[付録] ニュースと感想 (79)

[ 2004.12.13 〜 2005.01.07 ]   

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● ニュースと感想  (12月13日)

 「財政再建と景気対策」について。
 増税(定率減税の廃止)が、いよいよ本決まりになったようだ。2年間で原則廃止だという。(朝日・朝刊・1面 2004-12-11 )
 これを景気対策の面から評価しよう。
 このことからわかるのは、政府がマクロ経済学を理解していない、ということだ。彼らの判断は何か? ミクロ的・古典派的な視点だけだ。「企業の業績が回復しつつあるから、景気は回復しつつある。ゆえに、増税してもいい」と。ここにはマクロ的な視点がまったくない。では、どこが間違っているか? 

 第1に、企業の業績が回復しつつあるというのは、生産量の低下が収まった(微分値がマイナスでなくなった)ということであり、絶対水準そのものの低下が収まったことを意味しない。絶対水準(GDP)そのものは、あいかわらず低い。
 第2に、企業の業績はともかく、国民の総所得はあいかわらず低い。国民は貯蓄を取り崩してかろうじて生活しているのであり、現状ではまだまだ成長が必要なのだ。(微分値がプラスになることが必要。)

 この二つの問題は、「国民の失業率が高い」ということから判明する。現水準のGDPでは、絶対水準が低すぎる。そのせいで、国民の生活は豊かになれないし、二十代の若者はまともな職に就けないでいる。ここで、「企業の業績は悪化しなくなったからそれでいい。もう景気を好転させる必要はない」なんていう発想は、あまりにも企業重視であり、国民生活を無視している。経済というものを、企業の数字だけでとらえて、人間の視点が欠けている。……要するに、古典派の主張では、企業さえ生き残れば、国民がすべて餓死しても構わないのだ。国民のために経済があるのではなくて、経済のために国民がいる。本末転倒。何のために経済学があるかを、根本的に勘違いしている。(ただの数字ごっこだと思っているのだろう。)

 マクロ的に言えば、総生産の拡大が必要であり、そのためには、総需要の拡大が必要であり、そのためには、総所得の拡大が必要だ。しかるに、「増税」は、総所得を縮小させる。当然、状況は悪化する。
 なお、増税をしても、企業業績はあまり悪化しないかもしれない。それを見て、「どんなに失業が増えて、どんなに自殺者が増えても、企業業績さえ悪化しなければそれでいいのだ。とにかく政府の財政を再建しよう」と古典派は主張するのだろう。「一将功成りて万骨枯る」に似て、「企業功成りて国民枯る」である。狂気の沙汰だ。
 マクロ経済学とは、総生産の理論であり、総所得の理論だ。それを無視して、経済というものを「企業活動の総和」と見なすのでは、経済というものを根本的に勘違いしているということになる。── そして、今の経済政策はそのように運営されている。
 しかも、たいていの古典派経済学者はそれを批判しない。たとえば、竹中などの経済財政諮問会議は、増税に反対するが、「企業収益に良くない」という意味でだけ反対するから、企業収益が黒字になっている状況ではまったく説得力がなく、増税派に押し切られてしまう。朝日新聞その他の大半のエコノミストは、「財政再建と景気回復の間の細い道を選ぶしかない」などとトンチンカンなことを言っている。
 日本には、まともな経済政策は、ほとんど提唱されない。私だけは声高に主張しているが。── まともな経済政策とは? もちろん、前述の通り。総生産の拡大をめざすために、総所得を増やすことだ。(つまり減税。)その場合にのみ、総生産が拡大して、失業も解決する。
 現状では、失業解決策として、「若年者に雇用訓練を」などという主張がなされるだけだ。馬鹿げた話。雇用者総数が増えない限り、誰かが就職すれば、誰かがあぶれるだけだ。「席が90人分しかないときには、100人は座れない」ということを無視して、「力の強いものから順に座れる。ゆえに各人が力を強めれば、全員が座れる」と結論して、「力を強めよう」と訓練させる。トンチンカン。
 今の日本の経済政策が、いかにメチャクチャであるかを、はっきりと理解しよう。そして、その理由は、政府が正しい経済政策を実施しないことではない。それは理由ではなくて結果だ。── では、理由は? 経済学者がみんなそろいもそろって、デタラメばかりを主張していることだ。

( ※ 財政再建との関係は、前項の 12月12日b を参照。)


● ニュースと感想  (12月14日)

 「突発性と不可逆性」について。
 経済学で重要な数学概念は、「突発性と不可逆性」である。このことを指摘しておこう。
 そもそも、現状ではどうか? 経済学者(特に古典派)は、「高度な数学を使うことが重要だ」と考えることが多い。そして高度な関数を使って、微積分の処理をしたりして、高度な数学を使っている、というふうに見せかけることが多い。
( ※ 本当は、高度な数学を使っているのではなくて、単に計算しているだけであり、複雑なのは計算だけであるが。それでも数式がいっぱい並べられていると、「ただの計算だな」とはわからずに、素人は「すごい」と感嘆してしまうものだ。無能な研究者ほどコケオドシをする、という見本。猫だましみたいなものだ。)
( ※ 「複雑系の科学と経済学」という話題もある。 → 9月28日

 さて。こうして高度な関数による複雑な計算がなされていると見えるとき、そこにあるのは、代数的な関数である。代数的な関数というものは、通常、次の二点が天下り的に前提されている。
  ・ 微分可能性
  ・ 可逆性
 ここで、微分可能性というのは、微積分のための必要条件である。「なめらかであること」と言い換えてもいい。また、可逆性というのは、「元に戻すことができる」ということだ。(可逆性の反対概念が、不可逆性だ。不可逆性は、エントロピーなどの「方向性」とは少し違う。たとえば、気体は、断熱状態では拡散していくが、外部のエネルギーによって冷却すれば収束していく。エントロピーについては、方向性は一応成立するが、不可逆性は成立しない。)

 この二点が前提とされている。ところが、経済学の現象では、この二点が成立しない。つまり、逆概念の「突発性」と「不可逆性」が成立することがある。以下のように。

 (1) 突発性(不連続性)
 「均衡 → 不均衡」という変化が起こるときに、突発的な変化(不連続的な変化)が生じる。ここでは、変化の起こる点において、なめらかな変化が成立せず、突発的な変化(不連続的な変化)が起こる。
 この突発性は、「頭打ち」とか「限界」とかいう形で表現できる。典型的な例は、「流動性の罠」だ。金利ゼロまでは均衡状態だが、金利ゼロになると、とたんに不均衡状態となる。
 この件は、トリオモデルによって説明できる。トリオモデルを参照。(「秩序理論」でも言及した・する。)

 (2) 不可逆性
 「均衡 → 不均衡」という変化が起こったあと、いったん不均衡になってから、均衡に戻ろうとしても、元の均衡には戻れない。前時点の均衡と、後時点の均衡は、同じではない。
 これは、わかりやすく言えば、「死んだものは生き返らない」ということだ。実例は、次のようなものがある。
  ・ 倒産した企業は復活できない。
  ・ 失業して自殺した失業者は生き返らない。
  ・ 学費未納で中退した生徒は、過去の人生をやり直せない。

 以上のようなことがあるから、「突発性」および「不可逆性」という概念は重要だ。しかるに、たいていの経済学者は、この概念がない。むしろ逆に、「なめらかさ」と「可逆性」を勝手に前提して、複雑な理論を演繹的に組み立てる。それが砂上の楼閣だとも気づかずに。

 では、「突発性」および「不可逆性」という概念を使うには、数学的には、どうすればいいか? どんな高度な数式を使えばいいか? 実は、高度な数式を使う必要はない。使うべきは、代数ではなくて、幾何学だ。そして、幾何学は、数式のかわりに、図形によって示されることが多い。
 そこで、幾何学的に経済学のモデルを用意すればよい。どんなモデルを? それは、すでに何度も示したとおり。ミクロのためのモデルが一つと、マクロのためのモデルが一つ。繰り返した話なので、ここでは再論しない。

 [ 付記 ]
 「突発性」および「不可逆性」について、本項ではざっと概略を示した。もっと細かな話を知りたければ、9月30日 において予告した近著を参照。
 なお、この近著は、ようやく原稿が完成した段階。ずいぶん時間を食いますねえ。  (^^);


● ニュースと感想  (12月15日)

 「バーチャル・カンパニー」について。
 事務用品メーカーのコクヨが、持株会社制に移行して、事業部を16の会社に分社化したという。おかげで意思決定の速度が数倍にも速くなったという。(読売・朝刊・経済面 2004-12-06 )
 これを読むと、「持株会社制はいいものだ」と思うかもしれない。しかし、制度なんかは、実質には関係ない。では、実質とは? 「権限委譲」である。事業部が独立会社になったということは、つまりは、事業部の段階にまで権限が委譲されたということだ。これが本質だ。
 そして、だとすれば、株式などの資本関係などはどうでもいい。事業部のままでも、それぞれの事業部に権限が十分に委譲されれば、分社化されたのと同じ効果が出る。── これが「バーチャル・カンパニー」の発想だ。

 バーチャル・カンパニーには、持株会社にはない利点がある。それは、「自由自在に制度を変更できる」ということだ。融通無碍である。世の中や事業の急速な変化に応じて、急速に制度を変更できる。
 具体的な適用の例としては、「デザイン部門の独立」が考えられる。デザイン部門は、勤務形態からして、一般の会社とは別のシステムをもつべきだ。真面目が取り柄なんている勤務制度はありえず、「成果だけで勝負」という厳しい成果主義であるべきだ。毎日真面目に十二時間働いてもクズなデザインしか生めない社員は切り捨てられる。女遊びのやり放題で、ろくに勤務しないで、長髪とジーパンで暮らして、たまに出社したと思ったら、ものすごい天才的なデザインを出す、という人物に莫大な高給を払うべきだ。(たとえ1億円払っても、会社は十億円の利益を得る。)……芸術家の処遇とは、そういうものである。
 そして、そうするためには、デザイン会社は独立した勤務制度や処遇制度をもつ必要がある。分社化またはバーチャル・カンパニーが好ましい。

 実は、このことを実質的には実行している会社がある。それは、映画会社だ。
 映画会社は、それぞれの映画ごとに、プロデューサーが全権限を握る。ここでは、プロデューサーが社長に相当する。ディレクター(映画監督)はチーム・リーダーだ。……ここでは、事業ごとにバーチャル・カンパニーになっているのと同じことだ。
 実を言うと、これと似たシステムは、普通の会社にもある。それは、「製品開発ごとのリーダー(開発主任)」というシステムだ。自動車の製品開発では、しばしばなされる。
 このシステムは、これはこれで、バーチャル・カンパニーに似ている。ただし、社内の競争がないせいで、独占&独善になりがちだが。(たとえば、日産のティーダみたいに、リーダーが暴走したあげく、ひどいデザインを採用して、市場では悪評さんざんになった、という例もある。)
 とはいえ、一定の社内評価システムさえあれば、バーチャル・カンパニーは好ましいものだ。特にデザイン関係や開発関係ではそうである。……というわけで、バーチャル・カンパニーを提言しておこう。持株会社や分社化よりも優れたものとして。権限委譲の一環として。

 [ 付記 ]
 権限委譲は、重要である。この件は、成果主義とも関連する。権限委譲なしの成果主義は、好ましくない。たとえば、製品開発の成果を問われるのであれば、製品開発のために必要な環境を整えるだけの権限を委譲してもらいたい。「金も人材も出さずに、成果だけを評価する」なんて制度では、駄目だ。
 ただし、無能な経営者ほど、そうするものだ。富士通みたいにね。実は、この会社は、「英語で評価」なんてこともやっていた。( → 2001年の 11月18日 ) で、その結果は、ひどいありさま。( → 11月18日


● ニュースと感想  (12月16日)

 「火災と突発的変化」について。
 火災が話題になっている。安売り店のドンキホーテの従業員が焼け死したという。いったん店舗の外に出たのに、改めて店内に入ったあとで、火に巻き込まれたという。(朝刊・各紙 2004-12-15 )
 こういうふうに、「いったん外に出てから、また中に入って、そのせいで焼け死した」という死者は、しばしば出る。では、なぜ? それは、人々の発想法による。
 人々の発想法は、「連続的変化」である。「火災は連続的に変化する」という前提の上で、「今はまだ小規模だから大丈夫。もう少し燃え上がったら逃げよう。それまでは、重要なものを外に出そう」と考える。そのあげく、死ぬ。
 では、正しくは? 「火災の起こり方は、不連続的変化だ」ということだ。「初めチョロチョロ、なかパッパ」みたいな変化ではなくて、「初めチョロチョロ、急に爆発的炎上」という変化だ。火災というものは、それが原則である。
 では、なぜ? 建物が近代化したからだ。昔なら、紙と木の家屋ばかりだった。だから急に炎上することはあまりなかった。今では、プラスチックの袋や日用品などが家屋にあふれている。これらは、加熱されると、可燃性のガスを発生する。ガスは、室内に充満したあとで、あるとき突然、爆発的に炎上する。これは火事の研究で広く知られた事実だ。(「フラッシュオーバー」とか呼ばれる現象である。うろ覚えだが。)
 「火災の起こり方は、不連続的変化である」── このことを理解しよう。物事は何でもかんでも「連続的に変化する」ということはないのだ。しかるに、人々はあまりにも、この思想に染まりすぎている。それが命を奪う。

 [ 付記 ]
 本項は、12月14日の「突発性と不可逆性」と同じ話題を扱っている。
 当然ながら、経済学の分野でも、この手の不連続性は現れる。しかしながら、現代の経済学(特に古典派)は、「連続性」を前提として、議論を組み立てている。典型的なのがマネタリストだ。「量的緩和を無限にやれば、必ず効果が出る」などと信じ込んでいる。「関数は必ず単調増加する」と信じており、「上限のある関数」(頭打ちになる関数)というものを理解しない。「不連続性」というものを理解しない。……あげく、「流動性の罠」のさなかに莫大な量的緩和をやろうとしたり、物価上昇のさなかに「利上げ」を高率でやったりする。(例は年利 50%になった、1990年代のロシアや韓国。)
 なお、このような話をいろいろと解説するのが、今度の近著だ。正しい原理的な理解をするには、どういう概念を取るといいか? ……「均衡/不均衡」を主題として解説します。おもしろいですよ。
( ※ この本は、完成しました。あとは、出版への手続きだけ。)


● ニュースと感想  (12月17日)

 「増税とミドル経済学語」について。
 増税の是非について、「財政再建をもたらすか/景気悪化をもたらすか」という話題で論議されることが多い。しかしここでは、「財政再建とは何か?」という根本原理が理解されていない。そのせいでトンチンカンな理屈になってしまっている。しかし正しくは、「ミドル経済学」で理解するべきだ。

 「財政再建とは何か? 通常は、「帳簿の数字をきれいにすること」だと思われているようだ。「借金が巨額だと、将来が危険だから、さっさと返済しよう」と思うわけだ。
 しかしこれは、「借金は悪だ」という基本認識の上に成立している。これは経営の基本的な発想とは正反対だ。「借金して、投資をして、企業活動をする」というのが、通常の経営である。ここでは、「借金は悪」ではなくて、「借金は善」なのである。なぜか? たとえ借金をしても、それによって生産活動をして、あとで返済すれば、悪いどころか良いことだからだ。例で対比すれば、
  借金あり …… 百万円の借金をして、二百万円を稼いで、百万円を返済する。
  借金なし …… 借金をしないで、働かずに怠けて、他人から十万円をもらう。
 今の日本が選んでいるのは、後者だ。しかし正しくは、借金して、働くべきだ。つまり、減税で金を得て、景気を拡大するべきだ。
 ここまでは、マクロ経済学の話。(何度も述べたとおり。)

