第3章 景気回復策(後)


     
 《 目次 》

景気回復の具体策
  概要
  金利の引き下げ
  物価上昇をともなう金利の引き下げ
  通貨供給量を増やす
  株式市場の活性化
  円安への誘導
  不良債権処理
  公共事業
  広義の公共事業
  政府か国民か
  中和政策
  大きな力
  所得税減税
  消費税減税
  バラマキ
  貸与との違い
  マイナスの利率
  経済学的なマジック
  計画性
  インフレ暴走の危険
  政策的な問題
  参考資料 (URL)

システム改革
  展望
  根本的対策
  安定構造/不安定構造
  不安定構造の状況
  不安定構造から安定構造へ
  最後に

[付録1] 数値(2.5%)の根拠
[付録2] クルーグマンとの違い
[付録3] 「流動性の罠」の理由
[付録4] 物価上昇は有害か



 景気回復の具体策

 概要

 不況からの脱出のための目標はわかった。
「生産性向上率以上の物価上昇」
 これである。だから、これを実現させればよい。そのために、何らかの行動を取ればいい。
 では、具体的には、どうするべきか?
 ここから先は、クルーグマン教授と私とは、立場がやや異なる。
 クルーグマン教授は、「そのことを宣言すればいい」と主張する。私も、それには賛成だが、「そのことを宣言するだけでは駄目で、そのことが実現することを保証する具体策を採る必要がある」と主張する。 ( → 詳しくは 【 追記2 】
 ただ、その具体策としては、クルーグマン教授も、私も、同じことを主張する。「ヘリコプターから金をばらまくこと」である。(これはもちろん、比喩的な表現である。)
 しかし、いきなりこのようなことを言い出しても、たいていの人は、鳩が豆鉄砲を喰らったみたいに、キョトンとするだろう。「バラマキはいけないことだ」と教え込まれているからだ。
「バラマキは人気取りの下らない策だ。それよりはむしろ、政策的に、最善の金の使い方をするべきだ」
 というふうに。
 こういうふうに思い込んでいる頭の固い人には、やはり、噛んで含めるように、いちいち教示する必要があるだろう。そこで、以下では、この結論に至までの理由を、順々に述べていくこととする。
 換言すれば、これ以外の方法はすべて駄目だということを、順々に示していく。
 たとえば、景気回復策としては、すでに世間で、いろいろと提案されている。次のように。

 これらはすべて、駄目なのだ。そのことを、以下で順々に示そう。
 ただ、その前に、先に述べたことを、理解しておいてほしい。つまり、「不安定型」の構造では、いったん端の方の底に落ち込んだあとは、そこから脱出するためには、「大きな力」が必要となる、ということだ。
 不況脱出のため、小さな効果をもつ方策はある。しかし今は、そんな小さな効果では足りないのだ。この巨大な不況を解決するためには、巨大な力が必要なのだ。そのことをよく理解しておいてほしい。

 金利の引き下げ

 景気刺激策として、真っ先に上がるのは、「金利の引き下げ」である。
 なるほど、たしかに、通常の場合はこれは有効である。不況の底に落ち込む前であれば、金利操作だけで不況に落ち込まずに済むようにできる。( → 前述の 対策−落ち込んだ場合 を参照。)
 しかしながら、不況の底に落ちた今となっては、これは手遅れである。つまり、この策を取っても、現時点では意味がない。なぜなら、金利はもう実質的にゼロ金利になっていて、これ以上は下がりようはないからだ。
 もっとも、完全にゼロではないから、ごく微小な数値をいじって、さらにゼロに近くすることもできる。しかし、そんな微々たる金利操作は、効果もまた微々たるものでしかない。つまり、やっても、無意味である。
 要するに、「金利を下げて不況脱出」というプランは、現在の状態では、成立しない。

 物価上昇をともなう金利の引き下げ

 今現在の時点では、「金利の引き下げ」はできない。
 ただし、今ではなくて、将来の話とすれば、中立目標政策(インフレ目標政策)によって物価上昇がもたらされたあとで、「金利の引き下げ」という選択肢を手に入れることができる。
 たとえば、何らかの手段で物価上昇率を 2.5% まで上げたとする。この場合、通常、金利はそれにともなって上昇する。(初めのうちは、物価上昇率と同じ 2.5% ぐらいになるだろう。) この時点で、金利をいくらか引き下げることが可能となる。「金利引き下げ」という選択肢を手にしたことなる。
 ただし、誤解してはならないのだが、「金利引き下げ」は、必須ではない。選択肢としてあるだけだ。他の策によって物価上昇が進行して、それにともなって景気回復が順調に進んでいるのであれば、この選択肢(金利の引き下げ)を行使する必要はない。逆に、物価上昇が進行しすぎたり、景気が過熱気味になったりすれば、金利を下げるどころか、金利を上げる。ただし、景気回復が遅々として進まないようであれば、金利の引き下げという選択肢を行使するわけだ。
 つまり、状況に応じて、「金利調整」というアクセルを、適切に踏むわけだ。強く踏んだり、弱く踏んだり。

 なお、物価上昇をともなう状態では、物価上昇率以下に金利を設定すれば、実質的に「マイナスの利率」をもつことになる。これによって、「金利がゼロなので金融の量的緩和をしても意味がない」という「流動性の罠」から、脱出することができる。……このことは、クルーグマン教授が指摘している。(次項に示す「流動性の罠」を参照。)

 通貨供給量を増やす

 「不況脱出のためには、通貨供給量を増やせばよい」
 という意見がある。つまり、金融の量的緩和である。
 なるほど、通常の状態でなく、今の日本のように、「金利0%」という状況では、「金融の量的緩和」は効果がない。このことは、経済学的には、「流動性の罠」と呼ばれる。
 「流動性の罠」とは何か? 簡単に言えば、「金利が0%という状況では、借り手がいないので、いくら通貨供給量を増やしても、無駄だ」ということだ。

 ケインズが最初に、「流動性の罠」という言葉を用いた。その考え方では、こうだ。
「どうせ利息が付かないから、人々は預金しないで、現金でもつだけだ。だから、金が設備投資に向かわないので、効果がない」
(ただし、これはちょっとピンぼけかも。民衆の預金を経ないで、資金が直接、日銀から銀行へ向かう道があるので。)

 クルーグマン教授は、より厳密に定量的に、「流動性の罠」について詳しく論じている。
   ( → クルーグマン論文 日本語訳ページ
    のうちの
    「日本がはまった罠
    「日本、まだはまっています」 ) 

 ※ 解説
 その本質は? 簡単に言えば、次のようになる。
 需要の曲線と、供給の曲線は、通常、普通のところに交点があるので、そこで安定する。しかるに、不況のときは、[資金の]需要の曲線が過度に下がる。そのため、交点は、「金利がゼロ」以下の領域に存在するようになる。しかるに、金利はゼロ以下にはなれない。そのため、交点が生じなくなる。したがって、安定した状態にはならない。経済は不自然な状態に置かれる。) 

 私自身も、先に第2章で、「流動性の罠」について簡単に説明した。繰り返すのをいとわず、ここでまた述べると、次のようになる。
「金利が0%という状況は、借り手がほとんどいないという状況を意味する。なぜなら、仮に、借り手がたくさんいれば(資金需要が豊富にあれば)、資金の奪い合いが生じて、金利は 0% よりもかなり高くなるからだ。だから、こういうふうに、借り手のいない状態では、量的緩和をしても、やはり借り手はいないままなので、効果はない。水がいっぱいになった容器に、さらに水を入れても、あふれるだけだ」

 ※ 解説
 わかりやすく例示すると……
 「金利」とは「金を借りる権利」の料金である。金利が0%であるということは、この商品の値段がタダだということだ。タダでも買い手がいないときには、その商品をどんなにたくさん生産しても、販売量は少しも増えない。たとえば、「タダで水をあげますよ」と言っても誰もほしがらないときに、水の生産量をどれほど増やしても、水の販売量は増えない。需要がないときに供給を増やすということは意味がないのだ。(一方、不要な在庫が増すので、別の危険が生じる。)

 また、すぐ前の「金利の引き下げ」で述べたこともあわせて言えば、次のように言える。
「金融の量的緩和をする、ということは、金利をある程度の割合で、引き下げる、ということを意味する。たとえば、おおざっぱに言えば、資金の供給量を10%増やせば、金利を10%引き下げる効果がある。(現在の金利が5%なら、その10%を引き下げて、4.5%になる。)ところが、元々の金利が0%近傍でごく小さいときは、いくらたくさん資金を供給しても、引き下げの絶対幅もまた、ごく小さい。0.1% が 0.05% に半減したとしても、引き下げの絶対幅はごく小さい。だから、影響や効果は、ごく小さい。特に、金利がゼロ近傍ではなくて、まったく 0% であったとすれば、ゼロはいくら半減させてもゼロだから、量的緩和による効果はまったくない」

 とにかく、どの解釈を取ってもいいが、結論は同じである。「金利がほぼゼロ」という状態では、「金融の量的緩和」という方策は、効果がないのだ。「流動性の罠」ゆえに。
(日銀では、「通貨供給量をちゃんと増やしています。偉いでしょう。」と自己宣伝することもある。しかし、彼らは、経済学者でありながら、「流動性の罠」さえも、ろくに理解していないのだ。無効なことをいくらやっても意味がない、ということを、全然理解していないのだ。)

 【 追記1 】
 2001-08-14 に、日銀は景気悪化への対応として、「金融の量的緩和」を決定した。当座預金残高の「目標」を1兆円増やし、そして現実的には、毎月の国債の買い切り額を2000億円増やす、と。
 これは最悪の決定と言える。まだしも何もしない方がよかった。なぜか? 第一に、すでに述べたように、「流動性の罠」ゆえに効果がない。第二に、仮に効果があったとしても、「月に2000億円」では国民一人あたりで「月1500円」にしかならず、効果があまりにも小さすぎる。はっきり言って、「国民一人ずつ100円あげる」というのよりも圧倒的に小さな効果しかない。一方、消費の縮小(消費性向の低下)は、国民一人あたりで何十万円にもなるのだから、日銀の措置は、「雀の涙」「焼け石に水」である。(それ以下かも。)
 日銀はまったく無駄な決定をした。この決定のせいで、当面は様子を見ることになるので、「効果なし」という判定が出るまで、次の決定はずいぶん遅れるだろう。日銀は貴重な時間をつぶすという最悪の決定をしたことになる。

 新聞報道でも、歓迎する声があるという一方で、効果を疑問視する声が多いとのことだ。(前者は素人、後者は玄人だろう。) ── 銀行は「国債を買ってもらっても、その金でまた国債を買うしかない」と言う。企業は「金を借りるどころか、有利子負債の削減に向けて努力中」と言う。
 そもそも、日銀自体、この方針には乗り気でなかったのだそうだ。日銀は「すでに資金はジャブジャブの状態」と認識して、「金融の量的緩和は効果なし」という判断だったという。その判断は正しい。なのに、政府の圧力に屈して、金融緩和に踏み切ったという。
 日銀総裁の言明では、「効果があるとは言えなくとも、とにかく何かをしようということで」という話で、これはつまり、「今回の方策が効果がないことは十分わかっている」ということになる。
 日銀は頭がイカレているとしか思えない。「効果がない」と自分でわかっていることを、あえてやった。「政府の圧力で」ということらしいが、圧力は、「インフレ目標をせよ」という方にあったのだ。なのに、あえて、有効な策ではなく、無効な策の方を取った。 ○ と × の二つの選択肢を示されて、あえて×の方を選択した。どちらが ○ か × かわからないで × を選択するのなら、ただの間抜けだが、 × だとわかっていて × を選択するのは、狂気的でさえある。 (どうしても ○ を取るのがイヤなら、まだしも何もしない方がよかった。これは前述の通り。)

 政府側では、竹中経済財政相 ・塩川財務相が、「インフレ目標」を希望している旨、表明した。)

 【 後日記 】 上記の日銀の政策の効果は、どれだけか? 2001-08-29 になると、はっきりとした。失業率は最悪の5%になり、株価は最低の11000円割れとなり、景気は最悪となった。つまり、効果はゼロである。)

 株式市場の活性化

 「不況脱出のため、株式市場を活性化させるべきだ」
 という声がある。その代表的な意見は、次のようなものだ。
 「日本では個人の株式取得が税制で冷遇されている。欧米ではそうではない。だから、個人の株式取引課税を減税するべきだ」
 という意見である。
 これは、「何ごとも税制をいじれば解決する」という素朴な経済学者の考えることで、あまりに素朴すぎる。
 第一に、ちょっと考えればわかることだが、バブル期と今では、税制はたいして変わっていない。なのに、バブル期には個人資金が大量に流入した。「財テク」という言葉でできるほどで、あちこちの素人が株に手を付けた。なのに、今では、たいていの個人が足を引いている。個人が株を買うかどうかは、税制などはあまり関係ない。(なお、バブル期の最後に参入した素人の大半は、参入の時期が遅すぎたので、甘い汁は吸えずに、大ヤケドを負っただけのようだ。)
 第二に、そのような税制は、必ずしも株を買うことに向かうとは限らない。税制は、株を買うことに課するのではなく、株取引の利益に課する。仮に税が軽くなって、取引が盛んになったとしても、人々が行なうのは、「株買い」とは限らず、「株売り」かもしれない。これは、相場を上げるどころか、下げる効果がある。
 第三に、日本の株式市場で個人株主が少ないのは、税制以外の面が大きい。個人株主が根本的に冷遇されているのだ。つまり、配当が極端に少ない。企業は株式持ち合いばかりで、個人株主のことを無視しており、配当を非常に少なくしている。また、そもそも、企業は売り上げ拡張ばかりをめざしており、利益を高めようという行動を取らない。つまり、配当の原資も、原資から配当に回す比率も、どちらも少ない。欧米の会社とは全然異なる。こういうふうに「個人株主冷遇」という根本的な状況があるのだ。こちらを改善することが大事だろう。民間が、自分でやることもやらずに、何でも政府に頼って「減税してくれ、そうすればうまく行くはず」などというのは、無責任も甚だしい。
 第四に「欧米並みにしよう」というのなら、逆に、「まず株式を暴落させるべきだ」という結論になる。PER などを考慮すれば、今の日本の株式は、ろくに利益も上げていない会社が多いくせに、まだまだ高すぎる。資産価値で水ぶくれしている分が多すぎる。「欧米並みにしよう」というのなら、まず、欧米の株式並みに利回りが出るように、株式を今の半値ぐらいまで暴落させるべきだろう。そこまで下がれば、個人株主も「買い」に走るだろう。今の株価は、実力と比べて、まだまだ高すぎるとも言えるので、まだまだ下がる可能性がある。そういう実態を無視して、税制なんかで株式市場を操作しようなんて考えるのは、まともだとは言えない。
 第五に、そもそも税制なんかで、個人が投資活動を変更することはありえない。たとえば、預金利率を見るがいい。これはほとんどゼロだ。だから、単純に損得で考えれば、低い利率の預金なんかはやめて、株式に投資するはずだ。しかし、そうしない。なぜか? 株価が下がる可能性がかなり(半分ぐらい)あるからだ。つまり、個人株主としては、税などによる多少の損得は、あまり行動の根拠とはならないのだ。それよりは、「株価が上がる」という見通しの方が、ずっと影響が強いのだ。
 第六に、(これが肝心な点だが、) デフレの進行中には、税制の軽減は意味がない。デフレの最中は、株は下がる。「利益への課税を減らします」と言ったって、利益が出ないのだから、根本的に意味がない。議論の方向が完全にトチ狂っている。 (なお、デフレの最中には、「課税の軽減」を打ち出せば、相場師は株を買わずにどんどん売り浴びせる。つまり、株の下落を促進する。株価を上げる効果が出るどころか、株価を下げる効果が出る。要するに、「税制を軽減すれば株を買う人が増えて株価が上がる」と思う人は、よほどの株素人であろう。こういうふうに株式のイロハも知らない人が、自分で株を買うと、相場師のいいカモとなって、大損するだろう。)
 第七に、証券会社が「株取引税率を下げよ」と言っているのは、取引量を増やして手数料を稼ぎたいからである。別に、株価を上げて客を儲けさせたいわけではない。(なのに、証券会社の口先にだまされる人の、何と多いことか! とにかく証券会社としては、自分たちが手数料で儲けたいだけだ。そのために税率を下げてほしいだけだ。換言すれば、業界への補助金がほしいだけだ。)
 第八に、株価は単に経済のバロメーターにすぎない。バロメーターの表示を変えたからといって、経済の実態が変わるわけではない。たとえて言えば、病気で熱が上がれば、体温計の温度も上がる。しかし、体温計の温度を強引に下げても、病気が治るわけではない。それと同様だ。ある企業の株価を、勝手に何倍にも釣り上げても、それによってその企業の経常利益が何倍にも増えるわけではない。当たり前だ。なのに、市場全体について株価操作すれば、日本企業全体の経常利益が増えるとでも思っているのだろうか。それとも、さらに、バロメーター自体を歪めて、意味のないものに変えてしまおうとしているのだろうか。(ちょうどバブル期のように。つまりこれは一種のバブル主義だ。)

