1. 多和田葉子『光とゼラチンのライプチッヒ』
2. カート・ヴォネガット・ジュニア『チャンピオンたちの朝食』
3. カート・ヴォネガット『青ひげ』
4. カート・ヴォネガット『デッドアイ・ディック』
5. 奥田哲也『霧枯れの街殺人事件』
6. 清水義範『CM殺人事件』
7. 谷岡一郎『「社会調査」のウソ-リサーチ・リタラシーのすすめ』

多和田葉子『光とゼラチンのライプチッヒ』

講談社, 2000

「盗み読み」
題名の意味が不明。夢の中にいるような不条理な物語だが、 作者は真面目な顔をしながらギャグをかまして いるので注意。10-12ページにわたって6回も「陰唇」という言葉をばらまいたのち、 別の文脈ではあるが、 金魚売りに「これでは健全な読者には納得してもらえないよな。」とつぶやかせる。 笑って納得してしまう私って、健全な読者でしょうか。 フェミニズムを批判しているのかな、よくわからないが。 作者はユニークな言葉を探し続け、それを使うことある種の人と闘っている。 ユニークな文章を書き続けることのつらさなのか、夢の中でも適切な言葉が出てこないと せっぱ詰まってしまう。「枕木」(『ヒナギクのお茶の場合』収録)の流れをくむ作品。

「胞子」
きのこさんが私に語る言葉の違和感にこだわっているうちに、さまざまな想像が広がっていく。 この変な感覚は多和田さんの得意なところ。結末近くで状況が説明されるが、これは 幻想から狂気に至る世界である。あんまりこの方向にのめりこんでいかないで。

「裸足の拝観者」
こういう新境地を読ませてもらうと嬉しい。しかも楽しい。

「最澄は椅子の上に足を引き上げて、目を閉じている。」
仏像を観に入った寺の本堂でめぐらすふわふわとした思いに形を与えている。
「うとうととうたたみている」
「そうだった、何が大きくて何が小さい、などという知恵は、 歩いて物にぶつからないための便利な数式に過ぎなかった」
千手観音が溜め息をついたとき、私もはぁと溜め息が出た。良い物を読ませて貰いました。

「ころびねこ」
会話で構成された作品。なんなんでしょうね。

「砂漠の歓楽街」
この街はラスベガスがモデルかな。

「チャンティエン橋の手前で」
ベトナム観光旅行記。多和田さんの文体で旅行記を書くと 幻想と虚構が現実から浮き上がってしまう。私はやはり幻想の部分が一番好きだ。 「核実験をしているフランス」なんて時事問題が異物のように感じられる。 随所に挟み込まれる感想や感慨が良い。

「売るというのはこういうことだ。売るというのは世話を焼くことなんだ。 相手が丸焼けになるまで世話を焼く。」
観光客であることに対する偽悪的な態度や
「〜する人を●とすると、和子は●であった/●に文句があった。」
という定型化した表現が面白い。

「ちゅうりっひ」
チューリッヒを描いた作品としては他に「Zという町」(『きつね月』収録)がある。 こちらはひらがなばかりと思ったら、ところどころ漢字が混じっている。 懐かしいなあチューリッヒ。多和田さんはチューリッヒ大学で博士を取られたのですね。 私はあの湖で鴨といっしょに泳いだことがあります。

「捨てない女」
コミカルな文章で、ユーモアが判りやすいから多和田葉子初級者にはお勧め。 主人公の作家の創作の秘密が明かされている。どこまで実体験に基づいているのかなあ。

「夜ヒカル鶴の仮面」
テーマは死。登場人物が棺桶の中から出て棺桶に戻るという不気味な戯曲だ。 いろいろ象徴的なセリフが語られるが、私には意味はわからない(なんとでも取れる)。 上級向き。

「光とゼラチンのライプチッヒ」
幻想と現実が不意に場面転換する不条理な世界をバスで旅する女性とスパイ。 バスが突然炎に包まれたのは、事故かテロかそんなことはどうでもよいのか。 いたるところに読者を振り落とそうとする矛盾と飛躍と説明不足をばらまきながら、 作者の筆は一見気ままに疾走する。あたかもこの小説は無茶苦茶だといわせるために。 普通の“不条理”小説ならば、原因は判らないがなにか不条理なことが起き(脛から かいわれ大根が生えるとか)、それにどういう反応が起こるのかを順序立てて描くであろう。 いわゆる“奇妙な味”を狙ったといえば、ちょっとちがうような気がする。 多和田さんの作品はそういう分類にうまく当てはまらない。ユニークなのだ。

