高橋源一郎『日本文学盛衰史』 (講談社, 2001)
21世紀初頭の古代日本の文学の歴史記録が最近発見された遺跡から見つかった。 研究者が解読した結果、 石川啄木はテレクラで遊び、後にブルセラ屋の店長になったという。 車椅子の詩人横瀬夜雨を巡る女性ファンの確執はインターネットの掲示板で フレームを起こし、田山花袋はアダルトビデオ『蒲団・女子大生の生本番』を監督した。この文書は、古代日本のインターネットの普及が通説よりも百年以上遡るとして 歴史研究者の間に論争を巻き起こしている、、、
この本は、サービス満点の虚構がふんだんに書き込まれた明治の文学者たちの物語である。夏目漱石が『たまごっち』の入手先を森鴎外に尋ねるところから、 作品世界がぐにゃりと歪み、作者の精神が再構成した異世界に吸い込まれる。 自然主義がそのままを露骨に描写するなら、ビデオを使えば良いではないかと発想で、 花袋にアダルトビデオを撮らせたら、撮影現場はどうなるのというわけだ。 でも全編に渡ってフザケテいるわけでなく、というか、シリアスな場面を読ませるためにあらゆる手練手管を尽くしている。そのシリアス部分で一押しが、 特に明治文学の離陸の瞬間など迫真の描写だ。 国木田独歩が花袋に勧められて二葉亭四迷が訳した「あひゞき」を読み、言文一致の 真髄を悟る場面である。
「今なら、ぼくはこの世界を抱きしめることができる」言葉と内面の発見があり、今の日本語がある。 虚構でも、ここには文学的な真実がある。 島崎藤村も独歩も、花袋の助力で新しい境地を開いたと作者は言い、 花袋の心情に迫る。後半、作者らしきタカハシさんも登場する。胃からの出血で入院、 漱石と同室になり漱石の作品の謎解きが 始まる。さて、この謎はリドルなのか、エニグマなのか、謎である。 まあ、発表する小説に特定の人にだけ判るメッセージを埋め込むなんて、 ちょっとした作家ならやってみたいでしょうね。 読者サービスで書かれている性風俗業の描写の詳細も興味深いのだが、 同じフザケタ部分でも
「 鴎外は報知をめくった。阪神はどこだ? 阪神は少しずつ確実に下降しはじめていた 。空港に近づく飛行機みたいに。八月頃には着陸できるだろう。どこに? 地面に。それでいい。このあと、ヨーダに似た大蔵大臣が登場するのだが、これが爆笑物であった。 タカハシさんの母親が繰り返し語る物語は、明治時代のベストセラー、 「誰からも忘れられた誰も読まない」小説、 小杉天外の『魔風恋風』の語り口そっくりという。 あんなのが流行ったことが理解できないと嘆く作者。
別に鴎外は、阪神のことなんかどうでもいいと思っていた。彼が好きなのは秩序だった。ものごとはあるべきところになきゃならん。鴎外はそう思っていた。そのために働いてきた。そのために生きてきた! そのために書いてきた! 」
「この世でもっとも耐えがたいのは、母がする物語、物語と呼べる代物でないとしたら 昔話、そしてその反復。もっと耐えがたいのは、その反復を母が実際に生きたということ。母がする昔話はこの世でもっとも退屈な話だった。そして、なにより耐えがたいのは、それが生きられた話であることだった。」ここまで言われたら、たとえ虚構の世界でもお母さんは死ぬほど悲しいと思うぞ。 でも実は、共感している自分(読者)がいることを、そして自分も子供から嫌われる 話を繰り返してしまうであろう悲哀の無限連鎖を示唆して、 この文学史は終わるのである。
ダグラス・アダムス『宇宙クリケット大戦争』 (風見潤訳, 新潮文庫,1985)
前作『宇宙の果てのレストラン』で過去の地球に置き去りにされたアーサー・デントと フォード・プリーフェクトは時空の渦巻きによって破壊される直前の地球に戻る。 そこは英国ロード・クリケット場で、極悪クリキット人を解放するための “三柱門の鍵”を探す戦闘ロボットたちが暴れ回っていた。
アーサーとフォードはスラーティバートファーストの宇宙船<ビストロマス号>で 最後の“鍵”を先に手に入れるためパーティーに乗り込む。 ところで<ビストロマス号>はイタリアレストランである。 それは「超科学による、もっとも強力な計算力」を持つビストロマシックス駆動に よって動く。その原理と言えば、
