NYテロとの遭遇録(フォーク・ロックこじつけ編)

2001年12月

 戦争の20世紀を経て、21世紀の幕開けの年、「新しい戦争」が勃発した。生物兵器を含むテロの恐怖に、いつどこで見舞われないとも限らない。「何もかもが皆な一瞬の内に失われてしまう世界にいる」(by金森)気分の毎日である。私Tは「歴史が変わった」と言われるあの日、あの時、偶々出張であの場所にいた。あれから、約3ヶ月、炭疽菌事件や狂牛病騒動を含め、「世界がどうなるのか」無関心ではいられる人は少なかろう。

ところで、我が愛するフォークシンガー達は、どうしているのだろう。「戦争でもなけりゃあ 儲からぬ~ それでもオイラ~フォークシンガー」(フォークマンブラザーズ;ベスト選参照)と自嘲気味に唄っていた訳だが、「今こそ立ち上がる」という感じでもない(豊田勇造からはNO WAR!の詞を書いた葉書が来たが、ジャニーズや小室ファミリーに負けるぞ)。駅前で反戦フォークを歌うストリートシンガーの姿もない。

そこで、という脈略もないが、フォーク・ロックにまつわる旅行中のエピソードも含め、若干の記録を特別に寄稿してみる。本コーナーの趣旨に今一フィットしないかもしれないが、こんな奇遇も滅多にないのでご容赦願いたい。

<序>

・以後の出来事は、行きの機内(9月9日成田発NY行きJAL006便)で聴いていた、金森幸介の「箱舟は去って」のオープニングナンバー「何処へ」が暗示していた。

―― 本作は'74年に発売され、一部関西方面のマニアに名作と評されるも、直ちに廃盤。本人の意向を無視して最近27年ぶりのCD化。ついに私と出遭ったし、はまたにさんもお気に入りである(T=はまたにさん本人と誤認している向きは、この機会に両者は別人であることを了知されたい)。

真っ直ぐ 歩こうとするほど この道は曲がってゆくようです

急いで 駆け抜けようとするほどに この道は まるで 迷路の如く・・

 

1.9月9日~10日 ―― 序章

 出発の日。息子が「テロとかの爆弾で死ぬなよ」と言ったので、「もう会えないかも知れないな。死んだら適当に土に還るから、引取りに来なくて良い」と即答した(嘘のようだが本当の話である)。

(1) 最初のトラブル(髭剃り・ぼられ編)

 NYに到着。ホテルにチェックインし、「さあ最初のミーティングだ。髭でもそっとくか」と思ったら、なんと耳書きや爪切りはあるのに髭剃りが消えた。今回の出張に当たってはかなり入念な持ち物チェックを経てきたはずであったが、珍しく刃を掃除した際に元の場所に戻してしまっていた(あー、なんというドジ・マヌケ)。
 その時私は、ホテルのある「タイムズスクエア」というのは銀座だと思っていた(その後、銀座に徒歩圏の新宿+浅草+秋葉原であることを知る)。安全かみそりでもと思い、フロントに電話し持ってきてもらった(このとき最初のチップを払う)。一応剃ってみる(初体験)。剃れた。しかし、この先あごから流血して人に会うことは恥ずかし過ぎる。これはやはり買うしかない。
 着いたその日に、疲れの中、いきなり(銀座で)髭剃りを買うという試練に直面した私は、取りあえず外に出てみた。なんと、ホテルの周りは「COMPYUTA.VIDEO」という名の、怪しげな土産物店兼電器屋だらけ。幾つか覗いたがいかにも無国籍風な店員ばかり。高いやつは265ドルもする。こんなことに金をかけたくない。私は「2週間使い捨てタイプ?」を探しているのだ。ある店でついに店員につかまった。一応紳士っぽい。サンヨーとブラウンの旅行タイプが49ドル。店員が「ブラウンがお勧めに決まってるよ」(ここはホノルルではないので、一応英語)。思わず「俺は日本人だよ。如何にもそう見えるだろうに」と言おうかと思ったが、この時点ではまだ余裕がなかった。
 しかし49ドルの妥当性は分からない。値切り交渉するつもりはなく、「じゃ他の店も見てみるわ」と言ったら次の瞬間妥結した「エーイ39ドルだ。持ってけ兄ちゃん」「I'll take it」。いきなり得したぞっと思ってホテルに帰ったら、ホテル1階の店で19ドルのSALEだった(トホホのホ)。
 さあ、髭も剃れたがどっと疲れが。同僚に教わった「デリ」(コンビニ)で、弁当でも買って食うか。しかしここはNYだ。妻の冷笑が目に見えた「あなたNYに行ってまで、そんなしけたことしてんの?」。結局近くの「サッポロ」で塩野菜ラーメンを食べた(あまり変わらんか・・・)。