この作品集のテーマは“旅”かな。旅行者の視点で書かれた街。 そして、いつもの幻想と狂気とギャグ、 現実からのずれ、現実から生まれ、 普通は言葉にならない頭の中に駆けめぐるひらめき。 いろんなものが一杯詰まっているのが人間だから、 いろいろな書き方に挑戦しているのかも。 多和田さんが描きたいものは、多分ごった煮の混沌だ。 多和田さんはそれを料理するために、鋭い刃物を振り回している。 新しい角度ですぱっと切れたとき、混沌の中から溜め息が出るような表現や作品が 生まれてくる。 そしてどんな切り口からも、深い混沌がかいま見える。

カート・ヴォネガット・ジュニア『チャンピオンたちの朝食』

浅倉久志訳, ハヤカワ文庫, 1989

アメリカを痛烈に批判した本である。作者は神の視点で物語り、作中にも登場する。 最初にアメリカの国歌・国旗について。「星条旗よ、永遠なれ」の歌詞が載っている。

「おお、友よ、いまもなおあの星条旗は 自由の国、勇者の地にひるがえっているか?」
「宇宙には一千兆の国々がある。しかし疑問符だらけのちんぷんかんな国歌を持っている のは、宇宙広といえども」アメリカだけだというのである。 これを読んで、しょうもない歌を国歌に採用している(と国民が文句を言っている)国は 他にもあったと知って安心した。 もっとも、アメリカでこんな本が出版されること自体がアメリカの懐の広さを示すことに ほかならない。

解説によるとイラストの数は116葉。 作風は村上春樹さんの『風の歌を聴け』に似ているかも。 物語はキルゴア・トラウトがミッドランド・シティでドウェン・フーヴァーと出会い、 フーヴァーが発狂する。人間の精神は単なる機械と化学反応の産物という突き放した視点は もの悲しくはあるものの、決して冷たいものではない。

「わたしが本書の中で披瀝している疑惑、つまり、人間はロボットであり、 機械であるという考えについてひとこと。」
「私は人間を巨大なゴム製の試験管にみたてることもある。」

カート・ヴォネガット『青ひげ』

浅倉久志訳, ハヤカワ文庫, 1997

多和田さんの作品は主人公が現実から離れて幻想、狂気に向かうが、 ヴォネガットは現実の方が狂っていると主張する。 同時進行で二人の作品を読むとどっちが狂っているのかわからなくなって 頭がクラクラする。読書によるトリップ?
『チャンピオンたちの朝食』に登場した画家ラボー・カラベキアンが主役。

「世界全体がとつぜん発狂したような気がする」
「…生命はどこへ向かっているのか? 途中の休憩はいっさいなしに、誕生から死へ 向かっている。その流れは、格子縞のテーブルクロスの上に梨のはいった果物鉢が おかれているだけの絵にも見いだされる。巨匠の筆でカンヴァスに移されたならばだ。 …偉大な絵の中には、誕生と死がつねに存在する。」

カート・ヴォネガット『デッドアイ・ディック』

浅倉久志訳, ハヤカワ文庫, 1998

取り返しのつかない過ちを犯してしまったら、その後の人生をどういう態度で 過ごせばよいのだろう。直接の被害者だけでなく、その家族と自分の家族にどう 償いをすればよいのだろうか。その答を薬剤師ルディ・ウォールツに淡々と語らせる。 そういう人生にもなにかしら救いはある、悲しいがまったくの悲劇にはならないだろう、と。

「だれもがみんな自分の一生を一つの物語として見ているように、わたしには思える。… もし、ある人物がふつうの寿命である六十年あまりを生きのびた場合、形のととのった 物語としての彼または彼女の人生はすでに終わって、それからあとの経験はつけたりの エピローグだという可能性が多分にある。一生はまだ終わっていないが、物語は終わったのだ。 もちろん、なかにはエピローグを生きることがどうしても性に合わずに、自殺する人びと もいる。アーネスト・ヘミングウェイが頭に浮かぶ。…」
江藤淳さんもそうかもしれない。 物語の終わりで自殺を選ばなかった人は、生き続けることを選んだのだ。 あきらめて生き続ければ、少しはいいこともある、かもしれない。 物語の結末でミッドランド・シティは中性子爆弾の犠牲になる。 (キルゴア・トラウトがドウェン・フーヴァーと出会った町である。 ヴォネガットの物語は同じ世界のエピソードを別の視点で語らせる面白さがある。) 結末については、解説から作者の言葉を引用しよう。
「…結末は重要じゃない。どうでもいいんです。… 結末とは、作者が一冊をかけて積み上げてきたものの仕上げだろうと、読者は想像します。 ところが、ちがう。作者が積み上げてきたものの仕上げは、全体の三分の二あたりのところで もう終わっているんです。いいたいことはそれまでにいいつくされ、すべての場面は 演じつくされた。本の最後の部分は、ちょうどこういっているようなものです。 「おいでいただいて、ほんとにありがとう。おもてなしはこれで全部です。料理は品切れ、 角氷もなくなりました。もうこんな時間ですよ。さあ、コートをどうぞ。また、近いうちに お会いしましょう……」」

