヨタは、どのくらい? 1割の、1千円を寄付した? いえいえ、3千円です。桁が「億」と「万」の差があります。( 3/10000 です。スズメの涙。)
 こういう会社は、軽蔑されるばかりだ。当然、ブランドを確立できるはずがない。なのに、そんなこともわからないのでしょうかね? トヨタは正月早々、「レクサスはすごい」なんていう全面広告を出しているが、その金で津波被害に寄付でもした方が、ずっとブランドを確立できるだろうに。
 企業や経営者の理念が問題だ。トヨタは経団連にいても、「おれだけ良ければいい」という発想で、国民の利益をかすめ取ろうとしてしてばかりいる。こんな会社は、いくら利益を稼いでも、軽蔑されるだけだ。軽蔑される会社の製品が、ブランドを確立できるはずがない。
 愛や人間性を忘れて、目先の細かな十円玉ばかりを数えていても、結局は、利益を得そこなうばかりなのだ。
( ※ トヨタは、寄付して、宣伝すればいいのだ。実際、たとえば、ヨン様が寄付した行為が報道されると、われもわれもとファンの追従者が出て、寄付が増えた。善行は隠れずに行なうべし。……ただし、目立ちすぎだと、逆効果。だから、レクサスの広告の隅っこに、小さく記述しておけば、好感が持たれる。逆に、「レクサスは偉いんだ」なんて広告を出しても、「威張るな」と反感を持たれる。……トヨタって、宣伝のことが、全然わかってないですね。目先の十円玉のことしか考えていないせいでしょう。)


● ニュースと感想  (1月09日)

 「各項の関連」について。
 一昨日と昨日と本日の各項の、関連を説明しておく。

 一昨日の分
   ・ 援助 の話 …… 「被害者救済」がテーマ
 本日別項の分
   ・ 不況 の話 …… 「経済弱者」がテーマ

 いずれも、弱者がテーマとなっている。── その根底には、「弱肉強食」を正当化する古典派経済学や保守派への批判がある。この批判は、「愛」に基づく。(昨日の分。)

 ここで、誤解しないよう、注意してほしい。私は弱者の救済を主張するが、だからといって、「福祉社会がベストだ」「怠け者を福祉で救済せよ」というふうに主張しているわけではない。つまり、「北欧的な福祉社会を取れ」と主張していない。……なぜなら、これは、人生観の問題だからだ。いわば、「保険に入るべきかどうか」というような問題である。国民がどうするかは、国民が決めるべきであって、私は特定の方向を、良し悪しで決めつけない。
 しかし、である。津波の被害者とか、不況にさらされる失業者とか、こういう弱者については、話は別だ。こういう弱者は、自らの責任で被害を受けたわけではなく、天災または政府の人災のせいで、被害を受けた。これらの弱者については、「弱肉強食でほったらかしにせよ」という「自由至上主義」には、反論したい。

 「自由放任で最適化」という思想は、野獣の思想であり、犯罪者の思想だ。動物社会や暗黒犯罪社会はいざしらず、健全な文明社会では、「自由放任」なんかにはせず、健全なる秩序が形成され、そこでは各人が自己の欲望よりも理性を働かせるものだ。
 強者は弱者の利益を奪うべきではなくて、強者は弱者に手を差し伸べるべきなのだ。たがいに競争していいのは、強者同士だけだ。たとえば、成人の男性ならば、自由に競争するがいい。しかし、その原理を、困窮者にも適用するのは、まともな発想ではない。
 しかるに、こういう発想が、古典派経済学や保守派の間では、「市場原理」や「自由尊重」という美名で、正当化される。── 今日の文明や学問自体が、狂気的な原理に染まっているのだ。

 根本原理を比較的に示せば、次のように示せる。
  【 経済 】
    ・ 通常 …… 企業は、強者同士で競争をすればよい。
    ・ 不況 …… 企業は、弱者同士で競争をしても、倒産続出。
  【 社会 】
    ・ 通常 …… 人々は、強者同士で競争をしてよい。
    ・ 災害 …… 人々は、弱者を競争の対象とするべきでない。

 こういうふうに、経済であれ社会であれ、同様だ。つまり、「競争による最適化」は、成立することもあるし、成立しないこともある。(通常ならば成立するが、不況や災害の状況では成立しない。)
 結局、「自由放任と競争原理で最適化する」という発想は、間違いではないが、それが成立する範囲は、限定されているのだ。不況という場合や、災害発生という場合には、自由や競争では片付かない。……ここでは、動物的なエゴイズムのかわりに、人間的な叡智が必要だ。
 しかし、悲しいかな、経済学者も経営者も、「エゴイズムこそベスト」と信じて、叡智も愛も見失っている。そのせいで、他人を救うことができず、かくて結果的に、自らが救われることもなくなっている。……それが 13年間の不況である。また、この先、抜け出せないまま、14年、15年、と、さらに不況が続くだろうということだ。

 [ 付記 ]
 なぜ私がこういう立場を取るかを、数学的に説明しておく。
 福祉社会にするかどうかは、配分の問題である。富を強者から弱者に配分するべきかどうか、ということだ。これは、しょせんは配分の問題であるから、良し悪しは特に言えないと思う。
 一方、弱者を救済するかどうかは、配分の問題ではない。全体量の問題だ。たとえば、災害被害者を救うには、塩素の消毒剤などの少額の費用がかかる。しかし、その少額の費用で、塩素の消毒を受けた人は、病気になったりしないで済むので、大幅な利益を受ける。つまり、社会全体を見れば、小額の費用を払うことで、社会全体の利益が大幅に向上する。……これは、配分の問題ではなくて、全体量の問題だ。
 ミクロ的な配分の問題と、マクロ的な全体量の問題とは、異なる。マクロ経済学者は常に全体量の変動を認識するが、古典派経済学者は常に各自の損得だけを考える。
 古典派経済学を信奉する人々は、「たとえ全体量が減っても、各自が自分の得をめざせいばいい」と思い込む。そのせいで、社会全体は、いっそう悪化して、各自もまたそれぞれ損をする。……それが「不況」という状況だ。ここでは、「合成の誤謬」が起こっている。

 [ 余談 ]
 「合成の誤謬」の例。人々が「オレさえよければいい」と思って、公共物を盗もうとする。便所に入ったら、用を足したあとで、トイレットペーパーを盗む。「しめしめ」と思う。ところが、各人がそうする。すると、盗んだ本人も、あとでトイレに入ったとき、紙がなくなって、ひどい目に遭う。……なんて、バッチイ話ですね。もっとマシな例は思い浮かばないのかね。  (^^); 
 ともあれ、エゴイズムに委ねるだけでは、全体の利益は、最適化されるどころか、最悪になることもある。(不況も似た状況。)


● ニュースと感想  (1月09日b)

 「不況の実相」について。
 朝日・朝刊に、桐野夏生のインタビュー記事が出ている。不況についての、興味深い話だ。おおむね、次の趣旨。
 私も何度か似た趣旨のことを述べたが、この人の話の方が激烈だ。うまく不況の実相を指摘している。さすがに小説家だ。描写や表現が適切である。(私は、新聞社の生ぬるい記事をしばしば指摘するが、この人の鋭い指摘には賛辞を惜しまない。……ただし、この人の小説については、それはまた別の話。実は、つい一昨日、読んだばかりですけどね。感想は述べないでおきます。沈黙。)

