天童荒太『永遠の仔』
幻冬舎, 1999

TVドラマ化されたようで、人気はすごいしそれなりに面白く書けているけど、 あまり楽しめなかった。 感動するし、泣けるところもある。だけど感動するのが良い本ということにはならないでしょ。 とり・みきさんも書いている。

多くの人が「ああ、自分は泣いてしまった。不覚ではあるが事実は事実だ。ここは厳粛に この事実を受け入れ、この作品を評価せずばなるまい」と思いこんでいるようなのだ。・・・皆あまりに自分の生理現象を信頼しすぎているのではないか。人は 梅干しの写真を見れば唾液が出てきてしまうのだ。
(「かけそば」in『大雑貨事典』(双葉文庫, 1997))
カルト教団のグルに説教されて涙を流す信者がいるように、感動はある程度の テクニックでツボを押さえれば呼び起こすことができるものだ。 例えば肉親や愛するものの死や、仲間と共にすごい苦労を乗り越えることは、 物語の中でショウアップされて涙を誘うだろう。でも、その向こうに、 作者の言いたいことが見えてこない。

児童虐待を訴えているのか、老人看護の問題を提起しているのか、 心を病んだ人達の回復の成功と失敗なのか、それとも誰が殺したかという推理か。 結局、この作品がこれだけの人気を博しているのは、万人向けのエンタテーメントに 徹したためのような気がする。もちろんエンタテーメントが悪いわけではない。 非現実的な密室殺人を扱うミステリーは純粋に楽しめるものだ。 でも社会派ミステリーのように現実の問題を扱う作品では、しばしば作者はその問題に 対するスタンスを示す。 この作品でも取り込んだ題材に対する作者の見解は随所に見られるのだけれど、 なんといっても結末の後味が悪い。

作品の最後で優希は行方不明になる。 手記のような登場人物の目を通した物語の形式なら行方不明も許せるが、 神の視点でさんざん優希の行動を描いていたのだから、最後になって 見つからなくなるというのはすごく不自然だ。(付け加えると、 私は描写の視点を作為的に変えることで成立するミステリーは好きではない。) 登場人物が過去の不幸から立ち直り、幸せな家庭を作ることにすれば、甘いと言う 人も出るだろうし、かといって彼らが自分の子供をやはり虐待してしまうというのでは 救いがなさすぎる。 作者としてなんらかの結論を下すことが得策ではないと考えたか、 決断できなかったために曖昧な結末にしたのではないか。 これだけ重いテーマを持ち込んで、エンタテーメントにしてしまった(なってしまった) ことが、私にすっきりしない読後感をもたらしているひとつの理由のようだ。

他にもいくつか納得できない部分がある。 例えば、看護婦としての優希が幸せに背を向け、自分を追いつめ、 あえて苦しい道を選ぶ行動には共感できない。 患者に対する献身的な看護を、作者は優希の罪を償うつもりの自罰的な行為として 描いたのだろうか。私にはそう読めて、動機の不純さを感じてしまった。

優希の弟、聡志の逃亡もしっくりこない。交通事故であっさりと死なせるのも不自然。 刑事の梁平も事件後に逃亡する。さすがにこう同じパターンを繰り返されては、 読者をミスリーディングしようという意図がはっきりして興ざめである。

最初の殺人、早川奈緒子殺し、自殺の手段など犯人の行動が理解できない。 お金とか嫉妬とか秘密を守るためという単純な理由ではなく、発作的に人を殺してしまう のだから、子供時代に虐待を受けた心の傷で読者には理解できない 異常な殺人を犯すことがある、といじわるには読めてしまう。 児童虐待の被害者の多くは救われないのが現実かもしれない。 よしんば立ち直り、立派に社会生活を営んでいても、殺人を犯す精神構造を持ち続ける と読まれてしまうのは、作者も不本意だと思う。 でもそういう批判が成り立つようなストーリーになっていませんか?



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