 より根源的に言おう。ミドル経済学の発想を取る。
 そもそも、借金返済とは、何か? 帳簿の数字を減らすことか? いや、それは、実態経済には関係がない。実体経済では、何を意味するか? 次のことだ。
 「消費を減らして、投資を増やす」
 「高金利状態を解決して、上がりすぎた金利を下げる」
 たとえば、景気過熱期(インフレ期)には、消費が加熱している。消費が増えたので、消費を満たすための投資も増える。(加速度原理による。)かくて、総需要がやたらと増えている。このままだと、景気が暴走しかねない。そこで、通常、金利を引き上げる。(マネタリズム的な処方。)しかし、金利を上げると、投資が減少して、供給不足の状態をさらに悪化させる。下手をすると、ロシアや韓国のように、「物価上昇 → 高金利 → 倒産 → 供給減少 → 物価上昇」という悪循環が生じて、金利がやたらと上昇する。(両国では年利 50%を越えた。)……これはまずい。そこで、「投資を減らす」という処方のかわりに、「消費を減らす」という処方を取るとよい。それが、「増税」だ。これによって、過熱気味の経済を安定成長路線に乗せることができる。(クリントン経済の成功例。)
 ここで、ミドル経済学の発想をしよう。増税の金が「借金返済」のために使われるのであれば、国債の償還を通じて、金は金融市場に吐き出される。その吐き出された金は、どうなるか? 国債の償還を受けた人(国債保有者)は、手に入れた現金を、国債購入から、社債購入(または銀行預金)へと転じる。こうして大量の資金が、「国 → 民間」へと流れる。国が借金を返済すればするほど、民間の投資が増える。
 だから、「財政赤字の削減」(国の借金返済)とは、「民間投資の拡大」のことであう。それが必要なのは、「民間投資の資金が不足している状態」つまり「金融市場で高金利である状態」だ。「クラウディン・グアウト」の状態とも言える。)
 では、今は、どうか? 「金融市場で高金利である状態」か? 否。逆である。「金融市場で超低金利(ゼロ金利)である状態」である。クラウディング・アウトとは正反対で、金融市場がゆるゆるである状態だ。(流動性の罠。金余り状態。)
 民間の投資需要が不足している状況(ゼロ金利である状況)では、国による借金返済など、まったくの見当違いなのだ。国による借金返済は、いつかは必要になるが、それは、民間の投資需要が過熱した状況である。つまり、今とは正反対の状況である。
 「財政赤字の削減」(増税)というのは、いわば、過熱した経済に対する「解熱剤」である。経済が過熱しているときならともかく、経済が冷え切っているときに、こんなことをやることは、根本的に狂っているのだ。いわば、右へ進むべきときに左へ進み、上へ進むべきときに下へ進む、というようなものだ。

 マスコミの報道は、この根本原理をまったく理解していない。「うまく財政再建が行くかな」とか、「いつかは財政再建をしなくちゃ」とか、「景気悪化が起こるかどうかに注意しなくちゃ」とか、そういう主張をしている。
 とんでもない勘違いだ。毒については、「飲んでも死なないかどうか注意しよう」なんて判定するべきものではない。毒というものは、そもそも根本的に飲んではいけないのだ。「毒を飲んでどうなるか、数年後に結論後が出るだろう」なんていう判断は、根本的に狂っているのだ。

 まとめ。
 「うまく行けば財政再建ができて、うまく行かなければ景気悪化となる」という発想は、根本的に狂っている。財政再建は、それ自体が毒なのだ。それが達成されると、状況が好転するのではなくて、状況が悪化するのだ。
 財政再建は、いわば解熱剤である。インフレのときには有益だが、不況のときには有害だ。インフレのときには薬になるが、不況のときには毒になる。財政再建が進めば進むほど、「投資が増えて、消費が減る」という比率変更が進む。そして、それは、ゼロ金利のときには、百パーセント有害なのだ。益は、ただの一滴すらもないのだ。

 [ 付記 ]
 「増税による景気への効果は、五年後に判明するだろう」というのが、読売の社説。(朝刊 2004-12-16 )
 「増税は必要だろうが、国民にしっかり説明しなくては」というのが、朝日の記事。(朝刊 2004-12-16 )
 どちらも、「毒を飲んではいけない」という主張は、まったく見られない。「これは毒だ」という指摘すらない。もう一度、はっきり言っておこう。「毒を飲んでも死ななければいい」ということはないのだ。毒というものは、根本的に飲んではいけないのだ。
 では、かわりに、どうするべきか? 本項の前半で言ったとおり。「借金しないで、怠けること」をやめて、「借金して、働くこと」である。つまり、失業率を大幅に低下させるまで、借金によって景気刺激をすることだ。……こういう「実際の生産量を増やす」というマクロ的な発想が正解である。とはいえ、現実には、政府にもマスコミにも、マクロ的な発想はまったく欠落している。「借金の返済をしよう」というモラルを説くか、「企業の収益は黒字化している」なんていう(経済学でない)経営論議をするか、どちらかだ。
 日本には、経済学というものは、どこにも存在していない。経済学者というのは、経済のことを説くのではなくて、国の帳簿と企業の帳簿を説くだけだ。今の経済学者は、ただの帳簿屋ばかりだ。経済学者というものはどこにも存在しない。(このホームページ以外には。)


● ニュースと感想  (12月18日)

 「風邪と財政再建」について。
 風邪が流行っていますね。風邪を引く方法と、風邪を引かない方法。

 阿呆な人の、風邪の引き方。
 「もうすぐ週末で、どうせ休みだ。だからそのときに、風邪を治せばよい。それまでは、ちょっと無理をしよう。水・木・金と無理をして働いてから、土日に休めば、帳尻が付く。これぞ、合理的」
 → 風邪をこじらせて、いつまでたっても治らない。合計時間は莫大。

 利口な人の、風邪の治し方。
 「風邪を引きかけたな。じゃ、さっそく、休もう。風邪は引き初めが肝心だしね」
 → 一日か半日で、風邪を治す。合計時間は、最小。

 さて。実を言うと、これは、経済学でも同様だ。
 
 馬鹿 「すぐに増税をして、財政赤字を減らそう」
  → いつまでたっても、病み上がり状態が続く。累積損失は最大。

 利口 「今は減税して、一時的に財政赤字を増やそう」
  → 急激に景気回復して、病み上がりを脱する。累積損失は最小。

 現状の政府は、「馬鹿」の方を取っています。昔からそうだ。おかげで、 1991年のバブル破裂以来、13年間も不況が続く。このあと合計20年ぐらい続きそうだ。馬鹿の風邪と同じ。
 ちなみに、アメリカではブッシュが減税したので、1年で景気悪化を脱しました。


● ニュースと感想  (12月18日b)

 「景気診断のメモ」。

 (1) 財務省の証券の応募が多すぎて、金利がゼロとなる、という異常な現象。理由は、企業の投資意欲がないことと、日銀の量的緩和が過剰であること。(朝日・朝刊・経済面 2004-12-16)
 つまりは、投資意欲はあまり増えていない、ということ。前年同月比でいくらかは増えているとはいえ、まだまだ、投資意欲は少ない。当然ですね。消費が回復しないんだから。

 (2) ダイエーが前年同月比で大幅に売上げ減少。(読売・朝刊・経済面 2004-12-16)
 ダイエーだけではあるまい。ここ数カ月の売上げから類推すれば、他のスーパーもたぶん同様だろう。暖冬で冬物衣料が売れないせいだ、という説もあるが、あまり関係ないだろう。暖冬なら、かわりに別の物が売れればいいだけのことだ。
 ひょっとして、新型の携帯テレビゲームのせい? でも、スーパーでも、これを売っていますけどね。それとも、電器製品店で売上げが増えた? そちらのデータも参考にすると良さそう。(だけど、すぐに売り切れたらしいから、数字的には、たいしたことはないはず。)

 (3) 円高で、輸出企業が青息吐息。(最近、よく報道される。)
 そりゃ、そうでしょ。かくて、「円安による輸出拡大で景気回復」という「外需頼み」の経済政策は、ほぼ失敗に終わったことになる。つまり、輸出企業ばかりが儲けても、国民全体にはあまり影響しない、ということ。企業だけが黒字になっても、マクロ的にはあまり関係ない。「焼け石に水」というほどではないが、あまり効果はない。「縮小均衡」という状態だ。「これ以上は悪くはならない」というだけ。
 「無限の低下」かと思ったら、一定の底で、底打ちした。それを知って、「安心」と喜ぶ阿呆が多い。そのままだと、いつまでたっても、穴から脱せないのだが、「もう落ちないぞ。万歳」と喜ぶ。


● ニュースと感想  (12月19日)

 「景気と失業」について。
 若手の失業率は相変わらず高い。去年の数値だが、20歳〜24歳では失業率が 9.8%だ。この数値は、今年になってもたいして変わっていない。(今年、失業率は若干の改善を見せているが、はっきりした改善にはなっていない。)
 で、この年代の若者が、雇用状況で絶望的になって、犯罪に走る人も出てくるという。生々しい実例が報道されている。外食産業に勤務したが、バブル後ですごく厳しいので、ちょっとしたことで昇進不能となった。研修会で「客の方が悪いこともありますよ」と言っただけで、昇進資格すら奪われる。絶望して、大家を殺して、5万円を奪い、無期懲役。(朝日・社会面・特集・コラム 2004-12-17 )

 若者に漂う無力感。ひどいですねえ。
 経済というのは、国民の生活を直撃する。そのことをはっきりと理解しよう。朝日の社会部の記者は、そのことをちゃんと理解しているようだ。つまり「景気や経済は、国民生活に関係する、社会現象である」と。(社会部だから当然だが。)
 で、経済部の記者は? 全然、理解していない。かわりに、こういう記事を書く。
 「企業の収益性が改善している。ゆえに、景気は良くなっている。だから、増税しよう。それが正しいことだ。経済とは、企業の経営のことなのである」
 国民の視点がすっぽり欠落している。……呆れたもんだ。企業の数字だけを見て、国民の失業や自殺者なんかをまるきり無視している。こういうのは、古典派の発想だが、朝日は経済部も論説部も、こういう古典派で占められている。(政府と結託しているわけ。小泉や竹中と仲良し。)

 「サリンやテポドンや大地震よりもずっと怖いのが不況だ」と、はっきり理解しよう。金正日はテポドンで日本人を一人も殺していない。しかし小泉や朝日は、不況によって、日本人をすでに数万人も殺しているのだ。

 [ 付記 ]
 小泉や朝日は、「不況を続けるべしなんて言ってないぞ」と弁解するかもしれない。しかし、そんな弁解をしても駄目だ。「企業収益が向上しているから景気は回復している」と強弁して、「増税で財政再建」なんていう路線を取っている限り、実質的には、「不況を続ける」という方針を取っていることになる。
 たとえて言えば、悪魔が、「あなたを幸せにしてあげます」と言いながら、魂を奪うようなものだ。口で何を言うかが問題ではない。手で何をしているかが問題だ。……小泉も朝日も、悪魔と同様、甘い言葉をささやきながら、人々の人生を破壊する。
 その実例が、上記の記事だ。ここでは、本人が無期懲役になってしまったが、本当は、小泉や朝日を監獄にぶち込むべきなのだ。


● ニュースと感想  (12月19日b)

 「ビラ配りとテポドン」について。
 ミサイル防衛網の実験が失敗した。2年ぶりに実験したが、「当たらない」どころか「発射さえされなかった」という、信じられないようなデタラメぶり。(読売・朝刊・2面 2004-12-16 ,朝日・朝刊・天声人語 2004-12-18 )
 北朝鮮のテポドンは、少なくとも発射だけは成功したから、ミサイル防衛網というのは、テポドンよりもずっと劣っていることになる。ひどいね。こんなものに1兆円もかけるとは。

 (1) 防衛費
 ミサイル防衛網に多額の金を費やすせいで、他の防衛費がどんどん減っていく。銃はあっても弾丸がろくにない(ちょっと練習で撃ったら、それでおしまい)、というのが現状だが、その状況がますますひどくなる。

 (2) 費用対効果
 1兆円をかけて相手ミサイルを防止ししても、せいぜい、数十人の日本人しか救えない。

 (3) 領域
 もともとミサイル防衛網は二段階だが、発射段階での防止と着地段階での防止。着地段階では、領域が限定され、大都市と米軍基地しか担当領域ではない。他の大多数にミサイルが来ても防げない。

 (4) 目的
 要するに、本当は、米軍基地を守りたいだけ。日本人の生命を守りたいわけではない。だけど政府とマスコミは、それを隠して、「日本人の生命を守れ」と嘘の宣伝をする。ひどい嘘つきだ。本当の目的を隠す。悪魔的。(金正日そっくり。)

 (5) 地震対策との比較
 首都圏に地震が起こると、ものすごい被害が出るだろう、というレポートが出た。最悪で1万人規模の死者。(だけど、これは、甘すぎると私は思う。阪神大震災では、八千人ぐらいの死者が出た。首都圏なら、地盤の甘さも含めて、2万人ぐらいは死にそうだ。)
 で、その対策は? ほとんどゼロだ。1万人の人命を守る対策には、ほとんど金をかけない。テポドン対策のためには、巨額をかける。
 やっぱり、日本人の人命なんか、どうでもいいのだろう。(大事なのは米軍基地だけ。)

 (6) ビラ配り
 イラク戦争を批判するビラ配りをした市民活動化が、強引に逮捕された。被害届も出ていないのに、勝手に逮捕する。警察の公安課が被害調書を勝手に用意して、被害者(?)を呼び出して、「これはおまえが書いたことにする。だから署名しろ」とおどしつけて、勝手に事件を仕立て上げる。あげく、二カ月も拘留し、活動家を休職状態にして、給料をもぎとる。言論の弾圧。……あまりにもひどいと思ったが、さすがに裁判所も「無罪」と判決した。ただし、警察のやりすぎを明白に指摘せず、「その疑いもある」なんていう腰の引けた指摘だ。(各紙・朝刊 2004-12-17 )
 これを見る限り、日本には、表現の自由がまともに存在しない。政府批判をすると、違法な形で逮捕されてしまう。警察が違法行為をするわけだ。……これじゃ、フセインの独裁国家と同じだ。
 で、アメリカは「独裁政権打破」という名目で、イラクの市民に爆弾を落として、正当化した。だったら、金正日が「独裁政権打破」という名目で、日本の市民にテポドンを落としても、正当化されるだろう。……少なくとも、小泉の論理では、そうである。
 「北朝鮮は独裁だからいけない」なんて言っている連中は、小泉支持をしている限り、自己矛盾をしていることになる。彼らの言うとおり、「北朝鮮は独裁だからいけない」ということになれば、「日本は独裁だからいけない」という理由で、「北朝鮮がテポドンを日本に落とす」ということを、正当化することになる。
 金正日批判をしている連中は、日本人をテポドンで殺すのを正当化しているのも同然だ。


● ニュースと感想  (12月20日)

 「公共事業と費用対効果」について。
 「公共事業をやると社会のためになるぞ」というケインズ派の意見をよく聞く。しかし、「費用対効果」も考えた方がいいだろう。
 実例。東京都の地下ダム。地下に空洞を作った。浸水がなくなり、住民は大喜び。(朝日・夕刊・2面・コラム 2004-12-17 )
 で、費用対効果は? 費用は、1千億円。効果は、3千世帯が浸水を免れたから、概算で、10万円×3千世帯=3億円。つまり投資効率は 0.3%。33年でも、10%。これだったら、毎年、浸水家庭に 10万円ずつ補償した方がマシだろう。
 だいたい、浸水の防護なんて、各家庭でできる。単に家屋の位置を高めにしておけばいいだけだ。
 どうしてもやるなら、地下ダムの費用は各家庭が払うべきだと思うし、そこに自治体が半額ぐらいの補助をする、というぐらいで十分。それでも不満なら、引っ越せばよい。
 世の中には、住みにくい土地なんて、いくらでもある。新潟では雪が降るが、だからといって「自治体が補償せよ」なんて言わない。
 「公共事業」というのは、やはり、国の「投資」というよりは、国の「消費」ですね。「投資」というのであれば、ちゃんとその費用を回収するべし。利益享受者が国民全体である場合(一般の歩道)ならともかく、地下ダムとか、車道とか、砂防ダムとか、そういうのは、国民全体が利益を得ているのとは違うから、費用を利用者から回収できないのであれば、やめた方がいいですね。……ま、「投資」でなくて「消費」つまり「浪費」のつもりなら、ともかく。
 「公共浪費」と呼ぶのが正解かも。


● ニュースと感想  (12月20日b)

 「情報化とシステム」について。
 自動車の情報化が進んでいる。たとえば、カーナビや、自動車のナイトビジョン(暗視装置)や、自動運転装置。
 これらは、単体としての情報化だ。そこで私が提唱するのが、情報機器のシステム化だ。ここで言うシステム化とは、自動車内部のシステム化ではなくて、社会におけるシステム化だ。つまり、「協調化」だ。

