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フンちゃんホームページへようこそ
「フンちゃん」ホームページへよくいらっしゃいました。元は研究室のサーバにこっそりと隠してありました。自分のパソコンのハードディスクがいっぱいになったので、随筆集の原稿置場代わりにサーバを使っていたのです。ところがサーチエンジンが見つけ出して勝手にオープンにしてしまい、結構反響が出てきました。そこでやむなくこちらJustNet(2002年からso-netに吸収合併)に引っ越したという次第です。公私混同は公務員の服務規律違反ですから。官官接待のお役人様に見習って欲しいこの態度、立派ですねェ。
以下の文章は原文の「である」調のままです。不統一ですみません。この色の部分は後からの追加です。
<追記>
2004年3月31日国立大学消滅の日、フンちゃんも同時に退官しました。翌日から国立大学は非公務員型の国立大学法人、今度からは退官と言わず退職というのでしょう。同僚からは逃げ切り組とうらやましがられました。退官後は上京して、「地質情報整備・活用機構(GUPI)」というNPO法人の専務理事になります。どうぞよろしく。なお、連絡先のアドレスはもう使えませんが、昔のままにしておきます。ホームページにアドレスを公表すると、迷惑メールやウイルスメールが毎日どっさり来るからです。このホームページを立ち上げた当時、インターネットは研究者同士の連絡に使われていた性善説の時代でしたから、連絡先明記は当然のルールだったのです。<address>というタグもそのためにありました。古き良き時代でした。
<追記2>
2008年7月31日、NPOの会長職のまま、鹿児島に帰りました。財政的に立ちゆかなくなったのが主因です。しかし、地質地盤情報(ボーリングデータ)の全面無償公開も一応実現しましたし、ユネスコの提唱するジオパークを日本でも作る運動も軌道に乗りましたので、産婆役は果たしたと満足しています。何よりもストレスの多い東京単身赴任生活から解放されてホッとしています。
<追記3>
2009年6月NPOの会長も情報地質学会の会長も任期満了しました。ヤレヤレ、ホッ。もっとも霧島ジオパーク連絡協議会の顧問にはさせられましたが。ところが、鹿児島に帰ったのが伝わったらしく、内閣府中央防災会議から桜島大正噴火のまとめをする主査を頼まれてしまいました。大正噴火100周年も近づいたので、風化しないうちに教訓を後世に継承しようというのが目的とのこと。しかし、当時の桜島役場は溶岩の下に埋まっていますし、対岸の鹿児島は第二次大戦時の空襲で焼け野原になりましたから、一次資料がほとんど残っていません。前途多難です。
街には住めない山男(「娘さん惚れるなよ」とはけしからん歌があったものだ)。姓は岩松、名は暉(あきら)。中肉中背メガネをかけ、髪はロマンスグレー(懐かしい言葉だねェ)。髪の色や頭の反射率で年代測定をしてはいけない。まだ還暦まで間がある(注1)。最近ややお腹が出てきた。背広より作業服のほうがぴったりする(作業服は地質屋の制服)。頸が短いため(鼻の下は長い?)、ネクタイ嫌い。左の写真はパスポート用。やっぱり似合わないなあ。もっとも本人は「犬じゃあるまいし、首輪などできるか」とのたもうている。
<注1> 強がりを言ったものの、当時と違って今では半身不随。上半身がダメである。足腰だけは達者だけれど、頭も悪いし(この頃物忘れがひどい)、顔も口も悪い。おまけに心臓までいたって弱い(とくに奥さんの前では)。ただし、胃腸は丈夫で、腹も黒くない。
<追記> 1998年は寅年、この元日でついに還暦を迎えた。それにしてもこの張り子の虎、情けない顔をしているなあ。これは博多張り子、今年の年賀切手のモデルになった由。
<追記2> 2008年になった。10年経ったのだから、当然のことながら古稀である。前期高齢者は、車に紅葉マークを付ける「努力」義務があるのだそうな。
小学校は台湾で入学し、札幌で卒業した。各地を転々とした宿なし。中学はかの有名な新潟は西山町(当時は合併前で二田村といった)である。すぐ「よっしゃ、よっしゃ」と安請け合いし、自ら忙しくするのは田中角栄先輩に似ているのかも知れない。ナニ?「決断と実行」も似ているって?
