[付録] ニュースと感想 (54)

[ 2003.12.18 〜 2004.12.26 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
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      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
    2002 年
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    2003 年
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         12月18日 〜 12月26日

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● ニュースと感想  (12月18日)

 「来年の景気予想」について。
 来年の景気はどうなるか? 前にも予想を述べた。「総所得の増大がないから、良くならない」と。これについて、もっとはっきりと確定できる根拠を得たので、記しておく。
 来年の春闘については、経団連は「ベースアップ(ベア)どころか、ベースダウンだ」との方針だという。賃上げでなく、賃下げである。定昇廃止などで、給与総額を減らすわけだ。日立・松下・ソニー・本田・三菱などで、すでにこの方針の給与削減策が続出しているという。(朝日・朝刊・経済面 2003-12-17 )
 すると、どうなるか? マクロ的には、「総所得が減るから、総需要が減り、総生産も減り、さらに総所得が減り、……」という悪循環が、さらに進む。つまり、デフレの悪化だ。このことが、ほぼ確定的に、予想できることになった。
 株をもっている人は、さっさと売った方がよさそうだ。この先の景気については、そう予測できる。

 [ 補説 ]
 では、どうすればよかったか? もちろん、黒字になった企業は、黒字になった分を従業員に還元すればよい。つまり、「成果主義」を実施すればよい。
 ところが、企業は、自社の利益ばかりを溜め込もうとする。そうして溜め込んだ利益を、投資に回すならまだしも、貯蓄に回そうとする。かくて、一国全体では、眠る金ばかりが増える。金が眠るから、労働力も眠り、生産力も眠るようになる。それが「デフレ」という悪循環だ。企業はあえて、その方向をめざしているわけだ。
 ただし、企業が自社の利益ばかりをめざすのは、別に、不思議ではない。「自分だけがよい」というのが、企業の根本的な態度だからだ。「自由放任」のシステムは、通常の景気では、全体の状況を好転させるが、不況という状況では、全体の状況を悪化させるのである。
 企業が自社の利益ばかりをめざせば、その企業だけは、経営が黒字になって、状況が好転する。(ただし、競争に勝てば、という条件が付く。)しかるに、一部の企業はそうしてうまく行くとしても、マクロ的には、全体のパイが小さくなるから、全体の状況は悪化する。……これが「縮小均衡」という状況だ。
 経団連は、「自社の強化」だけをめざして、自社の黒字化だけを狙い、その結果、全体のパイを小さくして、不況をますます悪化させていくわけである。

 [ 付記 ]
 「景気が悪いのは、企業の体質が悪化したからだ。企業の体質を強化すれば、企業が黒字になり、景気も好転する」
 という主張がある。古典派のうち、「サプライサイド」の主張だ。(小泉の「構造改革」も同様。)
 しかし、そんなことをやっても、企業の業績が好転すればするほど、マクロ的な経済は縮小していく。マクロ経済を理解しないと、そういう倒錯が起こる。
 仮に、サプライサイドの主張が正しいとすれば、全従業員の給料をゼロ同然にすればよいのだ。(実際、「日本人の給与が高すぎるから国際競争力がなくなる。国際競争力を上げるため、賃下げをせよ」と主張する経済学者も多い。)……では、そうすると、どうなるか? 企業は労働コストがゼロ同然になるので、企業の収益性は非常に高くなる。大幅な利益が出る。しかし、それは、当面だけだ。国民は金がなくなるから、企業が生産する商品を買う客がいなくなる。マクロ的には、労働コストがゼロ同然になれば、総所得がゼロ同然になり、総需要もゼロ同然になる。日本経済のGDPはゼロ同然まで縮小する。全企業の国内売上げもゼロ同然になり、ほとんどの企業は倒産する。
 マクロ経済とは、「所得」の効果を考える学問分野だ。それを理解しない人々を「古典派」と呼ぶ。彼らは、「所得」の効果を考えず、それゆえ、マクロ経済を理解しない。単に「賃下げをせよ」と言うだけだ。今の日本経済は、阿呆が舵取りをしているのである。

 [ 余談 ]
 結局、マクロ経済を理解しないと、自分で自分の首を絞めることになるのだ。このことは、比喩的に、次のようにたとえることができる。
 ある人が、紐で首を絞められて、ぶら下げられた。「苦しい、苦しい」と言いながら、自らを助けようとして、上から垂れ下がっている紐をつかんだ。それを引っ張った。しかし、その紐は、∩ 型になっていて、一端は手元にあるが、もう一端は自分の首を絞めていた。自らを助けようとして、紐を引けば引くほど、自分の首を絞める結果となった。……これが今の日本企業のやっていることだ。
 「紐をはずしたい」としきりに望んでいるのだが、「そのためには紐をゆるめる必要がある」ということを理解できない。紐を引くばかりだ。だから、苦しんでいるのである。(ドタバタ喜劇みたいですね。)


● ニュースと感想  (12月18日b)

 「景気とマネタリズム」について。
 前項では、来年の景気予想を述べた。つまり、私の見解では、「来年の景気回復はありえない」となる。
 一方、マネタリズムによれば、「来年の景気回復はある」となるはずだ。なぜか? それは、2000年夏の「ゼロ金利解除」のときと同様だからだ。この時期も、景気は回復していると見えたが、日銀の「ゼロ金利解除」のあとで、景気は悪化した。これをあとから見て、マネタリストは、「日銀がゼロ金利を解除したからだ。景気が悪化したのは、全部、日銀のせいだ」と非難した。そして、「日銀がゼロ金利を解除しなければ、景気は回復したはずだ」と主張した。
 今回も、同様に、景気は回復していると見える。各種の経済指標は、当時と同様で、好転しつつある。また、景気回復の理由が、米国景気の回復にともなう輸出増加である、という点も同様だ。そして、違う点は、ただ一つ。「日銀が、批判に懲りて、今回はゼロ金利を解除しない」という点だ。当然、マネタリストによれば、「今回は景気が回復する。来年春には、デフレを脱出しているはずだ」となる。
 結局、私の見解と、マネタリストの見解は、正反対である。だから、来年の春の状況を見れば、どちらが正しいかが、はっきりと判明するだろう。
 なお、マネタリストの人々は、今のうちにはっきりと、「日銀がゼロ金利を解除しない限り、来春には、必ず、景気は回復するはずだ」と主張しておいてほしい。そうすれば、彼らの主張が、まさしく検証されるからだ。

 [ 付記 ]
 ついでに言えば、前回、マネタリストの主張が正しかったかどうかは、検証されている。彼らの主張によれば、「日銀がゼロ金利を解除したから、企業マインドが急激に冷えて、景気は悪化した」ということになる。とすれば、その影響は、「投資の急激な縮小」という形で現れたはずだ。
 ところが、現実には、そんなことはなかった。前回、「ゼロ金利解除」のあとでは、投資が急激に縮小したのではなくて、輸出が急激に縮小したのだ。また、個人消費は冷えっぱなし、という事実もあった。……こういう事実を見れば、「ゼロ金利解除の影響などはなかった」と判断するのが正しい。
 つまり、前回、「日銀がゼロ金利を解除したから、景気が悪化した」というマネタリストの主張は、間違いであったわけだ。

 [ 補説 ]
 マネタリストの主張は、どこがおかしいか? その根源を示そう。
 彼らの主張は、「金融市場を通じた貨幣量の調整で、景気は変動する」とだけ主張する。そこでは、金融市場を通じた経済変動、つまり、投資の変動だけを、見ている。すると、大切な点が見失われている。それは、金融市場を通じていない経済変動、つまり、消費の変動である。
 彼らは、金融市場を通じた操作だけを考えるから、投資だけを変化させようとする。しかし、普段はそれが可能だとしても、ゼロ金利の状態では、それが可能ではない。金利をゼロ以下に下げることはできないから、投資の量は増えない。いくら量的緩和をしても、単に滞留する金が増えるだけだ。(流動性の罠。)
 不況のさなかで、いくら投資を増やそうとしても、その狙い自体が、根本的に間違っているのである。供給過剰のときに、供給力を増やそうとする投資など、しょせん、なされるはずがないのだから、「投資を増やそう」と狙っても、ほとんど無効なのだ。
 サプライサイドは、商品市場における需給曲線だけを考える。マネタリストは、金融市場における需給曲線だけを考える。そのいずれも、「所得」を考えない。そこには、マクロ的な視点が、まったく欠如しているのだ。だからこそ、個人消費という本体を見抜くこともできないし、需給曲線の変動というマクロ的な現象も理解できない。
 心が盲目であれば、真実を理解できないのも、当然である。
( ※ ゼロ金利解除の件は、つい先日も述べた。 → 12月06日
( ※ 所得の件は、前項で述べた。)


● ニュースと感想  (12月19日)

 「マネタリズムとサプライサイド」について。( 前々項前項との関連で。)
 マネタリズムと、サプライサイドとは、実は、正反対の方向をめざしているのである。少なくとも、企業の行動指針としては、そうだ。

 マネタリストの主張によれば、不況脱出のために、「企業はどんどん投資をせよ」ということになる。ところが、市場金利はゼロである。だから、「企業はどんどん投資をせよ」というのは、「採算ベースに乗らない投資をしろ」ということだ。「自社にとっては無駄な投資だとしても、国全体の景気を良くするために、どんどん投資をしろ」ということだ。なるほど、それによって、国全体の景気をよくする効果はあるだろう。しかし、そのとき、企業の側は、「採算に乗らない投資をする」ことで、どんどん弱体化してしまうのである。
 そういうことをする企業は、実際に存在した。具体的に言えば、不況のさなかに有利子負債をどんどん増やした企業がそうだ。たとえば、ダイエーとか、マイカルとかだ。いずれも、過剰投資をして、借金を返せなくなった。一般に、不良債権処理の対象となるような企業は、みんなそうだ。
 結局、次のように対比できる。
 こういうふうに、両者のめざす方向は、正反対だ。
( ※ ここで、「投資」と「負債」とは、実質的には同じことである。ただし、言葉が違うせいで、「投資は良い」と見なされがちで、「負債は悪い」と見なされがちだ。)