 (1) 自動運転装置
 自動運転装置の協調化。高速道路に限っても、自動運転装置だけで運転するのは、ちょっと難しいだろう。というのは、人間の運転も混在しているせいで、人間がどういう動きをするのか、さっぱり予測がつかないからだ。誰かが急にブレーキを踏むかも知れない。そのせいで、多重衝突なんかも起こりかねない。
 そこで、人間と自動運転の混在ではなくて、自動運転だけに限定する。専用レーンを設けて(できれば車線を分離して隔離して)、そこでは自動運転だけにする。それぞれの機械の装置と、中央制御装置とを、情報で連結して、全自動車を統一した制御のもとで統制する。……これだと、混在の危険はない。また、人間だけよりも、さらに安全だ。電車ではATCという自動制御装置があるが、それを自動車に拡張したようなものだ。
 ただし、これを実現するには、専用レーンが必要となる。現状で満杯の東名高速では無理だろう。とはいえ、空いている高速道路はあるから、そこで実現できそうだ。特に、新設する高速道路では、こういうのがあると良さそうだ。

 (2) アイドリング
 アイドリング・ストップの、システム化ないし協調化。これは、約1年前に述べた。
   → 10月24日b

  【 追記 】
 自動運転システムは、単に実施するだけでは、あまりメリットがないので、普及しそうにない。そこで、提案。
 制限速度(巡航速度)を 150キロぐらいにするといい。どの自動車も同じ速度ならば、とても高速にしても大丈夫だし、また、自動運転なら、車間距離をあまり取らなくても済む。
 高速で運転できると、その分、人件費などが安上がりで済むことになるから、メリットが大きそうだ。

 高速化だと、デメリットもある? 燃料費や温暖化ガス? それはまあ、そうですけど、速度制限するよりは、空気抵抗を減らす方が有効だと思えますがね。高速運転の場合、燃料代の大部分は、空気抵抗の費用に化ける。

( ※ 余談だが、ラフェスタというのは、最低のひどい名前ですね。「祝日・祝祭の意味のイタリア語です」なんて宣伝しているが、ふん、イタリア語を知らないと思って馬鹿にしないでほしいね。イタリア語では、「フェスタ」です。英語の the に相当する定冠詞を付けて「ラ・フェスタ」だ。この車を英語に直して呼べば「 a the festival 」または「 the the festival 」だ。狂気の車名。日産というのは、気違いがそろっている。どうせなら「ちょびひげ2号」という車名にするべし。)


● ニュースと感想  (12月21日)

 「電子カルテと電子処方箋」について。
 電子カルテが普及しつつあるという。ただし、各病院ごとに書式などが別の規格であるため、互換性がないという。(朝日・朝刊・経済面 2004-12-20 )
 困ったものですね。前項と同じく、情報のシステム化がなされていない。つまり、単発のIT化がなされるだけで、社会全体のシステム化がなされていない。

 では、どうするべきか? もちろん、システム化をするべき。その具体的な話は、電子処方箋の話として、前に何度も述べたとおり。
( → 7月21日 。補充情報は 2月06日[ 余談2 ] ,3月19日 [ 余談 ])
 これを見ると、政府はその動きがあるようだが、ちっとも実現していませんね。また、朝日の記事には、政府による電子処方箋の進捗情報が記述されていません。
 朝日さん。記事を書くなら、小泉の波立ちを読んで、情報検索してから、書きましょう。

 [ 付記 ]
 本サイトのなかで検索するには、検索語に、「Nando」という語を付けて検索すれば大丈夫。たとえば、「電子処方箋」という用語を検索したければ、
         「電子処方箋 Nando
 というキーワードで検索すればよい。なお、google だと、本サイトがヒットしたあとで、
       [ 他、 www005.upp.so-net.ne.jp 内のページ ]
 というのが表示される。ここに細部が隠れているから、ここをクリックすれば、本サイト内の該当する全ページがわかる。


● ニュースと感想  (12月21日b)

 「クジラの異常死」について。
 クジラが大挙して浜に上がって死ぬ、という現象がしばしば見られる。「謎の現象」というふうにしばしば言われる。朝日の天声人語でも言及している。(朝日・朝刊・天声人語 2004-12-20 )
 しかし、この件は、先日、テレビで事情が解明されていた。米軍の潜水艦から発される強力なソナーの音波・超音波のせいで、クジラの脳のあたりが破壊されるのだ。浜に打ち上げられたクジラの脳を調べると、耳のあたりの聴覚器官が出血している、という共通症状が見られたという。(環境保護団体による医学的な解剖調査。) その後、その島の湾では、潜水艦による軍事演習がなくなったので、クジラの異常減少はなくなったらしい。
 とはいえ、潜水艦は世界各地(各海?)にウヨウヨいるから、クジラの被害はやまないのだろう。
 どうせ記事(コラム)を書くなら、こういう情報を得てから書くとよかったのにね。誰かにチェックしてもらえば、実りある記事を書けたのにね。残念。斬り。


● ニュースと感想  (12月22日+)

 前日分(自動運転システム)への【 追記 】
  → 該当箇所


● ニュースと感想  (12月22日)

 「ディーゼル自動車の功罪」について。
 朝日の自動車記事は嘘がやたらと多いし、また、週末版 be というのも嘘がやたらと多いが、両方が合わさると最悪になるようだ。週末版 be で自動車の解説記事をしているが、そこでは、「ディーゼル自動車の功罪」という話題で、「ディーゼル自動車は地球温暖化に改善の効果がある」という趣旨の記事を書いている。
 まったく呆れた話で、先日は「ハイブリッド車がいい」とか、「燃料電池車がいい」とか書いて、今度は「ディーゼル自動車がいい」だ。「あっちもこっちもいい」というやたらと自動車会社の提灯持ちばかりをやっている。
 本来なら、こう書くべきだ。
 「自動車のせいで毎年莫大な死者が出ているし、騒音被害もひどいし、ディーゼル微粒子で花粉症の被害もひどいが、自動車会社だけはボロ儲けであり、しかも、その自動車会社を援助するために国は莫大な国費を投じている(円安介入・道路予算)」
 と。なのに、その事実を隠蔽している。「国の金をマフィアがかすめとっている」という事実があっても、それとは逆に、「マフィアは実にこんなに人道的なことをやっているんです」という提灯持ちをするのと同様だ。まったく、腐りきっている。腐ったマスコミというのがあるとしたら、朝日がまさしくぴったりだ。記者連中は、袖の下をいくらもらっているか、はっきりと白状してもらいたいですね。

 だいたい、取材からして、自動車会社のデータに頼り切っているから、調査が一面的だ。「ディーゼル微粒子が莫大に出ていて、環境を悪化させている」という事実があっても、「ガソリン車との比較」はしないで、「他国の規制よりも日本の規制の方が厳しい」というふうに書き換えている。また、アメリカではカリフォルニア州では厳しい規制があるのに、それも故意に隠している。
 あげくは、東京都が「ディーゼル微粒子は環境には良くない」と述べているのに、「PMは良くない」と書いて、まるで「午後は悪い」というふうにゴマ化している。さらには、東京都がはっきり批判しているのに、「懐疑的である」というふうに言葉を勝手に修飾している。捏造に近い記事だ。
 
 また、「ディーゼル車は、環境悪化がひどいのに、税金は極端に優遇されている」という事実を隠している。ま、ひところに比べれば、少しは甘さが薄らいだが、それでもいまだに、ディーゼル車は税金で優遇されている。本来なら、環境悪化との比較で、莫大な環境税を課されても不思議ではないのに、逆に優遇されているのだ。そのことを記事は少しも言及していない。

 一番ひどいのは、「地球温暖化」とのかねあいで、「善である」という口調で書いていることだ。ディーゼル車なんて、ハイブリッドと比べれば、たいして効率が高いわけではない。少なくとも日本の環境では、ディーゼル車よりはハイブリッドの方がずっといいはずだ。
 ただし、欧州は、ディーゼルが優勢である。その理由は? 次の通り。
 要するに、国情の差がある。日本は欧州とは違って、平地の人口密度が極端に高い。こういう国では、ディーゼル自動車よりもハイブリッドの方が適しているのだ。何が何でも欧州の真似をすればいいわけではない。
 
 さて。以上のことは、自動車関係の理系技術の知識があれば、容易にわかることだ。朝日の記者の駄目なところは、理系の知識が何もないくせに、やたらと技術関係の記事を書くことだ。そのせいで、メーカーの発表資料を鵜呑みにして、メーカーの長身持ちばかりを書くハメになる。
 たとえて言おう。チッソという企業が、有機水銀を垂れ流して、水俣病を起こす。これに対して、どうするべきか? まともなマスコミならば、警鐘を鳴らす一匹狼みたいな大学研究者(宇井純)に取材して、企業の利益優先主義を批判して、国民の生活を守ろうとするだろう。それこそ、マスコミとしての、あるべき姿だ。
 しかし、朝日ならば、そうはしない。企業を訪問して、企業の技術解説を鵜呑みにして、企業の資料を要約するだけで、「記事ができました」と提出する。たとえば、「チッソというのは、すばらしい先端企業です。環境保護のために努めています。チッソの製品はこれこれの地球環境保護の効果があるのです。また、チッソの廃棄物に対する規制は世界で一番厳しく、その基準を見対しているのです。チッソは何とすばらしい清い企業でしょう」と提灯持ちをする。そして、そのあとで、接待を受けて、袖の下をもらう。
 腐れマスコミ。こういう新聞社は、存在そのものが、国民にとって有害だ。一日も早く倒産させた方がいいね。
( ※ 仮に、朝日が倒産したら、ただそれだけが、小泉政権の立派な成果となる。)

 [ 付記1 ]
 ま、とにかく、基本としては、技術音痴の文系人間が理系の技術記事を書くのはやめてもらいたいものだ。また、最低限、賛否両論を十分に検証するべきだ。「最後に反論をちょっとだけ」なんていうふうにお茶を濁すのでは駄目だ。
 だいたい、マスコミの使命というのを、履き違えている。企業の宣伝をしたいのであれば、しっかり広告費をもらって、全面広告にすればよい。そうでないのなら、梗概の垂れ流し企業の「公害礼賛記事」なんてものを書くべきではない。
 だいたい、朝日にかかれば、オウムのサインだって正当化される。「今回のサリンは、人を殺害する能力が半減しました。それだけ国民にとって有益です。ですから、今回のサリンを地下鉄でばらまくのを、推奨してください。なにしろ、アメリカはベトナムでマスタードガスでものすごい死者を出したのに、われわれのサリンでは桁違いに少ない死者しか出さないんです。すばらしいでしょう?」
 それを受けて朝日は「すばらしい麻原尊師!」という提灯持ちの記事を書く。……馬鹿げた話だが、それが今回の記事だ。「サリン」を「ディーゼル微粒子」と置き換えて、「麻原」を「自動車会社」と置き換えれば、そっくりそのままだ。
 ついでに言えば、オウムや麻原は、自動車会社よりもずっとマシである。なぜなら、サリンで死んだ死者数はずっと少ないし、また、国の金もちっとももらっていないからだ。自動車会社はその点、全然違う。毎年1万人以上を殺しているし、国からもらった金も莫大である。オマケに、厚かましいことに、「莫大な金額で納税しています」と言い張る。いくら納税しても、その金は道路予算となって、払った以上の金が戻ってくるのだが、それはほおかむりして、「納税しています」という。オウムや麻原だって、ここまで厚かましくはなかったけどね。

 [ 付記2 ]
 念のために言うと、私は「自動車を廃止してしまえ」と言っているわけではない。今さらなくすのは不可能だろう。ただし、あるならあるでいいが、「自分は利益を得るが、一方で、他人に迷惑をかけている」ということを忘れるべきではあるまい。
 こういう人間としての最低限のたしなみを忘れた連中が、「エゴイズムで社会は最適化する」なんていうデタラメ論理を主張する。悪人の論理。
( ※ それを体系化した学問が「古典派経済学」である。)


● ニュースと感想  (12月23日)

 「読解力と読書」について。
 若者の学力低下が、話題になった。( → 12月10日
 その原因として、「読解力不足」がしばしば指摘されている。また、その対策として、「読書」がしばしば提案されている。
 しかし、である。どうやって読書を増やすのか? 「朝の読書運動」というのはある。これはこれで有効だ。ひところなら、これをやると、生徒が休み時間にこぞって朝の読書の続きを読みたがるようになっていたという。
 ところが最近では、朝の五分間か十分間だけで、その後は自発的に読まなくなったという。「朝の読書運動」というのは、「何でも好きなものを読みなさい」ということだから、たとえポルノでも(というのは極端だが)、ポケモンでも何でも勝手に読んでいいのだが、それでも最近の子供たちは読書する気がなくなってきたという。最低限の活字力がない、というよりは、根気そのものがなくなってきているようだ。

 となると、「読書をさせる」ということを狙うだけでは、駄目なようだ。根源で対処しなくては。
 根源とは? テレビゲームだ。こいつを除去しないと、こいつに感染した頭をクリーンにできまい。麻薬中毒と同じ。中毒にかかったら、放置するだけでは直らないから、強制的に隔離して治療する必要がありそうだ。

 ただし、である。これを実現するには、大人がまず、ゲーム機を家庭から追放して、自分でもゲームを一切やらない、と決める必要がある。かわりに、読書をたっぷりやる必要がある。(親を見て子は育つから。)
 大人の頭をクリーンにすること。大人を中毒から治療すること。……こっちの方が難しいかも。
( → 12月10日 [ 付記 ]5月28日b

 [ 付記1 ]
 私はよく、ゲーム機批判をするが、これは、現代の風潮に逆らっているわけで、けっこう逆風を浴びそうだ。というか、「ゲーム機をやるから馬鹿になる。こんなものは捨ててしまえ!」なんて主張をすると、総スカンを食いそうだ。
 かわりに、「ほどほどにやればいいんだよ。捨てることはないぞ」という意見が主流であるようだ。で、「毎日30分〜1時間までならいいだろう」と子供に言う。
 ふん。そういうふうに生ぬるいことを言うのは、私の体質に合わないんだ。「駄目なものは駄目」と啖呵を切るのが、私の主義だ。
 しかしまあ、逆風を浴びるのは、やむを得ない。時代の風潮に逆らうからには、他人から見れば無謀なドンキホーテに見えるかも。ま、仕方ないですね。

 [ 付記2 ]
 より本質的には、親の愛情の問題だ、とも思える。親が子供からテレビゲームを取り上げるのは、大変だ。それよりは、猿にバナナを与えるように、子供にテレビゲームを与える方が、手間がかからなくて済む。で、そういうふうに親が怠けたがるから、子供がスポイルされるわけだ。
 子育てというのは、結構手間がかかるし、親には多くの愛情が必要とされる。たとえば、子供にまともな味覚を育てるには、市販の離乳食なんかを与えずに、親が手間暇かけて自分でちゃんとした自然食品の離乳食を作ってやらないといけない。(林望が草本に書いている。)
 現代の子供が馬鹿ぞろいだとしたら、親の教育がなっていないからだ、ということに原因があるのかも。……ま、昔だって、親はいい加減なことをしていたのだが、当時はテレビゲームなんていう悪魔の機械はなかった。世の中がウィルスぞろいになると、防御にも手間がかかる。そういうイヤな世の中になってきたわけだ。
 情報化社会って、イヤですね。百害あって百利あり。……ま、そう自覚していればいいのだが、「一害なくて百利あり」なんて宣伝をする企業やマスコミが多いから、人々は悪魔にたぶらかされるわけだ。
( ※ でもって、ドンキホーテが警鐘を鳴らすわけだ。)


● ニュースと感想  (12月24日)

 「ボランティアの義務化」について。
 ボランティア活動を学校教育で義務づけよう、という動きがある。これについて、「ボランティア(自発活動)を義務づけるというのは、矛盾している」という批判が、かねて出されている。「奉仕と呼ぶならともかく、ボランティアと呼ぶのはおかしい」と。
 実際、生徒としても、そういう反発を出す生徒が多いらしい。で、奉仕活動をしても、あえて「単位」として申告しない、という生徒も多いという。(朝日・朝刊・地方版。2004-12-17 )

 まったく、もっともな話である。「自発活動を義務づける」というのは目ちゃうちゃだし、「強制したものを自発活動と呼ぶ」というのもメチャクチャだ。
 そう言えば、私は昔、似たことを考えたことがある。「自粛」という言葉。天皇崩御のときにさまざまな歌舞音曲などに「自粛せよ」という訓令が出たが、「自分が自粛する」ならともかく、政府が「自粛せよ」と強制するとは、これいかに? メチャクチャですね。

 ま、用語の問題は別として、本題に戻す。
 この問題については、対立がある。次の二点だ。
  ・ 生徒に奉仕活動をさせることは、教育的に有益だ。
  ・ 自発的にやることに意義があるのであって、強制は無意味だ。
 この二点は、ジレンマだ。そこで、教育関係者は悩む。

