[付録] ニュースと感想 (70)

[ 2004.5.30 〜 2004.6.14 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

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       4月26日 〜 5月11日
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         5月30日 〜 6月14日

   のページで 》




● ニュースと感想  (5月30日)

 「遺伝子と形質」について。
 遺伝子と形質については、「遺伝子が形質を決める」という説が有力だ。それに対して、「環境が形質を決める」という説もある。
 ここで、別の意見として、「遺伝子と環境は相互作用する」という説がある。「遺伝子は環境を選び、環境が遺伝子を選ぶ(自然選択する)」と。(「やわらかな遺伝子」という著作。マット・リドレー著。紀伊國屋書店刊。読売・朝刊・書評面 2004-05-23 にも書評がある。)
 
 しかし、「遺伝子と環境は相互作用する」ということなら、専門家なら誰だって知っている。いちいち大騒ぎしなくてもいい。
 それより、本質的なことは、何か? それは、次のことだ。
 「一つの遺伝子が一つの形質を決めるとは言えない。複数の遺伝子が絡み合って一つの形質を決めることが多い」
 これは、すでに実証されたことであるが、メンデル流の「一つの遺伝子が一つの形質を決める」というのがすべての形質に適用される、と思い込んでいる素人が(専門家も)多すぎる。
 かくて、「幸福の遺伝子」「肥満の遺伝子」「天才の遺伝子」「美人の遺伝子」……なんてものが、あちこちの紙面をにぎわす。

 なぜか? 実は、「一つの遺伝子が一つの形質を決めるとは言えない」ということは、現実レベルでは実証されているのだが、理論レベルでは説明されていないからだ。なるほど、「集団遺伝学」という分野では、遺伝子セットについて考慮されることはある。しかし、原則として、理論としてはダーウィン理論を採用しているのであって、そこでは、「一つの遺伝子が一つの形質を決めて、その形質で自然淘汰が起こる」というのを原則としている。

 では、「一つの遺伝子が一つの形質を決めるとは言えない」つまり「遺伝子同士での相互関連がある」ということを原則とすると、どうなるか? ダーウィン理論を捨てる必要がある。かわりに、別の理論を採用する必要がある。では、どんな?
 それが「クラス進化論」だ。 ( → クラス進化論のページ


● ニュースと感想  (5月30日b)

 「本能」について。
 生物の行動のうち、生物に最初から備わっているものは、「本能」と呼ばれる。これは、後天的に学習されたものではなく、先天的に備わっているものだから、遺伝子によって規定されていると考えられる。
 一方、遺伝子の数は有限である。とすると、下等な生物が、複雑な行動を先天的に取る、というのは不思議に思える。
 この問題は、次のように解決できる。

 「一つの遺伝子が一つの行動をすべて決める」と思うから、理解できなくなる。現実には、「一つの遺伝子が一つの行動をすべて決める」のではなくて、「非常に多くの遺伝子が一つの行動をすべて決める」というふうになる。
 すると、「一つの遺伝子の有無が一つの行動の有無を決める」とは言えるが、「その遺伝子があればその行動をもたらす」とは言えなくなる。
 これが原理だ。この原理を前提としてから、さらに話を進めよう。  
 簡単に言えば、こうだ。
 本能とは、「単純な指標に対する、単純な反応である。ただし、生物の複雑なシステムにおいては、単純な反応が複雑な行動を取ることがある」

 具体的に示そう。
 鳥類というのは、かなり行動な生物であり、かなり高度な行動を取る。とはいえ、しょせんは恐竜の一種のようなものであって、爬虫類の一種のようなものにすぎない。たいして脳が発達しているわけではない。では、なぜ、足りない脳で行動な行動を取れるのか?
 このことを調べる動物行動学が、興味深い結果を報告している。鳥類は、対象を明確に認識して行動しているのではなく、対象の明確な指標に単純に反応しているだけにすぎない。次のように。
 要するに、「親を識別する」という複雑に見える行動も、単純な指標に反応しているにすぎない。だから、指標を誤認識して、錯誤することもある。
 人間なら、食物を欲しがるのは、その食物を認識して、「ほしい」と思うからだ。そこには高度な脳の働きがある。しかし、生物が同じ行動を取るからといって、同じ仕組みがあるとは限らない。もっと簡単なシステムによる反応であることもある。たとえば、「オレンジ色を見るか否か」に反応しているだけだ、ということもある。
 行動にしても、同様だ。生物が複雑な行動を取るように見えても、実は、単純な反応をしているだけ、ということが大半だ。たとえば、何百もの鳥が整然と編隊を組んで飛行するのも、別に、複雑な編隊組織を汲むように、高度な組織や命令系統ができているわけではない。それぞれの鳥は、そばの鳥との間で、一定の関係を持つように行動しているだけだ。
 ここでは、その行動を取るための遺伝子は、「ある反応をするか否か」という、ごく小さな役割を果たしているだけだ。しかるに、その生命全体を一つのシステムと見なすと、そのシステムを構成する遺伝子のなかで、一つの遺伝子は、他の遺伝子と関係することで、非常に複雑な役割を果たすようになる。たとえば、「オレンジ色に反応する」という遺伝子だけのせいで、その後、さまざまな複雑な行動を取るようになる。ここでは、「オレンジ色に反応して複雑な行動を取る遺伝子」があるのではなくて、「オレンジ色に反応する遺伝子」があるだけだ。しかし、その一つの遺伝子が、他の多くの遺伝子と関係して、一つの複雑な行動を取らせる。
 そうして生じた一連の行動として、本能というものを認識できる。その本能の有無を決めるのは一つの遺伝子だが、その本能が完遂されるためには多数の遺伝子が必要だ。

( ※ ともあれ、ここでは、「一つの遺伝子が一つの形質をすべて決めているのではない」ということが重要だ。このことは、前項とも関連する。)


● ニュースと感想  (5月30日c)

 「人の進化」について。
 人とチンパンジーの遺伝情報は非常に大きく違っているのが判明した。理化学研究所の調査結果。(朝日・朝刊・社会面 2004-05-27。引用ではなくて、要約。)
 人とチンパンジーの遺伝情報の差は、かなり大きい。たがいに対応する染色体を調べる。人の21番とチンパンジー22番を比較して、99.99%の制度で分析。すると、次のことが判明した。
 塩基は、人3313万、チンパンジー3280万。遺伝情報の違いは、従来の単純な推計値では違いが 1.23%だが、今回調べた箇所の差は 5.3%と計算される。理由は:
   ・特定のDNAの断片がチンパンジーのDNAに入り込んでいるのに人にはない。
   ・人にはあるのにチンパンジーでは欠けている。
 という違いが6万8千箇所もあるから。
 また、それぞれの染色体の同じ位置にある遺伝子 231個で、そのつくるタンパク質を比べると、タンパク質を構成するアミノ酸が一個以上違うものが8割に上る。DNAの配列の違いによると見られる。
 これから、何がわかるか? 「小進化の蓄積」というダーウィン説は、完全に破綻した、ということだ。
 なぜか? 類人猿から現人類への進化は、1000万年もかかっていない。かくも短期間である。こんなに短期間のうちに、進化に必要な遺伝子の小変化がかくもたくさん蓄積した、というのは、確率的に言って絶対にありえないからだ。今回判明した遺伝子の差は、それほど大きいものであった。
( ※ 1000万年というのは、進化の歴史では、あまり長くない期間である。たいていの生物では、1000万年ぐらいでは、さして目立った変化は生じない。チンパンジーだって、他の哺乳類だって、過去1000万年の間にたいして変化していない。ただし、ときどき新種が派生することはある。しかしこれは、ダーウィン説の「小進化の蓄積」とは別のことだ。)

 [ 付記 ]
 「小進化の蓄積」という形を取る場合、中途半端な配列はたいてい「不利なもの」として淘汰されるはずだ。ダーウィン説によれば。
 ただし、同一種における個体間で、遺伝子に多様性があると前提すれば、この問題は回避される。
( → クラス進化論のページ


● ニュースと感想  (5月31日)

 「ロボットとサイボーグ」について。
 ロボットについては、二足歩行に関して、先日も話題にした。「現在の二足歩行ロボット開発の方向は間違っている」と。( → 5月14日b
 しかし、本項では、より根源的な話をしよう。そもそも、「ロボットを開発する」という方針からして、根本的におかしなところがある。むしろ、「サイボーグを開発する」とするべきなのだ。その理由を示す。

 ロボットには、次の二つのタイプがある。
   ・ ヒューマノイド(鉄腕アトムタイプ。人工頭脳を持つ。)
   ・ リモコンロボット(鉄人28号タイプ。遠隔操作する。)
 このうち、どちらをめざすべきか? 実は、どちらも駄目である。
 第1に、ヒューマノイド(鉄腕アトムタイプ)は、人工頭脳の開発が非常に困難だ。マンガの世界では、実現されているが、これが現実化するのは、百年たっても無理だろう。人工頭脳というものがどういう概要をもつかさえ、まるきり判明していない。単に「人間の脳そっくり」と、漠然と考えているだけだ。
 第2に、リモコンロボット(鉄人28号タイプ)は、操作性が悪い。遠隔操作が非常に困難だ。「遠くから見ながら操作する」というのでは、とうてい、まともな動きはできない。「まともに動けなくてもいいから、とりあえず、遠隔操作したい」という場合ぐらいにしか、利用法がない。つまり、「人間がそこには到達できない」という場合だ。(例。惑星探査。深海探査。原子炉内の探査。)

 結局、前者は、実現困難。後者は、実用性が不足。かくて、いずれにしても、駄目だ。となると、残りは、次の二つだ。
  ・ パワー・スーツ(ガンダム・タイプ。着ぐるみロボットに人間が入る。)
  ・ サイボーグ(サイボーグ009タイプ。脳は人間で、ボディはロボット。)
 この二つならば、操作するのは、機械的な肉体と組み合わさった、人間の脳だ。(前者は分離可能だが、後者は生体的に合体している。)
 いずれにせよ、これらなら、「人工頭脳」を必要としないから、開発はずっと容易だ。

 実を言うと、サイボーグは、すでに実現している。それは、「身障者に対する、可動型の義肢」などである。単純な機械タイプもあり、電動タイプもあり、神経と結合しているタイプもある。
 これらのうち、高度なものは実験レベルだが、簡単なものは実用化されて販売されている。その例は、新聞でも紹介されている。「指を失った人が、機械の手指で、箸をもって食事をできる。箸で豆腐をつかんだり、スパゲッティをフォークで食べたり」と。(朝日・週末版 be ・赤色版 2004-05-22 )
 ここで紹介されているのは、障害者が自力で開発したものだ。「これで人に優しくなれた」と開発者は語る。これを読んで、涙が出そうになった。「立派だ」と感激したのではない。「情けない」と呆れたからだ。
 日本の自動車会社や電器会社は、何をやっているのだ? 莫大な利益を出して、「1兆円の利益が出ました」「6000億円の利益が出ました」と威張っている。そのくせ、何一つ、社会貢献をしていない。上記のような機械的な義肢のようなものは、自動車会社や電器会社ならば、かなり高度なものが作れるはずだ。にもかかわらず、自社の技術を出し惜しんで、ちっとも社会貢献をしない。まったく、情けない。
 私としても、「情けない」とばかり感じていないで、できればお手伝いをしたい気持ちもある。しかし、そう思っても、私にはできない。機械や電器の技術はないからだ。そういうことができるのは、自動車会社や電器会社だけなのだ。なのに、これらの会社は、そろいもそろって「バスに乗り遅れるな」とばかり、人まねで、ロボット開発に熱中している。ホンダが最初にやったのはいいが、ソニーなどはホンダの物真似で、「ダンス・ロボット」などを作って、遊び半分で喜んでいる。

 というわけで、私は、「他社の物真似でロボットばかりを作るな」と叫びたい。「むしろサイボーグを作れ」と訴えたい。そして、これこそが、実用化・商業化の可能な、唯一の道なのだ。
 ロボット開発会社は、「何年たったら二足歩行ができるかわからない」と述べている。正解を教えよう。「二足歩行ロボットは、永遠に不可能」なのである。なぜなら、たとえ技術的に可能になったとしても、そんなものが街中を歩行したら、危険だから、禁止するしかないからだ。まともな人工頭脳が開発されない限り、二足歩行ロボットは、人間にとっては危険で迷惑であるがゆえに、許容されない。たとえ技術的には可能でも、社会的には受容されないから、実用化は無理なのだ。(仮に、街中を歩いたら、「人間に危害を加える恐れあり」ということから、ロボット三原則に抵触するので、ただちに叩き壊される必要がある。)

 結局、実用可能なのは、サイボーグだけだ。そして、これには、多大な市場が開けている。たとえば、車椅子になった高齢者のための「機械下肢」とか、介護者のための「パワー・アーム」(力を補助する腕)などだ。……そして、これらを実用化するための技術の開発は、あまり高度ではない。実用化は、すぐ先だ。というか、初歩的なものはすでに実用化済みだ。また、高度なものは、以下に例を示す。
  ・ 百メートルを5秒で走る。買物もひとっ走り。
  ・ 百メートルを平泳ぎで30秒で泳ぐ。遠泳も楽々。
  ・ ゴルフなら常にホールインワン、野球なら常にホームラン。
  ・ ピストルやライフルを使うと、百発百中。
 こういうパワー・スーツができれば、売れるだろう。市場は自動車産業より大きくなるかも。だから、まともな技術者は、ロボット開発なんかをやめて、サイボーグ(およびパワー・スーツなど)を開発しよう。
( ※ 以上の例は、荒唐無稽に思えるかもしれないが、基礎技術はすでに開発されている。とりあえずは、あちこちの文献を調べてみることをお勧めする。また、あなたが大学の研究者であれば、「サイボーグ学会」または「メカ・ボディ学会」というのを設立して、新規分野を切り開くといいだろう。あなたが商業技術者なら、うまく行けば、ビル・ゲイツのようになれるかも。……ついでに言うと、現在、ファイナルファンタジーなどを作ってボロ儲けしている会社は、25年ぐらい前はボロい一部屋ぐらいの規模でしかなかった。何事も、先駆者は、急成長できるのだ。)
( ※ ついでに言うと、ホンダのアシモは、百年たっても、街中を歩けません。なぜなら、人に危害を与える可能性があるから。たとえば、人とぶつかって、人を傷つけたり跳ね飛ばしたりする可能性がある。それを避けるためには、アシモを生体として作る必要があるが、こうなると、もはやアシモではない。)

  【 追記 】
 次のことも記しておく。
 (1) 殺人ロボット
 通常のロボットは人間に危害を加える可能性があるがゆえに実用化は困難だが、逆に、人間に危害を加えることを目的としているロボットならば実用化は容易だ。たとえば、巡航ミサイルというのは、一種のロボットと見なせる。その他、無人飛行機とか、無人走行戦車とかも、ロボットと見なせる。
( ※ 米国政府はメリットとして「ロボット兵器ならば人的損失がない」と述べている。しかし相手国にとっては「人的犠牲がすごく多大だ」となる。米国政府の頭がすでに非人間的になっている。ロボットよりも非人間的かも。ロボットには殺意はないから。)
( ※ なお、似たものに、探査用の無人探査車がある。ただし、これは、人のいないところで自立走行するので、人間に害を加えない。)
 (2) 自動走行システム
 自動車の自動走行システムというのも、一種のロボットと見なせる。「荒地を自分で判断して走行する」という米国政府のコンペがあったが、これにパスしたものは皆無だった。ただし、日本の自動車会社では、舗装道路に限って有効なシステムをすでに市販している。「高速道路における自動操作システム」だ。さらには、「自動ブレーキシステム」も近く市販されるらしい。……とはいえ、「ハンドル・アクセル・ブレーキ」をかなり低レベルで調整するだけだ。そんなものさえ、今になってようやくできる程度。「荒地を自分で判断して走行する」というのは、かなり先のことだろう。
 ロボットのサッカー選手権というのを見たことがあるが、これは、飛行機でいえばライト兄弟以前であり、ゴムひもの模型飛行機のレベルだ。ロボットが最低限の実用レベルに達するのは、はるか先のことになりそうだ。
( ※ ソニーの AIBO は、実用品ではなくて、愛玩品であるにすぎない。「動くお人形」だ。これなら、糸で動かす「操り人形」を、ハイテクで動かすだけだから、技術的には容易。)
( ※ どちらかと言えば、「バウリンガル」という犬語翻訳機の方が、はるかに実用性がある。人工頭脳みたいに見えなくもない。 AIBO よりもマシかも。 AIBO が吠えたときに、バウリンガルで翻訳すると、どうなるんでしょうかねえ?)
( ※ それで思いついたが、一番売れそうなのは、「女房翻訳機」と「亭主翻訳機」だ。前者は女房の本音を明かす。後者は亭主の浮気の嘘を明かす。)


● ニュースと感想  (5月31日b)

 (1) イラク人質問題についての追記を、少し記述した。
   → 5月23日e【 追記 】

 (2) 北朝鮮にいる米国人脱走兵(拉致被害者の夫)の話を、新たに追加した。
   → 5月24日b


● ニュースと感想  (6月01日)

 「迷惑メールの撲滅」について。
 迷惑メールでみんなが困っている。「うまい方法はない」と信じられているようだが、ある。その方法を示す。
 それは、「有料メール」だ。この件は、前にも述べたことがある。( → 3月19日b
 要点を引用すると、次の通り。
 「発信者に対して、有料を原則とする。無料で送信されたメールは受信を拒否する。有料を受け入れたメールだけが受信される。このとき、有料を受け入れたメールについては、送信者に対して、課金される
 
 本項ではさらに、次のことを提案する。
 「課金されたのと同等の額を、受信者が受け取る。メールを受け取れば受け取るほど、受信者が得をする。」(課金の額は、有料システムにおける課金。たとえば1通あたり5円。通常の通話料とは別。)

 この方法は、(インターネットのメールはともかく)ケータイのメールについては可能だろう。普通の無料( or 定額料金)メールは届かなくなるが、そのことをあらかじめ前提としておけばよい。
 ビジネスとしては、まずはこのシステムを、一社単独で実施すればよい。その後、複数の会社で、同じシステムを共有する。
 たとえば、最初は、ドコモならドコモ同士、au なら au 同士で、実施する。このとき、あなたがケータイを所有するとすれば、あなたには二つの選択肢がある。
  ・ 普通のメールシステムに加入する。
  ・ 有料のメールシステムに加入する。
 前者の場合、迷惑メールがたっぷりと来るが、他の人々からのメールも制限なく受け取れる。
 後者の場合、メールを受け取るのは、同じシステムに加入した人からだけだから、範囲は非常に限られている。たとえば、家族同士とかクラスメート同士。また、もし迷惑メールが来たら、その1通ごとに、あなたの口座に金が貯まる。たとえば、1通あたり5円。この金を払う業者はほとんどいないから、結果的に、あなたには迷惑メールはほとんど来なくなる。
( ※ 業者としては、1通あたり5円をかけて広告メールを出すか、広告メールをやめるか、二者択一である。通常、有料システムの加入者には、送信しない。)

 有料システムの加入者である個人同士では、どうか? 送信すると5円払うが、受信すると5円もらう。通常、個人同士では、送信回数と受信回数はほぼ同じだから、損得なしだ。(ここがミソ。電話だと、払うだけで受け取れないから、コストが毎回10円かかる。)……また、送信した方が金を払うとすると、友人同士では自分からは送信したがらなくなる。だから、無駄なメールが減る。「いまなにしてる?」「といれだよ」なんていう無意味なメールがなくなる。かくて、若者が白痴になる度合いが減る。……電話会社としても、無意味なパケット通信が減るので、設備の負担が減って、得をする。(ついでだが、現状だと、無意味な画像メールが増えて、二人で別々のトイレに入りながら画像通信する、なんて事態になりそうだ。「こんな大きいのが出ちゃった」なんてね。かくて白痴化が進む。)
 個人同士でなく会社と社員ならば、どうか? 会社の方が送信する回数は多いだろうから、社員の方が少し得だろう。毎日1回、会社からメールを受け取ると、月に20回で計100円の得。(せこいね。 (^^); )

 このシステムは、設備投資を、ほとんど必要としない。ソフトの開発費や事務経費にちょっとお金がかかるだけだ。しかも、その分、料金を頂戴できるから、会社としては利益を増やせる。また、これまでは「迷惑メールを受け取りたくないからケータイを使わない」と思っていた人々をケータイに加入させることができるから、新たな市場を開拓できる。
 どうです? どこかのケータイの会社が、これをやりませんかね? 乗り換えてでも、このシステムに加入した方がいい、と思う人が多いでしょう。
 というわけで、ドコモでも、au でも、先んじてこのシステムを構築した社が、急速にシェアを伸ばす。ひょっとしたら、ライバルを市場から駆逐することもできるかも。たとえば、ほとんどの人が au に加入する。こうなると、ドコモが有料システムを構築していなくても、ドコモの分はほとんど無視できる。au だけで有料システムを構築しておけば、日本中のほとんど全員が au の有料システムに加入することになる。かくて、ケータイから迷惑メールは一掃される。
( ※ だけど、ケータイ中毒の人は別。「たくさんの人からメールがほしい」と思えば、「たくさんの迷惑メールをもらえる」という結果になる。自業自得? 自己責任?)