 では、どうすればいいか?
 税制なんかで個人資金を流動させよう、というのは、少しは効果があるが、あまり効果がない。そこで減税したら、その分、どこかで増税しなくてはならないので、そのマイナスの影響もある。
 だから、税制なんかをいじっても、あまり意味がない。それよりは、もっと有効な手段がある。それは、前述の、「物価上昇をめざすこと」である。
 もし「物価上昇」が実現すれば(そうなることがわかっていれば)、株価もまたその物価上昇率と同等以上に上がることが期待されるので、個人資金は、自然に、低利率の銀行預金(実質的にはマイナス金利)から、株式市場へと、流動する。というわけで、自然に株式市場が活性化されるのだ。
 結局、ここでも、中立目標政策(インフレ目標政策)の方がいい、という結論になる。

 円安への誘導

 不況脱出策として、「円安への誘導」という方策が提案されることもある。
 なるほど、本質的に言えば、これは一定の効果がある。なぜなら、円安は、日本全体の賃金水準を世界水準のなかで切り下げることに相当するので、物価上昇と同等の効果をもたらすからだ。
 だから、ある程度の円安は望ましいし、その方向に導くことも好ましい。
 しかし、それも程度問題だ。日本が若干の景気後退であるのならば、若干の円安でいくらかは中和される。しかし、今のような巨大な不況となると、もはや円相場では中和しきれない。不況の規模が大きすぎて、手に余るのである。(かといって、まさか、円相場をメチャクチャに暴落させるわけにも行かないだろう。また、そんなことをしても、景気とは別の面でのデメリットが大きくなる。)
 また、そもそも、根本的に言って、円相場は、人為的に勝手に左右できるものではない。不況解決のために円安方向に導いたとしても、別の理由で別の方面から反対介入が投入されてくるだろう。
 さらにまた、相場自体による平衡効果がある。たとえば、円安になったとしても、円安になれば企業はどんどん輸出に励むだろうから、その分、円高効果が出てくる。かくて元の円安は相殺される。
 というわけで、結局、円安の効果は、あくまでも限定的なものでしかない。現在のような巨大な不況を解決するほどの力はない。つまり、「不安定型構造」で脱出できるような「大きな力」とはなりえないわけだ。

 さらに、根本的な問題もある。それを説明しよう。
 今、円安に誘導したとする。たとえば、1ドル=120円 の状態のときに、1ドル=140円 になるように介入したとする。こうすると、金が出回り、実質的にインフレ状態となり、景気は回復方向に働く。輸出は円安効果で増えるので景気は良くなるし、輸入は円高効果で物価上昇を招くのでやはり景気は良くなる。かくて、あらゆる面で、景気は回復方向に働く。かくて、めでたしめでたしとなる……というふうになる。少なくとも、当面は。
 しかし、いったん景気が回復したら、そのあと、どうなるか。金は余剰なままなのでさらにインフレが進む。物価上昇は最初は 2.5% の上昇で好ましかったが、さらにどんどん物価上昇が進んでいく。5%、8%、と上がっていく。とんでもない事態となる。 そこで、それを防止するため、今度は逆に、円高になるように介入する。そうするのが当然だし、そうするしかない。しかし、である。先の円安介入効果は、一時的なものなので、すでに円は元の 1ドル=120円 に戻っている。ここで円高介入すれば、1ドル=100円 程度になってしまう。(先に円安介入した分だけ、円高介入するわけだ。数値をもうちょっと細かく言うと1ドル=103円 となる。)
 結局、円安介入と円高介入の双方をトータルすれば、円安のときに円を売って、円高のときに円を買うことになる。安く売って、高く買うわけだ。だから当然、莫大な損失が発生する。計算すると、 103/140= 0.73 だから、73% しか残らない。27% は消えてしまう。それほど莫大な金が、ただの市場操作のために消えてしまうのだ。途方もない無駄だと言えよう。
 たしかに為替介入は、介入した当面に限っては、その効果を享受することができる。しかし、長期的に見れば、途方もない無駄となるのだ。「公共事業は無駄だ」とよく言われるが、為替介入もまた、途方もない無駄となるのだ。
( ※ 介入で消えた金はどこへ行ったか? もちろん、日本政府とは逆に張った相場師たちの懐に入る。人為的な為替操作という愚かなことをする政府があるおかげで、何千億円も儲ける人たちが出てくるわけだ。彼らにとっては、愚かな政府は、このうえないネギしょったカモである。)
( ※ 市場関係者にも忠告しておこう。もし政府が為替操作政策を取った場合、それとは逆に張ることをお薦めする。とにかく、何千億円でも何兆円でも、有り金はたいて、政府とは逆方向に張るといいだろう。政府の為替操作を、徹底的に妨害するわけだ。そうすれば莫大な金が短期間で儲かる。愚かな政府は国民の金をドブに捨てるから、それをホイホイ拾ってボロ儲けできる。政府の莫大な金を合法的に盗めるわけだ。良心の呵責は不要だ。あなたが拾わなきゃ、他の人が拾う。悪いのは、あなたではなく、国民の金を捨てた政府だ。)
( ※ 参考までに言うと、為替介入にも、逆方向の介入もある。円の相場を安定させるための介入がそうだ。つまり、相場のぶれを減らすための介入だ。これは、逆方向の介入なので、損失を出すどころか、利益をもたらす。先日も新聞で、これまでの為替介入による利益が莫大になる、という報道があった。これが真実である。つまり相場では常に、安定方向に張った人が儲かり、不安定方向に張った人は損する。)

  【 追記 】 「ニュースと感想」の「9月29日」の箇所を参照。

 不良債権処理

 「景気回復のため、不良債権処理を急げ」という声がある。しかし、これは二重の意味で間違っている。
 第一に、不良債権処理は、景気回復の効果をもたない。それどころか、隠れていた倒産を顕在化させることで、連鎖倒産とか、失業増とか、景気悪化効果をもたらす。これは「不安定構造」をより増大させる効果をもつ。不況はさらに悪化するばかりだ。「景気回復のため、不良債権処理を」というのは、方向が正反対の、倒錯した論理である。はっきり言って、狂気の沙汰である。( → 第2章 「不良債権処理」)
 第二に、「不良債権処理を急ぐべきだ」「急がないと、不良債権が増える」というのも、根本的に間違っている。第一のところで述べたように、不良債権処理をすればするほど不況は悪化するが、そのため、不良債権の額はどんどん増えていくばかりだ。「不良債権処理を早めに実行すれば、傷は浅く済む」というのは完全な思い違いである。「不良債権処理を急げば急ぐほど、傷は深くなる」のだと理解するべきだ。 ( → 第2章 「不良債権処理」の「補記」。)

 では、結局、どうするべきか?
 結論は、やはり、同じである。「何よりも先に景気回復を」である。景気回復が実現したあとで、「できるだけ早めに不良債権処理を」となる。
 ここでは、前提(景気回復の実現)が付く。この前提が大事だ。この前提なしに、やみくもに不良債権処理を進めれば、傷は深まるばかりだ。つまり、「景気回復」と「不良債権処理」の順序を間違えてはならない。(間違えると莫大な損失が発生する。)

  【 追記 】 「不良債権処理」については、「ニュースと感想」でもあちこちで言及している。

 公共事業

 公共事業は、「地方による予算のぶんどりあい」という側面がある。しかし、それについては、政治的な問題なので、ここでは述べない。
 一方、経済的に見れば、どうなるか? 最近はよく批判されるが、かつてはそれなりの効果があったものだ。(ニューディール政策など。)
 つまり、一概に「良い」とか「悪い」とかは言えない。判断基準がある。それは、投資効率だ。つまり、投じた金以上の社会的還元があるかどうかだ。
 社会基盤が劣悪な状態では、投資効率が1を上回る投資が可能である。たとえば、発電設備とか、港湾整備とか、基幹道路整備とか、そうした社会基盤を整えることで、投じた金以上の経済発展を国にもたらすことができる。
 ただし、何十年も公共事業を実行していれば、そうした社会基盤は十分に整ってくる。もはや投じた金以上の社会的還元をもたらすような公共事業はできにくくなっている。
 たとえば、橋を架けること。江戸川とか隅田川に橋を架けるのならば、少ない費用で橋を造れる。しかも、そこを通る交通量は多大であり、「橋を渡らずに船で行く」というような経路を取るのに比べて、莫大な社会的利益を得る。つまり、小さな投資で、莫大な利益を得る。投資効率は1を大きく上回る。一方、東京湾横断の橋では、莫大な費用がかかるわりに、利用する交通量は少ない。投資効率は1程度か、1を下回る(つまり赤字が出る)と推定されている。

 結局、今現在となっては、投資効率が1を上回るような公共事業はほとんどない。投資効率が1を下回るようなものばかりだ。つまり、やればやるほど、無駄が出て、血税の浪費となる。ゆえに、結論としては、公共事業は原則的に行うべきではない。

 広義の公共事業

 広義の公共事業というものも考えられる。最近の経済諮問会議が提案した、IT関連投資などだ。
 従来型の公共投資は、すでに述べたとおり、投資効率が1を割るので、好ましくない。(そんなことをするくらいなら、何もしないで現金のままもっていた方が、無駄が出ないで好ましい。)
 一方、IT産業の整備などで、投資効率が1を上回るような事業もあるかもしれない。そういったものに資金を投じる、というのは、悪くはない。その意味で、反対はしない。
 ただし、いかんせん、この種の「広義の公共投資」というのは、投資対象がごく限られている。いくら探しても、金を出すべき先は、あまりないのだ。(そもそも、投資効率が大きくなるような儲かる分野なら、民間がとっくに事業化している。残された分野は、ごく小さい。)
 というわけで、やることはやってもいいが、規模が小さいので、効果は限られている。先に述べた「不安定構造から脱出するための大きな力」となるには、あまりに力不足なのだ。(そもそも、どのくらい大きな力が必要かは、少しあとで述べる。)

 政府か国民か

 ここまで、さまざまな「不況脱出策」を述べてきた。しかし、いずれも不適という結論になった。つまり、効果がないか、効果が少なすぎるかで、不況脱出をもたらすことはできないのである。さらには、公共事業のように「政府による無駄遣い」というマイナス効果をもつものさえあった。
 ここで、根本的に考えてみよう。公共事業は、無駄だ。では、無駄のない方法はあるか? ある。それは、政府が金を使うのではなく、国民が金を使う、という支出法だ。
 ここで、疑問が出るだろう。次のように。
 「なぜそうなのか? なぜ、政府が金を使うのは無駄で、国民が金を使うのは無駄でないのか? 政府が橋を造って支出するのも、国民が食品を買うために支出するのも、同じことではないのか? むしろ、政府が橋を造るのなら少しは効果があるが、国民が食品を買うのはただの無駄ではないのか?」
 しかし、そうではないのだ。国民が金を使うのは、無駄が1円もない。なぜなら、いくら国民が金を使っても、その分、あとで取り戻すことができるからだ。つまり、ただの「貸与」にすぎないからだ。
 ここでいう「国民が金を使う」というのは、原則として、あとで国が回収することを前提とする。つまり、あとで増税などによって回収する。(そうしない、という行き方もあるが、仮に、回収しなければ、大量の資金が流出しっぱなしになるので、インフレになる。それを避けるためには、増税によって、流出した金を回収することが必要となる。)
 結局、金を国民に与えても、その分は回収できるのだから、少しも無駄ではない。
 一方、公共事業はどうか。投資効率が1以上ならば、投じた金以上の利益を社会全体で得ることができる。しかし、投資効率が1以下ならば、1を下回る分、無駄が発生することになる。要するに、巨大な無駄が生じる。その巨大な無駄は、決して回収されることがない。
 だから、国民一人一人が自分の金を、酒代にしようと、どんちゃん騒ぎに費やそうと、女遊びで使い果たそうと、ギャンブルですってんてんになろうと、それは、国にとっては、少しも無駄ではないのだ。とにかく彼に与えた分は、あとで増税で回収できるからだ。無駄が発生するとしたら、そんな無駄遣いをした個人の範囲内のことに留まる。彼としては、自分が無駄遣いをしたことで、まともな支出ができなくなり、のちのち後悔するだろうが、その損失が他人に波及することはない。個人の無駄遣いは、あくまでその個人のうちに留まる。
 一方、公共事業は別だ。国が無駄遣いをすれば、その無駄は国民全体に波及する。
 つまり、無駄遣いといっても、このように本質的に異なるのだ。「個人が使えば無駄遣いになるが、国が公共事業に使えば無駄遣いにはならない」というような考え方は、完全に誤っている。こういうふうに完全に誤った考え方によって、政府はこれまで、莫大な金を無駄に費やしてきた。
 今や、誤った考え方からは、脱するべきだろう。

 中和政策

 上に述べた政策を、「中和政策」と称することにしよう。「中和政策」は、二つの柱からなる。

 これを「中和政策」と称するわけだが、なぜこの名称を使うかというと、景気を中和することを目的とするからだ。次のように。

 こうして、景気の上下動の振幅を減らすことを目的としているからだ。(初めの方で述べた「景気の上下動」の図を参照。)
 中和政策は、一種の会計的な処理である。公共事業のような実質的な活動を意味しない。あくまで数字の操作である。(現金も実際に流れるが。) この意味で、中和政策は、一般の財政支出とは異なり、むしろ、金融政策に近い。

 大きな力

 先に、「不安定構造においてから脱するには、大きな力が必要となる」と述べた。では、この大きな力とは、どんなものであり、どのくらいのものであるのか? それを考えよう。