 で、この人の指摘から、何がわかるか? 
 「景気は回復してきたが、このあと減速するかも」なんていう経済記事は、すべて嘘八百だ、ということだ。「景気回復」なんて、まったくなかったのだ。新聞が「景気回復」と主張してきたのは、「企業業績の回復」であるにすぎない。新聞の経済記事は、企業の帳簿だけを見て、「赤字だから景気悪化、黒字だから景気回復」と書く。しかしそんなことは、国民の生活とは、ほとんど関係がない。企業が黒字であろうが赤字であろうが、国民が失業していれば、国民の生活は苦しいのだ。
 経済部の記者は自分のことを利口だと思っているのだろうが、その馬鹿さ加減をはっきりしておこう。
 「赤字だから景気悪化、黒字だから景気回復」という判断は、古典派ふうの判断だが、完全に間違っている。なぜか? 企業の赤字や黒字は、経済水準の「良し・悪し」を意味せず、「良くなる・悪くなる」という変化を示すだけである。
 たとえば、GDPを f (x) で示すとしよう。この微分値は  f ’(x) である。企業の赤字や黒字は、GDPそのもの(絶対値)を意味するというよりは、その微分値の方を意味する、と解釈した方がよい。(正確には両方に依存するが、どちらかと言えば、微分値を強く反映する。理由は? 需要の変動の影響を強く受けるからだ。)
 経済部の記者は、ここを勘違いする。不況のどん底で、GDPが少し上向くと、微分値が上昇し、企業の帳簿は黒字になる。そこで経済部の記者は、「景気は回復しつつある」と書く。しかし、本当は、微分値が上昇しただけであり、絶対水準は低いままなのだ。GDPは縮小したままなのだ。だからこそ、失業率が高く、国民生活は苦しい。

 結語。
 経済部の記者は、経済というものをまったくわかっていない。古典派経済学の間違った理論に基づいて、企業の帳簿だけを見て、景気を判断する。嘘とデタラメの記事ばかりを書く。「景気はこのまま回復が続くか?」とか「景気回復は減速するか?」とか、下らない無意味な記事ばかりを書く。あげくは、社説で、とんでもない処方を提言したりする。(この件は、別項で示す。)
 しかし、社会を見れば、「景気回復なんてものはまったく存在していない。景気回復なんてのは国民にとっては蜃気楼にすぎない」ということが、はっきりと判明する。
 今回の朝日のインタビュー記事は、なかなか良い記事であった。ただし、その理由は、この記事が経済部の記者の記事ではなかったからだ。社会の現実を見れば、正しい記事を書ける。嘘の経済理論に惑わされると、嘘の記事を書く。
 朝日は、経済部の記者の書く経済記事は最低だが、社会部の記者の書く経済記事は立派である。実を言うと、こういう話は、前にも紹介したことがある。だから、朝日は、経済部の記者なんかを全員クビにして、かわりに社会部の記者が経済記事を書けばいいのだ。……ただし、残念ながら、現実には、社会部の記者による「現実を報道する」記事は非常に少ない。利口ぶった経済部の記者による「どうなるだろうか?」なんていう憶測記事ばかりを書く。
( ※ だから朝日の経済記事は、細木数子よりもひどい。彼女は「占いでは人生は変わりません。ちゃんと自分の人生には自分で責任を持て」と諭す。しかし朝日の記事は、「自分では何も努力しないが、憶測だけをしよう。当たる憶測で、うまく儲けてやよう」という態度だ。正しい経済政策を掲載するというおのれの職務を忘れて、占いみたいなことばかりに頼ろうとする。情けない。最低だね。)


● ニュースと感想  (1月10日)

 「景気回復の方法」について。
 また例によって朝日の嘘つき社説。(朝日・朝刊・社説 2005-01-03 )
 (1) 「さまざまな興味深い新製品が出ている。この流れに乗って消費が増えれば景気も上向く。」
 (2) 「個人消費や設備投資がしっかりすれば、デフレから脱する足場を固められる。」
 (3)「昔のようなバラマキ財政が駄目なら、金融政策と構造改革だ。」
 情けないね。マクロ経済を理解しない古典派というのは、どうしようもない。個別に指摘しよう。

 (1) 消費意欲
 新製品があれば、消費意欲は湧く。ただし、消費意欲が湧いても、所得がなければ、買うことはできない。「金がなければ買えない」という基本原理を理解していない。(まさか万引きを推奨しているわけではあるまい。だいたい、万引きが横行すれば、経済はかえって悪化する。)

 (2) 消費と投資
 消費も投資も、現時点では、最大限まで伸びている。
 ・消費 …… 平均消費性向が1を上回る。
 ・投資 …… ゼロ金利のもとで、必要以上に投資している。過剰投資気味だ。
 だいたい、デフレという供給過剰のときには、設備投資よりは、設備の廃棄の方が必要だ。「設備投資をする」とすれば、「過剰投資にままさらに過剰投資をする」ということだから、「投資をして、すぐに廃棄する」ということになる。「穴を掘って埋める」ということだ。愚の骨頂。
 仮に、「投資をして、廃棄しない」としたら、供給過剰の状況がますます悪化する。デフレはさらにひどくなる。……だから各社は廃棄にいそしむわけだ。たとえばダイエーは、投資をするのではなくて、不要な部分を削減している。そもそも、朝日自体、普段は「不良債権処理」と称して、「不採算事業の整理」を主張している。( → 参考 8月08日b
 要するに、消費も投資もすでに最大限まで伸びているのだから、「消費を増やせ」とか「投資を増やせ」とかいう主張は、成立しないのだ。(少なくとも、朝日流の古典派ふうの「自由放任経済」という前提のもとでは。)

 (3) 所得政策
 (バラマキと称する)財政政策と金融政策と構造改革しか思いつかないのは、古典派の悪い癖だ。もう一つ、税制策つまり所得政策がある。一番肝心のこいつを忘れている。

 結語
 新製品は出ていても、新製品を買えない。それは、所得がないからだ。所得にこそ着目すべきだ。
 「消費を増やせ」「投資を増やせ」という主張は、成立しない。なぜなら、それぞれは最大限まで伸びているからだ。消費は所得以上にまでふくらんでいるし、投資は必要以上にまでふくらんでいる。これ以上、増やす余地はない。
 では、どうするべきか? 「消費を増やせ」「投資を増やせ」という双方を独立的に実施するのではなく、双方を同時に実施すればいい。消費と投資がともに増えれば、経済は回復する。
 その意味は? 「均衡点に近づくこと」ではなく、「均衡点を移動させること」だ。縮小した供給にあわせて消費を減らして均衡させることではなく、供給と消費をいっしょうに増やすことだ。── それがマクロ経済学の発想だ。
 そして、そのための方法が、「所得の増加」である。具体的には、(一時的な)「減税」だ。
( ※ 明日分に続く。)