 [ 付記1 ]
 上記では「有料メール制」というのを示したが、別の方法もある。会社の「登録制」という方法だ。( → 3月19日b
 なお、似た方法はMSも検討しているようだ。また、プロバイダの業界全体でも検討中らしい。(朝日・朝刊・1面 2004-05-27 )

 [ 付記2 ]
 電子メールを使った犯罪は、独自の重い刑罰が必要だ、と思える。たとえば、十万人または百万人をだましているわけだから、一人をだます通常の詐欺とは異なるからだ。本来なら、百万人をだますなら、百万回分の刑罰を加えてもいい、とも思えるのだが、法体系はそうなっていない。法が現実に追いつかない。国民生活センターの電話は、「架空請求」の被害で鳴りっぱなしだ、という報道もある。
 また、電子的な名簿流出も、この犯罪に関係している。この問題も、法が現実に追いつかない。やはり、あれやこれやで、法的な整備を早急に実行することが重要だろう。「個人情報の保護」と言っているだけでは駄目だ。現実はそれで済むほど甘くない。
( → 5月24日8月30日3月18日b


● ニュースと感想  (6月01日b)

 「デジタル著作権」について。
 Winny の事件のあと、著作権問題に関連して、次のような意見が出ている。
 「デジタル著作物は、コピーが容易である。だから、発想を逆にして、原則的にコピーを認めればよい。かわりに、生演奏を有料にすればよい」(読売・投書面 2004-05-26 )
 このような発想は、いかにも理系っぽいが、文化の認識がまるきり欠落している。
 なぜか? 実は、「生演奏を有料にすればよい」なんてことが成立するのは、莫大な人気を誇る一部のアーティストだけだ。大多数のアーティストは、生演奏ではたいして稼いでいないのだ。クラシック系だと、主宰者が赤字になることも多いから、演奏者も薄給だ。世界的な演奏家でも、楽器は自分がポーターのように運搬したり、安い宿で泊まってとんぼ返りしたり、とにかく、金銭面では恵まれない。
 文化というのは、金儲けの道具ではない。このことを基本認識とするべきだ。文化は、「経済的にはまったく儲からないが、それでも維持するべきもの」なのである。
 文化を生み出す人々は、金儲けのためにやっているのではなくて、情熱のためにやっている。ここで、「金儲けのため」なんてことを考え出す人が出てくると、良質な文化は根こそぎにされ、大衆的な文化しか生き残らなくなる。だから、文化は、経済の原理から保護するべきものなのだ。
 経済学で原理とされる「自由放任」なんて、もってのほかである。なぜか? そんなことをすれば、生物の世界で、「弱肉強食」によって多くの稀少種が絶滅したように、多くの貴重な文化が失われる。文化の世界で大切なのは、「弱肉強食」ではなくて、「多様性」なのである。不人気な儲からないものを、消滅させるべきではなくて、あえて生き残らせるべきなのである。
( ※ なお、「稀少種の絶滅」は、「自然の摂理」ではない。傲慢な人間が勝手に絶滅させただけだ。この手のエゴイズムは正当化されない。仮に、エゴイズムが正当化されたら、人類はエゴイズムをぶつけあったすえに、核戦争で絶滅するはずだ。多くの稀少種を絶滅させたあとで、自らをも絶滅させることになる。……エゴイズムというのは、決して正当化されない。ダーウィン説の「優勝劣敗による進化」なんてのは、根本的に狂った論理なのだ。)
( → クラス進化論のページ
 
 では、どうするべきか? 
 私の考えでは、これを解決するには、ネットで流通する情報を管理するしかない、と思う。たとえば、著作物の違法な流通があれば、直ちに感知して、配布者を自動摘発する。(技術的には難しくはない。何しろ米国は、インターネットのメールの大半を盗み見て、テロ犯人を摘発しているくらいだ。)
 「そんな情報管理は駄目だ」と思う人も多いだろう。しかし、(米国のやるような)情報の内容ではなくて、情報の形式を管理するだけならば、問題はない、と私は考える。
 そしてまた、これは、「ウィルス撲滅」の技術でもある。つまり、「ネット上のどこかでウィルスを検知して自動削除する」という方法。( → 8月21日b 【追記】)

 結局、人々は、次の二つから、二者択一をするしかない。
  ・ ネット情報の管理がない世界。
   ……ウィルスが膨大にあふれる。無断コピーという犯罪行為もやり放題。
     文化は、売れる文化だけが生き残り、文化の多様性はなくなる。
  ・ ネット情報の管理がある世界。
   ……ウィルスは消滅する。無断コピーという犯罪行為もできなくなる。
     文化は、多様な文化が生き残る。ただし有料。
 この二つの、どちらがいいか、よく考えてほしい。

 [ 付記1 ]
 参考のために言えば、日常世界では、次の選択もある。
  ・ 毒物や麻薬の管理がない世界。
   ……毒物や麻薬が出回るせいで、世界は暗黒街のようになる。犯罪が蔓延する。
  ・ 毒物や麻薬の管理がある世界。
   ……毒物や麻薬が禁止されるせいで、世界は平穏。犯罪は消滅する。

 [ 付記2 ]
 Winny の作製者が起訴された。(各紙 2004-05-31 )
 この件に関しては、私は前に意見を述べた。( → 5月12日b 以降 )
 ただ、その後も「作製者と利用者は別だ。作製者は罰されるべきではない」なんていう主張があちこちに出ている。
 なお、私の立場は、先に 5月13日 の [補記] で示した通りだ。つまり、下記。
 「作製者と配布者は区別される。Winny の作成自体は犯罪ではないが、作成したものを研究室から出した時点(配布行為を開始した時点)で犯罪となる。作製者が研究室に入れたものを、他人がこっそり盗んで配布すれば、その配布者が処罰される。今回は、作製者と配布者が同一であるから、作成ではなく配布の行為を理由として、処罰されるべきだ。」
 要するに、「利用者が悪い」とは言えるが、「作製者が悪くはない」とは言えない。通常、作製者と配布者は同一であるからだ。
 もちろん、ウィルスも事情は同じ。
( ※ なお、サリンの場合は、作製者と配布者は別だが、両方とも処罰される。なぜか? ここでは、「配布者は悪い」とは言えるが、「作製者は悪くはない」とは言えない。作製者については、あくまで、ケースバイケース。 → 5月13日

 [ 付記3 ]
 Winny の裁判は、このあとの推移が興味深い。もし「無罪」になれば、ウィルスについても「作製者と頒布者は別だ」ということになるから、日本はウィルス作製者にとって天国となる。
 たとえば、ウィルスを作成しておいて、ホームページにダウンロード可能な形にしておいて、「ウィルスを蔓延させたい方は、このボタンをクリックしてください」と記す。どこかの阿呆がクリックすると、とたんに、世界中にウィルスが蔓延する。
 あるいは、もっとひどいことも考えられる。ウィルス作製者がウィルスをどこかのパソコンに感染させる。そのあとはウィルスが自動的にばらまかれる。その後、作製者は、こう弁明する。「蔓延したのは、ウィルスが勝手にやったんです。逮捕したければ、ウィルスを逮捕するべし。利用者は、ウィルスなんだからね。とにかく、作製者と利用者は別なんだ。作製者は逮捕されるべきじゃないね」と。
 悪夢の世界。
 ( ※ ついでに言うと、ウィルスの被害というのは、現状では、まだまだ微々たるものである。ウィルス作製者にはあまり知識がないからだ。しかし、天才的な作製者が登場して、すごく高度な知識を使えば、とんでもないウィルスを作成することができる。一夜にして世界中のネットワークをマヒさせることだって可能だ。たとえば、あなたのメールボックスに、1秒ごとに1メガバイトのメールが1万通ずつ襲来する。いくら削除してもキリがない。……ということも、原理的に可能だ。[その方法は秘密ですが。]……ただし、現状では、こんなことをやったら、バレた場合には長い懲役刑になる。しかるに、「作製者と利用者は別だ」という理屈が成立して、作製者が無罪になるとしたら、こういうウルトラ級の悪夢が現実になるかもしれない。)


● ニュースと感想  (6月02日)

 前項の続き。「 Winny 」について。
 前項では Winny について述べたが、これを初めてお読みになる読者もいるようだ。その場合は、前回の記述(5月12日b 以降)も参照してほしい。そうしないと、「主」たる話を理解しないまま「副」たる話ばかりを読むことになるので。

 以下では、オマケとして、細かな話と基本原理を追補しておく。

 Q 「作製者は有用なツールを悪用されただけだ。悪いのは利用者であって、作製者ではない。」
 A 5月12日b で述べたとおり。そちらを参照。つまり、「悪用されただけだ」なんて釈明は通用しない。それは、犯罪者の独善だ。特に、青酸カリと子供の例を参照。
( ※ つまり、「悪用されること」を狙って用意しておきながら、「たまたま悪用されたんです」と弁解するなんて、しらじらしい。こすからいね。女性からは「サイテー」と呼ばれるだろう。……似た例に、送り狼がいる。「紳士ですよ」と述べて、送っていってから、急に襲いかかる。暴行のあとで、「つい出来心で」なんて弁解する。嘘つけ。最初から狙っていたくせに。……送り狼は、Winny の作製者と同じだ。)

 Q 「たくさんいる利用者が逮捕されないのは変だ。」
 A 私は別に、「利用者を逮捕するな」とは主張していない。警察が利用者を逮捕するというのなら、それは警察の勝手である。「利用者を逮捕するべき」と思う人は、私には注文しないで、警察に注文するといいだろう。そのための方法は「告発」である。どうぞ、ご随意に。
( ※ ただし、司法の問題としてでなくて、経済の問題として考えれば、全員逮捕というのは、ちょっと無理だろう。Winny の利用者は数十万人もいる。その全員を逮捕するには、警察官を莫大に増員しないとならない。大幅な増税が必要だろう。馬鹿げていると思う。とはいえ、「全員逮捕すべし」と誰かが言い張るのであれば、私は別に妨げない。)

 [ 付記 ]
 より本質的に述べておこう。Winny は、「たまたま悪用されただけだ」なんて釈明は通用しない。というのは、そもそも「悪用されること」を狙ったソフトだからだ。
 なぜか? 単にファイルを頒布するだけならば、ホームページを使った方が百倍も便利だ。それなら検索エンジンを使って、誰でも最適の場所に最短の時間で到達する。また、「特定の会員に限定」というような設定をすることも可能だ。(これは普通のホームページではなくて、パスワードつきの「ファイル頒布サービスつき」のホームページ。)
 これらでは、通常のブラウザを使うだけで済むし、特製のソフトなどは必要ない。だから、便利さでは圧倒的に上だ。(実際、これを書いた本日も、利用した。同窓会の写真を、友人がウェブ上[ファイル無償サービス上]で公開したので、それをブラウザで入手した。ブラウザだけで済むから、とても便利。)
 では、なぜ、Winny というソフトが登場したか? それは、頒布者の「匿名性」を確保するためだ。「誰が頒布したか」を隠すこと。これこそが Winny の本質である。
 通常、この匿名性は、必要がない。ファイルを頒布するなら、その頒布者を特定可能にしても、問題ないからだ。問題があるとしたら、ウィルスの頒布のような犯罪的な行為をする場合だけだ。
 Winny も同様だ。頒布者が犯罪的な行為をするからこそ、匿名性が必要とされる。逆に言えば、匿名性が必要とされるのは、頒布者が犯罪的な行為をするからだ。
 なお、これに関連して、弁解が出ることもある。「独裁政権における自由運動家の匿名性を確保するためには、Winny のようなソフトが必要だ」というような。……しかし、ここでも、自由運動家の発言は「独裁政権下における犯罪行為(違法行為)」であるということに注意しよう。ここでは、「違法行為が善である」というふうになっているが、違法行為が違法行為であることには変わりはない。この点を勘違いしてはならない。
( ※ この場合は、違法行為を是認するのではなくて、独裁政権を倒すのが先決だ。本末転倒。「独裁を倒すためには違法行為も許容する」と主張するのは、過激派などのテロ思想だ。第三者に多大な被害が出る。)
( ※ ついでに言えば、独裁政権下で自由運動をするためには、Winny なんかは必要はない。第三国のホームページを利用すればいい。インターネットはつながっているのだから、外国のホームページを見ればいいだけだ。実際、イランや中国の自由運動家は、そうしている。とはいえ、政府が「米国のサイトは閲覧禁止」なんていう措置を取ることもあるが、そんなことをやっていれば国家が時代から取り残されるだけだ。国家にとっての自殺行為である。)

 とにかく、犯罪行為以外のためなら、匿名性などはことさら必要ない。たとえば、言論の自由には、発信者の文責が明示されることが付随する。さもなくば、「言いっぱなしの無責任な発言」となるから、ゴミ掲示板( or 便所の落書き)と同じになる。「何でもかんでも自由がいい」というのは、「無責任がいい」ということであり、「犯罪行為の蔓延がいい」ということであり、「被害者のことなんか無視していい」ということだ。
 ま、そういう立場を取る人もいるが、私はそういう立場は取らない。その理由は、次項で述べる。


● ニュースと感想  (6月02日b)

 前々項の続き。「 デジタル著作権 」について。
 前々項では、デジタル著作権について言及した。さらに補足しておこう。
 基本原理として、私の立場を述べておく。「誰かのエゴのせいで、どこかに被害者が発生したら、被害者の悲しみを理解せよ」ということ。これが私の立場だ。つまり、エゴ否定論だ。
 とはいえ、世間に圧倒的に多いのは、「おれのエゴが大事だ」という主張だ。ほとんどの人は、「とにかく、おれが得をしたい。他人の悲しみなんか知ったこっちゃない。他人にどんなに迷惑をかけても、おれの利益を増やしたい」と考えている。……残念ですね。
( ※ 犯罪者と警察が対立したとき、「犯人を擁護するのが民主的だ」と思う人が多い。一方、「警察を擁護するのが正義だ」と思う人も多い。前者は、左翼的。後者は、右翼的。前者の例は、朝日。後者の例は、読売。……私はどうか? どっちでもない。犯罪者も警察も嫌いだ。「被害者の悲しみを察せよ」というのが、私の立場。)

 参考。
 Winny の問題に限らず、マクロ経済の問題で、私が常々指摘してきたことは、次のことだ。
 「各人が自己の利益(エゴ)を追求すれば、社会全体が向上する、なんてことはない。社会全体が向上するためには、むしろ、各人のエゴを抑制して、もっと別のものを追求するべきだ」
 そして、そのための方法として、エゴのかわりに理性をどう働かすべきかといことを、マクロ経済学で示している。
 その際、各人がなす行動は、簡単な言葉で言えば、「エゴ」に対比すべきものとして、「愛」と呼んでもよい。社会においても、エゴのぶつかりあいは戦争をもたらすが、愛は平和をもたらす。……それがイラク問題で主張していることだ。

  【 追記 】 (2004-06-03)
 読売は Winny 擁護とも取れる解説記事を掲載した。大略、次のように。(朝刊・解説面 2004-06-03)
 「Winny のように、各種のファイルが容易に検索・入手できるソフトは、他の有料サービスでは存在しない。一方、アップルは一曲99セントで音楽を入手できる「iチューンズ」というサービスを成功させている。だから、利便性があれば、利用者はきちんとお金を払うはずだ」
 と。しかし、この見解には、重要な前提が二つ抜けている。
 第1に、成功した例は「価格が安い場合」に限られる。99セントなら、金を払うだろう。しかし1万円以上なら、払うだろうか? たとえば、MSのオフィスソフトや、Adobe の画像ソフト。「タダでも入手できる」ということが是認されれば、誰だって1万円以上払うよりは、タダで入手するはずだ。99セントと1万円以上とでは、話が違うのだ。
 第2に、米国と日本とでは、クレジットカードの普及率が全然違う。米国のビジネスモデルが成功しているのは、ネット決済にクレジットカードが多大に利用されているからだ。一方、日本では、クレジットカードの普及率がずっと低いし、ネット決済にもクレジットカードよりは「代引き」の方が多く利用されている。米国と日本とでは、状況が全然違う。日本には金を払うシステムがまだ構築されていない。(これは関係業界の責任ではない。インターネットが普及してからまだ十年ぐらいしかたっていないのだから、現状は過渡期である。もちろん、過渡期だからといって、犯罪が許されるわけではない。)
 読売みたいな「犯罪の弁護」なんてのは、言語道断だ、とも言える。これはいわば、「泥棒を抑制するには、ウルトラ級の超低価格で食事や日用品を配布するべきだ」というようなものだ。そして、そのための財源をすべて、生産者に負わせる。「超低価格で売れば、万引きはなくなるよ。おからとパンの耳なら、安いから、誰も盗まないだろう? だから、超高級料理もすべて、99セントで売れ。自動車もプラズマテレビも、百円ショップで百円で売れ。そうすれば万引きはなくなるぞ」というようなものだ。その意見に従えば、採算割れになるので、誰も生産活動をしなくなる。
 こんなことは、当り前だ。自動車や電器などの生産をしている会社のサラリーマンなら、誰だってわかる。「大幅に原価割れの、超低価格で販売すれば、万引きはなくなりますよ」なんて言われたら、「ふざけるな」と思うだろう。
 自分では何も生産したことのないマスコミの人間は、こういうふうに無責任なことを主張する。
 経済の基本原理は、「生産」である。「情報伝達」なんてのは、二の次なのだ。現在、「情報化社会」なんて言われて、情報技術の関係者は浮かれているが、情報が有意義なのは、それが最終的に生産に結びつくからだ。いくら情報ばかりがあっても、生産がゼロならば、情報はすべてクズとなる。また、生産を破壊するような情報伝達活動は、社会にとって有害な毒物だ。それが Winny だ。

( ※ だいたい、読売の記者が本気で「超低価格で販売すべし」と思うのであれば、自社のネット記事を超低価格で配布するべきだ。現状は、宅配と同価格になっているが、月額で99円ぐらいで購入できるようにするべきだ。[社員の給与をすべて月給99円にすれば、そうすることが可能だ。]なのに、それができないとしたら、偉そうなことは言わないでほしい。ついでに言えば、 Winny 擁護論者は、自分の会社の商品も、原価の十分の一ぐらいで販売するようにするべきだ。ところが誰もが、「他人の仕事の成果はタダで盗みたいが、自分の仕事の成果は高値で販売したい」と言う。御都合主義の極み。……読売は、一例であって、Winny 擁護論者はみんなこういう自分勝手を主張している。そして、こういうふうにエゴとエゴとがぶつかりあうと、エゴイズムのせいで、社会は崩壊する。そのことを、先に示した。)
( ※ 私は先に「被害者の悲しみを理解せよ」と述べた。このことがわからない人には、こう勧告しておく。「わが身をつねって、人の痛さを知れ」と。……子供向けの道徳ですけどね。今の大人は、子供以下の道徳しかない人々が多すぎる。)
( ※ 「著作権の侵害」の問題については、書籍の著作権を取って、基本的なことを述べたことがある。そちらも参照。Winny 賛成論者は、よく読んでほしい。 → 11月04日b


● ニュースと感想  (6月02日c)

 「個人情報の漏洩」について。
 ヤフーBBの個人情報漏れ事件で、犯人二人が逮捕された。情報漏れの根元は、元・派遣社員。そこからパスワードとIDを入手したという。(各紙・朝刊 2004-05-31 )
 派遣社員という点に注目しよう。企業は「派遣社員でコスト低減」なんて主張しているが、そのあげく情報漏れで多大な出費を迫られ、信用もなくした。正社員ならば「懲戒免職・退職金ゼロ」が怖いから、情報を漏らしたりはしないが、派遣社員なら、簡単にやめてしまうから、やめたあとでいくらでも情報漏れが起こる。
 企業としては、厳重な情報管理が必要となるが、いくらやっても、完全なる管理というのはしょせんは無理だから、かなりの危険が残る。企業の業務を派遣社員なんかに任せるのは、とても危険なのだ。
 ま、常識ですけどね。コスト低減ばかりをめざすヤフーBBが特別メチャクチャだ、と言えるかもしれない。でもまあ、それ以外の企業でも、同じ心配をした方がよさそうなところは、いっぱいある。
 次の情報もある。
 「失業率は低下しているように見えても、正社員が減ってパートが増えているだけ。全体のうちにパートが占める割合は何と 25%にまで達した。」( → 5月20日
 この分だと、アルバイトみたいな社員があふれすぎて、情報漏れが蔓延するかもしれない。

 [ 付記 ]
 四月の雇用情報が速報された。(夕刊 2004-06-01 )
 雇用は微増。0.1%の増加。「増えた」と喜んで良さそうだが、あにはからんや。
 ・ これまで「企業業績が回復した」という報道が出て、さんざん期待を持たせたが、現実には、雇用の増加はたったのこれっぽっち。
 ・ 0.1%という改善さえ、実態はずっと悪い。記事によれば、正社員は減少して、アルバイトが増えているだけだ。当然、総所得は減少する。人々は雇用の不安(失業の可能性)があるから、消費もあまり増やす気になれない。
 以上の二点から、マクロ的には、「消費の拡大」は見込み薄。今後、企業業績の回復が鈍化すれば、雇用は悪化しそうだし、消費も悪化しそうだ。(消費については、数日後に改めて言及する。)
 ま、それはそれとして、とにかく、「正社員の減少」という現象があるから、情報漏洩でも、お先は真っ暗だ。

 [ 補足1 ]
 「業者から広告FAXがどんどん流れてきて困った」という声が、新聞の投書欄で紹介されていた。これは、なぜか? 実は、懸賞などに応募して、自分のFAXや電話の番号を教えるからだ。
 だから、そういうことのないように、なるべく注意しよう。FAXや電話の番号は、なるべく秘密にしよう。とにかく、政府よりも民間の情報漏れの方が、圧倒的に怖い。(何度も記したとおり。)

 [ 補足2 ]
 もっと怖いのが、銀行のATM(預金機)のエラーだ。情報漏洩もあるかも。Windows という欠陥OSを使っている銀行のATMで、とんでもない例がある、という情報。
  → がんばれゲイツくん


● ニュースと感想  (6月02日d)

 「通信網のトラブル」について。
 通信会社のNTTコミュニケーションで、トラブルがあって、各種の通信が半日ほど、マヒ状態になったという。理由は電源設備の異常。(各紙・朝刊 2004-06-01 )
 これはなかなか教訓的だ。「いくらコンピュータのバックアップを多重にしていても、電源が落ちれば、すべてがパー」ということを意味するからだ。頭隠して尻隠さず。

 で、何が問題か? 地震だ。地震が来れば、次の危険性がある。
  ・ 建造物の崩壊。設備の故障。
  ・ 津波。建造物や設備が水没する。
 この被害が電源設備に生じたら、すべてがパーとなるわけだ。で、今回の事件を見ると、設備は大手町にあったという。ここは、地盤もあまり強くないし、津波で水没する可能性もある。
 で、そうなったら、日本の通信網は完全にマヒするかもしれない。やばいですね。ただの平凡な電源の故障すら、対策できていないというのに、地震対策など、なおさらだ。
 ついでに言っておこう。「予言」によると、もうすぐ日本には大地震が来るらしい。詳しくは、下記の通り。
 「聖書の暗号」によると、ラビン暗殺やら、ケネディ暗殺やら、クリントンの大統領就任やら、湾岸戦争開始やら、阪神大震災やら、いろいろと予想されていて、すべて的中しているそうだ。これらは、過去の事実。では、将来は? 日本はどうなる? こうだ。「2000年から2006年の間に、大地震が襲って、日本経済は破滅的になる」という。
( ※ なお、「聖書の暗号」というのは、以前のベストセラー。 → 2月08日b


● ニュースと感想  (6月03日)

