多和田葉子『旅をする裸の眼』 (講談社「群像」2月号, 2004)
読書と映画鑑賞にはいろいろ違いがある。 読書するときは、いつでも読むのを止めて考えたり、前の文章に戻ったり、つまらない箇所を飛ばして先を読んでみたりしている。 映画もビデオなら停めることも巻き戻したり早送りすることも出来るけど、読書ほど無意識的に立ち止まることは出来ない。情報を取り込む速度が強制される。ちょっと苦手だ。
多和田さんの新作は映画を取り込んだ作品だった。 いきなり女学生の拉致監禁。これは旅というより遭難である。 主人公のベトナムの少女が学校代表としてベルリンの全国青年大会に派遣される。 「アメリカ帝国主義の犠牲者」としてロシア語の作文を朗読するために。 しかし、ホテルのレストランで出会ったヨルクという青年にさらわれて、ドイツのボーフムという街に連れ去られてしまう。 ヨルクの元を逃げ出して、来るはずのない列車、止まるはずのない列車に乗り、同郷人の愛雲(アイ・ヴァン)に助けられ、パリで暮らすようになる。ベトナムでは共産主義的な教育を受けているという設定。異邦人の眼でで、資本主義社会の矛盾を観察する。 いきあたりばったりで流されながら、なんとか親切な人と巡り会い、生き延びる。 しかし、宿を借りるのに売春婦を買うという、ピントのずれた主人公。 ベトナムの少女はここまで非常識だったのであろうか。まるで異星人のようなカルチャー・ギャップだ。
売春婦マリーとのパリでの生活。映画館に通い詰める。映画の中で出会った「あなた」。 それはカトリーヌ・ドヌーブ(Catherine Deneuve)のことだ。 各章のタイトルがドヌーブの出演している映画のタイトルになっている。 少女の暮らしの合間に、幻覚のように映画の場面が挟み込まれる。 映画を観ないと描写の意味が判らない? としたら、えらく難儀な作品である。
第五章は Indochina。とにかく、ビデオで借りて観た。長〜い映画である。 かわいくて強いカミーユ。エリアーヌの養女となり、ゴム園の跡取りのはずが、革命運動に身を投げインドシナのジャンヌ・ダルクと呼ばれる。私が要約するに、子供は親の言うことを聞かない。インドシナの人々は支配者のフランスの言うことなど聞かない。まあ、実体験からも納得できる。でも、多和田さんの見方は、かなり違う。たぶん、多和田さんはドヌーブの映画を字幕とか吹き替え無しでフランス語のまま観たのだろう(評論の中でフランス語はまだマスターされていないと書いておられた)。少しの知っている単語を手がかりに、映像からセリフの意味を推測する。勝手に自由に自分のストーリーを作り上げていく。それが作中の主人公の映画の見方になっている。
「スクリーンに映されたエリアーヌの顔が観ているうちにどんどん浄化され、わたし自身の思いこみが荒い去られてみると、そこには表情というものから解放されたすばらしい自由が残った。スクリーンの中の顔は何も言わない。わたしが勝手に物語を作り出して、その顔に映写していたのだ。」これは映画の映像をネタに小説の場面を作り上げていく手法なのだ。 それにしても、ハリウッドの判りやすいエンタテーメントとは違ってフランス映画には変な趣向が多くて面白い。「シェルブールの雨傘」なんて突っ込みどころが多すぎて大爆笑。
そしてトリッキーな結末。主人公は盲目の女性となって、Dancer in the Dark の中に入り込んでしまったのか。現実の悲惨は描かれずに終わってしまうのは、救済なのだろうか。うーん、Dancer in the Dark、今度借りて観なくては。
奥泉光『グランド・ミステリー』 (角川書店, 1998)