現在の公式な肩書きは鹿児島大学教授理学部(理学部教授ではないのだそうだ)である。全国で唯一人の応用地質学の教授だと威張っている。何のことはないレッドデータブックに載る絶滅危険種(注2)、朱鷺のフンちゃんである。
<注2> 1997年4月、鹿大理学部の縮小に伴い、応用地質学講座も廃止された。ついに朱鷺のキンちゃん同様、フンちゃんも絶滅。南無阿弥陀仏、アーメン。ただ今再就職先を探しています。どこかの会社で今と同じ程度の給料をくださるところはありませんか。

左:桂川渡渉中の片山先生、右:石くれ会(拍手しているのが木村先生)
今は昔、昭和30年代のこと、東大駒場に片山ゼミという型破りのゼミがあった。毎週日曜関東山地に行くと優をくれる。本来の目的は上野原の河原をじゃぶじゃぶ歩いて地質を調べることだったのだが、楽しいハイキングのようなものだった。マンモス大学の無味乾燥な講義に飽き足らなかった学生にとって、極めて新鮮に映った。学問のことは何だかよくわからなかったが、ごま塩のおじさんが眼の色を輝かせて観察しているのが強く印象に残った。お弁当の時間に先生が持ってこられる冷たい紅茶をいただくのも楽しみの一つだった。缶ドリンクなどない時代である。親元離れた寮生にはことさら甘く感じた。先生の眼の輝きとこの紅茶の味が私を地質学科に進学させたのかも知れない。最初は医者(イシャ)になるつもりだったのだが、地学教室の暖かな雰囲気(石くれ会という地学ゼミ取得者の集まりまであってOBもやってきて大コンパをやっていた)のおかげで石屋(イシヤ)になってしまった。
この片山信夫教授は国のウラントリウム鉱物研究委員会の委員長をしておられ、ある時私にウラン調査のアルバイトを紹介してくださった。私の名前を先方に伝えるのに、「名字は岩松、名前は難しい字でね、褌という字に似ているんだけど…」と大声で電話しておられる。お茶飲みに集まる地学教室の事務室だから、聞いていたみんなが大喜び。その中の木村敏雄という悪い助教授が、「フンちゃん、フンちゃん」と呼ぶようになった。ところが、不運にもその悪い助教授が後に本郷の教授になったため、連綿と後輩達に伝わる羽目になってしまったのである。今でも公用封筒の宛名に書いてよこし、還暦には赤いチャンチャンコの代わりに赤フンを贈ろうと楽しみにしている悪い後輩連がいる。
<後輩に告ぐ> 満60歳の誕生日が還暦だと誤解しているらしいが、これは誤り。本卦還(ほんけがえり)を還暦というのであって、1998年元旦で還暦は終わったのである。もはや悪巧みは不成功に終わった。あきらめなさい。
<追記> 後輩たちの悪巧みは鎮圧したが、教え子から還暦祝いをされてしまった。学会のときに集まってくれたのである。この不意打ちには感激した。誠に教師冥利に尽きる。
理学部に木村教授と一緒に進学し、木村先生が新設された構造地質学講座の最初で唯一人の学生となった。「露頭こそ情報の宝庫である、物言わぬ石にどれだけ多く語らせるかがその人の力量だ」と、露頭観察を徹底的に仕込まれた。以来、大学院博士課程まで純アデミックな褶曲の研究をしていた。当時、講座には助手の方がすでに3人おられてポストがふさがっており博士失業確実だった。偶然その頃新潟地震があって新潟大学に地盤災害研究施設が付いたため、故西田彰一教授に拾っていただいて、地すべり部門の助手になった。
新潟は油田褶曲の本場である。アカデミズム捨て難く、やはり構造地質の研究に従事していたが、地盤研で月給をもらっている手前、副業的に「岩石物性と地すべり」といった褶曲と地すべりとの関係を論じた論文を書いた。災害科学に関してはまだ及び腰だったのである。
この論文を読んで応用地質の専門家と誤解されたのか、鹿児島大学の故露木利貞教授が応用地質学講座の助教授として招いてくださった。鹿児島に赴任した直後、大規模なシラス災害があり、鹿大生4人が犠牲になった。写真は形見の目覚まし時計である。災害発生時刻の午前6時32分で止まっている。冷たい泥の中で窒息死した学生、どんなにか苦しかったことだろう。自分のところの学生が死ぬということは大変なショックである。この災害を機に人生観が変わり、災害科学に本気で取り組むことになった。