 そこで、この二点を解決する案を示そう。それは、次のことだ。
 「生徒を奉仕活動の場に置く。ただし、その場にいることは義務づけるが、その場で奉仕活動をするかどうかは、自発意思に任せる。何もしないでただ立っているだけでもよい。(ただし携帯テレビゲームなんかをしては駄目。)
 ま、他人が活動しているのを、見ているだけでもよい。それはそれで、ちゃんと単位を与えよう。また、「する」のと「見る」のとで、成績に差を付けることもしない。全員に等しく「良」(5段階評価の4)という成績を付ける。サボってテレビゲームをしている生徒には落第点を付けるが。

 この場合、上記の二点のジレンマは解決する。
 第1に、多くの生徒は、ちゃんと奉仕活動で単位を得るのだし、ちゃんと自発的意思によって奉仕活動をする。
 第2に、少数の生徒は、ただ見ているだけだ。何もしないで単位を得ていることになる。しかし、それはそれで、別に害があるわけではない。テレビゲームをしていて単位をもらうのとは違う。実際、「見る」ことには、それなりの教育効果がある。だいたい、「まともにやってないのに単位をもらう」というのなら、他の科目だって同様だ。

 実を言うと、この方式には素晴らしい利点がある。それは、「ただ見ている生徒たちが、自発的に奉仕活動をするようにある」ということだ。先生が「やれ」と義務づけても、ほとんど教育効果はない。しかし、「やらなくてよい」と言ったあとで、「見ているだけじゃ詰まらない。やった方がいい」というふうに試してみて、試したあとで、「やりがいがある。感謝される」と気づけば、ものすごく大きな教育効果がある。
 そして、このような巨大な効果をもたらす理由は、「義務づけない」ということだ。「やらなくてよい」と告げることで、自発的に「やろう」という気にさせる。これこそボランティアの実現だ。

 ただし、そのためには、焦ってはならない。「ちょっと見学させて、それですぐ自発的に奉仕活動をする」なんていうふうに期待してはならない。一年も二年も、ただの見学が続くこともあるだろうが、それでもいい。気長に待つことが大事だ。
 教育とは、何かをやらせることというより、何かをやる機会を与えることだ。目先のことにこだわらず、長期的に生徒を育てることが大切だ。たとえば、今の大人たちは、ろくにボランティアもしない人がほとんどだ。フリーソフトをタダでもらう人は多いが、フリーソフトをタダで配る人は少ない。

 経済学の世界では、「エゴが社会を進歩させる」という主張が多い。しかし、そんな主張は真理からはほど遠いのだ。「エゴ」のかわりに「愛」や「奉仕」を告げる教育というのは、とても大切なことだ。


● ニュースと感想  (12月24日b)

 「鳥肌が立つという用語」について。
 恐怖の場面で使うべき「鳥肌が立つ」という言葉を、感動の場面で使うことは、誤用か? 
 最近ではしばしば見られるし、「最新の大辞典類にもそういう記述がある」という弁解もある。(朝日・朝刊・天声人語 2004-12-12 )
 しかし、「使われているから正しいのだ」というのは、それはそれで一つの立場だが、「長いものには巻かれよ」ないし「勝てば官軍」という発想であり、あまり本質的ではない。もう少し本質的に考えよう。

 鳥肌が立つというのは、どういう場面か? 本来は、寒さの場面で起こる。今は冬で、寒いから、そういうことも起こるだろう。たとえば、お風呂上がりで温まったあとで、しばらく体の一部を寒気にさらしていると、鳥肌が立つ。(全身を寒気にさらすと、風邪を引きますよ。念のため。)
 ここでは、「寒い」と感じるような神経の感覚にともなって、毛が逆立って、鳥肌が立つわけだ。しかも、恐怖を感じたときは、ひんやりした感じがする。生理的に言って、こういうことはある。で、ひんやりした感じにともなって、毛が逆立つ。

 問題は、感動の場面だ。ひんやりした感じがして、毛が逆立つか? よく考えると、「ありえない」とわかる。感動した場面では、肌が「びびびっ」と引きつるような感じがすることはあるが、ひんやりした感じにはならない。「鳥肌が立つ」というよりは、「肌が震える」「肌に電撃が走る」という感じだ。「身が震える」と言ってもいい。
 だから、「感動して、身が震えました」とか、「感動して、肌に衝撃が走りました」とか、「肌が引きつるような感動を受けました」とか、そう語るべきだ。「鳥肌が立ちました」というのは、不正確かつ誤用である。
 
 要するに、言語レベルが低下しているから、こういう誤用があっても、なかなか気づかないわけだ。12月10日 の「学力低下」の話で、言語能力の低下の話をしたが、それと同様だ。朝日の天声人語もまた、同様。不正確な言葉遣いをしても、それを反省するどころか、誤用を正当化する。(政治家の強弁と同様。)
 言語力が低下しているのは、若者だけではないようだ。


● ニュースと感想  (12月25日)

 「朝日の狂気的な用語」について。
 またまた出ました。朝日の狂気的な用語。コンピュータによる画像装置(MRI)を液晶画面に投影したら、それを「カーナビと同じ」だと解説している。(朝日・朝刊・1面 2004-12-23 )
 だったら、画面に矢印などが出て、いろいろと解説情報が画面に表示されるのかと思ったら、とんでもない。ただの画像が表示されるだけだ。つまりは、カメラと同様だ。……ま、ただのカメラと比べると、ちょっと違うが、赤外線カメラとなら、似たり寄ったりだ。
 こんなものを「カーナビ」と呼ぶとしたら、例のレジェンドの暗視装置(ナイトビジョン)だってカーナビだ。また、テレビだって、テレビ電話だって、パソコンだって、携帯電話のカメラだって、何でもかんでも、みんなカーナビになってしまう。狂気的。
 朝日はデタラメな用語を使わないでほしいね。自分が狂気的なのはいいが、読者を狂わせないでほしい。
 責任は? デスクと整理部だ。だいたい、朝日の整理部は、勝手にダジャレばかりやっているから、他人がダジャレみたいな記事を書いても、指摘できない。おかげで読者は、「このダジャレの意味は?」とさんざん頭をひねらないと、意味が通らない。
 記事でなぞなぞをやるのは、やめてほしいね。マスコミとしての責務が何であるかを、すっかり忘れている。「新聞とは情報伝達のための公器だ」ということを忘れて、「新聞とは自分のダジャレで遊ぶ場だ」と思い込んでいる。朝日狂気新聞。……というか、もはや、新聞ではないね。ただの落書き版だ。記者専用の。


● ニュースと感想  (12月25日b)

 「皇太子の発言」について。
 皇太子の発言を巡って、先日、礼宮が批判的な言葉を口に出したが、これは天皇の心中をおもんぱかってのことだったようだ。23日の天皇の談話でも、天皇が皇太子の心中を量りかねて、悩んでいるようだ。それでも皇太子は、自分の言葉の真意を明かさないという。そこで、マスコミは、「皇太子は真意を明かすべし」というような論調を出している。
 マスコミの馬鹿さ加減にも呆れる。相手が政府ならば、「政府の意図を国民に明らかにせよ」と非難してもいい。しかし、相手が(皇室であれ何であれ)個人であれば、「おのれの真意を明らかにせよ」などと要求するべきではない。だいたい、そんなことは、いちいちマスコミが言わなくても、皇太子はわかっているのだ。わかっていて、なおかつ、口にできない。そういう事情があるのだ。
 マスコミには、人間性というものがないのだろうか? 相手を非難することしかできず、相手の心中を推し量れない。そういう連中には、心の優しさとか人間性とかいうものが、根本的に欠けているのだろう。

 私なりに推定してみよう。とにかく、皇太子としては、「たとえ相手が天皇であれ、はっきりと口に出せない」ような事情があったのだ、と推察される。そして、それは、誰を守るためかといえば、国民でもなく天皇でもなく、たった一人の妻であろう。そのことをあからさまに語ることで、おのれの愛する妻が傷つく。だからこそ、他人に何を言われようと、「こうだ」とはっきり口にできない。
 ここまで推察すれば、「雅子妃の人格を否定する動き」とは何かが、おぼろげに推定できる。それは、こうだ。
 「公務なんかどうでもいいから、お世継ぎを産め。皇太子妃の最大の責務は、お世継ぎを産むことである」
 逆に言えば、こうだ。
 「お世継ぎを産まない限り、あなたの人格には何の意味もない。あなたの役割はただの出産道具である。あなたの頭脳も美貌もキャリアも、何の意味もない。国家にとって、あなたの意味はただ一つ、子宮だけだ」
 ま、これほどあからさまではないだろうが、「産め、産め」といわれた方にとっては、このくらいのひどい非難に感じられたはずだ。当然、ストレスに苛まれるだろう。
 
 しかも、である。お世継ぎが産まれないとしたら、それは、雅子妃の責任ではないと思える。ずっと近親婚を続けてきた天皇の系譜それ自体に問題があった可能性が高い。礼宮のところも含めて、女系の子供ばかりが産まれて、男子は生まれにくくなっているが、これは、明治天皇のころからそうだった。もっと古くからも、そうかもしれない。
 ま、このあたりは確率的な推定だから、明白なことは断言できないが、雅子妃に大きな問題があったとは言えそうにない。にもかかわらず、雅子妃に「産め、産め」という圧力がかかる。

 では、どうするべきか? さっさと「女帝の天皇」を認めるように、法律を改正すればよい。国民がなすべきことは、「皇太子はこれこれをしろ」と注文することではなくて、まず自らが「法律を改正する」という仕事をなすことだ。雅子妃の娘なら、雅子妃みたいな女性になりそうだから、天皇の資格は十分にある。

 [ 余談 ]
 だいたい、国民は、天皇一家に対して、注文の付けすぎだ。たいして金を払ってもいないのに、やたらと薄給のスターとしてこき使っている。申し訳ないと思わないんですかね。
 仮に、私が天皇一家に生まれたとしたら、「馬鹿馬鹿しくてやっていられるか」とケツをまくって、「皇位放棄」をして、さっさと民間人になります。そのせいで、はるか遠くの遠縁に天皇の位が移って、「万世一系」なんていうのが崩れたとしても、そんなのは、私が知ったこっちゃない。「南北朝のころから崩れているじゃないか」と指摘して、知らんぷりだ。……ひどい男ですね。国民に対する責任なんてものを全然わきまえていない。最悪の野郎だ。
 それに引き替え、国民に対する責任をわきまえて、自我を殺して、ひたすら奉仕する皇太子は、実に偉い。おいしいものは食べられるが、糖尿病や成人病になったとしても、なおかつ美食を食べなくてはならないので、早死にするかもしれない。かわいそう。……ま、そのくらいならばまだ我慢できるが、うるさいマスコミにさんざん非難されるのは、まったくストレスが溜まるでしょう。皇太子が歩くと、蠅や蚊のように、マスコミがぶんぶんまとわりつく。つらいでしょうねえ。……私だったら、マスコミにキンチョールをふっかけてやります。


● ニュースと感想  (12月26日)

 「変動と調節装置」について。
 景気は変動する。この変動をなくすこと(不況やインフレを解決すること)が、経済学の主たる目的だ。では、どうすればいいか?
 ここで、「変動と調節装置」という発想が出る。次のように。
 「景気は変動する。この変動を吸収するように、何らかの調節装置を使えばよい」
 このような調節装置の具体的なイメージとして、水を溜める「ダム」というものがある。水の流入の変動を「ダム」で調節するわけだ。これに似ているのが、タンク法における「タンク」という発想だ。
 このような発想について、解説しておこう。(発想法の解説。)

 (1) 中和政策
 中和政策では、「減税のあとで増税」である。ここでは、調節装置に当たるものは、国家財政だ。一時的に財政赤字が拡大して、その後に財政赤字が減る。財政赤字が調節装置の役割を果たして、景気を調節する。
 とすれば、一時的に財政赤字が拡大するのは、むしろ、調節装置が正常に働いているということだから、好ましいことだ。
 逆に、この調節装置を使わないとするのは、変動をそのまま取り込むということだから、好ましくないことだ。
 例。「今年の夏は、日照りで水不足が予測される。だから、あらかじめ貯水量を増やしておこう」という判断に対して、古典派経済学者が反対する。「水も財政赤字も、たくさん溜まると、あとで困ったことになりかねない。水があふれるとダムが決壊するし、財政赤が拡大すると国家財政が破綻する。ゆえに、貯水量も、財政赤字も、常に最小にするべきである。日照りまたは景気悪化予測されるとしても、とにかく、貯水量と財政赤字については削減するべきだ。」
 これは、「調整装置」という発想を否定して、「とにかく減らせ」という発想だ。愚の骨頂。
( ※ この比喩から、「一字的に財政赤字を拡大する」という中和政策が、調整装置としての機能をもつことがわかる。)

 (2) タンク法
 タンク法の発想では、調整装置としてマネーを使う。ここでは増えたり減ったりするのは市場のマネーであり、タンクというのは架空の「マネー・タンク」である。(マネーのダムのようなもの。)また、マネーを出したり減らしたりするのは、日銀である。
 なお、マネーを受け取るのは、国民である。ここでは、「日銀 → 政府 → 国民」という経路を取る。このうち、「政府 → 国民」という経路は、減税であるから、この箇所は、中和政策と同様だ。ただし、「日銀 → 政府」という経路(赤字国債の発行)があるところが、中和政策では言及されていないところだ。
 中和政策をやるとき、買いオペと一緒にやると、自動的に中和政策はタンク法になってしまう。だから、「何をやるか」という点では、中和政策もタンク法も同じことだ。ただし、理論的に厳密に考えるときには、買いオペの効果も考慮するので、タンク法で理解する方が正しい。
 タンク法の発想をするなら、「財政赤字を考えるとき、金融の効果も理解するべきだ」とわかる。単に「財政赤字が増えた、減った」と論じても不正確であり、同時に、「貨幣量が増えた、減った」も論じるべきである。(同時に、物価上昇の効果も考慮するべきである。借金返済における「増税」と「物価上昇」の二つの形が等価であることは、ミドル経済学からわかる。)
 さて。こうして見ると、「増税で財政赤字を減らす」というのが、いかに馬鹿げた発想であるか、よくわかる。なぜなら、たとえそれによって財政赤字を減らしたとしても、同時に莫大な量的緩和をやっていては、尻抜けになるからだ。「財政赤字を減らすことで、将来の物価上昇を未然に抑制します」なんて主張をしても、同時に「莫大な量的緩和」なんかをやっていては、まったくの尻抜けである。「ブレーキを踏みます」といいながら、「アクセルを踏んで加速する」というようなものだ。
 では、その差し引きは? もちろん、何度も批判したとおりで、最悪だ。「増税」の効果は、「目先の財政赤字減少」をもたらすように見えるが、しょせんはGDPの縮小を招くから、結果的には財政赤字を拡大させる。その一方で、量的緩和が続くから、将来の物価上昇の危険も高まる。
 正解は? 最善の策は、最悪の策の逆である。つまり、「減税」と「利上げ」だ。減税をすることで、景気刺激をする。と同時に、利上げによりゼロ金利を脱し、異常な量的緩和をやめて、将来の「インフレ暴走」を未然に防ぐ。具体的に言えば、「20兆円の減税」と、「数十兆円の量的緊縮」(金利は年利1%程度にする)である。この効果は? 「消費の拡大と投資の縮小」である。これはこれでいい。どうせ稼働率が低下している状況だから、投資はやたらと増やす必要がない。具体的に言えば、GDPを40兆円ぐらい拡大して、そのうちの30兆円ぐらいは消費拡大、残りの10兆円は投資拡大。比率で言うと、4対1。その分、投資の比率は低下する。(投資の絶対額が低下するわけではなくて、投資の比率が低下するだけ。)