奥田哲也『霧枯れの街殺人事件』

講談社文庫, 1995

中途半端なミステリ。 霧に包まれた街、北海道の久寿里、というイメージからは幻想的な物語、あるいは ホラーが始まる予感を抱かせるのだが、読んでみると地道な刑事物である。 で、警察の捜査をリアルに描いているかというと、登場人物、特に 捜査の主流をはずれた川崎たち四人の刑事の会話はギャグばかり。 諧謔なのかシリアスなのかわからないのが現実というものなのかも知れないけど。 この本では結局登場しない署長への数限りない悪口が傑作である。 しかし、、、内容は物足りないなあ。物的証拠がないから、論理によるアクロバット は良くできているんだけど、決め手に欠けるのだ。 あと、納得できない、説明不足なところがある。 川崎たちが最初の殺人の容疑者として目を付けた葛西の首なし死体を捜査に 森本が遅れて現れた理由が書かれていないから、ひょっとしてと思ってしまった。 葛西は死体で発見される前に普段とは違う自殺をほのめかす言動をしているが、 自殺ではないと言うならその理由を説明するべきではないか。

清水義範『CM殺人事件』

光文社文庫, 1986

“長編ユーモア推理小説躁鬱探偵コンビの事件簿” 「H殺人事件」「Y殺人事件」などのシリーズになっている。 楽観的なアルバイト学生、不破太平のキャラはよいですね。 ネタのほうは、最近よくあるパターンで今ひとつ。 不可思議な事件に理屈の通った解決がないとスッキリしないのは贅沢か。

谷岡一郎『「社会調査」のウソ-リサーチ・リタラシーのすすめ』

文春新書, 2000

論語では「学びて思わざるは則ち罔し。思いて学ばざるは則ち殆し。」と教えるが、 この本を要約すれば「学びて思わざるは則ち殆し」。 多くの資料をいくら読んで学んでも、その中味を批判する思考力がなければ、 世論を誘導しようとする人たちに簡単に支配されてしまうのだ。 世の中の社会調査の多くは信用できないと、例を挙げて説明している。

「百人以下の数字でパーセント表示するべきでない。」
それにしても面白い先生である。学会、マスコミといった権威に堂々と挑む度胸と勇気は すばらしい。批判するだけでなく、さまざまな建設的な提言を行い、日本版GSSという データ収集・公開システムを立ち上げている。 私なんかは、そもそも信用できる社会調査があるのかね、と思っていたのだけど、 社会調査の客観性を高めるために研究・努力されている先生もいるのだ。 しかし、全然当たらないF教授の選挙予想、計算を間違えて変な数字を報道した新聞 への批判なんて社会調査ではないでしょう。数字を濫用した変な説をまきちらすマスコミ 批判の書、いわゆる“トンデモ”理論の研究書としても読める。 私は残念ながら“リサーチ・リタラシー”のテストでは合格できそうな答ができなかった。 ちなみにテストの最後の問題「女性が長生きするのは当然」と題する大島信三氏の記事に 対する解答の批判は実に面白い。フェミニズム批評ならぬ社会調査的批評を名乗っても 良いくらいでした。

私にはまだまだ批判精神が足らないようだ。 だからがんばって、少しだけこの本を批判しておこう。 著者は世論を操作する手法の専門家ですから、この本でも当然読者の意見を操作する さまざまな技を使っているはず。 例に出した悪い社会調査の数は、世の中に存在する社会調査のどのくらい の割合を占めるのか。それは十分な調査数で、偏ったサンプリングをしていないか。 そして、社会科学には客観的な方法が存在するのか、それを証明できるのかという 問題だって最初に考えなければならないのだろう。 誰がやっても同じ結果が出る社会調査の方法が目標であるが、 同じ社会調査でも時間によって結果は変わるという。 それなら社会調査で得られた数字の意味はなんだろう。 著者の議論の技を使えば、どんな社会調査だってゴミであるという結論だって出せそうだ。

ところで、第五章、“セレンデピティ”という言葉の使い方は理系とはちょっと違う。 科学の世界では偶然の発見を意味することが多いのだが、 社会科学では“能力”として訓練できるものなのだろうか。



Copyright(C) 2000 SASAMI. All rights reserved.
[濫読の戒め]

[目次]