 まず、「どんな力か」と言えば、それはもちろん、経済的な力だ。つまり、金の動きをともなうものだ。具体的には、金融とか財政支出とか、とにかく、一国の経済状態を操作する力だ。景気の上下を変化させる力、と言い換えてもよい。

 次に、大きさだが、それは、次のようにして推定できる。
 現在の不況では、需要が縮小している。どのくらい縮小しているかは、消費性向を見ればわかる。現在、消費性向が70%ぐらいであり、これは、平常状態に比べて、20%ぐらい縮小していることになる。(アメリカでは消費性向が100%程度であるから、それと比べれば、消費性向は30%ぐらい縮小していることになる。ただ、このあたり、国による違いもあるから、若干、議論の余地もある。)
 そこで、ともあれ、20% という数値を取ると、この分を補うための所得増があればいいことになる。
 これを1世帯あたりで計算してみよう。ごくおおざっぱな計算で、1世帯あたりの所得を400万円と仮定すると、消費性向20%ぐらい縮小しているということは、
   400万円 × 20% = 80万円
 で、1世帯あたり 80万円の需要縮小となる。
 そこで、日本全国の世帯数を、ざっと 3000万世帯と仮定すると、総額で
   80万円 × 3000万 = 24兆円
 で、24兆円になる。
 これは、おおざっぱな値であるが、とにかく、「20〜30兆円」程度の金額が必要である。これが、「大きな力」の実態である。つまり、これだけの資金を投入する必要がある。(ただちに全額を使う必要はないとしても、当面、このくらいの金を投入する準備をする必要はある。結果的には、半分ぐらいが「見せ金」で済む可能性も、なきにしもあらずだが。)

  【 追記 】
 この数値(減税の規模)については、後日、修正された。 ( → 2003年2月20日c

 「大きな力」には、これだけの金額が必要である。では、これだけの巨額の金を、どう使えばいいか?
 これは、あまりにも巨額だ。だから、「これこれに使えばいい」というような提案は意味をもたない。たとえば、「公共事業で金を使う」という意見は成立しない。なぜなら、それほど巨額の金を、公共事業の業界は受け入れられないからだ。
 この巨額の金は、新たに追加される金である。上乗せ分である。既存の公共事業に上乗せして、さらに巨額の公共事業を追加することなど、できるはずがない。業界にはそれほどの受け入れ能力はないのだ。
 では、どの業界なら、受け入れ能力があるか? もちろん、どの業界にも、そんな受け入れ能力はない。受け入れ能力があるのは、個別の業界ではなくて、日本経済全体である。
 だから、この巨額な金は、受け入れ能力のある「日本経済全体」で受け入れるしかない。しかも、それは、正当なあり方なのである。なぜなら、もとも日本経済全体が縮小していたのだから、その縮小した分を元に戻すという形で、日本経済全体が膨張するのは、正当なあり方なのだ。
 そして、縮小したのは、個人消費であり、政府消費ではない。だから、膨張させる(元に戻す)べきは、個人消費であって、政府消費ではないのだ。
 だからこそ、話の根本から言って、金を使うのは個人であるべきなのだ。

 世間では、それとは逆の意見があふれている。次のように。
 「国の需要が縮小したら、政府が金を使って国の需要を増やせばよい」
 「金を使うなら、国民なんかに任せず、政府が使った方がいい」
 しかし、こういうのは、政府の思い上がりである。のみならず、見当違いで間違った考え方である。(そもそも、そんなやり方では、経済的な効果がろくに出ない。産業界に、受け入れ能力もない。)

 金は、政府が使うのではなく、国民が使うこと。それが最も無駄のない方法であり、それがベストなのだ。これが結論となる。
 そこで、以下では、この結論に沿って話を進める。

 所得税減税

 金は、政府が使うのではなく、国民が使うこと。── こう結論した。
 この結論に沿った策としては、すでによく知られているものとして、「所得税減税」がある。(「公共事業よりも、所得減税を」という意見は、しばしば世間で言われる。)
 この方法は、悪くはない。だから、やってもいいと思う。少なくとも、公共事業なんかに比べれば、はるかにマシだ。特に難点はない。
 ただし、難点はないのだが、美点も少ない。なぜかと言えば、使った金に比べて、経済的な効果が小さいからだ。

 所得税減税とは何か? 累進的な税制のもとでの減税であり、逆に言えば、累進的なプレゼントである。政府の持ち金を、金持ちにはたくさんプレゼントして、貧乏人には少しプレゼントして、困窮者にはびた一文もやらない。
 こういうのは、倫理的にも問題があるかもしれないが、それはそれとして、経済的な効果が小さいのだ。使った分の金の効果が出ないのだ。
 まず、低所得者には、効果は出る。与えた金額のほとんどを使い切るだろう。しかし、高所得者には、効果があまりない。もともと金をもてあましているので、今さらいくらか所得が増えても、貯金に回る分が多くなる。にもかかわらず、金を必要とする低所得者には金を少ししか与えず、金を必要としない高所得者には金をふんだんに与える。これでは、全体的に見て、効果が少なくなる。

 だから、所得税減税というのは、悪い方法ではないが、あまり良い方法でもない。効果が少ないからだ。
 ただ、事務的な処理は少なくて済むから、部分的に実施するだけなら、そう悪くもない。実際、「大きな力」に相当する巨額の金を、所得税減税だけで国民に環流することはできないが、巨額の金のうちの一部分だけを、所得税減税という形で環流することは可能である。

( ※ ただし、可能ではあるが、あまり良い方法ではないので、お勧めしない。そもそも、今の日本は、十分に所得税減税を実施しており、課税最低限がかなり高くなっている。所得税減税を実施する余地は少ない。「金持ちだけの減税」となりかねない。)

 消費税減税

 「消費税減税」という方法もある。これもまた、「所得税減税」と並んで、しばしば提案される方法である。
 所得税は、所得に対して累進的な税率となる。消費税は、消費に対して比例的であり、所得に対しては比例よりはいくらか平坦である。(このことを評して「消費税は高所得者優遇」と批判する人もいる。)
 そういうわけであるから、減税もその課税と同じ割合で行き渡る。消費税の減税は、消費に対して比例的である。
 この意味で、消費税減税は、所得税減税よりも、かなりマシと言えよう。

 ただし、一方で、根本的な難点があるのだ。
 そもそも、中和政策では、いったん減税したあとで、また増税する。しかし、消費税というものは、そうちょいちょい、上げたり下げたりするものではないからだ。そんなことをすれば、社会的に混乱を引き起こすのだ。産業界にとっては大迷惑であり、大反対ののろしが上がるだろう。
 だから、消費税の上げ下げは、無理であり、実現の見込みはほとんどない。 (「消費税減税」というのは、実際の経営というものを知らない、素人の考えと言ってよい。)

 なお、それはそれとして、消費税には、経済的な面からも、あまりお勧めできない。しょせんは支出比例の減税なので、やはり高所得者優遇になるからだ。
 高所得者優遇だと経済的な効果が少ない、ということは、先にも説明した(高所得者ほど消費性向が低いということ)。ただ、それとは別に、次のような理由もある。
 「消費行動は、少数の高所得者だけが金を使うよりも、多数の大衆が金を使う方が、経済的な効果がある。」
 たとえば、1000万円のベンツが1台売れるよりも、100万円の大衆車が10台売れる方が、経済的には効果は大きいのだ。工場の従業員とか、販売のセールスマンとか、そういうふうに関与する人間も、後者の方が10倍ぐらい多くなる。
 極端に言えば、国の富を国王一人だけが独占するような国では、自動車もパソコンも、超高級機が一台売れるだけだ。こういうふうに富の偏りのある国では、まともな経済は生じない。一国の産業が成長するためには、消費活動のできる多数の中産階級が必要なのだ。(高所得者優遇は、それに反するので、その分、経済的な効果が少なくなる。)
( ※ ついでに言えば、戦後の日本が急成長できたのは、富の偏りが少なかったことに大きな理由がある。一億総中流。こういう状況があったからこそ、テレビや自動車がどんどん売れたし、これらの産業もまた育った。富の偏りがあれば、大衆は買いたくても買えないので、これらの産業もまた育たなかっただろう。)

 バラマキ

 累進でもなく、比例でもないとすると、残るは、均等である。つまり、所得には何ら関係なく、国民一人一人に均等に金を渡す。(多少のバリエーションは付けてもいいが、原則的には均等分与。)
 クルーグマン流に言えば、
「ヘリコプターで1万円札をばらまくこと」
 である。(これはもちろん比喩である。「所得比例(高所得者優遇)でもなく、所得制限(低所得者優遇)でもなく、均等分与である」というのが肝心な点。)

 均等分与という方法。実は、これが、中立目標政策(インフレ目標政策)および中和政策としては、唯一のものである。理由は、次の通り。

 というわけで、結局、この方法だけが残るわけだ。

 貸与との違い

 中和政策は、基本的には、国民への貸与である。今は金を贈与するが、将来的には増税によって回収する。
 ただし、これは、真の「貸与」とは異なる。国全体のレベルで見れば、「貸与」と同じ意味になるが、個人のレベルで見れば、あくまで「贈与」と「増税」である。「国民」に対しては貸すことになっても、「個人」に対しては貸すことにはならない。
 その差はどこに出るか? 国全体としてみれば、平均的には、「贈与」分と「増税」分の金額はほぼ同等となる。しかし、個人個人を見れば、同等とはならない。ある人は受け取った分以上に返す必要があるし、ある人は受け取った分以下を返すだけで済む。たとえば、(老人や病人などで)途中で死んでしまった人は、受け取るだけ受け取って、返さないことになる。一方、高所得者は、均等分しか受け取っていないのに、所得に比例する多額の金を返すこととなる。
 簡単に言えば、「返せる人だけが返す」「支払い能力に応じて返す」ということだ。
 これはこれで、別に問題はない。一種の所得再配分にすぎない。
 なお、こういう所得再配分がイヤなら、それの性質を減じるようにすることも可能だ。たとえば、均等渡しの際に、所得税減税を組み合わせるとか。また、後年の増税の際に、低所得者の税率を引き上げて高所得者の税率を引き下げるとか。……そういうふうにすることもできる。
 なお、この方法は、一種の「出世払い」でもある。今は金がないので払えないが、あとで金ができたら払う、というわけだ。普通は同額を返済するが、出世しなければ免除してもらい、大出世すれば大金を払う。国が国民各人に投資するようなものだ、とも言える。これはこれで、特に問題はない。

 マイナスの利率

 中和政策とは、国と個人との間の、金の貸し借りである。国民の側から見れば、「いま借りて、あとで返す」ことである。
 しかし、これだけだと、疑問が生じるだろう。
 「勝手に金を貸し付けるなんて、余計なおせっかいだ。国がそんな余計なことをする必要はない。私は金なんか借りたくない。自分の所持金の範囲内で使えば十分だ。余計な金を無理に貸しつけられて、余計な消費を促されるなんて、まっぴらごめんだ」
 というふうに。
 それはもっともな考え方であろう。特に、利子が高額であれば、
 「国が高利貸しになるつもりか」
 と国民の怒りが爆発するだろう。
 しかし、無利子であればどうか? それなら、
 「借りても損はないから、一応借りておくか。そっくりそのまま返すかもしれないけど」
 と思うだろう。別に、反発はあるまい。
 さらに、利子がマイナスであればどうか? たとえば、十万円借りて、五万円返せばいい。
 「そんなうまい話があるか、だまされないぞ」
 と疑うだろうが、国が保証するのであれば、
 「それなら借りちゃおう」
 と全員が思うだろう。

 ここが中和政策の核心である。中和政策とは、単なる金の「貸し借り」ではない。マイナスの利率を付けるのだ。ここに重要な意味があるのだ。
 クルーグマン流の「物価上昇」をめざす政策では、企業会計に対して「マイナスの利率」をもたらす。(そうして「流動性の罠」を解消する。)一方、ここで示す「中和政策」は、個人会計に対して「マイナスの利率」をもたらすのだ。
 ただ、両者では、似ている点もあるが、異なる点もある。企業会計に対しての「マイナスの利率」は、金利を過度に引き下げることで、個人会計(家庭会計)から企業会計への「所得の移動」をもたらす。企業にとっては得だが、その分、個人にとっては損である。(つまりゼロサムである。)一方、個人会計に対しての「マイナスの利率」は、個人に対しては得であるが、企業にとっても損ではなくて得である。(つまりゼロサムではない。)
 「マイナスの利率」というのは、「無から有を生むこと」「何もないところから金を生み出すこと」と見える。これは一種の「経済的なマジック」である。ただし、手品にはタネがあるように、「経済学的なマジック」にもタネはある。そのタネを、以下で説明しよう。(タネ明かしをするわけだ。)

 ※ このタネは、簡単である。自分でも考えてみてほしい。

 経済学的なマジック

 「金を借りても、返さなくていい」
 というのは、どこかから金が湧いてくることを意味する。しかし、実際には、そんなことはありえない。打ち出の小槌を振るわけには行かない。また、金を生もうと思って、どんどん紙幣を印刷しても、その分、インフレが進行して、紙幣の価値が下がるわけだから、そんなやり方では、金は湧き出てくることにはならない。
 しかし、経済学の知識をうまく利用すると、こういうふうに「金が湧いて出てくる」と思える事態を呼び起こすことができる。

 このような不思議な事態は、経済学ではときどき例が示される。たとえば、
 「みんながそろって貯金をすると、国全体の貯金総額は下がってしまう」
 という例だ。これは、
 「貯金をすればするほど、貯金の額が減ってしまう」
 というふうに解釈することもできる。まったく、奇妙な事態だ。しかしながら、経済学的には、不思議ではない。有名な例である。簡単に説明をすれば、次のようになる。
 「みんなが貯金をすれば、その分、消費は減る。だから生産も減る。だから給与も減る。だから貯蓄に回す金がなくなる」
 というわけだ。もっと極端に示せば、
 「みんなが給料を全部貯蓄に回せば、商品は一つも売れなくなって、全員失業する。誰もが無収入になるから、貯蓄はゼロになる」
 というわけだ。(自給自足の経済だと、こういう無収入状態になる。)
 だから、
 「貯金をすればするほど、貯金の額が減ってしまう」
 というのは、別に、不思議でも何でもない。当たり前のことだ。ある個人ただ一人がそういう行動を取るなら、その人だけは、貯金をして貯金額を増やすことができる。しかし、一国全体でそういう行動を取ると、貯金の額は減ってしまうのだ。つまり、
 「個人の行動と、国民全体の行動とでとは、同じ行動でも、結果が異なる」
 わけだ。これは論理的にまったく正しい。間違っているのは、
 「個人の行動と、国民全体の行動とでとは、同じ行動なら、同じ結果をもたらす」
 という素朴な考えの方だ。この素朴な考え方には、何の根拠もない。ただの思い込みである。
 つまり、経済学的に細かく分析すれば、素朴な考え方では奇妙だと思えることも、ちゃんと説明できる。

 「マイナスの利率」もそうだ。少なくとも企業会計では、それが可能だし、かつ、それが必要だ、とすでに示した。(つまり、不況のときは、物価上昇のもとで、物価上昇率以下に金利を設定すればよい、ということ。)
 個人会計の場合も、「マイナスの利率」は可能である。それは、次の二つの理由による。