 [ 余談 ]
 ダムについて。
 抽象的なダムではなくて、現実のダムの話。
 「ダムは水害を防ぐ」という話があるが、それがうまく機能しないことがある。発電専用ダムでは、台風が来るとき、直前まで、水を溜め込む。そのあとで、いきなり放水する。その結果、水害を防ぐ効果がなくなる。
 では、どうするべきか? もちろん、溜め込むのをやめて、事前に放水すればよい。ただし、そうすると、発電量が下がるかもしれない。そこで、電力会社はいやがる。
 この解決策は、簡単だ。自治体が電力会社と契約すればよい。「台風が来る」となったら、「そちらの水を放出してください」と頼む。電力会社は嫌がるので、「水を減らしたぶん、その分の電気代を払います。10万ワットの減少なら、その分の金を払います」と自治体が言う。これなら、電力会社は文句はない。自治体としても、10万ワットの電気代を払うだけで、まるまるダムを1個造ったのと同じ効果がある。ものすごく安上がりだ。
 しかも、である。現実に台風が来たとしよう。その場合、ダムは満杯になる。とすれば、自治体は、「借りた水は、返しました。ダムはいっぱいになったんだから、文句はないでしょう? お金でなくて、水で返します。借りた水は、水で返します」と言う。これなら、10万ワットの代金も払わないで済む。
 つまり、無料でダムを1個建設したことになる。お利口ですね。
( ※ だけど土建産業と自民党は、嫌がる。「談合と賄賂でも受けられなくなった。国民の税金を食い物にしていたのに、それができなくなった。困る」と。)


● ニュースと感想  (12月26日b)

 【 告知 】
 このあとしばらく、お休みです。
 ただし、ときたま更新するかも。


● ニュースと感想  (12月30日)

 「インフレとスタグフレーション」について。
 景気は相変わらずひどいですねえ。最悪よりは少しまともになったが、テストの点数で言えば、10点から 15点に上がったようなものだ。「可」をもらう50点にはほど遠い。……しかし、それにもかかわらず、政府とマスコミは、「点数が上がったから嬉しい」なんて喜んでいる。劣等生の感覚。情けないね。

 ただし、である。現状はひどいものだが、それでもまだ、一つだけ慰めもある。それは、「経済政策が何も実施されていないこと」だ。つまり、「悪いことはなされていなこと」だ。
 現在の経済学者の主流は、何か? マネタリストの「金融政策」だ。これはほとんど無効になっているが、仮に、これが有効になったら、どうなるか? 「物価上昇」が発生する。で、マネタリストはそれを見て、「物価上昇だからインフレだ」と喜ぶ。(その代表が「インフレ目標」という政策だ。クルーグマンの「インフレ目標」を勝手に拡大解釈した、マネタリスト流のインフレ目標。)

 さて。「物価上昇」とは、「インフレ」のことなのか? 「イエス」とマネタリストは答える。「インフレは貨幣的な現象である。デフレも貨幣的な現象である。貨幣が増えたらインフレ、貨幣が減ったらデフレ」と。
 残念でした。そんなことを、経済学の初級試験で解答したら、ペケです。正解は、次の通り。
 要するに、物価下落の状況は「デフレ」の一通りだが、物価上昇の状況は、三通りある。つまり「良性インフレ / 悪性インフレ / スタグフレーション」だ。……ところがマネタリストは、この三通りを区別できない。「物価上昇があれば、必ず良性インフレになる」と思い込んでいる。彼らの頭には、「悪性インフレ」や「スタグフレーション」という概念がない。(たぶん経済学のお勉強をしなかったのだろう。)
 本質的には? マネタリストは、貨幣量だけを考えて、生産量を無視する。その結果、狙いとは逆の結果を招く。では、どういうふうに? 
 マネタリストは、「良性インフレ」をめざす。しかし現実に起こるのは、「スタグフレーション」だ。なぜか? 次の過程を取るからだ。  たとえば、8月に物価上昇があって、物価が5%上がったとする。しかし、翌年の4月までは賃上げがないから、物価が5%上がった分、実質所得は5%減少する。当然、総需要も5%減少し、総生産も5%減少する。かくて、景気悪化のスパイラルが生じて、不況は深刻化する。不況が深刻化するので、翌年の賃上げもない。
 要するに、実質所得が減少するせいで、経済がどんどん縮小していくばかりだ。最終的には「縮小均衡」という形で収束するが、その「縮小均衡」の均衡点の生産量はどんどん小さくなっていくばかりだ。
 結局、物価は上昇するが、生産量は減る。そのせいで失業率がどんどん上がる。……これが「スタグフレーション」という状況だ。経済の自壊と言える。これが最悪の状況である。そして、これを招き寄せるのが、マネタリストの政策だ。(物価上昇という効果が出ないうちはいいが、効果が出るとひどいことになる。)

 結語。
 今は、デフレである。あなたの所得は減少するが、物価も下落するから、何とかまともに生活していける。(失業しなければ、だが。)……しかし、である。もし物価が上昇したら、とんでもないことになる。実質所得が低下し、総生産が縮小し、企業はどんどん倒産していく。スタグフレーションが急速に進んで、経済は崩壊していく。そして、そのとき、マネタリストだけは、「物価が上昇したから、デフレは解決した」と喜ぶのである。……ま、たしかに、それはそうですけどね。(インフレでなくスタグフレーションになってしまったが。)

 [ 付記1 ]
 たとえ話。
 風邪の人がお医者さんに行って、「風邪を治してください」と頼んだ。するとマネタリスト意思は、こう処方した。「体を冷やしたから、風邪になったのです。体を温めれば、風邪は治ります。風邪は体温的な現象なのです。だから、体温を上げましょう」。そう言って、患者を五右衛門風呂で釜ゆでにした。患者はゆでられて、死んでしまった。これを見て、マネタリスト医師は、「大成功」と主張した。「ほらね。体温は上がったから、成功だ。おまけに、風邪のウィルスも全部死滅したぞ」
 ま、たしかにその通り。風邪という症状はなくなりました。風邪は解決しました。マネタリスト医師の処方通り。……かくて、「病気は治りました、患者は死にました」という結果になったとさ。

 [ 付記2 ]
 とにかく、何事も、本質が肝心だ。「物価上昇率」という数字だけを「下落」から「上昇」に変更しても、駄目なのだ。マネーという数字だけいじればカタが付く、という問題ではない。生産量という実質を増やすことが重要だ。
 貨幣だけを見て、生産量を見ないと、ひどい結果になる。そして、生産量を増やすためには、「所得」が肝心だ。「所得」が上がれば、「実質所得の低下」は起こらず、「実質所得の上昇」があるから、問題は解決する。
 しかるに、マネタリストは、「物価上昇率」という数字だけにこだわる。「所得」を無視する。すると、物価上昇は「実質所得の下落」という逆効果をもたらすので、状況をかえって悪化させる。……それがスタグフレーションだ。
 新年は、どうなるか? 景気回復が少し進んでいるが、現在、過剰な量的緩和がなされているから、「薪に火がつく」という形で、急激な物価上昇が起こるかもしれない。すると、スタグフレーションになるかも。……「初夢は悪夢でした」となるかも。

( 似た話 → 2002年 12月28日12月30日b2003年 3月05日3月22日b6月28日2004年 5月11日


● ニュースと感想  (12月31日)

 「第2のナベツネ」について。
 プロ野球のホークスが、ダイエーからソフトバンクに変わった。で、このソフトバンクの孫社長が、第2のナベツネになっている。というのは、「金をかけたチームが強い方がいい」というマネー至上主義に凝り固まっていて、スポーツのことなんかまるで考えていないからだ。ドラフトのウェーバー制にも反対している。「金をかけないチームが上位になるのでは馬鹿らしい」なんて言っている。
 金をかけないで上位になれる、と本気で思っているのなら、ウェーバー制にすればいいではないか。で、自分のチームには金をかけなければいい。それで上位になれる、というのが自説なのだから、自説の通りにすればいいのだ。……ま、どうせ、万年最下位でしょうけどね。

 では、正しくは? 
 ドラフトのウェーバー制というのは、「戦力均衡化」のためにある。そして、「戦力均衡化」は、プロ野球をおもしろくするためにある。そして、「おもしろい」というのが、見るスポーツの根本だ。(孫社長はそれがわかっていない。単に「勝てばいい」という発想。ナベツネと同じ。)

 そこで、提案しよう。楽天イーグルスは来期、次の戦略を取るとよい。
   ・ 地元試合 …… 優秀投手を投入する (勝ちに行く)
   ・ 敵地試合 …… 優秀投手を出さない (捨てゲーム)
 地元試合と敵地試合というのは、サッカー用語ではホームとアウェーだ。で、もともと戦力が不足しているのだから、勝率は4割を目標として、地元試合ではその8割で勝つことを目標とする。1試合にまともな投手を二人投入して、勝ちに行く。一方、敵地試合では、捨てゲームして、他チームなら二軍にいるような若手を出場させる。
 原則として、1イニング目に、あえて20点を失う。これで、試合は、パーになる。観客はそろって帰ってしまうだろう。毎度毎度、その繰り返し。たとえば、対ソフトバンクの試合では、1イニング目の表に、味方が1点か0点を取る。その裏で、ソフトバンクの攻撃が始まったら、ストライクだけを投げて、20点ぐらい取らせる。2イニング目も、10点ぐらい取らせる。完全な捨てゲームだ。
 これで、ソフトバンクとしては、客が入らなくなるし、テレビの視聴率も最低だろう。仮に放映すれば、深夜の2時ごろまで、延々と試合をしていることになる。テレビ局としては、こんなゲームを放送するはずがないだろう。
 ついでに、対巨人戦も、同様だ。噂によると、「楽天イーグルスをこてんぱんにしてやろう」と思っているらしい。だったら、その策に載って、巨人相手でも、50点ぐらい献上して、あえて負ければよい。当然、テレビ局は、放送しないでしょうけどね。
 で、相手チームが頭に来て、「それならこっちも」と捨てゲームをしてくれたら、思う壺。うまく5割の勝率になれる。……だいたい、他チームは優勝が狙いだが、楽天は勝率5割が狙いなんだから、それでいい。
 
 要するにね。「戦力均衡」にしないと、全チームが損をする、ということだ。アメリカの大リーグはそれがわかっているから、ウェーバー制にしている。こんなことはスポーツのイロハだ。「勝てばいい」なんて思っているのは、元祖ナベツネと第2のナベツネだけだ。こういうスポーツ音痴が牛耳っているチームに対しては、断固、捨てゲームで対処すべし。
( ※ 半分、冗談ですけどね。年末には、こういう過激な冗談で、楽しみましょう。だけど、半分は、本気です。……実際にやると、おもしろそうだ。新庄のスタンドプレーよりもおもしろい。プロ野球のスト騒ぎみたいに、楽しめます。来年もまた、大騒ぎするかな? 野球の試合よりもおもしろいのは、選手とオーナーの場外乱闘だ。  (^^); )


● ニュースと感想  (1月01日)

 「2004年経済の回顧」について。
 2004年経済の回顧をしよう。株価チャートがある。(朝日と読売・朝刊・経済面 2004-12-31 )。……これを見るとおり、次のように言える。
 「1月から4月までは、景気が急激に上昇する。しかし、4月にピークを付けたあと、なだらかに下降する」
 要するに、2004年の初めごろから、政府やエコノミストは「景気回復が進んでいる。不況は脱出した」なんてホラの宣伝をいっぱいしていたが、株価は正直で、そんな宣伝にはだまされなかった。3月までは、円安のおかげで一時的に景気が上昇していたが、その後は、円安のメッキが剥がれて、なだらかに下降したわけだ。
 このことは、実は、私がかつて予想したとおり。( → 2月07日 )……引用すると、こうだ。
「外需拡大で企業業績の向上・失業者の縮小」と喜んでいることができるが、そのうち、円安介入のメッキ効果が剥がれたころに、ふたたび本来の総所得・総需要にふさわしい水準に落ち着くはずだ。そのころには、自然な円高による輸出縮小の効果が出て、景気は現状よりは悪化していくだろう。
( ※ だから、株高のピークは、3月まで。4月以降は、下落。……というのが、私の予想。)
 では、2005年の予想は? 
 ま、だいたい似たようなものでしょう。昨年と違って、「輸出増加による景気上昇」という急激な変化があまり起こっていない分、それが消える効果もあまりない。結局、じわじわと輸出効果が弱まるだけだろう。
 全体的には、「総所得の増加」がないから、たいして変わりあるまい。要するに、ここ13年間と同じで、だらだらとした不況が続く。悪いなかで、ちょっとぐらい良くなったり、ちょっとぐらい悪くなったりする。基本的には、たいして違いはない。
 ただし、政府が大型減税を実施した場合には、直ちに不況を脱して、正常化する。(問題は、政府がそれをやらないこと。)

 [ 付記 ]
 新聞はしばしば、エコノミストに聞いて、「株価の予想」というのを記事にする。しかし、その後の検証がちっともない。「誰が当たって、誰がはずれたか」を、きちんと星取り表にしておくべきだろう。
 特に、2004年の春ごろに「景気は回復するぞ」とか、「株価はずっと上がりっぱなし」とか、超楽観的に主張した人々は、大はずれだったのだから、これらについてはちゃんと採点表に「ペケ」をつけておくべきだ。

  【 追記 】
 次項(翌日分)では、2005年経済(というか近未来)について、いくらか違った見通しを述べています。


● ニュースと感想  (1月02日)

 「2005年経済の展望」について。
 2005年経済は、どうなるだろうか? これは未来への見通しだ。2005年というふうに時期を区切るのは不適切かもしれないが、近い未来への見通しというふうにして予測をすることもできるだろう。

 朝日(朝刊 2005-01-01 )には、クルーグマンのインタビュー記事が出ている。「米国の財政赤字が巨額の不均衡となっているので、波乱要因だ」という意見。同時に、「日本の比重は下がり、中国が中期的にどんどん伸びるだろう」という見通しもしている。(朝刊 2005-01-01 )
 いかにももっともらしい意見だが、クルーグマンらしいエスプリがあまり感じられない。別に、可もなく不可もなく、といったところ。

 一方、毎日(朝刊 2005-01-01 )には、匿名執筆者の鼎談があり、これがなかなかおもしろい。中国経済について、そのいびつなところを指摘している。GDPの45%が固定資産投資、といういびつな状況。不動産バブルの破裂を懸念している。

 さて。これらを読んで、私の感想を言えば、こうだ。
 米国の赤字と中国の黒字は、表と裏の関係にある。米国の赤字が、巨大な不均衡として、いつか清算を迫られるように、やはり、中国の黒字も、巨大な不均衡として、いつか清算を迫られるだろう。
 クルーグマンは中国の高度成長を「ずっと続く」と見ているが、それが満たされるためには、「大幅な輸出超過」という現状がずっと続く必要がある。しかしそれは「米国の大幅な輸入超過」と裏表の関係にあるから、無理である。
 とすれば、どうなるか? やがては、米国の側でドルの暴落が起こるし、同時に、中国の通貨(元)の急上昇も必要になるだろう。「ドルが暴落したからといって元が上がる必要はない。固定相場を維持するために中国当局が介入すればいい」という意見もありそうだが、中国の側でそれが不可能になるのが先かもしれない。つまり、中国で不動産投資の持続が破綻するとか、資産インフレから商品インフレへ転じるとか、いろいろと要因はありそうだ。
 ま、日本のバブルが永続しなかったように、中国のバブルも永続はしない。(マネタリストだけは「永続する」と信じているが、馬鹿げた妄想だ。)……で、中国のバブルがはじけたころに、あっちこっちでひずみを是正する反動が出るかもしれない。中国の大幅出超は解消されるが、それは、「内需拡大」という形によらず、「外需縮小」という形になる。中国から米国への輸出が激減する。と同時に、日本から中国への輸出も激減する。すると日本の景気も悪くなる。
 というふうにして、あっちこっちで、ひずみが是正されて、そのとき、いろいろと痛みが発生しそうだ。GDPの縮小や不況という状況が再来することもある。

 では、なぜ、これほどにも悲観的な予想が成立するのだろうか? 実は、そうなるべくしてそうなるからだ。ひずみがあれば、ひずみが是正されるのは、当然だ。
 では、それを避けるには? 歪みの解消そのものは、不可避だから、最適なソフト・ランディングをすればよい。そのためには、「内需拡大」という道を、日本と中国が選べばよい。輸出増加ばかりに頼らず、内需拡大に頼れば、ソフトランディングが可能だ。
 では、それは、起こるか? 起こらないだろう。なぜなら、それをもともとめざしていないからだ。むしろ、逆のことをめざしているからだ。「内需拡大」とは、「需要拡大」のことであり、「所得拡大」のことである。しかるに、日本も中国も、「供給側の向上」ばかりをめざすせいで、富が供給側に偏ってしまっている。そのせいで、需要の拡大が実現できない。もともと「供給重視・需要軽視」という正反対の路線を取っているのだから、「需要拡大」などが起こるはずがないのだ。進行方向がまるで正反対なのだから、正しい方向に進むはずがない。

