[付録] ニュースと感想 (62)

[ 2004.2.25 〜 2004.3.09 ]   

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● ニュースと感想  (2月25日)

 「マネタリズム」について。
 これまで、マネタリズムについてさんざん批判してきたが、マネタリズムとはどういうものか、簡単にまとめておこう。次のように要約できる。
  1.  経済は需給曲線だけで決まる、と考える。
     需給は常に(均衡点で)均衡する、と考える。
     ( ※ この意味で、古典派である。)
  2.  貨幣供給量を一定にすることで経済の安定が保たれる、と考える。
     不況のときは貨幣供給量を増やすべきで、インフレのときは貨幣供給量を減らすべきだ、と考える。
  3.  財政赤字は出すべきではない、と考える。
     (貨幣供給量をやたらと増やすべきではなく、また、公共投資によって民間投資を食うべきではない、と考える。)
 しかし、ここでは、何か大切なことが見失われている。
  1.  「需給曲線の変動」が無視されている。
     需給に「不均衡状態がある」ということが無視されている。
  2.  貨幣供給量だけにとらわれていて、生産と所得と消費の「循環的な過程」というマクロ的な認識が、まったく欠落している。
  3.  財政赤字を考えているとき、単に政府だけの赤字を見ていて、日銀の黒字を無視している。そのせいで、タンク法のような認識ができない。「実質的な借金の有無」を見失って、政府の帳簿の赤字だけにとらわれている。
 彼らは、物事をあまりにも単純に考えすぎているのだ。経済という複雑な現象を捉えるときに、マクロ的な認識なしに考えている。動的に理解しないで、静的にだけ理解している。単に「貨幣供給量の増減が、GDPの増減に効果があるか」を定性的にだけ考えて、定量的に考えない。所得とGDPの関係などは考えずに、すべてを貨幣供給量だけで説明しようとする。
 そのあげく、前述の三つだけを基本原則とする。つまり、
  1.  「需給曲線による均衡」(需給ギャップの無視)
  2.  「貨幣供給量だけによる調整」(所得の無視)
  3.  「財政赤字という帳簿上の数字だけの認識」(借金の無視)
 こういう粗雑な思考法が、マネタリズムの特徴だ。そして、現在の主流の経済学は、この粗雑な思考にすっぽりとはまりきっているのだ。

( ※ マネタリズムの主張は、全面的に間違っているというわけではない。無知状態に比べれば、はるかにマシであろう。ただし、そこには、最も大切なものが抜けているのである。そのせいで、事実を正反対に認識してしまっているのだ。)
( ※ なお、1番目は、トリオモデルで説明がつく。2番目は、修正ケインズモデルで説明がつく。3番目は、ミドル経済学で説明がつく。)


● ニュースと感想  (2月25日b)

 「貨幣数量説」について。
 貨幣数量説について、全体的な位置づけを与えておこう。
 まず、貨幣数量説は、次の式で示せる。
   (貨幣供給量)= × (物価水準)×(実質国民総生産)
   ※ なお、 k は定数であり、「マーシャルの 」と呼ばれる。流通速度の逆数。
 さて。この式に従えば、本項で述べた話は、次のように言い換えられる。
 「貨幣供給量を増やしても、物価水準が上昇するだけであり、実質国民総生産が増えるわけではない」
 「ただし、長期的にはそうだが、中期的には、物価水準が変動しないまま、実質国民総生産が増える(ように見える)ことがある」
 この二つの命題のうち、後者は、「貨幣数量説が成立する」とも「貨幣数量説が成立しない」とも言える。物価水準が変動しないとして、実質国民総生産の増加が、貨幣供給量の増加をともなえば「貨幣数量説が成立する」と言えるし、貨幣供給量の増加をともなわなければ「貨幣数量説が成立しない」と言える。成立しないとしたら、 k が定数ではないことになる。実質国民総生産の増加が貨幣供給量の増加をともなわないとしたら、 k が低下した(流通速度が上昇した)ことになる。
 そして、そういうことは、景気回復過程では発生する。というわけで、貨幣数量説は、中期的には成立しないことがある。
( ※ 「貨幣数量説が成立しない」というのは、「上の式が成立しない」という意味ではなくて、「 k が定数ではない」という意味である。ただし、「 k が定数である」ということを前提とすれば、「上の式が成立しない」という意味になるが。)

 [ 付記1 ]
 貨幣数量説に関係するが、無視してもいいものとしては、次のようなものがある。何らかの変動要因になるが、いちいち考察しないでいいだろう。
 「野菜の価格の季節変動」(短期的な変動にすぎない。「雑音」のようなもの。)
 「生産性の向上」(どの国でもどの時代でもほぼ一定の変化だから、いちいち考慮不要。)
 こういうものは、貨幣価値を変動させるが、経済学ではあまり考えなくてよい。経済学の扱う問題ではなくて、政治の扱う問題であろう。人々の経済生活には影響するが、経済学者がどうのこうの言っても仕方がない。たとえば、天気の変動で野菜の価格が変動するとしても、それは、お天気の問題であって、経済学者がどうのこうの言っても仕方がない。

 [ 付記2 ]
 本項では、「景気回復過程では、貨幣数量説は成立しない。 k が低下する」と述べた。そして、「実質国民総生産」が増えるというのは、景気回復過程である。
 だから、「実質国民総生産が変動するような場合(マクロ経済学で扱われるような場合)には、貨幣数量説は(中期的には)成立しない」と見なせることになる。
( ※ 似たような話は、以前も述べたことがある。 → 3月17日
( ※ この件については、明日分でも述べる。 → 次々項


● ニュースと感想  (2月26日)

 「貨幣数量説とマネタリズム」について。
 前項では、「貨幣数量説」についてまとめておいた。ここで、マネタリズムとの関連を示そう。
 前項の話では、「実質国民総生産」が変化しないことを前提としてきた。しかし、実質国民総生産が変動することがある。それがマクロ経済学の扱う問題だ。
 ところが、実質国民総生産の変動については、貨幣数量説では説明できないのだ。つまり、貨幣数量説では、マクロ的な事柄が、すっかりこぼれ落ちているのだ。これが、貨幣数量説の欠点である。同時に、マネタリズムの欠点である。

 なお、ここで注意しよう。貨幣供給量の変動が実質国民総生産を変動させるわけではない。たとえば、貨幣供給量をどんどん増やせば、実質国民総生産がどんどん増えるわけではない。かわりに、物価がどんどん上昇するだけだ。つまり、貨幣は富をもたらさない。(何度も言ったとおり。)
 では、何が実質国民総生産を増やすのか? それは、労働量だ。労働量を増やせば、生産量も増える。これは当り前だろう。(ただし、ここでは、生産設備によって制限されないことが前提となる。つまり、稼働率の向上だけで済むことが前提となる。そして、そのことは、上限均衡点までは、成立する。)

 では、どうやって労働量(生産量)を増やすか? その問題を扱うのが、マクロ経済学そのものだ。たとえば、デフレのときには、労働量を増やして生産量を増やす。インフレのときには、労働量を減らして生産量を減らす。……そういうことは、増減税や金利を調節することによって、可能となる。こういう事情を明かすことが、マクロ経済学である。
 ともあれ、実質国民総生産が増えると、「貨幣供給量」と「物価水準」との比例関係は、成立しなくなる。

 マクロ経済学の考え方によれば、生産量を変動させるものは、労働量である。
 一方、そういうマクロ経済学の原則をすべて無視して、「貨幣供給量だけを調節すれば、マクロ的なことはすべて片付く」と考えるのが、マネタリストである。彼らは、「貨幣供給量を増やすと、金利が低下するので、投資が増えて、生産量が増える」とだけ結論する。マネタリズムには、次の二つの難点がある。
 第1に、「需要の増加」ということはまったく無視される。だから、供給過剰のデフレのときには、無効である。
 第2に、「どれだけ貨幣供給量を増やすと、どれだけ生産量が増える」というモデルがない。だから数量的な予測がまったくできない。単に「効果が出るまで貨幣供給量を増やせ」とだけ、数量なしの定性的な主張だけをする。つまり、あらかじめ「これだけの量を増やせ」と主張せずに、「効果が出なければ効果が出るまで無限に貨幣供給量を増やせ」と主張する。出たとこばったりの素人処方である。
 結局、マネタリズムには、マクロ経済学がまったく欠落しているのである。そして、マネタリズムとは逆に、マクロ経済学を示すのが、修正ケインズモデルである。

 [ 付記1 ]
 要するに、「物価が上昇すると、早く購入した方が得だから、投資や消費が増える」なんていうおおざっぱな論説は、数量的なモデル論になっていないから、ダメなのだ。それはとうてい科学的な論説とはなっていない。
 たとえば、「万有引力があるから、二つの天体には引き合う力が働く」なんてことを定性的に言ってもダメだ。「どのくらいの力が働く」というふうに定量的に示す必要がある。それが科学というものだ。
 経済学で言えば、「物価上昇があるから、早く購入する。ゆえに生産量が増える」なんていう主張は、ただの損得勘定であって、モデル論になっていない。モデル論で言うならば、「物価上昇によって、実質所得がこれだけ減る」という面も示す必要がある。つまり、所得の影響だ。
 では、モデル論的には、どうか? 修正ケインズモデルでは、うまく表現される。「物価上昇の効果」(アメとムチ)は、「消費を促進する効果」があるが、それは、「消費性向を高める効果」として、修正ケインズモデルで表現される。また、「実質所得が減る」という面は、「所得の減少」として、修正ケインズモデルで示される。両者の関係は、一定ではないので、シミュレーションをして、さまざまな組み合わせを想定できる。
 なお、「物価上昇による消費促進」(アメとムチ)ではなく、「物価上昇による投資促進」の効果は、「実質金利の低下」として、わかりやすく表現される。だから、「物価上昇が投資を増やす」というのは、わかりやすい話だ。しかし、「物価上昇が消費を増やす」というのは、わかりやすい話ではない。なぜか? そもそも、企業の投資ではなくて人間の消費は、損得勘定では決まらないからだ。たとえば、一日に必要な食事は一日分であって、明日の食事を今日に済ませることはない。「明日の牛丼が 450円で、今日の牛丼が 280円だから、明日の食事を今日のうちに取る」ということは、ないのだ。たとえ得になるとしても、今日のうちに二日分の昼食を取ったりしないのだ。
 要するに、「物価上昇があると、実質金利が低下するから、投資が増える」と主張するのはいいが、「物価上昇があると、早く買った方が得だから、消費が増える」と主張してもダメなのだ。消費の量をモデル的に決める要素は、所得と消費性向であって、損得勘定なんかではないのだ。
( ※ 損得勘定は、行動を決める心理的原因になるだけだ。しかも、心理的原因となるさまざまな要素のうちの、一要素であるにすぎない。とにかく、一要素であれ、多要素であれ、経済学は心理学ではないのだから、そんな心理的原因となる要素をあれこれと分析する必要はない。では、何を考察するべきか? 経済学が消費について考察するべきことは、所得と消費性向だけだ。……マネタリズムというのは、消費については、数値をほったらかして、心理についてばかり主張しているが、そういうのは、経済理論ではなくて、ただの文学的な小説であるにすぎない。「彼はこう思うからこう行動する」と。下手な小説だ。ともあれ、マネタリストは、自分の言説を出すなら、経済学の分野ではなくて、芥川賞か何かにでも応募した方がいい。)

 [ 付記2 ]
 マネタリズムが貨幣供給量の調節ばかりをしきりに重視することについて、先に批判した。ただし、誤解してほしくないが、「貨幣供給量の調節がまったく無意味だ」と述べているわけではない。「貨幣供給量はあくまで労働量[生産量]を変動させる多くの要因のうちの一要因にすぎない」と述べているだけだ。「それだけじゃなくてもっと多くのことを見よ」と主張している。ここでは、見るべきものとして特に大事なのは、需要や所得である。逆に言えば、ここを見失っているのが、マネタリストだ。
( ※ 本項と同趣旨のことは、前にも述べたことが何度かある。ややおおざっぱな形でだが。)


● ニュースと感想  (2月26日b)

 「貨幣数量説の成否」について。
 貨幣数量説の根本原理は、「貨幣は富をもたらさない」ということだ。たとえば、お札の量を2倍にしたとしても、小麦の生産量やパソコンの生産量が2倍になるわけではない。つまり、「お金の量が2倍になったから、富の量も2倍になる」のではなくて、「お金の量が2倍になると、物価が2倍になる」というだけのことだ。( → 2月22日
 ただし、このことは、原理的には成立するのだが、例外的に成立しないことがある。つまり、「お金の量が 10%増えると、小麦の生産量やパソコンの生産量が 10%増える」というふうに見えることがある。ただし、これは、あくまで見かけ上のことだ。では、どういう場合か? それは、次の二つだ。
  1.  富の先食い (未来の富を先食いすることで、見かけ上、生産量が増える。)
  2.  富の流入  (外国の富を先食いすることで、見かけ上、生産量が増える。)
 この二つの共通点は、「需要超過」である。たとえば、500兆円の所得しか生産しないのに、550兆円の商品を購入する。差額の 50兆円が、需要超過費である。
 では、その差額の 50兆円の商品は、どこからやって来たか? まさか、空から降ってくるわけではあるまい。その出所は、二つ考えられる。一つは、「在庫」であり、もう一つは、「外国」(つまり輸入品)である。前者は、「富の先食い」であり、後者は、「富の流入」である。この二つについて、以下では順に説明しよう。
( ※ なお、「需要超過」については、先に説明したことがある。重要なので、ぜひ、参考に読んでほしい。 → 10月05日b10月09日

 (1) 富の先食い
 在庫品を購入すれば、それは「生産しないで商品を得る」ということになる。たとえば、50兆円の在庫があるときに、500兆円の生産をして、550兆円の購入をする。ここでは、50兆円の貨幣を増刷しても、物価上昇は起こらない。単に在庫が減るだけだ。
 在庫のほかに、「ツケ払い」というのもある。バーで「ツケで酒を飲む」というのは、「金を払わずに飲む」というわけだから、「タダで酒を飲む」というのと同様である。逆に言えば、バーでは、「タダで酒を飲ませる」ということになる。この場合も、「生産しないで商品を得る」ということになる。
 ただし、いずれも、一次的な現象にすぎない。「在庫の取り崩し」にせよ、「ツケ払い」にせよ、永遠に同様のことが続くわけではない。ある期に「ツケ払い」で酒を飲めば、次の期には「ツケの清算」という支払いが必要だ。同様に、ある期に「在庫の取り崩し」をすれば、次の期には在庫の補充が必要だ。(あるいは、前もって、先に在庫を補充していたことになる。)
 とはいえ、そのような「清算」をするまでの間は、貨幣数量説が成立しないことになる。このことに注意しよう。
 特に、景気回復の過程では、タンク法の減税があっても、すぐには物価上昇が起こらない。当面は、在庫の取り崩しなどによって、物価上昇が猶予される。そして、その間は、「50兆円分、金を印刷したら、50兆円分、富が増えた」というふうに見えるのである。
 そういうわけで、中期的には、貨幣数量説が成立しないことがある。とはいえ、長期的には、「ツケ払い」をしなくてはならないわけだから、長期的には、貨幣数量説は成立するわけだ。

 (2) 富の流入
 貿易赤字を出して商品を輸入すれば、それは「生産しないで商品を得る」ということになる。(これは「ツケ払い」とほぼ同様である)
 たとえば、500兆円の生産をして、50兆円の輸入をして、550兆円の購入をする。ここでは、50兆円の貿易赤字が出ている。そして、この赤字の分は、50兆円の資本収支でまかなわれる。つまり、借金の形で 50兆円の金を得て、その 50兆円で外国の商品を買う。たとえば、米国が日本に 50兆円の貿易赤字を出して、一方、日本銀行が米国国債を 50兆円買うことで米国が日本に 50兆円の借金を負う。
 ここでは、50兆円の貨幣を増刷しても、物価上昇は起こらない。輸入ならば、その 50兆円の貨幣は、外国に行く。政府が発行するのは、50兆円分の国債だけであり、その国債を外国に渡す。( → 2月12日
 ともあれ、ここでは、国債を通じた「借金関係」が外国との間で生じる。借金をしていられる間は、「需要超過」という形で、「生産しないで商品を得る」ということが可能だ。とはいえ、いつまでもそれが可能であるわけではない。「永遠の借金は不可能だ」と先に述べたとおりだ。つまり、借金は、いつかは返済しなくてはならない。結局、多大な貿易赤字を出していれば、いつかはそれを補うだけの貿易黒字を出さなくてはならない。そのとき、過去において「生産しないで商品を得る」ことをなしたかわりに、今度は、「生産しても商品を得ない」というふうになる。(借金返済をするわけだ。)
 というわけで、とにかく、多大な貿易赤字を出している間は、「貨幣を増刷しても、物価上昇が起こらない」というふうになるわけであり、中期的には、貨幣数量説が成立しないことになる。とはいえ、長期的には、永遠に貿易赤字を出しているわけには行かないので、長期的には、貨幣数量説は成立するわけだ。(とはいえ、ここでいう「中期」というのは、かなり長い期間を取れる。景気変動の「中期」というのは、数年程度だが、貿易赤字を出せる期間である「中期」というのは、もっとずっと長くなることも可能だ。)
( ※ 「輸入」という件については、先の「需要超過」の話で、「開放系」の話として説明しておいた。 → 10月06日 など。)