 [ 付記1 ]
 朝日にはマクロ的な発想がまったくない。経済を「供給」面でだけとらえて、「需要」や「所得」でとらえる発想がない。だからこそ、「日本経済は成長の勢いは鈍っても」なんて書く。
 阿呆な記者のために、経済の基本等式を示しておこう。こうだ。
   生産量 = 生産能力 × 稼働率
 左辺でGDPが決まる。成長率は、これによって決まる。
 一方、「成長の勢い」というのは、「生産能力の伸び」のことだ。いわゆる生産性向上率のことだ。これは年3%程度であるが、実を言うと、途上国だって、たいして差があるわけではない。アジア経済が急成長しているのも、生産性が急激に向上しているというだけでなくて、失業者が急激に雇用されている、という面が大きい。(クルーグマンの指摘。)
 この基本等式によれば、日本の成長は大幅に可能だ、とわかる。なぜなら、稼働率がしごく低下しているからだ。生産能力を急上昇させることは不可能だが、稼働率を急上昇させることは可能だ。
 そして、「稼働率を向上させること」を考察するのが、マクロ経済学だ。その方法として、「需要の増大」や「所得の増大」を示す。一方、「供給の拡大」なんていう見当違いのことを主張するのが、古典派だ。
 日本経済に必要なのは、バラマキ公共事業でもなく、無益な量的緩和でもなく、ほとんど無意味な郵政民営化や道路公団民営化なんかではない。そのいずれも、日本経済全体に対しては、ほとんど影響しない。日本中のほとんどの企業で売上げ減少に悩んでいるのは、堤防工事が少なすぎるからでもなく、金利が高すぎるせいでもなく、郵政民営化がなされて否からでもない。各企業が困っているのは、客が来ないからだ。そして、客が来ないのは、客の財布に金がないからだ。
 マクロ経済のイロハを知らないと、どんなに見当違いなことを主張しても、ちっともわからない。── それが政府であり、小泉であり、そしてまた、その提灯持ちをする朝日だ。

 [ 付記2 ]
 税制策というものがいかに有効かは、クリントン経済の成功を見ればわかる。レーガン政権は、「強いドル」を維持するために、無謀な高金利政策を取った。あげく、財政赤字を巨額にふくらませて、米国経済を危機的な状況にした。しかしクリントン政権は、「増税」という税政策を実施したので、低金利を実現して、同時に、財政赤字を縮小した。
 こういうふうに「増税」や「減税」を適切に調節するのが、税制策だ。ところが、朝日のように古典派だと、「財政赤字が怖いから減税は駄目」とか、「小さな政府がいいから減税がいい」とか、そのどちらかの解釈しかできない。
 彼らは、あくまで税を帳簿で見るだけで、経済的な効果をもたらすものと理解することができないのだ。マクロ的な認識がないから、帳簿で解釈するだけなのだ。……マクロ経済音痴。いやですねえ。無知ほど怖いものはない。
( ※ だから彼らは、クリントン経済がなぜ成功したのかも理解できないわけだ。素人って、いやですねえ。……日本の悲劇は、政府もマスコミも素人連中で、その素人連中が経済を動かしている、ということだ。その結果は? 13年の不況。)

 [ 補足 ]
 朝日(の経済記事)であれ、読売(の政治記事)であれ、政府の意見をそのまま主張することに、何か意義があるのだろうか? 
 世の中には、多様な意見がある。特に、政府の意見に対しては、反対意見というものがある。にもかかわらず、この二社は、政府の意見と同じ意見ばかりを掲載して、他の意見を封殺する。
 マスコミというのは、そもそも、自由で公正な意見を掲載するのが使命であったはずだ。そのために、権力の一方的な発表とバランスを取るために、権力を批判するのが使命であったはずだ。しかるに現実には、その反対のことをやっている。ほとんど国営新聞と化してしまっている。ソ連のプラウダや、中国の人民日報や、北朝鮮の何とか新聞と同様だ。
 公正な報道を忘れて、政府と同じ意見ばかり掲載しているようなマスコミなど、ゴミ以下の価値しかない。存在の耐えられない軽さだ。いや、存在自体が有害だ。正月のあとでは、門松やしめ縄といっしょに、新聞社もゴミにして捨ててしまいたいですね。


● ニュースと感想  (1月11日)

 「景気回復の方法」について。
 1月08日 の項では、「愛と経済学」の話をして、経済学における愛の重要性を述べた。ただしこれは、基本的な立場の話である。方法的に、「愛があればうまく行く」というような、楽観的・理想的・人道主義の主張をしているわけではない。
 どこをトチ狂ったんだか、朝日には、この趣旨の、へんてこりんな記事が出ている。「愛があればうまく行く」という話だ。「競争至上主義では駄目だ」というところはいいのだが、その逆に、「協力・共生で経済はうまく行く」という主張だ。「市民の手で市場を制御して、循環型の経済・社会を構築すべし」という主張。(内橋克人のインタビュー。朝日・朝刊・経済面 2005-01-09 )

 これは、残念ながら、立場や心情はいいのだが、学問的な知識が皆無に等しい。こんな主張に従って経済を運営すれば、共産主義と同様の失敗を犯す。だいたい、「競争至上主義では駄目だ」という理念に基づいて、「市場を人為的に調整せよ」という主張は、社会主義の国家統制経済そのものだ。馬鹿げている。

 政府であれ市民であれ、誰かが人為的に市場を制御するというのは、とんでもない見当違いだ。なるほど、「競争万能」を唱える古典派経済学が間違っているのは確かだ。ならば、古典派よりも先に進めばいいのであって、古典派から後退するのでは、修正するべき方向が反対だ。
 「市場を人為的に調整するな」「市場を神の見えざる手に任せよ」という古典派の主張は、たしかに正しい。その意味で、「市場を人為的に調整せよ」という主張は、正しくない。── このことは、ミクロ的に明らかだ。(経済学を学んだ人なら、誰でも知っている、初歩的な原理。)
 ただし、それだけでは、物事は解決しない。そこで、マクロ的な対処が必要となる。ミクロを否定するのではなくて、ミクロでは片付かない問題をマクロで対処する。ここでは、ミクロを否定するのでは、方向が正反対だ。
 たとえば、古典派が「ご飯さえ食べれば大丈夫」と主張したとき、マクロ経済学者が「いや、おかずも必要だ」と主張する。ところが、上記の記事だと、「ご飯だけでは駄目だ。ゆえに、ご飯を捨てよ」という主張だ。そんなことでは、逆に、餓死という最悪の結果になる。(共産主義国家がそうだ。訂正する方向を間違えている。)

 正解を言おう。
 たしかに、市場原理だけでは解決しない。市場万能主義は正しくない。では、どうするべきか? 市場原理を否定して、市場に介入するべきか? 違う。市場内部のことは市場に任せる。ただし、市場内部とは別のことがある。それは、市場全体の規模だ。市場全体の規模は、市場に任せるだけでは、調整できない。ゆえに、マクロ的な調整が必要になる。そして、それは、一人一人の市民が協力したり共生したりしても、実行できない。市場全体の規模は、国民全体(約1億人)の行動であって、あまりにも巨大だから、数十人や数百人の市民の手には余るのだ。市場全体の規模を調整するには、国民全体(約1億人)の行動を一挙に動かす必要がある。そのためには、国の力が必要となる。── こうして国の力によってなされる政策が、マクロ政策だ。
 どんなに善意があっても、知恵がなければ、状況を改善しようとして、かえって悪化させてしまう。……たとえて言おう。重い肝臓病で死にかけている人には、適切な処置が必要だ。ここで、善意だけがあって無知な人間が、「下剤をあげましょう」とか、「バイアグラをあげましょう」とか、「痛いところを指圧してあげましょう」とか、見当違いのことをやれば、状況をかえって悪化させてしまうのだ。

 結語。
 病気になったら、医者にかかるべし。善意の素人にかかると、最悪の結果となる。経済もまた同じ。
( ※ 古典派経済学者は、ヤブ医者かヘボ医者だが、それでももとにかく、医者ではある。簡単な病気なら治せる。素人療法は、もっとひどい。最悪。……こんなのを掲載する浅知恵の新聞社は、どこの新聞社だ? 浅知(あさち)新聞?)