(2) 第2のトラブル(インターネット接続苦闘編)

 さて、一応インターネットにつないで見るか。そもそも今回の出張にPCを持参するかも迷ったが、記録もあるし、そもそも訪問先の情報はWEBで見るが早いに決まっている。職場では「設定はしてあるので、このまま繋がります」と言われた。疑り深い性格なので、念の為IDとPWの書いた紙もコピーをもらった(これが役立つ時が来る)。
 接続を試みる。電話回線が使用中です?。何度もチャレンジ。ダメ。そもそも95年頃だったか仕事上の必要に迫られてニフティに繋いで以来、長い?ネット人生、すぐに繋がった試しはない。まあ、こんなものさ。余裕の笑みがこぼれる。かれこれ、50回くらい。
 物理的な電話回線の接続口を変えてみる。60回は試行錯誤しただろうか。いずれもダメ。さすがに泣きたくなってきた「すぐ繋がるはずじゃあないのかよお・・」。神は何故NY到着初日に2つめの試練を与え給うのか。結局深夜私がダウンした。「おいまさかこれ全部課金されてたらたまらんぜ」と新たな悩みを抱えつつ・・(つづく)。

(3) ハーレム突入未遂編

 さあ、2日目(9/10日)の朝である。早く起きて敬愛する岡林信康先生も歌にした(廃盤後久しく幻の「グラフィティ」より、フォークの話題が出るまで長くて恐縮)セントラルパークを歩こうと心に決めていた。6時頃にはスタートと思い、起きた。なんと真っ暗。結局7時半まで待たされた(サマータイムも一因)。スタートだ。短パンにTシャツと行きたかったが、いきなり怪しまれても困る。一応スラックスにポロシャツを着た(結局大汗書いた)。MDウォークマンによるBGMはボブ・ディラン「LIVE1961~2000」。
 確かに広い。でも思ったより汚い感も拭えない。どんどん進んだ。行けども池がない。もっと進んでやっとボートハウスを見つけた。それにしても、一切の案内図がないではないか!。目指すはジョン・レノンだ。メモリアル(記念碑)を探す。方向感覚は自信がある。しかし、行けどもない。仕方ないから、掃除している人に聞いてやっとその辺りにたどり着いたが、やっぱりない!!行きつ戻りつ、ついにベンチに寝ている人に勇気を持って尋ねようと思ったその時、気がついたら足許に踏みしめていた。バラの花が3本手向けられていた(黙祷。もっと早くあなたに出会いたかった)。暗殺場所ダコタハウス前で再度黙祷(最近「ジョンの魂」が沁みてきます)。よし、後は帰るだけだ。ブロードウェイに出れば良い。
 再度公園内を突っ切って通りに出た。ぐんぐん加速する。行けども公園沿いが終わらない。どうも周りの様子も下品になってきて、変だ。実は東西を90度間違って北上していた。あのままなら、確実にハーレム圏内に突入していた。いきなり最初のヒアリングに遅刻しようものなら、歴史に名が刻まれよう。帰りは高橋尚子並み(と自覚)の速さで走った(そりゃ大汗かくわ)。
 最初のヒアリングが終わった。さすがものの本で読んだとおり、こちらの人は質問が途切れたり予定時間が来るとあっさり打ち切りとなる(日本の会議のようにだらだらと遅れることは有り得ない)。
 昼を抜けば2時間ある。MoMA(近代美術館)なら行けそうだ。かみさんは「ティファニーを買ってこないと離婚だからね」と言っていたが、芸術は妻に優って素晴らしい(当たり前か)。最近Myフェバリットの金森幸助が「素晴らしい絵を描く人たちがいる」と歌ったゴッホも、私の好きなモネもあるではないか。再び走った。入館。いきなりゴッホ。モネ、ピカソのテンコ盛り。いずれもどこかで見て知っているぞ(所詮私のフォーク・ロック分野以外の素養はその程度です)。写真を撮りたいな。ガイドブックで確か撮って良いと書いてあったはずだが、誰もカメラすら持っていないではないか。警備員も多いがここで掴まるわけには行かない。アルバム(写真)整理が趣味で授業参観だろうが盗み撮ることに慣れている私は、密かにポケットからカメラを取り出し、0.3秒。腰位置で1枚モネの睡蓮を撮った。
 さらにモンローも。しかし納得が行かない。思いきって黒人大男の警備員を見上げて聞いた「May I take…」「Of Course.Sure」なあんだ。撮って良いんじゃないか。‘激写‘した。MoMAは予想したより遥かに小さい。おまけに建て替えと上野出張で規模が縮小されている。2回りして、絵葉書を買っても30分しか経っていなかった。

