[付録] ニュースと感想 (65)

[ 2004.4.13 〜 2004.4.23 ]   

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● ニュースと感想  (4月13日)

 「欧州の通貨統合」について。
 欧州では、いわゆる「空洞化」の現象が出ている。高賃金のドイツの工場が閉鎖され、ポーランドなどに移転する。理由は、「人件費が1割程度と、大幅に安いから」である。これは「日本の工場がアジアや中国に移転する」というのと同様である。「空洞化」だ。
 また、中間的な東独も、困ったことになっているようだ。以前は旧西独部から旧東独部へという移転があったが、今ではポーランドの方が人件費はずっと安いから、工場は旧東独部を通り越して、ポーランドなどへ行ってしまう。旧東独部は、空洞化どころか、「全部空っぽ」という状況だ。将来はお先真っ暗。かといって、人件費を下げると、「生活できなくなる」と訴える。

 では、この問題を、どう解決するべきか? 
 いきなり結論を言えば、解決策はない。現状は、なるべくようになっているのであり、市場原理の働くとおりになっているだけのことだ。これを阻止しようとしても無理だし、政府が介入しようとしても無理だ。
 しかし、である。そもそも、経済学の基本原理としての「自由経済で最適化」という概念に従えば、このように経済が歪むはずはないはずだ。では、なぜ、こういう歪みが発生するのか?
 それは、政府が何らかの介入をしたからではなくて、基盤そのものが根本的に狂っているからだ。それは、「通貨統合」である。

 仮に、「通貨統合」がなされていなければ、どうなるか?
 すると、ドイツ通貨とポーランド通貨は、別立てとなる。ここで、ドイツからポーランドへ工場が移転したとする。すると、ドイツでは雇用が減り、ポーランドでは雇用が増える。ここまでは現状と同様だ。しかし、その後が異なる。ポーランドで工場が稼働すれば、ポーランドからドイツへの輸出が増えるし、ドイツからポーランドへの輸出は減る。貿易が不均衡になる。そのせいで、ドイツの通貨は下がり、ポーランドの通貨は上がる。結果的に、ドイツの人件費は低下し、ポーランドの人件費は上がる。すると、移転した工場以外の分野では、ポーランドは、高くなった所得で、ドイツの安くなった商品を、購買できる。だから、移転した工場以外の分野では、ドイツからポーランドへの輸出が増える。かくて、両者は、ぴったりと均衡する。(通貨レートの変動を通じて、貿易収支が均衡するから。)
 たとえば、ドイツからポーランドへ自動車部品工場が移転すれば、自動車部品の分野では、ドイツは雇用が減り、ポーランドは雇用が増える。しかし、それ以外の分野では、(通貨レートの変動を通じて)ドイツの雇用が増え、ポーランドは雇用が減る。……ただし、雇用の増減は、ぴったりとは相殺されない。全体としての経済規模が拡大することで、全体としての雇用量が増える。つまり、貿易収支はぴったりと均衡するが、雇用やGDPは全体としてプラスとなる。わかりやすく言えば、瞬間的にはドイツの雇用やGDPは縮小するが、中期的には回復する。ポーランドの方は、一貫して雇用やGDPが増加する。(参考として、日本と中国の関係を見るといい。日本の軽工業などは空洞化が進んだが、ハイテク製品などでは対中輸出が大幅に増加した。)
 これが、「通貨統合」のない場合であり、本来の自由経済のあり方だ。

 ところが、「通貨統合」があると、このようなことが不可能となる。通貨レートが固定されているのと同じだから、通貨レートの変動による自動調整が不可能となる。かくて、ドイツでは「高賃金のもとで雇用低下」が発生し、ポーランドでは「低賃金のもとで雇用増大」が発生する。ドイツ人は雇用低下に悩み、ポーランド人は本来よりも低い所得に悩む。(ポーランドの経済学者は喜ぶが、ポーランドの一般国民は苦しむ。)

 では、正しくは、どうするべきか? 
 この件は、前にも述べたことがある。つまり、「通貨統合をしない」か、あるいは、「通貨統合をするとしても、国民所得が同じレベルの国同士でのみ行なう」か、そのどちらかだ。とにかく、「国民所得がひどく異なる国同士では通貨統合をしない」ことが大切だ。
 結局、欧州の「通貨統合」というのは、経済学を無視した、素人の理想主義にすぎないのだ。現実を無視した夢想に従うから、現実が歪んでしまうのである。
( → 4月30日c

  【 追記 】 ( 2004-08-18 )
 実は、ポーランドは、通貨統合には入っていない。(ドイツの通貨はユーロだが、ポーランドの通貨はズウォティ。……この件、読者からのご指摘を受けた。)
 というわけで、上述の記述は、不正確であった。その旨、お断りしておく。そこで、解説を加えると。……
 第1に、話の論旨全体は、間違っていない。例としてポーランドを取り上げたのがまずかっただけだ。
 第2に、ポーランドではそういうふうになるというのは、単にポーランドの通貨が弱い(換言すれば人件費が低い)からである。通貨制度はあまり関係ない。
 第3に、本項の意義は何かというと、「統一通貨だと、経済成長に応じた柔軟な調整ができない。固定通貨制度で固定レートになったのと同じだ」ということだ。……この点では、ドイツはまずいが、ポーランドは現状でも特に問題はないのかもしれない。もしかしたら、本当は問題があるのだとしても、現実との乖離が実際に問題となって噴出するには、かなり時間がかかる。たとえば中国通貨は安すぎるのだが、中国ではまだインフレはあまり発生していない。日本も過去に、過度な円安だったこともあるが、すぐに問題が噴出したわけではなかった。
 ともあれ、まとめていえば、こうだ。本論の話は、原理的には正しいのだが、現実の例を取ると、細かな事情もいろいろとあるので、原理的な話のとおりにはならない点もある、ということ。ま、「現実は理論通りにはならない」というのは、よくある例。……だけど、長い目で見れば、細かな影響は捨てられるから、だいたい理論の通りになるものだ。
 そういえば、私が悪口を言っている古典派の意見だって、長期的に見れば正しい。だけどケインズの言うとおり、「長期的はわれわれはみんな死んでいる」から、古典派の意見はたいてい役立たずですけどね。
 で、私の意見もたいてい役立たず? ぎょっ。  (^^);


● ニュースと感想  (4月14日)

 「国歌・国旗の問題」について。
 この件については、先日も述べた。( → 4月01日
 その後、朝日新聞に、特集が出た。(朝日・朝刊・オピニオン面,社説 2004-04-13 )
 そこで、少しコメントを追加しておく。
 賛否は2:1ぐらいの割合だが、賛成論はビジネスの場にいる人に多いらしい。「教育はすべて強制だ」「公務員は上の命令に従うべきだ」などという論拠である。
 こういう賛成論は、これはこれで、かなり納得できる。「もっともだ」とも思う。ただし、そこには、根本的な錯誤があるので、指摘しておこう。
 彼ら賛成論の主張は、「公務員の各人は、強制に従うべきだ」ということだ。そして、それは、ごく当然なのである。上が強制したならば、「各人は徹底的に抵抗するべきだ」などとは言えない。誰もが、わが身がかわいいのであり、「処分を覚悟して抵抗するべきだ」などと無理強いすることはできない。そういう抵抗ができるのは、イラクに出向いたNGOの人のように、「自己を犠牲にしてでも」という崇高な意思を持った人々だけである。一般の人々は、あくまで自分がかわいいのであるから、「強制に従う」のは、きわめて当然だ。「宮仕え」の苦しみは、私にもわかる。
 しかし、問題は、「強制に従うか否か」ではないのだ。「強制をなすか否か」なのだ。
 ビジネスの場の人に向けて、わかりやすく言おう。今、あなたの会社で社長が交代して、イスラム教の社長に変わったとしよう。そこで従業員に対して、「イスラム教に改宗せよ。さもなくばクビだ」と宣言して、毎日、床に頭をなすりつけて、「アラーは偉大なり」と祈ることを強制したとしよう。
 ここで、「強制に従うか否か」を問われれば、不況のさなかでクビになるわけには行かないから、「強制に従うべきだ」という結論が出る。しかし、「強制をするべきか否か」と問われれば、「強制をするべきでない」というふうになるだろう。
 しかも、である。ここが肝心なのだが、「強制をするべきか否か」を決める権限が、従業員にあるのだ。なぜなら、株主は、従業員全体だからである。そういうふうに考えられる。なぜか? 国や都を会社に見たてれば、その株主にあたるのは、投票権のある一般市民だからである。
 あなたが従業員であり株主である。その会社で、「イスラムを強制するか否か」という議案が出された。あるいは、「金正日賛美を強制するか否か」という議案が出された。そのとき、あなたは株主として、この強制案に賛成するか? そのことが問われているのだ。(従業員として従うかを問われているのではない。)
 繰り返す。問われているのは、各人にとって「強制に従うか否か」ではない。各人にむけて「強制をなすか否か」である。そして、「強制されることが素晴らしい」と思うのであれば、猿回しの猿のように、右向きに回ったり、左向きに回ったり、命令されて踊っていればいい。

 [ 付記1 ]
 ここでは、「強制をするべきか否か」と、「強制に従うか否か」とを、区別している。この点に、注意。
 逆に、この点を混同して、論点をすり替えているのが、読売などの保守派だ。彼らは、「公務員が上意に従うのは当然だ」などと主張している。(上から)「強制をするべきか否か」ということを話題にしているときに、(下では)「強制に従うか否か」を論じている。論点のすり替えだ。
 なお、これは、意図的にやっているのならば、ひどくずる賢いが、本当は、論理力が欠如しているせいで、自分でも知らぬまに論理がねじれてしまったのだろう。本人はまっすぐ歩いているつもりでも、いつのまにか脇道へずれてしまっているのだ。頭の悪い人間というのは、そういうものだ。

 [ 付記2 ]
 形式的には論理の問題だが、本質的にはどこが問題なのか? 
 実は、ここで問われているのは、民主主義なのである。「一人一人が考えて政治を決める」という民主的な態度を取るか、「お上の決めた命令に従う」という独裁的な態度を取るか。
 ただし、私としては、「民主主義は独裁主義よりも正しい」と主張するつもりはない。これは、正しいか否かの問題ではなくて、人生観の問題である。他人に命令されるのを当然と思う人々は、自分の頭で考えて生きることのできない人々である。そういう人々を、非難するつもりはない。(「オズの魔法使い」ふうに言えば、彼らの頭に詰まっているのは、脳味噌ではなくて、ワラくずなのである。そういうカラっぽな人々を非難するつもりはない。哀れむだけだ。)
 しかし、逆に、独裁的な発想を持つ人々にとっては、自分の頭で考える人々が許しがたいのである。だからこそ、東京都知事や読売社長は、民主的な発想をする人々を弾圧しようとするわけだ。彼らにとって大切なのは、頭にワラくずの詰まった人々だけなのである。

 [ 付記3 ]
 「国旗・国歌に限らず、あらゆる教育は強制だ。国語も、算数も、道徳も」
 という主張もある。本気で言っているんですかね? ひどい錯乱だ。
 仮に、それが正しいとしたら、この人は、「金日成を賛美せよ」と言われたら、喜んでその強制に従うのだろう。呆れた話。
 たとえば、教師は生徒に向けて、「教室掃除をやりなさい。やらなかったら、廊下に立たせます」という強制をなすことはある。しかし、だからといって、「教室掃除をさぼったら、その人は学校から追放」なんてことはありえない。もちろん、生徒に対して罰金十万円を課することもない。
 しかるに、東京都がやっているのは、そういうことなのだ。この強制に従わなかった教師を次々と解雇したり、減給したりしているのである。
 私としては、「指示に従わなかった教師に、校長が独自の判断で訓戒を与える」ぐらいのことは、あって構わないと思う。好ましくはないが、そういう保守派の校長がいても、仕方ない。しかし、東京都のやっていることは、そういう程度を越えて、ほとんど北朝鮮やナチスの秘密警察だ。「独裁者の指示に従わないやつを漏らさずチェックして、直ちに処刑する」という暗黒体制である。
 そして、こういう暗黒体制を歓迎するのが、読売などの保守派だ。世間を、読売新聞の社内体制そっくりにしようとしている。


● ニュースと感想  (4月14日b)

 「日本語教育と国歌・国旗」について。
 文藝春秋(発売中)に、丸谷才一が面白い日本語論を書いている。一読をお勧めする。日本語の活字文化の成立過程など。あれこれ。
 最後に、「国歌・国旗の問題なんかで騒ぐより、まともな日本語教育をしろ」と一喝している。
 なるほど。そうですね。国歌・国旗の問題なんかで騒いでいるから、肝心の教育が疎かになる。というより、肝心の教育よりも、国歌・国旗の問題の方が大切なのだ。保守派にとっては。……「国は滅びてもいいから、国歌・国旗が大事だ」というわけだ。昔からそうでしたね。
 
 [ 付記 ]
 今の日本語がおかしい例。
 (1) 復興
 イラクでは「復興」のために米軍や自衛隊が働いているという。で、実際には、何をしているか? 土木機械で建築しているのか? いや、逆に、空爆や銃撃で、あちこちの建物を破壊したり、民間人を殺したりしている。こういうのは、むしろ、「破壊」と呼ぶべきだろう。
( ※ さもなくば、そのうち、小泉が「日本復興」の名の下で、日本を破壊しかねない。……というか、もうやっていますね。「構造改革」というのがそう。たしかに復興[?]が進みました。)
 (2) テロ
 本来の用語では、「戦闘」と「テロ」は区別される。兵士を攻撃するのは「戦闘」であり、民間人を攻撃するのは「テロ」である。しかし、今の報道では、民間人を攻撃するのは「テロ」ではなく「戦闘」であり、兵士を攻撃するのは「戦闘」ではなく「テロ」である。
 例。アメリカ軍がイラク国民を何百人も殺すのは、テロではなくて戦闘である。
   イラクの民兵がアメリカ軍を攻撃するのは、戦闘ではなくてテロである。
 こんなのは、用語が狂っているし、頭が狂っている。頭が錯乱しているのか、洗脳されてしまったのか。(一般に、読売がやるのは「錯乱」で、朝日がやるのが「洗脳」。読売は自分が狂っていて、朝日は読者を狂わせる。)

  【 追記 】
 なんだか面白おかしく書いているようだが、実は、この用語の話には、物事の本質がある。われわれは言葉にだまされているせいで、真実を見失っているのだ。
 「テロリストの要求を呑む形で自衛隊を撤退させれば、テロに報酬を与えることになる」
 というのが、与野党を問わず、一致した意見だ。しかし、ここには勘違いがある。
 イラクでなされているのは、テロではない。そこにあるのは、テロというよりは、戦闘なのだ。
 もっとわかりやすく言おう。「テロリストの要求を呑むと、テロに報酬を与えることになり、テロが続発する」という主張がある。では、テロリストの要求を呑まなければ、「テロ」は続発しないのか? イラクにおける大量の戦いがすべて収束するのか? もちろん、そんなことはない。なぜなら、われわれが「テロ」と呼んでいるものは、テロというよりは、戦闘だからだ。
( ※ 日本でなされる単発的な爆弾行動はテロだが、イラクにおける米軍向けの多大な銃撃活動は戦闘である。)
( ※ なお、民間人の人質を取るのは、正しいことではないが、これはテロというよりは、戦闘中における国際法違反の不法行為である。それは悪いことではあるが、「悪いことはみんなテロだ」ということにはならない。)
( ※ ただし、戦闘中でない日本にまで来て、人質を取って政府を脅迫すれば、それはテロだ。他方、戦闘中のイラクで、何百人も死んでいるなかで、誘拐してから「出て行け」と言っても、それは戦闘中の活動である。だいたい、「三人を誘拐するのは悪だが、数百人を殺すのは善だ」というのは、話がおかしい。)

 こういうふうに、テロと戦闘とは異なる。そして、戦闘の場合には、「テロに屈するな」という主張は、話の方向を狂わせる。たとえば、昔、日本がアメリカに原爆を喰らい、東京大空襲という市民虐殺を喰らった。ここで、「テロに屈するな」という主張を出して、「戦いを継続せよ」なんてことを言いだしたら、日本国民が大量に殺害されただろう。国民の半分以上が死んでいたかもしれないし、国民の全員が死んでしまってしまったかもしれない。
 だから、「テロに屈するな」という主張は、テロに対しては成立するが、戦闘に対しては成立しないのだ。そして、今のイラクでひろくなされているのは、小人数の単発のテロではなくて、非常に多数の戦闘なのである。ここでは、「テロに屈するな」という主張は、まったくの無意味なのだ。それは第二次大戦のときに「戦いを継続せよ」というのと同様で、双方に多大な被害を出す。狂気の沙汰だ。
 要するに、こういう勘違いが、言葉によってもたらされるのである。思考が言葉を歪め、言葉が思考を歪めるのだ。
( ※ ついでに言えば、「テロに屈するな」という主張は、イラクの民兵もまた主張している。「市民を虐殺するテロに屈するな。アメリカと徹底的に抗戦せよ!」と。サドル師などだ。……だから、「テロに屈するな」という主張する人々は、サドル師と同じ発想をしていることになる。かくて、人と人は殺し合う。……そして、これを狂気の沙汰だと信じている人だけが正常であり、これを正常だと信じている人々は狂っているのだ。 → 次項。)


● ニュースと感想  (4月14日c)

 前項 [追記] の続き。「戦争とゲーム理論」について。
 「テロに屈するな」という主張については、ゲーム理論が適用できる。例の「囚人のジレンマ」に似ている。いわゆる「タカ・ハト」ゲームだ。

 今、相手が「タカ」という選択をしている。
 ここで、自分が「ハト」という立場を取ると、「相手だけに大きな利益を与える(自分は小さな損をする)」となる。それはシャクだ。
 そこで、「ハト」という立場を取らない。つまり、「タカ」という立場を取る。すると、双方が、ともに「タカ」となるので、「タカ」と「タカ」の組み合わせになり、双方が大きな損をする。
 ここで、双方がともに「ハト」という立場を取れば、双方がともに小さな利益を得る。だから、それが最善だ。
 ただし、そのためには、どちらかが一方的に「ハト」を取るのではダメであり、双方が同時に「ハト」を取る必要がある。
 結局、賢者と賢者が向かいあえば、双方が協議して、ともに「ハト」を取る。逆に、愚者と愚者が向かいあえば、「自分はタカだが、相手はハトだから、自分がタカを取れば、自分だけすごく得をする」と思い込んで、「タカ」を取る。かくて、双方がともに「タカ」と「タカ」となって、双方が大損をする。
 この愚者とほぼ同じ立場を取るのが、「相手だけに利益を与えるな」(相手がタカなら自分はハトになるな)という立場である。その一例が、「テロに屈するな」という昨今の立場だ。
 結局、「相手がタカなら自分はハトになるな」という理由で、「ハト」を拒むのは、話の論理が狂っているのだ。論理が狂っているせいで、最悪の道を選ぶわけだ。
 なお、イラクで人質が捕らえられたという状況で、多くの人々は、「どうするべきか」で悩んでしまっている。なぜか? 彼らは、「相手が愚者で、自分が賢者であるときには、どうすればいいか?」という問いを出して、正解を見出せないのである。当然だ。こういう場合には、正解はない。正解は、双方がともに賢者である場合にだけ、あるのだ。自分だけが賢者であるケースには、正解はもともと存在しないのである。
 ゲーム理論を理解すれば、現実がこのように簡単に判明する。そしてまた、なすべきことも、判明する。
( ※ このことは、愚者にはわからないだろうが、賢者にはわかる。)
( ※ 双方が賢者となるためには、その前提として、「信頼」の醸成が不可欠である。そのために必要なのは、金を与えることよりは、愛を与えることだ。自衛隊が給水をするのも、その意味でなら、いくらかは効果がある。ただし、人質となった高遠さんのように、孤児に愛を与えることは、給水なんかよりも、はるかに効果がある。あなたも相手の立場になって考えればいい。あなたは乞食のように金を恵んでもらって感謝するか? 通常、相手を乞食扱いしても、たいして感謝はされないのだ。……ついでに言えば、相手をどんどん殺しながら金を与えても、感謝されるどころか、憎まれるだけだ。「信頼」でなく「憎しみ」を醸成する。これが愚者の歩む道である。)
( ※ 余談だが、「南堂はハトだな」と思う人がいたら、とんでもない勘違いである。「常にハト」というのは、タカに食い物にされるだけだ。私は「ハトになれ」と主張しているのではない。「賢者になれ」と主張しているのだ。……ついでに言えば、愚者は「常にタカになれ」と主張し、「臨機応変でハトになる」という道を閉ざし、そのあげく、破滅的な結果に至る。今日のイラクで双方に多大な死者が出るのは、なるべくしてなったことなのだ。「双方が大きな損をこうむる」という現実を理解できないのが、愚者だ。)