● ニュースと感想  (1月12日)

 「社会と市場」について。(本項は、ただの悪口です。読む価値はありません。あらかじめ、お断りしておきます。)

 前日分では、市場に関する話をして、「市民が市場に介入すればいい、というわけではない」と説明した。(つまり、「不況というのは、国全体で総力を挙げて取り組むべき問題であり、善意の市民の努力で済むものではない」ということ。)
 ここでは、かなり批判的に述べた。ただし、「主張が正解ではない」という趣旨である。「やろうとしている心根は良いが、残念ながら無効ないし逆効果だ」という意味の批判である。「やろうとしている心根が悪だ」と非難しているわけではない。

 さて。それとは別に、全然見当違いのことを主張している人もいる。例によって悪名高い(?)、朝日の小林慶一郎だ。同じ日の署名コラムで、市場をめぐるへんてこりんなことを述べている。経済のことを論じているのかと思ったら、歴史や道徳のことを述べている。
 これは、さすがに経済学者の書いた歴史の話らしい。つまり、まったく無内容で、意味不明で、ど素によるメチャクチャな殴り書きだ、とわかる。批判するにも値しない。何しろ、内容が空っぽなのだから。
 こんなゴミを掲載しないでほしいですね。朝日には「ゴミ記事を掲載しない」という、チェック機構がないのだろうか? 
( ※ ただし、そういうチェック機構があると、ほとんどの論説は掲載できなくなってしまう。それでかな? 何しろ、ゴミ記事ばかり。……あさひゴミ新聞。もしくは、ゴミあさり新聞。)

 [ 余談 ]
 ついでだが、本項も、「まったく無内容」である。ただの悪口だけで、情報価値がゼロ。小林慶一郎の批判をすると、たいてい、こうなる。元が無内容だから、批判も無内容になる。……本項が無内容なのは、私のせいじゃないですよね。たぶん。


● ニュースと感想  (1月12日b)

 「不況と自殺者」について。
 前日分では、記事の趣旨を批判した。それはそれでいいのだが、この記事には、参考となるデータもある。自殺者の統計だ。
 これは、ただのデータだが、それだけに、有益だ。グラフを見ると、次のことがわかる。
  1. 80年から97年までは、自殺者の総数は2万人〜2万千人程度で、あまり大きく変動しない。
  2. しかし、98年から03年には、急増しており、毎年3万人を突破している。
  3. 特に、03年は、3万4千人で、史上最大。
  4. 自殺の原因が「経済・生活問題」である、と明確に分類された死者数を見ると、やはり、98年から03年にほぼ倍増している。
 このうち、2番目と4番目に注目しよう。
 自殺の原因というのは、なかなか判断しにくい。4番目で判明したのは、あくまで、明確に判明したものだけだ。とはいえ、それを見るだけでも、「98年から03年にほぼ倍増している」という事実がある。
 このことから推定されるのは、自殺者が98年から03年に「2万人強から3万人以上に急増したのは、たぶん、不況のせいだ」ということだ。不況のせいで、毎年1万人以上の純増があったことになる。(明確に分類された数は数千人だが、明確に分類されない分も含めて、「不況が原因だ」と推定される総数が1万人以上である。)
 要するに、政府の悪政のせいで、1万人以上の人命が毎年奪われていることになる。4年で5万人。
 そして、その責任は、政府にある。前項では「善意の市民が協力すればいい」なんて楽観的な夢想も例示されているが、そんな生やさしいものではないのだ。不況というのは、国全体で総力を挙げて取り組むべき問題であり、善意の市民の努力で済むものではない。善意の市民がちょっと努力したら、国全体の自殺者が1万人も減る、なんてことは、絶対にありえないのだ。

 [ 余談 ]
 たとえ話。
 お気楽国に、ドクロ軍が攻めてきました。毎年毎年、1万人を殺します。そこで、お気楽国の市民は、「善意で交渉しよう。善意があれば大丈夫」と思って、おみやげをもって、ドクロ軍に向かいました。「おみやげがあるんだから、殺されるはずがないよ」と信じて。
 しかし実際には、全員、近づいたとたんに、殺されてしまいました。なぜなら、「相手は何かをもってきたぞ。武器か爆弾かもしれない。危険だから、到着する前に、やっつけろ」と相手は思ったからです。軍事常識。
 善意だけがあり、常識知らずでは、死をもたらすだけだ。


● ニュースと感想  (1月13日)

 「新聞と時事問題」について。
 アジアで津波問題が起こったあとで、東京近辺の地震の危機についての特集記事があった。「危険なのは、アジアだけではない。日本もそうだ。特に、東京近辺は、経済活動が集中する一方で、地震活動も集中する。リスクは非常に高い」という趣旨の記事。海外の学者の話を受けている。(読売・朝刊・1面・特集 2005-01-11 )
 これは、マスコミの報道としては、まったく正しい。現在の津波問題に惑わされず、長期的な視点から自分自身の危機としてとらえている。表面に惑わされず、本質を突いている。マスコミというものは、かくあるべし。私には珍しいが、大いに誉めておこう。
 ま、私も、似たことを書く予定だった。「新潟で新幹線が脱線したからといって、他の地域の新幹線ばかりに対処しても駄目だ。在来線だって脱線するぞ」とか、「アジアで地震が起こったからといって、今さらアジアで観測網を作っても手遅れだ。アジアでは等分、大地震は起こらないから、むしろ、南米の地震に対して津波観測網を作った方がいい」とか、そういう批判を書く予定だった。
 が、それに先んじて、読売が東京近辺の問題を取り上げたわけだ。私がぐずぐずしている間に、先を取られしまった。ま、ここは、読売を誉めておこう。

 ついでに私なりの感想を書くなら、やはり、「東京集中」というのが、絶対的に問題だ。お台場や新橋のあたりに、やたらと高層ビルを建てていて、海風を遮断する、という愚を犯しているが、そもそも、根本的には、「東京集中」なんかはやめるべきなのだ。地震も危険だし、いろいろと弊害がある。むしろ「地方分散」を進めるべきだ。(遷都とは別の問題で、「一極集中」そのものをやめるわけだ。)
 長期的には、そういう方針が必要であろう。ところが、現実には、「規制緩和」という名目で、都心の容積率をアップしたりして、「一極集中」をどんどん進めている。国が「規制緩和」なんかをやればやるほど、国全体の経済力は危機にさらされ、能率が低下する。
 「自由放任」なんかを推進するのは、野蛮人の発想だ。文明人には、「計画性」というものが必要である。地震への対策や、一極集中でない地方分散などを、実施させるのは、その「計画性」だ。人間には、知恵があるのだから、知恵を使うべきだ。
 「規制緩和」という発想の根底には、「自由放任」という思想があるが、それはつまり、「行き当たりばったり」ということだ。その方針で、どうなるかは、アジアの津波被害が見事に示している。「何万人もの死者」という形で。
( ※ ついでに言えば、日本でも、不況による死者が何万人も出ている。前項 を参照。)


