1. 多和田葉子『変身のためのオピウム』
2. 高橋源一郎『さようならギャングたち』
3. 金井美恵子『愛の生活 森のメリュジーヌ』
4. 吉行淳之介『技巧的生活』
5. 吉行淳之介『砂の上の植物群』
6. 柄刀一『3000年の密室』
7. 殊能将之『美濃牛 MINOTAUR』


多和田葉子『変身のためのオピウム』 (講談社, 2001)

この作品を美しい秋の日に読むことができたのは、とても幸運だった。 なぜならこの作品に登場するのは、秋の女たちだからだ。 何人かの登場人物(例えばクリメネ)に舞台で見た黒い服を着た多和田さんが重なる。 サルマシスは高瀬アキさんかもしれない。 朗読会に出てしまったから、イメージから逃れられない。 テキストだけというわけにはいかなくなってしまった。

作品の構造はメタフィクションかメタメタフィクションになっている。 「わたし」は登場人物に語りかけるが、それは作家であったり、作中の作家であったり、 霊魂のように空中を彷徨っている存在であったりする。体内に作られる麻薬のような 物質の作用で陶酔状態にある精神が、女たちの人生をのぞいていくという設定らしい。 多和田さんは講演会で「書くときに麻薬を使うか」と質問されたなんて 書いていた。私にはこの作品には理性の支配が強く感じられる。 それにしても、白い粉といえば麻薬のことだった。そしてなぜか牛が出てくる。 時代を超越しようとしている文学が、なぜか時代と絡んでしまう不思議な偶然。

登場人物の名前はギリシア・ローマ神話からとられているようだが、 何を暗示しているのだろう(各章の名前の由来などをまとめてみました)。 レダは白鳥のように入浴するが、白鳥に化けてレダに近づいたのはゼウスだ。 自分自身が白鳥になってしまうレダには、男は(神は)もういらないということか。 ゼメレの別れた夫はゼウスといい、息子はディオニソス(バッカス)である。 ゼメレが靴を見つめるシーンでは、多和田さんのWEBにある詩の一節を思い出した (その詩の意味は今もよくわからないのだけれど)。 ギリシア神話に登場する女性を現代に蘇らせて語り直したのかもしれないし、 女性の生き方みたいなものを模索しているのかも知れない。 (多和田さんは子供を産みたいのかも知れない。 もっともコロニスのように子孫を残すことを拒否している女性も登場するし、 最終章のディアナはディアナ・コンプレックスの語源でもある。) また、『聖女伝説』を彷彿させる部分もある

「一本足で、少女は回転する、独楽のように。回転していれば倒れない。」

例えば6章のサルマシスは水の精。 神ヘルメスと女神アフロディーテの子フェルマフロディテが、 サルマシスと合体して湖に呪いがかかり、この水に触れたものは両性具有になって しまったという伝説があるそうです。 作品中では「白いワンピースを卒業できない女優志望」。サルマシスのために書かれた芝居の主人公は男の水泳選手だが海の水に入って女性になってしまう。多和田さん得意の伝説を現代風にアレンジしたイメージ。サルマシスは女優をあきらめ、ピアニストになろうとする。で、高瀬アキさんになってしまう;-)

本当は題材は何でもよくって、詩とも散文とも いえないテキストによる女性の生活を幻想的に描写する言語空間を作りたかったのかも。 セレスの章(15)には、

「ギリシャ神話から名前を拝借するなんて、つまらない言い訳だわ。」
なんて書かれているのだから。 テーマは何度も読み直しているうちに見えてくるかも知れないし、 永遠に判らないかも知れない。 それでも多和田さんの文章を読むのは楽しい。 多和田さんの作品を読み込んだせいか、 脳の中に対応する回路ができてしまったのかもしれない。 麻薬のようだという陳腐な形容は避けたいのだけれど、、、

言葉の遊びはいつものように油断できない。例えば

「蜂は空中に8の字を描き、雨傘がその後を追う。はち、はち、気をつけて!」
これは日本語とドイツ語のしゃれである(ドイツ語の8はAcht、気をつけてはAchtung)。 実はこの作品、ドイツ語で書かれた “Opium fur Ovid, Ein Kopfkissenbuch von 22 Frauen”(2000)の翻訳のようなのだ。 WEBに載っている ドイツ語テキストのサンプル (第7章コロニス)は「変身のためのオピウム」 p.90、コロニスがバルコニーで読書するうちに蚊が飛んでくるように見えて、目医者に 行って眼科医と妙な会話をする場面そのままだ。飛蚊症って眼の病気はありますね。たしか 「あぶさん」に出てきた。