 「遺伝子博物館」について。
 遺伝子博物館とでも称するべきものができたそうだ。絶滅危惧種の遺伝子を保存して、将来、クローン技術で、種の復元を図る狙いだという。(朝日・朝刊・2面 2004-06-01 )
 報道では詳細は不明だが、種の復元を図るつもりであるとすれば、遺伝子の博物館として標本の採集をするだけではまったく不足である。方針が根本的に間違っている。
 なぜか? 1個体(または数個体)の遺伝子を採集するだけでは、以後は、近親交配になる。だから、種は絶滅する。つまり、「絶滅を避けるための方針」が、根源的に絶滅に至る方針を取っている。自己矛盾。
 これを避けるには、同じ種でたくさんの遺伝子を採集しておく必要がある。そうすれば「遺伝子の多様性」が保たれるから、種の絶滅を免れることができる。

 以上は、生物学としては、基本中の基本だ。ところが、遺伝子研究者は、この基本を理解しない。なぜか? 彼らは、ダーウィン説を信じているからだ。
 ダーウィン説に従えば、「優勝劣敗」だから、最も優秀な遺伝子を持つ1個体が残るはずだし、他の遺伝子は不良品として不要になる。だから、「1個体の遺伝子を採集する」という方針ができる。かくて、間違う。
 だから、ダーウィン説を捨てるべきなのだ。かわりに、「優勝劣敗があまり起こらないこと」つまり「多様な遺伝子が存在すること」を前提とした理論を採用するべきなのだ。
( → クラス進化論のページ

 [ 付記 ]
 基本的な理論で間違うと、以後の方針が根本的に間違ったものになるから、どんなに努力をしても無駄となる。たいていの分野で、そうだ。……経済学でもね。経済学では、ダーウィン説にそっくりなのは、古典派の理論だ。これもまた、とんでもない結論を出す。「優勝劣敗で不況解決。倒産を出せば出すほど状況が改善する」と。狂気的。というか、狂信的だ。現実を無視して、間違った理論にとらわれる。


● ニュースと感想  (6月03日b)

 「コンピュータ中毒による殺害事件」について。
 九州で小六の女児が同級生を殺害した。(朝刊・各紙 2004-06-02 )
 学校側や読売・社説は、「命の大切さを教育する必要がある」なんて述べているが、見当違いだろう。命の大切さぐらいは、小学一年生でもわかるし、小六ならばわからないはずがない。(それがわからないのは、保守派の大人だけだ。彼らだけは「人殺しは正義だ」なんて言い張る。)

 さて。私は「衝動的・発作的な、突発的な行為だったろう」(殺意を感じるほどの憎悪はなかったのだろう)と想像していたのだが、事情はもっと悪くて、「ホームページの書き込みのせいで憎悪を感じた」という加害者の供述が判明した。(夕刊・各紙 2004-06-02 )
 つまりは、「ネット殺人事件」である。大人でも、ネットにはまって、ゴミ掲示板に狂気的な悪口を書きまくるような、狂気的な連中がいるが、子供たちまで同じ病気にかかってしまったわけだ。
 大変なことですね。とにかく、両者の共通点を、よーく噛みしめましょう。「人質たちは非難されて当然だ」と主張していた人々は、この女児殺害事件の加害者と、まるきり同じ精神構造をしているのだ。ともに、とんでもない妄想に駆られたあげく、自己を制御できなくなり、暴走して、相手に加虐行為を浴びせるのである。ここでは、自分が攻撃して気持ちよくなることだけが意識され、相手をどれほど苦しめているかを意識できなくなっている。他人の痛みを感じられなくなっている。……その結果が加虐行為であり、言葉による非難や、ナイフによる殺害となる。本質的には、どちらも同じだ。
( ※ Winny の場合も同様。著作権者の痛みを感じられなくなっている。 → 6月02日b

 なお、こういうコンピュータ中毒の状況は、政府にとっては都合がよい。国民にストレスを与えれば、国民はやたらと攻撃的になるからだ。その一例が、先の「人質非難」に見て取れる。この際、攻撃的になって人質を非難した人の多くは、テレビゲーム・マニアまたはネット・マニアであった。
( → 5月22日 「冬ソナ現象とネット中毒」)
 
 [ 付記 ]
 それとは別に、子供の「キレやすさ」にも注目しよう。この場合は、怒りが発生することが問題なのではなくて、突発的に生じた怒りをコントロールできなくなっていることが問題となる。
 では、その対策は? ネットから引き離すことが大切だろうが、あらゆるコンピュータから距離を取ることが必要だろう。「ケータイ」や「テレビゲーム」を取り上げるべきだ。
 すでに「ケータイ」や「テレビゲーム」なんかを自分の子供に与えている親ならば、この危険をとっくに感じていて当然だ。私の近辺でも、そういう子供がいっぱいいるが、ひたすら画面に熱中している様子を見ると、寒気を感じますね。
 となると、親が子供に与えられる最大の愛は、「ケータイ」や「テレビゲーム」を取り上げることだ。だけど、困難です。「子供にうるさく言われるくらいなら、与えた方が気楽だ」と思う親が大半だ。……かくて、殺人事件。
 逆に言えば、子供に殺人をさせたければ、「ケータイ」や「テレビゲーム」を与えるといい。「怒りを抑制する」という訓練がなくなり、「ストレスが溜まったら画面上で殺人をする」という訓練ばかりをする。とすれば、いつか、ストレスが溜まったとき、画面があれば画面で殺人をするし、画面がなければ現実で殺人をする。……日本では子供たちに、「ストレスが溜まったら殺人をする」という訓練ばかりしているのだ。そのために「テレビゲーム」がある。
( → 12月11日b1月02日

 [ 補足 ]
 本項のポイントは? 全然関係ないように見える次の事件には、根源的な共通点がある、ということだ。これが核心。いわば、ネット時代の弊害だ。
  ・ 女児の殺害事件
  ・ イラク人質事件の非難(「自己責任」論)
  ・ Winny の正当化
  ・ ゴミ掲示板の落書き
  ・ ケータイの普及
 ついでに言えば、30年前には、こんなひどい状況にはなっていなかった。子供たちは、ちびまる子ちゃんや、のび太みたいに、のほほんと暮らしていた。喧嘩したり、悪戯したり、悪さをしたりすることはあったが、それでも子供らしかった。……失われし日々は、今はいずこ。

  【 追記 】 (2004-06-04)
 上では「大人でも、ネットにはまって、ゴミ掲示板に狂気的な悪口を書きまくるような、狂気的な連中がいるが、子供たちまで同じ病気にかかってしまったわけだ」と書いたが、これを裏付ける記事が報道された。引用すると、
 “(犯人の女児は)チャット上ではクラスメートに罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせていた。”
 “(犯人の女児は)「ネットの掲示板で怜美さんに嫌なことを書かれた。やめてくれと言った」「もう嫌になった」と打ち明けたうえで、「それまでは恨みもなく、仲のよい友達だった」と話した。”
 “毎日新聞によると、女児のホームページにはクラスメートに対する過激な言葉が並んでいた。”……(その言葉の例は)……“「高慢でジコマン(自己満足)なデブス(デブでブス)」”など。
 以上、引用元は → ZAKZAK
 まったく、人質事件の非難にそっくりですね。

  【 追記2 】 (2004-06-08)
 新たな報道によると、この事件の異常性がさらにはっきりしてくる。深さ10センチにも突き刺したり、殺害後に十数分間も死亡するのを眺めていたという。
 こういうことは、まともではないし、異常である。だから、「異常人格だ」とか、「異常性格だ」とか、個人の特異性に原因を帰する学者もいるだろう。しかし、個人の異常席に帰するのであれば、事件は確率的なものだから、昔からずっと同頻度で発生していいはずだ。しかるに、この手の異常事件は、思春期以降の男性にならば発生するが、子供時代の少女に発生するということは、歴史上、まず類を見ないことだった。
 とすれば、事件を個人の特異性に帰することはできない。ここでは、社会的条件にかなりの原因がある。
 もちろん、どんな社会であれ、強いストレスが加わると、異常な犯罪が起こる。ただし、通常は、心のブレーキがかかる。問題は、その心のブレーキが働かなくなったことだ。犯罪意欲が発生したことよりも、抑制能力が欠落したことに、主たる原因がある。では、そうなったのは、なぜか? 次のことが推定される。
  ・ ネット時代 (現実経験が稀薄。対人関係が稀薄。)
  ・ 都会 (自然体験が稀薄。)
 実際、ネットのない時代に、田舎においては、子供が人間を殺害するということなどは、まずありえない。次の体験があるからだ。
  ・ たがいに喧嘩をすることが可能で、喧嘩を通じて発散する体験。
  ・ たがいに喧嘩をして、痛みを知る体験。
 喧嘩の体験がないから、いきなり殺害にまで行きつく。
 結局、真にリアルな体験がなくて、バーチャルな体験ばかりがあるから、バーチャルな想像をいきなり実行してしまうのだ。情報化が進めば進むほど、われわれは現実の世界で何かを失っていく。
 たとえば、恋愛がそうだ。今の時代ではケータイや電話などを通じて、情報だけの恋愛をする時間が長いから、昔のような実際の行動と会話を通じたリアルな経験が非常に少なくなっている。あとから思い出そうとしても、言葉を思い出すことはできても、そのときの恋人の表情や動作を思い出すことはできない。……恋愛さえもバーチャルになってしまっている。
 われわれはリアルな世界を、バーチャルな世界に侵食されている。と同時に、心も、バーチャルなものに侵食されている。かくて、心が歪む。
 その結果が、子供においては女児殺害事件などとなって噴出し、大人においては人質への集中攻撃となって現れる。
 人々は、強いストレスを受けたとき、攻撃的になるが、その攻撃的なあり方が、現代では非常に歪んだ姿になってきているのだ。昔ならば、政府に不満があれば、街頭デモをしたり、反戦のフォークソングを歌った。また、過激派に不満があれば、文句を言いながら、せっせと働いた。しかるに、今の大人たちは、自分がストレスを感じたとき、弱者を攻撃する。一種の「いじめ」であり、「いじめによるストレス発散」だ。
 ネット時代には、人々の心は、かくも歪んできているのだ。

 なお、「どうすればいいか?」という問いには、「自然に触れよ」と答えておこう。オタク画像なんかを鑑賞している暇があったら、野山をハイキングしたり、公園を散歩したり、川べりをジョッギングしたりするべきだ。そういう人は、決して、弱者をいじめようという気持ちにはならないはずだ。……なぜなら、ストレス発散の方法は、別にあるから。

  【 追記3 】 (2004-06-09)
 上記への注釈。
 私が指摘したいことは、精神的な異常性の問題である。たとえば、県警では、今回の事件を「あまりに特異で不思議だ」というふうに述べている。(読売・夕刊・社会面 2004-06-08 )
 しかし、私の解釈に従えば、不思議でも何でもない。この加虐女児は、特別な子供ではなくて、そこいらにいる子供たちと大差はない。実際、ネットのゴミ掲示板を見るがいい。今回の加虐女児と同じように、「うぜ〜」だの「死ね」だの、攻撃的で精神異常を感じさせる言葉が、山のようにあふれている。(年齢層は、子供も大人もだが。)
 あの加虐女児は、現代のネット時代には、掲示板にあふれる狂気的な多数の人々と大差ないのだ。そしてまた、朝日であれ、読売であれ、この加虐女児と同じように、人質を攻撃して傷つけたのである。たとえば、「精神性のストレス障害になって、手足が発疹だらけになり、 一日2〜3時間しか眠れなくなった」という事実があっても、「どうせ嘘だろ。仮病だろ。都合のいい病名でゴマ化すなよ。卑怯者め。顔を出しやがれ」なんていう狂気的な攻撃が、ネットでは日本中で生じたのだ。あの女児の加虐性も、日本人の大多数の加虐性も、まったく同じなのである。そういう狂気が日本中にあふれている現実を意識しよう。それが私の強調したいことだ。

 なお、補足しておこう。私が今回の事件で「異常」として指摘しているのは、殺人の実行者が「子供」であったことだ。この「子供」というのは、もっと年長の「少年」(未成年という意味)のことではない。混同しないでほしい。
 「少年犯罪は実際には増えるどころか減っているぞ」という反論がたまに聞こえるが、私が述べているのは「少年」ではなくて「子供」のことだ。子供による殺人なんて、昔はほぼ皆無だった。なお、「子供」と「少年」の差は、第二次性徴の有無だ。第二次性徴以降では人は大人になりかけ、同時に、粗暴になる。また、少年犯罪の統計に表れる重大犯罪は、「強盗・殺人・強姦・放火」などだが、これらはもちろん、「キレやすさ」とか「ネット」「情報機器」とかは、関係ない。今回の事件で特異に思えるのは、「親友を残虐に殺した」という点だ。この特異性を問題にしている。一方、「他人と喧嘩して衝動的に殺す」なんてのは、よくある犯罪である。本項で話題にしたのは、犯罪多発問題ではなくて、異常精神の問題だ。……この点を、基本として踏まえてほしい。
( ※ 犯罪多発について言えば、昔は、キレやすさよりは、粗暴さが原因だったろう。今の若者は豊かさゆえにおとなしいが、昔の若者は貧しさゆえに粗暴なことが多かった。……しかし、これは別の話。)

 上記の基本のほかに、さらにいくつかの注釈を、いろいろと列挙しておこう。
(1) 「田舎ならば必ず、自然に触れるせいで犯罪が少ない」という趣旨で述べているのではない。「都会ならば、自然に触れたくても自然に触れることができない」という趣旨で述べているだけだ。現実には、田舎であっても、農薬だらけで昆虫も絶滅してきたし、自然に触れることもなく、子供はテレビゲームに熱中しているものだ。だから、田舎の子供も今では、ひどいありさまだ。
 そして、もう一つ。田舎と都会を比較しているというよりは、昔と今とを比較している。昔はテレビゲームなんかなかったし、買う金もなかったから、否応なく、カブトムシやチョウチョやザリガニなんかと遊ぶしかなかった。そこには自然とのふれあいがあった。
 (2) 私がこういう文明批判みたいな(?)ことを言うと、述べても、「ふん。また例のよくある意見か」と無視する人もあるだろう。しかし、これには、具体的な裏付けとしての、心理的調査もある。赤ん坊のときに、親との対話なしに、テレビばかりを見せつけられると、対人関係に阻害が生じて、正常な人間関係能力を築くことが困難になる、という調査報告があった。数日前の朝日の家庭欄あたりにあったような気がする。……こういう弊害を認識することが大事である。「情報機器は人間に悪影響を与えない」と楽観するのは、事実を誤認している。(「子育ては面倒だから子供にはテレビを見せておけばいい」なんて考える親は、けっこう多そうだ。だからこそ注意すべき。)
 (3) 私はかねて述べているが、科学には、メリットもデメリットもあるのだ。メリットに注目する人は多いが、デメリットにはあえて目をふさぐ人が多い。だから、「目を開け」と私は述べている。私は別に「ネットを捨てよ」と述べているわけではなくて、「ネット中毒になるならないように留意しよう」と述べているだけだ。誤解のないようにしてほしい。(実際、このページはネットで公開しているのだから、ネット全廃なんかを唱えているわけではない、ということは自明だが。)
 (4) 結局、誤解のないようにまとめて言えば、次のようになる。「ネットには多大な便利さがあるので、人々はやたらと盲目的に礼賛する。政府は e-Japan と唱え、マスコミはIT時代に遅れるな、と唱え、若者はケータイを肌身離さずもってずっと時間を取られている。……しかし、便利さとは裏腹に、中毒になる危険がある。酒や○○○○と同じで、適量ならばいいが、大量だと、ひどい害悪がある。だから、その毒に留意しよう」と。(禁欲主義を唱えているわけじゃありません。  (^^); )
 (5) 参考となる記事もある。読売の読者の投書。「ニュージーランドでホームステイをしたら、ケータイが通じない。不便だが、約束の取り消しもできず、対面する機会を重視しながら、濃密な人間関係を築くことができた。新鮮な気分になれた」という感想。(読売・朝刊・投書面 2004-06-08 )……こういう意見は、聞いて、すがすがしくなる。こういう若者には、期待がもてる。この人は、自己反省能力があり、自己や現状の欠点を正しく認識しているがゆえに、進歩する能力があるのだ。
 (6) でもって、私の見解は、「だから私たちも自分たちを反省しよう」というものだ。例の女児を「ただの他人事」「特異な例外」と見なすのが一般的な風潮だが、私としては、「自分たちの時代の典型と見なして自省しよう」と考えたい。私たちはネット中毒になりかけているし、私たちの子供をネット中毒にさせかけている。だから、自省したい。……とはいえ、この反省は、他人への強制ではない。「ふん。おれは何も反省するものか。おれはすべて正しいのだ。南堂みたいな阿呆とは違うんだ」と主張する人もいるだろう。そういう人には、別に、何も言わない。
( ※ 先の人質事件での非難でもそうだが、世間の攻撃的な風潮を「狂気」と指摘した人は私以外にほとんどいなかった。そして今また、私はあえて世間の風潮に逆らって、ネット時代の問題点を指摘している。ま、多勢に無勢ですけどね。今の世の中、「反省」や「良心」なんてものは重視されず、ハイテクと金儲けばかりが重視される。)

( → 6月13日b の最後にも、関連する話がある。)

  【 追記4 】 (2004-06-15)
 女児殺害事件については、その後、マスコミで続報が続いている。上記の私と同様、「ネット時代の問題」ととらえる記事も多い。他に、同年代の少女の感想なども、あちこちに出ている。こういう話を聞いたあとで、私は少し考えを修正した。何か悪しきものが存在したように感じていたが、正確には、存在というよりは欠落の問題だ、という気がする。
 この事件で一番大きい要因は、現代における「コミュニケーション能力の欠落」だと思う。人間と人間とがうまくコミュニケーションできなくなってきている。ささいな言葉に過剰に反応して、いきなりキレて、猛烈に反発する。(先の人質事件における世間の反応も同様だ。)……そして、それは、人間と人間とがうまくコミュニケーションできなくなってきているからなのだろう。
 コミュニケーションとは、何か? 今の人々は、それを「言葉と言葉のやりとりだ」と思い込んでいるようだ。一方が文字を送信し、他方が文字を受け取る。文字にある感情をあれこれと解釈して、喜んだり、悲しんだり、怒ったりする。そういうやりとりをコミュニケーションだと思っているから、「メールが来ないと寂しい」と思ったり、「メールが来ているから彼とつながっている」と思ったりする。
 それはコミュニケーションの一種かもしれない。しかしそれは本当のコミュニケーションではない。本当のコミュニケーションとは、昔ながらの言葉でわかるように、「ふれあい」だ。この題名の流行歌もあった。(中村雅俊)
 「悲しみに出会うたび あの人を思い出す こんなときそばにいて 肩を抱いてほしいと」
  ( ※ JASPAC の許可なし。一部のみの引用なので法律違反ではない。)
 本当のコミュニケーションとは、全身でなす行為だ。五感のほぼすべてを使ってなす行為だ。それは決して、五感なしに行なう文字上の伝達行為ではないのだ。
 しかるに、今や、コミュニケーションは、ただの文字上の伝達行為になってしまった。文字の上にあるものを勝手に拡大解釈して、喜んだり悲しんだり怒ったりするようになった。そしてまた、そういう行為は、感情表出としても容易であるゆえに、容易に怒り出すようになった。対面しているときの「怒り」ならば、体の喧嘩をともなうゆえに危険であり、自然と自己抑制が働く。しかし、ネット上の「怒り」ならば、体の喧嘩をともなわないゆえに危険が実感されず、自然と自己抑制が働かない。かくて、「怒り」が抑制なしに暴走する。……こうして「同級生殺害」やら、「日本中による弱者いじめ」やらが、起こるようになった。
 これはネット時代の特徴だ。人類は、ネットによる利便性を得たが、ネットを十分にコントロールする能力をもっていない。一種の猿のようなものだ。だからこそ私は「コンピュータに注意せよ。コンピュータ中毒になるな。自己を省みよう」と喚起する。
 ネットは、それ自体に直接的な害悪があるのではない。その利便性にともなって、不便さを失うことに害悪がある。不便さとは、人と人との面倒なつながりであり、手間暇かけた対面性である。まったく不便だ。しかし、その不便さを切り捨てたことで、同時に、ある大切なものを失ってしまったのだ。
(ちょうど、インスタント・コーヒーの利便性を手に入れたとき、レギュラー・コーヒーの香りを失うように。)


● ニュースと感想  (6月04日)

 「民主主義と自由主義」について。
 米国によるイラク戦争の大義名分について、朝日に評論が出た。「民主主義のための戦争」という米国ネオコン(新保守主義)の概念がおかしい」という趣旨。ソ連の共産主義に対する民主主義の擁護、という立場は、自由であるがゆえにかえってテロを防げない、というような話。(朝日・夕刊・文化面 2004-06-02 )
 しかし、これはピンボケである、と私は考える。なぜなら、「民主主義」と「自由主義」とは異なるからだ。
 たしかにブッシュは「イラクの民主化」を唱えたが、ここでは「民主主義」は「独裁主義」に対立する概念である。つまりは「フセイン打倒」だ。それが実現したあとでは、「イラクの民主化」などは何の意味もない。
 一方、「自由主義」ならば、「右翼」ないし「保守派」というのとほぼ同義であるから、イラクのイスラム的な社会とは対立する。
 つまり、イラクで問題となっているのは、「自由主義」であって、「民主主義」ではない。この両者の違いを理解しよう。

 私としても、「民主主義」は(「独裁主義」よりもはるかに勝るので)支持するが、「自由主義」なんてものはこれっぽっちも支持しない。そのことは、古典派的な「自由放任で最適化する」という原理が、経済において必ずしも成立しないことからも明らかであろう。
 「自由で最適化」というのは、一定の範囲で局所的に成立するにすぎない。その範囲を超えれば、成立しない。だから、「どの範囲までは成立して、どの範囲からは成立しないか」を、はっきりと理解することが必要だ。経済学もまた、そのためにある。
 一方、こういうことを無視して、「自由にすれば全部うまく行く」なんていうのは、ただの無責任主義にすぎない。「自由主義」というのは「無責任主義」のことなのだ。あるいは「エゴイズム信奉主義」と言ってもよい。こんなものは、阿呆の論理だし、世界各地で紛争を招くだけだ。
 否定すべきは、教条的な「自由主義」である。それは「民主主義」とは異なる。両者の区別をはっきりとつけよう。
 単純に言えば、こうだ。── 「他人に迷惑をかけない限り自由にふるまえること」は、ありがたいことではあるが、善でも悪でもないし、大切なことでもない。そういう意味で「自由は大切だ」などと思ってはいけない。一方、「他人に迷惑をかけてまで自由に勝手にふるまうこと」は、明白に悪である。ここでは「自由は大切だ」などと思うのは、勘違いも甚だしい。「常に自由は大切だ」なんてことはありえないのだ。
 そして、このことを理解できないのが、ネオコンなどの保守派たちだ。(小泉や読売を含む。)彼らは「自由主義」の名目で、大量の殺人をする。

 [ 付記 ]
 「右翼」や「保守派」と似て非なる概念が「左翼」である。彼らは「金持ちの富を奪おう」と主張しているが、これもまた「エゴイズム」の一種である。前者は金持ちのエゴイズムであり、後者は貧乏人のエゴイズムだ。
 一方、「右翼」と「左翼」のどちらとも違うのが、「エゴイズム」とは対極的なものである「愛」または「自己犠牲」である。たとえば、先に人質になった人々が代表的だ。
 ところが、これらの人々は、日本ではすこぶる評判が悪い。外国では尊敬されるNGOが、日本では非難される。なぜか? 日本人全体がエゴイストぞろいだからだ。
 人々は、貧しい時代が続いたあとでは、エゴイストになるものだ。貧すれば鈍す。( → 4月22日b


● ニュースと感想  (6月05日)

 「年金と世代格差」について。
 政府の新しい年金制度では、将来的に給付水準が低下することが判明した。(当初の説明とは異なるので、嘘つきがばれたわけだが、それは政治倫理の問題だから、ここでは問わないことにする。ここでは年金制度についてのみ考える。)
 将来的に給付水準が低下するとなると、多くの国民は「けしからん」と思うだろうが、ない袖は振れない。ここでは、次のことに注意しよう。
  ・ 政府の無駄遣いが原因ならば、給付水準が低下するのは悪。
  ・ 社会の少子高齢化が原因ならば、給付水準が低下するのは不可避。
 この区別をした上で、後者に着目しよう。要するに、「ない袖は振れない」「空からお金は降ってこない」わけだ。
 とはいえ、私は別に、政府を弁護したいとは思わない。国民の誤解をほどきたいと思うだけだ。そこで、この方針のもとで、「給付水準の低下」という問題を考察しよう。これは、換言すれば、「世代格差」の問題でもある。現在の高齢者世代は、年金制度で厚遇されているが、現在の若者世代は、年金制度で厚遇されている。これは不公平だ、とも思える。これを、どう解決するか? 「ない袖は振れない」し、「金は空から降ってこない」としたら、どうすれば、みなが納得の行く解答を得られるか? 