● ニュースと感想  (1月13日b)

 「新聞とインタビュー」について。
 インタビューの仕方をまるでわかっていない記者が多い。そこで、「インタビューの仕方」という話を、先に述べたことがある。これをちゃんと読んで、勉強してほしいものだ。( → 10月25日
 朝日ではここ数日、インタビューの記事が連載されたが、ただの「ご意見伺い」に終わってしまっている。まともに意見を引き出せていない。例を示そう。
 IBMの社長へのインタビューがある。(朝日・朝刊・経済面 2005-01-11 )

 結局、まともな経済知識がないから、詐欺師にだまされるだけで、ついでに、読者をもだますことになる。こういう記事は、有害無益だ。掲載しない方が、まだマシだ。

 [ 付記1 ]
 IBMという会社は、そんなに悪い会社ではない。たとえば、女性の雇用では、トップレベルの状況にある。こういうところを記事は報道すればよい。
 一方、マクロ経済音痴の経営者に、マクロ的なことを聞くなんて、どうかしている。企業経営者は、自分の企業のことだけを考えていればいいのであって、日本全体のことなど考える必要はない。日本中の国民が飢えようと、自分だけが良ければいい、というのが経営者の発想だ。それはそれでいい。
 ただし、それとは別に、国全体の経済を考える必要もある。それはマクロ経済の問題であり、経済学者や為政者やマスコミの問題だ。ところが、国全体の問題を、経営者に聞こうとするのが、朝日の記事だ。馬鹿げている。それはいわば、「記事の書き方をどうするか?」と経営者に聞くのと同じである。学校でいえば、「教師が教えるにはどうすればいいのですか?」と教師が生徒に聞くようなものだ。狂気的。
 朝日は、経済記事を書きたければ、自分でマクロ経済の勉強をするべきだ。その根源がまったくわかっていない。

 [ 付記2 ]
 マクロ経済音痴の朝日のために、核心を示しておこう。
 「企業が自己利益のために行動する」ということ自体は、別に、良くも悪くもない。企業はそうするものだし、それ以外のことはありえない。では、問題は何か? 「企業が自己利益のために行動することによって、国全体が良くなる」というふうに、国全体の経済システムを整えることだ。
  ・ 正常 …… 国全体が良くなる
  ・ 異常 …… 国全体が悪くなる
 というふうに、状況による差が出る。「企業が自己利益のために行動すると、国全体が良くなる」ということは、正常な状況では成立する。だから、その場合には、企業が自己利益をめざすだけでいい。しかし、異常な状況では、違う。企業が自己利益をめざすと、国全体はかえって悪化する。たとえば、景気過熱時には、労働者が過労死するし、不況のときには、労働者が失業して自殺。国民は非常に不幸になる。それでも企業だけは利益を溜め込む。
 だから、「企業が自己利益のために行動する」ことを無条件で是認するのでなく、「企業が自己利益のために行動すると、国全体が良くなる」ということが成立するように、状況を改善すればよい。── それが、マクロ経済学の役割だ。
 逆に、「どんな状況でも正常だ」と勝手に認識して、この世に不況や景気過熱というものが存在しないかのごとく考えるのが、古典派だ。
 大いなる錯覚は、大いなる不幸をもたらす。

 [ 補足 ]
 この経営者は、やたらと「規制緩和」を唱えて、「自由放任」を絶対視している。朝日の記者もそれを信じているようだ。「エゴイズムと自由競争で社会は最適化する」と。(なぜか? 朝日は経済的には、バリバリの右翼・保守派・古典派だからだ。)
 しかし、こういう「自由放任」による「大企業べったり」の路線が、何を意味するかを、よく考えた方がいいだろう。前項は地震問題とからめて、「規制緩和」と「計画性」について言及した。そちらを参照。
( ※ つまり、「計画性」もなしにやるのは、野蛮人の発想だ、ということ。そういう無計画のほったらかしの方針が、津波で数万人の死者をもたらしたり、不況で数万人の死者を出したりする。……げに恐ろしきは、地震そのものではない。地震に対する対策がないことだ。「ほったらかし」主義は、莫大な被害を生むだけだ。)
( ※ ただし、世間でどんなに莫大な被害が出ても、企業としては、自分だけが儲かればそれでいい。法律に違反しなければ、何をやってもいいのだし、また、地震被害が出ようと、寄付をちっともしなくていい。それが「自由放任」という経済政策である。レーガンやブッシュら共和党の路線。小泉などの自民党の路線。朝日の路線。)
( ※ それと正反対なのが、ヨン様やチェ・ジウや松井秀喜などの路線。彼らには、利己主義とは正反対の、愛という理念がある。エゴイズムと愛のどちらが社会をよくするか、朝日はよく考えた方がいいだろう。)


● ニュースと感想  (1月14日)

 「青色LED訴訟と成果主義」について。
 青色LED訴訟で、和解がなされた。(各紙・夕刊 2005-01-11 。翌日朝刊にも続報。)
 高裁の和解勧告というのが、相当メチャクチャで、事実をまともに検討しないで、世間的解釈だけで、勝手に話を進めているのがわかる。「法律的にはどう判断されるか」ではなくて、「企業がいくら出せるか(出す気があるか)」で決める主義。
 ま、日本の裁判所というのは、こういうものです。常に、国家優先・企業優先で、あらゆる理屈はすっ飛ばされる。(マスコミも同様ですしね。)
 というわけで、当事者でない私としては、一年前に述べたこと以上は、言及しないでおこう。

 ただし、本項では「成果主義」に関連して、企業の論理矛盾を指摘しておこう。
 前日、こう述べた。
 「成果が出れば、処遇を上げる、ということを忘れて、下げることばかり考えている。半面型の成果主義。」
 失敗したときには賃下げするが、成功したときには賃上げしない。それが今回の中村修二への処遇だ。どんなに成功しても、成功した場合には、「成果主義」は取られない。かわりに、「社員全員で努力したから、均等主義です」と主張する。
 じゃ、「社員均等主義なんだから、中村修二が儲けた分を、おれたち社員に寄越せ」と他の社員が言う。すると今度は、「成果主義だから、きみたちにはあげません」と言う。
 中村修二や発明者に対しては、「会社が設備などの資本を提供したのだから、その分、会社が取るのが当然だ。それが資本主義の原理だ」と主張する。で、株主が「じゃ、資本を出したわれわれに、利益を還元せよ。利益のうちで配当に回す率を、欧米並みの4割ぐらいに上げよ」と要求すると、「いやです。資本家に渡すような資本主義は、やりません。働いた人々で分配します」と主張して、会社の内部留保に回す。
 結局、企業がいくら利益を出しても、その利益は、誰の手にも渡らない。で、どうなる? 内部留保になるばかり。つまり、貯蓄が増えるだけ。で、どうなる? 総需要が縮小する。かくて日本経済は、需要不足で、不況になる。

