森博嗣『すべてがFになる The Perfect Insider』

講談社NOVELS

ミステリーで私の嫌いなトリックというのがいくつかある。例えば、刺されてもすぐに 死なない殺人とか催眠術を使うという類。ナイフで刺されたけれど、なんとか自分の 部屋に帰ってドアを閉めてから死んだなんて説明を、探偵から密室殺人の謎なんて得意 そうに解説されたら、いやになるでしょ。この話に出てくるのはそういう密室ではありませんけど。
無理に無理を重ねたパズルはおもしろかった。 7年間、無停止で走り続けるOSか、、、。いくら天才とはいえ不可能でしょう。 天才は、発想のひらめきや速度が優れているであろうが、その能力には限界がある。 (ときとして限界のない馬鹿が存在するのと対照的である。) 長期的におこりうる あらゆる事態を想定し、その対策を間違いなく施しておくという方向の才能は、 もはや「予知」という超常能力の範疇であろう。
三人の天才(犀川創平、西之園萌絵、真賀田四季)が登場するが、 とにかく常人離れした感覚の持ち主なので、読者が動機が薄いと感じても しかたがないのである。天才なんだから。とでも作者は言いたいのであろうか。 とにかく動機なんてどうでもよい殺人ばかりである。 ミステリの読者は何の罪もない人を殺して欲しくないと思ってはいけないのであろうか。 それにしても儀同世津子の関係なんて、ドラマなんかでよくあるパターン。 すぐにばればれだと思うのだが、なんでこんな陳腐な手を使うのだろう。


森博嗣『冷たい密室と博士たち Doctors in Isolated Room』

講談社NOVELS

たいていの名探偵は、読者に劣等感を抱かせないようにさまざまな人間的な 欠点を持たせられる。森さんのこのシリーズは頭脳明晰な理系人間が登場しすぎるので 読んでいてつらくなる部分がある。
冒頭、犀川先生が入試問題作成会議で苦しめられるのが、天才を遇する世間一般の 態度として面白い。犀川の作成した微積分の問題はまともに解けば30分以上かかるが、 ある式変形に気がつけば5分で解ける。問題としては優れているが、こういうひらめき が必要な問題は入試にはむかないので なんとかしてほしいと別の委員から言われて困るのである。 でも、この程度のクレームを処理できないような頭脳なのか? いや、読者にそう思わせることによって優越感を与えようという作戦か。 特殊な式変形を伴う問題は、ヒントとなるような簡単な問題を先につけて 出題するという手法は、大学入試を経験したものなら知っているはずなんだけど。
それにしても、解説で前作「F」は、動機を考えれば謎が解けるって書かれているのは 納得いかないな。ミスディレクションかな。


心に残ったフレーズ

あの発想はすごいじゃないか。誰も気がつかなかった解析方法だ
こんなセリフで誉めてもらえたら死んでもいいじゃないか。

光瀬龍『闇市の蜃気楼』

実業之日本社, 1993

戦争・終戦を語る後記が良い。光瀬さんは、昔は後書きを書くのを嫌っていた のに、最近は楽しんでいるようだ。敗戦後の日本は「虚脱と混乱と無秩序」 ではなかった、と振り返る。


心に残ったフレーズ

これからたとえどんなにひどい世の中が来ようと、 あの戦争の時代より悪くなるはずがない。どう転んだところで明日が今日より 悪くなるはずがないのだ。ただ、明日があるだけ。底抜けに楽天的な未来が あるだけだった。伝統的な権威も、学歴も、財産も何の意味もなかった。

久世光彦『謎の母』

朝日新聞社, 1998

「女生徒」のさくらが見た作家朽木糺(ただす)の生活。朽木は太宰治がモデルである。 さくらの弟で不良の鮎郎は「斜陽」の直治とオーバーラップしているような気がする。 書き初めで書く言葉についていろいろ迷って結局「葉」にするところが面白い。 この「葉」の章の話が一番うまくまとまっていて好みである。 運動会の場面もある。「津軽」とは違って敗戦後だから万国旗の日の丸が切り 取られていた、というところが悲しい。時代が意外なところに顔を出す。

この作品で、太宰の隠れファンであった作者が没後50年を区切りにカムアウト したそうだ。 太宰への思いとは別に、それを作品の形にするのはとても難しいと想像できる。 太宰ファンの目は厳しいよ。女性独白体を使うにしても90%の出来では満足できない。 感想を求められれば、よく書けている、でも違和感が残る、といわざるを得ないもん。 文体は最初気持ち悪かったが、後半になって読むほうも書くほうも慣れたのか調子が 出てきたように思う。でも文体がこなれてくるのとは逆に、後半の展開は唐突である。 誰も太宰にはなれはしない。太宰を目指すなんて不毛である。 太宰を振り切ることもできそうもない。


