1. シェイクスピア『十二夜』
2. 吉行淳之介『原色の町・驟雨』
3. 芥川龍之介『舞踏会・密柑』
4. 高橋源一郎『文学がこんなにわかっていいかしら』
5. フレドリック・ブラウン『天使と宇宙船』
6. H.ジェイムズ『ねじの回転』
7. 『象は世界最大の昆虫である ― ガレッティ先生失言録』


シェイクスピア『十二夜』 (小津次郎訳, 岩波文庫, 1960)

下品なギャグ満載のドタバタ喜劇。ほんまにシェイクスピアかいな。

兄妹の双子が難破して別れ別れ、自分は助かったが、お互い片割れは死んだものと思う。 妹のヴァイオラは男装して公爵オーシーノウに仕える。 オーシーノウが好きなのに、なんでわざわざそんなことするのかね。 公爵は伯爵家の娘オリヴィアに恋しているが、相手にされない。 恋の使いとしてヴァイオラをオリヴィアのもとに送り込むが、 オリヴィアはヴァイオラを男と思い見そめてしまう。 連続ドラマの元祖と言うべきねじくれた恋の関係だ。 そこに死に別れたと思っていた兄セバスチャンが現れて大混乱。 結局セバスチャンとオリヴィア、オーシーノウとヴァイオラが結ばれて目出度しめでたし。 ストーリーだけ追ったらこんな馬鹿な話はないよね。 でも「とりかえばや」とか少女マンガに良く出てくるパターンなのだなあ。 オリヴィアの執事マルヴォーリオが騙されて酷い目にあうというエピソードがあって、 これは後味が悪い。侍女のマライアが仕組むのだけれど、本当に下劣なのだ。 威張り散らしている野郎をとっちめるという大衆のウケをねらった話なんだろうけど、 後味悪かった。

「或る者は高き身分に生まれ、或る者は高き身分に達し、また或る者は高き身分に押し上げらるることこれあり候」
という有名なセリフは執事が伯爵の娘との結婚を夢見たときに口から出るのだ。 解説によると、実在のオーシノウ公爵の結婚を祝うためにエリザベス女王の命で作らせた 脚本らしいから、こういうエピソードがはいるというのは反骨精神の現れかも。 でも観客を笑わせようという意図があんまりあからさまだと品位が落ちる。

吉行淳之介『原色の町・驟雨』 (新潮文庫, 1966)

吉行さんの初期作品集。 日沼倫太郎さんの解説によると、吉行さんは自ら“軽薄派”と称していたが、 実は“死を中心に据え、性を外装とした作品”を描こうとしているという。 その言葉を形式的にとらえる必要はないと思うが、「漂う部屋」のような結核ものと 娼婦ものは一目交わっていないので素直にはうなずけないのである。

「原色の町」
解説には娼婦の精神性と書かれているけれど、あけみは普通の女性のように 思考しているだけだ。 つまり、商品としての女ではなく、人間としての女と描かれているのだが、 それはあたりまえのことで、それが描けなければ小説にならない。 逆に読者は現実の娼婦を人間として見ていないわけで、そのために小説において娼婦が 重要な役割を果たすとき「聖なる娼婦」になってしまうのかもしれない。

あけみに惚れて結婚しようとする男は、あけみが娼婦であったことをひた隠しにする。 これもあたりまえ。ところが、あけみの行動は矛盾に満ちていて、自ら不幸な選択を する。性とか愛を生活と秤にかけたとき、前者をとることと、娼婦として生き続ける ことは、違うと思うのだ。うまく言えないが、ちょっと納得できない結末である。

「驟雨」
これも娼婦の街のお話。 山村英夫は通い詰めている道子から

「あなたとお会いしていると、恥ずかしいという気持ちを思い出したの」
と言われて、
「なるほど、それはいい文句だ。商売柄いろいろな言葉をしっているね」
と“軽い調子で”応える。
「きみは面白い女だな、僕の友人たちを紹介しようか」
と言う言葉に、女は傷つく。道子に惹かれる気持ちを抑えるため、わざと 娼婦であることを思い出させるような言葉を口にする。 娼婦を人間として見ようとしない男。 やがて彼はそのしっぺがえしをされることになる。