 マネタリストは、サプライサイドを、こう批判する。「企業体質の強化なんてことをやると、個別企業は良くなっても、マクロ的には悪化するばかりだ。あいつらは経済学のことを何にもわかっていない素人だ」
 サプライサイドは、マネタリストを、こう批判する。「無駄な投資を増やすなんてことをやると、企業体質が弱体化するばかりだ。景気回復が実現しなければ、そうやって無謀なことをした企業から順に、倒産する。あいつらは企業経営のことを何もわかっていない。あいつらの言うとおりにすれば、不採算の過剰投資がどんどん拡大して、日本中、不良債権だらけになる」

 この二つの批判は、どちらも正しい。どちらも、相手の欠点は、よく見えるわけだ。(ただし、自分の欠点は、見えない。他人の悪口ばっかり言って、鏡を見ない、ブス女みたい。)

 [ 付記 ]
 では、両者に共通する根源的な欠点は、何か? それは、「古典派であること」だ。すなわち、「所得」を無視することである。換言すれば、「所得 → 需要 → 生産 → 所得 → ……」というマクロ的な変化を動的なものとして理解できず、単に「需要と供給」だけを静的に考えていることである。ここに気づけば、正解を得るだろう。
( ※ 上記の循環図式について、詳しい説明は、8月14日 を参照。)
( ※ 最近、前に書いたことの復習みたいになっていますね。かなり初歩的なことばかり書いている。……といっても、たいていの経済学者は、いまだにこの初歩を理解しないから、日本はいつまでたっても不況であるのだが。)


● ニュースと感想  (12月19日b)

 「ロシア経済」について。
 ロシアの経済については、12月09日に、否定的なことを述べたが、若干、訂正しておく。
 「ソ連崩壊後、ずっと悪い」と前に述べたが、これは正確ではなく、「98年まではマイナス成長だったが、99年以降の五年間はかなり高率のプラス成長だった」というのが正しい。ただし、その理由は、「石油産業の石油売却代金」が主因である。(朝日・朝刊・経済面 2003-12-17 )
 「ロシアの経済が悪い」というのは、表面的に見れば、正しくない。石油売却代金で、さんざん贅沢をすることができて、その贅沢のおこぼれで、周辺の人々も潤うようになっているからだ。
 ただし、である。石油売却代金があるにしても、アラブならば、王族が独占する量はたかが知れており、国民全体に「無税と高福祉」の形で、富が分配される。ロシアは、違う。一部の新興財閥が富を独占し、大多数の国民はそのおこぼれを少しもらうだけだ。
 ロシアで成長している産業は、こういう富裕層を相手とした消費物資を供給する産業だ。たとえば、超高級レストランなど。一方で、現実的な物資を生産する産業は、ほとんど成長していない。記事には「ルノーが自動車を生産するようになる」と記してあるが、その生産開始は05年である。それまでは、1日十台程度を細々と組み立てているだけだ。つまり、マレーシアやタイやインドネシアよりも、ずっと貧弱な生産力しかない。
 石油というアラブのように莫大な富をもちながら、それを生産力向上のために使わず、一部の富裕層の贅沢のために消費してしまう。最悪であろう。「ロシアの経済成長率は高率のプラスになった」と思うのは、たしかに数字の上では正しいが、その経済成長率とは、消費物資の金額が増えたということであって、まともな生産力が向上したということではない。
 阿呆が金を拾うと、金を酒代にして、すっかり浪費する。それを見て、愚かな経済学者は、「阿呆は所得が増えているのだから、阿呆は成長している」と判断する。
 ロシアの経済力を調べたければ、「拾った金」に相当する「石油代金」をマイナスして、残りの正味の分がどれだけ成長しているかを調べるべきだ。ま、ポーランドやハンガリーやルーマニアやリトアニアなどに比べれば、ずっと劣っているだろう。そして、IMFなどの古典派経済学者は、こういう悲惨なロシアの状況を、「経済成長している」と判断するのである。

 [ 付記 ]
 12月09日の記述は、別に間違っているわけではない。なるほど、国全体としては、石油の分で、数字的には経済成長している。しかし、肝心の生産能力は、根本的に悲惨な状況なのである。
 別の記事(朝日・朝刊・経済面 2003-12-18)によれば、繊維産業など、多くの生産産業で、設備不足のまま、中国にすら対抗できないという。人材はあっても、設備がない。金はあっても、設備を買わずに、富裕層の贅沢に費消してしまう。最悪ですね。
 ロシアの現状は、「石油代金はあるが、生産能力はない」というアラブの産油国に似ている。ただし、もっと正確には、「資源の代金はあるが、贅沢のために使い果たしてしまう」というアフリカの国(コンゴ・ジンバブエなど)に似ている。
 これらのアフリカの国では、ダイヤモンドなどの莫大な売上げがあるが、それを独裁者である大統領一族が勝手に使い果たしてしまう。そのせいで抵抗勢力が生じる。大統領一族は、抵抗勢力を弾圧する。かくて、内戦が起こる。……何だか、ロシアに似ていますね。そのうちロシアでも、内戦が起こるかも。


● ニュースと感想  (12月20日)

 「財政赤字」について。
 「タンク法」では、次のように主張した。
 ただし、このことは、あくまで、「タンク法」を実施したときに限られる話だ。注意しよう。
 すなわち、「タンク法」以外では、上記の二項は、成立しない。以下では、細かく説明しよう。

 (1) 減税
 タンク法の「減税」は、「全員一律」の減税だから、誰も損せず、誰も得しない。しかし、「全員一律」の減税でなくて、「特定の人々だけ」の減税であれば、その特定の人々だけが得をして、他の人は損をする。
 たとえば、「住宅ローン減税」とか、「投資減税」とかは、「小額の減税で、景気刺激効果が高い」とされて、しばしば用いられる。その結果、住宅ローンを組んだ特定の人々が5百万円をもらったり、投資をした特定の企業が数億円をもらったりする。ここでは、明白に、不公平が発生する。そして、ここでは富が増えていないから(つまり減税自体は何も生産しないから)、富の配分の変更によって、一部の人々が得をした分、他の人々が損をする。つまり、こういうことをやればやるほど、あなたは損をするわけだ。
 なお、「ここでは富が増えていない」と述べたが、正確に言えば、「ここでは富が減っている」というべきだ。なせか? 減税という金を出すことは、補助金に相当する。高額の補助金を得て実施する事業は、たいてい、無理であるから、高率の破綻が発生する。住宅ローンの破綻やら、企業の倒産やら。つまり、減税という補助金を投じて、不採算事業を無理にやらせても、ろくなことはないのである。正しい政策は、補助金ではなく、せいぜい、ゼロ金利までである。それなら、不採算事業はなされないからだ。
 結局、「特定の人々や企業を対象とした減税は好ましくなく、全員一律の減税が好ましい」と言えるわけだ。タンク法以外の減税は、ダメなのである。換言すれば、政策減税はダメなのである。貨幣量の調節を目的とした減税だけが、好ましいわけだ。

 (2) 財政赤字
 タンク法では、減税をすると、政府に財政赤字が出るが、その分、日本銀行に黒字が出る。だから、差し引きして、トントンである。
 ただし、このことが成立するのは、タンク法に限られる。タンク法では、財政赤字については「国民全体の赤字」となり、日本銀行の黒字については「国民全体の黒字」となり、かつ、全体としては富の増減がない(貨幣量の変化だけがある)。だからタンク法では、「誰も損せず、誰も得しない」と言える。
 一方、現在の不況のような状況では、どうか? やはり、巨額の財政赤字が発生している。ただし、これは、タンク法ではない。ここでは、財政赤字を補う金を提供しているのは、日本銀行ではなくて、国債を買った人々である。すると、どうなるか? 現時点では、日本国民全員が、財政赤字の分だけ、得をしている。しかし、将来的には、その借金を返済しなくてはならないので、そのとき、増税がなされる。すると、国民全体が、損をする。
 結局、まとめて言えば、こうなる。現時点では、財政赤字によって、全員が得をしている。しかし、将来は、増税によって、全員が損をする。(タンク法ではないから。「全員が損も得もしない」というタンク法とは異なるわけだ。)
 では、その本質は? 「不況のときは、過剰消費している」ということだ。過剰消費とは、「生産する以上の消費する」ということだ。換言すれば、「貯金を食いつぶす」または「借金する」ということだ。そして、その額は、財政赤字の分である。
 たとえば、あなたは、実際には450万円の生産をしている。このとき、家計と国家を通じて、500万円の消費をしている。自分のためには税引き後の手取りにあたる400万円を消費し、あとの100万円は道路や警察などの国家サービスの維持費として100万円を消費している。計500万円を消費している。実際には、450万円しか生産していないのに、500万円も消費している。かくて、差し引き、50万円、過剰消費していることになる。こういうふうに「生産している以上の消費」をしているわけだ。(この50万円ずつを国全体で集めると、財政赤字の総額となる。)
 こんなことは、いつまでも続くわけではない。いつまでも続けようとしても、最終的には破綻する。具体的には、日本という国家が破綻する。その形が、「日本のアルゼンチン化」(スタグフレーション)だ。このとき、「国債暴落」と「円の暴落」が同時に発生し、物価は急激に上昇する。それに対処するため、金利を大幅に引き上げるので、倒産と失業が急激に発生する。国民生活は著しく窮乏化する。……しかし、それは、やむをえないのだ。かつて過剰消費したからには、いつかは、過少消費する必要が生じる。将来いつか地獄に入るとしても、それは、かつて甘い汁を吸った報いなのである。