● ニュースと感想  (2月27日)

 「貨幣数量説と通貨レート」について。
 前項では、「富の先食い」と「富の流入」について述べた。このうち、前者は、普通の景気回復にともなって現れる当然の現象であり、特に注意する必要はないだろう。問題は、後者だ。「富の流入」には、注意するべきだ。
 「富の流入」すなわち「貿易赤字を出す輸入増大」というのは、貨幣数量説が成立しない。つまり、「生産しないで商品を得る」ということが可能だ。これは一見、「打ち出の小槌」があるように思える。非常に幸福な生活を送れる。しかし、その本質は、「借金」(外国への借金)なのである。幸福なように見えるのは、借金をして蕩尽しているだけのことなのだ。
 さて。前項では、こういう「借金」の問題を指摘した。しかし、「借金」とは別の問題がある。それは、「通貨レート」の問題だ。

 「富の流入」すなわち「貿易赤字を出す輸入増大」があるときには、通貨レートが正常ではないのが普通だ。通貨レートが正常であれば、貿易赤字を出さないように、通貨レートはうまく調整されているはずだ。ところが、何らかの為替介入がなされていると、資本市場を通じて、通貨レートが歪む。たとえば、日銀が円売り介入をすると、円安・ドル高になる。かくて、ドルが過度にドル高となり、通貨レートが歪み、その結果、米国に貿易赤字が発生する。

 さて。こういう為替介入がなされると、貨幣数量説にも影響が出てくる。そのことを示そう。
 バブル期には、日銀が円安介入をした。そのせいで、国内には、大量の円があふれた。こうして貨幣供給量が増大したのだから、当然、物価は上昇していいはずだった。ところが、現実には、物価はほとんど上昇しなかった。つまり、貨幣数量説は、成立しなかった。
 では、なぜか? それは、次の二通りで説明が可能だ。
   (a) 輸入品価格が大幅に下落したので、それが物価下落圧力となった。
   (b) 円表示では物価は上昇しなかったが、ドル表示では円高の分だけ物価は上昇した。

 この二つのうち、どちらの解釈を取っても、本質的にはあまり変わらないだろう。ともあれ、この二つの考え方を取れば、次のように説明できる。
  1.  レーガノミックスの反動として、大幅な円高が発生した。
  2.  日本には貿易黒字が出ていたのだから、円高は当然であったが、産業界の意見を受け入れて、日銀が過度に円安介入をした。
  3.  同時に、円高不況を避けるためという名分で、低金利・量的緩和が過剰になされた。
  4.  これらは、円高不況の発生した初期には意味があったが、円高不況が解決して景気が拡大したあとでも、なおも継続された。
  5.  このころ、物価上昇率は、低率だった。そのことから、「インフレではない。まだまだ景気期は加熱していない」と見なされた。これが、量的緩和が継続した理由となった。
  6.  円安介入と量的緩和の結果として、貨幣供給量は非常に増えた。
  7.  貨幣供給量は非常に増えれば、本来ならば、物価が上昇するはずだった。ところが、円安のせいで、円表示の物価は上昇していなかった。(貨幣数量説の不成立。
  8.  なのに、日本銀行は貨幣数量説を信じた。そして、「(円表示の)物価は上昇していないから、物価上昇を抑制する必要はない」と判断して、量的緩和を継続した。
  9.  このとき、増えた貨幣が投資と消費の双方に平等に行けば、単純なインフレが発生して、日銀の判断は誤らなかったかもしれない。ところが、現実には、そうではなかった。「輸入品価格の下落に対抗して、コストダウンする必要がある。国際競争力を高めるには、賃金水準を下げる必要がある」という経団連の方針のもとで、労働分配率が抑制された。その結果、消費が抑制された。結果的に、行き場をなくした大量の資金は、消費のかわりに、投資に向かった。
  10.  大蔵省は、「財政再建」の名の下で、借金返済を続けた。そのことで、(民間の)投資資金がどんどん増えていった。
  11.  投資資金のうちの一部は、設備投資に向かった。しかし、しょせん、消費が抑制されているだから、設備投資ばかりをするわけには行かない。また、人手不足になっていて、設備投資をしても、人間を雇えなくて、生産を拡大できない。これらの理由により、投資資金は、設備投資よりも資産投資に向かった。
  12.  資産市場に大量の資金が流入した。資産インフレの発生。バブルの発生。
  13.  それでも日銀は量的緩和を継続し続けた。
  14.  バブルの膨張。
  15.  やがてついに、日銀は量的緩和の方針を撤回して、「総量規制」に踏み切った。
  16.  バブルの破裂。
  17.  景気の急降下。デフレへ向かう。
 ここでは、7番目の「貨幣数量説の不成立」ということが重要だ。通貨レートの変動により、貨幣数量説は「不成立」になっていたにもかかわらず、「成立」と信じた日銀は、「物価水準が低いから、貨幣供給量は過大ではない」と判断した。ここに、根本的な問題があったわけだ。(これ以外の諸点については、以前も同じようなことを述べたことがある。)

 では、正しくは、どうするべきだったか?
 円高があれば、物価下落が起こるのが当然だ。とはいえ、物価下落を起こすことは、現実には困難だ。輸入品価格の下落に応じて、国内品まで下落するようになると、国内産業も困る。これは「デフレ」と呼んでもいいだろう。(物価下落があるから。)
 だから、ここでは、物価下落を阻止するために、貨幣供給量を増加させてもいいのだ。つまり、「円高不況を阻止するために、貨幣供給量を増やす」という金融政策それ自体は、間違いではない。ただし、その方法が問題だった。
 第1に、「円安介入」などは過度にするべきではなかった。「1ドル=80円」というのは急激すぎるから介入してもいいが、「1ドル=100円」程度で、日本がまだまだ貿易黒字を出していたのであれば、さらに「円安介入」を続けるべきではなかった。
 第2に、「量的緩和」を過度にするべきではなかった。そうすれば、「投資」のための資金供給が増えるが、「投資」ばかりを増やしても、意味がない。ここでは、「消費」のために資金供給を増やすべきだった。すなわち、「タンク法の減税」をするべきだった。このことによって、「単純な物価上昇」を起こすべきだった。
 第3に、政府は「財政赤字の縮小」などをやたらと実行するべきではなかった。「借金返済」というのは「投資拡大政策」のことである。それは、「投資不足」のときにはなすべきことだが、すでに「投資過剰」であるときには、輪をかけて「投資拡大」を促進する必要などはなかったのだ。「増税によって財政赤字の縮小」をめざすよりは、「減税によって消費の拡大」をめざすべきだった。(ただし、減税のための資金は、民間引き受けの国債ではなく、日銀引き受けの国債。つまり、タンク法。)
 
 現実には、この三つとは正反対の政策がなされた。つまり、「円安介入」は過度になされ、「量的緩和」も過度になされ、「財政の健全化(借金返済)」も過度になされた。そのあげく、「投資」ばかりに金が大量に流入した。その結果が、「資産インフレ」つまり「バブル」である。
 結局、間違った信念に基づいて、大失敗に至る道をあえて選んだからこそ、見事に大失敗を演じたのである。それがバブル期の日本であるわけだ。そして、その根本には、「貨幣数量説を盲目的に信じる」という、マネタリズム流の単細胞な思考があったわけだ。
 そして、こういう間違いを犯さないために真実を見抜く学問分野が、ミドル経済学である。


● ニュースと感想  (2月28日)

 「バブル期の量的緩和と貨幣数量説」について。
 前項と同じ話題だが、ちょっと視点を変えて論じる。(ダブっている話もある。書いた時期がずれているので、視点の違いが理由となって、話の内容がかなり重複してしまった。ご容赦あれ。)(重複が多いので、読まなくても構いません。)

 量的緩和は、貨幣数量説によれば、物価上昇をもたらすはずだ。少なくとも、不均衡状態でなく均衡状態であれば、そうなるはずだ。
 ところが、そうならなかった例がある。それはバブル期だ。バブル期には、多大な量的緩和がなされていたにもかかわらず、物価はほとんど上昇しなかった。かわりに、資産価格が上昇した。
 一般商品市場と資産市場を合わせて考えれば、貨幣数量説は成立していたことになる。ただ、貨幣数量説の基本原則である「物価上昇」が生じなかったのも、事実だ。では、なぜ? 換言すれば、こうだ。なぜバブル期には、多大な貨幣は、一般市場でなく資産市場に流れ込んだのか? 

 この疑問に対しては、次の二つを理由として掲げることができる。
  ・ 円高による物価下落圧力
  ・ 労働分配率の低下
 以下で順に示していこう。

 (1) 円高による物価下落圧力
 円高阻止のために介入したり、企業経営を補助するために金利低下などを実施して、貨幣供給量を上昇させたが、その一方で、円高による物価下落圧力があった。
 これは、二重の意味があった。一つは、輸入物品の価格低下。もう一つは、円高における国際競争力を上げるために、輸出向け商品(自動車・電器など)が猛烈なコストダウンを行なったこと。
 かくて、一般商品市場には、猛烈な物価下落圧力があった。一方では貨幣数量説による貨幣価値低下があったが、他方ではドル換算した円の貨幣価値上昇があった。というわけで、あまり物価上昇は起こらなかったわけだ。
 換言すれば、円高によって国内物価は大幅に下落しても良いはずだったのに、実際にはそうならなかったのだから、ドル表示では、猛烈に物価上昇があった、と考えてもよさそうだ。

 (2) 労働分配率の低下
 バブル期には、労働分配率が低下していた。そのせいで、多大な貨幣は、消費には余り向かわず、投資に向かった。とはいえ、消費があまりふくらまないのだから、投資ばかり過剰にやっても、供給過剰になりがちで、意味がない。いくらかは設備投資を増やしただろうが、莫大な貨幣供給量増加を食い尽くすほどではない。そこで、余った大量の資金は、資産市場に向かうことになった。
 この時期、経団連は、「インフレを阻止するため」と称して、「生産性基準原理」という名の下で、「賃上げは生産性向上率以下にする」と方針を出した。このせいで、適切な「投資と消費の分配」が崩れ、「投資」ばかりに金が向かうことになった。かくて、「資産インフレ」が発生した。
 本来ならば、労働分配率を変えるべきではなかった。その場合、資産インフレのかわりにインフレが起こっただろう。そこで、日銀は金融引き締めに転じて、経済を安定な状態に進めただろう。それで何も問題は起こらなかったはずなのだ。
 ところが、経団連は、「賃上げ抑制」を実施した。あげく、「資産インフレ」が発生した。つまり、バブルである。そのバブルが、やがては破裂した。かくて、経団連は、自らバブルをふくらませ、あげく、バブルを破裂させて、日本を長い不況に導いた。
(詳しくは → 5月31日b 以降。)

 結語。
 量的緩和を実施しても、貨幣数量説の通りに、物価上昇が起こらないことがある。それは、「投資」と「消費」の比率が何らかの理由によって変更されている場合だ。
 バブル期には、「所得」および「消費」が抑制された。そのせいで、「投資」ばかりに金が向かったので、資産インフレが発生した。
 逆に、現在のようなデフレ期には、「稼働率低下」という「設備投資過剰」の状態にあるので、「投資」には金が回らない。
 貨幣数量説が成立するためには、量的緩和によってあふれた金が、「消費」および「投資」の双方に、なめらかに流れることが前提とされる。この前提が満たされない状態では、量的緩和は正常な効果を発しない。「バブル」や「流動性の罠」は、その症状である。
 だから、貨幣数量説ばかりを信じて、やたらと「量的緩和をすればいい」というのは、単純な原理ばかりを信じていて、現実を無視している、粗雑な思考であることになる。そして、マネタリストとか、日銀とか、多くの経済学者は、この粗雑な思考によって主張しているのである。それが諸悪の根源である。バブル膨張であれ、デフレ継続であれ。はたまた、円安介入も、これと同種であろう。
( ※ 円安介入には「量的緩和」の効果がある。その効果が出ないまま、大量の資金が滞留する。かくて、危険性が増す。ここでは、「効果がないこと」よりも、「危険性の増大」が意味をもつ。)


● ニュースと感想  (2月28日b)

 2月24日の箇所に、新たな項目を追加しておいた。

  → 2月24日c  「名目成長率と実質成長率」の話の補充。


● ニュースと感想  (2月29日)

 「バブル期の正しい処置」について。(かなり複雑な話。面倒ならば、読まなくてよい。)
 バブル期には、どうするべきであったか? もちろん、誤った金融政策を取るべきではなかった。さらに、増減税を適切になすべであったはずだ。では、具体的には、どうするべきであったか? 

 基本としては、「投資と消費の最適化」がある。「投資」が過剰であったから、「投資」を抑制するべきだった。
 ただし、一方で、「消費」も過剰であった。とすれば、「投資」を抑制する「高金利」と、「消費」を抑制する「増税」とを、同時実施するべきであったことになる。では、それだけで済むだろうか? いや、その処置は、単なるインフレ対策である。バブルに特有の状況には最適な政策ではない。そこで、もっとよく考えてみよう。

 たしかに、「投資」も「消費」も過剰であった。ただし、ここでは、「投資」の方が「消費」よりもいっそう過剰であった。とすれば、「投資」を抑制するために、「高金利」を実施するべきであったことになる。(ここまではマネタリストの主張と同じ。)
 では、「消費」についてはどうか? バブル期には、「GDPの増加」や「消費の拡大」があった。つまり、景気は過熱していた。とすれば、「増税」と「借金返済」をなすべきだったはずだ。すなわち、「増税して、借金を減らす」ということである。この場合、借金返済をした金は、金融市場を通じて、投資に回される。つまり、「消費」が減って、「投資」が増える。これは、インフレ対策にはなるが、バブル対策には不適切だ。
 そもそも、バブル期には、物価上昇率が低かった。このことは、「消費過剰」または「景気の過熱」がなかったことを意味する。つまり、バブル期は、「GDPは拡大しているのに、物価上昇率は低い」という特異な状況にあった。このことが、問題を複雑にしている。
 だから、こういう特異な状況を正常な状況に戻すべきであった。
 まず、円高によって円の貨幣価値が急上昇している(物価下落圧力が働いている)のであれば、それを補正する方向に経済政策を取るべきであった。すなわち、「物価上昇」「貨幣価値の下落」である。そのためには「減税」をするべきであった。
 と同時に、景気が加熱したあとの「増税」をするべきであった。

 となると、バブル期には、「物価上昇のための減税」と、「景気冷却のための増税」との、双方を実施するべきだったことになる。つまり、たがいに矛盾する政策を実施するべきであったことになる。状況が矛盾的(物価上昇率は低い・景気は過熱)であるがゆえに、対策もまた矛盾的(減税・増税)であるべきだったことになる。
 とすれば、この矛盾を解決する正解は? 