 [ 付記1 ]
 「タカ・ハト」ゲームは、進化論の分野で、工学出身のメイナード・スミスが「ESS理論」として研究した。彼はこの功績で、京都賞を受賞した。
( ※ なお、細かな話は、この文書のソースに埋め込んでおいた。興味のある人は、ソースを御覧ください。場所は、この箇所。)

 [ 付記2 ]
 この理論は、「各人が自己の利益をめざして行動すれば、全体が最適化する」という古典派的な主張を否定する例となっている。「エゴイズムが社会を最適化する」ということは、必ずしも成立しないのだ。むしろ、戦争という状況では、双方が自己の利益だけをめざして行動することで、結果的に、最悪の結果となってしまうわけだ。
( ※ 日本経済も、同様だ。日本経済は、各企業が自己の利益だけをめざして行動したせいで、不況の深刻化という最悪の結果となった。企業は自己の利益をめざして労働者を解雇し、消費者は自己の利益をめざして消費を減らした。ここで、逆に、企業が労働者を必要以上に過剰に雇用し、消費者が必要以上に過剰に消費をすれば、不況を脱出できた。ただし、どこかの企業または消費者だけがそのことをやれば、そのことをした者だけが破産をする。あくまで日本中でそろってやることが肝心だ。信頼の醸成。)

  【 追記 】
 上記の「タカ・ハト」ゲームから、イラク問題については、こう言える。肝心なのは、「利益の追求が不利益をもたらす」という構造だ、と。
 保守派は、「国益の追求をせよ」と主張する。で、国益を追求して、狙い通り、国益を得たか? 否。米国であれ、日本であれ、ひたすら利益を追求した結果は、途方もない不利益であった。
 米国は、こうだ。「フセインを追放すれば、イラクは親米国家となり、米国は大きな利益を得る」ともくろんだ。(実際、復興事業で、副大統領の息のかかったハリバートンという企業がこっそりボロ儲けをした。石油油田などでも同様。)……しかし、現実には、イラクは米国の支配を受ける犬とはならず、独立の道を歩んだ。その結果、戦闘が起こり、米国は途方もない不利益を受けた。(人的損失は数百人。経済的損失は数百億ドル。国際的信頼はがた落ち。ブッシュの支持率もがた落ち。狙いとは正反対の結果になった。)
 最初、米国は、「こちらが強圧的に出れば、あちらは屈服し、こちらだけが大きな利益を得る」とともくろんだ。その結果、どうなったか? もくろみとは逆に、大きな不利益を得た。なぜなら、あちらは屈服せず、あちらも強圧的に出たからだ。
 そして、その構造が、「タカ・ハト」ゲームの構造なのである。「利益を狙えば、かえって不利益をこうむる」という構造だ。「国益の追求をせよ」という主張に従えば従うほど、国益を損ねる。小泉にしても、「ブッシュを支持する」という立場を取ったが、ブッシュを窮地に立たせることになる。
 こういう構造を理解することが大切だ。それを理解しないと、「ひたすら前進しよう」とめざしたあげく、落とし穴に落っこちることになる。
 とにかく、何事であれ、もくろみ通りになるとは、限らないのだ。「月をめざして空を飛ぼう」と断崖から飛び立っても、谷底に落ちるだけだ。賢者はそれを理解するが、愚者はそれを理解しない。「すべてはおれ様の思うようになる」と思い込む。あげく、破滅。……そして、それが、現状だ。

 [ 補足1 ]
 「自衛隊撤退」という現実の問題について述べよう。(政治論なので、特に読まなくてもよい。)
 「自衛隊撤退」を、「敵への屈服」というふうに見なせば好ましくないが、「原状回復」と見れば、好ましい。つまり、「自衛隊撤退」は、「ハト」になることではなくて、「ハトでもタカでもない」という最初の状態(ニュートラル状態)に戻るだけだ。相手もこちらも、いささかも得も損もしない。一方、「賠償金の支払い」というのは、「敵への屈服」ということになるので、好ましくない。……ここでは、「自衛隊撤退」は、「敵への屈服」とは異なり、ただの「原状回復」と理解すれば、解決は容易だろう。
 たとえて言おう。あなたの家に、空き巣のような侵入者が入って、威張っている。そこで「こら」と言って、追い出した。そうしたら、侵入者は、「出ていったやったぞ。だから、感謝しろ」と言い張った。あなたは、どう思いますか? 感謝しますか? まさか。「元に戻っただけだろ。感謝なんかするものか」と思うだろう。それと同様だ。イラクに入った自衛隊という侵入者がイラクから出ていっても、イラク国民は少しも得をしたとは思わない。逆に言えば、日本は、損をしたわけではなくて、元に戻っただけだ。これを「敵への屈服」と見なすのは、論理が狂っている。
 なお、自衛隊撤退後にどうすればいいかと言えば、国際的にほぼ一致した意見がある。もちろん、「国連の統治」である。自衛隊は、国連軍の形でなら構わないが、米国の犬という形では問題をこじらせるだけなのだ。そして、この違いを理解できないのが、ひたすら米国の利益を追求する保守派である。
 ついでだが、なぜ米国が国連軍を拒否するか、その理由を理解するべきだ。国連軍が統治すれば、米国は復興の利益を独占できなくなる。それが理由だ。そして、そういう(米国の)国益追求の結果が、結果的には莫大な不利益をもたらすわけだ。

 [ 補足2 ]
 利益・不利益という観点から言えば、逆の立場のことも言える。相手にとって利益になることは、普通、相手に喜ばれる。しかし、相手に喜ばれないときは、たとえ相手の利益になっても、親切の押し売りをするべきではないのだ。相手が「いやだ」と言ったら、どんなに相手の利益になるとしても、引き下がるべきなのだ。
 わかりにくいかもしれないので、たとえ話で言おう。あなたの近所の伊良部さんの家で、火事があった。さっそく、伊良部さんのもとに、田さんが駆けつけた。「こんなに援助してあげるぞ。だから、感謝しろよ」と言って、いっぱい援助物資を上げた。と同時に、「援助してあげるんだから、これからはおれの言うことを聞いてもらう」と言って、伊良部さん一家に次々と命令をした。さらには、金庫から、伊良部家の土地証書を奪ったり、伊良部家の祭壇を破壊したりした。伊良部家の人々は、ぶち切れた。「金なんかいらないから、とっとと出ていってくれ!」と。米田さんは反論した。「そんなことをしたら飢えるぞ」と。しかし伊良部家は反発した。「乞食じゃないんだ。おまえたちの世話になるか。それに、他にも援助してくれる人はいるんだ。田さんや田さんや田さんがいる。だから、とっとと出ていってくれ!」と。しかし、米田さんが強引に居座ったので、伊良部家の末っ子が米田さんをぶんなぐった。とたんに米田さんは「おまえはテロリストだ」と主張して、末っ子を銃殺した。それを見て、伊良部家の家族はそろって、米田さんに襲いかかった。かくして、猛烈な戦いが起こった。
 ここで、米田さんの三助である小向くんが登場した。「僕はいつも米田さんの言うことを聞くんだ。それが一番得だからね。だから、米田さんの後ろで、援助をするよ。銃は持たないけど、援助だけするんだ。人道的でしょ?」と言い張って、米田さんの占領計画に協力した。すると伊良部家は猛反発して、「いくら援助だと言っても、米田の仲間は、おれたちの敵だ。おまえもとっとと出ていってくれ!」と追い出そうとした。しかし小日向くんは、「やだやだ」と言い張った。「援助してあげるんだから、きみたちの役に立つはずだよ。だから、絶対に、出ていかないぞ。これはきみたちのためにやっているんだから、絶対にきみたちの家を出ていくものか」と強硬に言い張った。さらにイヤミを言った。「きみたち、飢えて困っているのに、いいんですかね? 火事で一切を失って、苦しんでいるんでしょ?」と。
 伊良部家はぶち切れた。「ふざけんなよ。火事の犯人はわかっているんだ。米田が放火したんだろ。もともと伊良部家を乗っ取るのが目的で、米田が放火したんだ。それを今さら、救援だと? ふざけんなよ」と。そして、小日向くんの首に、ナイフを当てて、「出ていけ」と脅かした。小日向くんは、「テロには屈しないぞ」と言い張って、あくまで自分が正義だと言い張った。
 どうです。これが現実です。ここまでわかれば、どうするべきかも、わかるでしょう。どうしても米田さんの味方をしていたいと思うのであれば、伊良部家と同じ目に遭うといい。
 とにかく、いくら親切であれ、親切の押し売りは、ありがたくないのだ。それは計画的な乗っ取りも同然である。

 [ 補説3 ]
 「人質になった3人を非難すべきだ」という意見がある。なぜかというと、それで日本の国策が左右されるので、個人のせいで国民全体が迷惑するから、だそうだ。で、どんな迷惑をこうむったか? 実は、「何もなし」だ。なぜなら、日本政府は、「脅しに屈せず」と決めたからだ。
 つまり、「国策を変更した」のであれば、「あいつらのせいだ」と非難してもいいのだが、「国策を変更しなかった」のであれば、「あいつらのせいだ」と非難できないのだ。自分では何もしていないのに非難だけするのは、無銭飲食と同様である。恥知らず。せめて、「人質の命を救う」と決めてから、その非難を言ってもらいたかったですね。
 私が小泉の立場だったら? 「テロに屈して国策を変更せよ」とは言わない。あの三人が殺されたとしても、国策を変更するという形は取らなかっただろう。そして、それゆえ、あの三人を非難できないのである。「お国の方針のために、あなたたちの命を犠牲にしました」と頭を垂れるだろう。実際に殺害されたら、国策のために人命を犠牲にした責任を感じて、事件解決後に何らかの責任を取る。(たとえば、退陣。あるいは、自決。)……少なくとも、「自分では何も行動しないで、非難だけする」なんていう恥知らずな口先男みたいなことはしない。
 ついでに言っておこう。日本の自衛隊がイラクに行っても、ほとんど感謝されない。サマワの人たちだけは感謝しているが、他の95%ぐらいの人は迷惑がっている。しかるに、高遠さんが孤児を助けていたことは、今回の事件で、イラクに遍く知れ渡った。「何とすばらしい女性だ」とイラク中の人々が知って感謝した。( → zakzak ) 日本の自衛隊がどんなに努力してもできなかったことを、たった一人の女性が成し遂げた。こういう行為こそ、偉大で勇敢なのである。「命が惜しい」なんて言って、サマワの穴蔵に隠れているような自衛隊とは、全然違うのだ。「イラクを復興せよ」と口に出しながら、「サマワの穴蔵に閉じこもっていろ。何もしなくていいから、とにかく駐留しろ。そうすりゃ、米国に褒めてもらえる」なんていう保守派とは、全然違うのだ。小泉や読売よりも、はるかに勇敢なのが、高遠さんなのだ。
 そして、そういう勇敢な女性を、保守派は非難する。自分は安全なところに引きこもって、口だけがめっぽう勇敢だ。……こういうのを、腰抜けと呼ぶ。
( ※ 16日夕刊によると、「人質救出にかかった費用がどのくらいか示せ」とか、「山での遭難にかかった費用は請求するぞ」なんていう意見が、政府・与党の間で出ているそうだ。呆れたね。政府が人質を救出したのか? そうではあるまい。政府は人質から離れたところで、ちょこまかと動いていただけであり、人質救出には何も手を出さなかったのだ。政府は人質を見捨てたのだ。見捨てておきながら、「かかった費用を請求するぞ」とか、「おまえたちのせいで迷惑を受けた」と非難するとか。……その一方で、「自己責任である」とも述べている。なるほど、自己責任だというのは、その通りだ。そして、だからこそ、政府は非難できないのである。自己責任を主張しながら、非難するのでは、論理が矛盾している。「救出した上で、非難する」か、「救出しないで、黙っている」か、どちらかにしてもらいたいものだ。「救出しないで、非難だけする」なんてのは、厚顔無恥も甚だしい。)
( ※ 小泉は、「人質救出にいかに多くの人が取り組んだか、よく考えてほしい。自覚を持ってほしい」と三人を批判した。呆れたね。政府は三人を見捨てたのだ。人質救出のためには、何もしなかったも同然だ。強いて言えば、米国に「協力してくれ」と言っただけだ。そして、その要請は、人質を救う効果があったどころか、危険にさらす効果があった。「米国が強襲するぞ」なんていう情報を流せば、状況はかえって悪化させるだけなのだ。今回、人質は、政府が救出したのではない。先方が自発的に解放しただけだ。小泉はそこを勘違いしているようだ。「おれ様が救出してやったんだぞ」と。厚顔無恥。)
( ※ 「政府が救出したと思うか?」という質問に、小泉はこう答えた。「各方面のいろいろな働きかけなどが力を奏したのだと思う」と。え? 各方面の? 日本政府の? 違うでしょ。アラブの宗教界の働きかけだ。なのに、「自分たちのおかげだぞ」だなんて、威張らないでほしいね。……ついでに言えば、アラブの宗教指導者の一言が、痛烈である。「私たちは小泉総理よりも、日本人の命を大切にしています」と。[ 以上、テレビ朝日の報道ステーションから。16日放送。])
( ※ 16日夕刊各紙によると、米国の国務長官は、「あの三人がイラクで活動したのは、立派だった」と述べている。これが当然だ。「イラクに来い」と言って、来た人を歓迎するのなら、矛盾はない。一方、日本の保守派は、アメリカの「イラクに来い」という言葉には従うが、「行っても、何もしないで、穴蔵に隠れているべきだ」と思うから、あの三人を非難するのである。「おかげで、おれたちが腰抜けなのが、バレちゃったじゃないか。おまえも腰抜けになれ」と。……というわけで、腰抜けどもは、勇敢な人々を非難するのである。いつだって、そうですけどね。)
( ※ 「三人は世間を騒がせたぞ」という批判も、世間にはある。しかし、別に、三人は世間に「騒いでくれ」と頼んだわけではない。世間が勝手に騒いだだけだ。そんなことで批判されるのだとしたら、毎日、新聞ダネになる人々は、いちいち世間に謝る必要がある。特に、小泉なんかは。……だいたい、マスコミなんかは、今回の事件で、売上げが大幅に増えて、大喜びなのだ。テレビなんかは、視聴率が上がったから、スポット・コマーシャルの売上げが大幅に伸びたはずだ。つまり、景気回復効果があったわけだ。うふふ。)
( ※ 16日の朝日・夕刊のマンガ。子供が川で溺れている。「助けて!」と。それを見た大人が「助けよう」と服を脱ぎかける。すると友人たちが制止する。「行くなら自己責任で」「何があっても自業自得だ」と。さらに、批判する。「おれたちに迷惑をかけるな!」「おれたちを巻き込むな!」と。)

 [ 補説4 ]
 興味深い意見があったので、コメントを加えておく。
 「いかなる高邁な理想といえども、それを実現するための条件や手段がともなわなければ、単なる夢想の類にしかならない」と言って、三人を批判し、サマワで鉄条網に囲まれて安全に活動している自衛隊こそ正しい行動だ、と主張する。(読売・夕刊・文化欄 2004-04-16。評論家の意見。)
 もっともらしい意見だが、それで自衛隊は、何をしたのか? しょせんは、穴蔵に閉じこもっているだけだ。具体的に言おう。
 第1に、基地の外での道路建設などは、戦闘激化のあとでは、停止している。基地に閉じこもっているだけだ。たぶん、自分たちの基地の建設でもしているだけだろう。そんなのは、イラク国民とは関係ない。
 第2に、給水事業は、効率が悪い。何もしていないのも同然だ。情報を引用しよう。……「イラクには自衛隊なんかよりずっと以前から、国際NGOの方々がイラクの人道支援活動に携わっており、年間1億円にも満たない予算で一日1000トンから2000トンもの給水の実績があるのですよね。対する自衛隊は400億もの予算をつぎ込んでおいて、東京ドームの12倍もの広さの鉄条網で囲った陣地を作って、それで一日80トンしか給水作業ができていないのです」( → がんばれゲイツ君 より引用。ネタ元は別。)
 第3に、給水事業は、まったく方針が狂っている。給水車で給水しても、給水車が引き上げれば、それでおしまいだ。どうせなら、「給水」でなく「浄水」の設備を作るべきだろう。イラク人を雇用して、たっぷりある砂を使って、浄化設備を作ればいい。ところが、それができない。「民間人がやる」としたら、「自衛隊がやる」ことにならないので、宣伝ができない。「自衛隊がやる」ことにしたら、基地の外に出て行かなくてはならないので、危険にさらされる。……かくて、必要なことは何もやらず、穴蔵で示威運動みたいなことばかりをやっている。給水が大切なのではなくて、「何かやっていますよ」という宣伝活動が大切だけなのだ。何かをすることが大切なのではなくて、何もしないで駐留していることだけが大切なのだ。
 結局、自衛隊は、たしかに安全なのだが、しょせんは何もしていないのだ。彼らがしているのは、せいぜい、砂漠の観光であろう。(観光ならば、何かをするより、安全であることだけが大事だからだ。また、そこには、アイスクリームとかサウナとか、観光設備がしっかり整っている。)
 さて。ひるがえって、NGOの人々は、どうであったか? 上記の通り、多大な実績を上げてきた。単に「いる」だけではなくて、何かを「やる」のだ。観光ばかりしている自衛隊とは正反対だ。
 それでも彼らに対して、「危険を顧みない」という意見も出るだろう。しかし、考えてみよう。4月までは、ただの1人も人質にはならなかったのだ。人質事件が急に続発したのは、米軍がイラク市民を数百人も虐殺したり、モスクの破壊活動をした(らしい)からだ。つまり、NGOの人々は、「危険を顧みない」のではない。もともとは、「非戦闘地域だ」と小泉が強弁したように、そんなに危険ではなかったのだ。危険ではあったが、重大な危険ではなかった。ところが、4月以降、急激にひどく危険になってしまった。そして、それは、NGOの人々の責任ではなくて、米国の責任なのだ。
 結局、米国の責任でNGOの人々を危険にさらしておきながら、「勝手に危険なところに行った」と非難しているのだ。たとえて言えば、こうだ。オウムが地下鉄にサリンをぶちまけた。そのオウムが、「乗客が、危険な地下鉄に乗るから悪いんだ。悪いのは、危険を無視した乗客であり、おれたちのせいじゃない」と。
 論理が倒錯している。