原題を邦訳すると 「オウィディウスのためのオピウム--22人の女性の枕草子」 “Ovid”は Ovidius (オウィディウス)。 副題の“Kopfkissen”は「枕」なので、「枕本」、何かと思ったら ドイツ語の書評 の最初にも「枕本って何だ」で始まっていて、清少納言の名前が出てくるので これは「枕草子」のことでしょう。

ともかく多和田さんが言葉に取り組む姿勢は挑戦的だ。決めぜりふはこれ。

「あなた言葉の力と戦うつもりなの?」
「それは言語学者だから。」

高橋源一郎『さようならギャングたち』 (講談社文芸文庫, 1997)

冒頭、アメリカの大統領が演説する。

「わたし、アメリカ合衆国大統領ジョン・スミスJr.は平和を愛する全ての アメリカ国民と全世界に宣言します。 わたしたちは、かれらギャングどもを、すみやかに、ねこそぎ、完全に、一人残らず、 この地上から一掃するでしょう。 平和への敵対者は必ず敗れ去るのです。 その崇高な使命をわたしは断固として遂行するでしょう。 法と正義と神の名において。」
その直後、ギャングたちはあっさりとアメリカの大統領を暗殺する。

今から20年前、1981年に群像新人長編小説賞に応募され、優秀作となった作品である。 もちろん、テロリズムの話ではない。ギャングたちは略奪、強盗を行うが、 なぜか被害者からも愛されている一種のヒーローだ。 「わたし」が暮らしている世界は、現実の世界からかなりずれているのである。 この世界では、人や猫は死ぬ前に役所から 死亡通知を受け取る。役所が生死を司る。警官は暗いところが嫌いで身体中に 懐中電灯をぶら下げている。 これらのずれが、何を象徴しているのだろう。

三部構成の第一部で、「わたし」は今では名前を忘れた女と幸せに暮らし、 かわいらしい娘キャラウェイが生まれ、二人を喪う。 第二部では「わたし」とS.B.(ソングブック)と猫のヘンリー4世との出会いと、 詩の学校で変わった人々と奇妙なやりとりが描かれる。 「さようなら、ギャングたち」は、S.B.が「わたし」につけてくれた名前だ。 S.B.はかつてギャングの仲間だったのである。 第三部では4人のギャングたちによってS.B.は連れ去られ、殺される。 ギャングたちも死にヘンリー4世も死ぬ。 キャラウェイもS.B.も魅力たっぷりに描かれるから、喪失の痛みも大きい。 全てを喪った「わたし」は、自らギャングとなり、キャラウェイを葬った 児童用墓地を爆破しようとし、失敗する。 言葉の面白さと文章のリズムの心地よさであっというまに読めてしまう この物語は、いったいなんなのだろう。

思いつくままに書くと、

詩人と過激派は両立しうる。
世の中の仕組みは間違っているし、理不尽に愛する人を喪ったら、 人はテロリストになりうる。
そうして戦いは産み出され、悲しみが続く。
どこに救いはあるのか。
・・・

加藤典洋さんの解説を読んで、高橋さんの書くことに対するスタンスが少し判った 気がする。何気なく書かれた文章。

「ここで世界につけ加えられているのは0.5グラムの風の中の塵のようなものだ。 しかし、それがここで何より大事なことだが、少なくともそこで、世界は後退し ていない。世界はかすかに更新されている。ほんの微量の塩のようなもの。 それが加えられることで、彼と世界の間にかすかな氷結が生じようとしているのである。」
これは、生きることの意味に他ならない。 なにも世界を一変させるような大仕事をすることだけが人間の生きる目的ではなかろう。 この世で私に与えられた力はごく微小なのだが、世界を停滞させたり、 後退させてはいけない。ほんの少しでも前進させるために努力したいと思う。
・・・
しかし、また、ここで迷ってしまう。 どちらに進んだら前進なのだろうか。 自分では進んでいるつまりでも、じつは後退しているのかもしれないのだ、、、

金井美恵子『愛の生活 森のメリュジーヌ』 (講談社文芸文庫, 1997)