 結語。
 企業や供給ばかりを重視する古典派流の経済政策を取っている限り、中国であれ日本であれ、ソフトランディングは無理だ。なるほど現状では、「輸出拡大」という形で、一時的に「供給拡大」および「GDP拡大」に成功する。しかし基本的には、「需要拡大」という王道とは正反対の、「供給拡大」道を取っているのだから、ひずみは蓄積するばかりだ。そして、ひずみが蓄積したあとで、ひずみの反動が来る。
 実は、これと同様の例が、地震である。地殻のひずみが蓄積したあとで、そのひずみが放散されて、地震が起こり、津波が来る。それと同様に、供給重視(と輸出拡大)というひずみが蓄積したあとで、反動が来て、不況が来る。
 日本は昨年、景気回復という動きが見られたが、それが「内需拡大」のかわりに「輸出拡大」という形を取ったがゆえに、「成長」のかわりに「ひずみ」ばかりが実現したのだ。
 成長とは、「供給」と「需要」がともに伸びることだ。実際にあったのは、「外需」のせいで、「供給」が伸びることだけで、「需要」つまり「内需」の伸びはほとんどなかった。かくて、ひずみばかりが蓄積していった。当然、反動は来るだろう。……それがいつになるかは、わからない。しかし、2004年の景気回復は、「成長」というよりは「ミニバブル」に近い。(「資産バブル」ならぬ「輸出バブル」。その意味で、80年代後半のバブルよりは、80年代前半に近い。)
 経済というものは、需要と供給をともに見ることが必要だ。供給側ばかりを重視する古典派に従って経済運営をなす限り、ひずみが発生して、ひずみが放散され、そのせいで経済が振幅するのは、避けがたいことなのだ。
 わかりやすく言えば、医者が処方すれば病気は治るが、医学知識なしの一神教の信徒が「神の見えざる手」にした勝手に処方しても、病気はそのときそのときで、良くも悪くもなる、ということ。たまたま健康になることもあるし、その後に反動で悪化することもある。無知ほど怖いものはない。

 [ 付記 ]
 前日分の予測とは話が矛盾している? 
 一見、そうだ。しかし必ずしも、そうではない。というのは、本項の話は、「近未来」だからだ。2005年というよりは、2005〜2008年と解釈してほしい。反動が来るのは、2005年だとは限らない。
 前項でも述べたように、2005年に限れば、反動はまだ来ない可能性の方が高そうだ。「事件が起こるか」という予想はついても、「事件が来る時期がいつになるか」という予想はつきにくい。


● ニュースと感想  (1月03日)

 「年頭の言葉」。
 年頭に当たって、言葉を示しておこう。
 朝日の社説(朝刊 2005-01-01 )では、年頭に当たって、展望を述べている。中国や韓国との関係を示した上で、「過去への反省」を重視しながら、「夢を持とう」と述べている。いつもの朝日調だ。毎年毎年、同じようなことを述べているが、まったく進歩がない。そこで、私なりに、年頭の言葉を述べておこう。

 大切なのは、夢を見ることではなくて、現実を直視することだ。また、「反省反省」というふうに、やたらと「頭を下げて対立を避けよう」とする、馴れ合い主義を捨てて、自説をはっきりと述べることだ。
 一般に、右翼と左翼は、次のように対比される。
 前者を主張するのは、たとえば、読売だ。年末にも岡崎某という元外交官のコラムを掲載していたが、だいたい、これが読売の社としての方針だ。
 後者を主張しているのは、左翼リベラリズムで、たとえば朝日だ。で、これと同じことを、中国や韓国も主張している。
 さて。このあと、私なりに評価しておこう。

 (1) 右翼
 右翼の主張は、ただの強国への盲従である。相手がアメリカならば、アメリカにへいこらする。仮に日本がウクライナみたいにロシアに支配されていたとしたら、ロシアにへいこらする。どの国にも、へいこらと従う連中がいるものだ。古くは、幇間(ほうかん)と呼ばれた。今では「ポチ」と呼ばれる。
 彼らの主張は、臆病さと嘘八百に尽きる。「アメリカに従わないと国益を損ねる」とやたらと言い、「イラク戦争でも、アメリカが間違っているとしても日本は従うべきだ」と主張する。
 しかし、フランスだってドイツだって、アメリカに従わずにたてついたが、別に、どうということはなかった。せいぜい、わがままな米国にいやがられたあげく、「フレンチ・トースト」という食品の名称を変更されただけだ。別に、対米輸出が阻止されたわけではない。
 ついでに言うと、日本とアメリカとの関係では、日本の方が圧倒的に有利な立場にある。なぜなら、アメリカは日本の輸出を阻止できないが、日本はアメリカの輸出を阻止できるからだ。仮に、アメリカが日本の輸出を阻止したら、アメリカ国内で自動車産業において工場操業停止に陥る。電機部品でも、さまざまな工場が操業停止に陥る。産業はマヒ状態になり、多大な失業が発生する。自滅に近い。一方、日本がアメリカの輸出を停止しても、別に、日本はどうということはない。たとえば、アメリカの牛肉を食えなくなっても、オーストラリアの牛肉を食える。米国産の農産物の輸入停止は、日本には痛くも痒くもないが、アメリカにとっては致命的な痛みだ。(農業関係者が大騒ぎする。票を失い、政治的には大変だ。)
 そもそも、根本を考えよう。日本がアメリカを尊敬するのは、何ゆえであるか? アメリカが強大な武力国家であるからか? 違う。アメリカが自由を尊重するからだ。とすれば、日本はアメリカに、堂々と自説を述べればいいのだ。それが「自由」ということだ。
 フランスやドイツは、「自由」とは何かを理解しているから、堂々と自説を主張し、一方的な意見の押しつけには屈しない。彼らは「自由」を行使している。そして、その前提は、自説をはっきりともつことだ。「国益のために、自説を捨てて、アメリカに盲従しよう」なんていうのは、自由とは正反対の、奴隷根性だ。
 奴隷根性を捨てて、自分の頭で考え、しっかりと自立することこそ、何よりも大切である。そのことを、年頭に訴えたい。

 (2) 左翼
 左翼の主張は、ただの隣国への盲従である。相手がアメリカでなくて、中国や韓国になっただけだ。アメリカにへいこらするかわりに、中国や韓国にへいこらする。どっちも同じだ。
 だいたい、彼らは、「隣国との対立を回避する」ために、「へいこらする」ことしか思い浮かばない。情けないね。はっきり言っておこう。「隣国との対立を回避する」ために、大切なのは、「へいこらすること」ではなくて、「堂々と意見を論じ合うこと」だ。
 中国や韓国が自国の立場から主張するのは、当然のことだ。ならば、日本は、へいこらするのではなくて、日本から日本なりに自説を主張するべきだ。論争を回避して、頭を下げればいい、というのは、まったく情けないとしかいいようがない。特に、朝日は、自分が言論機関であることを忘れて、「言論を出して意見交換しよう」と主張するかわりに、「黙って頭を下げて反省しよう」というふうに言論を抹殺しようとする。言論機関が言論を封じようとする。最悪だね。こんな会社は、つぶれてしまった方がマシだ。
 中国や韓国が自国の立場から主張するとき、日本では反中・反韓の意見も出てくるが、こういうふうに感情的な反発をするのも、好ましくない。堂々と意見を出して、論じ合えばいいのだ。
 そもそも、中国や韓国の主張は、まるきり馬鹿げた話だ。こんなことを言いたてたら、日本はアメリカに、「原爆を謝れ」「東京大空襲を謝れ」と何度も主張しなくてはならない。これらは、アウシュビッツよりもはるかに残虐な、市民への無差別虐殺だからだ。
 では、なぜ、中国や韓国は、いつまでもこんな馬鹿げたことを主張するか? それは、この両国が、非民主的であることに由来する。中国では共産党独裁政権がずっと継続し、韓国も長らく軍事独裁政権がずっと継続してきた。これらの国では、軍事独裁政権を維持するために、反日教育が不可避だった。
 だから、「日本は謝れ」なんて主張する意見は、中国や韓国の独裁を支持し、民主化を阻害しているのと、同様なのだ。左翼リベラリズムは、軍事独裁政権と同じ穴のムジナなのだ。中国や韓国は、いまだに十分な民主化がなされていない。国民は自由に意見を言うことができない。そういう非民主的な国家なのだ。こういう事実をしっかりと認識することが大事だ。
 そして、もう一つ、大切なことがある。中国や韓国の基本的な立場は、何か? 「自国は世界の中心にあるのだから、目下である日本は自国に従え」ということだ。これは、中国では「中華思想」と呼ばれ、韓国では「儒教主義」の変形と見なされる。とにかく、「中国は兄、韓国は次兄、日本は末弟」という基本認識がある。これが中国や韓国の立場だ。そして、それゆえ、「日本は頭を下げよ」と常に主張する。

 結語。
 アメリカに対してであれ、中・韓に対してであれ、堂々と自説を主張することが大切だ。言論の自由を重視し、かつ、自説をしっかりともつことが大切だ。
 一方、それとは逆なのが、「対立を避けるために頭を下げよう」という主張だ。これが、右翼にも左翼にも共通する態度だ。しかし、そういう事なかれ主義は、一時しのぎにはなっても、本質的には何も解決をもたらさない。どんなにポチや奴隷のごとき態度でふるまっても、現実にはポチや奴隷とはなれないのだから、相手国との対立は避けられないのだ。
 だから、対立を避けようとするのではなくて、対立を前提とした上で、「異なる立場や歴史の上に共存する」という方針を取るべきだ。── そして、それが、「自由」ということの本質的な意義なのだ。

 [ 付記1 ]
 逆に言えば、「自由を尊重するアメリカは立派だから、アメリカに従おう」なんて主張している小泉みたいな連中は、「自由」というものを勘違いしている。「自由の尊重」のことを「強者への服従」のことだと思っている。
 でもって、そういう態度を取るから、中国や韓国にもへりくだるわけだ。日頃から、卑屈な癖がついているから、まともに頭を上げられない。それを見透かされているから、中国や韓国に馬鹿にされて一方的に攻勢される。でもって、「攻撃されたら頭を下げよう」と思っているのが、エセ平和主義者だ。こういうエセ平和主義者がいるから、相手を付け上がらせて、紛争を引き起こす。

 [ 付記2 ]
 中国は日本を馬鹿にしたあげく、こっそり領土を奪い取ろうとしているようだ。尖閣諸島近辺の天然ガス資源を、こっそり奪い取ろうとしている。米国への申請書によると、尖閣諸島の近辺の日本領海部分をこっそり奪い取ろうという計画を立てている。ただし、公開されたホームページでは隠している。(読売・朝刊・1面 2005-01-01 )
 日本政府は抗議するというが、馬鹿丸出し。もともと軽くあしらわれているということを無視している。普段から馬鹿にされていて、いざとなったら「無視された」と抗議しても、何の意味もない。
 要するに、普段から「黙っていればいい」という事なかれ主義だと、どんどん領土を奪われる、ということだ。まともに意見を言えない国が、いざとなってあわてても、手遅れだ。
 特に、外務省が、最悪だ。この省は、「日本の国益を守ること」のために働いているのではなくて、「日本の国益を主張するのを抑圧すること」を目的として働いている。なぜなら、最大目的が、「相手国との紛争・論争を避けること」であるからだ。論争をするための省庁が、論争をしないことを目的としている。
 ま、実を言うと、首相自身がそうなんですけどね。純ちゃんは、ブッシュと並んで握手してもらうことが、最大の目的だ。「ヨンさま」もうでをする中年女性と同じ。

 [ 付記3 ]
 具体的には、中国や韓国には、何を言えばいいか? 両国から文句を言われたら、「あなたの国で言論の自由を認めよ」と言うべきなのだ。
 中国では、反政府の意見を言えば、逮捕される。韓国では、親日的な意見を言えば、逮捕される。いずれにせよ、言論の自由はない。そして、こういう状況になったのは、たしかに、日本の歴史的な責任だ。
 だから、「日本には歴史的な責任があります。ゆえに、あなたの国に民主主義を確立させたいと思います。さあ。今すぐ、言論の自由を認めなさい。民主主義を確立しなさい。断固、要求します。この要求が満たされなければ、最恵国待遇を剥奪し、あなたの国からの輸入には高率の関税をかけます。報復で、日本からの輸入品に高率の関税をかけたければ、それはそれで、ご自由にどうぞ。そちらの対米輸出が激減しても知りませんよ」と言えばいいのだ。
 頭を下げずに、頭を上げて、民主化を要求すべし。

 [ 余談 ]
 本項の趣旨を、わかりやすく示そう。夫婦関係になぞらえる
 夫婦喧嘩を避けるために、妻が夫に盲従したり、夫が妻に盲従したりして、それでまともな夫婦関係になれるだろうか? なるほど、表面的には、争いを避けることはできるかもしれない。しかし、そんなことでは、いつまでたっても、夫婦関係は喧嘩状態だ。喧嘩を避けることはできても、心理的には対立しつづけている。緊張が続き、冷戦状態だ。……どちらもが不満になり、どちらもが喧嘩したがる。
 ここで、妻は日本で、夫はアメリカや中国や韓国だ。「妻は夫に従え」と主張するのが、右翼や左翼だ。いかにももっともらしいが、そんなことでは何も解決しない。
 そこで、私が主張するのが、「夫婦は徹底的に本音で語り合え。相手の悪口でも何でも、十分に論じあえ。言いたいことを全部言え」ということだ。悪口ではなくて、ていねいな意見の形で、本音を語り合えばよい。「相手が悪口を言ったから、こちらも悪口で言い返してやる」というのはまずいが、双方がていねいな態度でしっかりと意見を交換すればよい。……こうすれば、一時的には論争がふくらむが、最終的には、しっかりとした友好関係を築けるだろう。夫婦であれ、国家であれ、そういうものだ。
 「黙って頭を下げよ」という方針は、一見、友好的・平和的であるように見えながら、実は、非友好的・非平和的なのである。
( ※ だから、夫婦間でも、そうですよ。あなたが夫なら、妻が怒ったとき、「黙ってやり過ごそう」なんて思うと、ろくなことはありませんよ。しっかりと言い分を聞くことが大事です。……なお、頭を下げっぱなしだと、それもまた、よくありません。最悪の場合、妻が浮気します。)
( ※ 小泉の波立ちは、役立ちますねえ。夫婦喧嘩の回避法まで、書いてあります。 (^^) )

 [ 参考 ]
 読売新聞は元旦にあたって、年頭の言葉として、「当社は言論の自由と公正な報道をめざす」という方針を掲げている。(朝刊・2面 2005-01-01 )
 ずっと前から制定しているということだが、全然、実行していない。それどころか、「言論の抑圧」と「不公正な報道」ばかりやっている。
 実例は、イラク人質事件のの報道だ。忘れてしまったかもしれないので、はっきりと実例を指摘しておく。次の箇所だ。
  → 【 追記7 】 (2004-05-02)
(かなり長い文章だが、その最後のあたりに、まとめふうの評価がある。)


● ニュースと感想  (1月04日)

 「超国家」について。
 スケールの大きい話を述べておこう。戦争と平和に対する抜本的な解決策だ。
 新聞記事によると、スーダンで長年の紛争が続いていたが、ようやく解決する見込みだという。そもそも、長年の紛争は、イスラム教政権がイスラム教の施政方針を定めて、キリスト教徒の地域へ実施しようとしたことに対して、キリスト教徒が反発したことだという。
 実を言うと、このような宗教紛争は、非常に多い。実を言うと、イラク問題もまた、根源的には宗教がある。
 第1に、イラクとイランはイスラム教の分派間での国家だが、その両方で紛争が長く続いたのが、根源にある。フセイン政権が登場したのも、これが理由。
 第2に、さらに根源には、イスラエルというユダヤ京都イスラム教の問題がある。
 
 こういう宗教問題が国家間の対立につながり、紛争や戦争をもたらす、というのが、歴史の教えるところだ。
 では、どうするべきか? 「宗教なんかなくせばいい」というのもあるが、そういう政策を取った共産主義政権は、自分自身が崩壊してしまった。だいたい、アメリカからして、宗教国家である。ブッシュが当選したのも、保守的な宗教観が優勢だったからだ。(イラク問題は消し飛んで、「妊娠中絶を認めるか」「同性愛を認めるか」ということを基準にして、ブッシュを支持した人が、非常に多かった。これがブッシュを当選させた根源。)