 経営者が二枚舌の連中ばかりだから、日本が不況になるのは、必然であるわけだ。
( ※ 風が吹けば桶屋が儲かる、というのに、ちょっと似ているが。  (^^); ……本項は、経済理論というよりは、経営批判です。馬鹿な社長が多いと困りますね。「ベンチがアホやから、野球がでけへん」というのは、サラリーマンの共感を得る文句。)

 [ 付記1 ]
 経営者側は記者会見して、「企業が給与を払うのだから、成果は企業が得るのが当然だ」と述べている。(朝日・朝刊・経済面 2005-01-13 )
 やはり「成果主義」は、賃下げだけあって、賃上げはないわけだ。半面の成果主義。これほど露骨に言うとはね。
 経営者側は「一人の天才がやったのではなく、多数の凡才がやった」とも述べている。だったら、多数の凡才に、成果を還元するのか? しないでしょ。ここでも、「片側の成果主義」だ。つまりは、二枚舌。

 [ 付記2 ]
 朝日の社説は、高裁判決をかなり妥当なものと見なしている。一般の経営者の退職金と比較して、発明者に対する6億円という額は 地裁判決の 200億円よりも妥当だ、と見なしている。( 2005-01-12 )
 ひどい勘違いだ。青色LEDの発明は、空前の大発明だ。しかも、社命による発明ではなく、個人単独の意思による発明だ。この発明には、社長としての経営判断さえ含まれている。これが6億円だとしたら、通常の社命による発明に対しては、どんなに画期的なものであっても、百万円程度が妥当だということになる。
 社説は経営者の退職金と比較しているが、とんでもない話だ。その経営者は、マクドナルドやソニーだが、これらは世界で空前の経営者ではない。ついでに言えば、退職金は、業務に対する報酬ではなくて、ただのおまけだ。業務に対する報酬は、別途、在任中の報酬として、何億円か何十億円もある。さらには株式の利得もある。経営者と比較するなら、空前の経営者であるビル・ゲイツと比較するべきだろう。彼の資産は数兆円。とすれば、経営者と比較するなら、数兆円を払ってもいい、ということになる。
 ま、現実には、そうはなるまい。数兆円でなく、数百億円か数十億円でも、仕方ない。だとしても、発明者に対する報酬が極端に少ないというのは、どう考えてもおかしいだろう。ちなみに、スポーツ選手と比べるといい。日本にいた松井でもイチローでも、年俸5億円ぐらいで、生涯報酬は数十億円だ。そういう選手がごろごろいた。彼らは日本人に何かを物質的に与えたわけではなくて、ちょっとファンを気持ちよくしてくれただけだ。(逆に言えば、敵チームには憎まれていたから、差し引きすれば、トントンかもしれないが。)……さて。青色LEDは、DVD機器などを通じて、今日のハイテク時代の屋台骨を支えている。これほどの大発明に、スポーツ選手よりもずっと小額しか与えられない。
 しかも、そういう社会を、嘆くどころか、歓迎する。呆れるね。だったら、世界中のDVD機器をすべて廃絶して、社会経済をマヒさせてから、失業しながら、プロ野球だけ見ていなさい。

 ついでに、一般企業に言っておく。「技術者にそんなに報酬を与えたくない」と思うのなら、中村修二がたった一人で発明した技術を、使うのをやめてもらいたい。その企業は、社内から、青色LEDを使用した機器を、すべて追放してもらいたい。そのときようやく、青色LEDの価値がわかるだろう。
 また、「この発明は彼一人でやったんじゃない」と思うのであれば、彼の所有する基本特許を使わず、他の代替技術を使いなさい。(もしそんなものがあればね。)……一般に、基本特許は、代替が利かないから、重要なのだ。他の周辺特許は、代替が利くから、重要ではない。基本特許と周辺特許の区別もできないような技術音痴は、口を挟むべきではないのだ。

 [ 余談 ]
 トヨタが来春のベアを見送り。定昇のみ。(読売・朝刊・経済面および朝日・夕刊 2005-01-12 )
 企業の利益は空前の利益でボロ儲けだというのに、その業績を賃金に反映しない。これでどうやって「成果主義」が実現できるのだ? 
 だから、やはり、「下げるときだけの成果主義」しかないわけだ。日本の企業経営者というのは、そろいもそろって、こういう連中ばかりだ。……でもって、日本はいつまでも不況。個人消費も下降気味で、先行きは暗い。賃上げはなく、増税が予定される。……やってられんわ。

  【 追記 】
 技術者はなかなか報われない。そこで仕方なく、会社に内緒で週末に、中国や韓国に出掛けていって、向こうの企業に技術を垂れ流す。かくて会社としては、小金を惜しむせいで、重要な技術を中国や韓国に流出させている、……という話がある。( → 中村正三郎のサイト 2005-01-13 )
 この話は私も、NHKあたりの特集報道で聞いたことがある。こういうのは本当は、企業との間の就業契約違反なんだが、道義的にはともかく、違法と言えるかどうかは微妙だ。産業スパイでないし。特許の無断使用とも違うし。また、通常、最先端の情報を垂れ流すわけではなくて、少し前の情報を垂れ流すだけだ。国内の他社ならば知っているが、中国や韓国の人たちは知らない、というような技術情報。……それでも彼らはこの手の技術情報をありがたく頂戴する。でもって、今や、サムスンは、世界最大規模のIT企業となって、有機ELでは国内企業をしのぐ世界最先端の技術を自社開発するまでになった。
 国内企業は自業自得ですね。技術者を奴隷扱いした報いだ。ざまあみろ、と言ってやりたいね。みんなつぶれてしまいなさい。国内企業はつぶれて、サムスンの配下になればよい。
 なぜか? サムスンは技術者を非常に大事にするからだ。だからあの会社は、急激に成長したわけだ。日本企業がサムスンの配下に入れば、日本の技術者はわざわざ韓国まで行かなくても、幸福な生活を送れます。
 なお、「日本が韓国の手下になること」を推進するのは、私じゃなくて、日本企業の経営者だ。いったい、どういう頭の構造をしているんだか。これを「構造改革」と称するのかね?

  【 追記2 】
 サムスンの経営状態が報道された。あまりにも巨額の利益。
  ・ 純益は1兆円。マイクロソフトを抜き、情報分野で世界トップ。
  ・ 営業利益率は、20%。半導体分野に限っては、40%。
  ・ 一方、ソニー・日立・シャープ・松下などの日本企業は、全部ひっくるめても、サムスンに勝てない。売上高は9倍ぐらいあるが、利益は5割ぐらいしかない。哀れ。
 技術者を大切にする企業と、技術者を搾取する企業との、差がはっきりと現れている。経営体質が違うんですよね。「成果主義」を唱える経営者は、まず、自らを解任するべきだろう。


● ニュースと感想  (1月14日b)

 「津波と援助」について。
 アジアの津波被害の続報が続いている。私も 1月13日 に少し言及したが、もっと本格的に論じよう。
 そもそも、いくら援助しても、死者は生き返らない。これが基本だ。金を出しても、死者を生き返らすことはできないのだから、単に金を出せばいいというものではない。金の有効な使い道を考える必要がある。(経済的。)
 では、遺族の生活保障に使えばいいか? それは人道的だが、やはり、本筋を逸らしている。なすべきことは、将来の死者を予防するために、金を使うことだ。
 では、どうやって? 