女性を商品と同様に扱う悪友の結婚。祝福される合法的独占的な性行為と お気に入りの娼婦を独り占めにできない嫉妬に割り切れない気持ちが残る。 結婚と売春は何が違うという問いには、フェミニズム的には答があるのだろう。 何をいまさらという気がしないでもないが、私にはうまく答える自信がない。

「薔薇販売人」
作者によると“散文の処女作”だそうだ。洒落たロマンティックな題名ですね。 退屈な日常から逃れるためにインチキ薔薇販売人に化けた檜井二郎は、 訪問先のミワコと親しくなろうとする。

ポオル・モアランが「夜ひらく」の中で描いたというゲームが面白い。 こんなゲームを覚えているだけでもリアリティがないんだけれど、、 容貌、スタイル、色気、怜智、判断力、情熱、意志、羞恥心、手くだ、嫉妬心、 感受性、宗教心、運勢、才能について二十点満点で自己採点し、 相手に訂正させるという占いみたいな「危険な遊び」。 「なにをしているんです。ぐずぐずしていると、接吻しちゃいますよ」 うーーーーん。こんなセリフ読まされるとは思わなかった。田村正和ばりの 二枚目じゃないと決まらないよね。

「夏の休暇」
父親の不倫旅行に付き合わされた男の子の視点で書かれているのが面白い。 若い父親の無鉄砲さや思いこみの激しさ、、、モデルは作者の父親かなあ。

芥川龍之介『舞踏会・密柑』 (角川文庫, 1968)

スランプ作品集といってもよい 大正8年に書かれた作品を中心とする短編集。 精神的に鬱状態で悩みながら書かれているのではないかな。

「舞踏会」
最初に鹿鳴館の舞踏会に生まれて初めて出席した明子の思い出が語られる。 一人のフランス海軍将校がやさしくリードしてくれたのだ。 最後に老夫人となった明子が、青年の小説家(芥川であろう)にその将校の名前を語る。 実はその将校は有名な作家ピエール・ロチだったのだ。 そのことを知らない夫人の鮮烈な思い出と 知識でしか感興を覚えない青年小説家を対照。

「密柑」
こういう憂鬱な心理を「ぜいたくな悩み」と言う。

「疑惑」
実践倫理学(最近では応用倫理学という言葉の方をよく聞く)の講師のところにやってきた 幽霊のような男。古典的な慈悲殺の問題で悩み、狂人とされたというのだが、なぜ 明確な指針を与えられないのだろう。仏教でも扱っているぞ。

「路上」
導入部の図書館の描写がよい。長編に挑戦して途中で止まってしまったのだそうだ。

「竜」
なんか教訓くさい。内容は瓢箪から駒。

「尾生の信」
だからどうした。「が、女はいまだに来ない。」を繰り返す技巧がだんだん鼻についてきます。

「魔術」
ちょっと作りすぎである。劇的効果を出そうと技巧を駆使している感じ。 これを中国の昔話(「邯鄲の夢」)風に書いたらかえってしっくりくるかも。

「鼠小僧次郎吉」
シャレたオチをつけたつもりかも知れないけど、これは予想がつきます。 教訓くさいし、好きじゃないなあ。

「葱」
締め切りに追われた作家が出てくるメタフィクション。 ふざけているが、小説のテーマ自体が滑稽なので、バランスがとれているというか。 ユーモアは憂鬱な精神にとって薬であり、回復の験でもある。

「芸術その他」
芸術についてまじめに考えると、大変である。 才能あふれる天才が産み出す天真爛漫な美を鑑賞するとき、芸術論は虚しい。

高橋源一郎『文学がこんなにわかっていいかしら』 (福武書店, 1989)

文学が読まれていない現状を憂いている作者が、ゲームや少女マンガが売れている のを横目で睨みながら書いた元気の出る文芸時評。 謎にも“リドル”と“エニグマ”があり、ゲームの謎は解ける謎(リドル)だが、 小説には解けない謎(エニグマ)も必要とかいわれても、判ったような判らないような。 そう、小説には前に進めるエンジンが必要という指摘はすごく大事ですね。 知識だけでは小説にならない。パワーを感じる小説というのは、 このエンジンがしっかりしているのだ。