 結語。
 タンク法によるのであれば、「減税」や「財政赤字の拡大」は、まったく問題ではないし、むしろ、好ましい。そうしても、誰も損せず、誰も得をしない。損得なしで、単に経済を正常化させるだけだ。しかるに、タンク法によらないのであれば、「減税」や「財政赤字の拡大」は、今では良くても、将来ではひどく困る。「行きはよいよい、帰りは怖い」だ。
 現在、不況のさなかで、「定率減税」をやったり、「財政赤字の拡大」をやったりして、不況を緩和している。しかし、それは、タンク法によらない「減税」や「財政赤字の拡大」であるから、一時的には楽をできるが、将来的には破滅が用意されることになる。
 「国債30兆円枠」とか、「財政均衡主義」とか、小泉の政策は、ひどく評判が悪い。しかし、だからといって、景気維持のために「減税」や「財政赤字の拡大」をやっても、「今は良くても、後では悪い」となるのだ。こんなことでは、日本がアルゼンチン化してしまう。あまりにも無節操である。
 「減税」や「財政赤字の拡大」は、「貨幣量の調節」のためにだけなすべきであって、「過剰消費」のためになすべきではないのだ。── この本質を、理解しよう。「今が良ければ、それでいいのさ」というのは、サラ金人生の発想だ。その先には、破滅があるだけだ。

 [ 付記1 ]
 政府は05年以降、大幅に増税の方針だという。(朝刊・各紙 2003-12-18 )
 「将来的に増税」と言うこと自体は、私の主張と同じである。ただし、その前提が異なる。私は、「景気回復したあとの増税」であり、政府は、「景気回復しないままでの増税」である。この両者は、どう違うか? 増税という形式は同じだが、効果が異なる。私の方は、「財政健全化・インフレ抑制」であり、政府の方は、「財政健全化・デフレの深刻化」である。つまり、政府は、日本を奈落の底に突き落とそうとしているわけだ。

 [ 付記2 ]
 この政府の方針でも、これについての経済学者の解説でも、肝心の所を見失っている。「経済振興のために特定分野への減税」をやって、「配分の変更」によって、「景気回復をします」と主張している。
 しかし、「配分の変更」など、いくらやっても、無意味である。住宅ローンや投資減税などで、特定の人々だけに減税をすれば、他の人々が損をする。特に、個人に増税して、企業に減税をすれば、状況はいっそう悪化する。なぜなら、現状は、「消費不足・投資過剰」であるから、企業に減税をしても、その金は、投資には向かわず、滞留するだけだからだ。(「ゼロ金利」という状況が、そのことを証明する。)
 なお、インフレやスタグフレーションのときならば、「消費抑制・投資促進」が必要である。この場合は、異常な高金利になっているから、消費者向けには増税し、企業向けには減税してもよい。もっと正確には、企業には、単なる減税のかわりに、「金利低下」という形で、投資促進の金を与えればよい。こうして、過剰な需要を縮小させ、生産力を拡大するわけだ。
 結局、「個人向けに増税し、企業向けには減税とゼロ金利」という政策は、たしかに「生産力の増強」のために役立つが、その「生産力の増強」ということ自体が、インフレ対策やスタグフレーション対策であって、デフレ対策とは正反対なのだ。デフレのときに、こんなことをやれば、逆効果である。つまり、やればやるほど、供給増加・需要不足となって、需要はますます縮小し、需給ギャップがどんどん開いていく。いったん回復しかけた景気も、さらに悪化していく。
 まさしく、自殺行為である。「助かりたい、助かりたい」と言って、自分の首を絞めているわけだ。

 [ 付記3 ]
 わかりやすく、対比的に示そう。国のレベルでなく、家計のレベルで考えよう。── 平凡太郎氏は、もともと、500万円の収入で、500万円の支出をしていた。(国家支出込み。) ところが、不況になって、収入が減った。現在、450万円の収入で、500万円の支出をしている。差の50万円は、過剰消費である。こういう状況に対し、次のように処置を主張する。
 さらにマンガチックにたとえれば、次のようになる。
 この三つがあるが、どうすればよいか? 言うまでもないだろう。たいていの人は、正解を選択できる。
( ※ ただし、古典派の経済学者だと、変な妄想のせいで、正解を選択できない。)
( ※ サプライサイドの経済学者だと、こう主張するかもしれない。「個人に金をやるより、会社に金をやれ」と。見当違いですけどね。)

 [ 補記 ]
 タンク法の減税とは、「貨幣量の調節」を目的とした減税である。前述のとおり。
 一方、伝統的な減税は、「配分の変更」を目的とした減税である。「最も有効な分野だけで減税しよう」という「国が金の使途を決める」という減税だ。これについては、すでに批判した。ただし、少し補足しておこう。
 実は、「配分の変更」は、まったく無意味ではなく、わずかな影響ならばある。つまり、「特定産業の推進」という、わずかな効果がある。しかし、そんなものは、あまりにもわずかであるから、一国経済全体から見ればほとんど意味はない。
 現在のような不況の状況では、一国経済全体を30兆円ほど拡大する必要がある。このとき、特定分野を振興しようとしても、その特定分野だけで30兆円も拡大することは不可能だ。一国経済全体を30兆円ほど拡大するためには、一国経済全体がそろって拡大する必要がある。そのためには、「特定分野の振興」を狙った「配分の変更」は、根本的に、狙いが狂っているのである。
( ※ 戦争で言えば、敵軍の全体を撃破するかわりに、敵軍の一部隊だけを撃破する、というようなものだ。狙いが狂っている。視野が狭すぎる。「木を見て森を見ず」。)


● ニュースと感想  (12月21日)

 前項の続き。
 新年度の予算の原案が出た。総額は82兆円。国債依存度は前年度と同規模で、45%となり、戦後最悪。(各紙・夕刊 2003-12-20 )
 ほとんど狂気的なレベルである。「何とかしなくちゃ」と思って、「増税が必須だろう」というのが、素朴な一般的な見方であるようだ。一方、経済学者の処方は、次の通り。  この三つを評価すれば、「放蕩息子」「無責任」「トンチンカン」であろう。三馬鹿と称すべきか。……これが、日本の経済政策の現状である。どれもこれも、悲惨な結果を招く。
( ※ 私の主張は? 金は、「もっと使え」でもなく、「どんどん借りよ」でもなく、「節約せよ」でもない。「働いて稼げ」だ。前項の [ 付記3 ] の後半で述べたとおり。)
( ※ ただし、「働いて稼げ」というのは、「働いてから金をもらえ」ではない。そんな原則にとらわれているから、いつまでたっても、不況という縮小均衡から脱せない。タンク法の主張は、「働いてから金をもらえ」ではなくて、「金をもらってから働け」である。これによって、不況という縮小均衡から脱せる。……発想の転換ですね。コロンブスの卵。だけど、たいていのエコノミストは、頭がコチコチに固いから、理解できない。ハードボイルド・エッグ?)


● ニュースと感想  (12月21日b)

 前々項の続き。
 前々項では、「過剰消費をしている」と述べた。では、その過剰消費は、誰がしているのか? それは、政府である。
 「消費」という言葉を使うので、まぎらわしいだろうが、この「消費」というのは、「支出」の意味である。そして、その支出をしているのは、政府である。
 たとえば、公共事業をやったり、兵器を購入したり、農業補助金をばらまいたり。さらには、必要不可欠な費用である一般行政経費ですら、その金を使っているのは、政府である。
 では、どうすればいいのか? 本来ならば、純然たる財政赤字を出さない範囲で、政府支出をまかなうべきなのだ。もし純然たる財政赤字を出せば、その分は、「将来に対する負債」となる。そして、その負債があまりにも巨額になれば、将来的には国家が破綻する。どんなに必要な金であろうと、その金は、税によって徴収する必要があるのであって、税によって徴収しないで支出していけば、やがてはアルゼンチンのように国家が破綻する。
( ※ 現実には、政府支出だけでなく個人消費も縮小する必要がある。ただし、その分は、増税によって政府が吸い上げるのが先決だ。増税をしていないうちは、政府が過剰に支出していることになる。)

 一方、タンク法による財政赤字は、別である。この財政赤字は、どんなに財政赤字が出ても、その金は、国民に回る。政府に溜まる財政赤字の額と、国民に渡る黒字の額は、同じである。その額は、日銀が追加発行する額とも同じである。
 結局、タンク法では、単に紙幣の数が増えるだけであるから、誰も過剰消費をしない。政府も国民も、過剰消費をしない。国民は、450万円の所得しかないのに、50万円の紙幣を得て、500万円の消費をするが、しょせんは450万円の生産しかないのだから、差額の50万円の分は、富が空から降ってくるわけではなくて、単に物価上昇(つまり貨幣価値の低下)が起こるだけだ。
 ただし、物価上昇にともなって、生産が拡大するから、働く量が増える。かくて、しだいに実質500万円の生産をするようになり、「実質500万円の所得と実質500万円の支出」という状態に落ち着く。
( ※ なお、このとき物価上昇が起こるから、名目的な金額は、もっと上になっているはずだ。実質的には500万円であっても、名目的には550万円ぐらいになっているだろう。)