「レストラン内部で勘定書に書かれた数字は、宇宙のほかの場所で、ほかの紙に書かれた数とは違う数学大系に従っているという事実である。 このたった一つの事実が、科学界に嵐を巻き起こした。それは科学を完全に変えて しまった。数学者の会議が立派なレストランで無数に開かれ、最高権威者の多くが 肥満や心臓発作で死亡し、数学は何年ものあいだ停滞した。」ストーリより何よりもこの針小棒大な宇宙観がセンスオブワンダーなのである。 この作品を「SF」と呼ぶのは、奇怪な想像力に捧げる読者の賛辞である。 もっとも相手を深く傷つける会話とか、すべてを台無しにしてしまう鬱病のロボットの 行動を楽しむためには、作者の精神の屈折を辿るだけの心に傷が読者に必要かも しれない。
「…自分が本当に魂をもっていることを発見したのが最初のショックだった。 …その魂は、彼のような立場の男がもっていて当然の素晴らしい魂ではなかった。 そのことを発見したのが第二のショックだった。」自分の魂を見つけて嫌になった経験がなければ、こんな文は書けやしない。 トリリアン、ザフォードとマーヴィンも共に宇宙を救ってくれた。 このシリーズの冒頭であっさりと地球は破壊されてしまったけれど、 宇宙は何度も救われたのである。ありがとう。 日本で訳されていないが、ヒッチハイクガイド三部作にはまだまだ続編がある。 アーサーが、救われた地球で恋人と空を飛び、運命の星に出向くことになる。 この作品で張られている伏線が生きてくるのはこれからである。
小林恭三『肉食屋敷』 (角川書店, 1998)
表題作はバイオホラー。肉体と意識をぐちょぐちょにする邪悪な小説である。
「ジャンク」は人体や動物の肉体を部品のように移植する技術が普及した世界での 西部劇。
「妻への三通の告白」は精神の歪みがもたらす現実との離脱。
「獣の記憶」は多重人格もののミステリーで意外な結末。 小林恭三さんにしては後味が良い。
江波戸哲夫『イントラネットクーデター 小説・退陣動議』 (祥伝社, 1997)
会社の内乱は難しい。 敵の失敗は望ましいのだが、会社を潰してしまっては元も子もないからだ。
レインボー食品のワンマン会長・花輪をおだててイントラネットを導入させ、 そこそこの失敗を口実に君臨する会長の足下をすくおうという大谷社長一派。 技術に長けた社員高松を会長と社長で引き抜き合うというのもありそうな話。 今となっては電子メールは常識だから、導入時の議論なんて歴史的な価値が あるんじゃなかろうか。 会長に取り入ろうとするメールに秘書があたりさわりのない返事を作文するなんて のはありそうな話。
会長がご執心でCMに起用し続けている元アイドル女優の降板をめぐり、 掲示板で社員の不満が爆発、それを見た会長がイントラネットの廃止を決める。 取締役会で会長の退陣動議が社長から出され、その裁決の行方は? 会社の経営は多数決ではできないとすれば、決定する人の能力が問われる。 権力者の衰えが評価されないシステムが、下で働く人々にとんでもない苦労を 強いるのである。困ったことだ。
それにしても切れ者だった高松くん、最後には心身共にぼろぼろになってしまう。 ネットワークは恐ろしい。
小松左京『BS6005に何が起こったか 宇宙SF傑作選1』 (ASPECT NOVELS, 1996)
小松さん、凄い。昔、こんな作品群に曝されてしまったのだ。中学生でこんなの 読んだら、頭がおかしくなるのも無理はない。 久しぶりに読み直してみてもそのエネルギーに圧倒されてしまう。
表題作の支離滅裂な導入、サイバースペースを舞台にした先見性もさることながら、 クリアな落とし前の付け方が素晴らしい。
「歩み去る」の飛躍の仕方にはため息が出る。当時の世界を彷徨う若者たちの 姿から、こんな突拍子もない未来を描いてしまうんだから。
「人類裁判」はエコブームの先取りではあるまいか。 小松さんは30年以上先を見通していたね。