 答えを言おう。それは、「企業への増税」である。普通の景気過熱期の「増税」は、「消費」を冷やすために、国民に課税するが、バブル期には、「投資」を冷やすために、企業に課税すればよい。

 日銀の金融操作は、単純には言えない。「企業への増税」のあとで、状況がどう変化するか、による。
 「企業への増税」のあとで、バブルが収束すれば、どうか? もともと物価上昇率が低いのだから、低めの物価上昇率に応じて、日銀は「買いオペ」をするべきだ。
 「企業への増税」のあとで、バブルが収束しなければ、どうか? 景気過熱を防ぐため、日銀は「売りオペ」をするべきだ。投資過剰のバブルの余熱が残ったまま、高金利のもとで、なだらかに景気縮小の路線を取ることになる。企業は、増税の痛みが少なかった分、高金利の痛みが増える。

 国民への増減税も、単純には言えない。「企業への増税」と、「金利の変動」のあとで、景気がどうなっているかによる。過剰な投資意欲が収束したあとで、消費もつられて収束したならば、バブル破裂の衝撃を緩和するために、減税をするべきだ。過剰な投資意欲が収束したあとで、消費がなおも過剰なままであれば、消費過剰による物価上昇(貨幣価値の下落による物価上昇ではない)を起こさないように、増税をするべきだ。
 以上のように、「企業への増税」だけでなく、かなり複雑な処置が必要となる。マネタリスト流の「高金利だけ」という政策よりは、ずっと複雑である。

 ここで、視点を変えて考えよう。「借金返済」は、どうなるか? これは、景気に依存して、次の (1) (2) のようになる。
 (1) 「企業への増税」のあと、景気が悪化すれば、「買いオペ」がなされる。「企業への増税」にともなって、財政黒字が大幅に出て、民間引き受け国債の買い上げが大幅に進み、同時に、買いオペによっても、国債が日銀に買い上げられる。政府と日銀の双方が国債を買い上げるので、市中の国債はどんどん減り、借金返済はどんどん進む。結局、企業は増税で損をこうむり、国民は物価上昇で損をこうむる。企業も国民も苦しいが、借金返済はどんどん進む。
 (2) 「企業への増税」のあと、景気がまだ過熱していれば、「売りオペ」がなされる。「企業への増税」にともなって、財政黒字が少し出て、民間引き受け国債の買い上げが少し進み、同時に、売りオペによって、国債が日銀から市中に出る。政府は国債を買い上げて、市中の国債を減らし、借金返済を進めるが、日銀は、国債を売って、市中の国債を増やし、借金を増やす。日銀は、得た金を死蔵するので、貨幣価値の上昇により、物価下落効果が出て、国民は得をする。結局、企業は増税で損を少しこうむり、国民は物価下落で少し得を受ける。企業は大儲けのあとで少し損をして、国民は少し得をする。企業も国民も、あまり苦しくないが、借金返済はなかなか進まない。
 以上の (1) (2) のように、二つの場合がある。この二つの場合のうち、(2) の方が極端になると、マネタリズムの処方となる。すなわち、企業への増税がほとんどなされないまま、売りオペ(高金利)ばかりがなされる。景気過熱のさなかで、物価下落の利益を得て、その分、どんどん借金を増やす。企業や国民の所得に余力があるときに、借金を返済するどころか、さらに借金を増やす。ここには根本的な見当違いがある。
 だから、正しくは、 (1) の方であったのだ。ただし、論理の順は、逆になる。 (1) では、「企業への増税が多い」が先で、「買いオペ」が後だった。むしろ、先に「買いオペ」がある。円高によって(輸入物価の下落による)貨幣価値の上昇があったのだから、貨幣価値の下落を起こすために、まず、「買いオペ」をして、物価上昇を起こすべきだった。ただし、貨幣価値の下落を起こすだけでは、投資の過熱や資産インフレが起こる。そこで、円高不況の脱出後には、「企業への増税」をして、投資資金を吸い上げるべきだった。
 こうして「買いオペ」と「企業への増税」の組み合わせをなせば、借金返済がどんどん進んでいく。その途中で、景気が過熱したり冷えたりすれば、それに応じて、国民への増減税を適当に加えるべきだった。
 なお、円高の初期には、景気は悪化していたから、この時点では「減税」をするべきだった。「減税」と「買いオペ」を組み合わせると、「タンク法の減税」となる。だから、円高の初期には、「タンク法の減税」をなすべきだったことになる。

 結語。
 円高後のバブル期になすべきことは、こうだ。基本は、「買いオペ」と「企業への増税」であった。まずは円高不況の時期に、「買いオペ」によって、(円高による)貨幣価値の上昇を抑制し、やがて、その効果が出たころ(バブル期)には、景気を過熱させないために、「企業への増税」をなす。
 国民への「増減税」は、状況しだいだ。円高の初期には、円高不況だったので、「減税」をするべきだった。これは「買いオペ」と合わさって、「タンク法の減税」となる。景気過熱後には、「増税」をするべきだったかもしれないが、「企業への増税」の効果しだいである。「企業への増税」で景気冷却の効果が十分に現れる場合には、「国民への増税」は不要である。
 企業は、円高の初期には、国民への「減税」によって、外需縮小の分を、内需拡大で補う。「企業への増税」の損失はあるが、「買いオペ」による金利低下の利益で補う。景気過熱後には、「企業への増税」と「金利上昇」があって、損失ばかりが出るが、そもそも景気過熱のときには、やたらと儲かってしようがない状況であるから、利益を吸い上げられるのは当然である。(さもなくばバブルとなる。)
 金利は、景気過熱後には、いくらかは上昇させるが、やたらと高い水準までは上昇させない。資産投資の縮小を狙ったあげく、投資を縮小させて、消費まで縮小させてしまってはならない。抑制すべきは、資産投資だけであり、消費ではない。
 このような操作はかなり微妙である。状況に応じて、消費は増えるかもしれないし減るかもしれない。だから、消費の増減に応じて、減税または増税を適切に実施する。
 「借金返済」は、円高不況のころには不要だが、景気回復にともなって必要となる。貨幣量の増加は、初期には「タンク法の減税」だけでいいが、景気回復につれて、「タンク法の減税」から、単純な「買いオペ」移行する。前者は、物価上昇に応じた減税があるので、損得なしだが、後者は、物価上昇に応じた減税がないので、借金返済をすることになる。この際、「借金返済」が進むことで、国民生活は苦しくなるはずだが、それは、円高による利益で相殺する。さらに景気が過熱したら(バブルになったら)、増税をする。この増税は、企業への増税である。
 すべての時期を通じて、「貨幣価値の低下」を促進するために、「貨幣供給量の増加」が必要となる。その理由は、「円高」による「貨幣価値の上昇」である。これがあるという点が、普通のインフレとは異なる。

 [ 付記1 ]
 バブルに対して、マネタリストは、「金利を上昇させるべきだった」と主張した。しかし、金利の上昇だけでは、資産インフレを抑制すると同時に、景気の悪化を招いたはずだ。資産インフレを十分に抑制しようとすれば、大幅な金融引き締めげが必要なせいで、景気をひどく悪化させたはずだ。そして、それが、「バブル破裂」だったのである。
 バブル期になすべきことは、「貨幣供給量の縮小」ではなかった。物価上昇率は低かったのだから、必ずしも「貨幣供給量が不足していた」とは言えないのだ。
 では、何をなすべきだったか? 「貨幣供給量の縮小」ではなく、「投資の縮小」つまり「投資に回す資金の縮小」だけだった。換言すれば、「消費に回す資金」は、ことさら縮小するべきではなかったのだ。なのに、投資も消費もひっくるめて、「資金を減らせ」という政策を取ったために、投資資金が減ると同時に、消費資金までも減ってしまって、バブル破裂を招いた。
 だから、正しくは、「貨幣供給量の縮小」と同時に、「投資縮小・消費拡大」という比率変更の政策を取るべきだった。そして、それが、「企業への増税」であったのだ。これは、需要全体に対しては「増税」をなしながらも、国民には「増税をなさない」ということで、国民に対しては実質的に「減税」の効果があるからだ。
( ※ マネタリストはしばしば、「インフレは金融政策で制御可能だ」と主張する。たしかにそうだろう。しかし、「金融政策で制御可能」なのは、物価上昇のある「インフレ」であって、物価上昇のない「資産インフレ」ではないのだ。マネタリズム的な政策では、投資の総額を制御するだけだから、設備投資と資産投資とを区別することはできないのだ。)
( ※ なお、設備投資と資産投資の比率を制御するには、消費の量を制御すればよい。資産投資は、金利だけに依存するだけだが、設備投資の額は、金利のほか、消費の増減に依存する。)

 [ 付記2 ]
 企業への増税という、企業差別のようなことが、なぜ必要だったか? それは、バブル期の企業が、「生産性基準原理」のような名目で、労働分配率を低下させたからだ。これが「投資と消費の比率」を歪めてしまった。
 なるほど、労働分配率を下げたせいで、消費の拡大を抑制して、インフレを抑止することができた。企業の国際競争率も向上した。では、その金は、労働者に渡るかわりに、どこへ行ったか? もちろん、企業の手元に残った。その余分な金が、資産投資に向かって、資産インフレを引き起こした。
 結局、企業は、インフレを避けようとして、資産インフレを招いてしまったのだ。景気を過熱させたまま、労働分配率を変更して、投資と消費の比率を変更してしまった。企業は、「自分だけが良ければいい」と考えて、「景気拡大」および「労働分配率の低下」という二つを同時になした。そうやって、経済状態を歪めてしまったため、経済はいびつになって、資産投資ばかりが増えてしまったのだ。
 経済は、本来、「投資と消費がともに伸びる」という形で成長するべきなのだ。なのに、労働分配率を低下させたせいで、消費が低めになり、設備投資も低めになり、その分、異常に拡大した投資資金は、資産市場に流れ込むことになったわけだ。
 これがバブルの本質だ。つまり、バブルとは、企業があえて招いたものなのだ。
( ※ 「バブルの責任は日銀だ」というマネタリストの説は、かなりピンボケだと言えよう。仮に、「投資過剰・消費不足」という比率のまま、日銀がもっと大幅な金融引き締めを実施していたら、景気はかなり悪化していたはずだ。バブルを避けることはできたかわりに、景気後退を招いていたはずだ。「投資過剰・消費不足」という歪んだ状態のままでは、しょせんは、経済を正常な軌道に乗せることは不可能なのである。)
( ※ 同様のことは、今現在の景気についても言える。企業は、業績が回復しているのに、労働者に利益配分をしない。そのせいで、ふたたび、「消費不足」という悪しき結果を招いている。)

 [ 付記3 ]
 まとめふうに言おう。バブル対策というのは、本質的に、次の二つの意味がある。
  ・「投資過剰」を抑制するための、「投資総額の抑制」
  ・「投資過剰」を抑制するための、「投資と消費の比率の適正化」
 マネタリズムの立場では、前者だけに着目して、高金利という政策を取る。しかし、ミドル経済学の立場では、後者に着目して、「投資の割合を減らして、消費の割合を増やす」という政策を取る。そして、その理由は、もともと両者の比率が歪められてしまっていたからだ。(労働分配率の低下で。)

 [ 付記4 ]
 バブル期には、かなり複雑な操作が必要だったことになる。では、その根本的な理由は、何か? 
 それは、円高だ。円高のせいで、貨幣価値が変動してしまった。つまり、外部経済が影響したせいで、通常の景気変動とは異なる経済変動が生じてしまった。通常の景気変動ならば、国内的なものなので、単純に、「貨幣供給量」と「貨幣価値」の関係を考えていればいい。しかるに、円高があると、(国内的な)貨幣供給量に影響されずに、(国外からの影響で)貨幣価値が変動する。
 そこで、貨幣価値の変動を操作するために、貨幣供給量を変動させることになるが、そのとき同時に、貨幣供給量の変動に応じて、景気も変動してしまう。この両者を両立させるためには、増減税を絶妙に操作するしかない。……というわけで、かなり事情が複雑になってしまったのだ。
 しかも、ここでは、企業が「労働分配率の変動」という余計なことまでやってしまった。そのせいで、事情はいっそう複雑になってしまったわけだ。

 [ 余談 ]
 現実はかくも複雑である。だけど、マネタリストは、単純に考える。「貨幣供給量だけを調節すればいい」と。まったく、単細胞というのは、お気楽ですね。どんなに複雑な現象も、ただ一つの尺度でしか計測しないのだから。
 彼らの説によれば、どんな場合であれ、貨幣供給量を一定にしておけば、常に経済は変動せずに安定する。「円高」も、「労働分配率の変化」も、経済には影響を与えない。インフレであれ、資産インフレであれ、貨幣供給量を抑制すれば問題は解決する。
 「どんな病気であれ、アスピリン」というヤブ医者そっくりだ。


● ニュースと感想  (3月01日)

 「外生的な経済変動」について。
 経済の変動が、国外の原因によって引き起こされることがある。これについて考えよう。(例: 1970年代には、原油価格の急激な上昇によって、世界各国で経済の変動が発生した。石油ショックである。)

 通常の景気変動は、国内の原因によって引き起こされる。すなわち、原因がその国だけのものであるから、結果もその国だけのものである。通常、国民の心理的な変動が理由となる。たとえば、いっせいに消費ブームが起こったり、いっせいに消費意欲の減退が起こったり。(後者の例は、バブル破裂。)
 こういう場合については、対処法は、すでに示したとおりだ。基本的には、変動を打ち消す方向に、政府がマクロ政策を取ればよい。すなわち、消費が急増したならば消費を冷やすべきだし、消費が減退したならば消費を増やすべきだ。そのための方法は、タンク法の増減税が基本となる。金利調節は、消費でなく投資に働くものなので、かなり見当違いである。
( ※ ただし、増減税には時間がかかる。そこで、何もしないで放置するよりは、総需要に影響する金利調節も有効である。これは一時しのぎの「応急手当」のようなものだ。医師がいないときには、とりあえず応急手当をすることが有効である。……とはいっても、応急手当はあくまで応急手当である。本質的な解決策だと誤認するべきではない。ここを誤認した悪しき例がマネタリズムである。消費と投資のどちらに働きかけるべきか、その本質を理解することが必要だ。)

 一方、石油ショックは、通常の景気変動とは異なって、国外の原因によって引き起こされた。この場合、普通の景気変動への対策とは、異なる対策が必要である。では、どうするべきであったか? とりあえずは、過去の歴史を見よう。
 田中角栄内閣は、「列島改造論」を持ち出して、超拡大路線を取った。これは原油価格上昇との相乗で、莫大な物価上昇をもたらした。その後、福田赳夫蔵相の方針のもとで、財政・金融の緊縮路線が取られ、物価上昇は急激に縮小した。つまり、インフレを見事に収束させた。……このことは、フリードマンが「マネタリズム政策の成功例」と紹介している。(著書「選択の自由」で。)
 しかし、これは本当に、マネタリズムの成功例だったろうか? 福田赳夫の方針は、強烈なデフレ策であったから、当然、多大な倒産や失業をともなった。単に「物価上昇が終焉したから」という理由で、これを成功例と見なすのであれば、現在の日本の長期不況もまた、「マネタリズムの成功例」となってしまう。とんでもないことだ。
 だから、単に「急激な物価上昇を終焉させたこと」は、成功例とは見なせないのである。一つの不幸が、別の不幸になっただけである。赤い不幸が青い不幸に転じただけのことだ。インフレという不幸がデフレという不幸になっただけのことだ。このような例を「成功例」と見なすマネタリズムは、明らかにおかしい。とすれば、「インフレ対策としての金融引き締め」という路線も、正しい政策ではなかったことになる。
 では、正しくは? ここで、最初の問題に立ち返る。すなわち、「国外の原因によってもたらされる景気変動には、どう対処するべきか?」という問題だ。

 それに答えるには、まず、本質を理解することが大切だ。「金利を上げれば、物価が下がる」というような経験則ではなくて、物事の本質を理解することこそ大切だ。
 そもそも、根本原因は、原油価格の上昇である。これは、「富が国外(産油国)に移転すること」を意味する。とすれば、日本全体としては、富が失われる。当然、人々は貧しくなり、生活は苦しくなる。……だから、このことを避けて通る道はない。
 ただし、「貧しくなる」にしても、その道には、二通りある。一つは、「金を失うこと」であり、もう一つは、「労働を失うこと」(タダ働きすること)である。では、そのどちらにするべきか? 
 石油ショックの直前であれば、景気は普通(中間)であった。とすれば、対策も、痛感的であったはずだ。すなわち、「労働」と「金」をともに失うべきであったろう。具体的に言えば、「労働の増加」と「物価上昇」がともにある、という形だ。とすれば、「労働の減少」(GDPの縮小)を招いた現実の緊縮路線は、正解ではなかったことになるだ。

 さて。「金を失う」としたら、どういう形を取るべきであったか? 原理的には、その形には、二通りある。一つは「増税」であり、もう一つは「物価上昇」である。では、そのどちらにするべきか? 両者の効果を比較すれば、次のようになる。
 増税も物価上昇も、いずれにしても国民にとっては損であるが、その効果が異なる。この両者の効果を比べれば、「投資縮小」よりも「投資拡大」をもたらす「増税」の方が有効である、と結論できそうだ。
 しかし、そうではない。なぜか? このような議論は、景気変動の理由が、国内的な原因によってもたらされた場合に限られる。石油ショックの場合には、当てはまらないのだ。
 石油ショックの場合には、「消費を縮小させて、その金を投資に渡す」のではなくて、「消費を縮小させて、その金を国外に渡す」ことが必要となる。つまり、国全体が貧しくなることが必要となる。
 では、その方法は? もちろん、「円安」である。円安によって、国全体の賃金レベルが低下する。つまり、「多く働いて、少しの金を得る」ということが起こる。こういう形で、富の流出が自然になされる。