 まず、以前の話を振り返ろう。年金問題における世代格差については、こう述べたことがある。( → 3月10日
 「現在の高齢者は、自分の富を減らして、社会に富を与えた。手に入れる富はわずかであり、かわりに、社会全体に富を与えた。企業や社会資本という形で。……換言すれば、現在の若者たちは、ろくに働くこともなく、(社会的遺産としての)企業や社会資本を利用して、多額の所得を得ている。つまり、もともとの所得のなかに、過去の世代からの贈り物が含まれている。」
 このことから、「世代格差があってもかまわない」と結論した。

 ここで、あらためて考え直そう。このことを具体的な数値で見ると、どうなるだろうか? それには、次のように結論できる。
 「自分の富を減らして、社会に富を与えた」と見なせる高齢者とは、高度成長期以前に働いていた世代である。具体的に言えば、石油ショックによる不況の起こる 1973年以前だ。現在は 2004年だから、1973年までの間に、30年が経ている。30年前に20歳〜60歳であった人々は、今では50歳〜90歳になっている。
 だから、「払った以上に富を得る」資格があるのは、現在、50歳〜90歳までの人々だけである。その額を年額50万円とすれば、90歳の人は満額の50万円をもらえて、50歳の人は1万円ぐらいをもらえるだけだ。そして、50歳以下の人は「払った以上に富を得る」資格はない。「自分の払った金と、政府による奨励金」の合計だけを得る。
 これが正当な配分だ。そして、こうすれば、年金による不公平さの問題や、財源不足の問題などは、うまく解決される。高齢者は多額の年金をもらえるが、それは過去の「社会への投資」をしたことの正当な配分である。若年者は多くを払うが、それは高齢者に「社会への投資」をしてもらったことの当然の支払いである。そして、長期的には、年金の不公平は解消する。(今後の少子化を阻止すれば。 → 次項を参照。)

 具体的な政策としては、どうするべきか? 次のようにするとよい。
 とにかく、今後は、年金のシステムを、「貯蓄」型に改めるべきだ。高齢者は、自分の払った金をもらうだけだ。若年者が所得の一部を拠出することはない。(実際には、プレミアム分として、「年金の上積み」をすることになるだろうが、若年者が負担する分はそれだけだ。大した問題とはならない。)
 例を示そう。国民が生涯をかけて、「年金が月7万円になる」のに必要な額を納入する。その後、引退したら、まさしく月7万円を受け取る。さらに、プレミアムの分として、月1〜2万円を受け取る。(この分は税で負担する。)……こうすれば、何も問題はない。制度の破綻もしないし、「払った額より小額しか受け取れない」という問題もない。
 現行の年金のシステムは、「高齢者に払う分を若年者の拠出でまかなう」というふうになっている。これだと、資産を国内投資する形になるので、少子化に耐えられない。しかし、「高齢者に払う分を高齢者の貯蓄でまかなう」というふうにすれば、貯蓄を海外投資することができるので、少子化にかかわりなく、一定の利回りを得ることができる。
( ※ 例外的に、これが不成功に終わることも考えられる。それのは、世界全体で少子化やGDP縮小が進む場合だ。しかし現実には、そんなことは百年ぐらいはありえない。多くの国は途上国だから、GDPは百年ぐらいは必ず拡大していくし、そこに投資することが可能だ。)

 なお、「高齢者に払う分を若年者の拠出でまかなう」というシステムは、かつては正当性があった。なぜなら、急激な物価上昇や高度成長があったから、若年者の富を高齢者に渡すという形で、富の再配分が必要だったからだ。(前述のとおり。)
 しかし、その後、急激な物価上昇や高度成長はなく、低い物価上昇と低い成長が続いた。
 とすれば、こういうふうに経済状況が変化したことにともなって、年金のシステムもまた変化するのが当然なのである。ここに物事の本質がある。
 「高齢者に払う分を若年者の拠出でまかなう」という形は、かつては正当性があったが、今ではもう、その役目を果たし終えたのだ。現在の年金制度は、これまでの役目を果たし終えて、衣替えをする時期に来ているのである。
 「高齢者に払う分を高齢者の貯蓄でまかなう」というシステムは、これまでは正当ではなかったが、今後は正当になるのだ。経済状況や社会状況の変化(安定成長・少子化)にともなって、年金制度も変化を迫られているのだ。
 だから、二つのシステムのうち、「どちらが正しいか?」という質問に対しては、一方だけを示すことはできない。「今まではこちらだが、今後はそちらだ」というのが正しい。……こういうふうにシステムを変更する(乗り換える)のが正解だ。物事を硬直的に考えないように、注意しよう。
( ※ 一般に、前提が変われば、結論もまた変わるのである。ただし通常、人は、前提の変化があることを見失うから、結論をどうするかで迷ってしまう。)
( → 5月15日 「貯蓄」型の年金制度 )

 [ 付記 ]
 3月10日 に述べたことを要約すると、次の通り。
 年金では、現在の若年者は損で、現在の高齢者は得、と見なされる。しかし、高齢者は、自分の所得をもともと社会資本として残しておいた。元の所得が少なかった。自分の所得を減らして、社会に投資しておいた。だから、その投資の成果を、受け取る資格がある。それが高額の年金である。
 仮に、高齢者が当時、低所得に甘んじていなかったら、どうなるか? 日本は南米のように、その日だけは楽をしていられたが、社会資本や民間投資に投資がまわらなかった。道路や鉄道などは整備されず、また、企業にとって必要な資金も得られないままだった。トヨタやソニーが成長したくても、貯蓄不足による資金不足(高金利)のせいで、投資は不可能であり、これらの企業が大企業になることはできなかった。
 ところが、現実には、現在の高齢者は、若き日には、自分の欲望を抑えて、低所得と高貯蓄に励んだ。そのおかげで、投資の資金を得て、日本は高度成長が可能となった。(経済学の用語では「迂回生産」。)
 ただし、そういうことが続いたのも、石油ショックまでだ。それ以後は、低成長路線となった。また、人々は、その日暮らしを楽しむラテン諸国のような生活態度を取り、社会(国・企業)に富を渡さなかった。それどころか、莫大な借金・財政赤字を作る一方だった。
 とすれば、現在の50歳以下の人々には、「もっと金を寄越せ」と国に要求する資格はないのだ。むしろ、将来の世代に借金・財政赤字を残したことで、「金を追徴される」というふうになって当然なのだ。理由は、過去の財政赤字(増税不足)のツケ払いである。

 教訓。
 「もっと金を寄越せ、もっと金を寄越せ」と欲張ると、逆に、金を追徴される。人は、職場で過剰な高給を要求すれば、逆に解任・降格させられる。家庭で小遣いの値上げを要求すれば、逆に「もっと働きなさいよ」とケツを蹴飛ばされて食事から肉が減る。逆効果。
( ※ この家庭は、どこの家庭? それは聞かないでください。 → ご同輩ページ )

 [ 補足1 ]
 「遅く生まれて損したなあ。ちぇっ」と思う人も多いだろうが、それは、とんでもない勘違いだ。現在の高齢者よりも、現在の中年以下の方が、ずっと恵まれた生活をしている。現在の高齢者は、自動車もテレビもない時代に、若い日々を過ごしたのだ。また、彼らの同世代には、戦争で命や手足を奪われた仲間も多い。
 あなたがもし、そういう生活が羨ましいと思うのならば、さっさとイラクにも行きなさい。イラクには、あなたの理想の生活があります。戦争で命や手足を奪われる危険があり、日々の食事にも不自由する。ただし、何十年かたって、老人になったころには、稼いだ金の何倍もの所得を得ることができる。それがお望み?
 今の若者たちは、絶対水準で見る限り、40年前の超富豪のような生活をしている。そういうふうに絶対水準を見ればいいのだ。なのに、単なる損得だけを見るなら、極貧の国で生活をすることがベストである。特に、乞食が素晴らしい。働いて稼いだ金の何十倍もの金を得ることも可能だ。たとえば、毎日ちっとも働かず、乞食で百円をもらって、その後、年老いてから、生活保護を受ける。楽して、生きる。……そこには、あなたの理想の生活がある。かもね。
 なお、本質的に言えば、こうだ。経済は毎年、生産性の向上の分だけ、向上していく。人々の所得もその分、向上していく。とすれば、将来世代の方が、現在世代よりも、確実に幸福になれるのだ。
 そのことは、過去の歴史を見ても明らかだし、今後についても成立する。政府の試算では「将来世代は損をする」というふうになっているが、これは「生産性の向上」をほとんど無視した机上の試算にすぎないから、現実には当てはまらない。
( ※ ただし、原則的にはそうだが、「不況」が起こると、原則よりも悪くなる。そこだけが問題だ。……だからマクロ経済学が必要となる。)

 [ 補足2 ]
 ついでに言おう。このページを見ている読者の大部分は、50歳以下だろう。とすれば、高齢者のように、「払った金よりもずっと多くを受け取る」ということはできない。そして、それは、素晴らしいことなのである。なぜならば、老いてから大金を得るのではなくて、若いうちに大金を得たからだ。今の中年以下の世代は、働き盛りの年代のうちに、自動車であれパソコンであれ海外旅行であれ、さまざまな贅沢ができた。それは、高齢者には絶対に不可能なことだった。
 私の感想で言えば、現在の50歳ぐらい(昭和30年生まれぐらい)を境界として、それ以上とそれ以下とで、幸福度は分かれる。それ以上の世代は、「三畳一間の小さな下宿」(♪ 赤ちょうちん)のような貧しい青春を送ったが、それ以後の世代はさして不自由のない生活を送った。少年期に、ファミコンで遊んだり、肉をたらふく食べたりしたのは、50歳以下の世代だ。50歳以上だと、子供時代にはテレビもファミコンもなかったし、肉もろくに食べられなかったはずだ。ちびまる子ちゃんや、サザエさんのような生活である。ちゃぶ台でメザシを食べる生活だ。ひるがえって、50歳以下の世代では、テレビもファミコンも電話も高層ビルもある。パソコンはなくとも、ワープロ専用機があった。結局、インターネットを除けば、現在とほとんど違わない生活レベルだ。
( ※ どちらかと言うと、現在の若者の方が、ケータイがある分、悪くなっているかもしれない。昔の若者はケータイがなくて幸福でしたね。  (^^); )
( ※ 「ケータイは必需品だぞ」と今の若い人は言うだろうが、マクロ経済学的な発想をすれば、さにあらず。「全員がケータイを持っている」という状況では、ケータイは必需品だろうが、「誰もケータイを持っていない」という状況では、ケータイなんか不要なのだ。……で、もちろん、「誰もケータイを持っていない」という状況の方が幸福である。ケータイがあれば、いざというときには便利だが、いざというとき以外では時間をずっと奪われてしまうので不便だ。1日あたり、数分間の便利と、23時間の不便。その帳尻は、「学力の大幅な低下」「読書量の激減」となって実証済み。弊害は、先に述べたとおり。 → ネット時代の弊害

 [ 補足3 ]
 現在の日本社会がとても恵まれた社会だ、ということは、多くの指摘があるが、とりあえずは、韓国と比較してみるといいだろう。韓国の若者や中年は、日本の同世代の人生に比べれば、ほとんど「おしん」の人生だ。日本の若者にはとうてい耐え難いはずだ。( → 韓国についての参考書は、呉善花の著作がある。「スカートの風」など。ネットにもあちこちに書評があるが、実物を角川文庫で読む方がよさそうだ。)
 なお、日本を欧米諸国と比較する人も多いようだが、とんでもない勘違いだ。日本は欧米諸国ではない。そもそも、日本人は黄色人種であって、白人ではない。白人において日本人に対する軽蔑・差別がいくらでも消えていったのは、日本軍が太平洋戦争で米軍を蹴散らかしたあとのことだ。ただし、それには、先人の世代で、莫大な人命の犠牲があった。この犠牲がなければ、日本は軽蔑・差別されて欧米の植民地となっていただろう。
 こう言うと、「まさか」と驚く人もいるだろう。しかし当時、植民地化は、悪ではなくて、善だったのだ。それは「自国の利益のために植民地の富を奪う」という本音のもとでなされたのではなくて、「猿のような下等な人種を文明化する」という美名のもとでなされた。実際、香港と中国を見ればわかるとおり、彼らの「文明化政策」は、いくらかは当を得たものだった。香港は中国よりもずっと幸福になった。……ただし、代償として、伝統や文化を失ってしまったし、言語も英語が幅を利かせるようになった。しかし、「下等な人種に高等な文化を恵んでやる」という美名で、イギリス文化やキリスト教文化を押しつけることが正当化されたのである。
 日本がそうならなかったのは、「猿だと思われていた人種が、優れているはずの白人の軍隊を次々と撃破した。イギリス軍もオランダ軍も米軍も、日本軍の前にはひとたまりもなく敗北した。英国の誇る最精鋭艦のプリンス・オブ・ウェールズもあっさり撃沈された(現状でたとえれば米国の第七艦隊が一夜にして全滅したようなもの)」という事実が判明したからだ。少なくとも戦争の初期にはそうだった。この事実が、彼らの認識を根本的にひっくり返した。彼らはこのとき初めて、「日本人は猿ではない」と気づいたのだ。
( → 8月11日 「戦争と平和」)
[ 後日追記 ] 上記の「スカートの風」の続編で、「続スカートの風」という本がある。これは、お勧めである。日本と韓国の文化ギャップを見事に指摘している。韓国のことはかなり知っているつもりだった私ですら、目からウロコだ。相手のために「よかれ」と思ってやることが、まったく正反対の意味で受け取られる、という例がたくさん出ている。韓国というのは、日本人にとってはほとんど異星人の文化をもつ、と思った方がいいようだ。……ただし、伝統や文化はたがいに正反対であっても、人間性は共通している。表面的な日常行動の食い違いから、誤解が生じるが、その誤解を解きほぐせば、理解しあえる。……文化ギャップについて理解したい人には、本書は最適だ。名著の「菊と刀」みたいな価値がある。)

 [ 補足4 ]
 抜本改革すべき、応急処置でしのぐべきか? (政府案は応急処置。)
 テレビ朝日の報道ステーションによる世論調査(17日。電話・千人)によると、国民の大半が「抜本改革。一元化。政府案は廃案」という意見。「政府案を可決するべきだ」というのは、1〜2割程度の支持しかない。
 国民は賢明ですね。賢明な人がこれほど多いとは予想もしていなかった。
 ついでに言うと、読売の社説(中旬ごろ)は、政府案の支持。たとえば、小泉と小沢が未納でなく未加入であったことで、政局が混乱している。読売は、これを見て、「こんなことを問題視するのは、間違っている。さっさと年金法案を審議するべきだ。三党合意に沿うのが、ただ一つの道である」と主張する。(18日・19日の社説)
 困りますね。虚偽は書かないでもらいたいものだ。「それがベストだと思う」と言うのなら、ただの主観的な見解だが、「ただ一つの道だ」というふうに述べるのは、競歩である。国民の大半が「ベストだ」と信じている道を、「存在しない」と書くなんて、言論圧殺ないし言論統制にも等しい。

 [ 追加 ]
 以上のことを書いたのは、5月中旬だが、5月下旬になって、新たな報道も出た。
 第1に、読売の世論調査。年金については「抜本改革を」「一元化を」という声が 71%もあるとのことだ。(読売・朝刊・2面 2004-05-25 )
 第2に、他の報道でも、抜本改革」という声が国民の7割だという。(各種報道。)
 第3に、新たな問題点の発覚。一人に複数の年金番号が付けられていて、加入歴が分割されているせいで、正しく通算されていない危険があるという。たとえば、転職して、国民年金と厚生年金の双方に入っていた場合、(うっかりして)どちらか一方しか考慮されない場合がある、という。(朝日・朝刊・1面 2004-05-26 )……これも、「一元化」がなされていないことの弊害だ。
 さらに、6月には、国会審議が始まり、その論戦もテレビで報道された。民主党が「抜本改革を。一元化を」と主張するが、小泉は「具体的な案を出せ」とかわす。これは両者、痛み分け。どちらも負け。では、正しくは? 別に、細部を詰めた法案を出す必要はない。そこまで至らなくてもよい。抜本改革の方向性ないし基本骨格を決めるだけでもよい。その点では、小泉の主張は、ただの言い逃れである。本質を逸らして、細かな点に論点を移すわけだ。相変わらず「論点逸らし」の詭弁がうまい。一方、民主党の方も、同じ言い逃れを何度聞いても反論できないでいる。というのは、抜本改革の方向性すら示せないからだ。
 そこで、本項では、抜本改革の方向性を示した。ポイントは、次の二つだ。
 前者については、これまで何度も述べてきた。後者については、本項で新たに少し述べた。
(なお、年金制度の話は、次項以降でも続いて述べる。数日間のシリーズ。)


● ニュースと感想  (6月06日)

 前項 の続き。「年金と少子化」について。
 年金制度における過去および現在において生じた赤字の分は、前項の方式で解決できる。(つまり、過去の世代から受けた莫大な恩恵への還元として、後の世代が税によって財源を負担する。将来の分は、高度成長がないので、年金制度の枠内で帳尻を合わせる。)
 ただし、その方式でも解決できない問題がある。それは「少子化」の問題だ。少子化を前提とすれば、若年世代が急激に縮小するので、「多くの高齢者の年金を、少数の働き手がまかなう」という方式は、必ず破綻する。現行のシステムでは、少子化ゆえに、どうしても現行の年金制度は破綻を免れないのである。(破綻という言葉はきついかもしれない。つまり、「若手は自分の払った金より小額しかもらえない」ということだ。)
 では、どうするべきか? 

 第1に、根本対策だ。「少子化」は、年金制度の問題というよりは、「経済力の縮小」という経済的な問題だ。だから、この問題は、年金制度をいじることによっては、解決しない。基本的には、「少子化」を阻止することによってしか解決しない。だから、解決策は、社会政策として「少子化」を阻止することだ。そのための政策を推進するといいだろう。……具体的には? 出産奨励金や児童手当なども重要だが、そういう「補助金」よりは、もっと大切なことがある。「働く女性を冷遇する」という根本的な難点を解消することだ。つまり、「働く女性を優遇する」というふうにするべきだ。北欧でも、そういうふうにすることで、出生率が急上昇した。(現在の制度では、企業は働く女性を冷遇しているから、少子化をあえて促進していることになる。企業は、短期的に利益になることを求めて、長期的には自分の首を絞めていることになる。馬鹿丸出し。それが「少子化」という結果だ。)

 第2に、対症療法だ。今から「少子化」を促進しても、過去の「少子化」の分は取り消せない。では、どうするか? 「経済力の縮小」という不幸を耐えるしかないのか? いや、そんなことはない。高度成長は不可能でも、通常の成長ならば、可能だ。では、どうやって? それは、「海外投資」だ。つまり、日本では人口が減るのならば、海外の人口を使えばよい。そのためには、貯蓄した金を「海外投資」すればよい。そのことで、国民は、「貯蓄」の分を「投資」に回すことで、一定の利回りを得る。それによって、将来の年金資金をまかなえる。つまり、「若い世代」に頼るのではなく、「海外の人々」に頼るわけだ。
 このようにすれば、年金制度が破綻することはない。基本的には「貯蓄」および「海外投資」と同じだからだ。各人は、自分の払った金を、「元金プラス利回り」の形で受け取る。それだけだ。若い世代の「所得」が財源となるわけではなく、自分の貯めた「貯蓄」が財源となるだけだ。……ただし、その前提として、年金のシステムを「貯蓄」型に改めておくことが必要だ。

 ここでは、第2の点に注目しよう。「少子化」対策のために、「貯蓄」が重要となる。そしてまた、それ以外の点でも、「貯蓄」が重要となる。(他の箇所でも述べたとおり。)

 [ 余談 ]
 少子化対策としては、「働く女性を優遇する」ことだ、と上では述べた。これは有効だとは思うが、そもそも、少子化が進んだのは、なぜだろうか? 
 ここには、「晩婚化」という現象も、多いに影響しているだろう。たとえば、新聞記事によると、「中学校の運動会に行くと、父親がビデオ撮影をしているが、昔と違う点がある。それは、ロマンスグレーの紳士が多いことだ。自分が子供だったころとは違う。晩婚化が進んでいると実感した」という感想がある。(読売・夕刊・娯楽投書面 2004-06-04 )
 かくも世の中、「晩婚化」が進んでいる。では、なぜか? 
 私が思うに、これは、「性風俗が自由化したこと」が、かなり大きな原因だと思う。結婚しなくても、やり放題だとなれば、結婚したがらない人が増えて当然だ。
 実際には、やり放題なんてことはないのだが、20歳ごろの若い時期には、やり放題みたいに感じられることもある。(20歳ぐらいの女性の平均的な体験相手数は2人〜3人ぐらいらしい。ちょっと古いデータだが。)……で、そのことがずっと続くと錯覚する。本当は体めあてなのに、「私は魅力たっぷりでモテモテなんだ」と女性が錯覚する。かくて、男がありあまっているように感じられて、「結婚しなくても、男に不自由はしないわ」と思うので、「よほど素敵な人とでなくちゃ、面倒見切れないわよ」と考える。男の方も、「別に結婚しなくても、したいことはできるから、いちいち結婚なんて面倒なことをすることはないな」と思う。かくて男女とも、結婚願望が失せて、晩婚化が進む。
 だから、若い人々に道徳を押しつけて、エッチを禁止すればよい。そうすれば、「だったら結婚するしかないな」と思って、さっさと結婚するようになる。かくて、少子化は解決。……ホントですかね? 