 [ 補説5 ]
 なお、私は政府のやることが何もかも気に食わないわけではない。場合によっては、政府を弁護したくなることもある。例は、「警察官の裏金」という問題だ。
 これは国ではなくて県の問題だが、警察が裏金を捻出して、旅費などの名目で金を受け取り、慰労費などに勝手に流用していたという。(読売・夕刊・社会面 2004-04-16 )
 これは、税金をかすめとって、酒代などに使っていたことになるから、「けしからん」と国民が怒るのも、もっともだ。しかし、である。私は、一概に、警官を責めることはできない。仮に「法を守れ」というのであれば、警官各人から数千円を徴収して、かわりに、警官各人に数万円を給付する必要がある。
 なぜか? 第1に、警官は、職務のための費用を、かなり自腹でまかなっている。情報収拾のために、相手に酒を飲ませたりしても、その費用のかなりの部分は、自腹である。事件現場に行くのにタクシーに乗っても、その費用は自腹である。こういうことは、民間企業ではありえないが、警官はけっこう自腹なのだ。
 第2に、残業手当が、ほとんど支払われない。「家には帰って寝るだけ」ということも多いが、そんな残業はサービス残業だ。正確には、賃金不払いである。
 だから、「法を守れ」というのであれば、まず警官に多大な賃金を払う必要がある。「けしからん」と非難するのは、そのあとだ。自分の手が真っ黒に汚れているのに、他人の手がちょっと汚れていると非難するのは、恥知らずである。
 だいたい、低賃金のまま日夜苦労している警官を「小金をくすねた」と非難するぐらいだったら、不況で数万人を殺している大殺人者である小泉は、一体どうなるんですかね? 一人を殺せば殺人者だが、数万人を殺せば英雄ですかね? 
 サマワでサウナ(これダジャレみたい)なんかをやっている自衛隊員より、日本で働いている警官の方が、ずっと命を危険にさらしているし、ずっと日本のために役立っているのだ。

 [ 補説6 ]
 なんだか話が逸れてしまったようなので、あらためて示しておこう。イラク問題で大切なのは、「利益をめざすと不利益になる」ということである。つまり、「エゴイズムは問題を解決するどころか問題をこじらせる」ということだ。ここでは、「エゴイズムが社会を改善する」という原理は働かず、むしろ、「愛と信頼が社会を改善する」という原理が働く。古典派的なエゴイズム礼賛は、正解ではないのだ。そして、そのことに人々が気づかないから、世界は混乱の渦から抜け出せないのだ。


● ニュースと感想  (4月15日)

 「デフレの本質」について。
 朝日夕刊に、デフレをめぐるコラムが連載されている。「経済論争 この十年」という標題で、各種の経済学説を紹介している(つもりであるらしい)。
 著者が小林慶一郎なので、悪い方向に予測していたが、案の定だ。さまざまな経済学説を紹介するのならばまだしも、自己流の歪んだ視点で勝手にまとめている。結局、彼の言いたいのは、こうだ。
「経済はモラルである。モラルの優れていない経済学者が、モラルに欠けた経済学説を出すから、経済は悪くなるのだ。特に、不良債権処理は、断固としてなすべきである。
 実は、この説は、彼の昔の説に依拠する。
 「経営破綻をした企業はさっさと退出させるべきだ。さもないと、ひどい経営をした経営者が、責任を問われないままのさばるので、モラルハザードが起こる」
 というわけだ。( → 1月16日9月08日

 これは彼の結論だが、それはそれとして、そこに至るまでの過程が問題だ。特に、デフレを説明するとき、デフレ悪玉論として、「価格下落が不況の原因だ」という主張を持ち出して、「そんなことはない」と批判する。その理由は、「価格下落が起これば、買い手が増えるし、かえって売上げも増えるだろう」という主張だ。
 馬鹿馬鹿しくて話にならないのだが、初心者向けに、解説しておこう。

 (1) デフレ悪玉論
 「デフレだから不良債権がふくらむ」という説(デフレ悪玉論)はある。しかし、ここの「デフレ」とは、不況(需給ギャップ発生)のことである。
 なのに、著者は勝手にこれを解釈して、「デフレ悪玉論」を「価格下落が不況の原因だ」と決め込んでいる。ひどい誤解だ。
 「価格下落が不況の原因だ」なんていう説は、どこにもない。「価格下落」は、「不況」の指標の一つであるにすぎない。指標であって、原因ではないのだ。このことに注意しよう。だから、「価格下落が不況の原因だ」という主張を、いくら否定しても、それは、デフレ悪玉論を否定したことにはならないのである。
 要するに、著者は、「不良債権の拡大する原因は、デフレではない」と言いたいがために、とんでもない論理の倒錯をしているわけだ。
( ※ なお、正しくは、デフレとは、「価格下落のせいで不況が起こること」ではなくて、「価格下落をともなう不況」のことだ。)

 (2) デフレの本質
 では、デフレの本質とは何か? 初心者向けにわかりやすく言えば、どうなるか? まず、小林の記述で言えば、
 「価格下落が起これば、買い手が増えるし、かえって売上げも増えるだろう」
 という主張が、先にあった。なるほど、この主張は、ミクロ経済学的には成立する。たしかに、ミクロ的な市場では、古典派の主張するとおり、そういうことが成立する。(たとえば、ある店が値下げをすれば、値下げをしたせいで、客が増えて、かえって利益が増える、ということがある。)
 しかし、それは、あくまでもミクロ的に見た場合だけのことだ。マクロ的に見れば、異なる。では、どう異なるか? 
 マクロ経済学とは、所得を含む経済理論のことである。そこで、所得を含めて考えれば、上記の主張は、こう修正される。
 「一部の企業だけが値下げをすれば、その店の売上げは増える。しかし、いったん需要が縮小したあとでは、国中で、生産が縮小し、所得が縮小している。こうなると、国中の価格が下がっても、国中の所得が減っているので、購入する量も減っている」
 つまり、国全体で見たとき、価格の下落があっても、所得の下落があれば、売上げは増えないわけだ。こういうことが、「所得」を考慮すると、判明する。
 デフレとは、「経済が縮小しているまま、生産も所得も、ともに縮小していくこと」である。つまり、「生産縮小と所得縮小が、ともに原因でも結果でもあるような状態であること」である。そのあとで、縮小した状態で安定すると、縮小均衡となる。
 デフレとは、一つの状況であって、デフレの原因となる「何か」があるわけではない。「価格の下落」や「不良債権」などは、デフレの症状であって、原因ではないのだ。
 そしてまた、こう理解すれば、不況を脱出する方法もわかる。すなわち、この縮小均衡という状況を脱出させるために、生産を拡大するきっかけをつかむことだ。それは、所得を増やすことである。(ただし、経済システムの内部では、自発的には所得は増えない。だから、経済システムの外から金をつぎこむ必要がある。それが「減税」だ。)
 経済理論を解説するというのは、こういうことだ。古典派における「所得の無視」を指摘して、「所得を考慮して経済を理解せよ」と教えることだ。
 なのに、「モラル悪化のせいでデフレが続く」なんて解説するのは、経済学ではなくて、一種の宗教である。「デフレ脱出のために、正しいモラルを持ちましょう」なんていうのは、「デフレ脱出のために、神の指示に従いましょう」というのと同様である。そんな記事で、読者を洗脳しないでほしい。

 [ 付記 ]
 一番大切なのは、デフレないし不況の定義として、「GDPの大幅な縮小」という核心をつかむことだ。価格の下落なんかはたいして問題なくて、GDPの大幅な縮小こそが肝心なのである。そして、これにともなって、価格の無謀な下落が起こり、採算割れや赤字倒産が発生し、その結果、不良債権が発生するわけだ。別に、モラルが悪かったからではない。国中の経営者がそろってモラルを喪失した(発狂した)から不良債権がどんどん増えたのではなくて、国中の企業がそろって採算性を悪化したから不良債権がどんどん発生したのだ。
 なのに、古典派経済学者は、ミクロ的な需給調整のことしか考えないから、「GDPの変動」という肝心の点を見失ってしまう。つまり、デフレの本質を見失ってしまうわけだ。


● ニュースと感想  (4月16日)

 前項の関連。「インフレの意義」について。
 小林慶一郎のコラムへの批判。第二回。
 4月15日の夕刊コラムでは、マネタリズム批判をしている。この批判自体はよい。(ところどころ、細かな難点はあるが、私は意地悪ではないので、小さな難点はお目こぼししてあげる。)
 問題は、インフレの意義だ。コラムでは、「インフレは増税と同じで、国民に負担がかかる」と述べている。これは、勘違いである。
 たとえば、インフレで5%の物価上昇があったとしても、賃上げが7%あれば、国民は別に不幸ではない。かえって、幸福である。逆に、小林の大好きなデフレでは、物価は2%ぐらい下落して幸福になるはずだが、賃金が4%ぐらい下がるし、おまけに失業することもあるので、不幸である。「インフレは損だ」ということは、一概には言えないのだ。(小林は古典派だから、所得のことをいつも無視しているが。)

 さて。私はミドル経済学のところでは、「借金返済の方法としては、物価上昇と増税は等価である」と述べた。これによれば、インフレは増税と同じで損であるはずだ。このことと、先の主張との関連は、どうなるだろうか? 
 実は、この問題は、すでに述べた話を理解すれば、とっくにわかっていていいはずなのだ。ただし、あらためて、わかりやすく解説しておこう。物価上昇が国民にとって損であるかどうかは、次のように区別される。

 (1) 借金返済の場合なら、物価上昇は、国民にとって損である。この場合、国民には物価上昇の損がかかるが、その利益を得るのは、国である。財源は、日銀の紙幣増刷である。(これが「買いオペ」である。つまり、紙幣を増刷して、国債を購入する。このとき、国民は物価上昇の損をこうむるが、一方、国は、日銀が紙幣増刷によって、国債償還・借金返済という得をする。なお、実際に金を得るのは、国債償還を受けた国債保有者。……この際、一般国民と国債保有者を区別する必要がある。)
 (2) 減税の場合なら、物価上昇は、国民にとって損でも得でもない。この場合、国民には物価上昇の損がかかるが、同時に、同額の減税を得る。だから、損でも得でもない。単に物価が上昇するだけだ。(これが「タンク法」である。日銀が紙幣増刷をするが、その紙幣を、国が使うのではなく、国民が使うから、国民にとっては損でも得でもない。)

 この二つの場合がある。
 結局、物価上昇は、「買いオペ」で国債償還をする場合には国民にとって損だが、「タンク法」で減税をする場合には国民にとって損でも得でもない。この違いを理解することが大切だ。物価上昇があるとしても、それが損であるとは一概に言えないのだ。「インフレは増税と同じで、国民に負担がかかる」という冒頭の主張は、正しくないのだ。

( ※ わかりやすい例で言おう。トイレットペーパーが5%値上げした。これを見て、主婦は、「値上げで損をした」と叫んだ。しかし、値上げでトイレットペーパー会社は得をしたから、その分、社員の給料は増えた。……結局、国中で見れば、消費者は損をしたが、生産者は得をした。主婦は損をしたが、亭主は得をした。家計簿では支出が5%増えたが、給与明細では収入が5%増えた。……かくて、損得なし。しかし、そのことに気づかない主婦と小林は、「物価上昇は損だ!」と叫ぶ。そのあげく、不況を選んで、失業する。)


● ニュースと感想  (4月16日b)

 イラク戦争関連のことを、補足しておいた。話の関連から、記述は本日だが、過去の箇所に置いておいた。
 政治的な話ではなくて、物事の発想法に関する話なので、ぜひとも読んでほしい。
 (読めばわかるように、イラク戦争の問題と、日本の不況の問題は、原理的には同じである。解決方法も、また同じ。)
  → 4月14日b [追記] ,4月14日c


● ニュースと感想  (4月17日)

 イラク戦争関連のことを、補足しておいた。
  → 4月14日c [追記]


● ニュースと感想  (4月17日b)

 「イラクで米国が国連主導に転換」というニュース。(この項、臨時で追加。最後の余談などは、あとでまた追加。)
 米国がついに、「国連主導」に方針転換した。(日本時間で、16日・深夜。)
 素晴らしいニュースだ。これでようやく、イラクにも平和が来るだろう。完全な平和とはならなくても、以前よりはずっと良くなることは確実だ。
 世界中の首脳が考えてもできなかったことが、高遠さんのようなごく少数の民間人が成し遂げたことになる。憎しみは何も生まなかったが、愛は平和を生んだことになる。
 あの三人を非難した人々は、よく考えてほしいものですね。「彼らはイラクに行くべきではなかった。そうしてイラクで愚かな殺し合いを続けるべきだ」と主張しているのと、同じことになる。

 ここで、なぜこの方針転換が起こったか、よく考えてみよう。それは、民間人が命を賭けたからだ。最も弱い人々が、最も勇気を奮ったからだ。危険を無視したからではなく、危険を理解してまで命懸けで平和を追求したからだ。
 「危険な地に行くな」と非難した人々とは、天と地ほどの違いがある。
( ※ エゴイストは自己の利益だけを考えるから、「おれたちの利益をそこねるぞ」と見える三人を非難する。愛のある人々は、自己の利益をすべて失っても、世界に利益を与える。)

 [ 付記1 ]
 そう言えば、今回と反対のことを主張している人々がいましたね。小泉や読売などの保守派です。「国連主導は反対! 米国主導にするべきだ!」と。
 なるほど。では、その主張を続けて、ブッシュに反対してくださいね。今さら「国連主導を支持する」なんて言い出したら、恥の上塗りですよ。
 なお、「自衛隊を撤退すると、テロに屈することになるから、撤退には絶対に反対」と主張した人々もいた。だったら同様に、今回の決定にも反対するべきだろう。つまり、「国連主導を認めると、テロに屈することになるから、国連主導に反対! 米国大統領の方針に反対!」と。ちゃんと米国に向けて言ってくださいね。……それができないくらいなら、坊主頭になるべきだ。

 [ 付記2 ]
 戦闘が実際に終結するかどうかは、予断を許さない。米軍はまだ駐在をし続けるし、戦闘行為も続ける意向だからだ。米国が「国連を隠れミノにする」という方針であれば、失敗に終わるだろう。だから、「現実に国連主導にする」ことが必要である。
 つまり、米軍は、とりあえずは撤退した方がいい。クウェートあたりに引き下がるべきだろう。その後、内戦が生じたら、それを鎮圧するために、国連軍の一員として出動すればいい。いったん治安が悪化したあとなら、ふたたび来ても、名分が立つ。イラク国民としても、「内戦よりはマシ」と納得する。
 しかし、たぶん、内戦にはならないだろう。それよりは、「勝利の凱歌」を上げるはずだ。その後は、内戦よりは、宗教指導者の命令の下で、平和を構築するだろう。
 なお、「どうするべきか」ではなく、「どうなるか」という予想では、こうだ。「すぐには劇的には変化しないだろう。しかし、なだらかに、平和に向けて移行するだろう。」
 結局、今回の米国の決定は、「何かをした」ということではなくて、「これからどうするか」という方針転換をしたことが重要だ。「右へ進め」という方針から、「直進せよ」という方針に転換した。転換の直後は、大きな変化がないが、時間がたてば、大きな変化をもたらすだろう。
 だから、この日は、分水嶺のような転換点となったわけだ。

 [ 付記3 ]
 誤解を避けるために、補足しておく。
 私はあの三人を、「偉大な行為をした英雄」と賛美したいわけではない。そういうヒロイズム礼賛をしたいわけではない。では、何か? 「真実を見よ」ということだ。
 「国益を重視せよ」とか、「無謀だ」とか、「テロに屈するな」とか、そういう目先の政策はあまり関係がない。物事の核心が大事だ。それは、「一方的に強硬な姿勢を取るだけでは、双方が傷ついて泥沼に落ち込むだけだ」ということだ。「そういう真実を見よ」ということだ。
 そして、真実を見抜けば、この泥沼から脱出するために、あの三人がいかに大切なカギとなっていたかが、よくわかる。あの三人は、すべてではないが、戦争という泥沼からの脱出のためには、とても大切なカギとなったのだ。
 そして、彼らがなぜ大切なカギとなったかといえば、われわれが自ら最善の道を取るだけの勇気を持たなかったからだ。平和な地帯にいるわれわれは、自分の利益ばかりを考えていて、真の勇気を持たなかったのだ。……そのことを、彼らは教えてくれる。

 [ 余談 ]
 歴史には、分水嶺を築くようなカギがしばしば現れる。たとえば、イラクにおける巨大な戦争のカギは、何であったか? その前には、NYビル崩壊があった。その前には、イスラエルの強硬政策があった。その前には、ブッシュの当選があった。そして、ブッシュ当選のカギは、とても小さなものだった。
 それは、何か? フロリダにおける投票機械の穴のミスである。この穴のミスのせいで、ブッシュの票が過剰に加算され、実際以上に票数が出て、数百票の差で、大統領に当選する結果となった。もし穴のミスがなければ、ゴアが大統領になっていたから、イラク戦争も起こらなかったのだ。
 また、大統領選挙で、環境保護で有名な某氏が立候補しなかったなら、ゴアの得票が5%ほど延びていたから、やはりゴアが当選していたはずだった。たった一人の泡沫候補の小さな意思が、これほどの結果を左右したわけだ。
 また、ブッシュの顔が父親に似ていなくても、やはりブッシュは当選しなかっただろう。また、クリントンが女遊びでスキャンダルをもたらさなくても、やはりブッシュは当選しなかっただろう。
 歴史のカギは、しばしば現れる。ごく小さな形で。


● ニュースと感想  (4月18日)

 「名画の謎」について。
 他人の意見の紹介。「裸のマハの顔と体は別人だ」という説。野口晴哉の説で、見田宗介が紹介。(朝日・夕刊・文化欄 2004-04-16 )
 ( → 画像 裸のマハ )

 有名なゴヤの「裸のマハ」は、「着衣のマハ」と一対である。かつ、「裸のマハ」の顔と体は別である。なぜか? この絵を描かせたのは首相。モデルは首相の愛人らしい。首相は愛人の裸が大好きで、サロンに飾りたい。しかしあからさまにそんなことをするわけには行かない。そこで、ひとにひねり。愛人の裸を描かせたあとで、その顔だけを別人にする。その顔で、もう一つ、着衣の姿の絵を描かせる。裸のマハの絵の前に、着衣のマハの絵を置いてから、紐を引くと裸身が現れるしかけにしてある。見た人は、「お、着衣の女(マハ)が裸になった」と思い込む。顔と体が同一人物だと思い込む。別人だとは思わない。かくて、まんまと、サロンに愛人の裸を堂々とさらけ出す。(首から下だけですけどね。)
 この説は、もっともだと思えるが、美術関係者は「美術の素人が何を言うか」と非難したそうだ。
 専門家というのは、かくも阿呆なのである。ここで判定のよすがとなるのは、女体の裸を見抜く目であり、美術の目ではない。そして、女体の裸を見抜く目があれば、頭と体が別々だ、というのは一目瞭然である。
 これは、別に、私が女の裸を見慣れているから言うわけではなくて、この不自然感は、私が十代のころに初めてこの絵画を見たときから感じていたことだ。(私は十代のころから女遊びをしていたわけじゃありません。)