 結局、石油ショックの時点では、「円安」が基本的に正しい方向であったわけだ。(実際に、「円安」は起こった。)そして、「円安」が起これば、当然、その分の物価上昇は起こるし、国民は富を失う。しかし、それは、避けがたい負担であったのである。「物価上昇で生活が苦しくなるから困る」と思うべきではなくて、やむを得ない負担だと思って甘受するべきであったのだ。
 ところが、「物価上昇は何が何でもけしからん」と思うと、物価上昇を強引に抑制しようとする。そして、過度に引き締め策を実施することになる。なるほど、そうすれば、物価上昇は抑制されるが、同時に、倒産や失業が多大に発生する。
 現実は、そのようになった。まさしく、倒産や失業が多大に発生した。だから、マネタリズムが「成功例」と称する例は、実は、成功例ではなくて、失敗例であったわけだ。現実になされたのは、単なる「物価上昇の抑制」ではなかった。「物価上昇を、倒産・失業に転じること」にすぎなかった。そのせいで、日本経済は、ひどい負担を強いられたのである。
 ここでは、物価上昇を「何が何でもダメ」と敵視するべきではなかったのだ。むしろ、「やむを得ない税のようなもの」と思って、甘受するべきであったのだ。また、どうしても物価上昇を避けたければ、タンク法の増税によるべきであって、高金利によるべきではなかったのだ。つまり、「消費縮小による貨幣価値の上昇」によるべきであって、「投資縮小による貨幣価値の上昇」によるべきではなかったのだ。(なぜなら、働く量を増やすべきであって、減らすべきではなかったから。)

 ただし、話はまだ終わっていない。いくら物価上昇による損失が「やむを得ない」としても、その負担が一挙に襲いかかっては、国民生活はひどく疲弊する。だから、その負担を緩和するための激変緩和措置を取るべきであった。それは「借金」である。
 「借金」には、二通りある。
 以上のすべてをまとめれば、石油ショックへの対策としては、次のことをなすべきであった。  以上のようにすれば、次の結果が得られる。
 以上の経済政策は、現実になされた政策(田中・福田)と対比すると、次の点で異なる。
 現実には、「田中内閣の方針 → 福田蔵相の方針」というふうに変化した。「大幅なインフレ策 → 大幅なデフレ策」へと変化した。振幅は非常に大きかった。
 正しくは、「弱めのインフレ策」をずっと継続することであった。それによって生産量を徐々に拡大するべきだった。ただし、物価上昇の痛みを緩和するために、一時的に借金を拡大するべきだった。経済の急激な変動は、「一時的に借金をすること」および「あとで借金をだんだん返済すること」によって、吸収するべきであった。
 まとめて言えば、田中流の「物価上昇のさなかでのインフレ策」も、福田流の「失業続出のさなかでのデフレ策」も、適切ではなかった。正しくは、「物価上昇と失業の共存のさなかでのポリシー・ミックス」が正解であった。
 すなわち、財政と金融は、次のようにするべきだった。
 なお、物価上昇にともなって、資金需要が急増して、市場金利が急上昇した場合には、あえて金利を維持するために資金供給をしない。若干の量的緩和ならばしてもいいが、多大な量的緩和はしない。市場金利が急上昇するのであれば、放置してよい。市場金利が急上昇したからといって、資金供給を増やすのは、火に油を注ぐようなものであって、有害無益である。
 市場金利がいくら上昇したとしても、通常、本来の物価上昇率(原油価格上昇にともなって生じる物価上昇率)を、大きく上回るはずがない。9%ぐらいにはなるかもしれないが、その程度であれば、放置してよい。8%の物価上昇と、9%の市場金利であれば、特に不自然ではない。
 市場金利が高すぎて、供給力拡大の余地がないようであれば、「消費縮小・供給拡大」のめに、「財政健全化」つまり「増税による借金返済」をすればいいだろう。しかし、そういうことは、本来はありえないはずだ。原油価格上昇で金を奪われるのであれば、国民の所得は減っているわけだから、企業の売上げも減っているはずだし、むしろ、国内の売上げ減少を輸出増加で補っている状態であるはずだ。
 というわけで、市場金利の急上昇は、本来、ありえないはずだ。ただ、急激な物価上昇によって、投機による資金需要は増えるだろう。「早く買った方が得だ」という「アメとムチ」効果である。とはいえ、これも、一時的なものであるはずだ。家庭では、トイレットペーパーを何カ月分も購入したとしても、それはそのとき限りの現象である。企業でも、原材料を何カ月分もストックすることはあるとしても、そのとき限りのことである。
 石油ショックのようなときに何より大切なのは、急激な物価上昇を起こさないことだ。そのためには、「金利の調節」よりも、「貨幣供給量の安定」をめざすべきである。その意味で、マネタリズムの判断が正しい。ただし、「貨幣供給量の安定」のメドとして、「金利」のかわりに「物価上昇率」を重視するのは、正しくない。安定させるべきは、「金利」でもないし、「貨幣供給量」でもないし、「物価上昇率」でもない。実質GDPである。そして、実質GDPを安定させるためには、物価上昇率の変動は甘受するべきである。……ここが、私とマネタリズムの、決定的な違いだ。

 [ 付記1 ]
 立場の違いを鮮明にしておこう。それぞれの立場は、目的が次のように異なる。  田中流(ケインズ流)では、GDPの拡大だけをめざした。すると、物価上昇という弊害が発生した。
 福田流(マネタリズム流)では、物価の安定だけをめざした。すると、GDPの縮小(倒産・失業)という弊害が発生した。
 とすれば、正解は、その中間にあるのだろうか? しかし、単に「足して2で割る」という形では、正解は得られない。
 私 (南堂) 流では、GDPの安定をめざす。そのためには、二つの半面がある。一つは、GDPの拡大を避けて、狂乱物価を避けること。もう一つは、GDPの縮小を避けて、倒産・失業を避けること。
 結局、GDPは、縮小させるべきでも拡大させるべきでもなく、安定させるべきである。そうした上で、症状としての物価上昇をなるべく緩和すればよい。ただし、石油ショックのときのように、どうしても物価上昇が不可避である場合には、その物価上昇を無理に避けようとするべきではなくて、甘受するべきであるのだ。
 日本では、従来の政策は、「田中流」(ケインズ流)または「福田流」(マネタリズム流)であった。前者では、公共事業の拡大によって物価上昇が起こったし、後者では、GDPの縮小によって倒産・失業が起こった。この両者の間でうろうろしていたのが、現実の先進国諸国であった。そこでは「物価上昇と失業の同時発生」が回避できず、「経済学の危機」が叫ばれた。
 正解は、両者の中間にあるのではない。正解となる政策は、「ケインズ流」と「マネタリズム流」の中間にあるのではなかった。第3の道が別にあったのだ。その第3の道を取れば、物価上昇を甘受したまま、物価上昇の痛みを緩和することができた。
 なのに、そう理解しないで、やみくもに物価上昇の抑制に走ったのが、日欧であった。すると、物価上昇はかなりよく抑制できたが、倒産・失業についてはうまく抑制できなかった。
 だから、石油ショック後の経済低迷は、マネタリズムの成功例ではなくて、失敗例として記憶されるべきであろう。

 [ 付記2 ]
 大局的にいえば、こうだ。
 石油価格の上昇にともなって、富を産油国に奪われる。その分、多く働いて、少しを得ることになる。自動車や電器製品をどんどん輸出して、高額の石油とわずかの輸入品を得る。これでバランスは取れるが、これではあまりにも苦しい。そこで、国内的には、公共事業を減らして、民間消費を増やす。また、富裕層や外国の金を一時的に借りる。……これが正解だ。
 ケインズ流だと、公共事業を減らすどころか増やすので、ますます生活は苦しくなる。(失業は解決しても、物価上昇がひどくなる。)
 マネタリズム流だと、GDPが縮小するので、ますます生活が苦しくなる。(物価上昇は解決しても、労働量減少・所得減少がひどくなる。)
 従来の経済政策は、本質を理解しないせいで、狙うべき方向がずれていたから、「物価上昇」と「失業増大」という二律背反の問題に悩むことになったのである。

 [ 付記3 ]
 マネタリズムは、なぜ失敗したか? 物価上昇をもたらす原因の違いが、本質的な差だ。
 「物価上昇をもたらす原因が「貨幣供給量の増加」であれば、マネタリズム流の処置が正しい。しかし、石油ショックのときは、物価上昇をもたらす原因は、「貨幣供給量の増加」ではなくて、「富の流出」であった。こういうときには、物価上昇をもたらす原因が「貨幣供給量の増加」である場合の対策と、同じような処方の対策を取っても、見当違いなのである。……いわば、風邪には風邪の処方があり、下痢には下痢の処方がある。たとえ症状が似ていても、原因がまったく異なる病気には、まったく別の処方が必要だ。
 「貨幣供給量の増加」によって「物価上昇」が起こったときには、物価上昇を避けるすべはある。マネタリズム流の処方である。
 「富の流出」によって「物価上昇」が起こったときには、物価上昇を避けるすべはない。むやみやたらと「物価上昇の抑制」を狙えば、「GDPの縮小」というとんでもない副作用を招く。「解熱には成功しましたが、内臓は破壊されました」という状況だ。よくいわれるように、「病気は治りましたが、患者は死にました」というようなありさまだ。それがマネタリズム流の処方だ。
 「富の流出」が起こるということは、貧しくなるということだ。そのときには、生産量・労働量を増やすべきなのであって、生産量・労働量を減らすべきではないのだ。損失そのものを避けることはできないのだから、損失を甘受した上で、痛みを緩和することをめざすべきなのだ。経済について理解するには、「物価上昇率」という目先の数字ばかりにこだわってはならず、物事の本質を見抜くべきなのだ。

 [ 補説 ]
 経済政策は、量的にはどのくらいの量でなすべきかを、示しておこう。
 本文では、金融調節や増減税などの経済政策の量を、「若干の金融緩和」などと示すだけで、「このくらい」というふうに具体的には示さなかった。なぜか? 正解となる量は、状況によって異なるからである。
 従来の考え方では、「物価上昇率がこのくらいであれば、インフレ度がこのくらいであるから、金融調節や増減税をこのくらい」というふうに明示できただろう。しかし、私の考え方では、経済状況の指標は、「物価上昇率」ではない。「経済成長率」(GDP成長率)および「消費と投資の比率」である。この二つの値を最適化することが大事だ。
 たとえば、たとえ物価上昇率が高くても、経済成長率が低ければ、(物価上昇率よりも、経済成長率に着目して)経済成長率を高めるべきである。その条件を満たした上で、物価上昇率をできる限り下げるべきである。この順序を間違えてはならない。つまり、物価上昇率の抑制を最優先にして、経済の萎縮を招いてはならない。
 また、経済成長率とは別の次元の話として、消費不足ならば消費を増やすべきだし、投資不足ならば投資を増やすべきだ。特に、成長のための投資資金が不足している状況では、消費を抑制して、投資資金を確保するべきだ。その条件を満たした上で、物価上昇率をできる限り下げるべきである。この順序を間違えてはならない。つまり、物価上昇率の抑制を最優先にして、投資不足を招いてはならない。
 そして、これらすべてのために、金融調節や増減税や借金や為替政策などを、多元的に最適化するべきなのである。その量が具体的にどうなるかは、消費意欲や投資意欲がどのくらい大きいかによって決まる。ここでは、消費と投資をひっくるめて「需要」というふうにまとめてはならない。
 ケインズ流やマネタリズム流は、投資と消費をひっくるめて単に「需要」と見なす。その上で、「物価上昇率」だけで一元的に認識し、「財政政策」または「金融政策」だけで一元的に対処しようとする。これでは、認識も対策も、単純すぎる。だから、複雑な現実には対処しきれないのである。
( ※ 数学的に言えば、多次元空間は一次元直線では表現できない、ということ。)
( ※ 結局、「物価上昇率」という指標を過大に重視してはならないのだ。「物価上昇率」という指標は、景気診断の指標としては一つの脇役にすぎない。つまり、他の数値を補正するためのものにすぎない。なのに、こんなものを主役のごとく過大に重視すると、おかしな混同が起こる。経済における主役は、GDP成長率だ。インフレのときはその実質値を取り、デフレのときはその名目値を取ればよい。 → 2月24日


● ニュースと感想  (3月02日)

 前項の続き。前項の最後では、「金融調節や増減税や借金や為替政策などの経済政策の量が、具体的にどうなるかは、消費意欲や投資意欲がどのくらい大きいかによって決まる」という趣旨のことを述べた。では、どう決まるか? 
 「消費意欲」ならば、消費者物価上昇率を見ればわかる。「投資意欲」ならば、金融市場の市場金利を見ればわかる。……一応、そう見える。ただし、こうして決まるのは、あくまで「市場原理」における「価格調整」だけである。つまり、需給の相対的な関係だけだ。絶対的な水準がわかるわけではない。また、「最適か否か」がわかるわけでもない。
 従来の考え方によれば、「消費」が増えれば、「貯蓄」が減り、市場金利が高まるので、「投資」が減る。かくて、一定の市場金利で、「消費」と「投資」がうまくバランスするはずだ。……しかしこれは、古典派的な考え方である。現実には、IS曲線や LM曲線が景気変動にともなってシフトするので、均衡点が移動してしまう。だから、「(金融市場の)市場原理で、消費と投資がうまくバランスを取れる」ということはない。
 たとえば、景気が過熱すれば、所得が増えて、消費が増える。すると加速度原理によって、投資意欲が急上昇する。当然、金利も急上昇する。景気はスパイラル的に上昇していったあとで、「消費」と「投資」は、非常に高いところでバランスを取る。その後、景気循環にともなって、消費縮小(過剰消費のツケ払い)の予想が立つと、投資が縮小する。それにともなって、景気がスパイラル的に低下していって、「消費」と「投資」は、かなり低いところでバランスを取る。……以上をまとめれば、高いところと低いところの二つの均衡点があって、「均衡点の移動」がある。「放置すれば一定のところで安定する」ということはない。これがマクロ的な原理だ。
 結局、放置するだけでは、市場原理によって均衡点に落ち着くにしても、その均衡点が移動してしまう。かくて、景気変動が発生する。これは、「景気の安定」という最大目的に反する。というわけで、放置するだけでは、ダメなのだ。

 では、どうするべきか? それが最初の課題だった。そして、それには、「状況に応じて最適の処置を取れ」というのが、正解である。その具体的な方法は、これまでにあちこちで述べた。(修正ケインズモデルやポリシー・ミックスの箇所などで。)
 たとえば、景気が過熱した場合には、どうするべきか? 一概には言えない。過熱しているのが「消費」なのか「投資」なのかによる。  また、景気が冷えている場合には、逆のことになる。  以上のように、過剰または不足であるのが、「消費」であるか「投資」であるかに注意した上で、最適の処置をするべきだ。単に「景気過熱」とか「景気悪化」というふうに認識してはならないし、単に需給関係だけで認識してもならない。
( ※ 病気があれば、病気を正しく診断した上で、正しい処方をするべきである。「熱が出たら何でもかんでも解熱剤」というようなおおざっぱな処方はダメだ。)

 [ 付記 ]
 なぜ「消費」と「投資」をかくもはっきりと区別する必要があるのか? それは、「投資」は、当面は「需要」の拡大をもたらすが、長期的には「供給」を何倍も拡大するからだ。「投資」を単なる「企業需要」と理解するべきではない。
 ところが、マネタリストは、ここを誤認する。「投資」を単なる「企業需要」と思い込む。だから、供給過剰のデフレのときに、「投資を増やせ、投資を増やせ」と叫ぶ。つまり、「無駄な供給力をどんどん増やせ」「遊休設備をどんどん増やせ」と叫ぶ。そして、その言葉に従って投資拡大をした企業は、莫大な遊休設備をかかえて、倒産する。(例はマイカルなど。)
 一方、マネタリストとは正反対の方針を取る企業は、有利子負債をどんどん返済していく。つまり、設備投資を最小限に控える。金があれば、遊休設備のためなんかに無駄遣いしないで、さっさと借金返済をする。もちろん、たいていの企業は、そうする。(だからマイカルの二の舞にならずに済む。)
 「投資」を単なる「企業需要」と思い込むマネタリストの発想が、いかに現実離れしているかは、現実の企業経営を見ればわかる。


● ニュースと感想  (3月03日)

 「輸入デフレ」について。
 いわゆる「輸入デフレ」説というものがある。「日本がデフレになったのは、中国から格安の製品が輸入されるからだ」という説である。
 この説が間違っているのは、「同じく中国製品を輸入していても、欧州や米国はデフレにはなっていない」ということからもわかる。ただ、そういう現実とは別に、理論的に考えてみよう。そのためには、前々々項前々項を参考にするとよい。

 前々項からわかるように、「中国から格安の製品が輸入される」ということは、「国外からの影響がある」ということだ。そして、その国外からの影響とは、ここでは、円の「貨幣価値の上昇」である。(中国に対して「通貨を切り上げよ」という主張がなされるが、これは、「中国の通貨に対して日本の通貨の貨幣価値が過大である」ということを意味するからだ。)
 さて。前々項で示したように、大幅な円高が起こったとき、円高不況は生じたが、そのときは別に、デフレになったわけではなかった。物価下落はあったが、金融緩和にともなって、しだいに景気は好転していった。
 また、前々々項で示したように、ただし政策として、「タンク法の減税」や「買いオペ」をなせば、貨幣価値の下落が起こったはずだから、その意味でも、「輸入デフレ」説は必ずしも成立しないことになる。(別に、円安介入や元高介入などはしなくても、国内的な経済措置だけで対処が可能だから。)