( ※ たぶん、以上は、詭弁です。別の理屈も成立します。「男女ともやり放題だから、できちゃった結婚が増えて、出生率が上がる」と。)
( ※ なんだか下品な冗談ばかりですね。……すみません。せっかくの上品な経済論のページなのに。……なんて言っても、信じてもらえないかな。  (^^); )


● ニュースと感想  (6月06日b)

 「年金と追納」について。
 年金保険料の未納への対策として、事後納付できる期間(時効期間)を、二年から五年間に延長する、という案がある。特に、今後の3年間に限っては、1986年までの分までも追納できるようにする、という。与党の方針。(読売・朝刊・1面 2004-05-19 )
 ただし、それでも、一定の時効期間はある。なぜかというと、「あとで保険料を支払えばよい、と思う人が増えて、納付率が下がるから」というのが、厚生労働省の言い分。
 しかし、私の観点からすれば、これは根本的に狂っている。年金保険料というものは、そもそも「貯蓄」であるのだから、「あるとき払い」「払いたいときに払う」でいいのだ。「それでは納付率が下がる」という政府の言い分に対しては、「払いたいときにはいっぱい払える」というふうに上限を取り払えばよい。
 具体的にいえば、人の一生において、労働期間の40年のうち、景気変動で4回の好況と不況があるとしよう。このうち、好況のときはいっぱい払って、不況のときはあまり払わない。……そうすればいいのだ。
 これはそもそも「貯蓄」という概念そのものである。「いっぱい稼いだときにはいっぱい貯蓄して、稼ぎが減ったときには貯蓄を減らす」というわけだ。
 こうすると、国民各人は、金を有意義に使えるから、幸福度が増す。逆に、こうしないで、政府の言うとおりにしたら、「好況のときには料亭や高級車を買うが、不況のときには必要な生活費をまかなえずに餓死する」というふうになる。馬鹿げている。

 もっと根本的に、マクロ経済学的に考えよう。「景気変動に関係なく、政府が一定の収入を得る」というのは、政府(特に帳簿屋)にとっては好都合だが、マクロ的には景気変動のブレを大きくするので、悪影響がある。好況のときにはますます好況を激しくし、不況のときにはますます不況を激しくする。そして、これとは逆の概念が、「自動安定装置 (automatic stabilizer , built-in stabilizer)」という概念だ。

 というわけで、個人の幸福にとっても、マクロ経済学的にも、年金は「一定の料金を払い続ける」というより、「払いたいときに払う」という方が、ずっと好都合である。「それじゃ払う人がいなくなる」という心配に対しては、納付へのプレミアムをほんのちょっと増すだけでいい。なぜなら、さまざまな貯蓄を見ればわかるとおり、利子率をほんのちょっと上げるだけで、その貯蓄には大幅な余裕資金が流れ込むからだ。「払わないと全額没収するぞ」なんていうふうに脅迫したり、「強制的に徴収するぞ」なんていうふうにして莫大な徴収コストをかけたり、そういうのは愚の骨頂である。むしろ、「早めに払った人には、プレミアムが付きます」というふうにすればいい。それだけで、莫大な貯蓄が、民間貯蓄から年金制度へ流れ込む。しかも、徴収コストはゼロ同然だ。これがベスト。
( ※ 「一定額を払い続ける」というよりは、「先払い」を認めた方がよい。「若いうちにいっぱい払うと、あとで失業したときには、払わないでも大丈夫」というふうにすればいい。……この方が、まともな制度だ。)

 [ 付記 ]
 なお、「年金を払う癖を付けることが必要だ」という説もある。それはそれで一理ある。では、それを取り入れると、どうするべきか? 
 小額の「月額最低払込金」を設定するといいだろう。たとえば、「毎月千円だけは払うべし」とする。ただし「それ以上は、あるとき払いの催促なし」だ。
 こうすると、「払いたいときにはいっぺんに巨額を払い込んでもいい」ということになるから、現在の数百兆円の未納問題も解決する。人々は貯蓄から年金へと資金を移動させるだけだ。
( ※ ただし、以上のことを成立させるには、プレミアムは「逓減制」であることが必要だ。「巨額の払い込みをしても、大幅にプレミアムをもらえるわけではない」となる。……現状は事情が逆で、満額を払った人が莫大なプレミアムをもらえて、少ししか払わない人はプレミアムどころか罰則を食う。根本的に狂っている制度だ。だから、あちらを直せばこちらで問題が出る。「貯蓄」よりも「プレミアムと罰」を原則とする制度だと、あちこちで矛盾が吹き出す。そんな制度は、国民のためにあるのではなくて、官僚が制度を維持しやすくするためだけにあるのだ。今の年金制度は、国民のためにあるのではなくて、官僚のためにあるのだ。……ひょっとして、年金会館を造るため?)
( ※ 「月額最低払込金」と言っても、これは「強制」ではない。「強いプレミアム」と解釈するべきだ。「強制」は「罰則」をともなうので、いったんその条件を満たさなくなった人は、「永続的に年金制度から離れる」か、「国民として損失をこうむる」か、どちらかの結果となる。これでは制度が信頼されなくなる。)

 [ 付記2 ]
 「自動安定装置」が必要なのは、マクロ経済が「スパイラル構造」をもっているからだ。インフレならばインフレが加速し、デフレならばデフレが加速する。(乗数効果や経済波及効果と同じ。)
 ここで、政府が「健全財政」という策を取ると、スパイラルがますますひどくなる。家計が「常に一定の貯蓄をする」というのも、ほぼ同様の効果がある。
 一方、家計が「好況のときには貯蓄を増やし、不況のときには消費を増やす」というふうにすれば、景気は安定する。これがマクロ経済的な認識だ。
 物事の本質を考えれば、こういう認識ができる。一方、政府の主張は、「年金制度を守ることが何よりも大事である」ということであり、「景気変動を増幅して、日本経済を破壊してもいい」ということだ。マクロ経済音痴だと、かくて、道を誤る。


● ニュースと感想  (6月07日)

 前項の続き。「年金の強制納付」について。
 年金について、「一定額を強制徴収しないと、制度が崩壊する」という説がある。しかしこれは、まったく正しくない。制度の維持のためには、次の二点さえあればよい。
  ・ 総額が長期的に十分であること。(中短期の変動はあってもよい。)
  ・ 総額が結果的に十分であること。(強制納入でなくて任意納入でよい。)
 このうち、前者については、前項で述べたとおり。後者については、これまで何度も述べたとおり。(「貯蓄とプレミアム」という話題。)

 さて。それでも年金については、「強制せよ」という主張はかなり根強い。しかし実は、ここには根本的な錯誤がある。
 そもそも、この主張は、次のことを懸念している。
 「納付を強制しないと、壮年期に金を使い放題だ。その後、年老いてから、年金をもらえないので、生活費がなくなる。困ったことになる。」
 しかし、そのような懸念は、マトはずれである。なぜなら、人々は金を使い放題にしているわけではなくて、自分で貯蓄しているからだ。現在の問題は、「納付するか/浪費するか」という問題ではなくて、「政府の年金か/自分の貯蓄か」という問題なのだ。
 だから、人々が年金の納付をしなくても、ちっとも問題ではない。たしかに老後は年金をもらえなくなるが、かわりに自分の貯蓄があるからだ。
 ただし、例外的に、貯蓄のない人々もいる。たとえば、不況で、生活費だけで精一杯で、貯蓄がまったくできない人々だ。しかし、この場合は、貯蓄をしないことが正解である。仮に、年金を強制徴収したら、その分、生活費が不足する。となると、彼は、「餓死する」「サラ金から借りる」「泥棒する」から択一するしかない。いずれも、「年金の未納」よりも、はるかに悪い。
 貯蓄できない人々は、極貧なのだから、貯蓄しなくてもいいのだ。老後は、金がないが、生活保護を受ければよい。(年収百万円の人から強制徴収すること[餓死させること]は、善ではなくて悪なのである。)
 また、金があるのにわざと貯蓄しなかった人も、老後は、生活保護を受ければよい。差し引きすれば、彼は得をする。しかし、得をしても、非常に不幸である。「すごい贅沢をしてから、あとで生活保護」というのと、「最初から最後まで普通の生活」というのでは、後者の方がずっと幸福だ。あえて不幸な道を選ぶ人は、まずいないだろう。……仮に、そういう人がいっぱいいて、そういう人を「ずるい」と思うのであれば、その人は、今すぐ、全財産を使い切ってしまうとよい。そうすれば、来月から、生活保護を受けることになる。今月だけは、女遊びなどでものすごい贅沢をできるが、来月からは、地獄の生活だ。「差し引きすればそれが得だ」と思うのであれば、そういう破滅的な人生を歩むといいだろう。……ただし、国民の大半は、もっと賢明である。換言すれば、上記のような心配は、取り越し苦労なのである。
 なお、世の中には少数ながら、愚かな人間もいる。たとえば、ギャンブルをして、全財産をすって、スッテンテンにする人もいる。しかし、そういう人がいるからといって、いちいち国が彼の人生に口出しするべきではないのだ。それは余計なおせっかいというものだ。
 仮に、国が国民各人の人生に介入して、「下らないことはやめろ。酒も女遊びもやめろ。勤勉に仕事だけしていろ」なんて指図するようになったら、どうなる? もはや、北朝鮮かソ連のようだ。
 われわれは、愚かな人間を見ると、「愚か者め」と思いがちだが、誰だって少しは愚か者なのだ。私だって、酒や女や下品な遊びやら、全然やらないわけではない。ここで、「愚かなことはやめろ」なんて、言われたくないですね。世の中に愚かさがあふれるせいで、少しぐらい社会コストが余分にかかるとしても、愚かさが一切禁止される清潔な管理社会よりは、ずっとマシである。

 [ 付記1 ]
 なお、「一定額を強制徴収しないと、年金制度が崩壊する」という説が、仮に成立するとしよう。すると、おかしなことが結論される。
 つまり、同様の理屈で、「一定額を強制徴収しないと、貯蓄制度が崩壊する」ということも成立するのだ。この場合、「貯蓄制度を維持するために、国民全員に対して、毎月一定額を強制的に貯蓄させる」というふうになる。子供預金みたいだ。ひどいありさま。
 だから、貯蓄は、「貯蓄したいときに貯蓄すればいい」のだし、年金の保険料も「納入したいときに納入すればいい」のである。( → 前項
 ここでは、国民の各人についてはバラツキがあってもよく、とにかく制度がまともに維持されていればよい。バラツキがあると、官僚はハラハラするだろうが、そんなことはどうでもいいのだ。国民よりも官僚が偉い共産主義じゃないんだから。
 政府がなすべきことは、貯蓄においては利子率の調整であり、年金においてはプレミアムの調整である。これが経済学的に合理的な立場だ。こうすれば、貯蓄制度も年金制度も、ちゃんと維持される。……逆に言えば、「悪制度を維持したまま、やたらと強制ばかりする」というのは、最悪だ。共産主義の発想そのものだ。

 [ 付記2 ]
 読売は社説で、「税と年金保険料の徴収一元化を図れ」と述べて、強制化の方針を取っている。(読売・朝刊・社説 2004-05-30 )
 こういう強制的な制度がいかに問題があるか、ということを、本項ではいろいろと示してきた。要するに、共産主義ふうの、強権的な発想である。彼らはそのうち「少子化対策」という名目で、独身者に「結婚しろ」と強制して、結婚相手を勝手に決めるようになるかもしれない。原理教と同様。自由主義社会とは正反対だ。
 ついでに言えば、国民年金の未納率は4割程度。仮に、未納率をゼロにしても、過去の未納は解消されない。それを強制取り立てするわけにも行かない。とすれば、読売の主張は、根本的に崩壊しているのも同然だ。
 なお、「徴収の一元化」自体は、別に、善でも悪でもない。「任意で申告して一元化する」のであれば、何も問題はない。さらに、年金以外のさまざまな保険料も、いっしょにする。こうするのがベストだろう。一元化がイヤな人はバラバラ納付となるが、事務手数料を一件につき百円ぐらいは余分に負担してもらう。( → 2月28日b 「ID口座」)

 [ 余談 ]
 冗談ふうに言っておこう。あなたが、恋人または妻がいる男性であるなら、女性に確実に嫌われる方法がある。それは「おれを愛せ」と強制することだ。「おれを愛さないと、ぶん殴るぞ or 追い出すぞ」と、愛を強制することだ。
 こうすれば、まず確実に嫌われる。女性は、たとえ表面では従うフリをしても、内心では軽蔑するし、最後には仕返しをするだろう。
 とにかく、狙いと正反対の結果をもたらしたければ、「強制」というのは、最も有効な方法なのである。

( → 5月15日 にも、強制納付や貯蓄の話。)
( → 8月27日 にも関連する話。65歳ないし70歳以上でも働く人は、老後も年金をずっと払わされるので、損する。ここにも「強制的に損をさせる」という仕組みがあって、国民に嫌われる。)


● ニュースと感想  (6月07日b)

 「年金と貯蓄」について。
 「年金」と「貯蓄」の差について説明しておこう。
 先に、年金を「貯蓄」タイプにするべし、と述べたが、年金は貯蓄とまったく同じではない。では、どこがどう違うか? 
 簡単に言えば、「貯蓄タイプの年金」と「貯蓄そのもの(銀行預金)」とは、金を預けるときには同じだが、金を受け取るときに異なる。
 たとえば、65歳から金が出る年金があるとしよう。「年金」と「貯蓄」とは、65歳までは同じである。ただし、65歳からあとが異なる。
  ・ 年金 …… 65歳以降、毎月一定額を受け取る。終身。
  ・ 貯蓄 …… いつでも自由に金を受け取れる。ただし一定額まで。

 単純に損得を比べれば、次のようになる。
  ・ 年金 …… 長生きすればするほど得で、早死にすると損だ。
  ・ 貯蓄 …… 寿命に関係ない。使わずに死ねば、金は遺産として残る。

 なお、年金とは逆のタイプの損得もある。それは「生命保険」だ。
  ・ 生命保険 …… 早死にすればするほど得。

 以上の点から見れば、次のように評価できる。
  ・ 貯蓄 …… 標準的。損得なし。
  ・ 年金 …… 長生きした人ほど得になる、老人の互助制度。
  ・ 生命保険 …… 早死にした人ほど得になる、壮年の互助制度。

 だから、年金というのは、本来、老人のためだけにある。そして、その払い込みは、65歳までの任意の時期である。いつでもいい。
 たとえば、65歳の時点で、5百万円を「一時払い年金」として納付する。その後、老人同士で、余生の生活費をまかないあう。早死にした人は2百万円ぐらいしかもらえないが、長生きした人は8百万円もらえる。平均すれば、損得なしだ。
 というわけで、65歳の時点で払えばいいのであって、それまでは、どういう形で金を積み立てるかは、各人に任せるべきなのだ。それが原則だ。
 ただ、それだと、「個人が老後の生活のための金を積み立てしなくなる」というふうに政府が懸念する。そこで、年金制度ができる。しかし、これに強制的に加入させるというのは、どう考えても、でしゃばりだ。個人が自分で多大な貯蓄をしていて、自分で自分の老後の生活設計を立てられるのなら、政府が余計な強制をするべきではない。罰を科するなんて、とんでもない。

 なお、「年金を強制する」というのが、どこがおかしいかは、「生命保険の強制」というのと比較するといい。「生命保険への加入を義務づける。加入期間が少しでも不足すると、納付した全額が没収」なんていう制度は、悪制度以外の何物でもない。
 年金や生命保険や貯蓄が大事だとしても、政府がそれを強制するべきではないのだ。なすべきことは、せいぜい、小額のプレミアムの調整だけである。
 一方、「弱者の保護」「高齢者への還元」という社会保障は、互助ではなく、義務である。これは、義務であるがゆえに、税によって行なうべきだ。
 義務である「税」と、互助である「年金」とを、混合しているところに、現在の年金制度の根本的な難点がある。


● ニュースと感想  (6月08日)

 「民主党の案」について。
 民主党の案について、コメントしておこう。この案の特徴は、次の通りだ。
  ・ 各種年金の一元化
  ・ 低所得者を優遇し、高所得者を冷遇する。(社会保障)
 このうち、前者は問題ない。後者が問題だ。

 民主党の案だと、低所得者には手厚い年金が出る。すると、自営業者は、低い所得を申告して、たっぷりと年金を得る。脱税して税を少ししか納めず、年金はたっぷりともらう。嘘つきの悪人ほど得をする、という制度だ。好ましくない。
 では、どうするべきか? この問題については、5月15日 に示したとおり。互助社会保障とを区別すればよい。もう少しはっきり言えば、貯蓄性社会保障とを区別すればよい。

 民主党案だと、この区別がなされていない。そのせいで、低所得者を優遇し、高所得者を冷遇する結果になる。それは同時に、年金にちゃんと納付した人が冷遇され、虚偽申告した人が得する、という結果になる。これでは、まともに納付するのが、馬鹿らしい。
 たとえば、「夫婦で共働きをして、老後も働く」という家庭だと、年金制度には多大に貢献するが、得る額は少ない。逆に、「虚偽申告して、老後はたっぷりある貯金とアパート経営で悠々自適」という自営業者だと、ろくに年金を払わないでいたくせに、政府からはたっぷりと年金をもらえる。……結局、真面目な人間は損をして、悪質な人間が得をする。これでは、年金制度が信頼されなくなる。実際、現状がそうだ。誰もが納付したがらないし、納付しなかった人が脱税犯のごとく非難される。それというのも、まともに納付すればするほど損となる仕組みになっているからだ。(まともに納付した人が得をする仕組みであるならば、「得をしなかった」と非難されることはない。)

 結局、こういう問題は、「低所得者を優遇し、高所得者を冷遇する」という社会保障の仕組みを、年金制度に取り込んだせいだ。それよりは、前述のごとく、貯蓄性と社会保障とを区別すればよい。
 具体的には? 次のようにすればよい。
  ・ 年金制度は、貯蓄として。
  ・ 所得の再配分は、所得税などの税で。

 私の案と民主党の案で、最も大きな違いが出るのは、「低所得者」だ。民主党の案では、「低所得者を優遇する」となっている。しかし私は、そんなことをする必要はない、と考える。
 なぜか? 壮年世代だって、そんな「所得補償」などはないのだから、老年世代に限って、「所得補償」などをする必要はないはずだ。国民が貧乏だからといって、政府がいちいち財布に介入する必要はない。国民の人生は、どう貧しく生きるかも含めて、国民の「自己責任」であるから、いちいち政府が介入する必要はないのだ。貧しければ貧しいで、ほったらかしておいてよい。彼はそういう老後を、自分で設計したのだから、政府が介入する必要はないのだ。
 ただし、生存を脅かされるほどの貧乏であれば、そのときに限り、政府が介入するべきだ。そして、それは、壮年世代の場合と同様に、「生活保護」という形である。その代償として、「全財産の没収」をなす。
 それ以外の低所得者には、介入しないでよい。それが私の提案だ。……別に、これは、むごい案ではない。同じように貧乏であれば、壮年であれ老年であれ同様に扱う、というだけのことだ。これを「むごい」と思うのならば、生活保護の給付条件を緩和すればいいだけのことだ。
 以上のようにすれば、問題はない。ひどい低所得者には、最低レベルの生活は保障される。また、それ以外の人々には、「払っただけの年金をもらえる」というふうになるから、政府には赤字が溜まらないし、人々は「没収」の危険がなくなるので安心するし、少額のプレミアムだけで人々はどんどん貯蓄(納付)の意欲が増すし、年金の納付率はひとりでに急上昇する。すべての問題は解決する。
 とにかく、「貯蓄性と社会保障とを区別する」という原則が大事だ。