現在の職業は何かと聞かれると、「旅芸人」と答えることにしている。何しろ地質学とくに応用地質学がピンチの状況にあるため、請われればどこにでも出かけて行って、応用地質学の宣伝マンよろしくしゃべりまくっている。最近は毎年平均2大学くらい集中講義にお邪魔しているし、各種の講演会もある。今年(1996年)やった普及講演は次の通り(1997年,1998年,1999年,2000年,2001年,2002年,2003年,2004年,2005年,2006年,2007年,2008年,2009年は別項)。
○ 3月…東京大学総合研究資料館公開講座
○ 6月…熊本大学大学院自然科学研究科特別セミナー
○ 6月…建設省川内川工事事務所水防講演会
○ 8月…日本応用地質学会九州支部講習会
○11月…第33回自然災害科学総合シンポジウム
相変わらず出張が多く留守がちで(1996年は延べ121日、うち国内101日、海外20日)、スタッフや学生達に迷惑ばかりかけている。大学の評議員と違って管理職手当の付かない学会評議員や国・公団・県などの各種委員会委員をいっぱいやらされているからである(注3)。集中講義は少し減らして、今年度は秋田大と東大と2大学にした。ところが応用地質学会九州支部長になったため、開会の辞(痔ではない!)をやりに福岡に行くことが多くなってしまった。本来、地質屋は山男、「街には住めないからに」と歌にもあるのに、都会への出張ばかりでいささかうんざりしている。これでは研究者ではなく学界行政官、何とか整理したいと考えているが、どうも使われやすい体質なのか、困っている。たまに学生のフィールドに出かけるのが唯一の楽しみである。
近年、地質学教育は大変厳しい状況にある。旧制大学は地球惑星科学のほうへシフトし、新制大学は組織改革で地学関係学科を廃止するところが出てきたからである。一方、世の中は地球環境時代、社会資本の充実と環境問題の解決が求められている。今こそ地質屋の出番だというのに、後継者が育っていないのはゆゆしい事態である。そこで、民間企業にいる若手地質屋さんを育てる研修センターを作ろうと全地連(全国地質調査業協会連合会)や建コン協(建設コンサルタント協会)など業界団体に働きかけているところである。そのための出張も増えてきた。
<注3> 2004年4月現在現職
日本応用地質学会評議員九州支部顧問・日本情報地質学会評議員・日本自然災害学会評議員・東京地学協会評議員・地盤工学会九州支部評議員・文部科学省防災科学技術研究所研究課題外部評価委員会委員・日本学術振興会審査委員・新エネルギー産業技術総合開発機構技術委員・経済産業省中小企業知的基盤整備事業事前審査委員・国土交通省道路防災ドクター・データベース振興センター電子地質図研究開発委員会委員・(NPO法人)防災情報機構参与・日本防災学院教授・(財)環境地質科学研究所評議員・鹿児島県土地利用審査会副会長・鹿児島県文化財保護審議会委員・鹿児島県土砂災害防止法技術検討委員会委員・(社)鹿児島県地質調査業協会理事・(株)建設技術研究所顧問など
「自分の足で歩いて自分の眼で観察し、自分の頭で考え自分の言葉でしゃべる」
「21世紀は地球時代、歩ける地質屋の養成を!」
趣味:山歩き・読書(乱読多読、絵本なども好き)・パソコンプログラミング
酒 :遺伝的に甘党。駒場入学から博士修了まで、酒豪の木村敏雄先生に一番長く教わったが、結局上達せず、一番小さな100円缶ビールで酔っぱらう。
歌 :生来の音痴。決してカラオケには誘わないこと。
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連絡先:iwamatsu@sci.kagoshima-u.ac.jp
更新日:2009年3月21日(初版1995年5月10日)