 では、「輸入デフレ」説は、根本的には、何が間違っていたのか? 
 それは、デフレの本質を、「物価下落」と見なしたことだ。「物価上昇率」という指標ばかりにとらわれて、「物価上昇率がマイナスになったから、デフレになった」と判断する。しかし、それは正しくない。
 では、正しくは? デフレの本質は、「GDPの縮小」である。物価がどうのこうのではなくて、GDPがどうのこうのということが、肝心なのだ。たとえ物価が下落しても、GDPがどんどん拡大していけば、問題はない。

 ただ、物価が下落すると、GDPを縮小させる圧力となる。このことは、特にマネタリストが主張しているようだ。
 とはいえ、物価下落圧力が働くからといって、必ずしもGDPが縮小するとは限らない。たとえば、米国は、レーガノミックスの時代に、「強いドル」政策のもとで、「海外からの安い製品を輸入して、物価下落圧力を働かせながら、減税によってGDPを拡大する」ということを可能にしていた。

 なお、「物価下落」と「貨幣価値の上昇」は、必ずしも同じではない。貨幣価値は変化しないまま(貨幣供給量は変化しないまま)、物価だけが下落することがある。それは、需給の関係が変化した場合だ。つまり、「売り手が損をして、買い手が得をする」という形で、売り手と買い手の富の配分が変化した場合だ。この場合、国全体の富の総量は変わらなくても、富の配分が変化することで、物価が下落する。( → 2月24日

 結語。
 「輸入デフレ」説は、正しくない。輸入価格の下落は、円の貨幣価値上昇をもたらすが、それは単に物価下落を意味するだけである。デフレの本質は、物価下落ではなくて、GDPの縮小である。
 「物価下落」があるとしても、「貨幣価値の上昇」による「物価下落」と、「需要不足」による「物価下落」とでは、事情が異なる。デフレと呼ぶべきは、後者の「物価下落」だけだ。前者は、「物価下落」があるとしても、「需要不足」があるわけではないから、デフレとは異なる。「需要不足」のない「物価下落」は、デフレではないのだ。
 ただ、物価下落は、GDP縮小や需要縮小の圧力となる。とはいえ、このことは、調整が可能だ。物価下落圧力が働いたまま、GDP縮小や需要縮小を避けることは可能だ。そのためには、景気刺激策を取ればよい。(減税や金融緩和)
 景気刺激策のうち、「タンク法の減税」や「金融緩和」は、「貨幣価値の下落」の効果がある。これは、「貨幣価値の上昇」を中和する効果があるので、これらの政策を取るのが最善だ。( → 前々々項 )
 ただし、最善ではなくても、次善の方法がある。それは、「民間引き受けの国債による減税」である。これは、「投資縮小・消費拡大」の効果がある。この場合、物価下落圧力が働いたまま、GDPは拡大していくことになる。……ただし、これは、かなり不自然である。GDPの拡大にともない、投資意欲が向上し、金利が上昇する。そこで、日銀が金融緩和(買いオペ)をして、金利下落の圧力をかける。すると、「買いオペ」と「減税」の双方で、「タンク法の減税」と同じことになってしまう。
 だから、この次善の方法は、実際にはあえてこれを起こすことはあるまい。それでも、こういうことは、起こすことは可能なのである。つまり、「物価下落とGDP拡大の共存」は、「円高」という状況では可能なのだ。
 というわけで、「輸入デフレ」説は否定される。輸入品価格の下落は、物価下落圧力にはなるが、だからといって、GDPの縮小という景気悪化をもたらすとは限らないのだ。

 [ 付記 ]
 「輸入品の価格が安すぎると、国内製品が売れなくなるから、デフレになる」という説もある。しかし、これはほとんどトンデモである。いくら中国からの輸入が増えているとしても、日本の貿易収支は黒字なのだから、そんな主張は成立しないのだ。
 ある分野で輸入が増えているとしても、他の分野では輸出が増えているとすれば、差し引きして、デフレ圧力よりはインフレ圧力となっている。その量は、輸出入による貿易黒字の分だ。
 わかりやすく言えば、中国から衣服や雑貨の輸入がどんどん増えても、ハイテク製品をどんどん輸出していって、両者のバランスが取れている。だったら、「中国から輸入が増えたせいでデフレになる」という説は、成立しない。逆に、「中国への輸出が増えたからインフレになる」という説も、成立しない。どちらの説も、半面的なのである。

( ※ 本項では、「輸入バブル」説を否定した。ただし、それは、中国の「元安」という現状を肯定しているわけではない。中国の「元安」は、やはり是正されるべきだろう。このことは、次項で述べる。)


● ニュースと感想  (3月04日)

 「中国経済とバブル」について。
 中国経済については、問題点が指摘されている。「物価上昇率は 1.2%と低水準であるが、経済成長率は 9.1%と高い。個人消費は同じく 9.1%の伸びだが、投資は極端に増えている。固定資産投資は 27%の増加。不動産投資は4年間の通算で 4.8倍の増加。資産インフレが急激に進んでいる。バブル状態だ」ということだ。(読売・経済面・コラム 2004-02-23 )
 また、中国通貨の固定相場維持のために、当局による介入(ドル買い・元売り)がなされているせいで、市場に大量の通貨が流出し、貨幣供給量が増えているせいで、これが資産インフレをもたらしている、ということもある。(あちこちで報道されている。)
 こういう状況にあるからには、金融引き締めが当然だが、中国は大量の失業者をかかえているせいで、高めの経済成長が必要であり、景気冷却はあまり望んでいない。というわけで、資産インフレをなかなか抑止できないでいる、ということだ。(上記・読売コラム。)

 では、中国経済については、どうするべきか? 実は、この事情は、円高不況のあとの日本とそっくりである。「不況解決のために金融緩和をしたら、投資ばかりが増えて、そのせいで、物価上昇は起こらないまま、資産への投資ばかりが増えて、資産インフレが起こった」というわけだ。そして、その後は、バブルの膨張からバブルの破裂へと移行した。
 とすれば、なすべきことも、日本のバブル時への対処と同じだ。この件は、「ポリシー・ミックス」の箇所で説明したし、他の箇所でも何度も示した。ただ、あらためて、ミドル経済学の立場から説明しておこう。

 資産インフレのときには、「投資と消費の比率」が歪んでいるのである。つまり、「消費」が増えないまま、「投資」ばかりが過剰に増える。当局は、「投資」を抑制するために金融引き締めを実施したいのだが、そうなると、「消費」まで抑制されて、国全体の総需要が縮小して、景気が悪化しかねない。だから、手を出しかねている、というありさまだ。
 しかし、従来の経済政策では、「投資」と「消費」を区別できなかったが、ミドル経済学では、区別できる。そして、「投資過剰・消費不足」という状況に対しては、「投資抑制・消費促進」という政策を取ればよい、とわかる。
 では、その具体的な方法は? 次の通りだ。  さて。この二つを比べると、後者では「買いオペ」をするが、前者では「買いオペ」をしない。では、正しくは?
 「買いオペ」は、「減税」の額の分だけを実施すればよい。そして、それ以上は、「買いオペ」を実施しない。たとえば、10億ドル相当額の減税をしたなら、10億ドル相当額の「買いオペ」を実施する。それ以上は、やらない。これでオーケーだ。
 現実には、どうか? 減税をしないまま、単に「買いオペ」や「通貨相場維持のための介入」(市場への資金供給)をやっている。これだと、消費促進の効果がないまま、投資促進の効果ばかりがある。そのせいで、投資ばかりが過剰になされるのである。
 要するに、現状そのものが「資産インフレを起こす」というふうになっている。だから、そのいびつな経済政策をやめればよい。「資産インフレが起こっているときには、どうしようか」と首をひねる前に、まず、「資産インフレを起こす政策をやめる」ことが必要だ。

 [ 付記 ]
 中国の現状は、いわば、体の上半身だけに厚い服を何枚も重ね着して、「厚い、厚い、体温が上昇して困った」と悩んでいるようなものである。ここでは、「体温を下げるにはどうしたらいいか? クーラーを効かせるべきか?」などと悩む前に、まず、そういう異常な処置をやめることが先決だ。
 物事の本質を無視して、対策ばかりを考えても、見当違いの対策となる。資産インフレのさなかでは、「景気が過熱しているならば、景気を冷やすために金利をどのくらい上げるべきか?」などと悩むべきではない。
( ※ 上記のたとえ話で言えば、こうだ。上半身が投資で、下半身が消費である。前者ばかりを促進するせいで、上半身ばかりが過熱して、下半身が冷えている。こういうときには、「クーラーをどのくらい効かせるべきか?」と悩むべきではない。そういう悩みは、見当違いなのだ。むしろ、物事の根本は、偏った結果を引き起こす偏った処置なのだから、これを是正するべきなのだ。……ただし、根本を見失って、見当違いな処置ばかり取ろうとして、しきりに悩むのが、マネタリストだ。)

 [ 補足 ]
 本項では、中国の「元安」について批判的に述べた。ただし、私の立場としては、他国がこれに介入する必要は、あまりない、と思える。
 中国の「元安」で損をしているのは、中国である。自国の労働力を安売りして、損をしているだけだ。だったら、他国としては、別に、それに難癖を付ける必要はないのだ。せっかくバーゲンセールで売ってくれているのだから、どんどん買えばいいだろう。
 中国は、貿易黒字を出して、得た金を米国に預金している。つまり、成長力の低い途上国でありながら、成長率の低い米国に投資している。馬鹿げたことだ。だったら、先進国が、中国に投資すればいいのだ。
 そうすれば、中国では、どんどん物価上昇が起こる。貨幣量がどんどん増えて、インフレや資産インフレが起こる。それに耐えきれなくなったところで、急激に「元高」に軌道修正する。その瞬間、外貨預金していた莫大な金が、急減する。「元の切り上げ」を2割やれば、外貨預金が2割減ってしまう。
 結局、過剰な通貨安というのは、やっているその国が損するだけなのだ。元安ならば、中国の損。円安ならば、日本の損。「通貨レートを下げれば輸出が増える」というのは、「損を出せば輸出が増える」ということだ。そうでもしなければ死んでしまうのなら仕方ないが、別に策があるのならば、別の策を取るべきだろう。
 日本は今、円安のもとで、輸出を増やしているが、あとでツケ払いの形で、大損をする。今は良くても、後で苦しむ。(必要以上の円高にともなって、輸出急減や、外貨預金の急減。)
 中国も、同様だ。今は元安で輸出を増やしているが、あとでツケ払いの時期が来たときに、ひどく青ざめるはずだ。それは、かつて、固定相場を維持してきた日本と、同様である。しきりに「1ドル=360円」にこだわっていたが、そうやって黒字を蓄積しすぎたせいで、その後、急激な円高に襲われることになった。もともと少しずつ円高にしておけば苦しまずに済んだのの、いつまでも痩せ我慢して円安にしていたから、あとで急激な円高に苦しんだ。中国も、必ず、同じハメになる。(最近の日本も、同じ運命だろう。)


● ニュースと感想  (3月04日b)

 「タンク法とユーロ」について。
 タンク法(増減税による貨幣量の調節)は、統一通貨のある欧州では実施しにくい。「減税」の仕方しだいで、各国間に不平等が生じるからだ。たとえば、「全員一律」だと、所得水準の低い国ほど有利である。他の方法であっても、何らかの不公平さが生じて、実現は難しい。
 では、何か、方法はないか? あることはある。それは、減税の配分法を各国政府に委ねてしまうことだ。たとえば、タンク法の減税を、欧州全体で 10億ユーロという量で実施する。その 10億ユーロを、各国のGDPに比例して、各国の政府に渡す。各国の政府は、受け取った金を、自国で配分法を決めて、国民に配分する。全員一律でもいいし、所得比例でもいい。
 ともあれ、こうすれば、タンク法は実現が可能である。いくらか歪んだ形になるが。

 [ 付記1 ]
 配分は、全員一律でも、所得比例でも、いい。ただし、福祉ふうに所得再配分をなしたり、政府の公共事業に使うのは、好ましくない。とはいっても、好ましくはなくとも、絶対に禁じるというほどでもないかもしれない。それなりに経済学的な意味はあるからだ。
 しかし、「配分を得られなかった人々」からは、多大な反対が来るだろうから、政策そのものが瀕死の危機に直面しそうだ。やはり、好ましくないことは、好ましくない。

 [ 付記2 ]
 ここで述べた提案は、やはり変則的である。ある国では「全員一律」で、ある国では「所得配分」だと、何らかの不満が生じるだろう。
 そもそも、ユーロという通貨を統一するならば、財政や税制や福祉も統一するべきだし、また、そのために文化や言語も統一するべきだ。こうしないと、国情の差による経済変動をうまく吸収しきれない。
 逆に言えば、文化や言語も統一できないのであれば、財政や税制や福祉も統一できないだろうから、だったら、通貨を統合しない方がいい。財政や税制や福祉を統一できないまま、強引に通貨を統合するのであれば、同一サイズの背広をさまざまな人に着せるようなもので、ぴったりとは合わなくなる。すると、景気変動や失業などの問題に、どうしても苦しむことになるだろう。(現状がそうだ。)
 問題をなくしたければ、各人の体格をそろえるか、背広を別サイズにするか、どちらかしかあるまい。


● ニュースと感想  (3月05日)

 「投資過剰と高度成長期」について。
 「投資と消費の比率を適正にするべきだ」ということを、ミドル経済学は示した。また、同等の結論は、従来の経済学でも示されている。( → 6月14日 「資本蓄積の黄金律」)
 ただし、これには、例外がある。それは、途上国における高度成長期だ。かつての日本がそうであったように、貯蓄を抑制し、投資を促進して、高度成長をすることが可能になる。( → 6月21日
 では、高度成長期には、なぜ、そういうことが成立するのか? つまり、「投資と消費の比率を適正にするべきだ」という結論は、なぜ、高度成長期には適用されないのか? そのことを示そう。

 まず、基本的には、理論の結論は正しい。「投資と消費の比率を適正にするべきだ」という結論は、基本的には成立する。つまり、「投資過剰・消費不足」という状況は、「供給過剰・需要不足」という状況をもたらすので、最大の成長率を実現できないはずだ。(たとえ需給ギャップを生じないとしても、消費不足にせいで最大の生産量を実現できないから。つまり、稼働率が低下するから。最大成長は稼働率が 100%のときに実現される。)
 ではなぜ、高度成長期には、成長が阻害されるどころか、成長が促進されたのか? その理由は、二つある。

 (1) 輸出超過
 経済については、国内経済だけでなく、対外経済を考慮することができる。( → 2月29日 [ 付記4 ])
 対外経済を含めて考えれば、「供給過剰・需要不足」という状況を、「輸出超過」という形で、安定的に持続することができるとわかる。国内的には消費不足であっても、海外の消費があるからだ。(円安介入をしている今の日本も、この形を取る。)
 だから、「投資と消費の比率を適正にするべきだ」ということは、閉鎖系の経済では成立するが、開放系の経済では必ずしも成立しないのだ。
 では、「輸出超過」ということを、ずっと持続すればいいのか? そうは言えない。通常、「輸出超過」ということは、ずっと持続することは不可能だ。あるところで、バランスを取る必要がある。(さもないと、貨幣供給量が過大になって、物価上昇がひどくなって、経済が破壊されてしまう。固定相場から変動相場に移る直前の日本がそうだったし、現在の中国もそうだ。)
 ただし、国家経済が急成長している時点では、長期的には、「輸出超過」ということをずっと持続することは可能だ。なぜか? あまり大規模な「輸出超過」でなければ、為替介入による貨幣供給量の増大を、経済成長で吸収できるからだ。(一般に、貨幣供給量は、実質GDPと同等の割合で増えていくから。)
 日本や中国では、長年の間に、多額の為替介入をして、多額の貿易黒字を出した。つまり、多大な「輸出超過」があった。と同時に、多額の外貨資産を貯め込んだ。そして、それは、ひどいインフレなしに可能であった。なぜなら、多額の為替介入による貨幣供給量の増加を受け入れるだけの、高い成長率があったからだ。
 結局、こうだ。「投資と消費の比率を適正にするべきだ」という原則があるにしても、「投資過剰・消費不足」という状況は、例外的には可能だ。それは、開放系の経済で、「輸出超過」がある場合だ。そして、その場合、「輸出超過」となった分は、「外貨資産」という形で、国全体に蓄積されるのである。社会の富が増えるわけだ。(この件は後日また言及する。)