 [ 補説 ]
 先日、未納問題が深刻に議論された。その理由は、なぜか? 貯蓄性と社会保障とが区別されないからだ。この場合、年金制度には、「社会保障」としての性格が組み込まれる。すると、「所得再配分」つまり「税」としての性格が組み込まれる。「税」ならば、納入することが義務であり、納入しないことは悪である。だから、未納が非難される。
 ただし、「税」ならば、誰もが払いたがらない。払わない人が(国民年金では)4割もいる、となれば、払うのが馬鹿らしく感じられる。「払えば払っただけがのことがある」のならばともかく、「払えば払うほど損になる」という仕組みであれば、誰もが払いたくなくなる。かくて、制度が崩壊する。そこで、制度を維持するために、「強制徴収」なんて案が出てくる。
 しかし、それでは本末転倒なのだ。悪法を守らせるために罰則を強化するのが大切なのではなく、悪法そのもの改革することが大切なのだ。── それが私の強調してきたことだ。
 そして、悪法が悪法であるゆえんは、貯蓄性と社会保障とが区別されないことだ。貯蓄性は任意であり、社会保障は義務である。ならば、その両者を、一緒くたにするべきではない。貯蓄性は、任意であるから、任意な納付を認めた上で、プレミアムだけで制御する。社会保障は、義務であるから、税として厳密に徴収する。社会保障の負担分を「加入者だけから徴収する」というシステムは、根本的に間違っている。
 こういうふうに根源から狂っているシステムだから、現行制度ではさまざまな矛盾が吹き出す。ここで、モグラたたきのように、一つ一つの矛盾をつぶそうとしても、そのためには莫大なコスト(徴収コスト)がかかり、非常に無駄が生じる。だから、表面的な処置を取るよりも、根源的な処置を取るべきなのだ。これが大事だ。
( ※ 民主党の案は、この点からすると、まったく「無意味」と言える。単に帳簿上で、赤字を分担するだけであり、赤字そのものとを根本的に抑制することは無理であるし、制度の崩壊も防げない。表面的な小手先の処置をいくらやっても、ほとんど無意味なのだ。民主党の案は、「一元化」という点では、政府案よりもマシだが、しょせんは、一時しのぎに過ぎず、破綻を少し先延ばしするだけにすぎない。「貯蓄性と社会保障とを区別する」という原則を立てない限り、うわべの数字を取りつくろうだけだし、それでは、制度そのものが国民から信頼されなくなるから、いずれは崩壊するのだ。……具体的に言えば、「利息が低率」ならまだしも、「利息がマイナス1パーセントかも」なんていう制度には、誰も貯金したがらないから、いずれは崩壊する。)
( ※ 現行制度では、入りたがるのは、虚偽申告した人々ぐらいだろう。つまり、制度を悪用する人だけが、制度に入りたがる。他のまじめな人[特に若手]は、食い物にされるだけ。……現行制度はそうだし、民主党案も同じ。)

 [ 余談 ]
 ついでに、政局の話。
 菅直人の辞任問題で、どうにも不思議に思えることがある。「未納三兄弟」と批判したのは、国民に向けて「受け」を狙ったのだろう。国会を一種の漫才ショーだと思えば、それもわからなくはない。しかし、そう批判する自分自身について、なぜあらかじめ「未納か否か」を調査しなかったのか? 菅直人が国会でそう質問するのであれば、なぜ本人や他の党員たちが、「彼の納付状況を調べておこう」と事前にチェックを入れなかったのか?
 ここには「自己反省」能力の、根本的な欠落がある。このようなことでは、とうてい、一国の政権担当は任せがたい。(ただし、自民党なら、なおさら任せがたいが。)
 民主党は、菅直人も、また他の党員も、「自己反省」能力を根源的に考慮した方がいい。今のようなありさまだと、国民のひんしゅくを買い続けるだろう。
 なお、この能力をつける方法を、教えておこう。それは、漫才師に入門することだ。漫才ならば、「自己反省」をして、「自分を笑いものにする」ことが、最初の訓練となる。たとえば、こうだ。
    ボ ケ  「首相さん、未納やおまへんか?」
   ツッコミ 「アホ。おまえかて未納やんか」
 なんて訓練をしておけば、今回の問題も起こらなかったはずだ。おまけに、国会で漫才をやれば、民主党の支持率は大幅に上昇するだろう。
( ※ 漫才みたいな話ですけど。)


● ニュースと感想  (6月08日b)

 「年金制度におけるプレミアムの意義」について。
 前項では、生活保護を受ける代償として、「全財産の没収」を示した。これによって、生活保護を受けにくくする効果がある。これは、「アメとムチ」で言えば「ムチ」の効果である。一方、「アメ」の効果も考えられる。(加入しない人には「ムチ」、加入した人には「アメ」。)
 「アメ」とは何か? 年金加入者に対する「プレミアム」だ。
 ここで、プレミアムには、「生活保護を受けにくくする」という効果がある。ほったらかすと、低所得者は、「年金制度に加入するよりは、生活保護を受けた方がよい」と思うかもしれない。そこで、プレミアムをつけて、生活保護から年金制度へと誘導する。

 この意味で、プレミアムをつけることには、意義がある。ただし、その意義からして、次の2点が大事だ。
 ・ これは、「誘導」の分だけであり、「社会保障の分」ではない。
   だから、あまり高額にする必要はなく、低額で十分だ。
 ・ 高所得者よりは、低所得者を厚遇する。

 第1に、低所得者をことさら優遇する必要はない。そして、その理由は、「ムチ」(全財産の没収)があるからだ。
 第2に、高所得者は、「ムチ」には耐えられない。なぜなら、全財産を没収されるとなると、多額の財産を失うことになるからだ。「ムチ」の効果が強い分、プレミアムは少なめで足りる。

 現実的には、プレミアムは、利子率で年1〜2%の上乗せに相当する額ぐらいが適切だろう。
 一方、民主党案では、低所得者には利子率で非常の高額の上乗せがあり、一方、高所得者には、マイナスの利子率(つまり年金制度に加入したことに対しての罰金)がある。……こういうふうに極端に損得をつけることは、好ましくない。理由は、前述の通り、制度への不信を招き、制度を崩壊させるからだ。
 利子率で年1〜2%の上乗せがあれば、それで、制度は十分に維持できるし、公平性も保たれる。このくらいが適切だろう。それ以上に極端に損得をつけるべきではない。

( ※ 大企業の「財形貯蓄」という制度では、利子率で年1〜2%の上乗せによって、貯蓄を推進した。それと同様のものだ、と考えればよい。……「財形貯蓄」の場合、加入しなくても特にデメリットはなかったが、多くの社員はしきりに貯蓄に励んだものだ。わずかなプレミアムで、多くの効果をもたらした。)

 [ 付記 ]
 以上のことからして、「高所得者は年金制度に加入する必要はない」とも言える。つまり、「年金制度に加入しなくても、あとで生活保護を受ける可能性は少ない」というのと、「プレミアムが少ない」というのとは、等価である。
 実際、高所得者は、たっぷりと資産があって、老後を自分でちゃんと支えることができるのだから、ハシタ金みたいな少額の年金をもらう必要はないし、それゆえ、年金制度に加入する必要もない。加入しないからといって、誰にも迷惑をかけない。
 高所得者は、むしろ、税をたくさん払うべきなのだ。そして、税をたくさん払うのであれば、いちいち年金に加入する必要はない。── そう結論できる。
 「年金に加入しないのは悪である」「未納は悪である」なんて主張が成立するのは、今の年金に「社会保障」の性格をもたせているせいだ。ここのところをはっきりと区別しないから、問題がごちゃごちゃして、いろいろと矛盾が噴出する。
 逆に、この区別をはっきりすれば、すべてはすっきりと片付く。
( ※ 高所得者も、万一の場合には、全財産を失って、生活保護を受けるかもしれない。しかし、その場合には、彼がかつてたっぷりと払った税で、彼の生活保護費をまかなってあげればよい。通常、年収1億円なら、毎年 3000万円ぐらいは納税している。一方、生活保護費は、年に 200万円以下だ。差し引きすれば、どうってことはない。しかも、こういうケースは、ごく稀だ。大部分の億万長者は、生活保護なんて関係がない。)


● ニュースと感想  (6月19日)

 「年金の記事」について。(細かな話。)
 朝日新聞に年金の解説特集がある。(朝日・朝刊・オピニオン面 2004-05-24 )
 つまらない平凡な話が多いが、少しだけコメントしておこう。

 (a) 追納
 現状では、追納ないし後払いが十分にできない、という問題が記事では指摘されている。
 この件への処置は、6月06日bで述べたとおり。つまり、「手続きすれば後払いできる、という期間をもっと拡大せよ」なんていう小手先の方法よりも、本来的に「あるとき払いの催促なし」でいいのだ。

 (b) 制度
 記事では制度の歴史的な変遷があれこれと記してある。しかし、肝心なことは、書いていない。それは、何か? 
 年金制度は、本来、国民の老後を支えるためのものだった。ところが、いつのまにか、その目的がすり替えられてしまった。何に? 「制度の維持」である。
 「制度によって何かをすること」ではなくて、「制度を維持すること」それ自体が、年金制度の目的になってしまった。
 ここが肝心だ。「強制徴収」などの問題も、この観点から理解される。「国民のために必要だから強制徴収する」のではなくて、「制度の維持には必要だから強制徴収する」となる。
 まったく、本末転倒だ。シッポが犬を振る、というありさまだ。物事の本質を見抜けば、そうわかる。……だからこそ、今は、制度を抜本的に改革するべきなのである。新たな制度は、「制度の維持」を目的としてはならず、「国民の幸福」を目的とする。これが肝心だ。そして、そのためには、「強制しないと誰も加入したがらない」という制度をやめて、「強制しなくても人々が喜んで自発的に加入する」という制度にする必要がある。
 とすれば、その制度は、あらゆる罰則を含まないものである必要がある。「25年未満の納入だと全額没収」なんて、論外である。現行制度のまま、「強制徴収」を実施すれば、「強制徴収した金はすべて没収」ということも起こる。(たとえば45歳から65歳まで21年間、強制徴収して、すべて没収。)とんでもない悪制度だ。

 たとえ話。あなたが結婚するとき、二人の女性がいます。条件は同じで、性格だけが違う。次のどちらを選びますか? 
 A子。「あたしと結婚したら、25年間の結婚が義務です。義務を果たさないと、罰を加えます。慰謝料として、全財産を没収します。こういうふうにきつい罰則を用意すれば、きっと強固な結婚関係が築けるわよね? これで生涯の結婚が、確実に約束されるわ」そう言って、あなたの指にきつい指輪をはめて、あなたの首をネクタイで締め上げる。
 B子。「あたしと結婚しても、25年間も義務づけたりしません。1年だって義務づけたりしません。あたしといれば幸福だ、と思っている間だけ、結婚していてくださいね。あなたの気持ちが大事なの。もし、あたしといるのが苦痛になったら、いつでも別れていいわよ。あたしは、あなたが幸せになるために、いっしょにいたいの。それだけなの」そう言って、あなたの胸にもたれて抱かれる。
 前者は、とんでもない悪妻ですね。どうです? どちらの女性を選びますか? ……それとも、もう手遅れ?  (^^);

 [ 付記 ]
 その後、法案成立のあとで、読売の解説記事も出た。(読売・朝刊・特集面 2004-06-05 )
 こちらの方がいろいろと詳しく書いてある。上記のことも記してある。
 さらにその後、朝日にも同様の詳しい記事が出た。(朝日・朝刊・特集面 2004-06-08 )
 これらの記事を見るとわかるが、今度の新法案は、制度の問題点を取りつくろおうとして、あちこちで「穴ふさぎ」の努力をしている。
 たとえて言えば、洪水のとき、あちこちで穴があいて水が漏れるので、たくさんの穴に「穴ふさぎ」の手当をしているわけだ。……ところが、どれもこれも、応急手当だから、一時しのぎにしかならない。しかも、水漏れの半分以下しか手当てできない。モグラたたきみたいなもので、キリがない。だから、こういう「穴ふさぎ」なんていう個別の応急処置はさっさとやめて、制度を抜本改正するべきなのだ。いくらやってもキリがないことはやめて、根本対策を採るべきなのだ。


● ニュースと感想  (6月19日b)

 「少子化の問題と原理」について。
 朝日新聞に少子化の解説特集がある。(朝日・朝刊・特集 2004-06-07 )
 興味深い話もいくらかあったので、少しだけコメントしておこう。
 内容で目についた点をまとめると、次の通り。
 さて。これらとは別に、基本的な話として、次の二項目がある。
  1.  そもそも少子高齢化は、良いのか悪いのか? 経済成長一辺倒よりも、人間的な豊かさを求めるべきではないのか? 
  2.  少子高齢化は社会の問題でもある。人々がたがいに助け合う社会を築くべきだ。子育てを女性任せするのをやめたり、男性が女性を助けたり、社会全体で助け合ったり。
 この二点は、ピンボケである。理由は、次の通り。

 (1a) 少子高齢化
 少子高齢化の良し悪しは、すぐ上に記してあるとおり。つまり、「高齢化や少子化は、それ自体が問題なのではなくて、その速度や幅が問題だ」となる。
 これは私も前に指摘した。まず、少子化についていえば、出生率が 1.3程度では低すぎる。( → 4月12日9月07日
 一方、高齢化は、悪いことは何もなく、あらゆる意味で好ましい。それは「人間が長生きできるようになった」ということだからだ。「高齢化が良くない」と思う人は、なるべく若死にするといいだろう。たとえば、60歳で自殺するか病死すればよい。……つまりは、「他人が長生きするのは困るが、自分は長生きしたい」と思う人が多い、という点だけが問題なのであって、「人間が長生きできる」ということは、あらゆる意味で好ましい。「貧しいのはいやだ」と思うのであれば、そう思った時点で「貧しさよりも死」を選べば解決する。ただし、「自分では死ねない」と思う人もいるだろうから、そういう人のために「安楽死」制度を用意しておけば足りる。(ブラック・ジョークです。念のため。)

 (1b) 経済成長
 経済成長優先、という点はどうか? これもピンボケだ。経済成長優先、という政策は、高度成長期には採られたが、その後はずっと低成長路線である。論者の主張は30年ぐらいズレている。その主張は、30年前に主張するべきであって、マイナス成長の続いている時期に語っても意味がない。
 今後は少子化にともなってマイナス成長の懸念がある。どうなるかは、人口減少率と生産性向上率の相殺いかんによる。
 一方で、高齢化のための社会福祉の負担増は必要だ。となれば、当然、経済成長率はプラスである必要がある。
 なお、デフレが続くと、実質的な生産性向上率もマイナスになる可能性がある。というのは、労働者だけの生産性向上率はプラスになっても、労働しない失業者が増えるので、社会全体の生産性向上率はマイナスになりやすいからだ。
 高めの経済成長は弊害が多いが、低めの経済成長は必要不可欠なのである。それは子供の身長が伸びる必要があるのと同様のことだ。これを否定すれば、いびつな状態になる。 (論者の主張は、「巨人症になるのが怖いから、小人症になろう」というのと同様。馬鹿げている。論者の主張は、「量の拡大なしに質の向上があればいい」というものだが、それは、「あまり働かないで、金だけ得たい」というものであり、「空から金が降ってくればいい」というのと同然だ。荒唐無稽。期待過剰。妄想癖。……なまくら者の理屈。)

 (2) 社会問題
 少子高齢化は社会の問題でもある、というのは、ある程度は正しい。ただし、次のことに注意しよう。
 第1に、「子育てを女性任せするのをやめよう」と言っても、無意味である。「子育てを女性任せする」というのは、それが効率的だからそうしているだけだ。次の二つを比較しよう。
  ・男性が働いて、女性が家庭にいる(専業主婦)
  ・女性が働いて、男性が家庭にいる(専業主夫)
 このどちらが所得が高くなるかと言えば、たいていは、前者である。後者は例外的だ。だから、たいていの家庭では、前者となる。
 このことは、古典派経済学の「比較生産費」の話で、説明が付く。労働力などの資源は、なるべく高い生産をできるように配分するのが、最適配分なのであり、自然にそうなるのだ。これを逆にすれば、損をするだけだ。普通、女性よりも男性が家庭に入った方が損だから、そうしないだけだ。
 だから、「専業主夫を増やそう」あるいは「夫が育児休暇を取るべきだ」なんて、女権論者が主張しても、まともな頭のある夫婦は、あえて夫婦全体の所得を減らす道は取らないのである。
 では、どうするべきか? 女権論者のような観念的な「男女平等」を唱えても、駄目である。むしろ、「一家の全体で、子育ての時間を十分に取れる」という制度を整えるべきだ。男女のどちらかにするかは、それぞれの家庭に応じて、個別にベストの道を取ればいい。
 要するに、夫婦のことには、他人は口を挟むべきではない。「男が主夫になれ」なんて国が命令するのは、「女が主婦になれ」と命令するのと同様で、強権的なのだ。「家庭のことは家庭に任せよ」というのが、原則である。(そして、その上で、社会制度を整えればよい。これは、以下で。)
 第2に、社会制度は、どうするべきか? これは、独自の話となるので、次項(2) でまとめて述べる。(翌日分。)

  【 追記 】 (2004-06-11,12 )
 新たな情報。10日と11日の記事から。
 (1) 出世率はさらに低下しつつある、という統計調査が出た。(各紙・朝刊 2004-06-10 )
 前項で述べた 1.32 という数値は、2002年の調査。03年の数値が新たに判明したが、その値は 1.29 だという。さらに、東京都の傾向から判断すると、04年は 1.27 になるはずだという。
 一方、政府の年金制度の前提では、「出生率の低下はすぐに収まり、今後は出生率が上昇すると予想される」というふうになっている。妄想を前提としているわけ。
 この件、批判されてしかるべきだが、誰にもわかる当り前のことなので、私からはコメントなし。

 (2) 別の記事もある。東京都の出生率は 1.0 にまで下がっているそうだ。(読売・朝刊・1面 2004-06-11 )
 とんでもないことですね。日本はどうなっちゃうんだろう。


● ニュースと感想  (6月10日)

 「年金と少子高齢化の核心」について。
 年金と少子高齢化について、核心的なことを述べておく。

 (1) 年金と少子高齢化の関係
 年金と少子高齢化は、関係がある。それは、財源の問題だ。少子高齢化が進むと、一方では少子化で財源が減り、他方では高齢化で支出が増える。ゆえに、年金会計が赤字化する。これは根源的な問題である。
 これと比較すると、年金の「一元化」などは、ただの帳簿の問題にすぎない。「国民に赤字を公平に割り当てる」というだけのことであり、赤字そのものを解消するわけではない。その点、「消費税を財源にする」というのも、同様である。これもまた、「国民に赤字を公平に割り当てる」というだけのことであり、赤字そのものを解消するわけではない。
 一方、「少子高齢化」という赤字発生の原因を見据えた上で、「少子高齢化」そのものを解消すれば、赤字の問題は解決する。
 ただし、もう一つ、対症療法的な方法もある。それは「女性と高齢者を労働力として活用する」ということだ。これは、「少子化」を補う形で、経済力そのものを拡大するので、年金の赤字を抑制する効果がある。
 ともあれ、年金と少子高齢化について、関係があることを理解しよう。この根本を見失って、「一元化」や「消費税増税」などを唱えていては、日本全体が沈没しかねないのだ。要するに、帳簿の赤字を解消するために、いくら負担金の割り当てを変更しても駄目なのだ。
 根源的には、次の二つから、二者択一だ。
   ・ 日本全体の生活水準を下げる
   ・ 日本全体の経済力を高める
 「一元化」や「消費税増税」は、前者である。つまり、赤字を分かちあうことによる、「生活水準の切り下げ」だ。しかし、私は、後者を主張する。これは、経済力を高めること、すなわち、働く量を増やすことを意味する。そして、そのためには、現在は遊んでいる女性や高齢者の労働力を適切に利用すればいいのだ。
 私が示したいのは、次のことだ。
 「金は空から降ってこない」
 「金は、働けば、得ることができる」
 とにかく、年金や少子高齢化の対策としては、核心は、日本全体の経済力を高めることだ。「一元化」や「消費税増税」だと思ってはならない。絶対に。

 (2) 社会の改革
 前述の通り、日本全体の経済力を高めることが大切だ。そして、そのためには、女性や高齢者の労働力を適切に利用すればいい。つまり、社会を改革すればいい。
 しかし、口で言うのは簡単だが、実現させるのは簡単ではない。では、どうするべきか?
 世間によくあるのは、「口で言えば何とかなる」という主張である。そこで、そういう趣旨の主張がしばしば出る。次のように。
 「女性や高齢者が安心して働ける社会を築こう」
 「人々がたがいに助け合う社会を築こう」
 なるほど、これは、人道的で、心麗しい主張だ。しかし、口で言ったからといって、それで現実が変わるわけではない。そもそも、政治というものは、道徳ではないのだ。単に人々の良心に訴えるだけでは駄目だ。道徳論で片付けるだけでは駄目だ。道徳論で片付けたいのであれば、そこらの説教家に政治を任せればよい。そうすると、どうなるだろうか? たぶん、最悪の社会となるだろう。
 では、かわりに、どうするべきか? 真実に気づくべきだ。では、真実とは? それは、社会学的または経済学的に言えば、次のことだ。
 「各人が自分にとって最適の行動を取れば、社会全体では逆効果となる
 これは、「合成の誤謬」と呼んでもいい。あるいは、「自由放任の否定」と呼んでもいい。
 現在の社会では、各人は子供を生まない方が得である。だから出生率が下がる。そして、そのせいで、少子化が進み、社会全体では損をする。  ここで、「各人は道徳的にふるまおう」なんて主張をしても、駄目である。それは「各人は損をしよう」というのと同様のことだ。そんな主張は、「各人は税金をいっぱい払おう」とか、「各人は恵まれない人々にお金を寄付しよう」とか、そういうのと同様である。いくら理念は素晴らしくても、誰も実行したがらない。説教家の空念仏のようなものだ。理念は素晴らしくても、ほとんど無効なのである。なぜか? 誰もが、共感するのだが、従わないからだ。「自分は事情があって、そうできないんだ。でも他人はそうするべきだ」と思うからだ。
 では、どうするべきか? このことは、マクロ経済学における「不況の脱出」と同様である。「各人は損をしても、社会のためになることをなせ」と唱えるべきではなくて、「各人が、社会のためになることをなせば、各人が損をしないで済むように、状況を改めよ」と唱えるべきだ。決定を、各人の自発的行動にやらせるべきではなくて、政府の政策にやらせるべきだ。
 要するに、政府がやるべきことをやれば、少子化であれ不況であれ、直ちに解決が付く。少子化ならば、北欧のような出産奨励策を採れば出生率が上がるし、日本のような出産冷遇策を採れば出生率が下がる。ここでは、「政府がなすべきことをなせ」ということが肝心なのであって、各人の自発的行動に責任転嫁するべきではないのだ。
 なすべきことは、道徳を唱えることではなくて、政府が正しい政策を取ることだ。そして、そう理解するには、「合成の誤謬」という原理を理解することが必要だ。
 現状では、「各人が最適行動を取ると、全体が最適状態になる」ということはない。むしろ、逆に、「各人が最適行動を取ると、全体が悪い状態になる」というふうになる。これが「合成の誤謬」という状況だ。ここでは、「放置すれば自然に最適状態になる」ということはない。つまり、「神の見えざる手」のような原理は働かない。
 では、このとき政府がなすべきことは、何か? 各人の行動を強制的に変えて、「各人のために最適行動をするのではなく、全体のために最適行動をせよ」と無理強いすることか? 違う。状況そのものを変えることだ。たとえば、少子化対策としてなら、「出産をしないことが個人の利益になる」という社会システムから、「出産をすることが個人の利益になる」というふう社会システムへと、社会システムそのものを変更することだ。そうすれば、強制しなくても、自然に、社会は最適化していくのだ。