小牧工業高校の先生方が書かれたという『高校生のための文章読本』(筑摩書房)は、 良さそうです。まだ手にはいるのかな。

「今月は太宰くんが一番面白かった」って、太宰治を新人作家として 群像の記念号に載った「トカトントン」を解読してくれていますが、太宰論としても 出色で、同時に現存する作家への強烈な批判にもなっている。 小林信彦論で小説にノレるかとう話から、 太宰治の文章は、「良い悪い」ではなく「のれるかどうか」という。 誉めているんですよね。

今を時めく岡野玲子さんのマンガ『ファンシイダンス』と三浦清宏さんの 小説『長男の出家』の比較論も面白い。少女マンガがトリヴィアリズムによって 高い批評性を持っているという見方は鋭い。 物事を細かく描写することは、そのまま批判に通じるといわれると、 確かにそういう面もあって納得してしまう。 宗教なんかは全体として見ると神格化したり聖域になっちゃうところがでてくるけど、 禅僧の生活を細かく見たら、ひとうひとつは何も偉そうなことしていないのだ。 “神は細部に宿る”というのは逆ですね。少し賢くなった気がする。

「カルヴィーノの遺言」で、 現代詩の読み方、言葉の使い方に「軽重」「重軽」を応用した分析は卓見。 軽い言葉を重く使う、あるいは重い言葉を軽く使ってみせることに効果がある。 引用された藤井定貞和さんの「雪、nobody」という詩も良いですね。

少女漫画の評論「花咲く少女マンガ雑誌たちのかげに」も面白い。

「…こんな主人公がいるか。気が弱そうで、軽薄で、勇気がないかわりに、 大胆なことをし、いつでまでも同じことでぶちぶち悩んでいるかとおもえば、 今日から新しいわたしなどと急に心を入れかえたりする、いったい、どういう 性格なんだ。そんな女と付き合っている男も男だ。それに、いつもしっかりした 親友がついているのは、どういうわけだ。…」

フレドリック・ブラウン『天使と宇宙船』 (小西宏訳, 創元推理文庫, 1965)

ファンタジーとSFについて序で定義が述べられているが、そんな固いことはいわずに 読めばよいと思う。この時代のSFで残っているのは、未開の大地で自由に才能の おもむくまま書かれた作品群 という感じがする。先人たちの荒らした土地を避けるなり、耕し直したりする 苦労がないんですね。

「諸行無常の物語」(Etaoin Shrdlu)「ミミズ天使」(The Angelic Angleworm)と 作者の印刷機械(ライノタイプ)についての知識が使われている。 やたら詳しくない? 印刷業だったのでしょうか? それから、英語の単語が鍵になる話がいくつかはいっているので、注意が必要。 ネタばらしすると、「気違い星プラセット」「ミミズ天使」である。 前者は言葉遊びでうまく緊迫感を盛り上げて後味の良い作品になっている。 後者はこの世の出来事がすべて一冊の本になっているという思想が背景になっているので、 真面目に考えていたらちょっと反則みたいなオチである。

ショートショート「非常識」(Predosterous)「大同小異」(Pattern)については星新一にも似たような作品があったような気がして しかたがない。

H.ジェイムズ『ねじの回転』 (蕗沢忠枝訳, 新潮文庫, 1962)

この作品のこと、ミステリだか勘違いしていたみたい (「ねじ式」を連想しなかったが)。 恐ろしい幽霊が出てくるけれど、最後にトリックがあかされるものと 思っていたら、予想が外れてガックリ、、、こなかった! この結末で納得です。 ミステリの謎解きって、結局「なあんだ、そうだったのか」という 緊張緩和の快感だと思うのですが、 この幽霊物語は謎をたっぷり残したまま悲劇的な結末を迎えていて、 いわば緊張の糸が緩むことなく張り切れてしまったところで終わっている。 映像にしたら相当怖いですよ、きっと。 描写があやふやというか、ぼんやりしているのが不満なんですが、 家庭教師の若い女性の手記という設定なので、 「書きなれない感じが実に見事に書かれている」(ガレッティ失言録)のでしょう。 イギリスの貴族がひどく自分勝手に描かれておりますが、 なぜそんなに利己的なのか、私には謎でした。当時は、貴族は自分勝手なもの という常識があったのかもしれません。でも、何か理由がありそうなんだけどなあ。

『象は世界最大の昆虫である ― ガレッティ先生失言録』 (池内紀編集訳, 白水社, 1992)