 (2) 社会資本の蓄積
 通常の「投資」は、ただちに「供給」の増加をもたらす。なぜか? 減価償却期間が比較的短いからだ。機械設備であれ、備品であれ、投資はわずか数年程度で回収される(償却される)。このような投資は、「供給増加」をもたらすはずだ。さもなくば、償却できずに、企業が倒産してしまうからだ。
 一方、減価償却期間が非常に長い投資もある。いわゆる社会資本投資がそうだ。道路や港湾や橋など。また、民間における「企業規模の拡大」も、そうだ。たとえば、昔の日本では、ホンダもソニーもキヤノンも、ただの町工場にすぎなかった。ところが今の日本では、ホンダもソニーもキヤノンも、巨大な企業となっており、企業の価値が莫大になっている。これらの企業は、数年で消滅してしまうわけではなくて、長く残るから、社会資本と同様である。これらの企業と社会資本との違いは、所有者が特定の人々か国民全体かということだけだ。日本全体で見れば、莫大な企業価値が存続していることは、莫大な社会資本が残っていることと同様である。このことを理解するには、途上国と比べると良い。途上国には、大きな企業が何もない。ここでは、企業がないということが、社会の資産がないということと同様になっている。企業がないのも、道路や橋がないのも、どちらにしても、国全体の資産がないことを意味する。
 高度成長期の日本は、これらのものを増やした。すなわち、道路や橋を増やすだけでなく、企業規模を拡大した。そのためには、金が必要だった。その金は、どこからひねり出したか? 消費を抑制することによってだ。人々は、魚や肉を食べたりテレビを買ったりして生活を高めるかわりに、道路や橋を建築したり、企業規模を拡大したりした。そういう形で、「投資拡大・消費抑制」をなして、高度成長を実現したのだ。
 だから、「投資と消費の比率の最適化」は、減価償却期間の短い投資については成立するが、減価償却期間の長い投資については成立しない。
 では、減価償却期間の長い投資をどんどんなすのが、最適であるのか? 必ずしも、そうは言えない。途上国であれば、社会資本も企業も不足しているので、これらを増やすことは必要だ。しかし、先進国では、そうではない。社会資本はすでに十分だから、余計な本四架橋などを建築しても無駄になる度合いが大きい。企業もすでに十分だから、やたらと企業規模を拡大しても倒産しかねない。
 では、途上国であれば、減価償却期間の長い投資をなすのが、最適か? 必ずしも、そうは言えない。長い目で一国全体を見れば、たしかに、そうするのが最適だろう。しかし、人間の寿命は、有限である。せっせとタネをまいても、そのタネが実を結ぶころには、人は死んでしまうだろう。将来の子孫は楽をできるとしても、現在の自分自身は生活苦に悩むだろう。だから、こういう高度成長路線が是か否かは、人生観による。つまり、子孫への愛情の有無による。子孫への愛情があれば、自分は貧しくても子孫が何倍も豊かになれば、満足だ。子孫への愛情がなければ、自分の暮らしが豊かになることだけが大事であり、将来の子孫が豊かになることなどは知ったこっちゃない。
 そして、日本は、前者を選んだ。つまり、「子孫への愛情」という道を。それは、「国家の成長」ということと同義なので、「個人蔑視の国家主義的な発想だ」と批判されたこともある。しかし本質的には、それは、「自己犠牲」と「子孫の幸福」を意味したのである。だからこそ、過去において人々は貧しい生活で高度成長をもたらし、現在においては人々は既存の企業や社会資本を利用して楽しい幸福な生活を送れるのだ。
 日本がいくら不況になったとしても、途上国よりはずっとマシである。それは、過去の世代が、多大な自己犠牲をして、いつまでも残るものを、現在の世代に贈ってくれたからなのだ。
( ※ 高齢者の恩恵 → 1月05日b

 結論。
 以上をまとめて見よう。「投資と消費の比率を適正にするべきだ」という原則があるのだが、「投資過剰・消費不足」という状況は、例外的には可能だ。それは、次の二つだ。
  ・ 開放系の経済で、「輸出超過」がある場合。
  ・ 投資が、減価償却期間の非常に長いものである場合。
 前者の場合、 (1) で示されたように、富は「外貨資産」として残る。
 後者の場合、 (2) で示されたように、富は社会の富として残る。(つまり、企業や社会資本として。)
 だから、「投資過剰・消費不足」というのは、短期的には「供給過剰・需要不足」であると見えるが、長期的には、供給と需要のバランスは取れている。ただし、需要は、「現在の需要」が減って、「将来の需要」へと、送られているのである。過去の人々は、「現在の幸福」を減らして、「将来の幸福」を増やしてきたのである。それは、今現在の人々から見れば、「過去からの贈り物」を受けて、「現在の幸福」を享受できることになる。
 そして、こういうことは、まさしく、現実から見て取れる。敗戦直後の日本は、ガレキの山だった。ここで、当時の日本の人々が、中南米系の人々のように、「その日だけが楽しければいい」と思っていれば、生活は楽しめるが、いつまでも貧しいままだっただろう。ところが、当時の人々は、自らの生活を削って、子孫のために投資をした。企業の資本を蓄積したり、社会資本を形成したり。……こうして、生活苦を代償として、高度成長を成し遂げた。その一方で、現在の人々は、過去からの富(企業・社会資本)を送られて、豊かな生活をなすことが可能となったのだ。 ( → 2月05日 [ 付記4 ])
 結局、途上国の「高度成長期」という時期には、「投資過剰・消費不足」ということは、可能であるわけだ。とはいえ、これは、あくまで例外的である。ただし、あらゆる国がそうであるわけではない。
 特に、途上国でなくて先進国が「投資過剰・消費不足」をすることは、無理である。なぜか? 第1に、「社会資本の増加」をしたくても、先進国には、すでに社会資本が充実していて、増加の余地がない。第2に、あらゆる先進国がそろって「輸出超過」になることは、貿易の原理からいって、不可能である。(どこかが貿易黒字になれば、どこかが貿易赤字になるから。)
 要するに、「投資と消費の比率を適正にするべきだ」ということは、基本的には成立するが、それが成立しないことも例外的にはある、というわけだ。そして、その例外が、過去の日本などに見て取れるわけだ。

 [ 付記 ]
 (1) で述べたように、途上国では「輸出超過」が持続的に可能だ。
 一方、現在の日本は、事情が異なる。GDPの高度成長なしに、莫大な貨幣供給量の増加をなしているからだ。このような形の「輸出超過」は、あまりにも不自然である。貨幣供給量が無用なまま過剰に増えているから、将来、物価上昇圧力となる。それを防ぐには、将来、貿易赤字ないし経常赤字が必要となる。つまり、輸出超過の相殺をする時期が来る。結局、今は「景気回復だ、万歳!」と浮かれていても、「行きはよいよい、帰りは怖い」だ。いっぱい働いて、金を稼いでいるつもりでも、その金は外貨資産になっているから、現金に戻すときに、暴落してしまうわけだ。
 たとえば、1ドル=360円のころに、せっせと金を貯め込んでいたのに、今はドルの価値が3分の1以下まで低下してしまったから、稼いだつもりの金はほとんどが泡と消えてしまったわけだ。
( 成長路線 → 6月10日6月21日10月22日b12月25日


● ニュースと感想  (3月06日)

 「投資の二重性」について。
 前項では、「投資過剰・消費不足」ということが例外的に成立することがある、と示した。「輸出超過」または「社会資本の蓄積」という二つの場合だ。
 では、なぜ、そういう例外的なことが生じるのだろうか? 古典派的な「最適成長」の路線がなぜ成立しないのだろうか? それは、外部のものがあるからだ。
 たとえば、自動車や電器製品や雑貨などの生産だけなら、古典派的な主張が成立する。投資と消費が釣り合うことで、「最適成長」の路線を取る。どちらが過剰になっても、バランスが崩れる。「投資」は「消費」に見合う分だけ、あればいい。

 しかし、それとは別の範囲のものがある。それは外部のものだ。すなわち、「輸出超過」と「社会資本の蓄積」である。
 このうち、「輸出超過」が多大になるのは、富が外貨資産となるだけだから、かなり無駄である。特に、途上国にとっては、高成長のためには有利ではない。どちらかと言えば、輸入過剰で高成長をした方がよい。(借金して、その後、成長したあとで返済する。たとえば、4%の利息で金を借りて、6%の高成長をして、あとで返済すれば、差の2%の分、有利である。逆に、中国のように「輸出過剰」になることは、せっかくの金が無駄に外貨預金されるから、最適成長の路線とは言えないのだ。)
 一方、「社会資本の蓄積」多大になるのは、途上国においては、有益である。これは、特定の企業にとっては、金を出しても割が合わないだろうが、あらゆる企業の全体としての国にとっては、金を出しても割が合う。ここでは、企業としては、商品十万個の需要に応じるだけの設備投資をして、商品十万個の生産をするが、それとは別に、社会資本の形成のために、税を通じて、金を払う。つまり、設備投資では過剰投資しないが、社会資本投資を含めれば過剰投資する。そして、その理由は、社会資本の整備が不十分だからである。社会資本への投資は、商品の生産個数を増やすことはないが、商品の生産コストを下げるから、社会資本についてどんどん投資をするわけだ。かくて、企業の内部だけでは投資過剰ではないが、国全体を見れば過剰投資(のようなもの)になるわけだ。

 こういう問題が生じるのは、なぜか? 「投資」という用語に二重性があるからである。
 第1の意味では、「投資」とは、生産のための設備投資のことである。これは生産活動をする民間だけに話は限られ、その投資費用は必ず回収される必要がある。(さもなくば倒産だ。)
 第2の意味では、「投資」とは、金融市場における借金(銀行から見れば融資)のことである。これは、第1の意味の投資(民間投資)のほかに、国による投資(公共投資)が含まれる。その投資費用は、回収される必要がない。というのは、もともと国が費用を払って、社会が利益を得るからだ。たとえば、橋や国道を建設したとき、その建設費を有料道路料金として回収する必要はなく、社会全体が建設費を上回る利益を長期的に得ればよい。
 この二つの意味がある。そして、この二つの意味の「投資」は、先進国ではほぼ一致するが、途上国では大きくずれる。先進国では、公共投資は少なくていいので無視してもいいが、途上国では、公共投資を多大になすべきだ。つまり、途上国では、第1の意味では「投資」と「消費」のバランスを取るべきだが、第2の意味では「投資」過剰になるべきだ。
 ミドル経済学では、生産物の市場のことだけでなく、金融市場のことも考慮する。だから、生産物だけを考える古典派的な主張とは、いささか違った答えが出るわけだ。
( ※ 古典派の主張は、間違っているわけではなくて、ある狭い範囲のことに限られる。ミドル経済学の立場では、もっと広い範囲のことを考察する。)

 [ 付記 ]
 先進国では、「公共投資」を多大に実施すると、どうなるか? その場合、投資しても、十分な社会的な還元がないので、投資が無駄になる。投資として出した金が、「投資」の意味にならず、ただの無駄遣いになる。(例:本四架橋。)
 実をいうと、これが、ケインズ政策である。つまり、「穴を掘って埋める」という政策だ。
 ケインズ政策では、「公共投資」として支出した金について、社会的な還元があるか否かについて考慮しない。つまり、「投資」であるか「無駄遣い」であるかについて考慮しない。そのせいで、「穴を掘って埋める」というような、とんでもない政策を結論するわけだ。
 ケインズは、投資について、「民間投資」と「公共投資」の区別をした。(そして、前者が不足するときには、後者を増やせばいい、と結論した。)なるほど、この二つを区別したことは、賢明だった。この二つを区別しない古典派よりは、ずっと賢明だった。しかし、その先で、公共投資について、社会的な還元のある「投資」と、社会的な還元のない「無駄遣い」について、区別しなかった。「穴を掘って埋める」という「無駄遣い」を、「公共投資」として認めた。そこに、賢明さの不足があった。
 公共投資は、ミドル経済学的には、「投資」だと言える。なぜなら、金融市場において、金を調達して投資需要を増やすという意味があるからだ。しかし、マクロ経済的には、生産物の市場において、物を生産しない金を出費したという意味で、その金は「無駄遣い」になっているだけであり、「投資」にはなっていないのである。
 というわけで、「投資」という言葉には、二重の意味(生産物市場における意味と金融市場における意味)があることを、よく理解しておくべきなのだ。
( ※ ケインズの主張では、「公共投資は、需要増加によってGDP増大の効果がある」とされる。その意味で、公共投資は「需要」である。ここでは、「投資」の「需要」としての面だけが強調され、「投資」の「資金回収」という面が見失われている。ケインズが「投資」という用語を使うとき、物の見方は半面的であって、その語本来の核心的なことを見失っているのである。)

 [ 補足 ]
 二つのタイプの「投資」は、区別されるべきだが、区別しにくい場合もある。
 企業体質の強化としての研究投資は、「社会全体」ではなくて「その企業だけ」に富が蓄積される。だから研究投資、第1のタイプ(設備投資タイプ)であって、第2のタイプ(公共投資タイプ)ではない、と思える。しかし、研究投資は、短期的には利益を生まず、長期的に回収されるものであり、企業規模を拡大して企業の資産価値を増やすためにある。この意味で、第2のタイプに近い。
 現実の研究投資は、2〜3年で回収される投資から、十年以上の長期で回収される投資まで、多種多様なものがある。前者の投資は第1のタイプのタイプだが、後者の投資は第2のタイプだ。そして、その中間的なものがある。
 だから、第1のタイプと第2のタイプは、大まかには区別するべきだが、はっきりとどこかに境界線を引けるわけだはない。たとえて言えば、「白」と「黒」は、大まかには区別するべきだが、はっきりとどこか(灰色のどこか)に境界線を引けるわけではない。……しかし、境界線を引けないとしても、だからといって、「白」と「黒」を区別しなくていいわけではない。大まかに区別して、大まかに議論すれば、大まかには正しい結論を出せる。(ケインズ流に言えば、「精確に間違うよりも、おおざっぱに正しい方がいい」のである。)


● ニュースと感想  (3月06日b)

 「戦時公債」について。
 戦争中には、「戦時公債」というものが発行される。この意味を考えよう。
 戦争中には、戦争のための武器を生産する必要がある。となれば、その分、民生品の生産を縮小する必要がある。しかし、消費意欲が平時のままであれば、過剰な物価上昇が発生して、国家経済が破綻してしまう。
 たとえば、平時には自動車を百万台生産していたとする。戦争中には自動車の生産を半減させて、かわりに戦車や飛行機を生産する。しかし、自動車の需要が百万台のままだとすれば、需要と供給のミスマッチから、自動車の価格が暴騰する。こういうことがあらゆる民生品について成立するから、国家経済はメチャクチャになってしまう。
 では、どうすればいいか? 自動車の需要そのものを減らせばよい。かといって、需要を国民に割り当てるという配給制のようなことをすれば、社会主義と同様で、非常に非効率となる。そこで、最適の方法は、「我慢できる人には我慢してもらい、どうしても必要は人だけに購入してもらう」ということだ。
 そういう分配は、通常は、「市場原理」でなされる。しかし、「市場原理」だけで調整すると、価格が暴騰して、国家経済がメチャクチャになる。
 では、どうするべきか? 「消費」の総額をあえて減らせばよいのだ。そしてかわりに、「政府支出」を増やせばいいのだ。つまり戦費を、「公共事業」と同種のものと見なして、「消費」と「政府支出」の比率を変更すればいいわけだ。
 そのための方法は? それは、すでに述べたミドル経済学の知識を応用すれば、判明する。正解は、「民間引き受けの国債」を発行することだ。そして、その国債が「戦時公債」なのである。
 「民間引き受けの国債」を発行すれば、消費が減り、政府支出が増える。こうして、バランスを最適化できる。……ただし、である。通常の方法で「民間引き受けの国債」を発行すれば、国債の大量発行にともなって、金利が非常に高騰する。民生品の生産を大幅に減らすほどにも国債を大量発行すれば、市場金利は5%どころか、20%や 50%というような、非常に高金利が必要となるだろう。では、どうすればいいか? 「戦時公債を購入しましょう」とキャンペーンをすればいいのだ。そうすれば、高金利にしなくても、国債をうまく購入してもらえる。
 実際、過去の例を見ても、大日大戦中には、「戦費をまかなうために、戦時公債を購入しましょう。そのことで戦争の勝利に貢献しましょう」というキャンペーンがなされた。日本でもなされたし、米国でもなされたし、欧州でもなされた。そして、それは、当然の方法であったのだ。「市場原理に任せて、高金利にすればいい」なんていう古典派的な市場原理主義なんかに比べれば、「貯蓄意欲そのものを刺激する」というマクロ経済的な方法(つまり需要曲線そのものを変動させる方法)の方が、ずっと賢明であったわけだ。

 [ 付記 ]
 なお、キャンペーンの「戦費をまかなうため」という文句は、ちょっと誇張がある。どっちみち戦費を使うのだから、「戦費をまかなうため」という文句は、不正確である。正しくは、「民生品の消費を減らすため」つまり「欲しいものを我慢するため」である。「欲しがりません勝つまでは」や「贅沢は敵だ」という標語と同様の発想だ。


● ニュースと感想  (3月07日)