( ※ ここでも、マクロ経済学の知識が、根源的なところで有益である。なぜなら、そのことで、われわれの気づかなかったわれわれ自身の欠点を理解できるからだ。……それは「社会システム」の問題であり、「道徳心」の問題ではない。)

 [ 付記1 ]
 原則は上述の通りだが、さらに具体的に示しておこう。
 この二つのグループのうち、前者と後者は、次のように対比される。
  ・ 前者 …… 採用した企業が損。ゆえに、実現しない。
  ・ 後者 …… 採用した企業が得。ゆえに、実現する。
 前者は、口先だけの勧奨にすぎない。かくて、無効。
 後者は、社会システムそのものを変更する。つまり、「少子高齢化対策をした企業は、減税で得だが、しない企業は、増税で損だ」というふうに、社会の経済システムを変更する。かくて、この新しい経済システムに従って、企業は最適行動を取る。すると自然に、少子高齢化対策が進む。……かくて、有効。
(以上、本項の本文で述べたことのために、具体的な政策の例を示した。)

 [ 付記2 ]
 なお、現状は、どうか? 後者(正しい政策)とは逆の政策である。つまり、「少子化対策をしない企業は、減税で得だ」つまり「悪い奴ほど得をする」というふうになっている。
 日本政府は現在、女性者や高齢者を、雇用するよりも解雇するようにと、促進しているのである。マイナスの効果のある政策を取っている。かくて、女性の雇用環境は悪化して、少子化がどんどん進む。まさしく、政府のめざす方向に進んでいる。
 なぜか? はっきり言えば、日本政府の目標は「企業負担の減少」という形の「産業体質の強化」である。それだけを最優先とするから、その反面で、少子化が進む。そもそもの基本が「女性者や高齢者は、能率が悪いから、こんなのを切り捨てて、産業体質を強化しよう」なのである。企業の利益のためであれば、国民などはどうでもいいのだ。国民のために企業があるのではなく、企業のために国民があるのだ。……それが政府の政策だ。
 だから、少子化は、不思議でも何でもない。政府がめざす方向に進んでいるだけのことだ。つまり、「なぜ自分は苦しいのだろう?」と不思議がるのであれば、「自分で自分の首を絞めているから苦しいのだ」と理解するべきなのだ。

 たとえ話。下町の商店街に、小学校がありました。そこの学校の方針は「真面目に勉強しましょう。世の中のために尽くしましょう」でした。生徒はみんな真面目に勉強しました。ところが、ある日、新しい校長が赴任してきました。今度の校長は、「金儲けこそ大事」でした。商店街の親たちは、こぞって新しい校長を支持しました。学校では、国語や算数は廃止され、接客方法やネジの締め方ばかりを教えました。やがて、生徒は「もっと金儲けをしよう」と思ったので、学校をやめて、さっさと町に出て、アルバイトをしました。親たちは「子供が働くので金が入る」と大喜び。……しかし、その半面で、学校は汚らしく荒廃し、子供の学力は大幅に低下しました。将来的には子供の収入は大幅な減少です。子供たちは親や教師にはおべんちゃらを使うのがうまくなりましたが、町に出ると弱い者いじめをしてカツアゲをするようになりました。……そこで親と教師は不思議に思いました。「どうしてこんなにひどいことになったのだろう? 前よりもずっと良い教育方針を取ったのに。不思議だ、不思議だ」と。

 [ 付記3 ]
 実例を示す。
 「定年退職者の再雇用が進まない」という記事があった。(朝日・朝刊・経済面 2004-06-09 )
 ここでは、「なかなかうまく行かない」と困ったような説明がしてあるが、もともと「定年退職者の再雇用をあえて進めない」、つまり、「やればやるほど企業が損する」という制度になっているのだから、それで当然なのだ。個々の企業が自己の利益をめざせば、そうなって当然なのだ。
 ところが、そのせいで、マクロ的にはかえって損失が発生する。国全体の労働力が減り、国全体の総所得が減り、国全体の総需要が減る。かくて、企業全体の総売上げが減り、企業の利益も減る。さらには、年金の財源をまかなうために、あれこれと増税がかかって、企業の利益はますます減る。
 ここでは、個々の企業が自己の利益をめざせばめざすほど、当面は目先の利益を得るが、長期的にはかえって損をするわけだ。つまり「合成の誤謬」である。ここでは「自由放任で最適化」というのとは逆の原理が成立する。
 こういうマクロ経済学的な事実を理解することが大事だ。そして、それを理解しないから、企業は自分の首を絞めるし、マスコミは真実を報道できないし、国民は増税に苦しむ。

 [ 補足 ]
 参考記事がある。政府の「少子化社会対策大綱」。今後の対策として、新新エンゼルプランという政策を取る。その趣旨は、「少子化対策のために世間の風潮を変える」というもの。(朝日・朝刊・生活面 2004-06-08 )(詳しくは政府のホームページを参照。)
 これは、あくまで世間の責任だと考えて、「社会が悪いんだから、社会が何とかしろ。社会が変わればいい」という主張だ。かくて、政府の責任は、まったくほったらかしだ。
 これ、どこかで、似た話がありますね。そう。あれです。……「自己責任」論。「自分でしっかりやれ。自己責任なんだから」とだけ言って、政府は政府としてやるべきことをサボる。政府の責任を、被害者・国民になすりつける。無為無策。責任放棄。責任転嫁。……そして、その根源には、真実を伝えないマスコミのデタラメな報道がある。

( ※ 少子化対策の話題 → 4月10日b10月26日b

  【 追記 】 (2004-06-12)
 男女雇用差別を禁止する、という方針を、厚生労働省が打ち出した。法改正するという。(朝日・朝刊・3面 2004-06-11 )
 しかし、こういう建前ばかりを唱えていても駄目だし、もっと実効性のある措置を取るべきだ。それが本項の指摘だ。
 具体的には? 結果責任を問う。たとえば、女性労働者の比率を見て、その数値が社員において 50%であるのを基準として、それ以上では増税、それ以下では減税。超過または不足の一人ごとに増減税をする。(企業向けの増減税。)……ただし、財政的には中立であるべきだ。増税策ではないのだから。


● ニュースと感想  (6月11日)

 「年金の財源」について。
 前項では、年金の赤字を減らすことについて、本質的なことを述べた。一方、それとは別に、年金制度の財源についても考えよう。(前項のことを最大限に実現した、と前提した上で、他の面での処方を考える。)
 年金制度の財源について、いろいろと案が浮かんでいる。特に有力なのは、「消費税の増税」である。しかし、これは、「最も公平」であるだけであって、何の取り柄もない。不公平さがないという点では好ましいが、難点がないだけのことだ。
 そこで、私は、画期的な提案をしよう。それは「固定資産税の増税」である。これには、素晴らしい効果と公正さがある。次のように。

 (1) 効果
 一極集中を是正し、国土の均等な発展を促す。交通渋滞や通勤地獄などの問題が解消し、人々は各地で人間らしい生活を送れる。稼いだ金の大半が住居費に消えることがなくなり、もっと幸福な生活を送れるようになる。
 換言すれば、働いた人が働いた分の果実を得る。土地所有者が不動産価格の上昇による果実をもらう、という形で果実を独り占めしない。
 一国経済のレベルで言えば、たいていの人が自動車や住居などを購入する。その一方で、特定の土地成金が無駄な贅沢の支出をすることがなくなる。同時に、土地成金を対象としたバーやキャバレーや高級料亭などの産業は減り、自動車産業や電器産業などのまともな産業が栄える。
 かくて、あらゆる意味で、日本経済は健全化する。

 (2) 公正さ
 そもそも、土地の価格上昇が起こるのは、なぜだろうか? 土地の投資収益率が上がるからだ。そして、それは、土地の利便性が上がるからだ。そして、それは、さまざまな公共投資のおかげである。つまり、次の図式だ。
国民の金(血税) → 国 → 公共事業 → 土地の利便性の向上 → 土地の値上がり → 土地成金の利益
 というわけで、「国民の金(血税) → 土地成金の利益」というふうに、富が移転する。だから、こうして移転してしまった富を、元に戻せばよい。すなわち、土地成金が国民全体のおかげで儲けた利益を、国民全体に還元すればよい。そして、それが「固定資産税の増税」なのである。
 
 結語。
 社会保障のための増税が必要だとしても、消費税の増税だけでなく、固定資産税の増税にも注目すべきだ。

( ※ ただし、「消費税の増税」をいくらか併用することは構わない。つまり、「消費税の増税」を全面的に否定するわけではない。規模が違うからだ。……消費税の増税なら、国民全体の消費にかかるから、相当に大規模となる。一方、固定資産税は、土地代だけにかかるから、あまり大規模にはならない。だから、固定資産税だけの増税では、必要な増税はまかないきれないだろう。……というわけで、本項で述べた「固定資産税の増税」は、補完的な意味だけがある。たとえば、政府が「消費税を 15% 上げる」と主張したら、「そんなに守秘税ばかり大幅に増税しないで、一部は固定資産税でまかないなさいよ」と補正するわけだ。それが真意。)
( ※ 「消費税の増税」は、単純な形では累進課税になるので好ましくないが、「定額の減税」と組み合わせれば、累進の度合いを緩和できる。たとえば、「消費税を5%アップする」と同時に、「国民一人あたり5万円の減税」とする。……この減税は、「児童手当」の形でもよい。そうなると、全体的には「独身税」もしくは「子なし税」みたいな感じになる。)
( ※ とはいえ、消費税の話は、本項の話題とはずれる。本項の話題はあくまで固定資産税だ。)

 [ 付記1 ]
 土地課税としては、固定資産税の増税のほか、土地売却の収益に課税する、という方針もある。これだと、不動産の値上がりに直接課税するので、より公平性は増す、とも思える。一方で、売却するまでは値上がり益が発現しないから、課税が繰り延べられるので、不公平である。(たいていの大企業は、保有する土地をずっと売らないので、その課税はゼロに等しい。)
 となると、やはり、固定資産税の増税がベストだ、と思える。「そんな税は払いたくない」と思う企業が増えれば、大都会の土地を売り出して、さっさと地方に移転するだろう。それはそれで好ましいことだ。というか、それこそが狙いだ。
 近年、丸の内や六本木が開発され、このあたりの利便性が増した。となると、多くの企業が都心に参入したがる。東京都は容積率の緩和などを打ち出すので、都心の人口がどんどん増えていく。すると、交通渋滞が増えて、時間のロスが増えて、国全体の経済効率はどんどん低下していく。企業は勝手に都心に向かいながら、「日本では土地のコストが高いから国際競争力が低い」なんて文句を言う。自分で自分の首を絞めておきながら、他人の責任にする。馬鹿丸出し。
 日産自動車は、銀座の本社を脱出して、横浜の「みなとみらい」地区への移転を打ち出した。(すでの横浜市の公募に応募済み。応募者は日産だけだから事実上の確定。)……こういうふうに、「都心から準都心へ」という流れを打ち出すことが重要だ。
 若い人は知らないだろうが、今の新宿というのは、一昔前には、ただの汚い駅前にすぎなかった。そのことは、駅から百メートルぐらい離れるとわかる。高層ビルと道路を隔てた向こう側には、低層の薄汚いビルが乱立している。今では高層ビルが並んでいる新宿は、ほんの少し昔には、ちっとも都会らしくなかったのだ。それが「再開発」の計画のあとで、浄水場の跡地から、高層ビルの乱立する未来的な都会に生まれ変わった。横浜の「みなとみらい」地区も同様だ。十年前なら、ただの埋め立て地(工場の移転跡地)だった。
 都会にある工場などの諸施設は、どんどん地方に移転するべきだ。そのことで、都会が再開発され、日本全体が効率化して、日本全体が富を分かちあう。それは、何かを生み出すことの利益ではなくて、無駄を排除することの利益である。そして、そのためには、「固定資産税の値上げ」が、最も有効である。やればやるほど、低能率な工場などは地方に移転していく。
( ※ 具体的には? 新宿や新橋あたりの裏町の汚い低層ビルなどが高層化するだろう。川崎や大田区あたりにある工場は、近県に移転するだろう。同時に、人々は近県で職住近接が可能になるだろう。都会では渋滞が激減し、土地代ばかりかかる無駄な公共事業は減り、また、固定資産税の増税によって、消費税などの税負担は低下するだろう。国全体でみれば、多大な効率アップを果たすだろう。)

 [ 付記2 ]
 固定資産税の増税は、いきなりやると、反発を買うかもしれない。そこで、いったん「消費税の大幅増税」をしたあとで、「消費税の減税」と引き替えに「固定資産税の大幅増税」をするといいだろう。この場合、たいていの土地所有者にとっても、たいして負担にはならない。なぜなら、土地の値上がり益があるからだ。一方、たいていの人にとっては、差し引きして減税になるだろう。
 他方で、大都市に在する企業にとっては、ものすごく大幅な増税になる。企業からは大幅な反発が来るだろう。この点では、「外形標準課税」の一環として受け入れてもらうことにするとよい。……とはいっても、自民党じゃ、まず無理ですけどね。企業から金をもらっている三下なんだし。「国民のため」と「企業のため」を選ぶとなったら、間違いなく、「企業のため」を選ぶはずだ。独禁法を見ても明らか。 ( → 3月28日b 「外形標準課税」)
 なお、阿呆な企業は別として、経済学的に考えれば、企業への増税は、企業にとって損ではない。その分、国民が減税を受けるから、需要が増えて、企業の売上げと利益が上がるからだ。……マクロ的に長期的に考えれば、企業と国民のどっちに減税・増税をしようが、あまり差はない。端的に言えば、企業は、次の差があるだけだ。「売上げ100億円、利益5億円、税金2億円、税引き利益3億円」と「売上げ105億円、利益8億円、税金5億円、税引き利益3億円」……税引き利益はどちらも同じ。つまり、税金が多くても少なくても同じ。……理由は、企業と国民のどっちから取るにしても、国の収入は同じだから。

 [ 付記3 ]
 固定資産税の増税を実施するとすれば、時期は、不況である現在が最適である。というのは、今後、景気の回復にともなって、だんだんと地価が上昇するはずだからだ。地価が上昇したなら、その分の利益を、固定資産税として吐き出してもらえばよい。
 だから、固定資産税の増税を導入するとしたら、「いきなり大幅に増税」ではなくて、「景気回復にともなって少しずつ増税」というのが好ましい。そして、これは、例の「中和政策」にもけっこう似ている。「不況期には増税で、景気回復にともなって増税」というタイプだ。

 [ 補足1 ]
 ついでに言えば、企業と国民の配分の差を変更するものは、増減税なんかより、金融政策である。金利の低下は、国民の所得を奪い、企業の所得を増やす。この影響の方が、ずっと大きそうだ。 ( → ミドル経済学 )
 ちょっと試算すると、年金と預金などの貯蓄が 600万円あって、実質金利が不況のせい2%低下すると、年に 12万円の損となる。夫婦で年 20万円ぐらいの損か。かなりの額ですね。十年で 200万円の損。げっ。

 [ 補足2 ]
 財源を得るには、他の方法もある。定年延長や、女性の就業率を上げることだ。(この話はは何度も述べた。たとえば → 12月25日b3月12日b
 ところが、現実には、どうか? 政府は、これらのことを促進するどころか、抑制しようとしている。たとえば、「労働しない女性を年金制度で優遇し、労働する女性には年金制度で冷遇する」という制度だ。(つまり、専業主婦は未納でも年金をもらえるが、有職主婦はいくら年金を払っても年金は専業主婦と同様。つまり、納付した金のほとんどが没収されるのと同様。)
 これはつまり、「女性の就業率を下げる」という制度である。そのことで、年金制度の財源を減らしている。政府は「あえて財源を減らそう」という政策を取っているのだ。
 たとえて言えば、金をどんどん捨てている人が、「どうしたら金を減らさずに済むだろう?」と悩んでいるようなものだ。喜劇ですね。自分で自分の頭を殴るのが、最善の解決策だ。

 [ 補足3 ]
 まったく別の方法もある。「老後は海外で暮らす」という方法だ。これだと、「年金は少なくても、生活費が少ないので、楽に生活できる」というふうになる。(円レートが高いことが条件だが。)
 途上国だと、低い物価水準で済むので、低い生活費で済む。介護されるにも、低い人件費で済む。暖かい国なら、病気にもなりにくい。
 問題は、医療や介護などの社会保険が整備されていないことだ。で、仕方なく、日本で暮らすしかなくなる。だから、この問題を解決するためには、「海外でも日本の社会保障を受けられる」というようにすればよい。……ただし、現状では、その制度はできていない。せいぜい、「退職者ビザ」を許可してくれる国で長期滞在するぐらいしかできない。とはいえ、健康な人ならば、これも一案。
 「今すぐどうしても」と思うのならば、沖縄がお勧めです。物価が安くて、気温も人情も暖かい。平均寿命も長い。
( ※ だけど、聞いた話によると、沖縄では自転車に乗る人がいないそうだ。どこもかも坂道ばかりなんでしょうか? 平地はみんな基地に取られちゃったんでしょうか? 不明。)

( → 5月18日2月19日b2月20日 「シルバーコロンビア」)
( → 5月19日b 沖縄の米軍基地 )


● ニュースと感想  (6月12日)

 「年金問題についての政府・マスコミ」について。
 年金問題についての政府・マスコミの態度を、講評しておく。

 (1) 政府
 論外である。ただの取りつくろい。ま、「応急処置」としての意味ならばあるが。抜本対策の欠如、というのが、根源的な難点。

 (2) 民主党
 政府よりはマシである。「一元化」という方針がある。しかし、これもしょせんは、「帳簿いじり」のようなものだ。国民間の不公平をなくす意味はあるが、肝心の根本問題にはまったく手をつけていない。
 国会では、小手先しのぎの抵抗政党みたいなことをやって、国民のひんしゅくを買った。肝心の「正しい政策を出す」という方針が、まったくできなくなった。菅直人のころより、はるかに悪くなっている。小沢流に「権力争い」みたいなことばかりに熱中しているからだ。
 政党は、議員が権力を取るためにあるのではなくて、国民を幸福にするためにある。この根源を忘れたら、存在価値はなくなる。ただのコップのなかの嵐にすぎない。与野党そろって、国民に見捨てられるだけだ。

 (3) 読売
 かねて、政府の提灯持ちしかしていなかった。ただの政府広報紙。こんなものは、金を払って読む価値はない。「政府広報紙」として、無料にするべきかも。
 とはいえ、ずっとそういう論調が続いていたのに、「少子化の悪化が予想以上」とか、「政府見通しが嘘だとばれた」とか、最近になって新たな事態が判明してきたので、ようやく、政府に対して「何とかせよ」と注文をつけるようになった。最近は、少しはマシになってきているようだ。
( ※ しかし、以前の与党べったりを反省しない点は、相変わらず。コロコロと態度を変えるところは信用できないね。「与党べったり」→「問題が次々と判明」→「ようやく態度を変える」というのが、毎度の慣例。)

 (4) 朝日
 やたらと吠える。与野党にともに噛みつく。その意味で、唯一、存在価値がある。
 ただし、読者にとっては、やはり価値がない。「悪口を読むのが好きな人」には、悪口がいっぱい書いてあるので嬉しいだろうが、建設的な情報がないので、しょせんは役立たずである。やたらと吠えるが、「対案を出せ」と言われたとたんに、口をつぐむ。
 「政府はなんとかせよ」「与野党ともしっかりやれ」とハッパをかけているが(社説で何度もあり )、しかし、自分自身がしっかりしてもらいたいものだ。「政府も与野党も、正しい政策を出していない」とけなしているが、何か、勘違いしているようだ。

 まとめ。
 読売であれ、朝日であれ、社説を見ると、マスコミの責務を果たしていない。せいぜい「政府はなんとかせよ」とハッパをかけるだけだ。まるきり無意味だ。ただの井戸端会議と同じであり、素人のおしゃべりにすぎない。
 では、マスコミの責務とは、何か? それを、次項で示す。( → 次項 。翌日分 )

 [ 付記1 ]
 マスコミ批判として、参考となる記事がある。(ピーター・オコーノという人の指摘。朝日・夕刊・文化面 2004-06-09 )
 イラク戦争だけでなく、かつてのベトナム戦争や日中戦争でも、写真による映像の効果で、世界の世論が動かされた。ただし、そこには、映像ゆえの問題がある。映像は、事実の一面をことさら強烈に示すことで、複雑な世界を単純化し、物事の見方を一面的にする。かくて、思考を単純に歪める。
 たとえば、イラク戦争では、「米国によるイラク人捕虜の虐待」と「アルカイダによる米国民間人捕虜の殺害」の写真があった。前者はアラブにおける反米感情をやたらと掻き立て、後者は米国における反アラブ感情をやたらと掻き立てた。どちらの側も自分好みの写真だけを偏愛して、他方を無視した。
 ここでは、マスコミの報道に対する批判がある。引用すれば、こうだ。「メディアの流す映像は、われわれに知識を与えるのではなく、奇妙な形で幻想を強化し、真実から目をそむけるように仕向けている」
 情報があふれればあふれるほど、真実から遠ざかる、という逆説が成立する。そして、ここでは、私が常に述べているマスコミ批判と同じ立場がある。注目しよう。