 結語。
 財政赤字には、二種類ある。
 一つは、純然たる財政赤字である。これは、政府の過剰支出を意味する。
 もう一つは、タンク法による財政赤字である。これは、貨幣供給量が増えること(物価が上昇すること)を意味するだけだ。
 不況のとき、純然たる財政赤字が一時的に拡大するのは、やむを得ない。ただし、それは、数年後の増税で回収する必要がある。純然たる財政赤字を、やたらと大幅に拡大するべきではない。現状のように、純然たる財政赤字を莫大に溜め込んでいれば、将来的には国家が破綻する。
 不況のとき、タンク法による財政赤字が一時的に拡大するのは、やむを得ないというより、必要不可欠である。それなしには、不況から脱出できないのだ。タンク法による財政赤字は、どんなに拡大してもいい。なぜなら、現時点で、直ちに物価上昇が発生するからだ。やりたければ、百兆円でも二百兆円でも、いくらでも財政赤字を拡大していい。ただし、その分、非常に高率の物価上昇が発生する。(それでも、物価上昇という問題が発生するだけであって、過剰消費という問題は発生しないから、将来的に国家が破綻することはない。)
 以上のように、二つのタイプの財政赤字を、はっきりと区別することが大切だ。
( ※ 本質的に言えば、こうだ。純然たる財政赤字は、純粋な過剰消費をもたらす。一方、タンク法による財政赤字は、一時的な過剰消費をもたらすだけであって、すぐに生産が拡大するから、その生産によって、過剰消費の分をまかなえる。)
( ※ さらに本質的に言えば、こうだ。純然たる財政赤字は、将来の富を食いつぶすことで、将来の生活が借金で破壊される。一方、タンク法による財政赤字は、近い未来で生産量が増えることで、「働いて返済」ということが可能になる。)
( ※ 比喩的に言えば、こうだ。純然たる財政赤字は、あなたの人生を借金づけにしたあげく、将来、莫大な借金の返済を迫ることで、あなたの家や土地を奪って、あなたの生活を破綻させる。タンク法による赤字は、あなたを今すぐたくさん働かせることで、あなたの生活を正常化させる。……これは、比喩というよりは、事実そのものに近い。)


● ニュースと感想  (12月22日)

 前々項までの続き。
 赤字予算について、マスコミも解説を加えている。22日の各紙・朝刊では、「赤字はけしからん、なんとかせよ」と考えて、「支出を減らせ」とか、「少ない予算を効率的に使うために、支出にメリハリを付けよ」とか、「無駄な支出を削減せよ」とか、「増税で収入を増やせ」とか、あれこれと提言が出ている。いずれも、「収入と支出の帳尻を合わせるにはどうするべきか?」とだけ考えている。(エコノミストの意見や社説など。)
 もちろん、すべて間違いである。彼らは、本質を見失っている。
 彼らの考えは「小さなパイしかなくなったときに、小さなパイでどうやって過ごすか」ということだ。そして、次のように主張する。

 支出削減派は、小さなパイで、何とか済ませようとする。そして、「各人の食べる量を減らせ」とか、「パイの切り分け方を最適化せよ」とか、しきりに配分法を工夫する。
 増税派は、「食べる量を大きくしよう」と考える。ただし、パイそのものは小さい。それでも食べる量を多くしようとする。これは「目先の食い分を増やす」という発想である。タコで言えば、「自分の足を食う」ということである。農民で言えば、「来年の種モミまで食べてしまう」ということである。つまりは、「その日しのぎ」であるから、今は良くても、近い将来にはひどい目に遭う。現状に増して、ひどい状況になる。

 では、どうすればよいか? もちろん、「小さなパイでどう済ませるか」ではなく、「パイを大きくしよう」と考えるべきだ。つまり、「経済規模が小さいときにどう過ごすか」を考えるべきではなく、「経済規模そのものを大きくしよう」と考えるべきだ。それが正解である。
 マクロ経済学は、パイ全体の大きさがどう変動するかを考察する。ミクロ経済学は、パイの大きさが一定だと仮定した上で、パイの配分をどうするかを考察する。
 古典派は、ミクロ経済学の考え方を全体として、一国全体の経済を扱おうとする。つまり、マクロ的な対象に、マクロ的な考察をせず、ミクロ的な考察をする。そのせいで、正解を得られない。「パイの配分をどうするか」ということばかりを考えて、「パイを大きくしよう」とは考えない。だからこそ、パイはいつまでも萎縮したままなのである。

 マスコミも政府も、いつまでたっても、「不況のさなかで、パイの最適な配分法は何か?」ということばかりを考えている。増税だの、歳出削減だの、支出の最適化だの。……しかし、そんなことはいくらやっても、パイの拡大のためにはまったく見当違いなのである。
 パイの拡大とは、GDPの拡大である。これが目的であるはずだ。なのに、狙うべき目的を狙わず、まったく見当違いのことばかりを狙っている。狙いが狂っているから、正しい道を取ることができないのだ。「赤字は困る」と言いながら、現実に赤字を減らすための処置を取らず、マクロ的には無為のままにしている。あげく、手元の帳尻あわせばかりを考えている。それが今の日本だ。

 二年前の日本は、「構造改革」がブームだった。これは、「生産資源の最適配分で、景気回復がなされる」という主張だった。今の日本は、「政府支出の最適配分で、景気回復がなされる」という主張をしている。(財政赤字に直面したあとで。)── しかし、生産資源であれ、政府支出であれ、「最適配分」というミクロ的な処方では、マクロ的な経済を動かすことはできないのだ。政府がどんなに、「構造改革」や「歳出の最適化」を推進しても、マクロ的な変動は微々たるものである。
 「最適配分」などは、いくらやっても、マクロ的にはまったく無効なのだ。このことを理解することが大切だ。

( ※ なぜ、マスコミや経済学者は、正しい認識をできないのか? それは、彼らがそもそも、正しい地図をもっていないからだ。つまり、「マクロ経済学」というものを理解できないからだ。GDPの変動を考えるのが、マクロ経済であるが、そういう学問的根拠をまったく知らないのだから、「GDPの変動」というものを学問的には認識できないのである。なるほど、統計的な数字としては、「GDPの変動」というものを認識できるが、学問的には「GDPの変動」というものをモデルとして認識できないのである。いわば、「石を投げれば落ちる」ということは経験的に漠然と知っていても、「万有引力」という法則を認識していない、というようなものだ。これが今の経済学者の現状である。……マネタリストは貨幣供給量だけを考え、サプライサイドは生産性だけを考える。いずれにも、GDPという概念は欠落している。
( ※ では、ケインズは? GDPという概念はあるのだが、いかんせん、「変動」という概念がない。そこで、この点を修正したのが、「修正ケインズモデル」である。)
( ※ 「GDPの拡大」というのは、厳密には、修正ケインズモデルで示したとおりである。つまり、「均衡点を移動させること」だ。この一カ月ほど、しばしば述べてきたとおり。こういう学問的な根拠が、正しい地図を与える。)

 [ 付記 ]
 本項で述べたことで、もう少し説明しよう。間違った考え方の例を、取り上げてみる。たとえば、朝日の社説(2003-12-21)がある。
 ここでは、「予算の最適配分は、大切だ」という意見が提出されている。つまり、従来型の公共事業に替えて、都市型の公共事業を重視することを、「正しい方向性」などと語っている。しかし、である。ここでは、「正しい」というのがどういう意味であるか、勘違いしているのだ。
 なるほど、従来型の公共事業に替えて、都市型の公共事業を重視することは、それ自体を見れば、「正しい」と言える。タヌキの通るための高速道路を建設するすとか、大赤字確実の農業基盤整備のために補助金を出すとか、「金をドブに捨てる」ような従来型の公共事業に比べれば、都市型の公共事業は、たしかに有意義である。その意味では、「正しい」と言える。
 しかし、それは、「金の効率的な使い方をする」という意味で「正しい」だけだ。それはあくまで、金の使途の「質的」な問題だ。
 一方、金の使途の「量的」な問題もある。「一定の金を出して、どれだけマクロ的に経済を拡大するか」という問題だ。「経済波及効果」ないし「乗数効果」の問題である。そして、実は、この観点で見ると、従来型の公共事業よりも、都市型の公共事業の方が、効率が悪い。なぜなら、出した金の大部分は土地買収費に食われてしまうからだ。
 土地買収費に出した金でも、その金が有意義に使われるなら、問題はない。たとえば、金を得たあと、その金を、企業の事業資金にすること。あるいは、預金して、銀行と金融市場を通じて、他の企業の事業資金にすること。……そういうことは、普通の景気のときには、実現される。しかし、不況のときには、そういうことは実現されない。土地買収費に出した金は、その大部分が眠ってしまう。それが「流動性の罠」という状況だ。このとき、金は「滞留する」だけであり、経済を拡大しないのだ。(ただし、ごく一部だけは、消費に回るので、経済を拡大する。しかしそれは、あくまで微々たる額だ。「1億円の金をもらったら全部使ってしまう」というような放蕩者は、ほとんどいない。)
 結局、「金の正しい使い方」という用語は、無意味である。「質的に正しい」ということと、「マクロ的に効果がある」ということは、まったく別のことである。この点を混同している人々が、非常に多い。「金の使い方を正しくすれば、景気は回復するだろう」などと、素朴に信じすぎている。しかし、政府を(質的に)効率的にすることと、GDPを(量的に)拡大することは、まったく別のことなのである。
 仮に、彼らの主張が正しければ、「量的に縮小した不況のときには、政府は非効率である」ことになり、逆に、「量的に拡大した好況のときには、政府は効率的だった」ことになる。しかし、どう見ても、そんなことはありえない。現在なら、不十分ながらも、歳出削減の努力はなされている。一方、バブル景気のころには、あまりにも無駄な歳出が多大になされていた。(本四架橋などを思い出そう。だから、一般的には、むしろ逆のことが成立するのである。)
 金の使途の「質的」な問題と「量的」な問題とは、異なる。この両者を区別できない素人エコノミストが、「最適配分」という考え方をしがちなのである。景気の「良し悪し」を、経済の質的な「良し悪し」に還元してしまう。マクロ経済学を理解しないゆえに。
( ※ こういうのは、たいていは、サプライサイドである。「経済を質的に向上させれば、マクロ経済は量的に拡大する」と思い込んでいる。そういう勘違いをするところが、素人のゆえん。小泉や朝日がそう。)


● ニュースと感想  (12月22日b)