 「国債暴落への対策」について。
 財政赤字や国債の問題については、先に「ミドル経済学」として示した。肝心なことはすでに書き尽くされているが、「国債暴落を防ぐにはどうすればいいか?」という観点から、話をまとめてみよう。

 まず、基本的な問題がある。それは、次のような問題だ。
 「現在、財政赤字のせいで、赤字が莫大に蓄積している。こんな状態がまともであるとは思えない。いつかは借金返済をする必要があるはずだ。それには、景気回復が必要だ。しかし、景気が回復すれば、物価上昇と投資意欲上昇で、金利が上昇するだろう。金利の上昇は、国債の下落を意味する。それが急激に起これば、国債の暴落だ。つまり、景気が回復すれば、国債の暴落だ。結局、景気が悪化しているときには、国債を発行できるが赤字が蓄積するし、景気が回復したときには、借金返済をできるが国債が暴落する。景気悪化も景気回復も、どっちも問題だ。困った。いったい、どうすればいい?」
 この問題について、Q&A形式で示そう。(問題をいくつかに分割する。)

 Q 財政赤字の蓄積は、是か非か? 
 A 当面は、是である。不況のさなかで財政赤字を出すことは、やむを得ない。ここで増税をして借金返済をすれば、景気が悪化して、元も子もないからだ。
 ただし、短期的には是であるとしても、中長期的には否である。いつまでもずっと赤字を出していていいわけではない。なるべく早く、借金返済するべきだ。つまり、なるべく早く、借金返済できる体質に戻るべきだ。要するに、なるべく早く景気回復をするべきだ。これが核心だ。(国債問題は、二の次だ。)

 Q 景気回復がなされなければ、無限に財政赤字を蓄積できるか? 
 A そんなことはない。赤字を無限に蓄積することは可能ではない。あるとき、限界が来ることがある。それが「国債暴落」だ。景気悪化の状態が続いて、財政赤字が蓄積すれば、「国債暴落」が起こることはある。

 Q 国債暴落の起こる時期は、いつか? 
 A その時期は、国債返済の信認がなくなったときだ。景気が悪化しても、「日本経済は破綻しそうにないから、いつかは借金返済できるだろう」と見なされている間は、信認があり、国債暴落は起こらない。ただし、その信認がなくなったときには、国債暴落が起こる。(アルゼンチンなど。)

 Q 国債暴落は不可避か?
 A 不可避ではない。日本経済への信認があればよい。それには、一国全体の経済体質が改善していればよい。すなわち、不況を脱して、景気回復がなされていればよい。これが大切だ。

 Q 景気回復があると、金利上昇で、国債が暴落するのでは? 
 A 暴落というほどの大幅な変動は避けられる。それは、マネタリズム的な政策を取るか否かによる。
 マネタリズム的な政策を取れば、国債暴落は起こりうる。景気が過熱して、高めの物価上昇があれば、やたらと金利を上げるしかないので、金利が急上昇するからだ。特に、通貨危機が起これば、異常なほどの金利上昇も起こる。かくて、国債暴落が起こるし、国家経済の破綻も起こる。(こういう高金利政策を、IMFはしばしばやる。)
 ただし、マネタリズム的な政策を捨てて、タンク法を用いた政策(ただし減税でなく増税)を取れば、この問題は避けられる。物価上昇に対して、マネタリズム的に「金利上昇」という処置を取るのでなく、タンク法で「増税」という処置を取ればよい。なお、増税で得た金の使途は、民間への国債償還ではなくて、日銀への国債償還である。(そこがタンク法のポイントだ)。── このことで、消費を冷やし、物価上昇を抑制する。その分、高金利を避けられる。
 また、ミドル経済学的な政策を用いて、「増税」(使途は民間への国債償還)をすれば、消費を抑制すると同時に、金融市場に資金を提供して、金利の低下をもたらすことができる。かくて、国債暴落を防げる。この方法を取れば、景気が過熱すればするほど、借金返済が進むことになる。(ただし物価上昇は抑制されない。)

 Q 増税をすればいいというが、大幅な増税をすれば、国民生活は耐えがたいほど苦しくなるのでは?
 A むやみやたらと増税をすれば、国民生活は苦しくなる。それは当然だ。たとえば、デフレのさなかで大幅増税をすれば、国民生活はひどいありさまになる。
 増税は、むやみやたらとするべきものではない。景気が過熱したときだけになすのだ。(すぐ前に述べたとおり。)
 景気が過熱したときには、増税をすればよい。特に、ミドル経済学の方法で、借金返済をすればよい。この場合、借金返済は進むが、物価上昇は抑制されない(タンク法の場合とは違う)から、国民は損をする。ただし、損をするからといって、生活が苦しくなるわけではない。
 そもそも、「損をすれば生活が苦しくなる」というのは、古典派的な発想である。実際には、そうではない。なぜか? 景気過熱があるときは、GDPが急上昇して、所得も消費も急上昇しているからだ。所得も消費も急上昇しているときには、大幅な増税をしても、特に生活が苦しくなるわけではない。必要な生活費が削られるわけではなくて、贅沢ができなくなるだけだ。
 バブル期のように景気が過熱して、過剰な贅沢がやたらと進んでいるときには、増税で消費に水をぶっかけてやることは、かえって好ましいのである。
( ※ 損は、「金を失う」「貧しくなる」という形で起こるのではなくて、「働いても金が増えない」「タダ働きをする」という形で起こる。消費生活が苦しくなるのではなくて、労働が苦しくなる。)

 Q 景気がいくらか回復したときには、どうか? 国債価格は、暴落というほどの大幅な下落はないとしても、ある程度の下落はあるのか? 
 A イエス。景気回復にともなって、ある程度の国債下落は、不可避である。経済が正常化すれば、物価はしだいに上昇するし、金利もしだいに上昇する。両方とも年3%〜5%ぐらいになるのは、ごく自然なことである。当然、ある程度の国債下落は起こる。

 Q では、急激な景気回復は避けるべきか? 
 A そういう発想は本末転倒だ。「病気が治るのはゆっくりの方がいい」ということはありえない。病気は一刻も早く治すべきであり、さっさと健康に戻るべきだ。そのとき、治療費の支払いを一挙に迫られて、付随する問題が発生するとしても、病気を治して健康になることが最優先となる。つまり、速やかな景気回復が最優先となる。(前述の通り。)
 要するに、「なだらかな景気回復」よりは、「急激な景気回復」の方が好ましい。

 Q 急激な景気回復があれば、急激な国債下落が起こるので、困るのでは? (たとえ規模は大幅ではないとしても。)
 A たしかに、急激な景気回復があれば、急激な国債下落が起こる。ただし、「困る」とは限らない。「困らない」ようにすることはできる。
 その方法は? それは、「長期国債の発行をやめて、中期国債だけにする」ことだ。
 そもそも、何度も述べたように、長期国債というものは、一種のギャンブルなのである。つまり、「将来の金利の変動はあるかないか」を賭けたギャンブルである。政府が景気回復に「失敗」となれば、勝ち。政府が景気回復に「成功」となれば、負け。このギャンブルに、勝てば大儲けだが、負ければ大損だ。だから、こういうギャンブルをやめればよい。つまり、「長期国債の発行をやめて、中期国債だけにする」わけだ。
 なぜか? 中期国債なら、金利が少し変動しても、国債の変動幅は大きくないからだ。そもそも、国債価格の変動幅は、「 金利の変動幅 × 残存年数 」である。というわけで、金利の変動幅を操作できないときには、残存年数を減らせばいい。そのためには、長期国債の発行をやめればいいのだ。これにより、国債価格の変動幅を小さくできる。つまり、国債価格の大幅な下落を避けることができる。
 要するに、経済が変動する時期には、固定金利の国債なんていうギャンブルは避けるべきなのだ。
( ※ 現状では、中短期国債は、利率がゼロ同然である。つまり、人気がすごく高くて、引き手あまただ。誰だって、国債でギャンブルなんかしたくないから、安全性の高い中短期国債を買いたがるわけだ。なのに、政府はあえて、長期国債ばかりを発行して、中短期国債をあまり発行しない。国が無理やり、国民にギャンブルを強要している。……で、そのあげく、「国債暴落の危険をどうするか?」なんて悩んでいる。自分で勝手にギャンブルを強要しておきながら、「ギャンブルで勝ち負けが生じたらどうなるか?」なんて悩んでいる。「そもそもギャンブルをやめよ」という主張には耳を傾けず、「ギャンブルをして損得なしにするにはどうしたらいい?」なんて悩んでいる。……だから、「国債暴落」の問題というのは、狂人の悩みなのである。)

 Q 長期国債は、すべてダメか? 
 A 例外はある。それは、ギャンブルにならない長期国債、つまり、変動金利型の国債である。
 ここで、変動金利は、公定歩合に連動する。物価に連動するのではない。この点、注意。
( ※ 変動金利タイプの長期国債というのは、要するに、中短期の国債を自動延長するのと同じだ。たとえば、1年満期の国債を10回、自動延長する。利率はその年ごとに決まる。……銀行における定期預金の自動延長と同様である。)
( ※ 物価連動タイプの国債については、政府は2月26日に、これを発行する方針を示した。しかし、物価連動タイプの国債というのは、デフレ期にはまったく馬鹿げている。「物価が下落すると、元本割れ」なんてのではね。それでも、「十年物の固定金利が頼りはマシ」と思う機関投資家が多いせいか、3月5日には「かなり売れた」というニュースが出た。……とはいえ、これは「物価上昇」を勝手に期待してのことであり、投機性がかなり強い。債券というより、投信であろう。「ギャンブル性をなくす」という債券本来の方針にそぐわない。固定金利とはほぼ逆の方向にギャンブルを張るだけだ。)

 Q まとめて言うと? 
 A 景気回復につれて、金利は上昇し、国債価格は下落する。しかし、だからといって、「景気回復を遅らせよ」ということにはならない。景気の回復が遅れると、財政赤字がどんどん蓄積するので、まずい。一刻も早く、景気を回復するべきである。
 景気が回復すると、景気が過熱して、物価と金利が急上昇する懸念がある。この際、マネタリズム的な処置を取ると、国債の暴落が起こりがちだ。だから、景気が過熱したときは、マネタリズム的な処置を取らないことが肝心だ。かわりに、タンク法またはミドル経済学の方法を用いればよい。つまり、金融の引き締めのかわりに、増税をすればよい。
 なお、それでも景気回復にともなって、国債価格の下落は、いくらかは起こる。その問題を回避するためには、固定金利タイプの長期国債は、発行をやめるべきである。中期または変動金利の国債にするべきだ。(固定金利の長期国債を発行することが、国債暴落の根源だから、これをやめればよい。)
 以上により、景気回復をなし、かつ、国債暴落を回避できる。


● ニュースと感想  (3月08日)

 「貨幣の意味」について。
 貨幣にはどんな意味があるか? これについては、フリードマンの有名なクイズがある。「貨幣の価値とは何か?」という質問に、次のように答えるだろう、というのだ。
 ここで注釈しておくと、「ケインズ派」というのは、「マクロ経済学」(45度線)の立場のことではなくて、「流動性選好説」のことを言う。これは、貨幣(現金)と債券とを比較して、「債券はいちいち動かすのが面倒で不便だが、現金は便利だ。だから、現金の方が便利な分、価値がある。その価値が、利息と同等となる」という説のことだ。

 この二つの節は、通常、対比される。しかし、本当は、対比されるべきものではない。なぜなら、両者では、「貨幣」という用語の意味が、次のように異なるからだ。
 わかりやすく言えば、前者の「貨幣」は、「マネーサプライ」のことであり、後者の「貨幣」は、「現金」(現ナマ:お札やコイン)のことである。意味合いが異なる。

 なお、経済学的にいえば、ケインズの説(流動性選好説)は、ほとんど無視してよい、と考えられる。理由は、次の通り。
  1.  利子と無利子
     ケインズの説では、「利子がある」ことを説明しているのではなくて、「利子がない」ことを説明しているにすぎない。金融市場において、資金需要が増えたり減ったり、日銀が買いオペや売りオペをしたりすると、市場金利が変動するが、そういうことは、ケインズの説ではまったく説明できない。ケインズの説は、「市場金利が4%から5%になること」は説明できず、「市場金利が4%から5%になっても現金の利息がゼロのままであること」を説明するにすぎない。
  2.  現金と債券
     現金と債券(定期預金を含む)との違いを、ことさら区別する必要はない。経済に影響する貨幣の量は、マネーサプライであって、現金の量ではない。手元に現金があるとしても、クレジットカードで現金決済するとしても、普通預金にしてからキャッシュカードで現金を降ろすとしても、経済学的には差がないからだ。また、普通預金には利率が付かないということで、現金と同一視するとしても、普通預金と定期預金との境界は曖昧だ。普通預金の残額が足りなかったら、定期預金から自動的に金が入ることもあるし、また、いざとなったら定期預金を解約することも可能だ。以前、期日指定定期預金というものがあって、ケインズならば大喜びしそうな概念に従って作られたが、こんなものはたいして意味がなかった。[現実にはいつでも解約可能であった。]
  3.  利率と預金量の相関性
     人は、利率に従って定期預金をするのではなくて、不用な金はとにかく有利子の預金にするだけだ。人は、「利率が上がったら預金する」のではなくて、「利率が上がろうが下がろうが、有利子であれば、不用な金はとにかく預金する」のである。利率は関係ない。ケインズは、ここのところを、根本的に勘違いしている。
    ( ※ この 3. が核心である。ケインズは、このことで勘違いしているから、1. の勘違いを起こすようになった。)
 結局、貨幣の意味については、ケインズは正しくなく、貨幣数量説の方が(ほぼ)正しい。そう結論できる。

 [ 付記1 ]
 貨幣に対する考え方は、古典派とケインズ派とで異なる。「景気変動」に対する貨幣の効果についても、両者では認識が異なるようだ。
 ケインズ派的な発想では、マクロ的にGDPの変動があり、それには貨幣供給量の変動も影響する。
 古典派的な発想では、均衡点は固定されていて、GDPの変動は本来ありえないはずだ。(だから、実質GDPは一定だと見なした上で、貨幣供給量と物価水準とが反比例の関係にあることになる。)もちろん、貨幣供給量の変動も、GDPの変動をもたらさない。
 ただ、現在のマネタリストは、初期のマネタリストとは違って、「貨幣供給量の変動が、GDPの変動をもたらす」と考えている。貨幣数量説において、物価水準が変動するだけでなく、「物価水準の変動がGDPの変動をもたらす」というふうに考えている。(「アメとムチ」の効果と同様。)
 とはいえ、これは、現実に即しているようではあるが、「均衡点は不変だ」という古典派本来の発想とは、矛盾する。その意味で、折衷的でもあり、矛盾的でもある。「理論的には内部矛盾をかかえながらも、現実には適合する」という苦しまぎれの状況だ。
 どうしてこうなるか? 古典派というものは、そもそも、原理的に間違っている。だから、現実に適合しようとすればするほど、理論としては内部矛盾が増えるが、現実には適合していくのだ。「雪は黒い」と信じている人が、雪景色を描くとき、黒でなく白っぽい絵具を用いると、もとの信念との矛盾が増えるが、現実をうまく描写できるようになるのだ。(だったら最初から、白の絵具を用いればいいのだ。しかし、そうできないところが、古典派のゆえん。)

 [ 付記2 ]
 ケインズの(流動性選好説)は、貨幣については、正しくない。ケインズは、マクロ経済学については偉大な成果をなした。しかし貨幣については、間違いとは言えないまでも、勘違いをしたげく、無意味なことを言っているにすぎないので、無視してよい。
 ケインズの説のどこが問題なのか? ケインズの説における貨幣とは、金融市場における貨幣だけであり、(マクロ経済学的な)生産物市場における貨幣ではないからだ。
 私がこう書くと、「そんな馬鹿な」という反論が来るだろう。「ケインズの説は、IS-LM を通じて、金融市場と生産物市場(財市場)の関連を示したぞ」と。しかし、それが間違っているのだ。
 第1に、IS-LM という理論は、流動性選好説とは異なる。本項で否定しているのは、流動性選好説であって、IS-LM ではない。( なお、IS-LM については、別個の理由で、これが間違いであることが示される。何度か述べたとおり。)
 第2に、ケインズのマクロ的な考え方( 45度線モデル)では、投資というものが一定であると仮定されている。(だからこそ民間投資とは別に公共投資を増やそうとする。)しかし、投資が一定であるということは、金融政策が無効だということであり、それはつまり、金融市場における貨幣の操作が無効であるということだ。……そして、それはたしかにデフレ期(ゼロ金利状態・流動性の罠)には正しいのだが、一般の経済状態(デフレ脱出後)には正しくない。ケインズは 45度線モデルによって、不況期の状態を示すことには成功したが、不況脱出後についてはその状態を示すことに成功していない。(ケインズの 45度線モデルは、不況脱出後には成立しない。修正ケインズモデルが成立する。)
 結局、ケインズの説は、不完全なのである。不況期と不況脱出後についてうまく区別できず、不況脱出後については金融政策と投資との関係をうまく示せなかった。かろうじて何とか示そうとしても、IS-LM 流の概念になってしまったが、それは根本的に見当違いの理屈だったのである。
( ※ IS-LM は、ケインズの発想が下敷きになっているが、ケインズそのものの理論ではない。ヒックスがケインズ説の解釈として述べた理論であり、ヒックス独自のものだ。ついでだが、45度線モデルは、サミュエルソンがケインズ説の解説として示したものであるが、サミュエルソン独自のものではなくて、本質的にはケインズのものである。)