 さて。さらに私の見解を付け加えておこう。美術に関する意見であるが、医学的観点からの意見。
 裸のマハでは、頭と体に肉体的な質の差があるだけでない。裸のマハでは、頭と体がうまくつながっていないのだ。どういうことかというと、首の骨が、よじれてしまっている。体につながる首の骨は  のようにかなり横に寝ているのに、頭につながる首の骨は / のように縦に近くなっている。角度が食い違っている。だから、頭と体とは、別々なのだ。もし現実に、ここまで首を傾けたら、首の骨が折れてしまっているはずだ。
 で、どうしてこうなったかというと、たぶん、体は寝ている人物がモデルで、顔は座っている人物がモデルだったのだろう。そう考えれば、顔の角度に、納得が行く。
 なお、作画の際は、座ったモデルを使って後から描き加えたのではなくて、もともとある座像の肖像画から、転写したにすぎないのだろう。そう考えると、不自然さが納得される。だいたい、首の付け根の位置からして、かなり食い違っているのだから。一方は高く、一方は低い。
( ※ オマケで言えば、この絵画は、一種の「アイコラ」みたいなものだ。「アイコラ」は、「アイドル画像のコラージュ」のこと。既知のヌード写真の顔の部分だけ、アイドルの顔写真とすげ替えるものなど。「裸のマハ」は、世界最初のアイコラかも。)
( ※ 「裸のマハ」の絵画史上の位置づけは、「初めてのリアリズムふうのヌード」である。それ以前は、想像された宗教画の裸体像であり、あまりリアルではなかったし、あまりエロチックでなかった。「裸のマハ」は、美術として優れているというよりは、センセーショナルな意味合いが強い。宮沢りえの写真集みたいなものだ。……なお、ゴヤの作品で言えば、もっと優れた作品はいくらでもある。……私の判断は? この女を見ると、ボディは好きだが、顔は嫌い。じゃなくて、この絵は、ボディは達筆だが、顔は下手。)

  【 追記 】
 裸のマハでは、なぜ、体と顔が、うまくつながっていないのか? この問題を提起して、考察したところ、次の結論を得た。
 画家たる者が、わざわざ顔の配置を間違えるはずがない。顔の配置を間違えたとしたら、顔の配置を間違えざるを得なかったからだ。つまり、そこに顔を置く以外に、他の置き場所がなかったからだ。
 では、なぜか? 「もう少し上」とか、「もう少し右」とかに、ずらしても良さそうだが、なぜ、ずらせなかったのか? それは、たとえそういうふうにずらしても、やはり不自然だったからである。最も不自然感のない置き場所が、そこだったのだ。
 では、なぜ、どこに置いても不自然なのか? ここまで考えると、ようやく、事実が判明する。顔が体に比べて、大きすぎるのだ。この肉体から見る限り、この女性はかなり大柄である。とすれば、顔はかなり小さくて、八頭身ぐらいになっているはずだ。にもかかわらず、顔はそれよりずっと大きくなっている。顔が大きすぎるから、顔の置き場所に困ってしまったわけだ。
 かくて、現在のように、不自然感の残る位置に、顔を置いてしまった。美術的な配置を優先すると、医学的に矛盾するようになってしまった。仮に、医学的に矛盾ない位置に顔を置けば、今度は絵画の構成で破綻してしまう。それは、画家の良心が、許さない。画家にとって常に心がけるべきことは、物体配置のバランス(構成)であり、医学的整合性なんか、どうでもいいのだ。だからこそ、裸のマハは、頭と体がずれているのである。
( ※ 画家にとって、頭部とは単なる球体であり、絵画の平面上に円として配置されるものであるだけだ。本当は見えないところで、頭部と胴体を接合させる頸骨がある、なんてことは、全然意識する必要がない。)
( ※ そして、この絵画と医学との矛盾をもたらしたのが、「顔が大きすぎること」なのだ。)
( ※ ここからさらに推測すれば、ボディのモデルの方は、髪部分がかなり高かったはずだ。つまり、アップのヘアスタイルになっていたはずだ。アップのヘアスタイルの顔と、アップでないヘアスタイルの顔とを、あえて高さでそろえたために、アップでないヘアスタイルの顔は、顔全体が大きくなりすぎてしまったわけだ。)
( ※ 同様の理由で、ボディのモデルの方は、細面(ほそおもて)であった、と推定される。絵の顔は、幅広の顔だが。)


● ニュースと感想  (4月18日b)

 「CG映画」について。
 CG映画で一人勝ちの「ピクサー」という会社の紹介記事が出ている。「わが社にとって、財産は人材。それ以外では決してありえない」と経営者が語る。(読売夕刊 2004-04-16 )
 CGというのは、今はテレビゲームなどでも普及しているが、私は人目を引かない初期からかなり注目していた。「FMタウンズ」なんていうマシンが出たころから、いくらか研究成果が出ていたようだ。その後、「トロン」という映画が最初に出た。これも見たが、今から思えば、ごくごくちゃちなものだった。その後は、テレビゲームなどでCGは急速に普及していったが、商品化されてからは、私は興味をなくした。
 
 さて。なぜ、CGは、米国のみが勝利したのか? 実は、CGが有力であることは、ひどく知られていた。だから、日本でも、その試みはなされた。特に、テレビゲームの分野では、日本が圧勝していたから、日本のテレビゲーム会社が、CGに進出しても、良かったはずだ。
 実は、テレビゲーム会社が進出したことはある。ただし、大失敗に終わった。技術的な興味ばかりに走って、芸術的・娯楽的な面が、まったくいい加減だったため、客が入らなかったのだ。(莫大な赤字を出した。)
 では、なぜか? ここには、技術的な難点ではなく、経営的な難点がある。一部のトップが勝手に「こういうCGを作りたい」と思い込んで、芸術面を無視して、勝手に独走したからだ。トップダウン方式の弊害が出た。トップが黒澤明のような巨匠ならともかく、ろくに経験もないトップが勝手に独走するから、修正も利かなかった。

 教訓は、何か? 「ソフトの分野では、一番大切なのは、人だ」ということだ。さまざまな衆知を結集して、各人の仕事環境を最高にする。そうして自由にのびのびと働かせ、自由でのびのびとした芸術を生み出す。
 実際は、どうであったか? 「ソフトの分野で、一番大切なのは、命令と金だ」と考えた。「金儲けこそ目的だ」と考えて、作品より金のことを優先した。「部下よりも上司の命令が優先する」と考えて、部下の自由でのびのびとした発想を抑圧した。……その結果は、ぎすぎすした作品ができただけだった。技術的にいくら優れていても、誰もそんな映画は見たくなかった。
 これは、他人事ではない。今の日本は、「ソフト化」が重視されている。しかしそこでは相も変わらず、「命令と金」だけが優先されており、「人を大切にせよ」とか、「自由な発想を」とかは、ないがしろにされている。だからこそ、最近、日本のハイテク産業は、韓国に追いつかれてしまっている。
 「青色LEDでは、技術者の権利より、会社の権利が大事だ」なんて言っているようでは、「人よりも会社」であるから、そんなことでは、新しい分野には進出できないのだ。そういう日本企業の問題が、CG映画の分野では極端に現れている。

( ※ 日本で例外的に成功しているのは、スタジオ・ジブリなどだ。これは、普通の大企業とはまったく異なり、「財産は人」という立場だからこそ、成功したわけだ。仮に、スタジオ・ジブリが協調主義の「日本式経営」なんかを導入していたら、今ごろはとっくに倒産してただろう。)
( ※ ということは、富士通やNECや日立なども、そのうち倒産してもおかしくはない、ということだ。人をないがしろにしたツケである。実際、韓国と比較して、すでにメモリーでは撤退しているし、携帯電話でも負けているし、液晶でも負けているし、プラズマディスプレーでも負けかかっているし、未来の有機ELでも負けかかっている。お先は真っ暗だ。……一方、韓国は、「エリート技術者をものすごく優遇する」という非平等主義で、どんどん急成長している。これで思い出すのは、エリートを徹底的に排除した、日本の「ゆとり教育」だ。やっぱりね。「みんなでいっしょにバカになろう」という教育のおかげで、日本企業はそろってバカになったわけだ。狙い通りの成果だ。)

 [ 付記 ]
 では、どうすればいいか? 独創性の問題については、先に述べたことがあるので、そちらを参照。
( → 12月27日b の (2)


● ニュースと感想  (4月19日)

 「韓国の総選挙と経済」について。
 韓国の総選挙で、与党(大統領側)が勝利した。これは、人質解放事件の陰に隠れて、あまり人目を引かなかったが、歴史的に非常に大きな意味がある、と私は考える。
 ここでは、長年続いた保守派が敗れて、革新派(左派という意味ではない)が勝利した。しかも革新側では、老人世代が次々と落選または候補外となり、若手が次々と当選した。こうして世代交代が進んだ。
 このことの意味は、何か? 韓国がついに、長年の保守的体質を捨てて、近代国家になった、ということだ。これまでは「何でもかんでも日本が悪い」と日本に責任転嫁をして、喧嘩ばかりをふっかけてきたが、今後はそうなるまい。日韓は新時代を築くようになるだろう。
 これは、たがいの間に友好関係が築かれる、ということだけではない。依然として古臭い体質から抜けきれない日本を、韓国があっという間に追い越してしまった、ということだ。政治的に追い越せば、経済的に追い越す日が来ることもあるだろう。
 日本では、小泉が「構造改革」を唱えて、結果的には何も改革せず、それどころか、景気回復を遅らせて、改革を遅らせてしまった。一方、韓国では、経済がかなり成長しているので、経済改革も、体質改革も、進みやすい。となると、日本を追い越すのも、当然だ。
 実は、ある意味では、日本は韓国に追い越されている。テレビ報道によると、中国の消費者の間では、携帯電話のメーカーとしては、ノキアとサムスンが有名で、日本メーカーの製品などとんと知られていないそうだ。つまり、日本製品は、韓国や欧州のメーカーに、完全に負けてしまっている。すでに負けているのだ。
 では、この現状を改革するには、どうすればいいか? 小泉なんていうのを追放して、かつての細川内閣のようなのを築けばよい。あの内閣は、支持率が80%もあったのだ。
 なのに、経団連や産業界は、しきりに小泉を支援する。自分たちの経済体質を悪化させる人物を首相にしたがっているだ。自分たちに害悪を及ぼす人物を、わざわざ選んでいるのだ。
 日本企業の没落は、自業自得なのである。自滅としか言いようがない。ブッシュはイラクで自滅。小泉は経済で自滅。二人そろって、自滅兄弟。
 「 ♪ ぼくのなまえはヤンキー。ぼくのなまえはマンキー。二人合わせて兄弟だい。きみとぼくとで自滅だい。」
( ※ と書いたあとで、「国連主導に転換」のニュース。ま、どうなることやら。イラクでなくて、別のところで自滅するかも。)

 [ 付記 ]
 韓国の若者世代は、古い世代ほど反日意識は強くない。どちらかと言えば、反米意識の方が強い。これは駐韓米軍があるため。駐イラク米軍が嫌われるのと同様。
( ※ 日本の保守派には理解できないだろうが、進駐軍というのはどこの国でも嫌われるのだ。ただし、犬だけは別。シッポを振って、歓迎する。なぜかと言えば、エサがほしいから。ワンワン。)


● ニュースと感想  (4月19日b)

 「テロと戦争の概念」について。
 「テロ」という言葉について、「言葉が思考を歪める」と先に述べた。( → 4月14日b 追記
 にもかかわらず、「テロは悪だから……」なんていう思考から、人々はいまだに脱せずにいる。そこで、彼らの思考の歪みを見せるために、歴史を示そう。
 前者は、普通の「テロ」である。後者は、いわゆる「独立運動」である。
 では、次のものは、どちらになるだろうか?   つまりは、米国の独立運動というものは、われわれがイラクで見ている「テロ」と呼ぶものと同様だったのである。詳しく見よう。
 18世紀の米国では、宗主国イギリスに対する独立運動として、イギリスの占領軍に対する攻撃がなされた。これも「テロ」と見なせそうだ。最初のきっかけとなった「ボストン茶会事件」では、お茶の箱を捨てただけだった。(1773年)
 しかし、これをきっかけとして、イギリス軍は弾圧に乗り出して、軍事衝突が起こった。最初は「レキシントンの戦」であり、民兵側に死者8人。次に、イギリス軍が撤退する途中で交戦が起きて、イギリス側の死傷者は273人、民兵側は100人以下。これが「コンコードの戦」。その後、民兵側はボストンのイギリス軍を包囲した。やがて、交戦が起こった。イギリス側は死傷者が1000人に達し、民兵側はその半分。これが「バンカー・ヒルの戦」。このころには「民兵」というより「植民地軍」と呼ぶべきほど組織化されている。攻撃が進むほど、植民地側は弱体化するどころか組織化され、ついには政府のようなものが形成されて、「独立宣言」がなされた。(1776年)
 このころ、軍事力では、イギリス軍が圧倒的であり、アメリカ側はきわめて貧弱な軍しかなかった。アメリカ側はゲリラ的には勝利することはあっても、戦闘ではイギリス軍に圧倒され、新国家は崩壊寸前。しかるに、ワシントンが軍を率いて、反撃。かなり優勢になる。これを見て、フランスがアメリカ側に協力。スペインも同様。アメリカ側は大いに意気が上がった。ところが、イギリス軍が反撃。アメリカ側を圧倒する。
 しかしアメリ側は、ゲリラ活動をして、イギリス軍に反逆する。その後、アメリカ軍は盛り返して、最後の大規模な戦闘(ヨークタウンの戦)で決定的に勝利した。これで、戦闘は実質的に終結した。(1781年)。
 その2年後に、講和条約が結ばれた。ただし、そこに至るまでには、双方に莫大な死傷者が出た。

( ※ なお、この闘争は、今日では「アメリカ独立革命」と呼ばれる。ただし、もしイギリス軍が勝っていたら、同じことは「テロ」と呼ばれただけだったろう。逆に言えば、今日、「テロ」と呼ばれるものも、勝利すれば、「独立運動」と呼ばれるのである。そしてまた、負けた外国軍は、「弾圧者」と呼ばれるのである。たとえば、フランスを占領したヒトラー側。)
( ※ この当時もイギリス軍側では、「テロに屈して軍隊を引き上げてはならない」というような意見が多かった。しかし多大な被害が出るに及んで、ついには軍隊を引き上げることになった。)

 [ 補説 ]
 私はしばしば、「本質を突け」と言う。では、イラク戦争の本質は、何か? それは、言葉の問題である。
 先に、「思考が言葉を歪め、言葉が思考を歪める」と述べた。( → 4月14日b 追記 ) 実は、このことが、イラク戦争の本質なのだ。
 このことを理解するには、「テロに屈するな」という言葉自体ではなくて、また、その言葉の細かな意味でもなくて、その言葉が登場するまでの経緯を、時間的に眺めるといい。大局的に。すると、次の経緯がわかる。

  「大量破壊兵器が世界の平和を脅かすぞ」→「独裁者が民主主義を脅かすぞ」→「テロに屈するな」

 これが、戦争の理由だ。こういうふうに、自己を正当化する言葉は、次々と変化していった。なぜか? それまでの言葉がすべて無効になったからだ。

  「大量破壊兵器が世界の平和を脅かすぞ」 …… 現実には、大量破壊兵器は発見されず
  「独裁者がイラクの民主主義を脅かすぞ」  ……  現実には、独裁者は追放済み

 これらの言葉は、もはや無効なのである。「戦争を続けるため」あるいは「イラクに駐留するため」の理由として、これらの言葉はもはや無効なのである。つまり、これらの言葉によって、戦争や占領を、正当化することはできなくなった。だからこそ、新たな言葉を必要とする。それが「テロに屈するな」という言葉だ。
 だから、仮にテロが消滅したとしても、そのときはそのときで、また何らかの言葉を必要とする。とにかく、何らかの理由を次から次へとこねあげて、イラクを占領し続けたいのだ。そして、そのための1番目の言葉と2番目の言葉が無効になったから、今度は3番目の言葉を出したのだ。仮に、3番目の言葉が無効になれば、今度は4番目の言葉を出す。とにかく、次から次へと言葉を出して、イラク占領を正当化する。
 それが本質だ。つまり、言葉によって、人々を洗脳すること。── 言葉が何であるかは問題ではない。どんな言葉であれ、その言葉を盲目的に信じさせて、人々を洗脳して、「おれに従え」と言いたいのだ。

 そして、日本の国民の大半は、その言葉を信じた。つまり、洗脳された。また、米国の国民も、かつてはその言葉に洗脳された。ところが、最近の米国の国民はその言葉を信じなくなってきているし、イラクの国民は最初からその言葉を信じなかった。なぜか? 彼らは、痛みを感じたからだ。洗脳されかかったとき、体に痛みを感じた。その痛みゆえに、正気に戻されたのである。
 しかし、日本だけは、その痛みを知らなかった。だから日本だけは、いつまでも洗脳されているわけだ。そして、目をくらまされた人々のさなかで、私一人が孤軍奮闘、「言葉に洗脳されるな!」と叫んでいるわけだ。
( ※ 後日訂正。「洗脳されるな」と主張しているのは、私のほかに、もう一人います。小林よしのり。もしかしたら、他にもいるかも。……ま、どうでもいいですけどね。)
 はっきりと強調しておこう。イラク占領は、政治的に正しいか否かの問題ではない。言葉によって洗脳されるか否かの問題なのだ。嘘を信じるか否かの問題なのだ。
 もっとわかりやすく言えば、「大量破壊兵器があるから」という最初の理由が嘘であると判明したとき、なおかつその嘘つきである本人を信じるか否かの問題なのだ。もしその本人を信じたければ、「新たな嘘を信じよう」と思うだろう。もしその本人を信じたくなければ、「もう嘘を信じまい」と思うだろう。しかし、恋愛中の男女というものは、相手の言葉が嘘であると判明しても、なおかつ相手を信じようとしたがる。……そして、だからこそ私は、「目を覚ませ」と叫ぶのだ。

 とはいえ、最近になってようやく、米国は方針を転換した。これはブッシュが賢明だからではなくて、自らの魔術がもはや利かなくなってきたと悟ったからである。魔術が利かなくなれば、自らが逆につるし上げられかねない。だから、その前に、自ら魔術をときほどこうとしたわけだ。
 では、なぜ、彼の魔術は利かなくなったか? それは、米国だけでなく世界各国で、痛みが激しくなったからだ。そして、もう一つ。悪魔のそばに、天使が現れたからだ。「憎め、戦え、殺せ!」と悪魔が魔術をかけたとき、天使が現れて、人々を愛したからだ。愛が魔術を解き放ったのである。