金井さんの初期の作品。多和田葉子さんや高橋源一郎さんとは、 文学の楽しみ方というか取り組み方が違っている気がする。 インタビューや後書きで発揮されるユーモアというか作者自身の強烈な個性が、作品の 中では目に付くような読者へのサービスとしては現れないので、 読むのに苦労してしまう。はっきりいえば退屈に感じられるのだが、もちろん 無理に読んでいるのではなく、文章に引っぱられてしまうのだ。 (ユーモアといえば例えば「夢の時間」の中で、アイが受け取った手紙に書かれた 電話番号6919を“シックスナインでイク”と思い、デイトクラブか売春組織のビラ とふと考えるというくだりがあるが、こんなのはジョークとしてもわざと 外しているに違いない。)

閑話休題、肌に合わないまま文章を読んでしまうのは、何故か。 前に読んだ『岸辺のない海』では孤独な精神の行き着く先を 書き込んでくれた。その時にも悪文と思ったのだが、緊張感が感じられた。 この本に収められている初期の作品群では、例えば 「兎」の冒頭に「書くことは私の運命なのかもしれない」と述べているように 作者はまだ書くことに確信を持てずに自分を語ろうともがいているようだ。 「愛の生活」では一緒に暮らす夫Fの不審な行動が語られる。 Fの出かけた後に起き出した“わたし”の一日だが、Fは直接には登場せず、 間接的に不可解な情報が入ってくる。 Fの行動の説明は与えられない。日常生活ではこのくらいの謎や行き違い、不信なんて まさしく日常茶飯。書こうと思えば何通りでもこの時のFの事情を考えられるだろう。 それが判っていても、もどかしい結末ですね。この読後感は作者の計算なんだろうなあ。

「永遠の恋人」と「兎」は幻想的な物語を作ろうとしているのだが、読んでいて のめり込めない。いわゆる、ちょっと引いてしまう感じ。

金井さんの作風は、「空気男のはなし」「プラトン的恋愛」のように理屈をこね上げ ていく論理的なところがあると思いこんでいるせいか、夢の中のようなふわふわした話は 私の中ではうまくかみ合わないのかも。 (反対に多和田さんの作品だと、夢のようなむちゃな展開が許されしっくりと 楽しめるのだ。)

「森のメリュジーヌ」はファンタジーのなかに理屈を詰め込もうとした試みかも知れない。 私に言わせると<世界をすてた代償が何であるか>なんて哲学的な問いと “小人の女占師は鈴飾りのついた大きなとんがり帽子をゆすり” なんて描写が溶け合わずこなれていない。 でもこういうミスマッチが好きな人もいるかも。

構成として面白かったのが、「アカシア騎士団」と「母子像」。 特に「アカシア騎士団」は冒頭と結末の落差がよいですね。

吉行淳之介『技巧的生活』 (新潮文庫, 1967)

吉行さんは、銀座のバーやクラブによく通っていたようだ。 亡くなったときに文壇関係者が書かれていたエピノードが印象的。 吉行さんの隣に坐っていたホステスが急に泣き出した。その理由が実は、、、 というもの。 ホステスさんとしては、好きな男ができるとその愛情のエネルギーで若返り、 接客に生かすなんてのも水商売の技術であろう。実際にそんな女性をモデル にしたのかもしれない。 クラブの女たちの生態が描かれる。 残念なのは、セリフが固いこと。女性同士の会話が作り物のように響く。 わざとそうしているのか、当時としてはこれが普通だったのか。

男と別れて「銀の鞍」に入った葉子は、「ゆみ子」という名前を与えられる。 はたして人間を商品として見る/見られる生活に耐えられるだろうか。 どうやら「銀の鞍」のホステスの中には売春をしている者がいるらしい。 お得意の客、油谷を巡る駆け引き。妊娠をめぐる騒動。裏切られ、 自らも裏切ったと言われてしまう。

「幸福そうにみえる人間は、腹立たしい。不幸そうな人間も、鬱陶しい。」
そして、無機物に暖かさを感じるようになっていく。 愛を信じている人には救いがないように見えるかも知れないけれど、 人間の相手をするのが苦手な私には、妙に納得できてしまう結末であった。

吉行淳之介『砂の上の植物群』 (新潮文庫, 1967)

初出「文學界」昭和38年1月より連載。 主人公の伊木一郎は化粧品のセールスマンだが、仕事は大きな鞄に象徴されるだけで、 実際に化粧品を売っている様子は描写されない。 テーマはソフトSMプラス近親相姦(の虞)である。 作家が途中で顔を出すメタフィクションでもある。 習作とも言える「樹々は緑か」でも繰り返されている亡き父親を良く知っている 山田理髪師との会話が心理的な罠になっている。

柄刀一『3000年の密室』 (原書房,1998)

