ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』

千葉文夫訳、ちくま学芸文庫

音楽の本質はどこにあるのだろうか? グレン・グールドが追い求めた道筋を作者はたどってみせる。 その道を私たち読者が歩いていく。 そんな一読者である私が理解した内容をここに書いたとしても、 それを読んだ人はグールドの歩いた道からどれくらい離れてしまうだろうか。 でも、音楽がある。グールドの残した音楽を道しるべにすれば、 きっとグールドの通った道に近づくことができる。 そうとでも考えなければ、粗雑な言葉を並べる意味が見いだせない。

グルードの考え方は、否定的にしか語れない。 音楽は、ピアノではない。ピアノを離れたって音楽はちゃんと存在する。 だから、グールドはピアノを弾きながら、ピアノに頼らない。 音楽は、感情ではない。音楽は、絵画ではない。 だから、心を煽るような盛り上がりや映像的なイメージがないほうが音楽の本質に より近づくことができる。 そうやって余分なものをはぎ取ったところに、音楽でなければ表せないもの が残っている。それがグールドの求めたものだと思う。 ポピュラーな音楽にだって音楽の本質はあるかもしれない。 でも、好きだ愛だの歌詞とか、歌手のルックスとかセックスアピールとか、 声の良し悪しなんていう音楽の本質ではないところをはぎ取ってしまったら、 残るものはごくわずか、しかもそれさえも、 どこかからの借り物であることが多いのではないだろうか。

グールドは精神的には北の国、孤独を目指しながら、肉体は熱を求める 切り裂かれた存在である。精神的熱がり、肉体的寒がり。

この評論はゴルトベルク変奏曲の構成をなぞっっているのだが、 プロローグとエピローグがまったく同じなのに、その間に展開される物語 によって、意味がまったく変わってしまうような、そんな小説を思い浮かべた。 例えば、光瀬龍さんの『百億の昼と千億の夜』。グールドも夜を愛したという。

ところで、最近、科学雑誌に電気ノイズを神経に与えると 触覚が敏感になるという記事が紹介されていた (元記事はRichardson et al. Chaos, 1998年9月)。 理由は確率的共鳴作用と書かれている。 グールドが子供の頃、ピアノの練習中に、家政婦が 隣で電気掃除機をかけたという話を思い出した。 掃除機のノイズでピアノの音が聞こえなくなった瞬間、 今までになく美しい音楽を聴くことができたという。 音楽家の鋭敏な感覚が見つけだした雑音の効用に現代科学がようやく 気がついたということであろうか。 困難をくぐりぬけたほうが、幸せもありがたいものになるという、 古い智恵のヴァリエーションなのかもしれないけれど。


夏目漱石『草枕』

新潮文庫

グレン・グールドは亡くなる前に『草枕』を読んでいたらしい。 というのは、ベッドの近くに聖書と『草枕』が残っていたからである。 シュネデールは、『草枕』について何も語っていない。 私は『草枕』がどんな本であるかは知っているけれど、 流麗な文章、豊富な漢語に飾られた内容を実は忘れていた。 グールドは英訳で読んでいただろうから、そんな表面的なデコレーションに まどわされずに、私なんかよりも『草枕』の本質を把握していたのかもしれない。 そう考えたら、読み返してみたくなった。言葉の響きに耳をふさぎ、 美麗な漢語、絢爛な故事を捨てて、あらすじを追い、言葉の意味だけを考えて。 そんな読み方をすると、見えてくるのは漱石の芸術論である。 画工(絵描き)に語らせているが、絵画、文学にとどまらず、芸術一般を 論じている。「非人情」の境地というのは、グールドが好きそうな考え方である。 浪漫派あたりがごてごてと塗りたくったうっとうしい感情を削ぎ落とすことが、 芸術の本質に近づく一つの方法かもしれない。


心に残ったフレーズ

四角な世界から常識と名のつく一角を磨滅して、三角のうちに住むのを 芸術家と呼んでもよかろう。

我孫子武丸『小説たけまる増刊号』

集英社, 1997

雑誌の装丁で出版された短編集。グラビアもついていて楽しい。 裏表紙の鞠夫くんの商品広告も愉快である。 短編「裏庭の死体」が一番感心しました。 雑誌としては蛭子能収さんのイラストが多すぎる気がする。 アクの強い絵柄だから目立つのかもしれないけれど。

評論「叙述トリック試論」の中にメタ・ミステリの我孫子流の定義がある。 「それ自身がミステリであることを意識しているミステリ」なのだそうだが、 私は他の定義もあると思うぞ。