博識のガレッティ先生がゴーダ・ギムナージウムの教壇で語った言葉を教え子が 記録しておいて、先生の死後出版したもの。先生の著した数々の真面目な書物は 時の彼方に消えゆくも、失言録は今でも読まれているというのは、皮肉なことです。

これ以上、説明不要、あとは楽しむだけなのだけど、失言・言い間違え、というより も“迷言”ベスト10を選んでみました。

1.「なかでも、これがとりわけ重要なところです―価値は全然ないにせよ。」(699)
 世の中の規則にはこういうのがありますね。とにかく書類を整えることが重要なんです。

2.「めったにないが、しかしながら、しばしば生じる現象がある」(178)
 悲惨非道の犯行とか、過失による大事故とか、自然災害とか。ガレッティ現象と名づけましょう。

3.「イタリアはミモンとレカンの産地である。」(400)
 単純だけど奥が深い。関係ないが台所洗剤パパミカンを思い出した。

4.「ピクピク動く蛙にカルヴァーニ静電流を実証した最初の人は、当然の権利としてカルヴァーニと命名された」(311)
 静電流が意味不明であるが、まあいいでしょう。ローレンツ変換を発見した人は、ローレンツと命名されたし、プランク定数を発見した人は、プランクと命名されましたから。

5.「極めつけの悪人の血液温度は、通常の人より低いものだ。その手は蛇の手よりも冷たいのである。」(579)
 冷血漢、冷血動物ってやつですな。蛇足ならぬ蛇手というのは新鮮。

6.「君の作文は、書きなれない感じが実に見事に書かれている。」(643)
 よく言われるんです。

7.「夜、ベッドのなかで本を読むのはよくない習慣である。明かりを消し忘れたばかりに、朝、起きてみると焼け死んでいたという例はいくらもある。」(687)
 電灯を照明に使っている人は焼死の心配はないでしょうけど、起きたらデンコちゃんが来ているかも。 ホテルなどで「寝煙草は危険です」と注意するかわりに、 「ベッドのなかで煙草を吸うのはよくない習慣である。火を消し忘れた ばかりに、朝、起きてみると焼け死んでいたという例はいくらもある。」 とでも応用できそうです。

8. 数字、統計、形の言い間違い。たくさんある。 「古代にも骰子(さいころ)、つまり、あの六面体の球はあった。」(330)
「四個の骰子を一度に転がして、六の目を六個ふり出そうとしても、 そうそう思いどおりにふり出せるものではない。」(331)

9. 生誕、年齢、死亡に関する失言。これもたくさんある。
「アレキサンダー大王は、その死に先立つこと二十一年前に毒殺された。」(30)
「予言者モプソスは、死後、占い師になった。」(24)
「アルキタスは死んだ。ただし、死後いかほど生きたのか、つまびらかにしないのである。」(114)
「アルフォンソは、生まれたとき、ようやく二歳になったばかりであった。」(283)
「カール七世は、死後、二十二年のちに射殺された。」(296)
このへんは、別の人の死後といったつもりじゃないの? 「予言者ザカリアは死んだとき、百八十度、生き方を変えたといえよう。」(208)
「カエサルはいまわのきわに―いまわのきわにあたり―いまわのきわに及んで― いまわのきわの直後に死んだ。」(87)
「カリラウスは生まれたとき、まだ年端もゆかない子であった。」(37)
「クリスティアン七世は生まれたとき、さほど老けてはいなかった。」(300)
「スウェーデン王グスタフ・アドルフは、死の直前、なお生きていた。」(290)
「ポーランド王スタニスラウスは、父が生まれたとき、まだこの世にいなかった」(307)
「ピュートル二世が死んだとき……いや、もはや生きていなかったときであった…… そのとき、すでに死んでいた……。」(312)
「リチャード三世は、死後、もはや望みを絶たれたにひとしかった。」(266)
これは論理的に正しいよね。間違いではないと思うなあ。

10. 「もしこの世に馬として生まれたのなら、もはや、やむをえない。死ぬまで馬でいるしかない。」(331)
 馬にもいろいろな人生(馬生?)がありますからねえ。

こうなると「忘れたいのに思い出せない」がガッレッティ語録に残っていないのが 不思議なくらいである。



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