 「縮小均衡」について。(前項と関連する。)
 「縮小均衡というのは、不均衡に比べれば、まだマシだ」という意見がある。しかし、これは、とんでもない勘違いである。前にも同様な話を述べたことがあるが、あらためて本質を突いておこう。
 「均衡か不均衡か」という立場から経済を考えれば、「縮小均衡は不均衡よりはマシだ」と考えがちだ。しかし、「均衡か不均衡か」というのは、「安定か不安定か」と言うことを意味するだけであり、善悪は関係がない。 ∪ 型のポテンシャルで考えれば、縮小均衡とは、最低の安定点であり、不均衡とは、縮小均衡に至る途上の点である。だから、不均衡は、最低という最悪に達していないだけ、まだマシなのである。
 人間で言えば、縮小均衡とは死であり、不均衡とは死に至る途上である。不均衡のときなら、処置をして元の状態に戻れるが、死に至れば、元の状態には戻れない。ここでは、「均衡して安定しているから善」とは言えないのである。

 それでも、「縮小均衡は善」というふうに考える人は、けっこういる。「いったん最悪まで落ち込めば、あとは上がるだけだ」などと考える。本当にそう思うのであれば、自分の財産をすべて捨てて、一文無しになってしまえばいいのだ。しかるに、なぜか、自分ではその方針を実施せずに、他人にばかりやらせたがる。自分では奈落の底に落ちようとせずに、他人には奈落の底に落ちよと勧める。(悪魔のメフィストフェレスみたいですね。)

 「縮小均衡は均衡しているから善」と言える場合は、あることはある。それは、(人間を抜きにした)経済現象そのものである。なるほど、経済現象そのものは、縮小均衡で安定していれば、それはそれでいい。余分な企業は、消滅してしまえばいいからだ。
 しかし、人間には、そうは言えない。「余分な労働者は、消滅してしまえばいい」とは言えないからだ。
 多くの経済学者は、この点を見失っているのである。「失業者なんか、知ったこっちゃない。生き残った企業さえ黒字ならば、それでいいのだ」と。なるほど、それで、一国の経済体質は健全化する。そのかわり、莫大な死者が出るのである。企業は栄えるが、国民は死ぬのだ。
 かくて、経済を金額だけで考え、人間を見失うと、とんでもない結論を出すわけだ。「とにかく均衡すればいい」つまり「余剰分の人間を死なせればいい」と。

 結語。
 大切なのは、均衡しているか否かではない。均衡点がどこにあるか、ということだ。縮小均衡と、正常な均衡とでは、均衡という点では同じでも、経済規模が異なる。この二つの均衡は、企業にとってはどちらもほぼ同じであるが、人間にとっては同じではない。では、その違いは、どこにあるか? 企業なら、不要な企業をいくらでも倒産させていいのだが、人間なら、不要な人間をいくらでも殺していいということにはならない、ということだ。
 企業にとっては、経済規模の変動は関係なくて、単に利益が出ればいいだけだ。しかし、人間にとっては、経済規模の変動は好ましくないのだ。人間の生存は、機械設備のように、オン・オフを切り替えることはできないのだ。不要になったら殺して、必要になったら生き返らせる、ということはできないのだ。
 にもかかわらず、そのことを理解できない人々がいる。そういう人々が、単に「均衡すればいい」と主張するのだ。── 彼らは、「均衡点の移動」による「経済規模の変動」という現象を、理解できない。つまり、マクロ経済学を理解できない。そして、単にミクロ的な「均衡」だけを金科玉条のごとく重視する。そういう人々を「古典派」と呼ぶ。
( ※ サプライサイドやマネタリストは、ここに含まれる。彼らは、マクロ的な手法で扱うべき一国全体の経済を、ミクロ的な手法で扱う。……この件は、前項で述べたとおり。)

 [ 余談 ]
 経済を数字だけでみるのが科学的だ、と信じる人々は、科学的であろうとして、かえって真実を見失ってしまうわけだ。とはいえ、「人間的なものを抜きにして考えるほど、科学的になるから、真実に近づく」と考える人は、とても多い。特に、古典派の間では。
 そう思い込む彼らにとって、人間とは、ロボットの一種すぎないのだ。生産も解体も勝手にできるような。


● ニュースと感想  (12月23日)

 「道路公団の民営化」について。
 この問題については、少し前に述べた。( → 12月10日
 ざっとまとめて言えば、こうだ。「道路公団をいくつかに分割するが、単に分割するだけでなく、分割したものを、地方に移譲する。」
 つまり、借金をしようが、利益を出そうが、すべては地方の自己責任にする。多額の借金をこさえて道路を建設したければ、勝手にそうしていいが、ただし、その金は、その地方が自分で負担しなくてはならない。国に面倒を見てもらうのは許されない。たとえば、本四架橋を建設したければ、建設していいが、その金は、国が出すのではなくて、四国や中国地方が出す。その地方がそれだけの金を出すということは、当然、他の歳出が削られる、ということを意味する。たとえば、他の幹線道路の整備が遅れたり、福祉が削られたり、教育費が削られたりする。あるいは、増税となったりする。
 これは、「地方への権限委譲」である。「あんたの好きなように金を使っていい」ということだ。だから、原理的には、特に誰も反発しないだろう。また、反発があったとしても、容易に抑えられるだろう。

 現状の問題点は、どこにあるか? 
 道路族は、「国の金を地方にぶんどりたい」と考えている。その理由は、「中央の金を持ってくることが、政治家の仕事だ」と思っているからだ。そして、これは、必ずしも間違いではない。「中央の金をぶんどる」というのは、地方にとっては、好ましいことなのである。
 ここでは、「配分の最適化」という問題がある。そして、その「最適」という基準が、地方と国全体とでは、対立しているわけだ。
 古典派ならば、「それぞれの地方が競争して、最も力の強いものが、最大の取り分を取ればよい」と主張するだろう。「弱肉強食」の思想だ。そして、たいていの保守派政治家はそう思っているわけだ。これは、彼らが愚かだと言うよりは、古典派経済学の思想そのものが愚かなのである。あくまで「配分」だけを考えているからだ。
 一方、改革派は、「道路公団の全体の支出を減らせ」と考えている。これは、いわば、マクロ経済学の立場(総額を考える立場)に似ている。そして、この考え方は、たしかに正しいのだが、古典派とは、価値判断の立場が異なるゆえに、正面から説得しようとしても、うまく説得できないのである。

 では、どうすればよいか? ここでは、保守派の価値判断の立場そのものを変えることが必要だ。保守派の価値判断の立場がそのまま残っているのでは、二つの価値判断の立場が対立するだけだ。だから、対立の前に、保守派の価値判断の立場そのものを変えるべきだ。
 では、どうやって? それが、実は、「地方への権限委譲」である。現状は、「国の金を地方がぶんどり合う」という原理が出来上がっている。この原理のなかで対立する限りは、保守派の「おれの取り分を増やせ」という考え方が、最も得をする。だから、保守派は、金をたくさんぶんどろうとする。こういう原理そのものを残した上で、道路公団の改革などをやろうとしても、原理そのものが間違っているのだから、まともな解決など、もともとできるはずがないのだ。
 だから、「それぞれの地方のぶんどり合い」という原理をあらためるべきだ。かわりに、「地方の取り分はもともと固定されている」という基本を立てて、その基本の枠内で、「地方は自分の取り分のなかで、配分を変更できる」とすればよい。
 まとめてみよう。
 となる。というわけで、「現状」から「改定案」のようにすることで、問題は解決する。
( ※ つまり、「配分」の場を、どこにするかを、変えるわけだ。そういうふうに、原理そのものを変えるわけだ。現状では、原理を変えないから、解決ができない。小泉が道路公団の改革にほぼ失敗したのは、小泉の気力が足りなかったからではなくて、方法が根本的に間違っていたからなのだ。)

 [ 補説 ]
 私の基本原則は、何か? 「子供の無駄遣いをなくすには、子供に定額の小遣いをやればよい」ということだ。子供は、定額の小遣いをもらえば、最適の使い方を、自分で考える。一方、そのたびにもらうことにすれば、「あれ買って、これ買って」と無駄な出費を強いる。
 子供がさんざん注文して、親に無駄な出費をさせるからといって、子供を批判するのは、お門違いである。「子供に定額の小遣いをやる」という方針を取らないでいるような、親の原理そのものが間違っているのだ。


● ニュースと感想  (12月23日b)

 「中小企業の弱さ」について。
 「景気が回復傾向にあるが、あくまで大企業に限られており、地方企業はいまだに弱い」という報道が、先日あった。( → 12月13日
 ここでは、「地方企業」というのを、「中小企業」に置き換えても、そのまま当てはまるだろう。では、その理由は?
 一つの理由は、「内需中心」だ。「大企業は輸出増のおかげで好業績だが、中小企業は内需中心だから輸出増のおかげを受けにくい」ということがあるだろう。
 別の理由は、「コストダウン」だ。トヨタや日産のような自動車産業では、自社では好業績になっているが、それは、下請けの中小企業に、コストダウン(コストカット)を押しつけたからだ。中小企業が血を流して、その血を大企業が吸う、という図式だ。(吸血鬼ばかりが太る、というわけ。)
 ただ、これら以外に、マクロ的な理由もある。それを示す。