東野圭吾『名探偵の掟』

講談社, 1996

メタミステリの傑作。といっても、メタミステリってそれほど知られていないから ちょっと説明しておきます。 定義もいろいろあるようで、私が知っているメタミステリには二種類ある。 一つはミステリの中で登場人物がミステリを書くという作中作が使われている 作品で、『人間椅子』『虚無への供物』『匣の中の失楽』『ウロボロスの偽書』 『機巧館のかぞえ唄』なんてのがある。 『名探偵の掟』は、もう一つの定義「書かれている文章やセリフで、その作品が ミステリであることが意識されているもの」に当てはまるメタミステリである。 (この定義だと、作者が途中で「読者への挑戦」をするのもメタミステリなのだが、 不思議なことに普通はこれは除外している。) 『ソフィーの世界』もミステリではないけどこの系統に属する。 この手法は、一種の楽屋落ちだからまじめな作品ではいわゆる「禁じ手」と されていて、それだけに効果的に使われると印象に残る。

ここでは、楽屋落ちをそのままギャグに使って本格ミステリの批判が展開される。 まずは脇役の大河原警部の愚痴。脇役は、間違ってもまぐれでも真犯人を あててはいけない。これだけミステリがあるんだから、脇役がまぐれで真犯人を 見破った話が確率的にはありそうである。それがないというのだから、 わざと間違えているのだと言う説明が説得力を持つ。 そのためには事件の最初から真犯人を見つけて、それ以外の 人間を疑って間違った捜査をしなければならないというのだ。

ミステリをドラマ化すると原作から遠く離れてしまう。二時間ドラマの脚本の 裏話にも笑わせてもらった。 また、最もポピュラーな「密室」と「アリバイ崩し」の論理的な矛盾が指摘される。 名探偵天下一大五郎は、密室が嫌いで他の登場人物に揶揄されながらもいやいや 謎を解く。

アリバイ崩しでは、共犯者がいては困るので「刑事の直感」で否定したうえで 捜査が進められる。見事なアリバイトリックを作った犯人は、それを崩して 貰わないと立場がない。天下一から「おまえにそんなトリックは作れるわけがない、 だからおまえは犯人ではない」と言われて困った犯人は、「ヒントをさしあげます、 ヒントを出したことは読者に内緒にしますから、もういちど考えて下さい」と 懇願しなければならない。これにも爆笑。


森博嗣著『詩的私的ジャック Jack the Poetical Private』

講談社NOVELS, 1997

森さんの作品はミステリとしてよりも、犀川と萌絵の恋愛物語として しゃれた会話が楽しめる。だから、ミステリの部分に多少問題があっても 続きが読みたくなるのです。以下、ネタばれを含みます。

「密室」である。密室は機械的に作られている。ミステリでは陳腐な方法である。 何故犯人は密室を作るのか、という問題が残される。密室を作ることに意味を与える ようなトリックを考えるような犯人はミステリファンに決まっている。 例によって動機がうすーーい。殺害理由が納得できない。 変な人物が変な考えで変な行動をすることが犯罪の要件になっているという 無理な設定。警察の捜査情報があんなに簡単に漏れたら問題、汚職ものだよ。 後半の展開もご都合主義。萌絵が駐車場に隠された証拠を見つけるところを 警察の監視を逃れた犯人が目撃し、いままで簡単に人を殺していたのに 生かしたまま港に連れていくのである。


つかこうへい『小説 熱海殺人事件』

角川文庫

つかさんの演劇は観たことがない。小説を読んで観る気になるかとも思ったけれど、 逆に下品だなあと感じてしまった。感性の違いかも知れないが、観客の気を引く ためにどぎつく異常なセリフを繰り返すのはいただけない。 いわゆる演劇空間という特殊な場なのかもしれないけれど。 作者だって本当はあざとい手管なんて使わずに観客を虜に したいのかもしれない。だけど、これでうけてしまった以上、 他の形は出来ないのではないかな。 でも、こういうのってなんだか行き止まりのような気がする。


ツルゲーネフ『はつ恋』

神西清訳, 新潮文庫

『彼女は恋に落ちた』と、我ともなく、わたしの唇はささやいた。 ……『だが、いったい誰に?』

初恋の隣のお姉さんジナイーダの意中の人は誰かというミステリ。 ジナイーダは彼女に言い寄る男共を手玉にとって、 「王様ゲーム」をはじめ、きわどく乱れたパーティで女王様として君臨し、 うぶな主人公は振り回されて茫然自失。子供向けではない。 主人公の手記の形式で書かれているのがよい。


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