 さて、ティファニーに行くべきなのだろうか。「行くべきか行かざるべきか…」。やはり妻は怖かった。再び走った。入店。うー。如何にもブランドもの嫌いの私の来たくないところだ。
 1階はどうも高そうだ。5階に上る。警備員?に妻の希望品の所在を聞く。あそこだ。なるほどこれか。「Excuse Me・・」無視されること×3回。うーん噂には聞いていたが、さすがアメリカの店員は客を客と思わない(客数との需給が明らかに不均衡)。だから外人は嫌いなんだ。どうせおのぼりさん日本人をバカに仕切っているに違いない。もう出ようか。また明日の昼休みにでも来られるだろう。それでも踏み止まって漸く店員を確保。「こういうの」と聞いてみると何種類もあるじゃないか。
 一体どれなんだ。ここで間違えたら何言われるか分かったものじゃない。買った挙句に離婚になったら目も当てられない。迅速な判断力が求められた。多分Aだな。その時私のポケットから出掛けにかみさんが手帳の切れ端に殴り書いた「絵」が出てきた(結構用意が良い)。「これってAだろ?」店員「この絵はBに決まっています」。絶句。つくづく、ブランドものは分からない。いつも妻に言われている言葉を思い出した。
「あなたの場合はね。迷ったときは必ず逆を選んだほうが正解みたいよ」

 ―― なんと、結局のところ今回も間違えていたらしい(トホホ・・のホホ)。

 自分にも何か買いたい。週末に行くデンバーは寒いらしい。GAPのブルゾンを買った(そんなもの日本にもあるし、「また安物を」と妻に馬鹿にされるだろうが、どうせ私はダイエーで育ち西友で生きている庶民派です)。
ホテルに帰ろうとしたら、メトロポリタン美術館のショップがあった。明日行けるかもしれないけど、ちょっと時間が厳しそう。ギフトをいくつか買った(ここでの買物は、後に大変貴重なものとなるが、知る由もない)。ここでも店員がなかなか相手にしてくれない。うー、遅刻しそう。また疾走。今日はハーフマラソンくらいは走ったかもしれない。しかも背広姿。