藤原伊織『テロリストのパラソル』

講談社, 1995

第41回江戸川乱歩賞受賞作。 全共闘世代(菊池、桑野、優子、浅井)の夢物語。 偶然の支配する世界で都合の良い出来事ばかりが次々とおこる。 爆弾テロ事件だし、指紋を残さず電話番号はメモを残さず暗記するし、 「電気箱」という恐ろしい拷問が出てくるという殺伐とした話なのに、 どういうわけだかほのぼのとした雰囲気がある。 自由でのんきで優しくて賢く強いアル中のハードボイルドな主人公の魅力であろう。 矛盾だらけでも面白ければいいんです。

作者の言葉の中に太宰治が出てくる。 とすると、テロリストが「くるくる回す」パラソルは、『満願』に出てくる パラソルを意識しているのであろう。


山田正紀『螺旋[スパイラル]』

幻冬舎, 1997

風水林太郎という景観心理学者が探偵であるが、この物語の実際の主人公は ペーペーの新聞記者関口邦夫である。 宗教がからんだ事件はなにやら京極夏彦の世界にも見えるのだが、 蘊蓄が少ない分、こじつけの説得力に欠けるような気がする。 探偵にもっと最初から登場してもらったほうが良かったのではないか? なんといっても旧約聖書と古事記を一緒くたにした世界を房総半島 にもってくるとんでもない設定である。 これを強引にまとめあげるには、京極堂なみの饒舌が要求されるだろう。 公共事業をめぐる政治的な争い、環境問題、善悪、正義と言ったテーマが 盛り込まれているのだが、書き下ろしの長編という性格上、 ちょっととっつきにくい。 それでも、描かれている人物の善悪が陰画のように反転するところが なかなか見事である。 大がかりな死体消失のトリックよりも、太宰治の『ハムレット』を思わせて こちらの方が面白かった。 p.319関口が県庁の役人を尾行する日が土曜日というのはおかしい。


川端康成『雪国』

新潮文庫

冒頭だけはよく国語の試験に出ていた。 雪国の芸者駒子を一年に一度訪ねる暇で裕福な文学者島村(妻子持ち)、 冒頭に出てくる声のきれいな美女(「駅長さーん」)葉子との微妙な関係。 渡辺淳一の『失楽園』のラストがかっこいいという人もいるけど、 私はあれは救いがない結末だという気がする。 不倫小説について意見を述べるならトルストイの「アンナカレーナ」 あたりから押さえとかないといけないと思うのだが、 耽美的な心中であれ悲惨な列車事故であれ、こういう関係に悲劇的な結末を はっきりつけるのは無粋であると思うタチので、『雪国』のラストはとても 気に入った。天の河、いいじゃないですか。川端康成はよほど芸者が好きなの だろう。このことはたいして誉められたことではないと思うが、好きな対象を 心を込めて描写することで、美を作り出した。それも、自己満足な美ではなく、 普遍性を持った芸術として認められたのだから、幸せな作家である。

あるところで鴎外が「踊り子」ではなくて「舞姫」と題したことが、エリスへの思いの表明であった とする評論を読んだ。あの作品は、美文調である。表題も美しくしなければ、 恥ずべき自分の行為が鴎外の文学とはならなかった、ような気もする。 しかし、「舞姫」が「踊り子」なら良くなかった、というのなら、 「伊豆の踊子」はどうなるのだろうか?川端康成は芸者が好きだが、 本気ではないから「伊豆の舞姫」とはしなかったとでも批評するのだろうか。 ところで、芸者の符丁で、月に300本とか600本なんてのが出てくる。 あなたはこれを聞いて何を想像しますか?

島村の屈折した心理は、中学高校の国語の問題には絶対向かないと思う。 川端康成の生い立ちを知ると、あの深い屈折を理解できるような 境遇の人は滅多にいないだろう。なにしろ、三歳で両親と死別、七歳で祖母を亡くし、 十歳で姉を失い、十五歳で祖父が死去するのである。 フィッツジェラルドの描くところの、挫折しながらも屈折しないような アメリカ人には理解できないだろう。(ここでいう「挫折」 とは人生における劇的な失敗であり、「屈折」とは精神思想上のひねりである) 島村は、挫折なくして屈折しているのである。(もちろん屈折した理由は 何かあるのだろうが、読者に理解させるようには書かれていない。) 挫折して屈折するならなんとなく分かるけれど、挫折なしはちょっと難しい。 ちなみに太宰はもともと挫折なしで屈折していたうえに、挫折してさらに 屈折したのだと思う。いわば複雑屈折した作家である。太宰のテーマの中には、 挫折前の屈折した部分と挫折後にさらに屈折した部分がなんとなく 読み分けられる気もするのだが、どうだろう。 (例えば『走れメロス』の王様は挫折なくして屈折しているが メロスは、挫折しかけて屈折しかけたのである) 永井荷風くらいになると、へそまがりか屈折なのかわからなくなっている。 太宰も健康で長生きしたら、荷風の境地に達していたかもしれないなあとも思う。 川端康成が「雪国」を天の川で終わらせたように、それ以上書くと作家の美的センス に反してしまう点がある。もちろん作家によってその限界に差はあるのだが、 読者は自分の好きな美を求めて読むのだ。それは主観の問題ではなく、 エグイ話を嫌う読者に支持されてきたものが古典として残った事実がある。


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