 (1) 景気回復効果
 国民が金を借りて、それで景気が回復したとする。すると、個人の所得が増えるので、所得税の納入が増える。また、企業の所得も増えるので、法人所得税の納入も増える。さらに、消費税やら何やら、さまざまな税の納入が増える。かくて、国の歳入は増える。一方、失業保険などの支払いは減るので、国の歳出は減る。かくて、国は大幅な利益を得る。だから、この利益の分は、返してもらわなくてもよい。換言すれば、こうだ。国は国民に金を貸すが、返すときは、直接返してもらう必要はなくて、見えない形(自然増収)で返してもらえればよい。100万円貸しても、直接返してもらうのは80万円だけでよく、残りの20万円は、見えない形で返してもらえばよい。この「自然増収」は、直接的には意識されない(見えない)。だから、国民としては、「100万円借りて、80万円だけ返す」というふうに感じられる。(これがタネ明かし。つまり、「机の上では80万円返すだけだが、机の下では目に見えない形でさらに20万円返す」というようなものだ。)

 (2) 所得再配分効果
 さらに、所得再配分効果もある。
 国民が借りる金は、均等分与だ。しかし、あとで返す金は、均等ではない。金持ちほど多く返す。(所得税にせよ、消費税にせよ、そういう仕組みになっているので。)
 これを、平均的な国民の目で見れば、こうなる。
 「大多数の人々は、平均額以下を返せばよい。少数の金持ちは、平均額以上をたっぷり返す」
 つまり、普通の人にとっては、自分が返すべき金を、金持ちが一部肩代わりしてくれるわけだ。(所得再配分効果。)
 具体的に数字で例示すれば、
 「100万円借りて、80万円返せばいいと思って喜んでいたら、さらに、20万円を金持ちが肩代わりしてくれる。だから自分自身は、60万円返すだけでいい。ウヒヒヒ。ウハウハ」
 というわけだ。
 もっとも、こういうふうに「所得再配分」をすると、金持ちは反発するかもしれない。しかし、金持ちが賢明であれば、反発どころか、ニンマリするだろう。なぜか? 景気回復効果は、一般に、金持ちほどその効果を享受できるからだ。たとえば、(失業者は別として)平均的な人は、今のような不況でさえ、たいして減収になっているわけではない。(残業手当は別として)月給も、ボーナスも、ほとんど上がりも下がりもしていない。つまり、景気変動による収入の変動は、たいしたことがない。将来、景気が回復しても、増収はたいしたことがないだろう。一方、金持ちは、逆だ。景気変動による収入の変動は、きわめて大きい。多くの中小企業の自営者などは、バブルのころは「わが世の春」を謳歌して、札ビラを切っていたが、今は「所得が半減、または、ゼロ寸前」なんていうふうに、ひどい減収を味わっている。しかし、これらの人たちは、ひとたび、景気回復すれば、ふたたび、「わが世の春」を謳歌できる。たちまち手元には「何百万、何千万」という金が入ってくる。ちょっとばかり税金を払っても、ありあまるお釣りが来る。「100万円借りて、60万円返すだけだから、嬉しい」なんて言っている大衆を、「財布の小さなやつらだ」と笑いながら、何百万、何千万円にもなる景気回復効果を、たっぷり味わうだろう。もうかった40万円の札束をチマチマと数えている大衆を横目にして、大量の札束を湯水のごとく浴びているだろう。
 結局、大衆も、金持ちも、「おれこそ得した、うひひひ」という気分になれるのである。

 タネは、以上のように説明できる。
 では、その本質は何か? 結局、いったいどこから、金は湧き出てきたのか? 
 実は、金は湧き出てきたわけではない。金は自然に生まれたのだ。次の理由によって。

 結局、経済界全体で、マイナスを減らし、プラスを増やしたのだ。ゼロサムでなく、サム(総計)そのものを大きくしたのだ。だからこそ金は新たに生まれた。
 さらに、それに加えて、「所得再配分」による効果もある。つまり、「景気回復効果」が、高所得者に集中するところを、一般の大衆にも分配する。
 だから、一見したところ、手品のように見えるとしても、ちゃんと経済的な理屈があるわけだ。なのにそれが、手品のように不思議に見えるとしたら、単に、「事実が込み入っているので、素人には理解しがたい」というだけのことだ。どんな手品であれ、プロの目で見れば、不思議でも何でもないのだ。

 計画性

 中和政策は、その場限りの場当たり的な対処ではなく、長期的な計画性をもたなくてはならない。(特に、単年度予算のような考え方をしてはならない。)
 特に、次の二点が大切だ。

 (1) 貸与性の明示
 今は大金を渡すが、将来は増税によって回収することを、ちゃんと明示しておく。これが大事だ。あとでいきなり増税するわけには行かないからだ。
 これはまた、インフレの予防でもある。国民に大金を渡したまま、放置すれば、景気が回復した時点で、(不安定構造により)今度はインフレに向かう道を必ずたどる。だから、将来、インフレを予防するために、増税が必ず必要となる。そのとき、
「先に大金を渡したでしょう。だから今は返してもらうときなのです」
 と理解してもらう必要がある。そのためにも、最初に、「これは貸与です。いつか増税によって返してもらうときが来ます」と、明示しておく。

 (2) 効果の確実性
 国民に大金を渡しても、国民はそれによる景気回復があると信じないかもしれない。もし信じなければ、どうなるか。「景気回復はない」と思い込んだせいで、消費活動はしないので、すべて貯蓄に回る。かくて、需要は縮小したままだ。つまり、そう思い込んだせいで、実際にそうなってしまうのだ。想像がかえってその現実を呼び寄せてしまうのだ。
 経済活動には、このような心理的な効果というものを無視できない。だから、何らかの手立てが必要となる。では、どうするか?
 ここで参考となるのは、昔の銀行預金の取り付け騒ぎのときの、田中角栄蔵相の行動だ。銀行に倒産の噂が出て、預金者が心理的に不安になり、預金をいっせいに下ろそうとした。もしそうすれば、銀行は倒産してしまう。噂による不安がかえってその現実を呼び寄せてしまうのだ。そこで、田中角栄蔵相は、どうしたか? 「政府保証します。だから安心してください」と公言したのだ。かくて、取り付け騒ぎは収まった。しかし、実は、蔵相のこの方針には、省内で反対論があった。なぜなら、実現が不可能だったからだ。「政府保証します」などと言っても、そんな金も処理能力もないので、預金者が殺到したら、払い戻しなどは不可能だった。しかし蔵相は決断した。それが日本を救ったのだ。人々が求めていたのは、現物の金ではなくて、安心感だったのだ。それを蔵相は見抜いたわけだ。(大蔵省の官僚にはとてもできないことだろう。)
 現在の不況脱出に際しても、話は同様だ。金を渡すとき、単に金だけを渡しても駄目だ。「景気回復する」という安心感を与える必要がある。それによって、各人の受け取った金が現実の消費行動に結びつく。
 では、安心感を与えるには、どうすればいいか? 
 「必ず景気回復の効果が出ること」
 を保証すればよい。それにはどうすればいいかと言えば、
 「景気回復の効果が出るまで、底なしで、どんどん資金をつぎ込みます」
 と保証すればよい。(スケジュール表を示す。)
 たとえば、まず、20万円渡す。それでも効果が出なければ、3カ月後にまた20万円かもっと多くを渡す。それでもまだ効果が出なければ、その3カ月後にまた20万円かもっと多くを渡す。……こうして、限りなく金を渡すことを保証する。つまり、どうしても景気が回復しないとしたら、国民は無限大の金を手にすることになる。
 ここまで保証すれば、誰だって、景気回復の効果は信じる。どちらかと言えばインフレの心配をしだすだろう。もしそうなれば、消費行動を急激に増やす方向に働くので、一挙に景気は回復する。となると、実際には、金は、初回の分だけで済むことになる。つまり、無限大の金を渡す、というスケジュールを示すことで、実際には、最小限の金を渡すだけで済むことになるわけだ。
 これは、先の田中蔵相の行動に似ている。実際に金を出す必要はないのだ。「いざとなれば金を出します」ということを確実に保証することで、人々に安心感を与えるのだ。そのことで、実際に動かす金を最小限で済ますことができるようになるのだ。
(「無限大の金を出す」と公言することで、実際には最小限の金を出すだけで済む── というわけだ。これもまた一種のマジックかもしれない。)
(なお、1回目に金を出したことで、景気回復効果がいくらか確認されれば、2回目の分は金額を減らしてよい。このとき、「景気回復効果が現れたので」と説明すれば、アナウンス効果が出て、景気回復効果はいっそう増進する。つまり、出す金を減らすことで、かえって景気回復効果が増進する。これもまた一種のマジックかもしれない。)
(この意味で、初回の金額は、多めにした方がよい。逆に、小刻みに少しずつ出すと、「またか。前回も駄目だったし、どうせ今回も効果がないんだろ」と思われてしまって、スケジュールそのものを信用されなくなる。ケチな考えをすると、かえって出費が多くなる。ポーカーのようなものだ。最初にドカンと大金を見せれば、相手はすぐに信用する。── この「最初にドカン」ができるかどうかで、総理としての格がわかる。できれば、歴史に残る大宰相となるだろう。できなければ、「びくついて小出しにしたせいで国家に大損失を与えた、小心宰相」という評価となるだろう。考えれば、ここ数代の宰相は、みな小心者ばかりだった。少しずつしか金を出さなかったことで、トータルで莫大なコストがかかった。それでいて効果はゼロである。)

 インフレ暴走の危険

 インフレ目標政策(中立目標政策)に対しては、次のような批判がよくなされる。
 「インフレ目標などをやって、物価上昇などをもたらしたあげく、インフレが暴走したらどうするのだ」
 と。
 なるほど、これはもっともな意見である。実は、この考え方は間違っていない。たしかに、インフレが(暴走はともかく)非常に進む可能性はある。それどころか、必ずインフレは進むだろう。当たり前だ。不況脱出のために巨額の資金を投じた以上、いったん不況が解決したら、その勢いで、さらにどんどんインフレが進むのは当然である。
 では、それは困るか? いや、困らない。インフレが進むことは、もともと予定のうちに入っているのである。
 ここで、「中和政策」の考え方に立ち戻ってみよう。この考え方は、「中和」をめざす。ぶれがあれば、ぶれを中和して、状態を中央に戻す。不況のときは、不況を中和して平常状態に戻す。それと同様に、インフレのときは、インフレを中和して平常状態に戻す。では、どうやって? 「貸した金を返してもらう」という形でだ。つまり、「バラマキのあとで増税」という形だ。
 「インフレが進むのが心配だ」
 というような余計な心配は、する必要がないのだ。インフレが進むことは、もともと中和政策の計画表に組み込まれていて、対処法も示されているからだ。
 むしろ、話は逆である。インフレは、ぜひとも必要なのだ。将来いつか、インフレは来てもらわないと困る。さもないと、「増税による借金返却」ということが、できなくなるからだ。インフレになれば、増税することができる。そうして、景気を冷やすことができるし、経済を安定させることができる。しかしインフレが来なければ、増税は景気を過度に冷やしてしまって、不況をもたらす。だから、インフレが来なければ、借金返却のメドが立たないのだ。
 インフレは、恐れるべきものではない。猛犬のようなものだ。一見、怖そうに見えるが、うまく手なずければ、かえって役立つようになる。びくびくして、怖がっているだけでは、どうにもならないのだ。
 だから、暴走さえしなければ、インフレはかえって好都合なのだ。
 また、暴走の恐れは、ほとんどない。まともな経済運営がなされていれば、増税と金利上げで、インフレ暴走は、簡単に止まるからだ。暴走するようなインフレは、原則的に、発生しないものなのだ。
 過去の歴史を見ても、メチャクチャなインフレが発生するのは、あくまで、例外的な場合である。例外的とは、どんな場合か? それは、その国の経済そのものが根本的に破壊された場合だ。一国経済が破壊されたときは、他の何をどうしようと、暴走するインフレはある程度は不可避である。将来いつか、石油ショック・食料不足・地球温暖化・洪水・地震・湾岸戦争、……などがまとめてやってくれば、必ず、ひどいインフレは再来する。「不況を続けていれば、ひどいインフレは来ない」などというのは、妄想にすぎない。
 一方、平常の状態では、メチャクチャはインフレが発生することは、まともな経済運営がなされている限り、まずありえない。特に、物価上昇に応じた自動安定システム[自動的な増税と自動的な金利上げ]が制度化されている状態では、インフレが暴走することは、原理的にありえない。 [ → 可変税率

 政策的な問題

 以上で、述べるべきことは述べた。核心的なことについては、述べ尽くした。
 あとは、政策の実現となるが、その際、少々問題となるような点がいくつかあるので、それについて言及しておく。(経済学的な問題と言うよりは、政策的な問題である。経済学者にとっては、どうでもいい話だ。政治家にとっては、大事だが。)

 (1) 予算のIT化
 計画性は、必然的に、予算や国家財政の複数年化に結びつく。つまり、予算の単年度主義は捨てる。
 ここでは、景気における変動に対応するために、国家財政の処置について、あらかじめ法制化しておいてもいい。つまり、「これこれの景気回復が起こったら、これこれの割合で増税して、金利を上げる」というふうに。つまり、その場その場で場当たり的に処置をするのではなく、あらかじめ処置を決めておいて、あとは自動的に実行するようにする。
 数学的に言えば、方程式だけを決めておく。現実の経済状況を変数として、それに対する対処は、方程式から導き出せるようにしておく。(現在のやり方は、いちいち場当たり的にやっているので、最適の値に決めることができずに、しばしば政治的な思惑で左右されてしまう。)
 ここでは、方程式に「景気の安定化」(「好況時には金利上げ」など)という機能を組み込むことができる。これは国家経済運営に「自動安定装置」を組み込むということでもある。
 こういうのは、いわば、「予算のIT化」とも言える。人間がその場その場で直感で数値を決めるのではなくて、あらかじめ決めておいた式に従って、コンピュータが自動的に最適の対処を示すわけだ。(といっても、単純な計算だから、電卓やソロバンでも間に合うが。)
 とにかく、このようにすると、状況はかなり好ましくなる。下らない「IT化」などを唱えるよりは、「予算のIT化」をすれば、「電子政府」が名実ともに実現したことになり、なかなか未来感覚が出てくるのだが。(とはいっても、SFなどではなく、ごく当たり前のことだ。実現しようと思えば、ただちに実現が可能である。) [ → 可変税率

 (2) 予算と財政再建
 巨額の金を国民にばらまくとなると、政府の目標とする「財政再建」と矛盾するかもしれない。となると、政府は踏み切りにくくなるだろう。いったん掲げた「財政再建」の旗を下げるわけにも行くまい。
 そこで、この巨額のバラマキは、一般予算とは別枠にするとよい。予算は予算として定めたあとで、それとは別に、巨額のバラマキを特別立法で定める。
 これはこれで、かえってすっきりする。なぜなら、このバラマキは、普通の支出ではないからだ。国と家庭との間での金のやりとりにすぎない。今は出す。後でまた返してもらう。それだけのことだ。公共事業のように「出しっぱなしで戻ってこない金」を使うわけではない。普通の支出とは違うのだ。
 「財政再建」などにあえてこだわることもあるまい。一国の首相のめざすべきことは、おのれの信念や思い込みなどではなくて、現実の国民の幸福であるはずだ。現実の国民が不況で苦しんでいるときに、おのれの素人的な信念ばかりを唱えているべきではあるまい。
( ※ ただ、財政再建でなくバラマキを実行することには、国民から大反対が出る可能性がある。首相には気概が必要となる。この点については、章末の「余談」を参照。)