 「中小企業が不況に弱い」という現象を見ると、古典派経済学者は、「それは中小企業が質的に劣るからだ」と結論する。「優勝劣敗」を信じており、「劣悪なものほど滅びていく」と考える。ここでは、「需給曲線」だけですべてを説明しようとしている。では、ここでは、何が欠けているか? マクロ的な考察である。つまり、「需給曲線そのものの変動」すなわち「マクロ的なGDPの変動」である。
 では、マクロ的な考察をすると、どうなるか? それが問題だ。
 答えを言おう。マクロ的な変動があると、固定的な部分と変動する部分とに、分けて考えられる。どんなに景気が悪化しても、一定の生産量は確保されているものだ。それをコアと呼ぶことにしよう。このコアを、誰が取るかが問題だ。
 もちろん、コアを取るのは、発注者として力の強い大企業である。需要がいくらか減少すれば、その減少分をなるべく中小企業に押しつける。需要が10%減少したとき、大企業は自社では少ししかかぶらず、残りを中小企業にかぶせる。自社では5%ぐらいのぐらいの減少幅になるが、中小企業の方では15%ぐらいの減少幅になる。かくて、景気の変動があればあるほど、中小企業は大きな影響を受ける。景気が悪化すれば中小企業はバッタバッタと倒産し、景気が好転すれば中小企業は過労死をしてまで発注を受ける。
 これが実状だ。ここでは、たしかに「弱肉強食」がある。しかしそれは、市場における「優勝劣敗」という原理を通じてなされるのではなく、大企業は中小企業に面倒を押しつけるという「強者の横暴」という原理を通じてなされるのだ。

 まとめ。
 景気が変動すると、マクロ的な生産量(GDP)が変動する。すると、固定的な部分と、変動する部分がある。前者は稼働率が高くて有利であり、後者は稼働率が変動して不利である。通常、強者である大企業が前者を占め、弱者である中小企業が後者を占める。景気変動という経済政策の失敗があると、そのシワ寄せは、大企業がかぶるのではなく、中小企業がかぶる。
 これは、大企業が「強者の立場」を利用して、中小企業に割を食わせるからだ。ところが、この事実を理解しない古典派の人々は、「大企業は優秀だから生き延びて、中小企業は劣悪だから倒産する」と結論する。これはいわば、「ヤクザが市民を脅して、金を巻き上げる」という犯罪を見て、「ヤクザは優秀だから金を得て、市民は劣悪だから金を失う」と主張するのと、同様である。つまり、犯罪行為を市場原理で曲解するのと同様である。それが、古典派経済学者である。
( ※ ついでに言えば、たいていのマスコミそうだ。次項のトヨタ礼賛記事がそうだ。)


● ニュースと感想  (12月23日c)

 「マスコミの礼賛記事」について。
 週刊朝日(最新号)に、「トヨタはすごい」という記事がある。「生産台数がフォードに匹敵する」という先日の報道を踏まえて、「利益率はGMやフォードをしのぐ。すばらしい」というふうに、しきりに褒めている。ほとんどトヨタの全面広告である。いや、全面広告でも、ここまで自己を礼賛することはできまい。恥ずかしげもない提灯記事。
 この記事の難点は、いくつもある。
 第1に、事実認識が不足している。「利益率がすごい」というが、利益率は、GMやフォードをしのぐとしても、日系のホンダや日産と同程度である。はっきり言えば、日産よりも下である。
 第2に、利益率の高さの理由として、「すばらしい人気があるから」と述べている。なるほど、ある点では、そうかもしれない。しかし、本当の理由は、「コスト・ダウン」である。ホンダや日産やトヨタの利益率が急上昇したのは、ここ数年のことである。それは、日系の自動車の人気が急上昇したからではなくて、日産のゴーン改革を通じて、コスト・ダウンに成功したからだ。── なのに、「すばらしい人気があるから」なんて称賛するから、「宣伝記事」と呼ばれるのだ。仮に、トヨタの人気がそれほどすごいのであれば、ホンダや日産よりも、はるかに上の利益率になっていていいはずだ。現実には、そうではない。つまり、人気は、たいしたことはない。ホンダや日産と、同程度であるにすぎない。
 第3に、人気があるとしても、あくまで、価格と比較した上での話だ。つまり、価格の割には、性能がいい、というだけのことだ。絶対的な性能で欧州車を上回っているわけではない。
 第4に、トヨタ車は、欧州では、あまり人気がない。最近はかなり頑張っているようだが、あくまで大衆車での話である。ブランドイメージを確立するには至っていない。特に、レクサスは、米国では成功しても、欧州では完全に失敗した。(こういう事実を書かないから、「宣伝記事」と呼ばれるのだ。)

 さて。以上の難点は、実は、どうでもいいことだ。自動車業界の内実を知らない素人が記事を書けば、こういう素人記事になる、という見本である。まともな編集長がいれば、自動車業界に詳しい記者のチェックを受けて、デタラメぶりを指摘してもらえるはずなのだが、社内のチェック体制が不備であるせいで、こういうデタラメ記事がそのまま出てしまう、というだけのことだ。朝日の体質であるから、いちいち目くじらを立てていたら、キリがない。
 問題は、別のことだ。それは、マクロ経済との関係だ。
 トヨタはこれほどにも、利益率が高い。(ホンダや日産もそうだが、とにかくトヨタの利益率は高い。記事で述べたとおり。)……そして、だとすれば、「成果給」として、労働者には応分の配分をしていいはずである。常日頃、そう主張しているのだから。なのに、労働者に成果配分をしない。あくまで「賃上げ」のかわりに「賃下げ」を主張する。日頃、口にしていることを、まったく実行しない。「賃下げ」のときには「成果給をやる」と言い、「賃上げ」のときには、「成果給をやらない」と言う。とんだ二枚舌だ。
 ま、トヨタがそうするのは、トヨタの勝手かもしれない。しかし、そのせいで、所得が萎縮するせいで、日本経済はデフレから脱出できないのである。せっかく輸出で利益を得たのなら、それを労働者の所得として配分して、マクロ経済を拡大するべきなのだが、そうしないで、せっかくの金を内部留保に回してしまう。かくて、デフレ脱出は不可能となる。
 だから、日本経済の不況の張本人は、トヨタなのだ。そのことを指摘することが必要であるにもかかわらず、逆に、「トヨタこそすばらしい」と述べ、「トヨタの真似をすれば、日本経済は復活する」と言わんばかりだ。正反対のことを述べている。
 「おべっか使い」というのは、強者にこびて、シッポを振るばかりである。その点、朝日は、米国べったりの小泉にそっくりだ。犬というものは、シッポを振るしか、能がない。真実を報道することなど、とうていできないのだ。

 [ 参考 ]
 せめて、「小泉の波立ち」を読んでいれば、トヨタの問題点を指摘できたのにね。過去の関連項目。
  ・ マクロへの影響 → 12月06日12月13日
  ・ トヨタのケチぶり → 3月01日3月07日b [ 補説 2 ]
  ・ 朝日の提灯記事 → 12月15日


● ニュースと感想  (12月24日)

 「朝日の問題」について。
 私はこれまでしばしば朝日の経済記事の問題点を指摘してきた。その問題点は、大別すれば、次の二点による。

 一つは、朝日のエリート根性だ。やたらと東大出が多いせいか、コンプレックスを知らず、「自分こそは偉い」と思い込んでいる。反骨精神だけは立派だが、しょせんは朝日の嫌いな官僚と同じで、「自分こそは偉い」と思い込んでいる。さらに、始末に悪いことには、官僚は「自分は偉いと自分で思い込んでいる」ということを自覚しているのだが、朝日はそう自覚していないのだ。むしろ、「自分は弱者の味方だ」と正反対に理解している。官僚は「悪魔だと自覚している悪魔」であるが、朝日は「天使だと自覚している悪魔」である。いっそう始末に悪い。(なんて、またまた悪口を書いてしまいましたね。……ま、これは、私のイヤミです。すみません。実は、これは、あまり重要ではないことです。)

 もう一つは、経済音痴だ。これこそが、問題である。
 では、朝日はなぜ、経済音痴であるか? なぜ、かくも、経済の基礎知識が欠落しており、また、業界の実状も知らないまま、初歩的な誤りをしばしば報道するか? 私が思うに、その理由は、ただ一つしかない。それは、頭が低脳であるからではなくて、専門性が欠如しているからだ。
 通常、どの分野でも、専門性は必要とされる。科学ならば科学知識。スポーツならばスポーツ知識。しかるに、朝日だけは、その専門性がまったく無視されている、としか思えない。たとえば、社会部と経済部と学芸部と科学部とで、記者が相互に交流している、としか思えない。そのせいで、経済知識ゼロの人間が経済記事を書くようになる。やたらと初歩的なミスを犯して、事実に反することを報道するようになる。
 だから、正しい対策は、専門記者を養成することだ。また、大学を出たばかりの半人前の記者ならば、相互交流することも許容するが、ただし、その場合は、半人前であることを自覚して、記事を書いたら必ず先輩のチェックを受けるようにするべきだ。
 現実には、たぶん、そうではないのだろう。23歳のヒヨッコでも、働き盛りの35歳でも、あちこちの部署を移転して、同じように半人前のまま、無知をさらけ出す記事を書いて、それをチェックを受けずにそのまま掲載してしまうのだろう。
 私は、そのように推察する。それが、朝日の根本的な体質だ。

 [ 付記 ]
 これは推察であるから、事実はそうではないかもしれない。もしかしたら、先輩のチェックを受けているのかもしれない。仮にそうだとしたら、朝日の記者は、専門的な知識をもつ記者がほとんどいなくて、全員が初心者ばかりだ、ということになる。よほどの阿呆ぞろいだ、ということになる。もしそうだとしたら、入社試験で、阿呆ばかりを入社させたせいだ、ということになる。
 とにかく、初歩的なミスばかりを各記事があふれているのは、朝日の社としての体質に問題があるか、あるいは、各記者の個人的な能力に問題があるか、二つに一つだ。私は前者であると推察するが、もし朝日が「そんなことはない」と否定したら、後者であることになる。(つまり、「私は間違っていました」と認めるかわりに、「私はもともと馬鹿です」と告白していることになる。)


● ニュースと感想  (12月24日b)