(4) やっとワールドトレードセンター(以下WTC)へ

 午後のヒアリング先は金融街近くにあったが、早く着きすぎた。地図を見ると北にオルタナティブ美術館、南に(後に問題となる)WTCが近い。美術館はさすがに無理だわ、WTCに行こう。入った。展望台に上ろうか。そのときガイドブックに「エレベータが込むから時間に余裕をもって」と書いてあったのを思い出した。まあ、いいか。こんなビルは山ほどある。辺りの教会を適当に散策してから、ヒアリングに臨んだ。このとき撮った写真が翌朝には、「在りし日のWTCになる」とは、この時知る由もなかった。
 ホテルに帰り、再度インターネット接続を試みるが失敗。この時点で、「NYがダメならワシントンDCがあるさ」と観念する。夜はブロードウェイミュージカルを見る。プレシアターディナーなるものを食べようとイタリアンレストランに向かったその時、一転にわかに掻き曇りものすごい豪雨。一瞬にしてほぼずぶぬれになったが、幸い劇場には屋根がある。「レント」というロックミュージカルを観た。「オペラ座の怪人」「ライオンキング」とかも興味があったが、ロックが聴いてみたかった(フォーク・ロックから発祥したウッドストック、ウェストコースト系が好きで、ブルース・スプリングスティーンも良い)。私は満足した。雨上がりのネオン輝くタイムズスクエアは、まさに映画やCMでみたそれ、「世界の交差点」だった。
 今宵くらい心地よく寝ようと思ったが、念の為、最後の勝負(インターネット接続)に出る。なんと30回目くらいで成功。振り返って原因は3つ。

1.ホテルの電話機ジャックは壊れていた(壁から直接接続に物理的変更)。
2.職場で設定してくれたユーザーIDとパスワードの組み合わせは、ほんの1桁「9と7」が間違っていた(システムの世界では、1桁に泣くことが多い)。
3.プロバイダのアクセスポイントの電話番号が大幅に入れ替わっていた。

 接続に成功したときには朝が近かった。時差ぼけもあって、セントラルパークを走ったこと、MoMAやティファニーに行ったのがいつの日のことか良く分からなくなっていた。24+13時間もあった初日以上に長く感じる1日であった。しかし、その翌日は更に長いことは予見不可能。しかも、ここでインターネットと言う強力な武器を手にしたことは、極めて有意義なことであった。

2.9月11日・・運命の日(IT'S WAR)

 朝、8時50分ホテルを出発し南に向かった(ほぼ同時刻1機目が突っ込んでいた)。9時頃誰かが、「火事かな」と言った。大きな煙が見えた。「こりゃかなり大きい」。でも歩道を歩いている人は全く平然と歩を進めている。「さすが個人主義国アメリカには野次馬が居ないんだ」とか感心した(まだ気付いていなかった)。
 あくまで平和な1日のように、交通規制もなければ消防車のサイレンも聞こえないまま、どんどん近づき、ヒアリング先に着いた(ソーホーの南、WTCまで1K強くらいか)。またも早く着きすぎたので時間まで南(煙の方向)に歩いた。かなり近づいて見、写真も撮った。こりゃひどいことになったとは理解できたが、この時点でもなお、あれが‘なくなる‘とは思わなかった。
 実は当初予定の訪問先はWTC内にあった。出発直前に先方の都合で差し換わった経緯がある。もし私の希望通りになっていたら、私は確実に、生きていない。
 ヒアリングは予定通り始まり、途中で悲鳴(歓声に聞こえた)が上がったので窓の外を見たら2棟目が崩れていた。うーん。今にしてみると理解できないかもしれないが、それでもヒアリングは予定通り昼まで続いた。
 昼時点でビルの形はなかったが、雲仙火砕流を連想させる粉塵は益々大きくなっていた。今度は北へ向かった。この時点でも人々は冷静で、何の交通規制もなかった。たまにパトカー等が走っていく程度。
 結果的には、私の移動を追うように交通規制やビルの閉鎖、強制退去が進んでいた。まずブライアント公園。「のどかだなあ」と思ったその時、警官が多数来て「閉鎖するから出てくれ」。なんで公園が閉鎖されるの?分からないまま、NY市立図書館へ。クローズド。グランドセントラル駅へ。入れて美しさに感銘を受けたが、出ようと思ったら閉鎖(危うく閉じ込められるところ)。仕方がない。ホテル近くのバージンメガストアで、今日発売のボブ・ディランのニューアルバム「LOVE AND THEFT」を買おう。・・なんと閉鎖。近くのセキュリティに聞く。「何でCD屋までが閉鎖なの」「俺も分からんが、とにかくWTCだよ」。
 ホテルに着き、インターネットを接続し(昨日繋いどいて良かった!)無事の旨、家と職場に一報。この時点でデジカメ写真を送っておけば、スクープ価値があったかもしれないが、さすがにそこまで頭は回らなかった。
 午後のヒアリング先は、ビル毎閉鎖され、誰も居なかった。時間が空いたので、できるだけ事件の日のNYを歩いてみることに。交通規制の南限まで進み、エンパイアステートビルの真下から空を見上げて写真を撮った。ビル周辺は警官も多く、そんなことをしているのは、私だけだった(あの時、もし3機目が突っ込んできたら、・・)。
 5番街を北上する。殆どのところは閉まっている。ティファニーもディズニーもヤンキースもナイキもGAPも(昨日が最後の買物チャンスだった訳)。セントラルパークまで北上し、プラザホテルに入ろうとしたら、セキュリティチェックに引っかかった(ルームキーが必要)。今度は7番街を南下してホテルに戻った。
 まだ、時間が余っている。メトロポリタン美術館も閉まったらしい。JCBプラザに電話した。「どこか開いているところはないかなあ」「何言ってるんですか。それより早く食料を確保してください」。
 絵葉書を買いに行った。昼に見たWTCドアップ版は売り切れていた。さすがと言うか、同じことを考える奴がいるらしい。シーフード料理を食べた。店ではアメリカ人も歓談していて、TV(CNN等)で見る光景と同じ島にいるとは思えなかった(当地は概ね平静と印象)。ホテルのTVは衝撃の映像を繰り返し、睡眠薬を飲んだが、いろいろ思い出して結局寝られないまま朝が来た。