 (3) 財政法
 巨額の金をばらまくとなると、その金を当面、手立てしなくてはならない。簡単に言えば、政府が赤字国債を発行して、日銀に引き受けさせる必要がある。(つまり、紙幣を印刷させる。)
 ところが、これは、法律によって禁止されている。「赤字国債の日銀引き受けは禁止」という財政法だ。だから、この財政法を改定または廃止する必要がある。
 こういうと、「それは駄目だ」と主張する人が出てくるだろう。
「財政法は必要だ。これがないと、いざというとき、インフレを防止できない」
 と。
 しかし、今は、デフレなのだ。デフレのときに、インフレ対策用の法律がしゃしゃり出てきて、デフレ対策を妨害するというのは、本末転倒だ。
 財政法は、廃止が難しければ、次のように改訂するとよい。
 「デフレでないときは、赤字国債の日銀引き受けは禁止」
 と。つまり財政法は、その発動を、デフレでないときに限る。デフレであるときは、財政法の対象外とする。こうすれば、特に問題はないだろう。

 【 注記 】
 赤字国債の日銀引き受けは、財政法の第5条で原則禁止されている。しかし、但書きでは、特別の事由がある場合は、国会の議決を受けた範囲でこれを行うことができる、とされている。つまり、例外的には可能である。(だから、当面の例外措置としては、不可能ではない。とはいえ、これは本来のやり方ではない。いろいろと面倒や支障も多い。)

 参考資料 (URL)

 下記のページで、経済白書などから、基礎的な経済データを入手できる。
   経済白書 
   内閣府


 システム改革

 展望

 これまでに述べたことを振り返ってみよう。
 まず、「景気循環」の理由として、経済体制の「安定構造/不安定構造」というものを見てきた。
 次に、「不況」の理由を調べて、物価上昇率と生産性の関係に行き着いた。ここでは「インフレ目標政策」「中立目標政策」というものを示した。
 そのあと、不況解決の「景気回復策」として、「中和政策」以外にはないことを示した。
 ただし、である。こうして不況を解決する方法は見出されたが、将来的に不況を予防する方法は示されていない。そこで、以下では、不況を予防する方法を示す。

 根本的対策

 不況を予防するには、不況の根本に戻って考えなくてはならない。
 たとえて言おう。病気になったあとで、病気を治す方法はある。薬を飲んだり、手術をしたり。……しかし、病気を予防するには、それとは別の対処法が必要となる。「とにかく何が何でも大急ぎで病気を治す」といったせっぱつまった事情にはない。もっと病気の根本的な原因から対処する必要が出てくる。ペストとか赤痢とかなら、病気のあとは薬を飲めばいいが、病気を予防するには、根本的に社会の衛生状態などの社会体制に手を付けなくてはならない。そして、不況もまた同様である。

 不況は、経済の「不安定構造」から発生する。これはすでに述べてきたところだ。そして、これを避けるには、「中立目標政策」(インフレ目標政策)を取ればいいと示してきた。
 しかし、たとえ「中立目標政策」を取ったとしても、人間のやることであるから、判断ミスをすることもあり得る。「中立目標政策」とは、いわば、狭い峰を渡るようなものだ。右に落ちればインフレ。左に落ちればデフレ。そういう険しい峰を、バランスを取りながら、どちらにも落ちないようにして渡っていくわけだ。そして、ときによっては、失敗して、どちらかに落ちることもある。
 だから、根本的には、このような「険しい峰」をなくすことが肝心だ。経済学的に言えば、「不安定構造」をなくすことが肝心だ。
 結局、こうだ。景気循環をなくし、不況をなくすには、一国の経済体制を、根本的に変える必要がある。今の景気循環を起こしやすい経済システムを、景気循環を起こしにくい経済システムに変えるわけだ。これは「システム改革」と呼ぶこともできる。

 安定構造/不安定構造

 「システム改革」の目的は、経済システムを安定的にすることである。経済システムの性質を、「不安定構造」から「安定構造」に変えることである。
 たしかに、現在の日本では(また歴史上の多くの国では)、経済システムは「不安定構造」をもっていた。しかし、それは、必然ではない。「なぜ不安定構造をもつか」を突き詰めれば、その理由を変化させることで、経済システムを「不安定構造」から「安定構造」に変えることができる。
 そこで、「なぜ不安定構造をもつか」を突き詰めることにしよう。(これまでは、単に「現実の経済体制が不安定構造をもつ」と示すだけであり、「どうして不安定構造をもつのか」については示さなかったが。)

 不安定構造の状況

 不安定構造の理由を示すには、まず、「不安定構造とは具体的にはどんな状況か」を考えるとよい。簡単に言えば、不安定構造とは、スパイラル(インフレスパイラル・デフレスパイラル)のことだ。
 たとえば、インフレのときは、こうだ。景気がいくらか良くなると、企業の売り上げは増え、給料が上がり、給料による買物も増えて、需要が増える。するとますます企業の売り上げが増えて、また給料が上がり、……というわけだ。
 また、デフレのときは、こうだ。景気がいくらか悪くなると、企業の売り上げは減り、給料が下がり、給料による買物も減って、需要が減る。するとますます企業の売り上げが減って、また給料が下がり、……というわけだ。
 また、不況のときには、別のことも発生する。単なる給料減のほか、失業が起こる。失業については、次のようなスパイラルが発生する。
 まず、首切りが発生する。すると、人々は不安に駆られて、買物を減らして、需要が減る。そこでさらに首切りが増えて、……というふうになる。
 さらに、失業増強効果もある。不況になると、企業は経営体質の向上に努める。そこで、「首切りと残業増」という選択をする。つまり、首切りを実行して、その分の仕事を、残った従業員にやらせる。こうすることで、人頭割りの各種費用(健康保険や失業保険などの企業負担金/家族手当などの手当/交通費援助など)を削減することができる。残業手当は増えるが、これも場合によっては「サービス残業」にして支払わないこともある。(一種の泥棒行為)

 以上のようにして、いったん不況になると、通常の「給与削減」というスパイラル構造のほかに、「失業増」というスパイラル構造も加わって、「不況が不況を呼ぶ」「状況が状況を呼ぶ」という形で、いっそう不況を増進させ加速させていく。
 これに対して、「自動安定装置」(累進的な所得税制度による減税や、失業保険などの各種セーフティネット)もある。しかし、これらは、「不況を緩和させる」という程度の力しかもたず、不況を解消させるほどの力はもたない。(つまり、不安定構造の曲率を弱める程度にすぎず、不安定構造を安定構造にするほどの力はない。)

 不安定構造から安定構造へ

 経済が「不安定構造」をもつ理由は、すでにわかった。つまり、前述のような「スパイラル構造」をもつので、いったんインフレまたはデフレの方向に傾く(ぶれると)と、「状況が状況を加速する」という形で、その方向にどんどん加速していくのである。 (ここでは心理的な効果も大きく加わっている。)

 そこで、「不安定構造」を「安定構造」に変えるには、このように「状況が状況を加速する」という形を弱めればよい。
 具体的には、次の (1) 〜 (7) などがある。

 (1) 残業規制
 残業を規制する。これには、3種類ある。
 「残業そのものを禁止する」(例:週に10時間まで)
 「残業手当を高率にする」(例:午後8時以降は100%増)
 「残業税を課する」(例:残業手当と同額を企業から徴収する)
 これらの効果は、次のようになる。

 (2) 可変労働システム
 「残業手当」と「逆残業手当」の組み合わせ。

 後者は、労働者に不利なようだが、そうでもない。このようなことを実行すれば、会社は経営が安定する。だから、その分、賃上げを実行できる。不況のとき、会社は、「賃上げゼロ」を回答して、しかも、従業員を無駄に遊ばせておくものだ。一方、逆残業手当(時短と減給)が可能であれば、会社は当面賃上げを少し実行できる。(景気が悪ければ、逆残業手当により賃金を削ることができるので、安心して、多少の賃上げは実行できる。)
 この「可変労働システム」は、不況時には、部分的なワークシェアリングの効果をもつ。(企業内で、職を分かちあうことで、雇用の安定を図る。) だから、「可変的ワークシェアリング」と言ってもよい。

 (3) ワークシェアリング
 企業内だけでなく社会全体における、職の分担。それがワークシェアリングである。
 不況のとき、政府が政策的にワークシェアリングを推進すると、それは不況のスパイラルを食いとどめる効果をもつ。「失業増 → 失業の不安 → 消費減」という循環を食いとどめるのだ。
 これは、不況そのものを解消する力はもたないが、スパイラルを食いとどめ、不安定構造を弱める効果をもつ。
( ※ 似ているようでも、「失業保険の拡充」は、「失業への補助金」であるので、逆に失業者を増やす効果がある。これは、まずい策である。)

 (4) 休日増
 政府が休日増やバカンスを定めることで、強制的に労働力を減少させ、強引にワークシェアリングを推進することができる。
 これは、ワークシェアリングの一種だが、普通のワークシェアリングに比べ、あまりうまくない。休日増といっても、いきなり年に何十日も休日を増やすことはできない。バカンスは、夏だけに休みが集中するので、それ以外の時期の雇用増には直結しない。というわけで、あまり効果がない。

( ※ バカンスには、「リゾート産業の振興」が謳われることがあるが、こういうのはあまり信用しない方がいい。日本中に「客の来ないリゾート施設の墓場」があふれているのを見るがいい。)
( ※ ただ、経済的効果は別とすれば、社会的には、バカンスは実施した方がいいと思う。夏の暑い時期にやたらと働くのは非効率的だからだ。将来、景気が回復した時点で、「収入減をともなわない形でのバカンス」を、漸次的に導入するのがいいだろう。)

 (5) 企業負担金の廃止
 健康保険や失業保険や年金などには、企業の負担金がある。
 これは、収入比例ではなくて、ほぼ人頭割である。「人頭税」のようなものである。しかも、払うのは個人ではなくて、雇用主だから、実質的には、「雇用税」の性質を持つ。つまり、「雇用は悪だ」と見なして、「雇用を削減させよう」という効果をもつ。(一種の「雇用に対する懲罰課税」としての性質を帯びる)
 となると、企業はその税制に従って、なるべく雇用を削減しようとする。
 特に顕著なのは、不況のときだ。不況になると、企業はコスト削減のため、「人員を減らして残業増」という道に走る。景気が良ければ、もともと残業をしているので、これ以上は残業はさせられないので、残業増の道には走らない。しかし、景気が悪いときは、もともと誰も残業していないので、「首切りと残業増」という道に走りやすい。
 そこで、健康保険や失業保険や年金などの企業負担金は、廃止した方がいい。かわりに、国が負担すればいい。(原資としては、企業に対して増税して、プラスマイナスをゼロにすればよい。)

 ( ※ ついでに、個人負担分を削減する案もある。 [ → 負担の肩代わり。] この場合は、「消費税増税」を原資としてもよい。)

 (6) 雇用控除
 失業を減らすためには、雇用を促進すればよい。そのことを税制によって制度化するとよい。
 具体的には、雇用に対して、[法人所得税などの]控除枠を与える。たとえば、従業員を一人増やすたびに、一定限度の税額控除を認める。(費用としての労働コストの分以外に、さらに控除を追加する。)
 もう少しわかりやすく言えば、同じ仕事をするとして、ロボットや機械がその仕事をしたなら、税額控除は認めないが、人間がその仕事をしたなら、税額控除を認める。控除率を100%でなく、それ以上にする。
 こういう提案をすると、必ず、反論が出てくる。次のように。
 「そんなのは、税制として、不自然だ。同じ仕事をしたのなら、ロボットがやろうと、人間がやろうと、同じ扱いをするべきだ。また、実際にかかったコスト以上に控除を認めるなんてことはできない。控除率はあくまで100%を限度にするべきであり、それ以上の控除は認めてはならない」
 というふうに。しかし、これは、視野があまりにも狭い。
 よく考えてみよう。ある仕事があるとする。それをすべてロボットがやったら、この経済活動によって国に支払われる税金は、法人所得税だけだ。一方、それをすべて人間がやったら、この経済活動によって国に支払われる税金は、法人所得税のほかに、人間たちの支払う税(所得税・住民税)がある。
 この企業は利益が出ないで赤字であることもある。その場合も、社会資本を利用させてもらっている。なのに、ロボットだけでやっていれば、この経済活動は、税金を一円も支払わずに済む。一方、人間がやっていれば、企業自体は金を払わなくても、従業員が税を払うので、結局、この経済活動は税金を払うことになる。
 だから、公平を期するためには、従業員を多く雇っている企業に対して、「雇用増と税収増に貢献した効果」を評価しなくてはならない。それが「雇用控除」である。

( ※ 一般的には、人を多く雇うサービス業が、この控除の恩恵を多く受ける。たとえば百貨店などだ。その点を勘案すると、原資(控除で減る分の国家収入をまかなうための増税)としては、「法人固定資産税の増額」が好ましいかもしれない。これは百貨店などに多くかかるからだ。また、こうすると、「一極集中を妨げて地方分散を促進する」という効果もあるからだ。)
( ※ 「雇用控除」と反対のものとして、「人頭割りの外形標準課税」というものがある。これは当然、「雇用控除」とは逆の効果をもつ。つまり、常に首切りを促進し、ワークシェアリングを減退させ、不況を悪化させる。法人所得税のような「自動安定装置」の効果もないので、インフレのときはインフレ促進効果をもち、デフレのときはデフレ促進効果をもつ。経済的に最悪の手段と言えよう。)

 (7) 税率の可変化 (可変税率)
 法人所得税を、物価上昇に応じて、可変的にする。物価上昇が起こってインフレ状態になると、累進的に税率が上がるようにする。 (個人所得税は、すでに所得額に応じて可変的になっている。この場合、所得が同じなら、税率自体は変化しない。しかし、ここで提案する案では、所得は同じでも、物価上昇に応じて税率が可変的になる。つまり、自動安定装置である。)(法人固定資産税は、地価の上昇に対応して、機敏に変化させることが好ましい。)
 これは、憲法で定める「租税法律主義」(税は法律で決めること)と、矛盾しないだろうか? その懸念はある。ただ、次の2条件を満たせば、問題はないだろう。
 ・ 可変的となる幅は、あらかじめ法律で定めておく。
   (± 20%ぐらいの幅。そこからの逸脱は禁止。)
 ・ 変動は、恣意的でなく、自動的に計算式で決まる。
   (上がるのは景気過熱のときに限定する。)

 [ 付記 ]
 なお、ここでは、「法人所得税」だけについて「税率の可変化」を示したが、他の税についても、同様のことをしてもいい。所得税や消費税や固定資産税についても、景気に応じて、税率の可変化をしてもいい。とはいえ、法人所得税に比べると、技術的な困難度が高い。可能であればしてもいい、という程度である。

 以上 に (1) 〜 (7) を示した。
 これらによって、「不安的構造」のスパイラル構造を弱め、「安定構造」に近づけることができる。(これ以外にも方法はあるだろうが。)
 ともかく、このようにすることが、「システム改革」の方法である。
 これらは、将来の景気安定のためにも役立つが、同時に、今すぐ実行することで、不況から脱出する効果をもつ。 (ただし中和政策のような即効性はない。社会全体に広く浸透するには、数年間の時間がかかるだろう。それでも、今すぐ実施することで、部分的な効果はある。中和政策のような巨大な効果にはならないとしても。)