 宗教を消すことはできない。とすれば、残る方法は、ただ一つ。宗教の対立を国家の対立に結びつけないことだ。

 そこで私は提案しよう。それは「超国家」の設立だ。
 現在では、「国家」が政治の基本単位となっている。宗教も文化も経済も政治も武力も、すべてが「国家」を単位としている。そのせいで、宗教の対立が武力の対立と結びつきやすい。だから、この単位を変更するといい。
 ここで、ECのような理念だと、「すべての単位を大きくせよ」というふうになって、宗教も経済も政治も武力も、すべてが「欧州」のもとにつながる。しかし、これだと、特に、経済でひずみが生じる。異なる経済レベルの国が、共通の経済体制を取ると、ひずみが生じるのだ。(具体的に言うと、低成長を望む先進国と、高成長を望む後進国とでは、最適な経済システムが異なるから、どちらかに合わせると、他方が迷惑を受ける。)

 だから、私としては、次のことを提案したい。
 こうすれば、もはや紛争は避けられるはずだ。例示しよう。

 (1) アイルランド紛争
 アイルランドの旧教は、イギリス国教から独立できる。民族単位の自治を獲得できる。イギリスからの抑圧を受けない。
 イギリスがアイルランドを武力で抑圧しようとすると、超国家から、イギリスに武力制裁が加わる。
 かくて、アイルランド紛争は、起こらなくなる。

 (2) キプロス紛争
 キプロスでは、ギリシア系の住民とトルコ系の住民との武力対立があり、国家が分断されている。これもまた同様で、前者はキリスト教徒、後者はイスラム教徒。これについても、アイルランドの場合と同様に処置できる。

 (3) スーダン紛争
 今回のスーダン紛争も、同様。

 (4) イラクとイラン
 イスラム教の分派間の問題だが、これもほぼ同様だ。宗教対立が武力対立になるのが問題である。アラブ世界に超国家が成立していれば、イラクまたはイランのどちらかが武力を行使しようとした時点で、アラブ全体による超国家からの制裁が加わる。かくて、両国の戦争は起こらない。そもそも、両国の軍隊は、最初から存在しない。というのは、指揮権は、超国家にあるからだ。

 (5) 日本と米国
 これについても、同様に考えていいだろう。日本と米国が「集団安保」を唱えるのは、それ自体はいい。ただし、その前提として、日米双方の軍隊に対して、日本と米国がとも合意する場合にのみ、軍事行使を認めるべきだ。
 現状のように、「米国がイラクを勝手に攻撃して、それに日本も従属的に参加する」なんて形だと、米国の馬鹿げた武力発動のたびに、やたらと日本は武力参加するハメになる。
 保守派の連中は「集団安保」なんて唱えているが、それが実現すると、ブッシュが「イラク攻撃」と言えばイラクに自衛隊を派遣し、同様に、「北朝鮮攻撃」とか、「ビルマ(ミャンマー)攻撃」とか、「中国攻撃」とか、「キューバ攻撃」とか、あちこちで騒ぎ立てるたびに、ついでに日本も参戦するハメになる。これでは、戦争を止めるどころか、戦争を起こしやすくするだけだ。

 結語。
 武力については、「国家」を越えて、「超国家」のもとで新たな体制を築くべし。これは、「国連」とか「世界政府」とかいうのとは違う形の平和体制だ。
 経済や文化は、なるべく独自性を認めた方がいい。その一方で、武力については、大きな単位にした方がいい。……これが私の「平和」のための提案だ。


● ニュースと感想  (1月05日)

 「2足歩行ロボット」について。
 元旦( 2005-01-01 )の新聞では、「ロボット元年」を示唆するような話が出ていた。愛知万博関連のロボット記事もある。また、トヨタは全面広告でロボット広告を出している。(自動車メーカーではなくて、ロボットメーカーになったみたいだ。)
 一方、その数日前には、「トヨタがロボット開発の部門を設立」という記事もあった。12月31日の朝刊(朝日)を見ると、ビクターが「2足歩行ロボット開発」という記事がある。と同時に、同じ日の全面広告には、学研の「大人の科学」で「からくり人形」というのを宣伝していた。「江戸時代の匠の技」だという。(6000円)
 おまけふうに、トヨタだけを紹介した記事もある。ホンダの二番煎じをした物真似会社であるトヨタを、あたかも独創的開発者のごとく持ち上げる。(読売・朝刊・経済面 2005-01-04 )
 ついでだが、4足歩行のロボットや、百足(むかで)型のロボットや、ヘビ型ロボットや、サイボーグを開発している会社は、新聞ではまったく紹介されない。(新聞でなく雑誌では、紹介しているところもある。 → 11月23日

 さて。ここで、私の考えを言おう。
 トヨタ・ビクター・ソニー・ホンダの開発している2足歩行ロボットというのは、ロボットの名に値しない。ただのからくり人形だ。その意味で、江戸時代から、まったく進歩していない。せいぜい、動力源をバネからモーターに変えただけだ。
 担当者は、「コンピュータを使っているぞ」と威張るかもしれないが、江戸時代の人間がコンピュータを使わずに済ませたことを、コンピュータを使っている分だけ、レベルが下がっている。高度な技術を使って、ごく低レベルのことしかできていない。宝の持ち腐れ。要するに、せっかくの機器をまともに使いこなせていない。
 まず、これらの2足歩行ロボットがからくり人形にすぎない、ということは、前に述べたことからわかる。引用しよう。( → 5月14日b
 あらかじめプログラムされたとおりに、床の上を歩いたり、階段を上下するのがやっとだ。「家庭で役立つようになるまでには、何年かかるか、わからない」とホンダの担当者は言っている。
  ……
 そもそも、現状の方法は、目的が間違っている。「平らな床の上を歩くこと」は目的にはならない。「凸凹の面を歩くこと」を目的とするべきだ。換言すれば、「床が少しぐらい凸凹していても、自動的に修正して、倒れないで歩くこと」が目的となる。
  ……
 現状では、凸凹の床を歩くことは不可能である。そもそも、凸凹の床を歩くことは、目標とすらなっていない。……だから、現状の開発路線を取る限り、二足ロボットが実用段階に達することは、永遠に不可能である。
 つまり、「平らな床の上を歩くこと」だけしかできない。「凸凹の面を歩くこと」はできない。あらかじめ決めた動きができるだけだ。
 わかりやすく言おう。「ロボットは床の上を歩いている」と見える。しかし本当は、そうではない。ロボットは単に歩く動きをしているだけだ。そして、その動きにぴったり合致するように、現実の床が用意されている。だから、ロボットの動きに合致しない床(傾斜した床や段差のある床)が現れると、たちまちロボットはひっくりかえる。
 この点では、江戸時代のからくり人形の方が、ずっと優れている。なぜなら、平らな床ではなくて、階段状の段差を用意して、その段差を、歩くだけでなく、でんぐり返り(とんぼ返り)をできるからだ。しかも、今回のからくり人形は、バネなどの動力さえ使っていないらしい。

 では、どうすればいいか? 
 一つは、「からくり人形ではないロボット」を作ることを目標にして、コンピュータに「脳の機能」をもたせることだ。つまり、段差などを知覚して、その段差などに対応して、臨機応変に対処する能力をもたせることだ。(ただし、このためには、現在の普通の制御システムとはまったく異なる制御システムを用意する必要がある。「知覚入力 → 運動出力」なんていう制御システムでは駄目だ。なぜなら、そんなシステムでは原理的に成功するはずがないからだ。実際、生物は、そんな馬鹿げた低レベルのシステムを取っていない。)
 もう一つは、現在の各社のような低レベルの制御システムに合わせて、ロボットそのものの身体的な構造を変化させることだ。そのためには、2足歩行ロボットをやめて、4足歩行ロボットにするといいだろう。4足歩行ロボットなら、段差があっても、ひっくりかえることはない。
 4足歩行ロボットは、4足があるゆえに、安定性がある。ただし、「手がないと不便だ」と思う人も多いだろう。だったら、手を別に付ければよい。「上半身は人間、下半身は馬」という、ケンタウロスふうである。(半身半獣)

 猫も杓子も2足歩行ロボットをやる、というところに、各社の独創性のなさが現れている。開拓者のホンダは別として、トヨタ・ビクター・ソニーなんかは、ただの二番煎じにすぎない。こういう物真似精神から、まともな独自技術など、生まれるはずがないではないか。
 物真似は恥だ、とわきまえるべきだ。トヨタ・ビクター・ソニーなんかは、あまりにも恥知らずだ。せめて、4足歩行ロボットにするべきだろう。あるいは、先日にも述べた「サイボーグ」にするべきだろう。( → 5月31日
 でもって、最も頭のいい研究者は、生体の制御システムを模倣した、シミュレーション式(ソフト式)のバイオコンピュータを使って、段差も傾斜もへっちゃらの2足歩行ロボットを作る。ただし、それだけの発想が、最初になければ、あとはすべて無駄。(そういう見当違いのことをやる会社がソニーだ。大金をドブに捨てる。馬鹿丸出し。 → 7月29日

( ※ 最後に述べた正解となる方法は、先に言及したとおり。  → 5月14日b

 [ 付記1 ]
 2足歩行ロボットの実用化のためには、ハード的には、ほとんど新規開発は必要ない。たとえば、視覚認知なんていうシステムは必要ない。そのことは、人間が目をつぶっても歩けるのと同様だ。
 ただし、バランスを取るための上腕は必要だ。とはいえ、これは、ハード的にはごく簡単。バランス棒みたいなのが左右1本ずつあればいい。
 一般に、人工知能関係の問題のほとんどは、ハードでなくてソフトの問題だ。ソフト的なシステム設計が根本的に狂っていると、現状の2足ロボットのようになる。一方、センスがある人がやれば、からくり人形みたいに、大昔のちゃちなシステムを用いるだけで、2足ロボットと同程度のことができる。
 なお、ヒントを言っておこう。ロボットのモデルは、人間の生体制御システムである。これがどれほど見事なシステムで構成されているかを理解しない限り、現状のような工学的な思いつきでしか設計できないだろう。工業技術者は、自ら生命体を創出できるほどの知恵(つまり神の知恵)もないくせに、生命体から少しも学ぼうとしないわけで、自然に対する謙虚さがない。だから、いつまでたっても、見当違いのことばかりやっているのだ。
 教訓。傲慢は無知をもたらす。(え? 私のことかな?  (^^); ……でも私は、少なくとも、自然に対しては謙虚です。政府と大企業に対しては傲慢ですけどね。ゴーマニズム。)

 [ 付記2 ]
 本項で述べたいことは、2足歩行ロボットを開発する方法自体ではない。「全然見当違いの方向を進んでも駄目だ」ということ。そして、「他者の物真似ばかりしているようでは、根本的な態度からして駄目だ」ということ。独創性や独自性なしに、先端技術を過剰に信用するのは、悪い癖だ。
 どうせやるなら、そもそも、会社から離れた独自の研究所を設立して、自由な雰囲気を作ることが先決だ。「真面目な勤務態度」なんてのを最優先にしていて、独自技術なんかができるわけがないでしょうが。パソコンが開発されたパロ・アルトの研究所だって、自由な雰囲気だ。実を言うと、悪名高いマイクロソフトだって、結構自由なのびのびとした雰囲気であって、日本の各社の家畜小屋みたいな研究所とは雲泥の差だ。
 だから、新年に当たって、各社は「バラ色の未来」なんて言う嘘八百の夢を振りまくよりは、「独創性をつぶしているネズミ色の現実」というのを直視するべきだ。だいたい、現実の研究所なんて、上司と上役の顔色伺いが最優先だ。そのシステムを「能力給」と言う。つまり、上司にえこひいきされた、ゴマスリのうまい部下が昇給し、上司にたてつく独創性のある技術者は、昇給しない。中村修二みたいなのは会社から追放され、せっせと真面目に安月給で働く凡人技術者が優遇される。……こういう管理システムを立て直すことが、先決だ。
 新年に、「バラ色の未来」なんていう嘘八百の夢を見れば見るほど、現実の情けなさが浮き上がる。
( ※ そう言えば、「構造改革でバラ色の社会」という3年前の公約はどうなったんでしょうねえ。やっぱり、嘘ばっかり。新年の経済予想だと、円高で、かなり先行きは暗そうだ。)


● ニュースと感想  (1月05日b)

 「ロボットと知能」について。
 前項の続き。
 2足歩行ロボットというのは、実用的に見れば(4足歩行ロボットに比べて)まったく馬鹿げた道筋なのだが、研究的に見ればとても興味深い。というのは、「人工知能」と関係するからだ。
 昔、第五世代コンピュータというのが大やはりになったことがあり、「AIを発達させて、考えるコンピュータを開発できる」と主張した研究者が多かった。国もこの策に載って、多大な資金を投入した。で、その十年計画の結果は? ただの論理言語を開発しただけだ。当初の狙いのほとんどは、夢のまま「絵に描いた餅」になった。

 このころ、私は「考えるコンピュータは原理的に不可能だ」と主張した。なぜなら、身体をもたないからだ。身体と脳とは不可分な関係にある。身体のない脳は無意味だ。つまり、機械部分としての身体(ロボット部分)をもたない人工知能はありえない。── 私はこう主張したが、誰も聞く耳をもたなかった。で、それから二十年ぐらいたって、今になって、私の主張と同じことを言っている人が多い。

 で、今になって、今度は「ロボットとしての機械部分とコンピュータを合体させれば、考える脳ができる」なんて考えている連中が多い。たとえば、ソニーの研究所にいる連中がそうだ。
 しかし、これにも、私は否定的に答えておこう。「ロボットとしての手足と、コンピュータ(CPUとメモリ)を合体させても、考えるコンピュータは原理的に不可能だ」と。
 実は、ハードだけなら、ロボット部分は必要なく、コンピュータだけで「考えるコンピュータ」はできる。その方法は? いったん「考えるコンピュータ」を構築したあとで、そのコンピュータ部分だけを大量生産すればいいからだ。
 ただし、である。一番最初に、鋳型となる「考えるコンピュータ」を作る必要がある。そのためには、手足が必要だ。さらに、手足だけでなく、もっと別のものも必要だ。もちろん、感覚センサーなども必要だが、そういうこととはまったく別の次元のものが必要だ。それは、何か? 
 特殊なソフトだ。脳をシミュレーションするソフトだ。ところが、これが、まるきりできていない。山頂を十合目とすると、八合目どころか、1合目にすら達していない。なぜか? そもそも登るべき山を間違えているからだ。全然見当違いの山をめざして、そっちの山を登ろうとしている。
 こんな現状では、百年たっても、原理的に「考えるコンピュータ」を構築できない。たとえて言えば、いくら富士山を登っても、エベレスト山頂には到達できないのだ。
 
 研究者は、二十年前には、「第五世代コンピュータ」なんてものをめざした。これはいわば、「エベレストを目標とするために、東京タワーを昇る」というようなものだった。あるいは、「月に到達することをめざして、十センチジャンプして、月に到達する道を、少し上がった」と勘違いするようなものだった。
 当時も、今も、研究者は全然見当違いの道をめざしている。愚の骨頂だ。だから、私としては、少なくとも読者に、警告しておこう。「そんな無駄なことに人生をつぶすな。まったく無意味なことに人生を費やすことほど、虚しいことはない」と。
 人類は知能や脳というものについて、ろくに知っていない。たいていの研究者は「脳はコンピュータを遅くしたものだ」ぐらいにしか考えていない。そういう傲慢な発想からは、蠅や蚊のレベルの脳にさえ勝てない「考えるコンピュータ」しかできないだろう。

 [ 付記 ]
 以前、「第五世代コンピュータ」なんてものを研究した人には、「エキスパートシステム」という論理処理をめざして、「医師の診断システムを高度な技術で構築するぞ」と意気込んだ人も多い。しかしそのほとんどすべては、無駄になった。なぜか?
 実は、エキスパートシステムなんて気張らなくても、そんなシステムは初歩的なデータベースシステムで簡単に構築できるのだ。実際、「家庭の医学」という、二千円ぐらいのソフトで、そこらに売っている。(私も持っている。なかなか便利ですね。)
 コンピュータの技術者は、「自分は世界最先端の技術を研究している」なんて自惚れている人が多い。しかし、「世界最先端」というのは、「最も底が浅い」ということだ。物理や数学や生物学ならば、長年の蓄積があるが、情報漢学なんてのは、蓄積がほとんどない。二流の人間でも、最先端に立てる。物理や数学や生物学に比べて、ずっと底の浅い分野だ。
 「世界最先端」というのは、「世界最浅」とほとんど同義である。あまり自惚れない方がいいんですよね。「第五世代コンピュータ」の研究者のなれの果ては、ただの時代遅れの研究者。ロボット研究者も、同様だ。
 ま、頭のいい人ならば、生体システムを見ることで、自分がどう間違っているかを、理解できるだろう。しかし、たいていの人は、頭が悪いから、「自分はどこを間違っているか」を理解できない。逆に、「自分は正しい」と言い張るものだ。(例はソニーの研究所の所長。)