3.NYからの脱出――ワシントンDCへの道

出発の朝。来るはずの車は来ていない。「マンハッタンを一度出ると交通帰省で戻って来られない」「ガレージは全て島外にある」がキーワードだった。
 マジソンスクエアガーデン下の駅まで歩くしかなかった。肩から斜交いに2つのバックをかけ、スーツケースを押して通りに出た。確かに車は殆どなく、まるで戒厳令下の街を行く日本難民の姿である。今頃、置かれた厳しい状況に気付き、正直怖かった。地下鉄が同駅までのみ動き出したらしい。もぐってみることに。地下鉄への階段は難関だった。改札では、スーツケースを先にくぐらせ、向こう側へ蹴り出す。そしてトークンを入れ自分が入る。電車は込んでいた。皆も逃げ出したいのだろう。駅に着いた。乗換えがまたすごい。
 なんと、幸い列車は直前に動き出していた。しかし、切符を求める人ほかでごった返している。こんな状況で、日本人は乗せてもらえるのだろうか?「俺は切符を持っているんだ」と叫びながら、突っ切って進んだ。多くの外人の間を掻い潜り置き去りにしながら、待合室に入ることに成功した。
 列車は動き出した。サウナに入ったあとのように汗でぐじょぐじょ、のどはからからだったが、とにかく、どっと安心した。これでNYは脱出できそうだ。しかし、デンバーへは行けるのだろうか。早くも先のことを考えていたら眠れなかった。
 定刻ワシントン着。「パスポートを絶対見られる。荷物検査も激しいだろう」と覚悟していたが、嘘のようにあっさり(何もなく)外へ出た。まるで、ホノルルの陽気だ。ホワイトハウス、ワシントン記念塔などを含め、一通り見た。ホワイトハウス前で警備員に「内部見学は当分無理だよね」と聞いたら「明日から開く」という。アンビリーバブル。ワシントンは平和だ。その印象は、ホテルに着いて、プールではしゃぐビキニギャルと子供を見た時決定的なものとなった。