 最後に

 ここまでで、述べるべきことは一応、すべて述べてきた。今さらここで、いちいち要約を述べたりはしない。本文中に記述したことによって、景気対策については、原因も、対処法も、予防法もわかった。物事の根本を理解することもできた。
 何かわからないことがあれば、本文を読み直してほしい。
 なお、いくつかの点については、付録で補充的に述べる。本文中では、話が専門的で細かくなりすぎるので、記さずにおいたが、詳しく知りたければ、付録を読むといいだろう。




    
   《 付録 目次 》

[付録1] 数値(2.5%)の根拠
[付録2] クルーグマンとの違い
[付録3] 「流動性の罠」の理由
[付録4] 物価上昇は有害か



 付録1 数値(2.5%)の根拠

 生産性向上率の 2.5% という値

 生産性向上率として、2.5%という値をクルーグマン教授は示した。この数値は、どのくらい信頼すべきだろうか? 
 クルーグマン教授の著書によると、長い年代にわたって、平均的にはこの数値を取っているという。この意味で、この 2.5% という数値は、ある程度の幅を前提としながら、信頼していいだろう。実際、最近の数年間の欧州各国の生産性の推計値でも、だいたい、この値の前後に散らばっている。(2%〜3.5%程度。)
 ただし、例外的な状況もある。高度成長期の日本や、近年の中国経済では、年率7%程度の成長があったと確認されている。また、低開発国では 0%の経済成長率が長く続いた国もある。また、ソ連崩壊後のロシアではマイナスの成長率となったようだ。
 そのように、国別ないし時代別の違いが現れることもある。個別事情を一応、考慮するべきであろう。

 生産性向上率が「質の向上」に転化した分

 私が第2章で示したところでは、「生産性の向上は質の向上に転化される(ことがある)」とも示されている。つまり「生産性の向上は必ずしも金額的な向上となって現れるとは限らない」と。たとえば、コンピュータのCPUだ。毎年どころか毎四半期ごとに、急速に性能は向上しており、それにともなって旧型の製品は価格が大幅下落している。高性能な商品をどんどん安価に作れるようになっているのだから、量的な生産性はどんどん向上しているが、全体的な価格水準(売れ筋商品などの価格水準)は少しずつ下がっているので、労働生産性は徐々に下がっているとも言える。(労働者数等が変わらないと仮定すれば。)……この分 [質の向上に転化した分] は、経済統計的には、「生産性の向上」としては現れずに、隠れている。というわけで、その隠れた分を考慮した「真の生産性向上率」は、経済統計的に現れた「金額的な生産性向上率」( 2.5% )よりも、いくらか大きいと推定され、たぶん、3%〜3.5% ぐらいになるのではなかろうか。
 ただ、この「質の向上に転化した分」をどう評価するかは、難しい問題である。「以前と同じような生活水準を保てれば十分」と感じる人にとっては、毎年3%〜3.5% ぐらいの成長があると感じられるだろう。一方、「毎年、世間に応じて、自分も世間並みの生活水準を保ちたい」つまり「毎年少しずつ『質の向上』の分のレベルアップが必要だ」という人にとっては、 2.5% の成長があると感じられるだろう。(一般的には、後者の意見が普通だろう。しかしこれだと、「質の向上」の分が見えなくなってしまう、という難点がある。)
 私としては、この数値は、どちらを取っても構わないと思う。つまり、中立目標政策(インフレ目標政策)で、めざすべき物価上昇率は、次のいずれも選択肢に入ると思う。

 (1) 2.5% とする。
 「生産性向上率」として「 2.5% 」という数値を取り、この値で物価上昇率を定める。質の向上は、(2) の場合のようにはっきりとは意識されないまま、なんとなく生活に浸透していく。比較的安定的な静かな状態で、少しずつ生活水準が向上していく。成熟した北欧諸国の世相に近い。落ち着いているが、その分、活気は少ない。

 (2) 3.5% とする。
 「生産性向上率」として「 3.5% 」という数値を取り、この値で物価上昇率を定める。質の向上は、価格上昇をともなう。つまり、前と同レベルの商品なら、2.5%の値上げをしているだけだが、世間で標準となるものは、1%の性能向上をともないつつ、3.5%の値上げをしている。「2.5%の値上げをした古い商品を買う」という選択肢も残されているので、特に不満は感じない。『性能が上がったからその分高い物を買うのだ」と思っている。自分がリッチになったことを実感しながら、高品質で高価格な商品を買うようになる。若干のインフレ感覚をともなうので、精神的には安定して静かな状態とは言えない。むしろ、こういう社会は、「活気あふれて高揚感がある」と見なされるものだ。高度成長期の世相に近い。

 以上のどちらを取るかは、その国の国民感情しだいだと思う。一般的に言えば、老人の多い成熟した国では (1) が好まれる。(たとえば北欧諸国。)逆に、若者の多い発展途上の国では、(2) が好まれる。(たとえば急成長中のアジア諸国とか、かつての日本など。) 

 なお、特に現在の日本について言えば、(2) が必要だろう。今の日本はまったく沈滞しきっている。精神医学的には「鬱病」的な症状にある。そのため、自殺者が溢れているし、さまざまな犯罪や家庭崩壊なども起こっている。こういう状況では、人々がもっと活気をもっている世相になることが好ましい。バブル期のような「躁病」的な症状になるのは行き過ぎだが、そこまでは行かなくても、ある程度、「鬱病」的な症状を中和するような世相になることが好ましい。
 つまり、当面は、2.5% よりも若干大きめな「物価上昇率」を定めることが好ましいだろう。3.5%までなら、特に問題はない。「インフレ」というようなこともない。

 なお、次項では、「物価上昇率を高めに設定すべきだ」ということを、別の理由で述べる。

 長期的に見た値

 中立目標政策(インフレ目標政策)が継続的に採られている場合には、短期でも長期でも物価上昇率は 2.5% となる。(目標値も、実際の値も。)
 一方、中立目標政策が採られていなくて、物価上昇率が 2.5% から懸け離れた状態が長く続く場合もある。(たとえば今の日本のように、物価上昇率が0%程度という状態が数年間にわたって続いた場合。)
 この場合は、「長期的に見て、ならす(平均化する)」というふうにするべきであろう。つまり、「 2.5% 以下の前年と 2.5% 以上の翌年を通して、平均的に 2.5% にする」というふうに。
 たとえば、「物価上昇率が0%程度」という状態が何年間か続いた直後には、その分、以後の年は高めの物価上昇率が求められる。(たとえば、1年目が 0% で、2年目が 5% となる。こうすると、平均して、年 2.5% となるわけだ。これはこれで、特に問題はない。だいたい、統計調査の期間を1年間に限定する必要はなく、半年とか2年間とかも考えられるのだから。)
 ただし、こうした「平均化」も、度が過ぎると問題になる。「3年間も0%が続いたから、次の年に10%の物価上昇でも、4年間の年平均は 2.5% になる」という説も成り立つが、このように急激に物価上昇をするのも、インフレ暴走の危険があって、好ましくはない。
 やはり、常識的には、なだらかに移行するのが好ましい。

 では、10年程度の不況が続いた日本では、今後、どのくらいの数値が好ましいか? 
 クルーグマン教授の提案では、 
 「4%を15年間」
 である。これは、かなり大きめのインフレ政策のように思えるかもしれないが、よく考えると、そうでもない。というのは、「過去10年間で実施されなかった分」は「2.5%×10=25%」であるから、25%程度の物価上昇は、長期的には受け入れ可能である。クルーグマン提案における「上乗せ分」は、(4%−2.5%)×15=22.5%だから、両者の値はほぼ等しい。つまり、クルーグマン提案は、「インフレ政策」というほどではなく、長期的には「中立目標政策」の範囲に収まると言える。( ※ なお、厳密に言えば、掛け算ではなくて、年々の累乗的な計算になる。ここでは単純に掛け算で示した。)

 ただ、私の個人的な考えを示せば、この値は大きすぎると思う。
 そもそもクルーグマン流は「2.5%以上」が目標である。一方、私の考えは、あくまで「中立目標政策」であり、「2.5%以上」ではなく、「2.5%だけ」である。あまり大きな値を取るのは好ましくないと考える。
 そこで、私としては、「今後数年間は 2.5%に少し上乗せする。景気が回復したら、2.5% を継続する」である。

 このように、クルーグマン教授と私とでは、提案が少し異なる。

 という差である。
 ただし、である。よく考えると、両者はほとんど差がない。なぜなら、
「今後数年間だけなら、どちらも4%程度で、同じ。」
「数年後に景気が十分に回復したあとのことは、先のことなので、厳密な論議は無理。先のことは先になってから考えればよい。今のうちに決める必要はない。そのときになってから、そのときで最善の値を取ればよい」 
 となるからだ。
 だから、今後2〜3年程度については、クルーグマン流でも、私流でも、ともに「4%程度」を目標の物価上昇率として定めている、と理解すればよい。 (2001年の後半になると、景気悪化はさらに進んでいる。こうなると、「(ここ数年の平均的な状態でなくでなく)景気の底からの物価上昇率」は、上記の数値よりももっと高めでもよい。いったん下がった分を考慮するわけだ。)

 物価上昇率に及ぼす円高・円安の効果

 物価上昇率の意味を経済学的に考えるときは、現実のその数値だけでなく、円高・円安が及ぼす効果も考慮しなくてはならない。(円高・円安が生じていないときは無視してよいが、円高・円安が生じたときは無視してはならない。)
 つまり、円表示の物価上昇率を考えるだけでなく、ドル表示の物価上昇率も考えなくてはならない。
 たとえば、急激な円高で、円が 20% 上がったとする。このとき、円表示では物価上昇率は 0% であるが、ドル表示では物価は 20% 上がったことになる。この状況を円表示だけで解釈して、「物価は上がっていない」と理解するのは正しくはない。
 もう少し厳密に考えよう。一国全体の消費総額のうち、輸入品(輸入総額)の占める割合が30%であれば、 ( 加重平均を取って、)
    20% × 0.3 + 0% × 0.7 = 6%
 であるから、「20%の円高で、円表示で物価上昇率が0%」という状況は、実質的な物価上昇率が 6% だと見なせる。
 換言すれば、こうだ。この状況では、20%の円高は、6%の物価下落(円表示)をもたらさなくてはならない。なのに、そうなっていないとしたら、その分、物価が上昇していると考えるべきなのだ。
 実際には、上の計算で示した値(理論値)のとおりに物価が下落することは起こりにくい。価格は下方硬直性をもつからだ。(たとえば電車運賃は、円高になったからといって、容易には下がらない。)というわけで、上の計算で示した値は、少々割り引いて考える必要がある。しかし、そうは言っても、まるきり無視するのも正しくない。ある程度、考慮しておく必要がある。
 これを無視したすえに失敗したのが、バブル期の日銀である。バブル期の直前には、急速に円高が進行した。だから、円高と同時に、物価も急速に低下しなくてはならなかった。にもかかわらず、物価上昇率は0%程度を保った。これは明らかな物価上昇と見なせる。実際、ドル表示の物価なら、異常に物価は上がっていたのだ。にもかかわらず、円表示の物価は平静であったため、日銀は「現況はインフレではない」と判断した。
 円高局面では、たとえ物価が上昇しなくても、実質的には物価が上がっている。したがって、その状況はインフレとしての性質を持つ。過剰な資金が発生して、その資金が土地や株になだれ込んで、異常な資産インフレとなって発現した。
 日銀は当時、判断を完全に誤ったのだ。資産インフレだけを見ても異常なインフレだったが、それを無視した。さらに、円高が及ぼす物価引き下げ効果も、無視した。ドル表示における物価の異常な高騰も、無視した。ただひとつ、円表示における物価の平静さだけを、見ていた。そうして「インフレではない」と判断した。── そのような誤った判断の結果が、インフレの放置であり、バブルである。
 この失敗を繰り返してはならない。円高・円安のときは、それが物価にもたらす影響を考慮しなくてはならない。輸出入のない「閉じた経済」の場合には、物価計算のときに円高・円安を考慮する必要はないが、今の日本は「閉じた経済」ではないのだから、物価計算のときに円高・円安を考慮する必要がある。日銀は、なすべき判断ができなさなかったため、大失敗して、日本をバブルに導いたわけだ。
 日銀はこの誤りに気付いていない。となると、今のままでは、「過ちを繰り返すこと」、つまり、「バブルの再発」は、いつか現実化することになりそうだ。

 [参考] 労働生産性だけを取る理由

 「生産性」としては、「労働生産性」だけを取ることにしてきた。では、なぜか? 
 「生産性」を考えるにしても、「労働生産性」以外のものも考えられる。わかりやすく言えば、同じ生産をするものとして、「労働者 100人が働く工場」と「ロボット 10台が働く工場」の二通りがある。前者には労働生産性が存在するが、後者には労働生産性が存在しない。となると、労働生産性ばかりにこだわるのは、無意味ではなかろうか? そういう疑問が出るだろう。
 そこで、説明すると、次のようになる。
 たしかに、「ロボット 10台が働く工場」というようなものもある。そして、それが労働生産性には関係しないまま、技術的に時代遅れになって、「生産性」の低下を起こして、競争力をなくすこともある。しかし、そういう工場は、無視して構わないのだ。以下の理由で。

 要するに、そういう例外的な場合は、考慮しても意味がないし、また、考慮しなくても問題ないので、あえて無視するのである。 (もっとも、学術的に話を精密化したいときは、いろいろと考慮しても構わない。ただ、それでも、話は少し正確さが増すというだけであって、話の大筋は変わらない。)


 付録2 クルーグマンとの違い

 クルーグマンと私との違い

 クルーグマン教授の意見と私の意見とでは、根本的に違うところがある。それは、「景気循環」のところで述べた箇所だ。
 私の方は、「安定構造と不安定構造があり、景気は不安定構造に属する」と述べている。クルーグマン教授はそうではなく、景気もまた「放任がよい」と考えているらしい。(つまり、「景気は安定構造にある」と潜在的に意識しているらしい。)
 この考え方の差は、バブル期における対処法に大きく現れる。

 クルーグマン教授の考え方によれば、こうだ。
 「今の不況は、バブル期に金利を上げたから招き寄せられたのだ」
 つまり、
 「バブル期には金利を上げなければよかった。そうすれば日本のバブル景気は永遠に続いたであろう。ずっと資産インフレ状態が続いて、バブルは破裂しなかっただろう」

 私の考え方によれば、(世間の意見と同様だが、)こうだ。
 「今の不況は、バブルのツケ払いである。バブルのときにさんざん無駄遣いしたのだから、そのツケを払うのは当然だ。バブル期には、空から金が降ってきたおかげで豊かだったわけではない。将来の富を先食いしていただけだ。当然、何年かたてば、先食いした分のツケ払いは必要となる。バブル期には、もっと早めに金利を上げるべきだった。そうすれば、バブルは大きくふくらまず、将来の富の先食いも起こらず、ツケ払いも少なくて済んだはずだ。」