この作品自体が大きな謎なのだが、まずは冒頭に提示された謎。 昭和9年(1934年)、佐世保湾に停泊中の水雷艇「夕鶴」が火災・炎上し、砲弾や魚雷に引火して爆沈した。その原因、真相を探るのが縦糸。真珠湾攻撃(昭和16年)、ミッドウエイ(昭和17年)、硫黄島(昭和19年)と戦局が進む。この謎自体はしょうもない(重要ではない/単純な構造をしている)のだけれど、酸化ウランの輸入といろいろと絡まってくる。
読み進むうちに目に付いてくるのは、海軍の腐敗だ。軍隊の中でも大佐から一水までいろいろ出てくる。海軍の陰湿過酷な新人いじめ、あげくの自殺なんて悲惨。一方、加多瀬稔海軍大尉の乗り込んだ潜水艦では乗組員の家族的なまとまりも描かれる。戦争では上の決定が間違っていたら、前線でいくら頑張っても取り返しは効かない。上司はプレッシャーの中、正常な判断が出来ない。そのため、みすみす部下を死地に送り出し、あるいは攻撃の機会を失することになる。高橋源一郎さんのいうように、物事を細かく描写することは、そのまま批判に通じる。資料を詳しく調べて描写していけば、そのまま戦争の批判となる。司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」に描かれた海軍の合理的精神など、ここでは霞んでいる。
作品中には軍人だけでなく、銃後の守りを固める女性、ブルジョア、知識人、政商、ジャーナリスト、新興宗教(?)などが登場。西洋古典の安田教授を囲んだ有閑人種のギリシア語勉強会なんて贅沢。その中でも一部参加者による戦争に迎合的な思想が当時の緊張感を伴って語られる。
さて、この作品の最大の謎は、死んだはずの人物が平気な顔をして出てくることだ。困ったことにこの物語では幽霊も登場するから、どれが現実か判らなくなる。筒井康隆さんの「夢の木坂分岐点」のような味わい。信頼できない作者であることよ。加多瀬の友人、榊原克己海軍大尉が死ぬのは真珠湾かミッドウエイか。少しずれた現実が説明もなく出てきて、読者をとまどわせる。この原因は、榊原未亡人、志津子も関わってくる未来予知能力。これは加多瀬の同期、昆布谷知親がいうところの2冊の本という形で現れる。森羅万象は天国にある本にすべて書かれているという発想は、キリスト教的だ。例えばフレドリック・ブラウンの「ミミズ天使」なんてのもこの思想を元にしている。あるいは、もう少し現代風にしてSFに使われているな記述子理論(グレッグ・ベア『火星転移』)とか。 あの穴に入った5人は、1冊の本をすでに読んでしまい、自分たちが1冊目とは微妙にずれた2冊目の本を生きていることに気がつく。既視感や体験したはずのない記憶に戸惑い、ある者は、狂気に陥り、ある者は1冊目の記憶を未来予知として利用しようとする。しかし、この設定を通して作者は何を言いたかったのか、よく判らない。歴史にタラ、レバを持ち込むことは無意味だし、能力を得ても結局有効に使えていないわけだし。私にはこれもミステリーだ。
敗戦の見えてきた戦争の中、人々は将来を悲観しながらもしたたかに生きていく。一度は政商、彦坂淳一郎と婚約をした加多瀬の妹、範子だが、どうにもひどい展開に巻き込まれてしまう。この彦坂というキャラは、実に興味深い。範子は結局、騙されたのか試されたのか。恋愛というのが躊躇われる身分違いの縁談は結局実らず、敗戦を迎えるが、希望のもてる結末。戦後の加多瀬のインタビューらしき場面が挿入されているから、少なくとも一つの現実(古田厳風が殺されない方)では彼は硫黄島から生還するはずである。読み終えてもスッキリしない謎が残る。それでも後味は悪くない、、、
それにしても、なぜにベニス?