● ニュースと感想  (1月06日)

 「オタクとテレビゲーム」について。
 少女誘拐殺人の変態男が逮捕された。少女相手のわいせつ罪で逮捕された前歴があるという、変態である。(各紙・夕刊 2004-12-31 )また、警察の押収した所持品には、ロリコン雑誌やロリコン・サイトへのアクセス記録もあるという。(読売・朝刊 2005-01-01 )
 この犯人はどういう人物か? 精神病患者と見なして、「精神鑑定するべし」なんていう意見も出ている。
 しかし、精神鑑定なんて、いちいち言うほどではないでしょう。というのは、この手のオタク男は、今どきの世間に、ウヨウヨいるからだ。テレビゲームのロリコン・ゲームマニアというのがそうだ。「萌え〜」なんて叫んでいる連中だ。
 私から見ると、気持ち悪くて仕方ない。しかし今や、秋葉原もこういう連中に席巻されてしまったようだ。秋葉原も気色悪い町になったものだと思うが、それが世相なんですね。

 で、インターネットのゴミ掲示板に棲息して、「萌え〜」とかわめいている連中も、この手の輩だろう。でもって、そういう連中と同じ精神構造をもつのが、今回の犯人だ。どっちだって、五十歩百歩みたいなもんだ。
 この手の連中は、バーチャル・リアリティとか何とか言って、仮想と現実との区別がつかなくなってきているのだろう。秋葉原だって、ゲームから抜け出てきたような格好のメイドがあふれている。仮想と現実の混同。
 とすれば、この手の連中が、かわいい少女を見かけて、「萌え〜」と興奮したすえに、少女を拉致して、「生命の電源をOFFにしよう」と思ったって、不思議ではないのかも。

 こういう連中の狂気的なふるまいは、今回の犯人に限った現象ではあるまい。だいたい、昨春イラク人質事件だって、似たような現象だった。日本中のオタクがそろって、狂気的になって、人身攻撃に励んでいた。ゲームで敵を攻撃するのに飽き足りなくなって、現実の人間を敵と見なして攻撃しているわけだ。ゲームの見過ぎ・やりすぎ。

 結語。
 お正月にゲームをやるのはやめましょう。ゲーム機なんか捨てましょう。さもないと、仮想と現実との区別がつかなくなって、少女誘拐殺人犯の二の舞ですよ。 (……なんて、今から言っても、もう遅いか。お正月は終わってしまった。ま、子供に対する「お年玉の使い方」ぐらいの意味はある。)

 [ 付記 ]
 特に、イラク人質事件ときに攻撃的になっていた人は、注意しましょう。そういう人は、精神的に攻撃欲がある。だから、そのうちいつか、現実の誰かをふたたび攻撃する可能性がある。この犯人のように、誘拐殺人をやりかねない。
   (人質への)攻撃欲 + 少女ゲーム・オタク = 少女誘拐殺人犯
 この等式に当てはまる人が、あなたのそばに、いませんか? 
( ※ イラク人質事件と比べると、「少女殺人」と「イラク人質非難」とは、「弱い者いじめ」という点で、精神的によく似ている、とわかる。「イラク人質非難」では、日本中にいる多くの男が、いっせいに「弱い者いじめ」をしていた。気持ち悪い。……ついでに言えば、もっと気持ち悪いのは、こういう精神病じみた連中を野放しにしておいたことだ。マスコミや政府は、むしろあおりたてていた。ま、ヒトラーの時代にも、ナチスのユダヤ人狩りをマスコミは放置したりあおりたてたりしていた。とすれば、読売みたいなナチスふうのマスコミが、こういう狂気的なふるまいに出るのも、不思議ではないが。読売の社員は、右腕を掲げて、「ハイル・ナベツネ!」と叫ぶ義務がある。純ポチは、「ハイル・ブッシュ」と叫んでから、三べん回って、ワンと吠える。)
( ※ ついでに言うと、私が読売や純ポチが大嫌いなのは、これらの連中が右翼だからではない。私は別に、右翼をいちいち批判するわけではない。「強いものにへいこらして、弱い者はいじめる」という連中が、生理的に大嫌いだからだ。……ただし、今の日本では、「強いものにへいこらして、弱い者はいじめる」というのが、大はやりだ。たいていは「弱肉強食」という原理を「優勝劣敗」とか「市場原理」とか言い換えてから、「自由主義」という美名で正当化する。……で、その美名の実態が何であるかを、私が暴露してやるわけだ。「本当はただの弱い者いじめだろ」と。「しょせんはロリコン犯罪者と同じだよ」と。)

 [ 余談 ]
 ゲーム機に話を戻そう。私がこういうふうにゲーム機の悪口を言うと、腹を立てる人が結構いそうだ。
 「僕ちゃんの好きなゲーム機の悪口を言うなんて、許せない! 愛するものをけなされるのは、絶対に許せない! 南堂の野郎をやっつけてやる!」
 なんてね。こうなるともう、少女誘拐殺人ならぬ南堂誘拐殺人の寸前ですね。  (^^);
 さて。腹を立てて「許せない」とお感じの人がいたら、私の話を読んだあとで、プレステなどの広告を読みましょう。すると、お好みのことが書いてありますよ。
 なんてね。こういう広告を読んで、うっとりするといいでしょう。で、その広告のあとで、金を巻き上げられるわけ。ついでに人生を奪われるわけ。さらには知能まで奪われるわけ。
 その一方、そういうふうに白痴化することについて警告した人(南堂)を、ことさら恨んで、殺そうとするわけだ。  (^^);
 悪人は凡人をだまして金儲けをする。善人は凡人に真実を語って殺される。……何だか、割に合わないですね。


● ニュースと感想  (1月06日b)

 「遺伝子の先端科学」について。
 遺伝子は単独で働くのでなく、複数の遺伝子がシステムとして働く、という話。部分的に引用しよう。(朝日・朝刊・科学面 2005-01-05 )
 これはたしかに、世界最先端の研究だ。従来の「遺伝子1個主義」なんてのは、駄目である。
 しかし、「遺伝子1個主義」が駄目だということ(遺伝子は多数のものが組み合わさって作用するということ)は、私が一昨年から「クラス進化論」でずっと主張してきたことだ。
 進化論の分野では、いまだに「遺伝子1個主義」が幅を利かせている。「単独の遺伝子が競争を生き残る」という主張である。
 しかし、こんな主張では、とうてい、進化を説明できないし、むしろ、進化の事実に矛盾する。たとえば、この主張からは、連続的な小進化が結論されるが、現実には断続的な大進化が発生する。
 こういう大問題がある。にもかかわらず、いまだに進化論の分野では、「遺伝子1個主義」のままだ。生命科学の最先端では、私の主張に追いつきかけているが、その根っこでは、まだ私に追いついていない。
 そして、いくら生命科学の最先端で、「遺伝子のシステム」なんてことを研究しても、その根っこにある進化論の「クラス交差」という概念を理解しないと、生命については何もわかったことにならないのだ。

 なるほど、生命の分野では、「遺伝子1個主義」の限界が判明した。「遺伝子1個主義では駄目」ということはわかりかけている。で、その結論は? 「遺伝子が1個で働く」かわりに、「遺伝子が多数で働く」ことか? ……それでは、小学生レベルの発想でしかない。
 重要なのは、「遺伝子が多数で何をするか」ということだ。そこでは、「多数の遺伝子の関連の仕方」の原理が問題となる。そして、その根幹を知るには、「クラス交差」という概念が大切だ。
 物事の核心となる原理を理解せず、表面だけを見て、働く遺伝子の数だけを数えているのでは、本質をつかんだことにはならない。
 生命の本質は、遺伝子や分子を、微視的に分析することだけによって得られるのではない。遺伝子や分子を、微視的に分析することはいいが、そうして得られた事柄を、生命体という巨大システムに統合していくことが大切だ。そして、そのためには、進化論の理解が必要だ。
 現在の生命科学は、あまりにも分析主義に偏っている。生命を理解するためには分子だけを理解すればいいという現代の生命科学は、物事の半面しか見ていないのである。生命の真実を知るには、むしろ、生命の誕生した過程を知らなくてはならない。そこには生命の誕生の原理があるからだ。原理を知らずに、細かな過程ばかりを調べようとしても、「木を見て森を見ず」である。それでは決して、生命の本質を理解できない。
( ※ 今回の記事は、間違った記事ではないが、あまりにも表面的な理解しかない。この記事もまた、「木を見て森を見ず」になっている。ただ一人の研究者の成果ばかりを報道して、全体的な位置づけができていない。何をなしているかは報道しているが、何をなしていないかを報道していない。だから、今後どう進むべきかも、まるでわかっていない。)

 [ 付記 ]
 根源的に示そう。
 今回の記事で報道されたように、「遺伝子が多数でシステムとして働く」ということが、うまく分析されたとしよう。では、なぜ、そういうふうに多数の遺伝子がシステムとして働くのか? つまり、そのシステムは、いかにして構築されたか? ── そういう問題がある。
 もしかして、遺伝子に意思があるからか? まさか。そんなことはありえない。
 とすれば、「たまたま偶然によって」という結論になるだろう。しかし、そういう偶然など、確率的に言って、とうてい起こるはずがないのだ。莫大な数の遺伝子が、たまたまうまく協調するなど、「偶然によって」なんて説では、とうてい説明できない。
 とすれば、そこには、システムを構築させる何らかの神秘的な原理があったことになる。それを解明するのが、進化論である。そして、その解答としての原理が、「クラス交差」だ。


● ニュースと感想  (1月07日)

 「無駄遣い」について。
 お年玉をもらったら、何を買いましょうか? テレビゲーム機? ま、それは、ご自由に。自分を白痴化させるとしても、そうするのは各人の自由だ。(ここまではイヤミ。)
 さて。各人のお年玉とは別に、政府のお年玉のことを考えよう。要するに、政府の無駄遣い。二件ある。

 (1) 警報システム
 地震・津波・テポドンに対して、携帯電話や情報テレビで、自動送信システムによって、危機を各人に速報するというシステムを、政府が構築する予定だという。(読売・夕刊・1面 2005-01-04 )
 このうち、「地震・津波」の警報は、無駄ではないし、むしろ、好ましいことだと思う。数万人が死の危機に瀕するのを、防護できる。
 一方、テポドンの発射を警告するというのは、冗談なんでしょうかねえ。仮に、警報なんかやったら、やらない場合に比べて、莫大な死者が出る。なぜか? 日本中でパニックが起こって、大量の死者が出るからだ。あちこちで交通事故が起こり、階段で転落が起こり、混雑会場での出口で圧殺が起こる。(一方、放置した場合、たとえテポドンが日本に落ちても、確率的には、被害者数はたいしたことはない。そもそも、第一目標は、米軍基地であるはずだ。)
 もっと根源的に考えよう。テポドンが日本に来る可能性は、限りなくゼロに近い。なぜなら、もしそうなったら、米軍の大攻撃が北朝鮮に襲いかかり、北朝鮮は滅びてしまうからだ。
 だから、テポドンが発射されるとした場合、一番可能性が高いのは、日本の頭越しに、太平洋に落とすことだ。で、それを見た日本政府があわてて警報を発して、日本中で大量の死者を出すわけだ。
 テポドンよりもはるかに怖いのは、この警報システムである。テポドンに比べ、数百倍の死者を出すだろう。
( ※ ここで、津波警報とテポドン警報では、良し悪しに差が出る。なぜか? 津波の死者の期待値は莫大で、テポドンの死者の期待値は僅少だ。津波でパニックを起こすのは海辺近辺だけだが、テポドンでパニックが起こるのは日本中だ。……かくて、メリットとデメリットの比較で、大差が出る。)
( ※ そもそも、政府の主張では、「テポドン対策」と称して、1兆円もかけてミサイル防衛網を作るはずだが、あれはどうしたんでしょうね。「あれはやはり無効だ」ということがわかっているのかな。こいつこそ、壮大な無駄遣いだが。)

 (2) 地震・洪水対策
 地震対策としての「地下トンネル」による「地下ダム」という案が紹介されている。(朝日・朝刊・1面・特集コラム 2005-01-05 )
 これを「有効だ」という二期時は推奨してるが、コストのことをまるで考えていないようだ。地下ダムには、ものすごく巨額のコストがかかる割に、それで救える被害は微々たるものだ。数百ないし数千億円という莫大な金をかけても、人命一つを救えるわけでもなく、小額の財産損害を予防できるだけだ。愚の骨頂と言えよう。( → 12月20日 に詳しく述べたとおり。)

 結語。
 何でもかんでも対策をすればいいというものではない。費用対効果を考えるべきだ。費用も効果も考えずに、単に「公共事業をやれ」というのでは、ケインズ流の無駄遣いとなる。
 金は有限だ。その有限の金で、無駄遣いをすれば、救える命も救えなくなる。結果を見る限り、無駄遣いは殺人にも等しいのだ。普通の殺人犯は数人を殺すが、国の無駄遣いは数千ないし数万人を殺す。「目先の一人を救おう」という微視的な立場を取ると、巨視的な立場を失い、結果的に数千・数万の人命を喪失させる。
 将たるものは、全体を見渡す能力が必要だ。しかしながら、残念なことに、古典派は常に微視的に(個人重視で)考えるので、巨視的に見ることができない。日本の悲劇は、将に小人物ばかりをすえてきたことにある。


● ニュースと感想  (1月07日b)

 「津波被害」について。
 津波被害について、いろいろと報道されている。これについて、簡単に言及しておこう。

 (1) 金銭援助
 日本政府の拠出した金額は、5億ドル。約500億円。イラクへの自衛隊派遣費の 400億円に比べると、同程度。被害の甚大さに比べ、あまりにも小額だという気はするが、ま、金額の問題だから、ここでは特に金額については、言及しないでおこう。
 しょせん日本は米国の従属国である。だから、ご主人様に命じられればホイホイ金を出すが、目下のものには金を出さない。イラクのときには「人道的支援」という名目で軍事費を出すが、津波のときには「人道的支援」なんてことをけろりと忘れる。それが日本の国是なんでしょう。政府であれ、保守派であれ。「世界に貢献せよ」ではなくて、「米国に貢献せよ」というのが、日本の国是だ。(正月の読売の社説に、ちゃんとそう書いてある。)

 (2) 人的・物質的な援助
 問題は、金ではなくて、人的・物質的な援助だ。伝染病による二次被害の恐れがあるから、すぐさま人的・物質的な援助が必要となる。次のように。
  ・ 医師の派遣
  ・ 医師の後方支援の派遣
  ・ 物資の送付(特に衛生面のために、消毒・殺菌の塩素など。)
  ・ 災害救助員(レスキュー部隊)
 このうち、目立ったのは、一番最後だが、これで救えるのは、ごくわずか。(続報によると、遺体処理ばかりしているという。)
 緊急課題は医師の派遣だが、あまりにも数が少ない。さらには、物資の援助も少ない。医薬品などは、たとえ送付しても、現地で配布されないで山積みになっているということが多いという。(使用説明の英語が読めなかったり、処置する医師が少なかったり。)……これらは困る。

 さて。ここでは、特に (2) が問題だ。なぜか? これは、次の二つの面で、日本にとっても困るからだ。
  ・ 経済的にアジアが困窮することで、市場を失う。
  ・ 将来の日本の地震被害に対する対処の不足。
 このうち、後者が重要だ。アジアの被害を救うということは、一種の練習になる。将来、日本で地震被害が出たとき、それに対処するには、あらかじめその救助能力を用意しておかなくてはならない。ぐずぐずせずに、迅速に実施しなくてはならない。たとえば、「知事の出動要請を受ける」なんてことをやっていては、その間に、大幅な死者が出る。仮に、知事が死亡していたら、そのせいで対策が不可能になる。知事の巻き添えで、莫大な市民が死ぬ。
 
 結語。
 アジアの津波被害に対して、すぐに救いの手を差し伸べることは、非常に重要である。それは、アジアのためになるだけでなく、明日の日本自身を救うことにもなる。他人を救うことは、自らを救うことなのだ。── 情けは人のためならず。
 今、彼らを救えなければ、来たる日の日本における地震災害のときにも、われわれは坐して死を待つしかない。







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「小泉の波立ち」
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