考古学ミステリー。後に書かれる『4000年のアリバイ回廊 』 で活躍する“うんこ”考古学者リョウコ・ディッペンバウアー・川口もちょっと顔を見せる。 洞窟の入り口が内側から石で通れないようにされていて、 その中に明らかな他殺死体が転がっているという密室殺人の謎。 実は洞窟の中に犯人が隠れていた、、、というのは嘘だけど、ある意味で本当かな。

なんといっても、殺されていたのは3000年前の縄文人<サイモン>。 ミイラ化したサイモンの身体は貴重な学問的資料として、あるいは地域興しの 材料として引っ張りだこになる。 功をあせるアマチュア考古学者や大学の汚職がからんで、現代にも深刻な事件が起こる。 語り手は両親を交通事故で亡くして以来、死に直面できないトラウマを抱える 弓岡真理子。 昼は長野歴史人類学研究所に勤め、夜は祖父の切り盛りする居酒屋を手伝う。 ミイラの解剖やレントゲン撮影からサイモンの素性や病歴が明らかになってくる。 さらにサイモンの所持品や病歴から考古学会を揺るがす論争が巻き起こる。 サイモンの産まれたのは東北なのか九州なのか。九州ならば稲作が始まっていても おかしくない。しかし、東北では農業としての稲作はそれほど広まっていなかった とされている。

どうやらサイモンは長い旅をしていたようだが、その目的は何か、なぜ殺されたのか。 保守派の長老、曽我部教授が真理子たちが苦労してひねり出した仮説を 厳しく批判して憎たらしく描かれているが、 おおむね事実を慎重に取り扱う議論なので科学的な正当性は保たれているし、 語り手の視線も冷静なので好感が持てる。 ちょっと変わったところでは、 コンピュータサイエンテストの佐々木晶が超世俗的キャラでドライないい味を出している。 一方、俗物の代表として県庁の役人が真理子の居酒屋に様子を探りに来たりする。

過去の密室殺人事件やサイモンの素性などはとてもすっきりと解決してくれるのだが、 現代の事件はどうだろう。殺人と立件することもないんじゃあないか。 殺人事件の犯人探しは、犯人が本当に悪人じゃないと悲しいよね。

ここにはネタバレが書かれています。
洞窟に抜け穴があったのかと思ったけど、地殻変動ですか

殊能将之『美濃牛 MINOTAUR』 (講談社NOVELS, 2000)

牛の話である。安心でおいしい牛肉が食べたくなります。 これにもギリシア神話が絡んでくる。ミノタウルスと美濃牛がかけてあるのはもちろん、 窓音という少女が出てくるが、当然アリアドネからの命名であろう。迷路も出てくる。 各章のはじめにおもわせぶりな引用が入り、ジャズと俳句の蘊蓄がたっぷり。 シナトラを語るには、「マイ・ウェイ」は以ての外、 コール・ポーター作詞作曲の「アイヴ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン」 が最高傑作、、、らしい。

クレタ島ならぬ暮枝村のリゾート開発にからんで大地主の一族が次々と殺される。 これはよくありそうな話。 その土地に伝わる牛鬼退治の童謡をなぞったような殺され方は、横溝正史の世界、 にはならない。探偵役の石動が指摘するように、村人はだれもそんな童謡の歌詞なんて 覚えちゃいないからだ。ここは逆説の世界なのである。 会社勤め、都会暮らしをやめて田舎に移り畜産にかける父親がリゾート反対で、 息子は動物が嫌いで都会暮らしにあこがれ、リゾート開発を救いだと思うという設定。 私はアウトドアライフとか自然が嫌いな人に共感してしまうほうだ。

リゾート開発は、亀恩洞という洞窟の中にある泉に難病を治療する効果があるという 噂から始まった。 辺鄙な村におしかける難病人、なかには不思議と元気そうな怪しい人もいる。 噂の行方も一筋縄ではないよ。最後には医学界もビックリしてしまうのだから。 さて、犯人あてに関しては、超無理な設定なので、種明かしされても素直には驚けません。 これで悪いというわけではないけれど、それにしてもと思ってしまうのだ。 メイントリックよりも飛鳥くんがからむミステリーがよい。 それから民宿の奥さんの作る料理が実にうまそうで、よい味を出している。助演女優賞。 藍下“村長”と出羽のコンビもいい感じである。 でも結局、天瀬が主役の恋愛小説なのかもしれない。 景色、料理、音楽、文学など推理のパズル的な要素以外の描写でも作者の筆は光っていて 安心して楽しめるミステリー。 「たーけ」という方言は、ちょっと懐かしかった。



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