( ※ ただし、いまだに魔術にかかっている人々がいる。彼らは、「あの天使は悪魔だ」と叫んで、愛をふりまく天使を焼き殺そうとする。悪魔にだまされている人々にとっては、天使こそもっとも憎むべき対象なのである。その美しさと優しさこそ、彼らにとっては最も邪悪に見えるのだ。彼らは、天使を無視することはできず、どうしても非難せずにはいられないのである。心のやましさゆえに。……歪んだ目には、天使の姿は歪んで見える。最も優しい天使を非難するとき、その人の心は最も悪魔に近くなる。これは、比喩ではない。あの三人を「死んでもよかった」と血も涙もなく判断したとき、その人の心はまさしく悪魔の心となったのだ。それは、人間としての心を失ったということなのだ。)
( ※ 「テロに屈するな」という言葉で、いかに洗脳するか、実例を示そう。……そもそも、今回の三人の人質の事件が「テロ」だとすれば、あらゆる誘拐はすべて「テロ」となる。「人質を誘拐したぞ。言うことを聞け。さもなくば人質を殺すぞ」なんていう犯罪は、これまで日本でも何度かあった。そのとき、マスコミは誰も「テロ」とは呼ばず、「誘拐」と呼んだ。ところが、今回に限って、「誘拐」と呼ばず、「テロ」と呼ぶ。つまりは、その行為が、誘拐であれ何であれ、とにかく「テロ」と呼びたいのだ。政府は、事件を解決するのが目的なのではなくて、「テロ」という言葉で人々を洗脳するのが目的なのだ。そして、マスコミはそれに協力する。)
( ※ 嘘つきのマスコミのために、用語解説をしておこう。「テロ」の定義とは、「民間人に対する無差別殺害」のことである。今回の人質事件は、「民間人」という条件は満たすが、「無差別殺害」という条件を満たさない。逆に、この「テロ」の条件をすべて満たすのは、米軍の戦闘行動だ。かくて、テロでないものをテロと呼び、テロであるものをテロと呼ばない。言葉遣いが逆転している。言葉が狂っているのに平然としていられるのは、頭が狂っているから。
( ※ 「理由があるからイラク攻撃をするのではなく、逆に、イラク攻撃のために理由をこねあげる」ということは、実証可能である。歴史を見よう。NYビル突入は 2001年09月。「このときブッシュはイラク侵攻を決断した」と想像されている。少なくとも、イラク侵攻の理屈は、これ以降に示された。……しかし、である。それよりずっと前から、ブッシュはイラク侵攻を決断していたのだ。テロが起こる前から、イラク侵攻を決断していたのだ。証拠はたくさん挙がっている。 2001年01月に、すでに計画立案を指示したらしいと、報道されている[4月17日・夕刊・各紙]。また、2001年夏ごろにも、計画立案を指示したらしいと、すでに何度も報道されてきた。私の推測では、ブッシュがイラク攻撃を決めたのは、NYビル突入よりずっと昔で、パパ・ブッシュがイラク攻撃を中断して批判されたときだ。……結局、「大量破壊兵器」も「独裁」も「テロ」も、すべては後付の理屈なのだ。かくて、理由は後付けで次々とこねあげられる。今のは、3番目。)
( ※ 教訓。「二度だまされる馬鹿は、三度だまされる」)


● ニュースと感想  (4月20日)

 「日本の狂気」について。
 現在の日本は、恐るべき狂気状態になっているようだ。人質にされた三人に向かって、国中で非難の声を上げている。「三人は立派だった」と褒めた米国国務長官のような意見はほとんど掻き消され、数千万人がそろって、三人の個人を攻撃している。それも「政府から守れ」と防御するために立つのならともかく、「政府こそ正しい! あいつらをいじめろ」と三人を攻撃している。巨象が蟻を蹴っ飛ばしたときに、「蟻を踏みつぶせ!」と叫んでいる。狂気の沙汰だ。
 問題を整理しよう。
 第1に、彼らがどこへ行って命を危険にさらそうと、彼らの命は彼らのものである。あくまで「自己責任」だ。この点では、攻撃派の主張は正しい。そして、それだからこそ、他人が口を差し挟む必要はないのだ。たとえて言おう。植村直己という冒険家・登山家がいた。彼は自己の命を危険にさらして、国民をハラハラさせた。国民を心配させたという点では、同様である。しかも、登山などは、何の利益もなく、ただの遊びのようなものだ。植村直己は単に自己満足だけのために冒険をしたが、自分の命は自分のものであり、あくまで自己責任であるから、誰も非難できないはずだ。実際、誰も植村直己を非難しなかったし、新聞・テレビなどは賛美さえした。さらには、自己満足のために冒険をした植村直己には、「勇気ある行動」と称えられて、国民栄誉賞が与えられた。なのに、他人のために働いて自己犠牲をした高遠さんには、国中の非難が集まったのである。……また、自衛隊と比較しよう。田舎のサマワでサウナをしていた自衛隊は、何もしないで数百億円も無駄にしても、「危険な地に出向かなかったから偉い」と称賛され、都市部で働いていた高遠さんは、ただの一円も国の金を使わないで孤児を救ってイラク国民に感謝されても、「危険な地に出向いた」と非難されるのである。臆病者は臆病ゆえに称賛され、勇者は勇気ゆえに非難されるのである。(米国ならば、この逆となる。兵士は危険な戦地に出向き、民間人は後方に位置する。日本では価値基準が世界とは正反対である。……それとも、「何もしないでもイラク復興ができる」と唱えているんですかね。「空からお金が降ってくる」という妄想と同じ。)
 第2に、国費の問題だ。「植村直己は自弁だったが、三人の人質には莫大な国費がかかった」という主張がある。これもとんでもない。 (a) まず、三人は、誰も国の援助などを求めなかった。国が勝手に活動しただけだ。 (b) また、国は、何一つ実効ある活動をしなかった。どんなに費用がかかろうと、それはすべて無意味な行動であり、人質解放にはつながらなかった。政府が人質解放のためにやった仕事は、ただ一つ、「テロには屈しない」と述べて、見捨てたことだけだ。実際に活動したのは、イスラムの宗教家だけだ。そして、彼らに対して、日本政府は謝辞の一つも言っていない。(先方がそう語っている。)無効なことをした政府は「感謝しろ」と言うが、有効なことをしたイスラム宗教団体には日本政府は感謝の一言も言っていないのだ。自分は言葉の一つも出さずに、他人から金を奪おうとばかりしているのだ。超ケチ。 (c) また、事務連絡などは、ただの事務経費であり、国の通常の仕事であるにすぎない。それも勝手にやっただけだ。 (d) また、飛行機代で言えば、勝手に直通チャーターを飛ばしたから巨額の金がかかっただけであり、普通に非直通の飛行機と陸路を使えば 10万円程度で済んだことだ。どうしても請求するのなら、10万円だけだ。なのに、勝手に「直行エコノミークラスなどだと40万円(〜60万円)」と算定して、40万円(〜60万円)を強制徴収する予定だという。押売りだね。これこそ犯罪と呼ぶべき。 (e) また、実を言うと、この10万円または40万円も請求できない。なぜなら、本人たちは、「日本に帰りたくない」と思うか、「まだしばらく考えたい」と思っていたからだ。それをいきなり日本に連れてくるのは、ほとんど拉致に近い。否応なく強引に連行してきたのだから。とすれば、国が「強制連行の補償金」を払うべきだろう。……まとめ。「日本に運ぶのに金がかかったから請求する」というのは、北朝鮮が日本人を連行して、「拉致にして北朝鮮に運ぶのに金がかかったから、拉致の費用を請求する」というのと同様である。独裁国家の手下となった人々の発想にすぎない。(北朝鮮は拉致費用を請求しなかったから、日本政府は北朝鮮政府よりもずっと悪質だ。または、ケチだ。)
 第3に、人質の家族が日本政府に「撤退すべきだ」と言ったのは、たしかに行き過ぎだろう。しかし、彼らが何を言おうと、日本は言論の自由がある。いや、あるはずだ。あるんじゃないかな。あるかもしれない。もしかして、ないのかな。ま、ちょっと覚悟しておけ。(さだまさしの歌のもじり。)……ま、ここでは、言論の自由があると仮定しよう。(この仮定は間違っているかもしれないが。) で、「政府はこうせよ」と政府批判の意見を言ったからといって、日本中の非難を浴びなければならないとしたら、私のような者はどうなる? たちまち、「政府批判をした」という理由で、攻撃されるだろう。……結局、人々はそろって、「言論の自由」を押しつぶそうとしているのだ。家族の意見が気に食わなければ、逆の意見を主張すればよい。なのに、家族そのものを人身攻撃する。あげく、頼んでもいない連行作業に金がかかったからといって、その費用を請求しようとしたり、「こんなに金がかかったぞ」と脅かす。ほとんど押し売りだ。
 たとえ話で示そう。私が「日本政府はけしからん」と言う。すると、日本中から非難や脅迫などの攻撃が襲いかかってくる。私が「ふん」とほったらかしておく。すると警察がやってきて、「危険だぞ」という名分で、私を勝手に拉致する。「安全なところに隔離します」と言って、孤島に運び込んでから、「費用は20億円かかりました」と請求する。私は驚く。「え? 旅費だけなら、2万円。宿泊費だけなら、一日1万円。そのくらいでしょ?」と疑う。すると、「特別チャーター機に1億円。監獄設備の建設費に1億円。警備費に毎日1億円。事務経費に10億円。合計、20億円かかりました」と言う。この結果が報道されると、「南堂が勝手なことを言ったから、血税が20億円もかかった! 南堂をやっつけろ!」と日本中が攻撃してくる。インターネット上でも、「南堂をやっつけろ!」という声が大にぎわいになる。
 別のたとえ話。頼んでもいない高価なピザを勝手に注文して、私の家に配達させる。目の前に置いて、「これを食え」と強制して、「食ったんだから金を払え」と強引に40万円を徴収する。「頼んでいないぞ」と反発すると、「おまえが腹を減らしたから、気を利かせてこちらで注文してやったんだ。おまえが餓死すると、おれたちに迷惑なんだよ。おれたちに迷惑をかけるな! おれたちを巻き込むな!」と非難の大合唱。
( ※ 別に、私とは限らず、あなたがそういう目に遭うかもしれない。)

 ともあれ、今回の事件の影で、小泉が「しめしめ」と大喜び。「これで不況問題から、目をそらすことができたぞ。まったく、人質のおかげだな。ケチな馬鹿ってのは、他人の命より、自分の十円が大事なんだ。ケチなやつほどだましやすいものはない。ケチなやつほど、金でだませる。しめしめ」
 これが日本の現状だ。狂気国。昔、「魔女狩り」とか、「赤狩り」とか、戦争中に平和主義者を「国賊」と非難するとか、そういう狂気的な状況があった。それと今とは、酷似している。

 [ 付記 ]
 では、こういう状況は、なぜ起こるか? 
 実は、こういう問題は、心理学的・精神医学的に説明される。精神的に強い圧迫が襲いかかり、非常に重い葛藤がかかると、精神は暴走しかかるのである。それが一国全体の規模で生じた。
 今回の事件では、「人命か、政策か」という大きな二者択一が迫られた。これほど大きな心理的な圧迫が人々にかかったことは、かつてなかっただろう。「テロに屈するな」と叫んだとき、その人は、「人質は死んでもいい」と思ったことになる。つまり、日本中の大多数が、人命を奪うことを許容したのである。ほとんど自らの手を血で濡らしたようなものだ。
 普段なら、「死刑は是か否か」というような問題を扱う。「人を大量に殺害した極悪非道の殺人者を、死刑にしてもよいかどうか」という問題だ。ここでは、平静に論議できる。
 今回は違う。「人命を大量に奪った極悪非道の殺人者ではなく、人命を大量に救おうとした平和主義者を、死なせてもよいか」と問われたのである。そして、「死なせてもよい」と答えたのである。このとき、人々は、自らの心が悪魔的になった。これまで自分は天使だと自惚れていた人々が、自らの体が悪魔に変貌していく様を、如実に見た。このとき、彼らは、ひどく葛藤した。そして、この変貌をもたらした対象を、ひどく憎んだのである。「本当は、おれたちが悪いんじゃない。人質が悪いんだ。あいつらのせいで、おれたちは天使から悪魔に変貌してしまった」と。
 だからこそ、人々は、口を極めて、人質たちを罵る。なぜか? 人々は、自らが選んで悪魔に変貌したとは、思いたくないからだ。悪いのは、自分自身ではなくて、他人のせいなのである。そう思い込みたいからこそ、人質たちを罵るのだ。……それは、他人への責任転嫁であり、自己の正当化であり、自己の防御である。とすれば、こういうことは、心理学的・精神医学的には、ごく自然に説明される。
 そして、心理学的・精神医学的に、うまく説明されるのは、それが狂気の一種であるからだ。日本はまさしく狂っているのである。
( ※ 人質の家族に、莫大ないやがらせが届いたり、インターネット上で、特定の市民を攻撃したり。……こういうことは、平時であれば、誰もが狂気的だと理解するし、たまにやった人がいれば、犯罪だと見なされる。たとえば、インターネットの掲示板に、「○山△子は、すごい悪女だから、あいつをレイプしてやれ」なんていう個人攻撃のメッセージを書く人がいるが、こういうのは犯罪者であるし、ほとんど狂人である。平時ならば、すぐにわかる。しかし、今の日本では、こういう人々が、山のようにいるのだ。インターネットを見るといい。「あいつらを肉体的にレイプしてやれ」というかわりに、「あいつらを精神的にレイプしてやれ」という非難が山のようにある。国民の総発狂。)
( ※ 正常な精神の持主は? 米国の国務長官のように、人質を賛美するだろう。米国ならば、もともと「自己責任で」と思っているから、人質が死のうが生きようが、葛藤などは生じない。しかるに、日本人は、本心では「国に守ってもらおう」と甘えているから、ひどく葛藤が生じるのだ。……自立した大人の心には、葛藤が生じないが、甘ったれた子供の心には、葛藤と発狂が生じる。)
( ※ この手の問題は、精神医学者が「集団心理学」というような分野で言及している。「ものぐさ精神分析」「共同幻想論」という著作を書いた、岸田秀という人などがいる。)
( ※ なお、狂気のさなかで、正気を保つには、どうすればいいか? 「自己を正当化しよう」とは思わないことだ。「あの三人は死んでも仕方ない」と思ったとき、そのことを正当化せずに、悲しみを感じることだ。「国の利益のために、あなたたちの命を犠牲にしました。私たちは、あなたたちの命よりも、自分たちの利益を優先しました。申し訳ありません」と頭を垂れて、胸に痛みを感じることだ。痛みを感じれば、正気を保つことができる。……正気を保つ策は、常に、痛みを感じることである。そして、そのためには、痛みを避けてはならないし、自己を正当化しようとは思ってはならないのだ。「自分は正しい」と思い込みたい人だけが、狂うのである。)
( ※ もっと本質的に示そう。最初に、「国益か、人命か」という二者択一があり、葛藤があった。この葛藤を、葛藤として、そのまま受け止めるべきだったのだ。「国益」を取ったならば、「人命」を捨てる、という葛藤を、あるがままに受け入れるべきだったのだ。なのに、自己を正当化して、「葛藤はない」「問題は何もない」と強引に思い込もうとした。……そのとき、狂気が発病したのである。)


● ニュースと感想  (4月20日b)

 「イラク戦争における情報操作」について。(イラク戦争で政府は情報操作をしている、という話。とうてい信じられない馬鹿げた風説に対するコメントなので、特に読まなくてもよい。ま、こんなのでだまされる人もいるようだが。)


 (1) 自作自演説
 人質事件を「自作自演」とする説もあるそうだ。これについて言及しておく。
 そもそも、「自作自演」なんていうのは、科学的に考えれば、まずありえないことだとわかる。同時期に数十人の外国人が人質になったが、このうち日本人だけが自作自演だというのは、不自然である。(つまり、日本人だけがまったく一人も人質にならないというのは、確率的に言って不自然であり、数人ぐらいは人質になって当然である。)とすれば、論理的に言って、数十人の外国人がそろって「自作自演」をした、ということになる。さらには、そのうちの少なくとも一人は自作自演で自殺した、ということになる。……こんなことは、蓋然性から言って、ほとんどありえない。正気ならば、そうわかる。
 さて。では、なぜ、こんな非論理的な発想が生じたか? 与太としか思えない発想が、どうして人口に膾炙したか? 実は、「自作自演」というのは、どんな話題であれ、インターネットのゴミ掲示板でよく行なわれる(らしい)。で、そういうインターネットのオタクたちは、今回の人質事件も同様に「自作自演」だろう、と判断したわけだ。(人質たちも自分たちオタクの同類だ、と思ったわけだ。)
 これは、インターネットに棲息するオタクのたわごとだと思っているうちはよかったのだが、政府・官邸筋が意図的にオフレコで「自作自演説」を流して、マスコミに流通させようとした。つまり、国民を洗脳しようとした。また、政府は陰でこっそり、人質家族などの経歴のプライバシー調査をして、なんとかして難点を見出そうとして、必死になってアラ探ししていたらしい。(週刊現代による。)もし何かアラが見つかれば、やはりこっそりオフレコで流して、マスコミに流通させるつもりだったのだろう。
 さすがに、この「自作自演」説は、まともなマスコミは無視したが、一部のイエロー・ジャーナリズムみたいな連中は、報道したようだ。(「報道の自由が優先するから、プライバシーの侵害をしてもいい」と言っていた連中と同じ連中。さっそく、嘘情報の報道を流す自由を得て、プライバシーを侵害しようとしたのかもしれない。)
 それにしても、「自作自演」なんてのを信じるのは、一部のインターネット・オタク(掲示板マニア)だけでいいのだが、まともに論じる人もいるので、いくらか信じかかってしまう一般人もいるようだ。そういう場合、洗脳されないための方法を、教えよう。それは、「痛みを知る」ことだ。
 仮に、自作自演なんかをするとしたら、イラクの安全な地帯(たとえばサマワ)にこっそり行って、宗教関係者とはパイプのないごろつきを雇って、安上がりに自作自演をすればよい。一方、高遠さんたちのように、何カ月も危険なところにいて、自分の命を危険にさらすなんていうことは、とうてい、割が合わないのだ。人は、愛と平和のためには、自らの命を賭けることがある。しかし、自作自演のためなんかに、命を賭けることはない。(マスコミならば「やらせ」というのがあるが、素人には「やらせ」なんてのはまったく無意味だ。そんなことに命を賭ける価値はない。)
 もし、「自作自演だ」なんて思う人がいたら、ひとまず、銃弾が飛び交う危険な地帯に、自らの命を置くがいい。毎日、ゴミのような食事を食べ、汚れた水を飲むがいい。自分の体で痛みを感じるがいい。少なくとも、そういうことが自分に可能かどうかを、自問するがいい。自分を安全なところに置いたまま、おいしい食事ときれいな水を口にして、勝手に想像しながら、その想像に基づいて非難だけする、なんていうのでは、現実とバーチャルとの区別がつかなくなっているのである。あまりにもオタク的すぎる。
 テレビゲームのマニアは、自分では痛みを感じないまま、殺人などを疑似体験する。体に痛みのないバーチャルの行為を、現実のことだと錯覚する。それと同じだ。自作自演を、体に痛みのないバーチャルの世界で想像して、その想像が現実のことだと錯覚してしまうのである。虚構と現実との区別ができなくなって、虚構が現実に食い込んでいる。しかも、それを異常と感じない。……日本のオタク文化は、ここまで退廃している。