 「クリスマス」について。
 ジングルベル、ジングルベル。……今年もサンタさんは、煙突から入って、プレゼントを置こうとしました。
 とたんに、防犯警報ベルが鳴り響いて、サンタさんは逮捕されてしまいました。
 「何で、わしを逮捕するんだ。サンタだぞ」
 「だって、IT家電時代ですからね。無断侵入すると、自動検知して、警報が鳴るんですよ」
 「やれやれ。とんだ時代になったものだ。やってられんよ。サンタは、もう廃業しようかな」
 「いやいや。日本以外なら、大丈夫。他国は、こうじゃありません」
 「じゃ、日本以外の国に行って、クリスマスプレゼントをあげよう」
 サンタクロースはふたたび、夜空を駆け上がりました。かくてサンタクロースは、日本に渡す分のプレゼントも、世界各国でばらまきました。
 日本は、不況のさなかで、長時間働いても、貧しい生活。欧州では、短時間働くだけで、優雅な生活。……なるほど、サンタは実在するんですね。


● ニュースと感想  (12月25日)

 「トヨタのサンタクロース」について。
 「トヨタは賃上げをしない」と少し前に書いたが、さすがにこれでは、労組が怒り狂うだろう。というわけで、トヨタはこっそり、サンタクロースみたいに、社員に「福袋」を配っているという。福袋は、30代の一般職で4〜5万円。これが、2〜3カ月に1回くらい出るそうだ。これのおかげで、実態はかなりいいらしい。
 この話は、私が調べた話ではなくて、先日の私の話を読んで、読者が提供してくれた情報だ。本人はトヨタの社員ではないので、他人から聞いた話だという。直接情報ではないので、数字はいくらかあやふやだという。
 直接情報ではないのは残念だが、トヨタ社員は後ろめたくて、口にできないのだろう。「バラすなよ」と、箝口令(かんこうれい)が敷かれているのかもしれない。こっそり裏金を出しているんですからね。(賄賂みたいなものですね。出した方も、受け取った方も、後ろめたい。)
 まったく、トヨタはこそこそと裏金を出したりして、困ったものだ。(情報を提供してくれた読者も感想として言っていたことだが。)本来、正々堂々と金を出せばいいのだ。なのに、経団連会長としての立場があるから、「賃上げをしています」とは言わないで、「賃上げ反対」と言う。
 つまり、自社だけは(経営者や管理職も含めて)いい思いをするが、「自分たちは賃上げしないから、あんたたちも賃上げしないでね」と言いくるめて、他人の賃金を下げさせようとする。かくて、日本にデフレを引き起こす。世間は不況で苦しむが、自分たちだけは物価下落の恩恵を享受する。
 まったく、卑しくて、さもしい連中だ。情けない。若い女性から見たら、「サイテー」と軽蔑されること、確実。
( ※ それにしてもマスコミは、「トヨタは素晴らしい」とか、「トヨタは賃上げに反対している」とか、そういう変な記事ばかりでなくて、事実を報道してもらいたいものですね。トヨタは隠しているんだから、隠している事実を報道するのがマスコミの使命だろう。トヨタの話を鵜呑みにして、宣伝してばかりでは、ただのトヨタ広報紙にすぎない。)

 [ 付記 ]
 上記の話は、伝聞であり、直接情報ではなかった。ただし、これは、信頼度が低いわけではない。単なる伝聞だけではないのだ。
 実は、これと同じ情報は、私は別のマスコミの記事で、すでに読んだ覚えがある。かなり前の話だが。……というわけで、二つ以上の根拠があるわけで、信頼のおける話だと見なしていいだろう。
( ※ 参考。ウォーター・ゲート事件では、どうだったか? 二人の記者がしきりにニクソンの犯罪を調査していたが、記事にするに際しては、必ず、二つの取材源で情報が一致するのを確認してから、記事にした。単一情報では、「未確認」として、記事にしなかった。これが報道の鉄則である。社内チェックすらしないような朝日とは、雲泥の差だ。……話が逸れてしまったが。)


● ニュースと感想  (12月25日b)

 「年金制度」について。
 年金制度について、どうするべきかを、ここ数日、読売が特集している。(朝刊・1面・特集コラム。)
 その主張は、こうだ。「金の負担は、どうするか? 企業負担にすると、企業の活力がそがれる。国民負担にすると、国民の負担が重すぎる。だから、消費税で負担すればよい」と。
 なるほど、「消費税で負担するべきだ」というのは、最も好ましいと言えそうだ。しかし、これは、「負担を軽くするため」ではない。「公平性を確保するため」である。読売は、話を根本的に勘違いしているようだ。消費税の負担にしたからといって、金が空から降ってくるわけではないのだが、あたかも「金が空から降ってくる」というように書いている。
 モデル的に考えよう。国民に100円の所得があって、年金負担が20円だとする。これを、次のように場合分けする。
 結局、どれもこれも、同じである。「企業負担」「国民負担」「消費税」というふうに、国が徴収する名目が変わるが、これは単に帳簿の項目が変わるだけであり、国民の負担する額はまったく同一である。当り前だ。20円の負担をしなくてはならないとしたら、どんな項目であれ、とにかく20円の負担をしなくてはならないのであって、打ち出の小槌などはないからだ。
 企業は「企業負担に反対」と主張し、国民は「国民負担に反対」と主張し、「じゃ残るは消費税だな」というふうになる。しかし、消費税にしたからといって、企業や国民の負担が減ると思うのは、とんでもない勘違いだ。結局は、金は誰かが出さなくてはならない。その「誰か」というのは、もちろん、「国民全体」であるから、徴収する項目が何であろうと、しょせんは金は奪われるのである。
 こんなことは、経済学を理解していれば、簡単にわかる。こういう本質を理解しないで、「消費税にすれば誰も困らない」とか、「消費税にすれば金が空から降ってくる」と主張しているのが、企業やマスコミなどの経済音痴と、阿呆なエセ経済学者だ。

 では、正しくは? 
 「誰が負担するべきか」という問題を考えても、それは単に「配分の問題」であり、「公平性の確保」の問題であるにすぎない。だから、考えるべきは、「パイの配分の方法」ではなくて、「パイを大きくすること」なのだ。
 では、その方法は? 一つは、景気を良くして、失業者を減らすことだ。もう一つは、労働人口そのものを、大きくすることだ。つまり、就業率を上げることだ。わかりやすく言えば、「就職したがらない」と見なされて、「失業者」にカウントされていない人々に、職を与えることだ。具体的には、高齢者や女性にも職を与えることだ。そうすれば、労働人口が増えるので、パイが大きくなる。(なお、長期的には、「少子化の解決」も大切である。)
 とにかく、大切なのは、「パイの配分の方法」ではなくて、「パイを大きくすること」なのだ。「誰が負担するべきか」ではなくて、「日本の経済そのものを拡大すること」つまり「国民全体の所得を大きくすること」なのだ。
 本質を理解できない人々は、「最適の配分をすれば、パイが大きくなる」と勘違いする。そんなことを思うのであれば、まず、手元のクリスマスケーキで実行するといいだろう。最適配分をすれば、クリスマスケーキは大きくなりますか? ……こんなこともわからない人々が、「年金問題の解決には消費税増税で」などと主張する。
( ※ 与党もそうだが、野党もたいていそうだ。経済音痴ぞろいだから、ケーキの問題も理解できないし、景気の問題も理解できない。)

 [ 付記 ]
 読売新聞の記事では、「税金と社会保障料の合計が高い国ほど、経済活力がそがれて、失業率が高い」ということを示そうとして、国同士の比較表を示している。とんでもない間違いだ。
 失業率の問題は、「景気対策」しだいである。たとえば、日本だけを見ても、税金と社会保障料の合計は、バブル期には高くて、現在は低い。では、バブル期と現在とは、どちらが失業率が高かったか? もちろん、現在の方が高い。
 一般的に言えば、景気の悪い状況では、減税をするから、国民負担率は下がるのである。つまり、景気が悪いときほど、国民負担率は低い。また、そうするのが、正しい方法だ。(タンク法。)
 失業率が高いか低いかは、国民負担率なんかは関係ない。むしろ、失業者のカウント方法が関係する。日本では、失業保険がもらいにくいから、「就労意思なし」と判定され、失業率が比較的低くカウントされるだけである。
 本当のことを言えば、見るべきは、失業率なんかではなくて、就業率である。つまり、子育て後の専業主婦のように、「就労意思なし」と見なされる人々が、ちゃんと働けるよう雇用環境を整えることだ。日本では、これらの専業主婦が働ける環境が非常に低い。だから、日本では就業率が非常に低い。このせいで、年金問題などが発生する。
 要するに、諸悪の根源は、「企業の性差別・高齢者差別」である。こういう反社会的な企業行動を放置して、企業の弁護ばかりしているようなマスコミは、年金制度の崩壊を狙っているのと同然であるから、社会破壊を狙うテロリストと同然なのである。
( ※ だから、提言するなら、「過剰な残業を減らせ」とか、「短時間労働制度を整備せよ」とか、「子育て休暇を実施せよ」とか、「雇用制度を整えた企業に減税せよ」とか、そういうふうに、労働環境対策を提言すればよい。「消費税を上げればすべて解決します」なんていう主張は、幻想をふりまくだけの欺瞞である。はっきり言おう。「いっぱい働けば金を得る」のであって、「いっぱい帳簿をいじれば金を得る」のではない。)

  【 追記 】
 読売はしばしば、「社会保障料が高いと、経済活力がそがれる」と主張する。これは、「社会保障料が高いと、その分、国民の金が奪われる」思い込んでいるせいだろう。とんでもない勘違いである。
 たとえば、年金負担が3万円あって、その3万円を高齢者に渡したとしたら、どうか? 国民全体の負担は、何も変わらない。
 つまり、「社会保障料」というのは、国民間における「配分の変更」にすぎないのだ。これは、「政府が勝手に金を使ってしまうこと」とは、異なるのだ。政府が公共事業に1兆円を使えば、その分、国民は損をするが、政府が社会保障料として、1兆円を取り上げて、1兆円を配り直しても、国民は損得がない。
 結局、「社会保障料が高いと、経済活力がそがれる」という主張は、阿呆のたわごとである。
( ※ なぜ阿呆かと言えば、事実は逆だからだ。つまり、国民の所得はなるべく平準化された方が、経済活力は高まるからだ。「金持ちが一人と貧乏人が九人」という偏った状態よりも、「中産階級が十人」という平準化した状態の方が、一国経済は活発になる。売れるのは、前者ではロールスロイスが一台だが、後者ではミニバンが十台だ。)