理不尽は軍隊に限らず世の中にいくらもある。誰もが理不尽に折り合いを付けて生きていくほかないので、そこから逃れようと一度でも考えてみたことのある者ならば、自分がいかに深く理不尽さの網の目にからめとられているかを知らざるを得ない。 「決断というのは、要するに犠牲を払うことを決心することでしょう。だから欲張りな人間には決断は出来ないのよ。たいていの女は欲張りだわ。だから何も決断しないまま、ただ流されいくだけ。…」
「違う。絶対に違う。正しい死に方と間違った死に方とでは千里の開きがある」
横田順彌『明治快人伝 五無斎先生探偵帳』 (インターメディア出版, 2000)
本名は保科百助、号は五無斎。信州で保科塾を営む鉱物の研究家という。
実在の人物なのかなあ。ネットで検索、サクサク、、、
凄いヒット数。
ここ
には写真が残っているじゃないの。
それじゃあ、狂歌集「よいかゝをほ志な百首け」は実在するのかなあ。ネットで検索、サクサクサク、、、
ここによると、
明治三十九年十一月三日、『よいかゝをほしな百首け』を出版。
年取つて見れば無暗に思ふかな此世でどうかかゝをほしなと
に始まり、
どうしても無いと言ふなら思ふかな森羅万象かゝにほしなと
に終わる、狂歌集である。
というわけで、虚実入り交じったユーモア・ミステリー・人物伝。 現在的な視点で読むと女性蔑視の発言が目立つけど、明治という時代にフェミニズムをもちだしたらぶち壊しだからしょうがない。
<ジャパン・タイムス>に勤める女性記者の京子、アメリカ人のフレッドはひょんなことから五無斎先生と親しくなり、事件の相談を持ちかけたりする。 五無斎は時に的はずれの推理もあるが、基本的には事件を解決させる。 おおらかな明治という時代には、埋もれてしまった人物も多い。 そうした人物の業績を発掘・記録するだけでなく、血の通った人物として描写するのは面白い試みだと思う。
倉知淳『無節操な死人 まほろ市の殺人 春』 (祥伝社文庫, 2002)
「幻想都市の四季」シリーズ。
アドバルーンがとばされた春の嵐とバラバラ殺人事件。
麻耶雄嵩『闇雲A子と憂鬱刑事 まほろ市の殺人 秋』 (祥伝社文庫, 2002)
「幻想都市の四季」シリーズ。 叙述系。天城憂は職場では無口だが、奥さんの耿子には饒舌に仕事の悩みを話し続ける。この落差が面白い。 連続殺人の犯人“真幌キラー”は、死体の左耳を焼き、右横にぬいぐるみなど(麻雀牌の白とか中というのもある)を残していく。このメッセージの意味は? 怪盗ビーチャムの推理と結末のドンデン返し。なんてバッドエンディングなのだろう。
有栖川有栖『蜃気楼に手を振る まほろ市の殺人 冬』 (祥伝社文庫, 2002)
「幻想都市の四季」シリーズ。 これはちょっとひどい出来。双子ネタの変形だが、本格推理ではないからよいのか? (いくらなんでも四つ子で一卵性双生児が二組というのは、、、) 警察の捜査もめちゃくちゃである。
西澤保彦『神のロジック人間のトリック Logic of God is Magic of Human』 (文藝春秋, 2003)
孤立した学園が新入生の消失を機に破綻する。 テーマはファンタジーである。さまざまな謎。 ミステリーとしては叙述系だけど微妙な境界例、傑作である。 共同幻想が破れた結末は哀しい。 円堂都司昭さんの解説とスペシャル・インタビューが充実していて笑える。
【森奈津子師匠】の項、 セックスで満足しても「オナニーは別マンコ」 というのは、本書でもっともインパクトのあるフレーズ。
朝暮三文『石の中の蜘蛛』 (集英社, 2002)
カニスでは嗅覚でしたが、こちらは異常に聴覚が鋭くなった主人公の人捜しの物語。 マンションの部屋を借りた男、立花は、自動車にはねられたショックで聴覚が鋭敏になってしまう。なんと彼の耳は、床や壁をスプーンで叩いて反響を聴くことで部屋に残された音の痕跡を聞き取ることが出来るという、とんでもない設定。前にその部屋に住んでいた孤独な女性の生活を再現するまでになる。どうやらその女性は失踪したらしい。庭に残された不思議な石は内側を蜘蛛が這いずっているような音を立てる高士小僧という特殊な石らしい。その石の産地、豊橋市で女の姉、原一恵を探しだし、東京に出て失踪した妹、美恵の情報を得る。取り憑かれたように美恵の跡を追う立花。美恵には犯罪の影があり、二重生活をしていたようだ。ようやく探し当てた美恵は、立花が思い描いたような女性ではなかったのだが、彼の妄執はそれを受け入れることが出来ない。客観的には悲劇的な結末だが、狂気の際の立花が至福と感じる生活に、少しだけ共感できるのは、恐ろしいことなのかもしれない。