 [ 付記2 ]
 話を続けよう。実は、マスコミに問題があるということは、われわれ自身にも反省を促す。
 マスコミに問題があるとしても、「マスコミが悪い」と述べるだけでは足りない。むしろ、「マスコミは必ずしも正しくない」とわれわれが自覚するべきなのだ。問題は、マスコミ自身にあるというよりは、マスコミを盲目的に信じるわれわれの目にある、とも言える。
 だから私はしばしば、「マスコミを信じるな」と述べる。そうだ。マスコミをいくら批判しても、マスコミは決して正常化しないだろう。政治家も企業も汚れているのだから、マスコミだって同様に汚れている。マスコミだけが清く正しくあるはずがない。だから、マスコミを盲目的に信じてはならない、ということが大事なのだ。われわれ自身の自覚こそ大切なのだ。
( ※ 話は飛ぶが、これは「ネット中毒になるな」という反省とも似ている。「マスコミの情報は常に正しい」と信じることに問題があるように、「ネットに入り浸っているのは正しい」と信じることにも問題がある。マスコミに無批判であってはならないように、ネットに入りびたっている自分自身に無批判であってもならない。……いずれにせよ、反省すべきは、われわれ自身の態度だ。マスコミやネットが汚れているのであれば、これらを「汚れている」と非難するよりは、「この汚れに染まるな」と自覚することが大事だ。そして、そのためには、常に自己反省することが必要だ。「おれは正しい」と信じている無反省な態度だと、ネットに汚染されても気づかないし、マスコミに洗脳されても気づかない。あげく、他人に対してひどく攻撃的になり、そういう自分自身を異常性に気づかなくなる。……というわけで、私はしばしば、マスコミやネットの危険性を指摘しているわけだ。)

  【 追記 】 (2004-06-15)
 マスコミの映像が、新事実の報道だというよりは、真実を歪めている、ということの例。(飛行機事故の報道。)
 ダグラスDC10 という飛行機がある。離陸中にエンジンが主翼から脱落する、という事故があった。その映像がたまたま撮影され、テレビに流れた。DC10 は危険だというイメージが広がった。
 しかし実は、DC10 は設計上の欠陥があったわけではなかった。事故は、航空会社の整備ミスと、操縦士の操縦ミスが、たまたま重なったことが理由だった。しかるに、マスコミの映像のせいで、客は「飛行機に欠陥がある」と誤認して、 DC10 に乗ろうとしなくなった。飛行機会社は DC10 の発注をしなくなり、以後、DC10 は一機も売れなくなった。かくて名機と呼ばれた DC10 は抹消される運命となった。(マイケル・クライトン「エアフレーム」ハヤカワ文庫。288頁&巻末解説。)
( ※ たとえて言うと、トラックの過積載による事故を、「メーカーの製造欠陥だ」とマスコミが勝手に決めつけて、そのデタラメ報道のせいで、該当トラックが一台も売れなくなる、というようなもの。もっと極端に言えば、酔っぱらい運転による事故を「メーカーの責任だ」と報道するようなもの。すべての理由は「悲惨な映像で視聴率が取れるから」だ。)
( ※ 上記の文庫本は、航空機問題の話のようであるが、実はマスコミ報道の問題が主眼である。解説に書いてあるとおり。ここで批判されているマスコミの姿勢は、まるで朝日のことのようだ。)


● ニュースと感想  (6月13日)

 前項の続き。「マスコミの責務」について。
マスコミの責務とは、何か? それを、はっきりと指摘しておく。

 年金問題や少子化などで、自民党や民主党は、まともな政策を出せずにいる。景気対策でも、同様だ。これを見て、マスコミの一部は、鬼の首でも取ったかのようにはしゃいで、「与野党ともちゃんとした政策を立案せよ」などと主張する。しかし、これは、勘違いだ。注文すべき相手を間違えている。その相手は、与野党という政党(あるいは、政府)ではなくて、マスコミだ。つまり、文句を言っている自分自身だ。

 そもそも、政党は、政策を立案するところではない。政策を選択するところだ。あらかじめ専門家などが、多くの政策を提出して、評価のために差し出す。それらの案のなかから、政党が最適のものを選択する。(最終的な決定は国会がなす。国会の前に、各政党が自党の案を、国民に示す。)
 政党は、政策を選択する。ここでは、「評価する能力」だけがあればいいのであって、「立案する能力」は不要なのだ。たとえば、経済であれば、経済学者としての専門知識は議員には必要はなく、経済学者の出した政策を評価する能力さえあればよい。
 その後、政府の官僚は、政党の決定した政策に従って、立法化に必要な細部を詰める。ここでも、官僚は、政策を出す能力は不要だ。(やたらと官僚任せにするのは、国民不在になるから、好ましくない。)
 では、最初に政策を出すのは、誰がやるべきか? 審議会が活用されているが、少数の審議会の委員が決定するのは、密室政治であり、好ましくない。(例:経済財政諮問会議)
 最初に政策を出すべきは、マスコミである。正確に言えば、専門家など(の知識人)が案を出して、それをマスコミが紹介する。つまり、情報提供する。ここでは、マスコミが、専門家などの意見を取捨選択して、主な意見を取って、国民全体の前に選択肢として提供する。
 たとえば、年金であれば、「一元化」のほかに、「貯蓄」型があることを、はっきりと示す。また、各国の状況なども、明確にする。一度だけ報道しっぱなしではなくて、ときどき、さまざまな意見の整理をして、論点を明らかにする。……こういうふうに「情報提供」をすることが、マスコミの役割だ。
 これは、初歩的な情報(概要)だけでよい。その後、詳しいことは、「専門家に聞けばわかる」というふうにしておけばよい。(どの専門家が知っているかも示しておく。) とにかく、大事なのは、詳しい情報を提供することではなくて、多様な情報を提供することだ。できれば、さまざまな案(主張)を、一覧の形で整理して提供すれば、なお良い。……とにかく、そういう「情報提供」ということこそ、マスコミの責務である。
 しかるに、マスコミは、その責務を果たしていない。以上のうち、政党・官僚・専門家・国民・マスコミなどのうち、一番サボっているのは、マスコミだ。今のマスコミは、ほとんど井戸端のおしゃべりと同様だ。マスコミが情報提供をサボっていることが、最大の問題だ。罪はマスコミにある。

 [ 付記1 ]
 「誰が政策を出すべきか?」という点では、世間にひどく誤解がある。次のように。
 馬鹿げた話だ。
 第1に、国会議員なんて、知能レベルからして、[少数の例外はあるにせよ]知識人のなかでは最低レベルである。先日も「アメリカの大学を卒業したのは嘘でした」というのがばれた国会議員がいるし、小泉だって海外留学をしてまともに単位を取れなかった落ちこぼれだ。……こんな連中に立法を任せたら、とんでもないことになる。(彼らは、他人の聞いた意見を解釈することはできるが、自ら政策を創案する能力はない。彼らは政治の専門家ではあるが、社会に関する多様な分野をすべて知っている超人であるわけではない。)
 第2に、政策秘書なんかに任せるのは、もっとひどい。知識人ですらない二級の人間に国の方針を任せるなんて、言語道断だ。
 第3に、官僚は、このなかでは比較的マシである。公務員試験で選抜された最優秀のエリートがそろっている。しかし、彼らは優秀ではあるが、彼らの目的は「官僚組織の維持」それ自体だ。「国民の幸福」ではない。そして、その見当違いの弊害が、これまで続出してきた。
 では、誰が政策を出すべきか? もちろん、国中の知識人だ。「衆知を集める」という形で、頭のいい人たちがそろって建設的な案を出す。そのさまざまな案のなかから、最適の案を選べばよい。……ただし、そのためにはまず、適切な情報整理が必要だ。そこで、マスコミの必要性が生じる。マスコミはまさしくそのために存在するのだ。
 このことを、本項では述べてきた。

 [ 付記2 ]
 マスコミはどうするべきか? 特に具体的に、記事をどう書くべきかについて、方針の立て方を示しておこう。
 今の記事は、「記者クラブにおける政府や与野党の発表を書く」というだけのことが多い。しかし、これでは、情報が偏りすぎる。マスコミというものは、特定の政治関係者(権力者)の意見だけを伝えるのでは駄目なのだ。
 では、他のどこから情報を得るか? 通常は、「識者のご意見を伺う」という形で、特定の識者に質問をする。しかし、これでは、意見を求めるのではなくて、別の人を求めているだけだ。何を求めるかを勘違いしている。本末転倒だ。
 求めるべきは、多様な意見である。多様な意見を得るには、行き当たりばったりで識者を見つけるのではなくて、世の中にある多様な意見を広範に探して、最適のものを見つけ出すべきだ。
 もちろん、最適のものが一つだけあるとは限らない。候補がいくつもあるだろう。ならば、その候補のうち、有力なものをいくつか、ピックアップすればよい。そのピックアップの能力が、そのマスコミ会社の能力(情報伝達能力・情報整理能力・情報提供能力)となる。
 今はインターネットがあるのだから、さまざまな意見をいろいろと検索することもできる。なのに、今のマスコミは、それがまったくできていない。
 たとえば、「年金」問題では、政府と民主党の案を提示するだけで、他の案をほとんど提示できていない。「原則として貯蓄」というタイプは、外国では多く見られるし、外国の例としては紹介されるが、意見としては紹介されない。(「半分ぐらいは貯蓄」という、生ぬるい案ならば、たまに紹介されることはある。)
 また、景気回復策では、「構造改革」と「量的緩和」と「不良債権処理」と「公共事業」ばかりが紹介され、「減税」という案はまったく紹介されない。米国では「減税で景気回復」という見事な実例があるのに、それを評価することもないし、それを意見として提示することもない。
 今のマスコミは、情報伝達が、まるきりできていない。政策の候補を、選択肢として、まともに提供できていない。というか、あえて意図的に、(与野党の)権力者のお好みの情報ばかりを提供している。政治家の犬のような存在になっている。
 例の「自己責任論」でもそうだ。「人質の態度は、正しいかどうか」なんていう、見当違いのことばかりを問題視して、「意見を批判するのではなく、意見を出した個人を個人攻撃することで、言論の自由を否定してしまっている」という肝心の点を見失ってしまっている。物事の核心を逸らして、表面的な騒ぎばかりを報道している。
 今のマスコミは、ただのイエロージャーナリズムなのだ。真実の報道をめざしているのではなくて、売れる情報だけを報道しているのだ。そのせいで、肝心の真実が、すべて取りこぼされてしまっている。
 今や、日本には、真のマスコミが存在しない。そこに、今の日本の、根源的な問題がある。
( ※ 特にひどいのは、朝日の景気記事である。「景気は回復基調にあるか? 持続するか?」なんていう記事ばかりを、やたらと乗せる。「今の景気回復は、外需主導であるがゆえに、一時的なものに過ぎず、このままだと景気の悪化はほぼ不可避である」という点を、あえて無視する。浮かれてばかりいて、危険を座視しようとする。……朝日は、たとえて言えば、お気楽なタイタニックの観測士だ。霧のなかで、事実をちゃんと見ずに、楽観的な情報ばかりを出す。しかしタイタニックは氷山にぶつかる直前だ。)
( ※ 朝日では、各産業の記事もひどい。専門知識があればやるはずのない勘違いによる記事がしばしば出る。たとえば先日も、「トヨタの収益性アップは車台の共通化をしたから」なんて記事を出した。……どこが間違っているかも、書いた本人にはわからないのだろうが。とにかく朝日の経済記事は、専門知識の欠落が甚だしい。逆に言えば、マスコミの責務を考えるとき、第一条に、「日頃から専門知識を仕入れておくべし。情報整理をする能力を蓄えておくべし」というのが来るはずだ。)

( ※ マスコミ批判については、前項も参照。)


● ニュースと感想  (6月14日)

 「人名漢字の拡張」について。
 人名漢字を拡張する、という政府の方針が出された。法制審議会の人名用漢字部会が担当。人名漢字を現行の 2231字に加えて 578字増やす。法務省のサイトで、文字を公表し、また、文字選抜の意見を求めている。9月の法制審総会で正式決定する予定。(漢字一覧は、読売・夕刊 2004-06-11 ,朝日・朝刊 2004-06-12 )
 この件については、私は前にも言及したことがある。「人名漢字になったならば、国民全体が書けるようになる必要があるのだ。たとえば、病院では、患者の名前にこのような文字が氾濫するわけだから、書き違えなどがあったら、人命が失われる恐れがある」と。 ( → 3月17日b

 ひるがえって、現状はどうか? 最近の若者の国語力の低下はひどい。特に、肝心の書き取りは、惨憺たるありさまだ。電子機器の普及により、自分で書くことが少なくなったから、漢字の書き取りの能力は急激に下がってきている。(これも情報化時代の弊害。)
 とにかく、現代の若者は、中学で必修となる常用漢字さえもまともに書けない。国立大を受験する学生ならば、常用漢字の 1945字のうち、すべてを読み書きできて当然だが、現実には、書き取りでは7割程度しか書けないようだ。ちなみに、あなたはどうですか? 
 テスト。常用漢字の適当な場所を3箇所示す。これをパッと見てから、書いてみてください。
  「 衡 講 貢 購 酵 鉱 鋼 」
  「 墾 婚 恨 懇 昆 紺 魂 」
  「 班 畔 繁 般 藩 煩 頒 」

 どうです? 全部、ちゃんと書けますか? 中学三年生までに全部習っているはずだし、高校生以上なら、正答率百パーセントで当然なんですけどね。(イヤミかな? でも私のページの読者は、学歴が異様に高いようだ。)
 さて。今回の列挙された文字を見たが、1割も書けない人が、ほとんどだろう。そもそも、高校ですら習っていない文字がほとんどだ。当然、書けば、誤字が氾濫するはずだ。しかも、通常の誤変換とは違って、読む人も書く人も、自分の間違いに気づかないだろう。(例。「凛」さんと「凜」さんの取り違え。) 当然、「誤字による医療ミス」は、どんどん生じるだろう。あなたもそれで死ぬかもしれない。(患者の取り違えによる投薬ミスなど。)
 
 結語。
 人名漢字など、拡張するメリットはほとんどないし、一方で、デメリットは多大にある。どうせならば、人名漢字よりは、一般のマスコミなどの使用に使うための「準・常用漢字」として制定した方がマシだ。そのためには「読める」ことだけが必須だ。
 一方で、人名漢字は「書ける文字」である必要がある。これは、現在の常用漢字とほぼ同程度であってもいい、と思う。
 私だったら、現在の人名漢字さえも全部廃止して、人名用には「常用漢字」だけにする。一方で、「準・常用漢字」という規格で、今回の 578字などを定める。これを、「読める文字」として、高校で必修とする。読める文字は書ける文字よりも多くて当然だ。(ただし政府の方針は正反対だ。正確に書ける必要のある人名漢字ばかりをやたらと増やす。本末転倒。)
 つまり、私の主張は、「人名という限られた局面で使える文字」よりも、「世間一般でおおっぴらに使える文字」を増やすことだ。たとえば、新聞では、「誰」という文字が使えず、「だれ」とひらがなで書いたり、「子供」を「子ども」と交ぜ書きで書いたりで、漢字制限がひどすぎる。こっちを何とかする方が、ずっと急務だ。
( ※ 一方で、気まぐれな親の趣味に合わせて、意味もわからぬまま音だけで決めるような漢字利用など、私個人としては、あまり認めたくない。そんな方針がまかり通ったら、やがては諸橋大漢和の珍しい文字が意味に関係なくどんどん使われるようになってしまいかねない。漢字の破壊。)

 [ 付記 ]
 「人名漢字を増やそう」というのは、自由だとしても、個人の自由ではない。それは「自分の人生を決める自由」ではない。子供の名前を親が勝手に遊んで決める自由だから、「他人の人生をオモチャにする自由」だ。そんな権利など、拡大する必要はない。いま話題になっているのは、「親がいかに命名ごっこして遊べるか」ということだけであり、難読ないし不快な漢字で命名された子供の迷惑についてはほとんど考慮されない。法制審の委員も「変な文字を使うかどうかは親任せ」と主張している。これでは幼児虐待を公認するのと同然だ。子供の気持ちは最初から無視している。
( ※ 親の命名権については、次のページを参照。 → 文字講堂・人名漢字
( ※ ついでだが、西洋では、名前は Robert など、限られた標準的なものだけが使われる。勝手に風変わりな名前を付けることは、あまりやらない。なぜそうなのかを、よく考えた方がいいだろう。)

 [ 余談 ]
 私は本項ではあえて、「自由を制限せよ」と主張している。なぜか? 「自由こそ大事だ」という立場は、アメリカを見ればわかるように、ただのエゴイズムにすぎないからだ。自分の自由をあえて抑制してでも、他人の自由を大切にすることが必要になることもある。しかしわがままな大人は、「権利」ばかりを主張して、「優しさ」や「思いやり」というものがまるきり欠けている。……私が「自由を制限せよ」と主張するのは、「自由」よりも「愛」の方がずっと大切だからだ。
 なお、この人名漢字の件は、先の人質事件と対比すると、いっそう不自然さがわかる。あのとき、世間の人々は、人質の人生の自由について、やたらと干渉した。人質は自分の人生を危険にさらしただけであり、他人の権利を侵害したわけでもないのに、日本中から嵐のような非難を浴びた。人質は、他人に悪いことをしたわけではなく、愛のために自己犠牲をしただけなのに、非難を浴びた。
 ところが、本項の件では、(子供という)他人の人生を危険にさらすような干渉が、おおっぴらに推進される。悪いことをしても、非難を浴びない。むしろ、推奨される。
 世間の人々は、「自分の人生を自由に決定する権利」を認めず、「他人の人生を自由に決定する権利」を認める。話が逆だ。

( ※ 本件について、読者が何か意見をもてば、上記の意見募集係に連絡するといいだろう。)

  【 追記 】 (2004-06-15)
 578字を見たが、おかしな点に気づいた。「丼」という字がない。単純に頻度順であれば、この字があるはずなのだが。(まさか、「牛丼」がなくなったから、「丼」の字がなくなったわけではあるまいが。)
 かくて、「頻度順で選んだ」と主張している法制審の解説は、眉唾である。何らかの偏向が働いているようだ。このままでは、一般用の「準・常用漢字」にはならない。
( ※ なお、「丼」は、いわゆる国字ではなく、れっきとした漢字である。ただし「どんぶり」の字義は、日本独自だ。漢字の「丼」は「井」と由来が同じ。)
( ※ 念のために言うと、「丼」は、既存の人名漢字にも常用漢字にも含まれない。)
( ※ 余談だが、漢字一覧の記事を、読売と朝日で比べると、朝日の方は文字が不鮮明である。これは、普通の新聞用の文字を使わずに、写真製版したせいだろう。なぜか? 実は、朝日には、文字がないのだ。「朝日文字」という略字はあるが、国語審議会が求める「正字」はない。だから、印刷したくても、紙面では印刷できない。必要な漢字をまともに印刷できないわけだ。かくも哀れなのが朝日珍文社だ。もはや新聞社ではないね。「犬でも200語は理解できる」という先日の記事があったから、朝日は犬と同類なのかも。だからやたらと吠えるのかな?)

  【 追記 】 (2004-06-27)
 「丼」という漢字がないことの根拠が判明した。簡単に言えば、私の想像通り、出現頻度の調査があまりにも偏向していたのだ。
 このことは、読売新聞の記事に詳しい。記事によれば、次の通り。(朝刊・社会面コラム「日本語の現場」特別編 2004-06-24 )
 今回の頻度調査とは、2000年3月の「漢字出現頻度数調査」(文化庁国語課)のことだ。ここでは、385の事典・単行本・月刊誌が調査対象となっている。その385冊は何かと言えば、各種の専門用語辞典とか、専門書とか、小説とか、古典とかだ。辞典類が多いせいか、医学用語がけっこうある。そのせいで、今回の人名漢字の案には、人名にふさわしいというよりは医学用語にふさわしい漢字が多い。たとえば、「尻・腿・肋・咽・喉・腺・癌・膿・痔・淋・腫」など。
 つまり、これらの漢字は、日常語によく使われるというよりは、たまたま今回の調査では重視されただけにすぎない。だから、「丼」という日常語でよく使われるものが欠けている、なんてことにもなるわけだ。
 なお、記事によると、今回の人名漢字は、必ずしも頻度順ではないようだ。仮に頻度順であれば、常用漢字(頻度の低いものを含む)が約2000字であることから、今回の578字は、頻度順で上位2200字ぐらいのうちに収まっていていいはずなのだ。しかるに、「苺」という字は3530番目の頻度である。こんなに順位が低いのだから、頻度順ならば本来は選ばれないはずだ。要するに、頻度順なんてのは、相当に眉唾である。(なぜ選ばれたか? テレビでは女性タレントが「苺という字を使いたいと運動していた」なんて言っていたから、その影響があるのかも。かもね。)
( ※ 対案を示しておこう。どうせ頻度順にするのならば、資料として、「印刷会社における文字の利用頻度調査」というのがある。だから、こちらを使う方がずっと妥当である。 → 文字講堂のページ の (A) の箇所。)
 
 ついでだが、朝日新聞に、白川静の批判的な主張が掲載されていた。
 「常用漢字は国語審議会が決めて内閣告示とするのに、人名漢字は法務省が勝手に決めて省令で通達するだけなんてのは、いい加減すぎる。一国の国語政策を法務省あたりの役人が勝手に決めるべきではない。」
 という趣旨の批判。(朝日・朝刊・オピニオン面 2004-06-26 )
 彼は、人名漢字について、国語的なことを無視して、単に音だけで決めることも、問題視している。その点、私の意見にかなり似ている。参考にするといいだろう。


● ニュースと感想  (6月14日b)

 「愛と自己犠牲」について。
 愛とエゴイズムの対比について、前項で述べた。これに関連して、たまたま思い出した言葉があるので、引用する。古代のヤマトタケルという皇子の話。
 皇子は、……遠隔の反乱の地に赴いては、これを平定して凱旋するのですが、……これが最後となる遠征に出かけます。途中、海が荒れ、皇子の船は航路を閉ざされます。この時、付き添っていた后、弟橘 比売 命(おとたちばな ひめのみこと)は、自分が海に入り海神のいかりを鎮めるので、皇子はその使命を遂行し覆奏してほしい、と云い入水し、皇子の船を目的地に向かわせます。この時、弟橘は、美しい別れの歌を歌います。
 悲しい「いけにえ」の物語は、それまでも幾つかは知っていました。しかし、この物語の犠牲は、少し違っていました。弟橘の言動には、何と表現したらよいか、……任務を分かち合うような、どこか意志的なものが感じられ、……あまりにも美しいものに思われました。「いけにえ」という酷(むご)い運命を、進んで自らに受け入れながら、恐らくはこれまでの人生で、最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出を歌っていることに、感銘という以上に、強い衝撃を受けました。はっきりとした言葉にならないまでも、愛と犠牲という二つのものが、私の中で最も近いものとして、むしろ一つのものとして感じられた、不思議な経験であったと思います。
 原文は、「皇后陛下の講演」から。上記の「……」は、引用で中略した部分。
 なお、政治的に利用するつもりはないので、コメントはしない。何かを察する感性を、私と分かちあってくれればいい、と思うだけだ。







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