「神への長い道」冷凍睡眠で未来に蘇ったら、人類は行き詰まっていた。 なにをしても食っていける世界で「人生って、これだけのものか?」という贅沢な悩みが、 人類の種としての限界へと置き換えられ、 未来人と共にさらなる可能性を探る旅に出る。そして、未来の知性でしか到達できない 高い境地をなんとなく納得させてしまう文章の説得力。宇宙人の論理はわれわれには 理解できないとする不可知論的なSFは、一見もっともらしいのだが 所詮は逃げにすぎないのだ。
「あなろぐ・らう゛--または“こすもごにあII--”」 は、なんとポルノ宇宙論SF。とんでもない作家だよね。
小森健太郎『ネメシスの哄笑』 (出版芸術社, 1996)
同人誌に発表された「ネメシスの哄笑」という作品を探す編集者溝畑。 なぜか関係する評論家二人が殺される。 趣向を凝らしたメタフィクション。 事実関係をもとに書いた作中の作品が作中の事件の謎を解く手がかりになっているので、作中作の記述には本格推理のルールは適用されないと言うのがミソである。 作品の世界はそれだけで閉じていて現実まで浸食してくるわけではない。 だから扉や編集者あと書きはちょっとはずしている、というかわざと ミスリーディングしているのかも。と書くと、ネタバレになるのかなあ。
それよりもある人物の不可解な行動が説明されてもなんとも不可解のまま残る。 ひたすら別の原稿を送りつけることがどうして必要だっていうんでしょう。 不可解な行動に「まわりくどい、もつてまわったやりかたを好む性格」 だったからという説明では納得できないなあ。 尾行があるから「話の内容を聞かれるとまずいと」 直接会うのをあきらめたというのも変な説明である (尾行者が誰か判っているのだし、会ってから場所を変えてもよいはず)。
五代富文、中野不二男『ロケット開発「失敗の条件」 技術と組織の未来像』 (ベスト新書, 2001)
天気予報でおなじみの人工衛星「ひまわり」はすでに寿命がすぎていて、 いつ機能しなくなるかもしれないという。なぜ予備機が用意できないのか。 宇宙開発事業団で長年ロケット開発に携わってきた五代さんと技術ライターの中野さんの対談で明かされる日本の技術政策の貧困。 お二人の話を聞いていると、技術的な失敗よりも政治家・政策の問題が 浮き彫りになってくる。 日本の宇宙ビジネス参入の道は、政治家が閉ざしているようなものなのである。 お役所の力関係で大事な衛星の予算がつかないなんて、これこそ政治の失敗じゃないか。
ロケットの打ち上げには“失敗”はつきものという。 成功率は90-95%、良くても20回に1回は必ず失敗するそうだ。 失敗して新規まき直しするのはいけない、失敗からできるだけ多くのことを学ぶべき。 失敗を見直すのは精神的に辛いけれど、これは確かにそうです。 もっとも打ち上げの失敗をダイレクトに「技術力の低下」に結びつけるべきではない、 失敗にもいろいろある、という主張はなんだか言い訳じみている。 確かに失敗の原因はいろいろあるでしょうけれど。
ロケット打ち上げ失敗に対する国民の気持ちはどうだろうか。 筆者は宮城まり子さんへのインタビューを好意的に取り上げている。 マスコミとしてはもちろん、ロケット打ち上げ失敗で消えた何百億円がもし福祉に 使われていたら何人もの人が救えたのに、と言わせたかったけれど、宮城さんは
「将来のために、国民のためにがんばっておられるのでしょ、失敗することだって あるでしょ」と応えたという。これが国民の“奥”にある声だというのは、ちょっと我田引水。 私なんかは、もっとしっかりしてくれ、と言いたいよ。 H-II八号機の打ち上げ失敗のあと、ある議員が「今度失敗したら、承知しねえぞ」と いったとか。ずいぶんひどい言い方だとは思うけど、そう言いたくなる気持ちも 判る。これだって、国民の声だよ。
2001年7月29日の朝日新聞「ひと」欄は宇宙開発事業団理事長の山之内秀一郎さん。 鉄道エンジニアだったそうです。そういえば、中野さんと五代さん、 新幹線技術について、チャレンジングな要素がない、わがままな開発と 書いています。 鉄道技術は成熟したように見えて見落としが事故につながっているとか。 山之内さんは次のH2Aロケット打ち上げについて「考えませんよ。失敗したらなんて」 と書かれているけれど、うーん、実に心配です。