● ニュースと感想  (12月26日)

 「小泉への失望」について。
 小泉が道路公団改革で挫折したのを見て、朝日が失望している。「改革を期待したのに、党内の抵抗勢力に勝てないで、やっていないぞ。期待はずれ」という趣旨。(朝刊・社説 2003-12-25 )
 これをたとえれば、新婚夫婦の仲だ。
 「この人がいいと思って、結婚したのよね。彼、ハンサムで、格好良くて、言葉が立て板に水で、高収入も約束してくれたから。……でも、2年たったら、高収入なんて、とんでもない。ずっと貧乏よ。とんだ口先男だったわ。期待はずれ」
 この女は、さんざん「期待はずれだ」と言っている。しかしねえ、そんなことは、最初から何度も忠告されていたでしょうが。「こいつの考え方は、根本的に狂っている。高収入を得るためには、理想の追求ではなくて、まず働くことだ」と。
 なのに、騙されたとしたら、騙された方が悪いんでしょうが。悪いのは、口先男ではなくて、自分でしょうが。なさけないねえ。
 口先だけは夢のような理想を唱えて、金をちっとも稼がない男がいる。こういうのを「だめんず」という。週刊誌「SPA!」に連載中の「だめんず・うぉ〜かあ」に出ている、典型的なダメ男だ。つまり、「無収入」「口先だけ立派」「妄想癖」「暴力をふるう」……ほら、ぴったりでしょうが。「不況」「改革を標榜」「改革で景気回復と主張」「イラク派兵」というのをやる人物が。

 何度も言っているが、「改革で景気回復」なんて、ありえない。バブル期に好況だったのは、改革が十分だったからではなく、単に貨幣供給量が増大したからだ。つまり、過剰な量的緩和があったからだ。(後述の[付記]を参照。)
 こういうマクロ経済も理解しないで、「改革、改革」といまだに夢を見ている朝日のようなものは、いつまでもダメ男に騙されている間抜け女なのである。
 男が言葉を実行しないことが問題なのではない。男の言葉がもともと妄想なのに、その妄想を信じる女の低知能が問題なのである。こういう女は、まず、自らの低知能を治すことが、先決だ。さもないと、いつまでも騙されつづける。
( ※ なお、男の妄想を、いちいち治す必要はない。妄想を言うダメ男なんか、捨てればいいだけだ。「だめんず・うぉ〜かあ」に、そう書いてあるでしょ。)

 [ 付記 ]
 バブル期について言うと、マネタリストは「量的緩和で景気回復。すべてはマネーだ」なんて主張しているが、そういうのは、軽佻浮薄に過ぎる。勘違いしないよう、注意しよう。
 量的緩和自体が景気を回復させるのではない。量的緩和によって、モデル上の均衡点が移動したことが、景気を回復させるのだ。そして、それが成立する条件は、「需給が不均衡状態でなく均衡状態であること」である。次項参照。


● ニュースと感想  (12月26日b)

 「リフレーション(リフレ)」について。
 「金融緩和によって物価上昇をプラスに回復させるのがリフレーションである」という竹森俊平の解説がある。(読売・朝刊・経済面コラム 2003-12-22 )
 私はこれまであえて「リフレーション」ないし「リフレ」という言葉を使わなかった。この概念は、成立しないからである。正しい概念ならば、何らかの名称を付けることは有意義だが、間違った概念は、何らかの名称を付けても無意味であり、むしろ、その概念を消滅させるべきである。
 では、この概念は、どこが間違っているのか? そのことを、記事に即して、説明する。

 この概念は、要するに、「量的緩和によって物価上昇率をプラスにする」というものだ。つまりは、マネタリストの主張そのものだ。そして、これは、「金融市場が均衡状態であれば」という仮定が成立すれば、正しい。
 「金融市場が均衡状態である」というのは、「金融市場に入れた金と、金融市場から出て行く金が、均衡する」ということだ。たとえば、100億円を注入すると、100億円が出ていく。つまり、日銀が量的緩和で100億円を金融市場に入れると、民間の客が100億円を引き出していく。
 この均衡は、「市場金利の上げ下げ」によって行なわれる。たとえば、100億円を注入すると、100億円がすぐに出ていくのならば、金利は変動しない。100億円を注入すると、80億円が出ていくだけならば、金利を下げて、借り手を増やす。すると、100億円を注入すると、100億円が出ていくようになる。
 このような「市場金利の上げ下げ」を通じて、一般に、金融市場では常に「均衡」が成立する。しかし、それは、経済が正常な状態である場合だけだ。
 経済が正常でなくなり、不況になると、金の借り手が非常に少なくなる。金利をどんどん下げても、借り手は増えない。100億円を注入しても、10億円ぐらいしか出ていかない。そこで、どんどん金利を下げるが、やがては、金利ゼロという壁にぶつかる。こうなると、金利を下げることができなくなるから、借り手を増やすことができなくなる。100億円を注入しようと、500億円を注入しようと、借り手の増分は皆無である。── このとき、「均衡」が成立しなくなり、「不均衡」となる。
 この時点で、「リフレーション」という概念は成立しなくなる。そして、これが、「流動性の罠」という現象である。

 さて。記事では、「リフレーションが成功した例」として、ニュージーランドの例を挙げている。「物価上昇率がマイナスだったが、量的緩和によって物価上昇率をプラスにした。かくてリフレーションは成功した」と。
 ここには、根本的な勘違いがある。当時、ニュージーランドでは、金利はゼロではなかった。年率5%程度の、かなり高めの金利だった。だからこそ、量的緩和は、「金利の低下」をもたらして、金融政策が有効になったのである。

 結局、金融政策が有効であるか否かは、「金融市場が均衡状態であるか不均衡状態であるか」によって左右される。そして、そのどちらの状態であるかは、金利がプラスであるかゼロであるを見ればわかる。金利がプラスであるならば、まだ量的緩和をする余地があり、金融政策が有効である。しかし、金利がゼロになったならば、もはや量的緩和は無効である。つまり、リフレーションは無効である。
 だから、「ニュージーランドではリフレーション政策が有効だったから、日本でもリフレーション政策が有効だ」ということは、成立しないのだ。両国の事情はまったく異なるからだ。(「流動性の罠」になっているか否か。)
 こういう現実を理解できず、どちらも同じだと思い込むのは、頭が盲目である。すると、「日本でもデフレ脱出のためには、量的緩和をすればよい」と主張するようになる。見当違いと言うしかない。

 [ 付記1 ]
 本項では、「デフレになってから金融緩和をしても無効だ(手遅れだ)」と述べている。
 ただし、デフレになる前(均衡状態のとき)には、金融緩和は有効である。だから、記事にあるように、米国連銀(FRB)が現在、好景気であるにもかかわらず、低金利政策を取っているのは、容認できる。実際、物価上昇が起こらないという条件のもとでなら、金融緩和は間違っていないのだ。また、金融緩和をするならば、デフレに落ち込む前にやるしかないのだ。
 とはいえ、米国連銀の例も、ニュージーランドの例も、日本の参考にはならない。日本はもはやデフレに落ち込んでしまっているからだ。「穴に落ちない工夫」というのは、穴に落ちるならば有効だが、穴に落ちたでは無意味である。穴に落ちた後では、むしろ、「穴から脱出する方法」を取るべきなのだ。(それがタンク法だ。)
 この違いがわからないと、記事の著者(竹森俊平)のように、トンチンカンな主張をするものなのだ。違いのわからぬ男というのは、困りものだ。もっとコーヒーを飲んで、違いがわかるようになってもらいたいものだ。
( ※ ここでは、「穴」とは何か? 「不均衡状態」のことだ。この根本問題を理解するのが先決となる。……ただし、古典派というものは、「常に均衡状態が成立する」と勝手に仮定する。ゆえに、間違った結論を出す。……でもって、たいていの科学者は、経済学者を馬鹿にしているわけだ。「勝手な仮定の上に論理を組み立てて自己満足している連中」と。まったく正当な批判である。古典派経済学というのは、砂上の楼閣なのである。蜃気楼と同じであるから、現実とは無関係の妄想にすぎない。)

 [ 付記2 ]
 本質的な点を述べておこう。
 竹森俊平は、物価上昇率だけに着目している。そのせいで、「物価下落」という現象を見て、それを「デフレ」と誤認する。かくて、「デフレには金融緩和が有効だ」と結論する。
 しかし、「物価下落」という現象は、あまり重要ではないのだ。本質的なのは、物価上昇率ではなくて、均衡か不均衡か、ということである。ニュージーランドの例では、「物価下落」という現象はあったが、金融政策が有効であった。それは、状況が不均衡ではなかったからである。
 「金融政策が無効になったあと(不均衡になったあと)ではどうするべきか?」というのが、問題となっているのだが、竹森俊平は、「金融政策が無効になったあとでも、金融政策を実施すればよい」と主張している。そこには、論理的な自己矛盾がある。

 [ 補足 ]
 用語(または概念)について、少し補足しておこう。
 「リフレーション」という概念を否定したが、これに対して、「均衡状態では金融政策は有効だろう」という反発があるかもしれない。
 しかし、「均衡状態では金融政策は有効だ」とか、「均衡状態では利下げをするべきだ」とか、そういうのは、当り前のことであって、いちいち「リフレーション」とか何とか、特別の用語で呼ぶ必要はない。だから、「リフレーション」という概念は、普通の景気では不要であるし、不況のさなかでは間違っているのである。







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「小泉の波立ち」
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