4.ワシントンでの悩み ―― カナダへの長い旅

 ワシントンではヒアリングの合間を縫って、国立美術館で、セザンヌやモネを堪能した。危険地帯だが、その美しさ、数の多さ、何の囲いもない自然な見せ方。生涯あんなに素晴らしい美術品群に囲まれた経験は無い。感動的な目の保養になった
 平和だと思ったワシントンでは、着々と戦争への準備が進んでいた。追悼ミサが行われ、人々(家や車)は皆星条旗をかざし始めた。アメリカ国民の怒りが、静かに染み出していた。いろいろ悩んだが、結局「ワシントンも危険」との判断から、飛行機を使わず国外へ脱出することにした。
 バスで、カナダへ。約14時間の国境越えの旅を経験した。丁度カナダとの国境そのものが、ナイアガラの滝の上にかかったレインボウブリッジの真中にある(私は今回初知り)。無事スムーズに通過できたこともあり、暫時休憩して、思いがけず大自然の驚異に感嘆。絵葉書のような虹がかかっていた。水滴が輝く中、一生の記念になりそうな美しい写真を撮った。

5.トロント暮らし

 トロントは美しく、確かに「世界で最も住み易い街」(フォーチュン誌)だった。飛行機が飛ぶまでの5日間、市内や周辺の町、村をほっつき歩いて、現地のいろんな人と話した。アルゴンキン州立公園でムース(ヘラジカ)と出会い、ホテル内プールのジャグジーで片っ端から裸の付き合い兼英会話教室を開いた。つかみは、「I was their. in NY,WTC,terroatack.I encountered・・」で万全だった。
 気のせいか、英語で会話が続くようになっていた。何、半分わからなくったって、話は出来るのである(ビジネスが成り立つとは言わない)。そもそも多民族が例外的に仲良く暮らすこの街では、皆、NYテロから逃げてきたと言う日本人に優しかった。
 NYで買い損なったCDを買おうと街に出た。タワーレコードを目指す途中、路上ミュージシャンが準備していた。「ガンジャマウンテンの天辺で死んじゃった」(by加川良)レゲエの神様ボブ・マレー似である。思い切って「写真を撮ってよいか」聞いた。「お金くれるの」「もちろん」。緊張し慌てていたが、後で、歌をちゃんと聴いてあげてからお金をあげればよかったと後悔した。
 タワーレコードは異様なムードだった。買い物カゴ下げて大量に買っている人も多い。ボブ・ディランがまるで見つからないので、店の人に聞いたら「1枚もない」「何だって?カナダじゃマイナーなの」。実は店じまいバーゲンセールの最終日に近かった。何とか「ランブリング・ジャック・エリオットのTHE LONG RIDE」を半額でゲットした。
 しかし、ディランの新作を何とかと思いHMVへ(新宿と変わらんような気もするが仕方ない)。「LOVE・・」のほかに、G・グールドの「ゴールトベルト変奏曲(フォークじゃなく、バッハ)の衝撃のデビュー盤」を買い求めた。天才ピアニストG・グールトはトロントに生まれ、トロントで亡くなっていたことを、滞在中に知った。彼の最後の名盤(既に保有)も同じ曲をゆったり演奏したもので、帰国したら聴き比べたいと思った。思えば大人のロック、味わいの「ザ・バンド」もカナダだったな。

<締め>

 帰国便(9月21日着Air Canada 001)の機中で、再び金森のラストナンバー「箱舟は去って」が今回の事件を唄っているかのように心に染みてきた。

失うものなど何も無い 既に僕らは失われた人々
時代は暗い影を引きずり 明日という日は カレンダーの中だけに
二度とは無い人生だけど 生きる意味など求めたりせずに 
流れに身を任せていよう ここではもう箱舟などを見つけられはしない
いったい何を守ろうと言うのか 守るべき何があるというのだ
今 ただひとつ確かなことは 失われたものだけが美しいのだ 
失われたものだけが・・

NYやワシントン、フィラデルフィア郊外で、またアフガニスタンで犠牲となった全ての方と関係者の冥福を祈り、改めて心より合掌。

甘いと言われようが、「戦争しか知らない子供たち」を見たくはない。ジョン・レノン的恒久平和が実現される日がいつか来ることを深く祈っている。

---「戦争を知らない子供たち」という歌は有名(今やナツメロ扱い)だが、頭脳警察のこの歌(70年作品)は、あまりにマイナーで殆ど知る人もいない。