 つまり、不況であるときについては、クルーグマン教授も私も、(物価上昇をめざすという点で)結論は同様となるが、一方、不況でないときについては、結論が異なる。私は「景気は基本的には循環する」と考えるが、クルーグマン教授は「景気は刺激してやればずっと好況のままになる」と考える。クルーグマン教授は、いつでもどこでもインフレ状態が大好きであり、私は、不況のときはインフレが好きだが、不況でないときはインフレが嫌いである。このような差が出る。
 したがって、バブルが破裂した時点についても、クルーグマン教授と私とでは解釈が異なる。クルーグマン流では、バブル破裂は避けられたから、バブルを永続させるべきだった。私流では、バブル破裂は不可避であり、どうせなら、あとで急激に破裂するのを避けるため、バブルが小さいうちに、なだらかに収束させるべきだった。

 しかし、バブルが完全に破裂した時期以後については、クルーグマン教授も私も、意見は同様である。── バブル破裂がかなり進行したあとの、「インフレでもデフレでもない状態」から、「不況」にさしかかった時期。プラスからゼロになったのではなく、ゼロからマイナスにさしかかった時期。具体的には 1991 年頃。この時期になれば、インフレに向けて大きく舵取りをするべきだったし、そうして不況の進行を食いとどめるべきであった。── そういう意見になる。
( ※ 実際にはどうだったかというと、日銀少しずつ金利を下げただけであり、結果的に、日本経済は不況の下り坂を急速に下っていった。 → 対策−落ち込んだ場合 。)

 なお、私の考えでは、不況は、ある程度は不可避であった。つまり、まったく不況[景気後退]なしで済ませることはできなかった。なぜなら、[付録4]で述べるように、赤字企業の処理をするために、社会的コストの負担が不可避だからだ。
 バブル後の倒産企業は、単なる生産性効率の悪化のせいだけでなく、とんでもない無駄のせいで倒産した企業がかなりある。(とてつもない楽観的な見込みをしたリゾート企業など。) これらは、マクロ経済政策だけでは救えないし、倒産は不可避である。となると、その処理のために、社会的コストの負担が不可避であり、したがって、ある程度の不況も不可避である。たとえば、物価上昇率が 1% ほど減り、同時に国民の金も1%ほど奪われるような状態は、やむをえまい。しょせん誰かが、赤字を負担しなければならないからだ。 ( → 詳しくは 付録4

 日銀の失敗

 以上のような私の解釈によれば、日銀は、明らかに舵取りを失敗している。このことについて述べよう。
 先に、日銀は「金利が3%ぐらいになった経済水準の時点で、ただちに0%付近まで下げるべきだった。」と述べた。 ( → 対策−落ち込んだ場合 の箇所。)
 さて、もし、日銀が大幅な金利引き下げに踏み切れば、物価上昇が起きただろう。ただ、それは、中立目標政策のめざす状態になったわけなのだから、好ましい状況であるわけだ。実際、この物価上昇が起こった時点で、不況は解決したはずだ。
 にもかかわらず、日銀は、この物価上昇というものを「インフレ」と感じて、物価上昇を恐れた。そのせいで、大幅な金利引き下げに踏み切れず、不況の進行を招いた。
 日銀はめざすものを間違えたのである。そしてまた、臆病であったのである。インフレを恐れるべきではなかった。なのに、あるはずもないインフレの幻影に怯えて、結果的には不況を招いてしまった。まことに臆病であり、判断を誤った。

 金利というものは、そもそも、「多めに」上下させるべきものなのだ。なぜなら、それは「不安定構造」での「転落の進行」を止めるものだからだ。左側の谷に落ちそうになったら、多めにブレーキを踏む。たとえ踏みすぎて、その結果、逆方向に進むことになったとしても、それは、中央に戻るというだけの話だ。実害はない。一方、ブレーキの踏み方が足りなければ、転落はどんどん進行する。ある程度まで進行すると、もはや、ブレーキが利かなくなる(暴走する)。だから、そうならないように、多めにブレーキを踏むべきなのだ。
 しかしながら、伝統的に、日銀は、「金利政策の転換」というものを嫌う。「いったん下げてまた上げる」ということをすると、「前回の操作が間違いであったことになる」と考える。もちろん、マルコフ・チェインを知っている人なら、これは間違いだ、とわかる。金利の上げ下げは、ずっと同じ方向である必要はない。確率的に言って、前回下げたからと言って、次もまた下げる必要はない。次回にどうするかは、五分五分である。少なくとも、正常な判断をした場合は、ちょうどよく上げ下げしたわけだから、次回に上げるか下げるかは、五分五分になるはずなのだ。ずっと上げっぱなしだったり、ずっと下げっぱなしだったりすれば、それは、上げ方か下げ方が足りなかったことを意味する。
 バブル期の日銀は、金利を上げ続けた。これは、「上げ幅が慢性的に不足していた」ということを意味する。バブル破裂時の日銀は、金利を下げ続けた。これは「下げ幅が慢性的に不足していた」ということを意味する。
 つまり、バブルも、バブル破裂後の不況も、どちらも、日銀の金利操作の間違いで生じたことになる。日銀は、同じ間違いを繰り返して、日本経済を二度も破壊したわけだ。 (そして今、「物価上昇をめざす」という政策を拒否することで、三度目の破壊をなしつつある。)


 付録3 「流動性の罠」の理由

 「流動性の罠」は、なぜ起こったか? その理由は?
 クルーグマン教授は、「その理由は説明しがたい」と言っている。「今の状態がその(流動性の罠の)状態であるということを示すことは簡単だが、なぜそうなったかを示すことは難しい」と。
 それでも一応、「日本の人口構成が理由だろう」とも述べている。しかし、これはおかしい。バブル期も現在も、人口構成はほとんど同じだからだ。同じ状態を理由にして、バブルと不況とをともに説明するのは無理がある。結局、よくわかっていないようだが、だからといって、他の人がわかっているわけでもない。要するに世の中の経済学者は、誰もこれをうまく説明できない。
 しかし、このホームページを読んだ人なら、すぐに理解できる。「景気の不安定構造」である。つまり、特定の原因ゆえに「流動性の罠」が生じたのではない。景気が不況側に傾くと、それぞれの要因がそろっていっせいに不況側に傾く。需要は縮小し、それが生産縮小や賃下げを引き起こし、それが需要の縮小をさらに引き起こし、……というふうに。「相互に影響しながら、たがいに原因と結果となり、そろっていっしょに」というふうにふるまうのだ。
 「流動性の罠」は、何が原因となって起こるのか? ── この質問自体が、無意味である。その質問の答えとなるべき特定の「原因」などはない。状況自体がその事態を引き起こしたのである。何らかの「きっかけ」のようなものはあっただろうが、それは結果を引き起こす「原因」と呼ぶには、あまりにささやかすぎるものだろう。「アメリカの台風の原因は中国でチョウチョウが飛んだことだ」と説明するようなものだ。因果関係の成立しない状況にあっては、知るべきは、ほとんど無視できるような「きっかけ」ではなくて、そのような特殊な状況それ自体である。この状況を知ることが真実にたどりつく道だ。

 なお、クルーグマン教授は特に意識していないが、「流動性の罠」の原因となるはずの「需要減少の見込み」とは、つまりは、「景気後退局面」のことである。だから、「流動性の罠」の原因を探るというのは、結局は、「景気循環」の原因を探ることと同じである。 (だから第3章初めの、「景気循環」の説明が役に立つ。)


 付録4 物価上昇は有害か

 問題提起

 生産性と物価上昇率の関係について、クルーグマン教授の考え方に依拠して説明してきた。
 さて、ここではさらに、クルーグマン教授の考えには頼らず、考えをもっと発展させてみよう。

 古典的な経済学では、生産性の向上を考慮しないが、クルーグマン流では、生産性の向上を考慮する。
 では、生産性の向上を考慮した場合、それが物価上昇率とは別の面に及ぼす影響はどうだろうか? 特に、賃金金利には、どのような影響を及ぼすだろうか? それぞれは、インフレやデフレのときに、どのような値を取るだろうか? 
 ── こうしたことを考えてみよう。

 三つの場合と四つの項目

 考えられる状況としては、次の三つがある。
   「インフレ」「中立」「デフレ」
 考えられる項目としては、次の四つがある。
   「生産性の向上(率)」「物価上昇率」「実質賃上げ(率)」「名目賃上げ(率)」
 これらを組み合わせれば、表ができる。次のように。

     \  インフレ  中立  デフレ 
 生産性向上  2.5 %  2.5 %  2.5 %
 物価上昇率  5.0 %  2.5 %  0.0 %
 実質賃上げ  2.5 %  2.5 %  0.0 %
 名目賃上げ  7.5 %  5.0 %  0.0 %
( 「金利」≒「名目賃上げ」 )

 この表では、すでに、欄に数値が書き込まれている。いきなり結論を書いてしまったわけだ。
 以下では、これらの数値がなぜ出てきたかを、示すことにする。(生産性の向上率は「 2.5% 」と仮定している。)

 (1) 中立状態
 まず、中央の列を上から下に見てほしい。これは、インフレでもデフレでもない「中立」状態の場合である。
 ここでは、生産性の向上は 2.5% で、物価上昇率は 2.5% である。理由はすでに述べたとおりである。(つまり、両方を同じ値にしないと、インフレかデフレになってしまう。)
 さて、ここでは一応、生産性の向上はその割合で労働者に分配されると見なす。つまり、生産性の向上が 2.5% であれば、実質賃上げも 2.5% である。(こうして実質賃上げの値が出た。)
 この場合、名目賃上げは、実質賃上げと物価上昇率の合算だから、 2.5% + 2.5% = 5.0% となる。(こうして名目賃上げの値が出た。)

 (2) インフレ状態
 左の列を上から順に見てほしい。これは、インフレの状態である。生産性の向上は 2.5% で変わらないが、物価上昇率は 2.5% をかなり上回っている。(ここではとりあえず 5.0% という数字にしたが、7%でも10%でも話の進め方は同様である。)
 ここでも、生産性の向上はその割合で労働者に分配されると見なす。すると、実質賃上げはやはり 2.5% となる。
 名目賃上げは、生産性の向上に物価上昇率の合算だから、 2.5% + 5.0% = 7.5% となる。

 (3) デフレ状態
 右の列を上から順に見てほしい。これは、デフレの状態である。生産性の向上は 2.5% で変わらないが、物価上昇率は 0%である。
 さて、デフレ状態では、名目賃金上昇率が 0%となるであることが経験的に知られている。実際、今の日本では、たいていの企業がほぼ0%の賃上げ[ベースアップ]しか得ていない。
 となると、ここでは、実質賃上げは、0%ということになる。(物価上昇率が0%なので。)

 表の解釈

 ともあれ、以上のようにして、表の各欄の数値が与えられた。
 この数値は、おおよそ、経験的に得られる値である。とりあえずは、経験的に正しいと理解しておこう。
 さて、この表を見ると、三つの状態(インフレ/中立/デフレ)のうち、どの状態が好ましいかは、すぐにわかる。もちろん、中立状態である。
 インフレ状態は、あまり好ましくない。なぜなら、実質賃上げは、中立状態と同じなのに、物価上昇率は、中立状態よりも大きいからだ。メリットは同じで、デメリットは大きい。
 デフレ状態は、最悪である。生産性が向上しているにもかかわらず、そのメリットが受けられない(実質賃上げがない)からだ。 さらに、実質金利までゼロになる。
( ※ 実質金利がゼロになるのは、景気自体のせいというより、当局の金利操作のせいだが。)

 消費者側への還元

 では、なぜ、デフレのときはこういうふうに、実質賃上げがないのだろうか? それを考えてみよう。
 そこでまず、先の仮定について検討する。
 「生産性の向上はその割合で労働者に分配される」
 と先に仮定してきた。たとえば、
 「生産性向上が 2.5% のときに、実質賃上げも 2.5% になる」
 というふうに。しかし、これは、どの程度まで正しいのだろうか? 

 これに関連して、経営者団体の主張する「生産性基準原理」というものがある。つまり、「実質賃上げは、生産性向上の範囲内に止める」という主張である。
 この主張の意味することは、
 「生産性向上の分は、生産者側(つまり企業と労働者)だけで分配するわけには行かず、消費者側にも還元される」
 ということだ。具体的には、生産者側の企業利益増や賃金増とはならず、製品価格下げとなって消費者側に還元される分もある、ということだ。
 そこで、この「消費者側への還元」の量が問題となる。いったい、どのくらいの量になるだろうか? 
 生産性向上の分が、もし消費者に 100% 還元されたなら、製品価格が下がるだけだ。この場合、企業は利益を増やせず、労働者は賃上げを得られない。
 逆に、生産性向上の分が、もし消費者に 0% 還元されれば(つまり少しも還元されなければ)、製品価格は下がらない。この場合、企業は利益をたくさん増やし、労働者は賃上げをたくさん得る。
 実際には、どうか? 「消費者側への還元」の量は、100% と 0% の中間となる。どのようになるかは、状況によって異なる。
 ミクロ的に言えば、その生産性向上が世間の水準より上回っているかどうかで決まる。たとえば、1企業だけが独自の新技術によって、単独で生産性向上をなしとげたのであれば、その企業は自社で 100% 近くの利益を得ることができる。この場合には、「消費者側への還元」の量は 0% に近い。一方、多くの企業が同じような生産性向上をなせば、生産性向上の効果は競争に埋没してしまう。つまり、その分はすべて価格の引き下げとなる。この場合には、「消費者側への還元」の量は 100% に近い。
 一方、マクロ的に言えば、需要と供給の関係で決まる。つまり、供給が需要よりも少なめのとき(インフレ気味)のときには、「消費者側への還元」の量は 0% に近くなる。別に価格を引き下げなくとも売れるからだ。逆に、供給が需要よりも多めのとき(デフレ気味)のときには、「消費者側への還元」の量は 100% に近くなる。生き残るためには何とかして価格を引き下げる必要があるからだ。

 では、「消費者側への還元」の量が 100% のときと 0% のときで、どう違いが出るだろうか? 