 [ 付記3 ]
 まとめとして言えば、貨幣の意味については、どうなるか? 
 ケインズ流に、金融市場において「貨幣と債券」という関係を考える「流動性選好説」は、正しくないし、無意味である。むしろ、一般商品市場において「貨幣と商品」という関係を考える「貨幣数量説」が、基本的には正しい。
 ただし、「貨幣数量説」を基本とするにしても、古典派的・初期マネタリスト流に、「貨幣は生産に影響しない」(商品の需給だけで決まる)という考え方(貨幣ヴェール説)は、正しくない。
 一方、別の考え方もある。「貨幣供給量の増減は、金利の引き下げや引き上げを通じて、投資の増減をもたらし、景気に影響を与える。また、および物価水準の変動による『アメとムチ』効果もある」と。これが、今日の主流派(マネタリスト)の考え方だ。基本的には、この考え方が正しい。
 ただし、その考え方には、限界がある。次の二つの限界だ。
 第1に、金利がゼロになったデフレ期には、金融政策が無効になる。
 第2に、金融政策だけでは、「投資」と「消費」の最適化ができない。
 この二つのうち、前者を是正するのが「タンク法」であり、後者を是正するのが「ミドル経済学」だ。
 とはいえ、この二つの是正を必要としない範囲(均衡状態における弱い景気変動)についてならば、主流派の考え方が成立する。その意味で、基本的には、「貨幣数量説」は正しいのである。
 おおざっぱに言えば、不況期においては古典派よりもケインズの方がマクロ経済学的には正しいが、不況以外のときにはケインズよりも古典派の方が金融政策としては正しいのである。

( ※ IS-LM というモデルは、主流派の考え方に似ているが、根本的に狂ったモデルである。長期的には真実とは正反対のことを結論する。)
( ※ 流動性選好説について、本項と同趣旨の話を、前にも述べたことがある。 → 10月23日


● ニュースと感想  (3月09日)

 「貨幣の本質」について。
 貨幣の本質とは何か? 近代経済学の立場を離れて、もっと大きな視点から、哲学的・歴史的に考えてみよう。

 ある説では、貨幣の本質は、「携帯性」である。物々交換では、魚や肉や米をいちいち運搬するので、不便である。そこで、「携帯性」のある小さなものを利用する。たとえば、小さなきれいな桜貝の貝殻など。これだと、「携帯性」のほか、「保存性」もあることになる。(魚や肉のように腐らない。)
 しかし、「携帯性」が本質だとすると、それは、貨幣を「宝石」や「稀少金属」と見なすのと同じことになる。たしかに「携帯性」は得られるが、人それぞれによって価値が異なるから、十分な「交換性」をもてなくなる。

 だから、貨幣の本質は、「交換性」である。一定の価値あるものとして交換できることだ。
 そして、「交換性」が保証されていれば、もはや貨幣それ自体には何の価値も必要なくなる。つまり、きれいさや稀少さは必要なくなる。あらゆる実用性は不要だ。何らかの「貨幣価値」だけあればよい。── これは、つまり、「記号性」をもつということだ。
 だから、貨幣の本質は、「記号性」なのである。記号としての文字や音声には、何の物質価値もない。それと同様に、貨幣にも、何の物質価値もない。そして、記号には「意味」があるように、貨幣には「貨幣価値」がある。

 では、貨幣が「貨幣価値」をもつようになるということは、どういうことか? それは「商品経済」が成立する、ということだ。つまり、「商品市場」において、貨幣を媒介として、さまざまな商品が交換される、ということだ。
 では、「商品経済」が成立するための条件は、何か? 十分な商品が存在して、十分に取引されることだ。そして、それは、「分業経済」が成立する、ということだ。(「分業経済」では、各人は同じものを大量に生産したあとで、生産物を交換する。その反対に、「自給自足」では、各人が必要なものを少しずつ多様に作る。)

 結局、「貨幣」の成立と、「分業経済」の成立とは、ほぼ同義である。そのことは、歴史的に見ると、わかる。
 縄文時代では、自給自足だったから、分業経済は成立しなかった。また、文字が存在せず、口頭言語だけだったから、「記号」ないし「文字」という概念がなくて、それゆえ、記号性をもつ「貨幣」というものも成立し得なかった。
 古墳時代になると、大陸から貨幣や貨幣鋳造技術が流入した。この意味で、部分的には、貨幣経済が成立した。しかしそれはごく限られたものだっただろう。まだ商品経済も分業経済も、社会一般には広がっていなかった。
 奈良・平安時代には、商品経済が成立していたようだが、納める税が布や労役(租庸調)であったこともわかるように、実物としての布が貨幣のかわりにもなっていたようだ。つまり、貨幣経済は、完全には成立していなかった。分業経済は、ある程度は成立していただろうが、食料以外のものとしては、布と雑貨ぐらいしか生産されなかったかもしれない。
 その後、和同開珎などが作られ、貨幣経済が発達していった。
 ぐっと時代を経て、江戸時代になれば、貨幣経済・商品経済は完全に成立していた。大判・小判が流通していたし、銀貨も流通していた。さまざまな日常雑貨類も、文化的な書物や版画も、大量に流通していた。当然、分業経済も完全に成立していた。
 では、貨幣経済・商品経済が初めて完全に成立したのは、いつごろか? 私は歴史の専門家ではないので断定はできない。ただ、信長(など)が「楽市楽座」を実施したころには、もはや社寺・公家などが市場を管理していたから、このころには、商品市場がかなり成立していたことになる。そして、「楽市楽座」によって、管理されない完全な商品市場に移行したことになるだろう。と同時に、貨幣が一般にも広く使われるようになり、分業経済も大幅に進展していっただろう。
 結局、貨幣経済と商品市場と分業経済は、古墳時代に兆候が現れ、奈良時代の和同開珎のころから徐々に拡大し、安土桃山時代の楽市楽座のころに完全に成立したことになる。江戸時代よりもずっと前から、農民以外のさまざまな職種が成立していたことになる。経済学の立場からは、そう結論できる。
( ※ 貨幣経済について言えば、江戸時代には、藩内限定の通貨である藩札も発行された。これは大量に発行されて、貨幣価値下落のインフレを招き、しばしば百姓一揆をもたらした。……早くも経済政策の失敗が登場するわけだ。)

 [ 付記1 ]
 経済学とは別に、民俗学ふうの立場からも、ほぼ同等の結論が得られている。それは先日逝去した網野善彦の「網野史観」である。それによれば、日本には、中世には、農業以外のさまざまな職業の人々が多様に存在した、ということになる。
 これは、従来の史観である「武士と農民だけ」という主張とは異なる。後者(従来の史観)は、「搾取する側と搾取される側」というものだけが存在した、という史観だ。網野義彦は、それを否定したわけだ。そして、それを実証するために、襖(ふすま)の裏に隠れていた古文書などを調査した。
 とはいえ、いちいち隠された古文書などを調べなくても、そんなことは、経済学の立場から理論的に考えれば、当然だ、言える。なぜなら、「武士と農民だけ」ならば、貨幣経済は成立しないことになるし、分業経済も存在しないことになるからだ。
 ここでは、特に、「分業経済」が重要である。一般に、分業経済は、能率を非常に高める。たとえば、布や陶器や工具(木製・金属製)などを、時分で一つ一つ作るよりは、誰かがまとめて大量に作る方が、ずっと能率が高い。そのことで、生産性を大幅に向上できる。さらに、専門家による、独自の技術の蓄積も可能だ。だから、貨幣経済や分業経済の成立は、産業の高度化を大幅に進展させるわけだ。
 網野史観によれば、農民は「百姓」という何でも屋であったらしいが、私はそうは考えない。そういう一面もあったかもしれないが、それよりむしろ、「農民が何でも屋ふうに、鍛冶屋や機屋(はたや)を兼ねていた」というよりは、「専門の鍛冶屋や機屋(はたや)が、ついでに農民を兼ねていた」というになっていたはずだ。さもなくば、生産性の観点から、道理が通らない。
 ともあれ、歴史的な認識をするにも、経済学的な発想は必要だ。襖の裏の古文書を調べるのもいいが、理論的な考察もまた、理論的整合性のためには必要なのだ。……推理小説で言えば、証拠をコツコツ集めることも大切だが、名探偵が明察を加えることも必要なのだ。経済学を知らずに歴史を調べることは、名探偵のいない推理小説のようなものである。必ずどこかで、犯人を間違えることになる。
( ※ たとえば、「武士と農民だけ」なんてのは、経済学的には、「まったくありえない」とわかる。縄文時代じゃあるまいし。)

( 参考 : 網野善彦の史観については、さまざまな解説が得られる。どこで調べても、だいたい同じような情報だが、とりあえず、簡単なまとめとしては、以下のページがある。 → ほら貝の解説 )

 [ 付記2 ]
 農業従事者以外がどの程度いたか? この点については、諸説(2〜4割)があるようだが、私としては、「衣食住」の生活に注目すればよいと思う。
 人が「食」だけしか必要としないのであれば、農民だけがいればよい。縄文時代後期の稲作時代にはそうだったろう。
 一方、「衣」や「住」でもまともな生活を得ようとすれば、当然、「衣」や「住」の生産が必要となり、(分業を前提とすれば)「衣」や「住」の生産のために働く人々が必要となる。また、農具があると、農業の生産性が大幅に向上するから、農具を作る人々も必要となる。当然、これらのために働く人々も必要だ。
 結局、「生産者が農民だけ」という主張は、「消費は衣食住のうち食だけ」というのと同様であり、まったく荒唐無稽の説なのだ。これでは、衣服もなく、住居もなく、瀬戸物の食器もなく、寺の鐘もなく、鎧や鉄砲や刀もないことになる。メチャクチャもいいところだ。現実には、それらの品物が存在した。ということは、それらを生産する高度な専門職がいたということになる。
( ※ 農民が自作したものといえば、せいぜい、畳とワラジぐらいだろう。木製の食器一つにしても、自作するよりは、買った方が、ずっと楽だったはずだ。不器用な人が木彫りなどをすれば、ケガをするだけだ。馬鹿げている。せめて原始人並みの頭があれば、分業と物々交換にするはずだ。もうちょっと頭があれば、貨幣を使う。)

 [ 付記3 ]
 「貨幣価値」というものは、「価値の安定」をもたらす。このことに注意しよう。
 対比されるのは、「物々交換」である。ここでは、「価値の安定」がない。肉と魚とはどのくらいの比率で交換されるかは、安定した尺度がない。ところが、貨幣が存在すると、価値が数値化されて、量的に固定される。
 というわけで、貨幣があると、貨幣価値という尺度を通じて、価値が数値化され、価値が安定するのである。
( ※ 「そんなのは当り前だ」と思う人がいるかもしれない。だが、価値というものは、一般的には、安定しないものである。たとえば、恋愛においては、ある女性の価値は唯一にはならず、それぞれの男性ごとに異なる価値となる。「好みのタイプだな」というふうに。恋愛の価値を無理に数値化すれば、おかしなことになる。たとえば、「彼女の価値は1億円だけど、こっちの彼女の価値は1千万円だな」などと。……しかしまあ、女性は男性の価値を、金銭で量りがちではあるが。女性の方が経済観念が発達しているんですね。)

 [ 補足1 ]
 ついでに述べておこう。日本の文化水準について。
 火縄銃が種子島に到来したあと、信長などが鉄砲を量産したが、当時、世界で最も鉄砲の数が多かったのは、日本である。日本は世界最先端の先進的軍事国家だった、とさえ言えそうだ。それほどにも技術水準が高かったのである。つまり、高度な専門職が確立していたことになる。
 また、平安時代には世界最古の小説である源氏物語が成立していたし、江戸時代には日本では寺子屋という世界最先端に近い教育制度が普及していた。これほどにも、文化水準が高かった。なのに、「中世の日本人は、農耕生活だけをするだけだった」というのは、「中世の日本は、縄文時代なみだった」というのも同然である。曲解と愚劣もはなはだしい。よほどの欧米コンプレックスの持主の主張だろう。
 欧州が明らかに進展を遂げたのは、産業革命以降である。つまり、蒸気機関の発明に応じて、家内工業やマニュファクチュアにかわって大規模生産が可能となった 18世紀半ば以降だ。これは日本では、江戸時代中期にあたる。日本が欧米よりもひどく遅れていたのは、18世紀半ば以降の百年程度にすぎない。それも、日本人が劣っていたからではなくて、単に鎖国をして情報封鎖をしていただけのことだ。鎖国を解除したとたん、急激に追いついていったのだから、アジアの途上国とは異なる。

 [ 補足2 ]
 なお、世界の歴史では、まともな社会制度である封建制度が整っていたのは、欧州と中国と日本だけであった。他の諸国では、国家的な支配というものがまだ十分に確立していなかった。日本は一貫して、世界の先進国であったのだ。これは、後進国だった朝鮮と比較すると、事情がはっきりとする。
( ※ ただし、韓国人は、「わが国は一貫して世界の最先端の国であった」と主張し、「歴史的に、おれたちは優秀だったが、日本は馬鹿だった」と主張する。……ま、私としては、それでもいいですけどね。別に、自国自慢をしたいわけじゃないし。金持ち喧嘩せず。)
( ※ 余談だが、奈良・平安時代のころには、欧州はひどく遅れた国であり、世界最先端の国はアラブのサラセン帝国だった。なのに、こういう歴史を知らない保守派の人々が、やたらと米国を崇拝する。あげく、ブッシュとケリーのどっちのためにシッポを振ろうかと、迷ってしまうのである。)


● ニュースと感想  (3月09日b)

 「貨幣数量説と冗談」について。下らない無駄話なので、読まなくてよい。
 貨幣数量説を理解しておくと、役立つことがある。実際、馬鹿げた冗談をまともに受け取らずに済むことがある。その例を示そう。ピエロとしては、小林慶一郎に登場していただく。
 「日本銀行でなく民間銀行に、通貨発行権を与える。日銀券ではなくて、民間銀行券を発行させて、これを通貨として流通させる。こうすれば、国民は、健全な銀行の発行した通貨を受け取り、不健全な銀行の発行した通貨を受け取らなくなる。ゆえに、不健全が銀行が淘汰され、銀行システムが安定する」
 これを「オーストリア学派の主張」として紹介して、「あなたならばどの銀行のお札を受け取るか」と結んでいる。(朝日・夕刊・2面・コラム 2004-02-06 )
 
 さて。仮にそういう理屈が成立するとしたら、こうなる。
 「不況をどんどん悪化させよう。そうすれば不健全な企業はどんどん倒産して、優良な企業だけが残る。ゆえに日本の経済システムが安定する」
 かくて、「日本経済を安定させる最善の方法は、デフレを悪化させて、大量の倒産をもたらすことだ」となる。馬鹿げた理屈というのは、こういうものだ。
 
 ただし、そのことは、本項の主題ではない。本項で取り上げたいのは、馬鹿げた理屈の方ではなくて、貨幣数量説の方だ。
 上記の主張を考察するときに、肝心なのは、「どの銀行の発行した通貨が信頼されるか」という問題ではない。「あらゆる銀行がどれもこれも、大量に銀行券を発行したら、どうなるか」という問題だ。これは、換言すれば、「日本銀行の発行する通貨の総量が増えたら、どうなるか」という問題と等価であり、貨幣数量説の問題と等価である。
 一国全体の経済を考えるときには、こういうふうに「貨幣の総量」が大切となる。つまり、パイ全体の大きさが問題となる。なのに、そのことを理解しないと、「どの銀行券が信頼されるか」というふうに「パイの内部配分」が問題とされる。「きれいな切片は残り、腐った切片は捨てられる。だから、きれいな切片だけが残る」という理屈だ。
 こういうふうに、全体を見失って、内部配分だけを考えていては、物事の本質を見失ってしまう。
 貨幣数量説で大切なのは、「貨幣の総量」が大きな意味をもつ、ということだ。こういうふうに全体を見ることが大事なのであって、もし全体を見ることを忘れたら、とんでもない誤認をすることになる。そういう愚かな例を、上記のピエロが身を以て教えてくれる。
 ピエロはピエロなりに、意義があるのである。誰かがピエロを演じれば、それをケラケラと笑うことで、われわれは自らピエロを演じないで済む。







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「小泉の波立ち」
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