 (2) ヤラセ説
 もう一つ、別の情報もある。「人質にナイフの脅迫映像は演出 政府分析、早期に認識」という記事だ。( → Sankei Web
 これによると、日本のテレビが「残虐だ」という理由で放送しなかった「人質にナイフ」の脅迫映像は、実は演出だったと、政府分析して、早期に認識していたという。三人は脅迫されて、演出に従っていた、と認めたという。
 この記事を読んで、「人質は犯人に協力して、ヤラセ画像を提供した」と政府筋は語りたいわけだ。まったく、論理がメチャクチャなのには、呆れはてて、ものが言えない。
 第1に、政府は「演出だ」ということを早期に認識していたにもかかわらず、それを国民に公表しなかった。それゆえ保守派の人々は、「テロリストは、人質にナイフを当てるような、残虐非道の人非人だ」と大宣伝していた。しかし、保守派の宣伝は、すべて嘘っぱちだったのである。本当は、人質に対して食事も十分に与えるような、紳士的な態度で接していたということになる。とても文明的な態度だ。なのに、「捕虜を虐待する」「すごい野蛮人だ」「極悪非道の悪人だ」と言わんばかりの口調で宣伝して、「テロに屈するな」という主張のための根拠とした。大ボラ吹き。
 第2に、人質が帰ってきたら、ようやく情報を流した。その理由は、人質を非難するためだ。今度は「演出に協力していた」と明かして、いかにも「ヤラセだ」と言わんばかりだ。……馬鹿じゃなかろうか? 人質は、かりそめにも、誘拐されたのである。徹底的に従わなければ、殺される危険がある。そういう危険な状況で、やむをえず誘拐犯人の命令するとおりにしたからといって、それを「自発的に協力した」とか「ヤラセに参画した」とか言えるのか? テレビ朝日のヤラセならば、「やーめた」と言って抜け出すのは自由なのだから、参画したことの自己責任はある。しかし、今回の人質は、「やーめた」と言って、こっそり逃げ出そうとすれば、まず確実に殺されたのだ。今回の人質を「ヤラセだ」と主張するような政府関係者は、自分が身代わりになるべきだったのだ。そして、「演出には協力できません。私は演出に参加できません」といって、建物の外に抜け出そうとすればよかったのだ。そのとき、銃殺されただろう。だから、人質を「ヤラセに協力した」と批判したい人は、そう批判する前に、銃殺されるべきだったのだ。なのに、そうせずに、今ごろになって情報を出すわけだ。人質を非難するために。まったく、姑息としか言いようがない。
 かくて、情報を出すべきときには出さず、あとになって出すときには、ねじ曲げる形で出す。政府というものは、かくも情報操作して、国民を洗脳しようとしている。

 教訓。
 政府は与太を流して国民を洗脳したがるし、その政府の片棒を担ぐ連中もいっぱいいる。だから、洗脳されないように、注意しよう。あやふやな推測に基づく「うわさばなし」や、非公式の発表なんかを、信じないようにしよう。政府は常に、物事の本質を逸らそうとする。イラク戦争という巨大な問題にぶつかったときに、自作自演やヤラセのような下らない脇道に、話を逸らそうとする。マスコミも、同様だ。テレビはたいてい、下らない与太情報をワイドショーふうに流す。……あなたはいつも、政府とマスコミに、洗脳されかかっているのだ。

 最後に一言。
 政府の洗脳に対抗するには、どうするべきか? 正しい情報を得ることだ。そして、そのためには、現場の事実を知ることが必要だ。そして、そのためには、たとえ危険であろうと、現場に出向くジャーナリストが必要だ。
 1991年のイラク戦争のときには、バグダッドを空襲する状況を、CNNのピーター・アーネット記者が報道した。他のジャーナリストが「危険だから」という理由で逃げ出したのに、彼だけは残って報道した。その映像を、世界中のテレビが放送した。米軍でさえ、その映像を貴重な資料として利用した。その彼を「危険な地に出向いた馬鹿ものめ」と非難した人がいただろうか? なのに、今の日本では、イラクに出向いた日本人ジャーナリストを非難する。
 現在、イラクは危険だが、イラクから続々と情報が入ってきている。それは、危険なイラクに駐在するジャーナリストがいるからだ。イラクにいるジャーナリストのおかげで、情報を入手したり、映像を見たりする。[ ¶ ] なのに、日本にいる人々は、目ではジャーナリストの送る映像を見ながら、口では「危険な地に出向くな」と非難する。たとえて言えば、酒場で、自分で酒を注文して飲みながら、「危険な酒を飲まされた」と非難するも同然だ。……そういう人々は、いったい、イラクにいるジャーナリストに、どうせよというのか? イラクに行ってほしいのか、行ってほしくないのか? 自己矛盾。それとも、酔っぱらっているんですかね。

( ※ マスコミにも、まともな意見が出ることもある。高橋源一郎が、本項と同じ立場から、まともな意見を述べている。朝日・夕刊・文化欄 2004-04-19 。ただし、読むまでもなく、書いてあることは予想がつく。一方、株式欄コラムには、本項の最後のコメント[ ¶ ] のネタ元となる話が書いてあった。)


● ニュースと感想  (4月21日)

 「勇気と行動」について。
 人質を非難する声があまりにも大きいので、肝心の点を述べておく。
 それは、「人は、勇気ある行動を取る権利がある」ということだ。他人の目には「愚劣で、ずさんで、無謀だ」と思えて、「馬鹿らしい」と思えるとしても、自らの信念に従って、そういう行動を取る権利がある、ということだ。

 とはいえ、もちろん、それが制限される場合がある。「その行動を取ることによって他人に迷惑をかける」という場合だ。 では、そういうことは、あったか? つまり、われわれ国民は、彼らから迷惑を受けたか? 
 事件以前なら、もちろん、なかった。事件が起こる以前には、あの三人がイラクにいることを知っている人はいなかったはずだ。存在すら知らない人物から迷惑を受けている、なんて、ありえそうもない。われわれがあの三人を知ったのは、人質事件が起こった後なのだから、それまでは、迷惑などはまったく受けていなかったはずだ。
 では、事件が起こった後では、迷惑を受けたか? そうではない。迷惑を受けたのではなくて、迷惑を受けたと感じただけだ。なぜ感じたかと言えば、彼らの生死が、私たちの生活感に侵入してきたからだ。
 しかし、彼らの生死が、私たちの生活感に侵入してきたとしても、他人である私たちには非難する権利はないのである。なぜか? それは、「世界は全部おれのもの」ではないからだ。
 仮に、「世界は全部おれのもの」であるとすれば、世界のすべては自分の思うように動くべきであり、それを乱す人物は非難されねばなるまい。しかし、「世界は全部おれのもの」ではないとすれば、他人の人生は、他人のものなのである。とすれば、私たちの目には、あの三人の行動が、「愚劣で、ずさんで、無謀だ」と思えるとしても、あの三人は自らの信念に従って、そういう行動を取る権利があるのだ。彼らの人生は、彼らのものなのである。

 もっと単純に言おう。それは、「人は命を賭けて行動する権利がある」と言うことだ。たいていの人は、「自分の命こそ最も重要であり、命を脅かす行動などは取ってはならない」と思う。しかし、誰もがそうする義務はない。自分の命を危険にさらしても、ある目的を追求する権利がある。次のように。
   植村直己のような冒険家  (4月20日)
   戦地に赴くジャーナリスト  (4月20日b)
   孤児を援助するNGO女性  (4月14日c [補説4])
   冬山で遭難した登山者を救う無償救援隊
   戦地に出向いた看護婦ナイチンゲール
 これらの人々は、危険にさらすのが自分の命であるがゆえに、その行動を取る権利がある。他人の命を危険にさらすわけではないからだ。いかに周囲に心配させようと、彼らにはその生き方を取る権利がある。彼らの人生は、彼らのものなのである。
( ※ 実を言えば、他人の命を危険にさらす米軍の行動には、多いに称賛が浴びせられる。人殺しは称賛され、人の命を救うものは非難される。)
( ※ 危険な地にいるせいで人質になった、ということはある。だとしても、自分の命を危険にさらしただけであり、他人の命を危険にさらしたわけではない。また、日本政府の国策を左右したわけでもない。日本政府は彼ら見捨てたのだから。彼らの罪は、「日本人を、彼らを見捨てさせたこと」だけだ。……しかし、それは罪ではない、と私は本項で述べている。)

 そもそも、人類における偉大な発展は、すべて、自分の人生をなげうってまで、ある目的を追求した人々によってなされたのだ。偉大な科学者であれ、偉大な芸術家であれ、彼らは、自分の人生を幸福にするためにではなく、ある目的(真・美)を追求するために生きた。そのために、自分はボロボロになってしまうことも多かった。アインシュタインであれ、モーツァルトであれ、ベートーベンであれ、ボードレールであれ、ランボーであれ、ゴッホであれ、彼らの人生が、いかに多大な苦痛で満たされていたが、それを知る人は少ない。「天才は優れた才能で優れた作品を楽々と作成し、人生は輝きに満ちていた」と思う人が多い。違う。「天才は優れた才能で優れた作品を作成した」というのは正しいが、彼らの人生は、人並みはずれた努力と、人並みはずれた苦痛に満ちていたのだ。しかし、彼らがそういう困難な道を避けなかったからこそ、今日のわれわれの世界は、昔に比べて、はるかに輝きに満ちた世界となっている。彼らの人生が苦痛に満ちていたからこそ、私たちの世界は輝きに満ちているのだ。
 
 ただし、昔と今日では、違うことが一つだけある。それは、こういう偉大なことをした先端者を、非難するかどうか、ということだ。昔の人々は、アインシュタインであれ、モーツァルトであれ、ベートーベンであれ、ランボーであれ、ゴッホであれ、彼らが自らの人生を危険にさらしても、それをやめさせることはなかったし、その人生を非難することはなかった。「おまえがそんな危険な人生を歩むと、ハラハラさせられて、こっちが迷惑なんだよ。迷惑をかけるな」とは言わなかった。なぜなら、どんな人生を歩もうと、自己責任だからだ。しかるに、今日の日本人は、一方では「自己責任だ」と主張して人質を見捨てておきながら、一方では「自己責任じゃないから、こっちが迷惑なんだよ」と非難する。
 今日の日本人は、おせっかいすぎる。しかも、本当におせっかいならばまだしも、自分では何一つしないで見捨てておきながら、非難だけはわんさとする。

( ※ 本当を言えば、「何一つしないくせに、非難した」のではなく、「何一つできなかったからこそ、非難した」のである。その理由は、先に述べたとおり。悪魔への変貌だ。 → 4月20日 [付記])

 [ 付記 ]
 肝心な点を述べておこう。それは、高遠さんは「政府の尻ぬぐいのために出向いた」ということだ。
 植村直己ならば、自分の興味を満たすために危険な地に出向いただけだ。あくまで自分自身の興味の問題であり、他人には関係がない。しかし、高遠さんは違う。米国がイラク攻撃をしてイラクを破壊し、日本がそれに同調していたあとで、イラク破壊から復興するために、政府にかわって、尻ぬぐいをしていたのだ。日本政府は「復興に協力する」と言いながら、自衛隊はサマワに閉じこもっているだけだった。だからかわりに、その尻ぬぐいをしていたのだ。なのに、そのせいで、かえって非難されてしまうのである。
 たとえ話。「このトラックを運行することは、社会のために絶対に必要だ」という理由で、政府がトラックを運行した。それ自体は良かったが、ついでに歩行者をはねて、何十人も殺してしまった。たくさんの死者が出て、たくさんの孤児が出た。「後始末をします」と政府が言ったが、規模がデカすぎて、手が回らない。そこで手下に、「手伝ってくれ」と頼んだ。手下はシッポを振って「ワン」と吠えてから、「手伝いに行きます」と出向いた。ところが、実際には、何もしないで、穴蔵に閉じこもっているだけ。自分の責任を、まったく果たさない。「助ける」と言いながら、ちっとも助けない。その間も、状況は悪化する。孤児は苦しんでいる。……そこで、やむなく、天使のような女性が孤児を助けてあげた。それを見ても、誰もが知らんぷり。ところが、この女性がたまたま、助ける途中でケガをした。それを見て、誰もが非難した。「危険な地にわざわざ出向くのが悪いんだ。何もしないで穴蔵に閉じこもっていればいいんだ。危険なところに立つなんて、無謀だ。無思慮だ。愚劣だ。他人に心配をかける」と。……自分たちが無責任で無為であるせいで、彼女がかわりに尻ぬぐいをしていたのだ、ということを忘れて、非難ばかり浴びせるのだ。
( ※ たとえば、あなたの職場で考えよう。ヘマな同僚が、仕事で失敗をやらかす。見かねたあなたが、こっそりサポートして、尻ぬぐいをする。すると、それに気づいたヘマな同僚が怒り狂って、あなたを非難する。「余計なことをしやがって。ふざけるな、馬鹿野郎」と。……そういうことは、よくある。世の中には、エゴイストはたくさんいる。)

 [ 補足1 ]
 人質を非難できる人は、たった二人だけいる。それは各人の両親である。両親は、人質となったわが子を非難できる。なぜなら、誰よりも深く愛するからだ。
 愛するがゆえに非難することはできる。しかし、憎むゆえに非難することはできない。できないというより、なしてはならない。
 今の日本人は、人質の命が心配だから非難しているのではない。自分の利益がそこなわれたと感じているから非難しているのだ。「おれたちに迷惑をかけるな」と。「スズメの涙ほどもないゼロ同然の迷惑だとしても、絶対に許せない」と。それでいて、人質の命が心配だというふうに、善人ヅラをしている。……さもしいね。
( ※ 日本政府も、人質を非難できる場合がある。それは、彼らを愛した場合だ。つまり、要求に屈した場合だ。しかし、現実には、要求に屈しなかった。つまり、彼らを愛さず、彼らを見捨てた。……ならば、彼らを批判する権利はないのだ。愛して非難することはできるが、見捨てておきながら非難することはできないのだ。)
( ※ 例。子供が川で溺れて、「助けて」と叫んでいる。ところが平然として、見捨てる。子供が死んでしまうと、親が泣きくれる。その親に、どう言うか? 「見捨てて申し訳ありません」と詫びるか? 日本の大半は、こうだ。「おまえの子供のせいで、ハラハラさせられた。こっちは迷惑を受けた。他人に迷惑をかけるな」と非難する。)

 [ 補足2 ]
 ナイチンゲールの業績については誤解されているようなので、解説しておく。
 ナイチンゲールは看護婦として、手厚く看護して、数十人の命を救った、と思っている人が多いようだ。しかし、そんなことなら、医者の方がずっと有益である。ナイチンゲールをことさら称賛する必要はない。
 ナイチンゲールの業績は、そうではない。一介の看護婦としてケガ人を看護したのではなくて、看護婦長として病棟を管理したのだ。その結果は、めざましいものだった。それまで、戦地の病院に運ばれたケガ人の大半は、死亡した。ところが、ナイチンゲールが赴任してから、死亡率は激減した。数十人どころか、それを圧倒的に上回る人命を救った。
 では、なぜ、彼女はそんなことができたのか? 医者にもできなかったことが、看護婦である彼女にはなぜできたのか? それは、「自らの職分を完全に発揮したから」だ。つまり、看護婦としてなすべきことを、最大限になした。それは、「病棟を清潔にすること」である。それまでは、病棟は、非常に汚くて、感染菌がウヨウヨしていた。ナイチンゲールは、掃除をきちんとやったり、換気を十分にしたりして、病棟環境を劇的に改善した。そのせいで、死亡率は激減したのである。つまり、莫大な人命を救ったのだ。
 そして、そのための行動は、難しいことは何一つない。「自らの職分を完全に発揮すること」だけである。
 ただし、その行動をするには、欠かせないものがある。一つは、危険な地に出向く勇気だ。もう一つは、職業義務としての義務感ではなくて、人々への愛だ。……そして、今の日本では、人質に対する仲間同士の義務感ばかりがあって、イラクの人々への愛がまったく欠落している。だからこそ、かくも口汚く罵るのである。愛よりも憎しみを込めて。

 [ 補足3 ]
 本項では、崇高な行為をする人の例を、いくつか挙げた。しかし、たとえ崇高な行為ではないのに、危険な地に出向いたとしても、それをもって非難することはできない。たとえば、物見遊山みたいな馬鹿げた気分で、イラクに遊び半分に出向く、というような、愚劣なガキがいたとしても、その愚劣さを非難することはできない。
 なぜなら、彼の命は彼のものであり、彼の人生は彼のものだからだ。どんなに愚劣な人生であろうと、それを取るのは彼の自由だ。愚劣な人生を送るからといって、非難しなければならないとしたら、それは、他人の人生への干渉であり、他人の人生への指図である。自分の人生を無駄にする人は、軽蔑されても仕方ないが、他人の人生を破壊したわけではないから、他人が文句を言う筋合いはない。
 だいたい、「自分は、公正な賢明なまっとうな、何一つ曇りもないような人生を送っています」と、恥ずかしげもなく言える人が、どれだけいるのか? そう言える人は、神様のような聖人君子か、あるいは、小泉のような厚顔無恥な人物か、どちらかであろう。
 誰しも、人生においては、愚劣なことをしているものだ。「若気の至り」なんて、私だって、結構やってきた。いま思い出すと、冷や汗をかく。(私は恥知らずじゃないし、反省もできるので。恥ずかしいことをみんな忘れてしまう K・J さんとは違います。)
 世の中には、コンビニにいすわっているジベタリアンだの、電車で傍若無人にふるまう酔っぱらいだの、盛り場でうろつくゴロツキだの、繁華街で麻薬を売る売人だの、ひどい人間がいっぱいいる。どうせ非難するなら、そちらを非難すればいい。これらは、社会に迷惑だ。
 しかし現実には、たいていの人は「あっしにゃ関わりのないことでござんす」と知らんぷりをする。なのに、今回に限って、「あっしに関わりのあることでござんす。心配したんでござんす。迷惑を受けたんでござんす」と大騒ぎする。二重人格ですかね。
 繰り返す。危険な地に出向いた馬鹿者がいるとしても、彼らを非難できるのは、彼らによって国策を左右された場合だけだ。しかるに、現実には、日本政府は「見捨てる」と決定した。とすれば、われわれには、彼らを非難する資格はないのだ。
( ※ どうせ非難するなら、ごろつきを非難してほしいものだ。インターネットや新聞上なんかで弱者いじめなんかしないで、電車や繁華街に出向いて大男に向かって声を上げるべきだ。……ただし、勇気があれば、の話ですけどね。ふふふ。)

 [ 補足4 ]
 では、どういう場合ならば、非難できるだろうか? 
 私は別に、「無謀な行為に対して、一切、非難するな」と述べるつもりはない。場合によっては、無謀な行為を、非難してもいいことがある。では、それは、どういう場合か?
 たとえ話で考えよう。子供が川で溺れている。このあと、子供を非難してもいいとしたら、それは、どういう場合か? それは、子供を救おうとして、自らが救助に向かい、自らが自己の命を危険にさらしたときだ。
 一方、子供が溺れたのを見捨てておきながら、「ハラハラさせられたから」なんていう理由で非難することは、とうてい許されないのだ。見捨てた人間には、非難する資格はなく、沈黙する資格があるだけだ。たとえば、実際に子供が死んだとすれば、「おまえが危険なところで泳いだせいだ、おまえが悪いんだ、馬鹿野郎」と、死者を非難する資格はないのだ。少なくとも、見捨てた人には。
 この最低限の倫理を、人々は忘れてしまっている。だから、どういう場合ならば非難できるか、はっきり言おう。それは、罪なき人々を非難するような、冷酷な人々を人々を非難するときだ。つまり、いま人質たちを非難している人々こそ、非難されるに値するのである。
( ※ 彼らは、見捨てたことが後ろめたいので、どうしても非難せずにはいられない。その気持ちは、わからなくもない。臆病者というものは、そういうものだ。とはいえ、あまりにも怯懦(きょうだ)な態度である。)