 消費者側への還元が 0% である場合

 「消費者側への還元」の量が 0% である場合はどうか? 
 生産性の向上の利益をすべて生産側(会社・労働者)で享受できる。一般的に言えば、 2.5% の生産性向上に対して、 2.5% の実質賃上げを得る。
 この場合は、先の「インフレ/中立/デフレ」の表のうちの、「インフレ/中立」の列の場合の仮定( 2.5% の生産性向上に対して 2.5% の実質賃上げ)を与える。
 だから、先の欄の「インフレ」および「中立」の列は、このように、「生産性の向上をすべて生産側(会社・労働者)で享受できる場合」として理解することができる。

 消費者側への還元が 100% である場合

 「消費者側への還元」の量が 100% である場合はどうか? 
 生産性の向上がすべて消費者側に還元されるのだから、もちろん、労働者には還元されない。つまり、実質賃上げは 0.0%となる。
 ここで、もともと物価上昇的な状態ではないと仮定すると、生産性の向上がすべて価格引き下げになるわけだから、物価上昇率は -2.5% となる。(つまり2.5% の下落。)
 両方を合算して、名目賃上げは -2.5% となる。
 一方、もともと 2.5% の物価上昇的な状態である仮定すると、その分を考慮すればよい。つまり、実質賃上げは 0.0% で同じだが、物価上昇率は、先の値( -2.5% )に、もともとの物価上昇の分が加算されて、 -2.5% + 2.5% = 0% となる。また、名目賃上げも、生産性向上の分の分に、先の値( -2.5% )に、もともとの物価上昇の分が加算されて、 -2.5% + 2.5% = 0% となる。
 以上を表にすると、次のようになる。

     \  物価上昇0% 物価上昇 2.5%
 生産性向上   2.5 %   2.5 %
 物価上昇率  - 2.5 %   0.0 %
 実質賃上げ   0.0 %   0.0 %
 名目賃上げ  - 2.5 %   0.0 %

 通常、実質的に意味をもつのは、左側の列ではなく、右側の列である。このような状態は、たしかにある。(たとえば、今の日本。)
 ここでは、形の上では物価上昇率は 0% である。しかし実際には、そうではない。生産性の向上率が 2.5% なのだから、本来は、その分、価格は 2.5%下落していなくてはならない。なのに、「隠れた物価上昇」があるため、それと相殺しあって、表面的な物価上昇率は 0% となっているのである。

 さて、この右側の列は、先の「インフレ/中立/デフレ」の表のうちの、「デフレ」の列と同じである。だから、先の欄の「デフレ」の列は、このように「生産性の向上がすべて消費者側に還元された場合」として理解することができる。

 パラドックス

 さて、ここでパラドックスが見て取れる。
 「インフレ/中立/デフレ」の三つの状態のうち、いずれの場合も、生産性の向上は 2.5% である。そして、「インフレ/中立」の場合は、 2.5% の実質賃上げを得る。なのに、「デフレ」の場合は、0% の実質賃上げである。では、生産性向上の分の利益は、どこへ消えてしまったのだろうか? 
 まず思いつくのは、「すべて消費者側に還元されたから」という理屈だ。しかし、これはおかしい。労働者は同時に消費者でもあるからだ。個々の企業を見れば、労働者と消費者は別の存在だが、一国全体を見れば、労働者と消費者はほぼ等しい。「すべて消費者側に還元された」のだとしたら、物価が 2.5% 下落していなくてはならない。その場合は、賃上げがゼロでも、実質賃上げは 2.5% となる。しかし、実際には、そうなっていないのだ。先の「デフレ」のときの表のように、物価上昇率も実質賃上げも名目賃上げも、すべて 0% となってしまうのだ。
 では、生産性向上の分の利益はどこへ消えてしまったのか? 

 実は、これは、なかなか難しい問題である。ちょっと考えただけではわからないだろう。そこで、詳しく説明しておく。

 あるべき状態

 現状がいびつであるとしたら、まず、あるべき状態を考えるとよい。本来ならどうあるべきか、と。
 あるべき状態とは、どういう状態か? 生産性の向上によって、物価が 2.5% 下落したとしても、名目賃金は下がらない( 0% の上昇率)という場合だ。これならば、「消費者側へすべて還元」されるとしても、納得がゆく。
 そして、この場合、名目賃金は 0% の上昇で、物価は 2.5% の下落だから、実質賃金は 2.5% の上昇である。つまり、生産性の向上がそっくりそのまま、実質賃金の向上となっている。
 だから、結局、「消費者側へすべて還元」することにしても、生産性の向上率は、そっくりそのまま、実質賃上げに回されねばならないのだ。つまり、「生産性基準原理」は誤りだ、ということになる。
 言い換えれば、
 「実質賃上げは、生産性向上の範囲内に止める」
 というのではなくて、たとえ消費者側への還元を考慮しても、常に、
 「実質賃上げは、生産性向上と同じ割合にする」
 ということが必要なのだ。それがあるべき姿なのだ。

  【 注記 】 正確に言えば、これは マクロ経済での話。

 配分比率の変更

 たとえ消費者側への還元を考慮しても、常に、
 「実質賃上げは、生産性向上と同じ割合にする」
 としなくてはならない。しかるに、現実には、そうなっていない。とすれば、どうなっているのか? 
 なすべき賃上げをなしていないとすると、その賃上げの分を支払っていないことになる。つまり、その賃上げの分を、企業が支払わずに、企業のポケットに入れてしまっていることになる。つまり、労働者側から、企業の側へ、利益が移転してしまっているのである。
 ここまでは、「生産者側と消費者側」というふうに、二分類していた。そして、生産者側では、企業の側と労働者の側が適切に利益を分かちあっているものと想定した。しかし、デフレのときには、その企業と労働者の間の配分比率が変化してしまうのである。通常ならば、生産性向上の分は、企業と労働者の間で適切に配分するのだが、デフレのときには、それを企業が独り占めしてしまうのである。
 具体的には、次のような経路を取る。

 かくて、生産性向上分に相当する利益を、企業だけで独り占めできるようになる。
 ── これが解答だ。
 生産性向上の分は、一見、消えてしまったように見えるが、実は、労働者の側から、企業の側に移転しただけだ。労働者にとっては、消えてしまったように見えるが、企業にとっては、その分をもらって儲かっているわけだ。

 企業利益の喪失

 企業と労働者の間の配分比率の変更により、不況のときは、労働者から会社へ、生産性向上分の利益が移転してしまう。(すべて移転するとは限らないが、相当多くが移転してしまう。)
 しかし、それなら、企業は儲けて大喜びのはずだ。しかるに、現実には、企業はデフレのとき、青息吐息である。
 ここで新たなパラドックスが現れる。デフレのとき、企業は労働者から得た利益があるはずなのに、その利益はどこへ消えてしまったのか? 

 答えを言おう。
 その利益は、どこへも消えてしまってはいない。ちゃんと企業に残っている。ただ、企業それ自体が大量の赤字を発生するため、その赤字と相殺してしまって、差し引きで、利益が見えなくなってしまっているのだ。特に、マクロ的に。
 個別の企業で言えば、デフレ時にも、ちゃんと利益を上げることができるものだ。そこそこの賃上げもできるし、また、少な目の賃上げで済んだ成果として、労働者から企業に利益が移転するので、その分の利益増もある。けっこう、利益を上げることができる。しかるに、そうできない企業もたくさん生じる。赤字になったり、倒産したり。また、自社が黒字でも、取引先がつぶれたせいで、債権が不良債権になってしまった分の赤字効果が出る。というわけで、マクロ的に全体を見ると、企業全体は莫大な赤字を発生していることになる。だから、その分で、生産性向上分の利益が相殺されているわけだ。

 社会的な利益喪失

 不況(デフレ)のときは、さまざまな社会的コストが生じる。倒産した企業を償却する社会的な費用などである。こうした社会的コストは、誰かが支払わなくてはならない。「誰か」といっても、特定の個人ではない。国民全体である。個々の企業について言えば、取引先となる企業がコストを払うが、あまりにもあちこちに倒産企業があふれると、結局、関係がごちゃごちゃと錯綜したあげく、国民全体に責任がちらばってしまう。労働者は賃金を上げてもらえないし、預金者は利子を上げてもらえないし、消費者は物価を引き下げてもらえないし、自営業者は値段を十分に上げることができない。また、国が税収を失うとか、国の失業保険出費が増えるとかいう形で、さらに国民全体が損を分かちあう。かくて誰もが少しずつ損する。そうして損を分担しあって、倒産した企業の垂れ流した赤字を分かちあっているのである。
 生産性向上の利益は、こうして「赤字処理」のために消えてしまうわけだ。
 だから、結局、不況のときは、労働者も企業も預金者も自営業者も、誰もかもが、みんな少しずつ損しているのだ。得られるはずの「生産性向上の利益」を得られない、という形で。

 結語

 では、どうすればいいか? 
 諸悪の原因は、赤字企業が倒産して赤字をまきちらすことである。赤字企業自体は、消滅することで赤字の責任から免れるが、そのかわり、まわりの全員が、その赤字を肩代わりすることになる。
 「自己責任」
 というのは、資本主義の原則だが、こと赤字企業に関しては、それは成立しない。黒字が出れば、自分たちで独り占めできるが、赤字が出れば、自分は責任をかぶらずにまわりの人々になすりつけてしまえばいいのだ。それが今の資本主義という体制だ。
 別に、それが正しいとか悪いとかは言わないが、とにかく、そういうシステムになっているのだ。
 だから、このシステムを前提とする限り、あたう限り、赤字倒産というものを避けねばならない。そうしないと、社会全体の効率が非常に下がってしまうのだ。
 だから、より根元的には、「倒産が発生しない」ようなシステムが大事となる。そして、それは、たしかにある。
「物価上昇率を生産性向上と同じにする」
 という中立目標政策(インフレ目標政策)がそうだ。もし中立目標政策が実現していれば、(放漫経営などの特殊事情がない限り、)企業は赤字倒産することはない。赤字を出しそうになったら、賃上げをしなければいいからだ。そうすれば、物価上昇の下では、「賃金据え置き」すなわち「実質賃下げ」となる。すると、労働者は、耐えきれずに、その企業から逃げ出す。かくて、企業は赤字を出さないまま、従業員がいなくなって、自然消滅する。この場合は、赤字倒産ではないので、まわりの人々に迷惑をまきちらすことはない。
 結局、こうだ。

 これらのうち、どちらを選ぶべきかは、自明だろう。
 現在、われわれはそのコストを払っているという意識がないが、実は、「生産性向上によって得られるべき利益を得ていない」という形で、見えないうちに、そのコストを多大に払っているのだ。だからこそ今の生活は好もしくない。
(なお、第3章の最後の「※ 賃下げの必要性」の箇所でも、同様の「どちらを取るか」ということを記述した。)
(ついでだが、「非効率な赤字企業を存続させよ」と言っているのではない。突然の倒産をさせるのでなく、なだらかに退場させよ、と言っているのだ。)

 「物価上昇はいけないことだ」
 という素朴な信念が、経済界や金融界でまかり通っている。しかし、これは、完全な誤りだ。避けるべきことは、物価上昇ではなくて、赤字倒産の大量発生であり、莫大な無駄の発生である。それを避けるには、不況の解消が必要であり、そのためには、物価上昇が必要なのだ。

 「物価上昇はいけないことだ」
 というのは、一種の教条主義である。「なぜいけないか」を考えずに、「とにかくそれがいけないのだ」と思い込む。「物価上昇は大きくても小さくても、とにかく物価上昇はみんな同じだ」という粗雑な考え方のもとに、(わずかな)物価上昇を避けるためでさえあれば、一国経済がどれほど破壊されようと、なおもその同じ道を突き進む。……今の日本は、こういうふうにしている。
 避けるべきは、物価上昇ではなく、一国経済の破壊であり、国民を不幸にすることである。今の日本の方針のままでは、国土はすっかり荒廃し、そのあとには、「物価安定」という立派な石碑がひとつ建つだけだろう。




 《 余談 》 「構造改革」という言葉の出典

 小泉は「構造改革」と唱える。そこで、疑問が湧くだろう。
「どうやってこの言葉を思いついたのだろう? どこかからの、請け売りだろうか?」
 私もそう思ったのだが、このほど、先例をうまく見出した。
 本宮ひろし「俺の空・三四郎編(第8巻)」(集英社)
 という漫画である。ここに、小泉そっくりな、画期的な首相が登場する。公共事業依存などの古い国家体質を改善するために、「構造大改革」を唱え、選挙で「史上最高の支持率」を獲得する。
 「構造改革」と「構造改革」という1字の差はあるが、まったくそっくり。もしかしたら、小泉は、この漫画を真似したのだろうか?
 ただし、である。漫画と小泉では、大きな違いがある。それは、景気回復策だ。漫画の首相は、景気回復が緊急の課題だと主張する。そして、国民の反発を恐れずに、「インフレ政策」「赤字国債の発行」「大減税」を実施する。こうして景気回復策を断行する。
 しかるに、現実の小泉の方は、インフレが怖くて、びびっており、景気回復に対しては無策である。景気回復策を取るどころか、「財政再建」という景気悪化策を取る。
 どうも、現実の小泉は、漫画の首相に比べて、はるかに小心者で、かつ、経済音痴であるようだ。漫画の首相には追いつけないのだ。
 どうせなら、もっと漫画の真似をすればいいのに。……



 《 勧告 》
 では、結局、どうするべきか? 特に、総理としては。
 経済的になすべきことは、すでに詳しく説明してきたとおりだ。すなわち、「中立目標政策」(インフレ目標政策)と「中和政策」を、ともに実行すればよい。 (どちらか一方が欠けてもいけない。特に、後者が欠けると、「ミニインフレ政策」になりがちで、問題だ。)
 政治的にはどうするべきか? それを簡単に言えば、次のようになる。

 (1) 選択肢の表明
 われわれの前には、二つの選択肢がある。すなわち、

  • 物価上昇率が 0% で、実質成長率も 0%。つまり、不況の継続。
  • 物価上昇率が 2.5% で、実質成長率も 2.5%。つまり、景気回復。

 前者は、世界のうちで、日本だけの現状である。
 後者は、世界中の多くの国の現状である。
 この二つのうちから、どちらか一方を選択しなくてはならない。そのことを表明し、どちらを選択するかを、国民に問うべきだ。

 (2) 実現の公約
 第一に、国民が前者を望んだ場合。
 つまり、「現在の不況の継続」(物価上昇率が 0% で、実質成長率も 0%)を望んだ場合だ。この場合は、日銀の方針をそのまま続ければいいだろう。そうすれば、不況は継続する。デフレスパイラルになる可能性もあるし、さらに、「大恐慌」になって失業者だらけになる可能性もある。そういうのを望むのであれば、現在のままでよい。
 第二に、国民が後者を望んだ場合。
 つまり、「景気回復」(物価上昇率が 2.5% で、実質成長率も 2.5%)を望んだ場合だ。この場合は、「半年以内に劇的な景気回復が実現すること」を、総理として公約するべきだ。そう公約することで、いっそう景気回復は進むからだ。総理たるもの、そのくらいの気概は持つべきだ。「構造改革」とか何とか、そんなことは緊急の課題ではない。それより、「半年以内の景気回復」を、はっきりと公約するべきだ。なぜなら、「中立目標政策」(インフレ目標政策)と「中和政策」を実行すれば、そのことは可能なのだから。 (公約が実現する可能性は 100%である。理由は無限大の金を見せ金に使うから。 → 効果の確実性
 ただし、である。「中和政策」を実行するには、立法府の協力が必要だ。(財源などの問題。)そこで、このことを、立法府に求めるべきだ。もちろん、立法府は、素直に賛成しないかもしれない。特に野党は、反対に回りそうだ。それならそれで、別に構わない。野党が「景気回復」の抵抗勢力になるだけだ。ただちに衆院を解散するとよい。小泉は「半年以内の景気回復」を掲げる。野党は「反対」を掲げる。このまま選挙をすれば、まず、野党は壊滅状態になる。かくて、新議会で、立法府の協力は簡単に得られる。 (国民の信を問う、というのは、民主的な方法なので、好ましい。)

( ※ なお、上の (1) では、二つの選択肢を上げた。この選択肢は、現実の状況である。だから、この二つ以外の選択肢はありえない。一方、日銀は、「物価上昇率が 0% で、実質成長率 2.5%」というのをめざしているらしい。なるほど、こんな状態があれば、夢のようにすばらしいが、そんな夢のような状態は、現実にはありえないのだ。ありえない状態をめざして、結果的に不況を招いてきたのが、今の日銀だ。)
〔 → 先の 補足 を参照。すべては日銀の経済学的な無知によると証明してある。〕


[第3章(後)、終] 


「小泉の波立ち」
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