 実は、過去を見ると、これほどの大規模ではないが、前にもアジアの似た地域に津波が襲ったことがある。その後に、日本の学者が、退避の勧告をしたという。「浜辺から離れよ。防潮堤を作れ」などと。しかし、守られなかった。なぜか? 浜辺から離れると生活ができないし、防潮堤を作る金もないからだ。
 では、金は、防潮堤を作るために使えばいいか? いや、防潮堤を作れば、美観破壊で観光が成り立たなくなる。それはまずい。しかも、防潮堤なんか作れば、莫大な費用がかかる割に、たいして効果がない。(公共事業ってのは、たいていそうだ。── ただしケインズ派ならば、「防潮堤を作ってから破壊すればいい」と主張するでしょうけどね。  (^^); )
 では、どうするべきか? 

 ここで、私は提案しよう。ケインズ派に任せると、ろくなことはないので。
 それは、「鉄塔建設」だ。高さ5メートルぐらいの鉄塔を作る。上部に台をおいて、数十人が退避できるようにする。津波が来たら、ここに逃げる。
 この案の理由は次の通り。
 以上が私の提案です。お金を出すかわりに、知恵を出します。この知恵は、五千万円ぐらいの価値があるかも。これで私も、五千万円を出した松井並み? (というのは虫がいいか。……  (^^); )

  【 追記 】
 あとで思い返すと、あまりうまい方法ではないようだ。ただの「警報システム」の方がずっと低コストで有益だ。津波が来てからあわてて逃げるよりは、津波が来る何時間も前にさっさと逃げた方が利口である。
 後日の報道によると、先進国の主導で、「世界的に津波警報システムを整備しよう」という方向で対処が進んでいるそうだ。これはこれで良いだろう。
 結局、津波問題については、私が特に口を出すこともないようだ。おしまい。


● ニュースと感想  (1月15日)

 「少子化と環境破壊」について。
 少子化と環境破壊は、まったく別の問題ではない。共通点がある。この二つはどちらも、人類への危機だ。生物としての生存にかかわる危機だ。── このことを、社会的・経済的な観点とは別の視点から、十分に理解しておこう。
 少子化も、環境破壊も、人類の滅亡をもたらしかねないような、きわめて根本的な大問題だ。先日の津波も、原因は地震だとはいえ、将来の環境破壊による津波を予告するものとして、象徴的な意味合いがあるかもしれない。あれは、おごる人間に神が警告した、自然の伝言なのかもしれない。
 ともあれ、放置すれば、少子化と環境破壊とで、人類は滅亡しかねない。どこかの阿呆な新聞社は、「少子化ならば外国人労働者を呼び寄せればいい」なんて主張をしている。しかし、それは、「日本では(日本人が少数派になり)外国人が支配的になる」という方針であり、「日本を外国人に譲り渡す」のと同じことである。一種の売国政策であろう。── で、ついでに、地球を宇宙人に譲り渡すつもりなんですかね。それとも、進化した猿に譲り渡すつもりなんですかね。「猿の惑星」化。

 じゃ、どうすればいいか? 次の二点だ。
 第1に、「少子化と環境破壊は、生物としての人類への危機だ」ということを、はっきり認識すること。
 第2に、「少子化と環境破壊を、避けよう」と努力すること。

 この二つを、二大原則とするべきだ。あらゆる問題に優先して、この二つを最優先で取るべきだ。
 私がそう言うと、「そんなことは言われなくてもわかっている」と思う人が多いだろう。そこで、指摘しておこう。現状では、人々は、この二つの原則を、否定している。かわりに、次の原則を取っている。
 「企業が金儲けすることが、何よりも優先する」
 これが最優先の原則だ。この原則から、結論として、次の二つが出る。
 第1に、「少子化を推進する。つまり、女性労働者の妊娠や出産を、阻害する。なぜなら、妊娠や出産を推進するのは、企業にとってコストアップになるからだ」
 第2に、「環境破壊を推進する。つまり、環境破壊を抑止する環境税を、阻害する。なぜなら、環境税は、企業にとってコストアップになるからだ」
 この二つは、企業が採用している方針だ。たとえば、経団連の奥田某なんかが、かねて何度も声高に主張している方針だ。もちろん、政府も、この方針を取る。どこかの阿呆な新聞社も、「企業の自由競争こそ最善」なんて主張して、この方針を支持する。

 かくて、少子化と環境破壊が推進される。人類を、生物学的な危機に押しやる。それも、すべては、「金がすべて」という経済至上主義のせいだ。
 「自由経済こそ理想的だ」なんていうのは、「たわけ」あるいは「妄想」であるにすぎない。人類にとっての最優先の課題は、金ではなくて、生存である。それを忘れて、金のことばかり数えていれば、生存することができなくなる。
 津波が襲ったときに、たいていの人は逃げるが、守銭奴だけは、命よりも、金を惜しんで、逃げそこなう。── それが今の日本の状況だ。狂気的な状況である。しかし、本人がそれを自覚していない。どうしようもないですね。

 [ 付記 ]
 具体的な例は、1月13日b のインタビュー記事。「われわれ企業は正しい」という企業賛美ばかりをしている。そして新聞は、三下のごとく、それを礼賛する。……どこにも「自己反省」なんてものはない。企業とマスコミが協力して、人類の生存を脅かす。「自分だけよけりゃいい」という発想。つまりエゴイズム賛美を基本原理にする発想(別名、市場原理)。そういう発想をするヤクザみたいな連中ばかりが、世にはばかる。彼らの頭には「愛」なんてものは、ただのひとかけらもない。


● ニュースと感想  (1月15日b)

 「少子化と性差別」について。
 少子化と性差別は、関連づけられることが多い。次のように。
 「少子化は、女性の雇用が不十分だからだ。女性を男性並みに働かせよ。性差別には反対する」
 「皇室に男子が産まれないなら、女子を天皇にすればよい。性差別には反対する」

 なるほど、そうすれば、女性は男性並みになる。しかし、それは、「働き過ぎでひどい状況である男性に、女性をそろえる」という方向だ。これでは、改善の方向が正反対だ。
 では、正しくは? 次の二つを同時に実施すればよい。
  ・ 男性の働き過ぎをやめさせる
  ・ 女性の雇用差別をやめさせる
 男女とも、ほどほどに働けばよい。毎晩遅くまで働くなんて、人間的ではない。そういうひどい男性の状況に、女性をそろえても、それを「性差別の改善」とは呼べないのである。

 さて。このように「男女ともほどほどに働く」ということは、可能だろうか? 通常、労働時間の減少は、所得の減少をもたらすから、容易ではない。しかし、不況のときであれば、容易だ。「ワークシェアリング」という形で実施できるからだ。すなわち、失業者を雇用して、その分、普通の労働者の働く時間を減らせばよい。