 [ 補足5 ]
 どうしても誰かを非難したいのであれば、別のことをなすべきだろう。
 あの三人は、「人質になる」とわかっていたのではなくて、単に「危険な地に出向く」とわかっていただけだ。それでも、「危険だとしても出向く」と決めた。つまり、リスクを冒した。
 そして、「リスクを冒したこと」ゆえに非難されるべきだとしたら、はるかに危険なリスクを、日本で禁止するべきだろう。それは、「自動車」である。
 第1に、自動車の運転を禁じるべきだ。自動車の運転は、自分と歩行者の命を奪う危険がある。危険だとわかっていて、運転する。そういうリスクを冒している。とすれば、こんなリスクを冒すことは禁じるべきだ。自動車にいるすべての運転者が、「おれたちに迷惑をかけるな」と叫びあい、たがいに運転を禁止する必要が出てくる。
 第2に、自動車の生産を禁じるべきだ。自動車は、日本で毎年1万人か2万人の人命を奪っている。それでも「リスクを冒して使用される」のが、現実だ。しかし、「リスクを冒すこと」が禁止されるべきなら、自動車を禁止する必要があるだ。天使は人命を救うが、自動車は人命を奪う凶器だ。こんな凶器を作成する自動車会社を、全部たたきつぶすべきだろう。……で、そうすれば、ものすごい不況になるだろう。そのとき初めて、日本人は、自ら痛みを知り、正気になるはずだ。
( ※ 「おれたちに迷惑をかけるな」と叫びあう運転者、というのは比喩になっている。ここでは、たがいのエゴイズムがぶつかりあっているのである。今の日本で、「おれたちに迷惑をかけるな」という声が渦巻いているのも、かなり似ている。)
( ※ ついでに言えば、「遊び半分で、わざと最悪の危険な地を選んで、あえてそこに出向いたあげく、日本中をハラハラ心配させた上に、とうとう死んでしまって、日本中に大ショックを与えた」という人物がいる。この人物こそ、非難されても良さそうだ。少なくとも、残された奥さんに対しては、ものすごい罪を犯したのだから。……しかし、現実には、政府の正反対は逆だった。この人物に対して、首相がわざわざ「国民栄誉賞を与える」と決定したのである。「危険な地に出向くのは素晴らしい」と大称賛したのである。植村直己。……ま、私は別に文句は言いませんがね。政府としては、立場が正反対なんじゃありませんかね? 矛盾。)
( ※ 他にも、遊び半分で危険なことをする連中は、いっぱいいる。たいていのスポーツマンがそうだ。たとえば、マラソンなんて、高橋尚子以外なら、一銭の金にもならないことに、さんざん汗を流している。無駄の極みだ。体をガリガリにして、体をこわしそうだし、いつ死ぬかもわからない。……とすれば、マラソンなどのスポーツを全面禁止するべきだし、アマチュアスポーツマンをすべて非難するべきだろう。「くだらないことをやるな」と。ところが現実には、われわれは、高校野球を見て楽しむ。誰一人、「危険だからやめろ! おれたちに迷惑をかけるな!」とは言わない。ご都合主義ですから。……また、曙とサップが対決して、曙がKOされたときは、廃人になる危険があった。人々はそれを見て、大喜びだ。逆に、「安全第一」だった「モハメド・アリ対アントニオ猪木」では、二人がさんざん非難された。「安全第一なんて、けしからん! 危険を冒せ!」と。この2戦では、「ハラハラドキドキさせられた」と言っては喜び、「ハラハラドキドキさせられなかった」と言っては怒るのである。)

 [ 補足6 ]
 ケチな人のために、費用負担の話をしておこう。
 「その行動を取ることによって他人に迷惑をかけること」は駄目だ、と冒頭で述べた。そんなことをしたら、責任を問われる。
 しかし、それとは対称的に、「その行動を取るのをやめさせられたことによって他人に迷惑をかけること」という場合には、責任を問われない。  今回で言えば、「イラクに滞在するのを強引にやめさせられた」というときには、やめさせたのは日本政府なのだから、やめさせた責任は日本政府にあり、人質にはない。したがって、「帰還させるのに費用がかかったから」という理由で、人質を非難することはできない。強引に連行するために、どんなに血税がかかっても、その費用を請求することはできない。……たとえば、あなたがダイエットしてガリガリになったとする。それを見て心配した上司が、権力をかさにして、あなたのダイエットを強制的にやめさせた。つまり、あなたをレストランに強制的に連行して、まずくて高価なマムシ料理を強制的に食わせた。代金40万円也。この場合、その費用は、あなたの上司が払うべきであり、あなたが払う必要はない。たとえあなたのために金がかかったとしても、だ。……ただし、日本中から、「費用を負担せよ」と非難される危険はある。)

 [ 補足7 ]
 ところで、日本人に莫大な損害を与えているのは、誰か? それはもちろん、小泉だ。 K・J だ。まったく比べものにならない莫大な損害を与えている。で、彼の支持率は、非常に高い。(読売・朝刊・世論調査データ 2004-04-20 )……ここにも倒錯がある。
 日本はまさしく、狂っている。大量殺人と大量破壊をした極悪人が尊敬され、多くの人々のために尽くした善人が非難される。悪魔が尊敬され、天使が非難される。悪魔はどんなに害悪をもたらしても、言葉でたぶらかすがゆえに好まれ、天使はどんなに愛をふるまいても、無言であるがゆえに憎まれる。
 たぶん、日本は、地獄なのだろう。それならば、そういう倒錯も納得できる。そしてまた、地獄の世界では、悪鬼たちがよってたかって、善人をいたぶるのである。

( ※ で、私の結論は毎度のことながら、「言葉にたぶらかされるな」である。「言葉にだまされるな。頭を洗脳されるな」と。)


● ニュースと感想  (4月22日)

 「人質事件の事実認識」について。
 人質事件について、意見はともかく、事実認識がかなり異なっているようなので、思い込みと現実とを比較しておく。

 (1) 国策に影響した
 政府は「要求を呑まず」と決定したのだから、国策にはまったく影響していない。「影響を受けそうになった」だけだ。(そもそも、国策に影響すること自体、悪ではない。そんなことを言いだしたら、国会議員というものをクビにするべきであり、言論の自由を弾圧するべきであり、独裁体制を築くしかない。)

 (2) 政府に救助してもらった
 人質が助かったのは、「政府に協力していない」ということが、判明したからだ。つまり、人質は、政府に助けてもらったのではなくて、自らの行動によって自らを助けたのである。政府は、指一つ、事件解決に影響していない。しいて言えば、政府がなしたことはただ一つ、「彼らは政府に協力していません」と言ったことだけだ。「政府は何もしません」と言ったことだけだ。
(どちらかと言えば、政府でなく、マスコミや市民が犯人に訴えたことが有効であった。ただし彼らは、「おれたちが助けてあげたんだぞ」などとは、決して言わない。助けた人は黙っており、助けなかった人々が「助けたぞ」と自慢する。)

 (3) 血税を使わせた
 政府は救助に何も活動していなかったのだから、いくら血税が使われたとしても、それは救助のための金ではなくて、ただの無駄遣いである。政府の無駄遣いに、人質が責任を問われるいわれはない。
 救援機の派遣は、事件の解決のためではなくて、解決後のことだ。しかも、「現地に留まりたい」というのを、強制連行したのだ。それでも、「彼らのため」というのであれば、まだわかる。現実には、人質は、日本に来てから、非難されて、針のむしろである。イラクにいるうちは尊敬されて幸福だったのに、日本に来てからは悪罵されて不幸である。とすれば、彼らは、拉致されたのだ。拉致のための費用など、正当化はできない。
 彼らがどこでどうするかは、彼らに決めさせればよかったのだ。そうすれば、連行費用は、一円もかからなかった。なのに、政府が勝手に、自己の体面のために、無駄遣いしただけである。
 費用の請求先を間違えている。請求先は、小泉だ。

 (4) 救出されたらその費用を払うのが当然
 そんな原則は、いつできたのか? 現状を見よう。日本は、「戸外でのケガ人に対する救急車は無料」という制度である。その制度を崩壊させるべきだ、と思うのであれば、まず、最初から議論するべきだ。
 「戸外でケガをしたら、自己責任で。おまえも払え、自分も払う」というのであれば、それはそれで、一つの意見である。しかし、そんな意見は、私はこれまでいっぺんも聞いたことがない。
 戸外でケガをした人が出たとき、救急車が運搬するのに血税を費やしたからといって、ケガ人に「金を払え、金を払え」と非難するのは、人でなしのやることだ。
 とにかく、そう思う人は、とりあえず、高速道路に行ってほしい。「高速道路は危険だ」と判明しているのに、莫大な数の運転者がいて、ときどき交通事故を起こして、救急車に運ばれる。そんなケガ人を病院まで追いかけてから、「危険な高速道路にあえて出向いたのだから、かかった費用を払え」と叫ぶべきだ。

 (5) 運送費用ぐらいは、自発的に払うべき
 それは、その通り。運送には金がかかる。では、その費用は、どのくらいか? 
 第1に、誘拐先から解放先までの費用は、ゼロである。なぜなら、解放先までの費用は犯人がすべてを払ってくれたからだ。(その間、日本政府は何もしていない。実効性のない無駄なことをしてただけである。前述。 (3) )
 第2に、解放先はバグダッド市内である。そこから日本大使館までの運送費用は、払うべきだ。では、いくらか? 市内では大した距離ではないから、イラクの物価水準からすると、千円程度だろう。頭割りして、一人あたり 300円程度。この程度は、人質に分担を求めてよい。
 第3に、日本大使館から先は? そこから先は、もはや解放されて安全なのであるから、「自由行動」とするべきだ。実際、バグダッドにいる日本人はたくさんいるのだし、解放された人質たちだけをことさら日本に連れてくる必要はない。バグダッドから先は、「救出」ではないのだから、「救出」費用にはならない。
 では、なぜ、バグダッドにいる三人を日本に連れてきたか? それは、政府が強制的に連れてきたからだ。では、なぜ、「是が非でも」という形で強引に連れてきたのか? それは、自分たちの乗るチャーター機に、人質がいっしょに乗っていないと、チャーター機がからっぽも同然だからだ。チャーター機に政府関係者ばかりとなると、まるで物見遊山だと言われかねないし、体面が付かない。自分たちが何もしていないことが、バレバレになる。……というわけで、三人が日本に来たのは、日本政府が彼らに「是が非でも」という形で強制連行したからだ。日本政府は、おのれの無為無策(見捨てただけ)を批判されないために、否応なしに、いっしょに帰国させた。三人は、「日本に連れてかえってくれ」と頼んだわけではなくて、いっしょに帰国することで、国民の目を欺くための官製ドラマに、あえて出演してあげたのである。日本政府は当然、彼らに出演料を払うべきだろう。(この「国民を欺くドラマ」は、脚本は政府。出演は人質。演出はテレビ。費用の支払いは……どうなるんですかね? 交通費や制作費などを、ドラマの出演者に払わせる? そんな馬鹿な。)
 以上をまとめて言おう。三人が払うべき費用は、一人当たり 300円だけである。三人は、これだけの費用を払えばよい。(訂正。三人が払う必要はありません。私がかわりに、千円払ってあげます。日本政府は、私に請求書を回してください。そのかわり、日本中にいる人でなしたちは、そのうるさい口を封じてほしい。)
 なお、人質が払うべき相手があるとしたら、犯人である。宿泊料と食事料を払うべきかもしれない。しかし、犯人は、それらの請求を一切しなかった。犯人は、日本政府ほどケチではないのだ。また、アラブの宗教家には、大変お世話になったから、人質または政府の立場から、何らかの協力費を払うべきかもしれない。しかし日本政府は、お礼の一言も言わないとして、宗教家に皮肉られた。(日本人として恥ずかしい。)
 最後に一言。どうしても費用を払うべき人々がいる。それは、飛行機をチャーターして、アラブに出向いて、そのくせ、何一つ実効を上げなかった政府の公務員たちだ。血税を無駄にしたのは、彼らである。彼らこそ、30億円とも言われる費用を払うべきなのだ。
( ※ なお、教訓を一つ得ることができる。それは、何事であれ、「最後のおいしいところだけ取るべし」ということだ。……たとえば、上司が、あなたに苛酷な命令をする。あなたはそれをやりたくない。そういうときは、他人に作業を全部やらせるとよい。そして、結果を受け取ったら、最後に上司に渡すところだけ、あなたがやればよい。そうすれば、上司は、あなたがすべてをやったと評価してくれる。……今回も、公務員は、この手を使って、上司である日本国民を、まんまと欺いたわけだ。最後のおいしいところだけ、自分が受け取って、国民に差し出すことで。)

 (6) 日本中に心配させて迷惑をかけた
 たった一人のことに莫大な心配をしたからといって非難するのは、頭が狂っている。それよりはむしろ、イラクで数百人ものイラク人が殺されていることを心配すればいいのだ。なのに、後者については平気の平左でいて、前者のことばかり勝手に心配する。その偏った心配を、責任転嫁する。
 われわれが人質のことでひどく心を痛めたのは、心が優しいからではなくて、イラクで数百人ものイラク人が殺されていることを無視して、心が冷たかったからなのだ。
 仮に、心が優しければ、心配したからといって、非難することはないだろう。自分の心の冷たさ(エゴイズム)を、人質のせいにするのは、責任転嫁である。
 そもそも、「心配して、心理的負担を受けたぞ」と非難するのは、非難することで人質に心理的負担をかけることになる。「殴ることはいけない」と言いながら殴るようなものだ。立場が矛盾している。
( ※ 過去を見よう。あざらしのタマちゃんについても、さんざん心配したはずだ。あのときは、日本中が心配して、大騒ぎ。今は、けろりと忘れている。世間というものは、かくも無責任で気まぐれなのである。……そういえば、「タマちゃんを救うために、タマちゃんを拉致せよ」と試みた市民グループがあった。たぶん、「タマちゃんが死ぬと支持率が下がる」と思った小泉に、命令されたのだろう。で、小泉のために働いた費用は、タマちゃんに請求するつもりだったのだろう。)
( ※ はっきり言おう。日本国民が心配したのは、人質の生命ではなくて、日本の国策だったのである。それが心配だから、「人質が心配だ」と言いながら、逆に、人質を非難するのである。独裁国家の国民にとっては、お上に逆らうやつはすべて悪人なのだ。)

 (7) やはりもっと危険を考慮するべきだった
 そもそも、イラクは民間人が続々と人質になるような地ではなかった。なのに、急激に人質事件が発生したのは、ファルージャでの虐殺にも等しい事件が起こってからだ。その事件を起こしたのは、米軍であり、それを支持したのが日本なのだ。
 たとえ話。あなたが自宅で安全に暮らしている。そばに米軍基地があるが、一応、安全だ。すると、近所で暴力団が闘争を始める。米田組と伊良部組が大闘争。あなたも被害を受けた。すると、米田組の手下である小日向くんが、あなたを非難した。「こんな危険なところにいる方が悪いんだ。全部おまえが悪いんだ。おまえのせいで、こっちは心配させられた。おまえを移動させるのに費用がかかるから、費用を支払え。代金はロールスロイスのチャーター代、40万円也。」と。
 自分が危険をもたらしたことを忘れて、被害者に責任転嫁している。
( ※ 本来ならば、暴力団の抗争に巻き込まれたとき、あなたは誰に費用を請求するか? もちろん、暴力団だ。米田組が勝手に伊良部組を襲ったのだとすれば、米田組に請求するべきだ。つまり、破壊活動をした人に、破壊活動の結果責任を負わせる。これが常識。たとえば、暴力団が市民を殴ったら、暴力団に全費用を請求する。……で、日本政府は、どうしましたか? 暴力団が怖いので、何も請求することができず、逆に、後ろを向いて、被害者を脅しつけるのである。「おまえがぶん殴られたせいで、オレの服が血で汚れたぞ。クリーニングに金がかかる。費用を請求するから、費用を払え。おまえがそんな危険なところに行って、暴力団が暴力をふるう可能性を無視したのが、すべての原因だ」と。……カツアゲみたいなものだね。)

 (8) 人質になるのは油断があったから
 たとえそうだとしても、非難される理由にはならない。なぜなら、それで命を奪われたとしても、自分の命が奪われるだけであり、他人の命を奪うわけではないからだ。
 これはちょうど、レイプ事件の被害者を非難するのにそっくりだ。「おまえの心に油断があったから、レイプされたんだ。おまえが悪いんだ。おまえが悪いんだ」と非難する。苦しんだのは本人なのに、他人が横から口を挟んで本人を非難する。……これを「セカンド・レイプ」という。
 この用語は、定まった用語だ。あまりにも頻繁に起こるので、用語ができた。たとえば、冷酷な警察官が、レイプの被害者を尋問するときに、よくやる。「おまえがレイプされたせいで、こっちはこんな仕事をさせられる。迷惑なんだよな。考えてくれよ。おまえが悪いんだ。おまえは社会に迷惑をかけたんだよ。おまえのせいで犯罪が生じたんだよ」と。さらに、「元はといえば、夜道を歩くからいけないんだ。若い女というものは、夜の戸外を歩いてはいけないんだ。注意しろよ。そもそも、おまえが美人で心が優しいのが、すべての原因だ。何もかも、全部おまえの責任なんだ。みんなおまえが悪いんだ」と。
 今の日本でなされている非難は、セカンド・レイプと同様だ。
( ※ ワイドショーばかり見ているエゴイストの態度だ。自分でワイドショーを見たくせに、「ワイドショーを見せられた、ハラハラさせられた」と文句を言う。)

 (9) 占領政策に影響を与えた
 その通り。占領政策に影響を与えた。そしてまた、犯人に報酬を与える形になった。これだけは事実だ。
 ただし、それは、悪い方向ではなく、良い方向だった。すぐ直前には、莫大な市民が殺されるほどの、戦況悪化があったのだ。なのに、人質事件以降は、戦闘が沈静し、市民の命が救われた。さらには、ブッシュの政策転換によって、ブッシュ自体の命運や小泉の命運をも救った。
 人質のおかげで、世界は好ましい方向に、方向転換したのだ。彼らから被害を受けたのではなく、彼らから恩恵を受けたのだ。
 もし、彼らから影響を受けたことを批判するとしたら、「現状を悪化させよ」ということになる。「国連主導をやめて、戦闘で何百人の市民をも殺せ」ということになる。そう思うのなら、そうだとはっきり言うべきだ。「殺し合え、殺し合え」と叫ぶべきだ。そして、それができないのであれば、現状を改善するカギとなった人々を、非難するべきではない。さもなくば、自己矛盾だ。