 実を言うと、不況になった直後には、この手は利かない。不況になった直後では、回顧が進んでいなくて、企業内失業が生じているだけだ。この状況では、「失業者を雇用する」という手は利かないし、社内の労働者の働く時間を減らすこともできない。だから「ワークシェアリング」は正解ではない。(前にも述べたことがある。)
 ただし、不況のあとで、リストラが進んでいる状況では、話は別だ。リストラにともなって、「大量の失業者が生じて、同時に、(残った労働者の)一人あたりの労働時間は増える(賃金は変わらないから実質賃下げ)」というふうになっている。── こういう状況では、「ワークシェアリング」は可能だし、それをすることで、男性も女性も、ほどほどに労働することができるようになる。

 ともあれ、「自由放任」なんかに任せていると、企業は自分勝手な行動を取り、「失業増加と過労死の同時発生」という、馬鹿げた道を選択する。だから、ここでは、正しい政策を取って、「ワークシェアリング」へと進めるべきなのだ。そうすれば、ついでに、「少子化」の問題も解決していく。

 [ 付記 ]
 本質的に言おう。「非人間的な労働環境」なんかに任せると、生物的に、ろくなことにならない。それが現在の、「不況と少子化」である。弱肉強食のもとで、企業ばかりが太り、人々は食い物にされる。── こういう野獣的な原理を、「市場経済」と呼ぶ。頭の悪い非文明圏のシステム。共産主義と並ぶ最悪のシステム。


● ニュースと感想  (1月16日)

 「少子化と生物学」について。
 少子化がかなり問題になっている。ただし、その根底には、「人々が産もうとしない」ということのほかに、「人々が妊娠しにくくなっている」ということがあるようだ。
 では、なぜ? 昔はやたらと子だくさんだったし、現在も途上国では子だくさんである。なのに、なぜ、現代の人々は妊娠しにくくなっているのだろうか? 環境汚染のせいだろうか? 

 ここで、私なりに、解答を出そう。それは、「飽食」のせいである。人間は(というよりは生物は)、種の維持を目的とするが、種の維持の危機に瀕すると、生殖活動が盛んになる。特に、飢えると、生殖活動が盛んになる。行為の回数が増えるだけでなく、精子の密度が高くなったりする。
 だから、人々が妊娠しにくくなっている場合、その対策としては、「栄養を減らす」ことがお勧めである。男はダイエットするべきだ。たとえば、週末の二日間を、絶食するべきだ。水もなるべく飲まない方がいい。でもって、何もしないのではなく、野山をうろつくとよい。サバイバルごっこだ。
 こうすると、生存の危機に瀕する。となると、精子ががぜん張り切るはずだ。「親が死んでも、次世代の子を残そう」として。
 というわけで、「子が生まれにくい」とか、「男子が産まれにくい」とか、そういう悩みがある方は、夫のダイエットをお勧めします。(東京の中心に住んでいる特定の人へのアドバイスではありません。畏れ多いので。)

 [ 付記1 ]
 ただし、女性については、ダイエットはあまりお勧めしません。女性がダイエットすると、子供を生むのが困難になるので、かえってまずいはず。ふっくらとして女性ホルモンが高まる方が、妊娠には有利でしょう。たぶん。
 ダイエットすると、女性としての周期的な機能が不順になる、という話はよく聞く。だから、妊娠したい女性は、ダイエットをしない方がいい。
 要するに、「男は食うな、女は食え」「夫は痩せよ、妻は太れ」ということ。……現状は、逆ですね。だから、出生率が低下しているんでしょう。世の中、デブ男が多すぎる。
( ※ NYテロのあとで「危機感」から出生率が向上した、という話もある。 → 6月30日c

 [ 付記2 ]
 妊娠の率を高めるには、精子の密度を増すことが重要だ。それには、男性の禁欲も有効だ。
 猿の例で言うと、交尾の回数と妊娠の回数は、比例しない。ボスザルないし優位な猿は、メスとの交尾の回数が多いが、妊娠させる頻度はあまり多くない。低位の猿は、メスとの交尾の回数が少ないが、妊娠させる頻度がかなり高い。結果的に、どのオス猿も、だいたい同じように妊娠させている。
 どうしてこうなるか? 低位の猿は、交尾の回数が少ないから、精子の密度が高いからだ。回数が多くて量が多くても、薄いと駄目だ、ということ。(別の意味ではありません。)

( ※ 本項の話を読んで、「下品だ」と思ってはいけません。生物学の学術的な話です。下品だと思うとしたら、読む人が下品な想像をするからです。)


● ニュースと感想  (1月16日b)

 「新種の哺乳類」について。
 新種の哺乳類の化石が発見された。これまではネズミぐらいの大きさの哺乳類しか存在しないと見なされていたのに、大型の犬ぐらいの哺乳類もいた、と判明した。以前の学界の定説が覆された。(各紙・朝刊 2005-01-13 ,中日新聞サイト読売新聞サイト
 これはいったい、どういうことだろうか? 進化論や考古学の全面的な変更を強いられるのだろうか? イエス。では、どう説明されるのだろうか? 
 簡単だ。これまでの学説をすべて捨て去ってしまえばよい。かわりに、「大型の哺乳類も存在したはずだ」と以前から主張していた異端の学説を採用すればよい。そんなことは、自然科学の実証主義からすれば、当然だ。たとえば、ガリレオは実験によって、「重いものほど早く落ちるか、重いのも軽いのも同時に落ちるか」という実験をした。ニュートンやコペルニクスの惑星運動の観測も同様だ。予測が的中した方の学説が正しく、予測がはずれた方の学説が間違っている。今回の化石でも、事実に反することを主張したのが定説の方なのだから、定説をあっさり捨てればよい。そうでしょ? 簡単ですね。

 しかし、これほど簡単なことができないのが、今の進化論や生物学だ。定説は間違っていると判明したのに、いまだに定説にこだわっている。「当然変異と自然淘汰」なんていう、愚にもつかない矛盾した説にこだわっている。「宇宙が回転する」という天動説並みですね。事実よりも妄想の方にこだわっている。
 クラス進化論によれば、「恐竜の時代に、大型の哺乳類が存在したはずだ」という結論が出る。だとすれば、こちらの方が実証されたのだから、こちらの方を採用するべきなのだ。
 事実を事実として認識できないで、「定説」とされる錯覚にこだわる種(ホモ・サピエンス)は、いまだ猿並みの知恵しか獲得していないのである。「コンピュータを使うから自分たちは利口だ」と勝手に自惚れる前に、「事実を事実として認識し、事実に反する仮説を捨てる」という実証的な態度を取ることが必要だ。それもできなくては、猿並みといわれても仕方ないのだ。

( ※ 「大型哺乳類が存在したはずだ」という話は、私の一年前に書いた原稿に記述がある。これは、出版予定原稿として、出版社に渡してあるけど、たいていの人は見たことがない。そのうち出版されるかも。)
( ※ クラス進化論は、該当サイト 。大型哺乳類の話はない。)
( ※ より本質的に言えば、「哺乳類」なんていう概念そのものが不正確だ。これは解剖学的な区別による概念だが、非本質的だ。まるで両生類とハ虫類を一緒くたにするようなものだ。多丘歯類・単孔類・有袋類などをひっくるめて「哺乳類」と呼ぶなんて、発想が粗雑すぎる。こんな粗雑な発想からは、真実はとうてい見えてこない。)







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「小泉の波立ち」
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