 [ 付記1 ]
 以上、まったく馬鹿げた話だ、と思う人が多いだろう。まさしく、馬鹿げている。まともな神経を持っていれば、正しいことをした被害者を非難するなんていうことが、できるはずがない。
 だから、世界中で、日本は物笑いのタネになっているようだ。たとえば、フランスの新聞。(朝日・夕刊 2004-04-20 )
 別の外国紙は、「人質家族への記者会見では、家族をいたわる質問より、家族を責める質問がたくさん出た」とも報道している。加害者よりも被害者を責めるという倒錯。狂っているんですかね。
 で、今また、「人質は記者会見をせよ」と主張して、「いっぱい言葉を浴びせて、吊るし上げてやろう」と手ぐすね引いている人々がいる。被害者を徹底的に苦しめないと気が済まないようだ。サディスト。……こういうのは、マスコミ連中には、非常に多い。「弱者をいじめて、給料をもらえる。こんなに楽しい仕事はないな」というわけだ。プライバシーの侵害をするマスコミ連中と同類で、いずれも根っからサディスト体質だ。そういう倒錯したマスコミがまた、外国の物笑いになる。「マスコミが政府の犬になっているよ。マスコミは政府の犬。政府は米国の犬。犬ばっかりだな」と。
 世界中で、日本の態度は、犬か猿のごとく奇矯な態度として、物笑いのタネになっているようだ。ま、それも当然ですけどね。「国際社会に尊敬されるため」ではなく、「国際社会に軽蔑されるため」に、しきりに行動している。それが、政府と、その協力者だ。日本の国益を損ねるばかり。国賊だね。(イヤミです。)
( ※ 「そういう南堂だって、いつもイヤミばっかり言って、サディストだな」という意見も出るだろう。そうだ。私はサディストだ。だけど、私は、政府専門のサディストだ。女性や子供や病人が相手のときは、マゾになります。)
( ※ とにかく、人質をめぐるワイドショー化で、小泉ばかりが「してやったり」とほくそえむ。「イラク戦争を起こした張本人こそ根源だということを、まんまと隠しおおせたぞ。核心を隠して、脇道に逸らしたぞ。おかげで、オレの支持率も、急激に上がった。ひひひ。ワイドショーの好きな馬鹿ほどだましやすいものはない。してやったり」と。……なるほど。たしかに小泉は、物事の本質を逸らすのがうまい。稀代の詐欺政治家であろう。)

 [ 付記2 ]
 人質事件とは別件で、事実認識を示しておく。
 自衛隊派遣については、保守派を中心に、(対米従属の日本としては)「他に選択肢がない」という主張が多い。しかし、これは、まったく事実に反する。たとえ「対米従属」を前提としても、これは事実に反する。
 その反証となる例を示す。1991年、湾岸戦争が勃発した。このとき、各国はイラクに軍を派遣したが、日本は、130億ドルを負担しただけで、自衛隊を派遣しなかったのである。つまり、このとき、「自衛隊を派遣しない」という選択肢は、ちゃんとあったのだ。
( ※ 当時、自衛隊を派遣しなかった、ということは、皆さん、覚えていますね? イラクでは、今回が初めてです。日本は自衛隊を派遣しないことで、さんざんイヤミを言われたが、当時の首相[海部と宮沢]は、米国の要請を受け入れなかった。二人とも、ハトだったから。今は、タカ ……じゃなくて、犬ですけど。)


● ニュースと感想  (4月22日b)

 「イラク戦争と日本国民」について。
 人質事件について、これまでは人質の立場から論じてきたが、視点を変えて、われわれの立場から論じてみよう。この問題は、他人の問題のようであるが、実はわれわれ自身の人間的な問題となっている。非常に深い核心的な問題だ。

 「われわれは、イラクの人質事件に関しては、何も関与していないから、関係ない」と思っている人が多いようだ。しかし、そうではない。何も関与していないがゆえに、大きな関係があるのだ。
 そもそも、われわれは、日本国民である。とすれば、日本という国がイラクに対して取った行動に、責任がある。日本が米国と協力して、莫大な死者を出したなら、そのことに日本国民として責任がある。
 「いや、責任はないぞ」なんて責任回避する人もいるだろうが、日本国民が誰もがそう思うとしたら、誰も責任を取らなくなる。かといって、小泉一人に責任を取らせたくても、小泉一人では単なる一個人にすぎないから、何もできない。結局、小泉が何かをなしたとしたら、彼に国民の大多数が権力を与えたからにすぎない。とすれば、日本国民の全体が、イラク国民に対して責任がある。
 「いや、おれは自民党に票を入れていないぞ」なんていうのは、責任逃れの文句にすぎない。そういう態度を示す者を、卑怯者と呼ぶ。日本で生きていながら、日本人でない振りをしようとしても、駄目なのだ。日本人である限りは、日本政府の行動に責任を負う。(日本人に対しては責任を負わないが、イラク人に対しては責任を負う。)……このことは、広島原爆に対する米国人の態度を見るとわかる。ある人は、「原爆を落として広島で十万人以上を殺したのは、正当だった。なぜなら、それによって莫大な戦死者を出すのを免れたからだ」と主張する。ここでは、「自国民の兵士」と「相手国の市民」とを、単純に数で比較している。国際法違反の、とんでもない認識だ。一方、ある人は、「原爆を落としたのは、米国の間違いです。申し訳ありませんでした」と詫びる。たとえ自分が原爆を落としたのではないとしても、米国市民の一人として、日本人全体に詫びる。(なぜなら、死者には詫びることができないから。)……こういう態度こそ、正々堂々としている。
 われわれが取るべき態度は、こういう正々堂々とした態度であって、「自分の責任じゃないよ」と責任逃れをすることではない。

 では、イラクに対して責任があるとしたら、どうするべきか? もちろん、贖罪(しょくざい)をするべきだ。「イラクの復興に協力する」なんていう善人面をせず、「自分たちは数千人ものイラク人を殺したのだ」という前提に立って、贖罪をするべきだ。
 では、贖罪をしてきたか? 結局、何もしなかった。政府は何かをなすと言いながら、自衛隊を派遣して、小さな陣地で少量の水を配布しているだけだった。実際に水を配布しているのはイラク人であり、自衛隊は給水車を作動させるという、自動車ごっこをする幼稚園児みたいなことしかしていなかった。
 われわれは責任があり、しかも、贖罪をしなかった。しかし、そのわれわれのかわりに、高遠さんたちが尻ぬぐいをしてくれたのだ。

 これと同じようなことは、昔もあった。二千年前に、貧しき人々が罪を犯したとき、「かわりに私を鞭打ちなさい」と言って、鞭打たれ、磔にされたキリストだ。キリストは、多くの人々の罪をかわりに負って、自らの命を犠牲にした。高遠さんは、多くの人々の罪をかわりに負って、自らの命を危険な地に赴かせた。
 そして、キリストは、当時の政府にさんざん非難され、ついには火あぶりにされて殺された。そして今、日本では、高遠さんたちをさんざん非難して、ほとんど火あぶりにでもしそうな勢いだ。政府は善なる女性を口汚く罵り、保守系のマスコミはそろって善なる女性を非難する。
 では、その理由は、何か? 彼女がわれわれの罪を、かわりに負ってくれたからだ。なのに人々は、「あいつも何もしなければよかったんだ。あいつもおれたちみたいに無責任であればよかったんだ。命知らずの馬鹿者め」と非難する。
 しかし、彼女がそうしたのは、なぜか? われわれが無責任で無為だったからだ。われわれが無責任で無為であったがゆえに、彼女がかわりに危険な地で贖罪をしたのだ。なのに、その今、われわれは、知らんぷりをする。「自分たちは何もしなかったのだから、何も責任はない」と叫ぶ。「実は何もしなかったからこそ責任がある」ということに気づかない。
 だからこそ、この人質事件は、われわれ自身の問題なのだ。

 [ 補足]
 説明を補足しておく。
 「何もしないのに、なぜ責任が生じるのか?」という疑問があるだろう。その理由を言おう。あなたは、何もしないわけではないからだ。あなたは一つ、重大なことをなしている。それは「生きている」ということだ。生きていること自体によって、重大な責任が生じる。
 なぜなら、イラク国民は死んだからだ。正確に言えば、日本がイラク国民を死なせたからだ。そして、あなたが日本に属している限り、日本の責任をあなたも負う。それは生き残っているものの宿命だ。
 だから、あなたが責任を免れたいのならば、その方法は、二つある。一つは、日本国民であることをやめることだ。通常、先進国は、いきなり国籍変更して自国民になることを認めない。だから、とりあえずは、アフリカの最貧国にでも行って、餓死寸前になるといいだろう。少なくとも、日本の豊かな生活を捨てる必要がある。もう一つは、日本がイラク国民になしたのと同様のことを、あなたもなされることだ。つまり、「大量破壊兵器があるから」という嘘の名分で爆撃され、「馬鹿な指導者がいたから」という理由で爆撃を正当化され、その指導者が消えたあとも、今度は、「占領に抵抗するやつがいるから」という名分で、独立運動にあなたも巻き込まれて、虐殺されることだ。あなたもイラク国民と同様に虐殺されたとき、それまでの虐殺の責任が帳消しになる。……そして、そうするまでは、責任を免れないのだ。たとえあなたが女であれ赤ん坊であれ、イラクでは女や赤ん坊などが虐殺されたからには、責任を免れないのだ。
 ただし、たった一つ、例外がある。それは、あなたのかわりに、高遠さんのような人が、あなたの責任を果たしてくれることだ。ただし、今の日本は、その道を自ら閉ざしてしまった。

 [ 付記 ]
 今回の事件では、国民の立場が、大きく割れた。それは、なぜだろうか? 実は、人生観ないし価値観の差による。
 たいていの人は、「利益こそ目的だ」と考える。国にとっては国益が大切であり、個人にとっては自己利益が大切だ。だからこそ、国益をそこねると見える意見を批判したり、政府の金を無駄にすると見える人質を非難したりする。そこにあるのは「金こそすべて」という価値観である。
 別の人は、「愛や平和こそ大切だ」と考える。自国だけの利益よりも世界の利益が優先するし、自分一人だけの利益よりも世界全員の利益を大切にする。場合によっては、自己の利益を削ってでも、他人の利益を増やそうとする。なぜか? 経済観念がないからか? いや、とても広い経済観念があるからだ。それは、「自分が1円の利益を失うことで、世界全体が何倍もの利益を得るのであれば、喜んで自分の利益を削ろう」という発想だ。そこにあるのは「愛こそ大切」という価値観だ。
 後者の博愛主義者は、他人を憎んだり非難したりすることはない。しかし、前者のエゴイストは、博愛主義者を憎んで非難する。「おまえがそんなことをするせいで、こっちにスズメの涙ほどの迷惑がかかるんだよ。おれたちには、スズメの涙ほどの損失さえ受け入れられない。迷惑をかけるな!」と。
 今回の対立の根底にあるのは、この価値観の対立だ。日本の国民を見ると、豊かな時代には、後者の立場が多かったが、不況になってからは、前者の立場が優勢だ。かくて、現在のように、人々は博愛主義者を非難する。
 貧すれば鈍す。


● ニュースと感想  (4月22日c)

 【 注記 】
 イラク問題では世間が騒いでいますが、私のページにあるのは、私の個人的意見です。
 これに対する批判などもあるでしょうが、当方は、ご意見・ご感想を、受け付けておりません。また、論争をするつもりもありません。
 なお、「経済の話以外は読みたくない」とお思いの方は、冒頭のタイトルから判断して、その項目を読み飛ばしてください。

 なお、イラク問題では、特定の政治的な意図があるように見えますが、これは例外的です。一般に、与党であれ、野党であれ、特定の政党を擁護するつもりはありません。ただし、国中でそろって、特定の弱者を攻撃する場合には、この原則を捨てて、ちっぽけな弱者の擁護のために強く発言することがあります。
 私の基本的な政治姿勢は、「強きを挫き、弱きを助く」です。これを「偏向している」と批判する方がいるようでしたら、たしかに私は偏向しているので、お詫びします。不満な方は、どうぞ、政府だけを擁護してください。

 【 注記 】
 イラク問題についてまとめた新ページを作成しました。
 ただし、既存の「ニュースと感想」の過去ログ へのリンクだけです。
 新規の内容があるわけではありません。
    → イラクの人質問題の本質
      http://www005.upp.so-net.ne.jp/greentree/koizumi/77_iraq.htm
    ※ 興味のある方は、このページ への リンクを作成してみてください。
      (この問題では、「ニュースと感想」のページへのリンクより、便利です。)

 【 注記 】
 「裸のマハ」については、最後に別の記述を追加しました。 ( → 4月18日


● ニュースと感想  (4月23日)

 【 人質になった三人への勧告 】
 ( ※ 事態が急展開しているようなので、予定に反して、本日分を掲載します。)

 人質になった三人へ勧告する。
 あなたたちは、重大なミスをした。将来を楽観しすぎて、危険を無視した。自らの生命を危険にさらしたし、のみならず、生命を失う危険がある。……なぜなら、イラクを離れて、日本に帰国したからだ。
 今の日本は、イラクよりも、はるかに危険だ。日本中でそろって、あなたたち三人を攻撃している。イラクでは、あなたの敵は十数人ぐらいの誘拐犯だけだったろうし、実際には何も危害を加えられなかった。しかし、日本では、あなたの敵は、国民の大半である。しかも、すでに実害が加えられている。金銭的な危害は言うに及ばず、脅迫の類は枚挙に暇がない。明白な危険がある。
 あなたたちは、日本という国を、信頼しすぎた。イラクでは生命の危険はほとんどなかったが、日本では生命の危険がある。
 現実の危険の程度を見よう。実は、あなたたちは、イラクではほとんど危険を冒していない。比較すれば、自衛隊員もまた、イラクには大量に赴任した。しかし彼らは、イラクに向かったことで、「危険な土地に向かった」とは非難されなかった。では、現実にはどうか? 本当は、民間人よりも、自衛隊員の方がはるかに危険である。仮に、テロリストに束縛されたなら、自衛隊員ならば処刑された可能性が非常に高い。また仮に、自衛隊員として武器をもっていたならば、ほぼ確実に死んでいただろう。……しかし、あなたたちは、自衛隊員ではなく、武器を持たなかった。自衛隊員よりは、はるかに危険の度合いが少なかった。
 莫大な危険を冒した自衛隊員は、何もしなくても、政府に大称賛される。小さな危険を冒した民間人は、大切な何かをしても、国中に非難される。日本は狂気の国である。今の日本はイラクよりも危険なのだ。あなたたちは、危険を無視し、現実を甘く見すぎた。
 この危険は、現実のものである。単に脅迫だけでは済まない可能性を、私はひどく懸念する。たとえば、妄想に駆られた右翼あたりが、「国賊め」と凶刃をふるう可能性がある。妄想に駆られたのが右翼だけならばいいが、今は日本中が妄想に駆られている。
 あなたたちは、日本人に襲われる可能性を、ほとんど考慮していない。しかし、あなたたちが日本で襲われる可能性は、かなりある。では、なぜか? 悪いことをしたからか? 違う。あなたたちが、期待を裏切ったからだ。
 今回は、日本中が、あなたたちについて、大きな期待をしていた。それは、「テロによる殺人ショー」である。いわば昔の死刑犯が火あぶりなるのを市民が期待するように、あなたたちが銃殺されるのを国民が期待していた。なのに、あなたたちは、国民の期待を裏切ったのである。だからこそ、日本中が、怒り狂っているのだ。
 そうだ。そうとでも考えなければ、日本中がこれほど激しく怒り狂うはずがない。人々は、「ひどく迷惑を受けた」とさんざん非難する。しかし実際には、何の迷惑も受けていないはずだ。では、なぜ、迷惑を受けたと感じるのか? マイナスを受けたのではない。プラスを奪われたのだ。それは「殺人ショーを楽しむ」というプラスだ。大切な楽しみを奪われたからこそ、人々は怒り狂うのだ。仮に、あなたたちが銃殺されたならば、そのことで、人々は満足しただろう。

 現実には、事態は予想どおりに進まなかった。なぜなら、テロリストと呼ばれた犯人たちは、日本政府よりもはるかに人道的だったからだ。日本政府はあなたたちを見捨てたが、犯人たちはあなたたちを丁重にもてなした。日本政府はあなたたちに費用を請求したが、犯人たちはあなたたちに一円も請求しなかった。(むしろ食事をプレゼントした。)
 こうして、人々は期待を裏切られた。だから、このあとで、最初の予定を実現させようとする。あなたたちに、死を期待している。だから、今の日本は、世界で一番危険な地なのだ。

 今の日本は、あなたたちに「ああしろ、こうしろ」と多大な要求をする。しかし、いくら要求に応えても、あなたたちは許されない。なぜなら、あなたたちは、死ななかったからだ。日本中が、あなたたちの死を期待したときに、あなたたちは期待を裏切ったからだ。日本は今、あなたたちに、死を望んでいる。日本は狂気の国なのだ。この危険を無視するべきではない。…… 一刻も早く、狂気の世界から脱出して、正気の世界に向かうべきだ。
 今の日本は、に飢えている。

 [ 付記 ]
 これと似た例は、古代ギリシア時代にもあったようだ。
 スパルタ軍兵士 300人が、テルモピレーの戦いで玉砕した。兵士たちは、「祖国の願い通り、全員がここで死ぬ、と伝えてほしい」と言葉を残した。この言葉を伝え聞いて、スパルタの国民(正確には市民)は、兵士の玉砕を、この上なく名誉に思った。ところが、戦場では奇跡的な幸運によって、一人の兵士が生き残った。彼が故郷にたどりつくと、スパルタの人々は困惑した。死を期待したのに、その期待が満たされなかったからだ。
 結局、スパルタは、この生き残りの兵士を、「異邦人」として取り扱い、追放した。人々は、死ぬべき人が死んでいないと判明したとき、期待を裏切った彼を自国で生かしておくことはできなかったのである。
( ※ ロバート・ゴダード「永遠に去りぬ」東京創元社。創元推理文庫。379頁。「典拠の定かでない話」として紹介されている。)

 [ 補足 ]
 先日の読売の世論調査によると、小泉の支持率は約 60%にまで急上昇。これが日本人の狂気比率。正常・中間は、残りの 40%だけ。

 [ 注釈 ]
 あとで思ったのだが、誤解されるとまずいので、注釈しておきます。(言わずもがなの説明だが。)
 本項はもちろん、三人への「勧告」であって、「非難」ではない。守ろうとしているのであって、責めているのではない。
 なお、本当を言えば、そもそもの話、三人に向けて言っているのですらない。当り前だ。三人がわざわざ、私のページなどを読むはずがない。
 本当は? 世間一般に向けて言っている。そしてまた、もっと本当を言えば、このページを読んだ人に考えてもらうために言っているだけだ。
 要するに私は、「日本は狂っている」と言いたいのであって、「三人は出て行け」と言っているわけではない。……ただし、「出て行くな」と言ってるわけでもない。三人のことを思えば、本当に、私は生命を危惧している。なぜなら、正気を失った人々は、何をするかわかったもんじゃないからだ。もし私だったら、事情さえ許せば、こんな国からはさっさと脱出します。命あってのものだね。
 だから、フランスあたりに政治亡命してはいかがでしょうか? 「日本では迫害されているので、助けてください」と。たぶん、認めてくれると思う。
(ついでだが、観光ビザでは、長期滞在は無理でしょう。労働許可もなかなか得られそうにない。となると、政治亡命しか、道はないと思う。北朝鮮から政治亡命する人がいるように、日本から政治亡命する人がいてもおかしくない。どちらも似たような国なのだから。お上に逆らえば、徹底的に迫害される点では、両国は共通している。)







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