「空飛ぶ馬」のミステリ・シリーズ第四作であるが、今回は趣が違って文学上の謎を追う。 文学部の女子大生“私”は、卒論に芥川龍之介を選ぶ。折しもアルバイト先の出版社で 作家の田崎信から生前の芥川が言ったという不思議な言葉を聞かされる。 自作の「六の宮の姫君」について、芥川は
「あれは玉突きだね。‥‥いや、というよりはキャッチボールだ」というのである。 芥川の王朝物と言われる作品は読者に一定の予備知識を要求するものがあって、 一読して意味が分からず途方に暮れることがある。 「六の宮の姫君」のラストも、よく判らない。 あの天才が意味のない結末にしたはずがない。 では、どういう意味があったのか? という謎を解く文学ミステリ。 芥川の作品は童話でも超自然的な話でも理知的で、物語は透明で理性の説明がつけられる。 謎があるとしたら、読者がある事実を知らないからなのである。 つまりきちんと調べれば、謎が解けるのだ。北村探偵は、書簡から交友関係まで 綿密に調べて芥川の謎を解き明かしてみせる。 「羅生門」のラストの謎、菊池寛との交友など芥川の実生活と作品が結びついていく。
ハードカヴァーで読んだとき調査がよく行き届いていて感心したのだが、 文庫の解説でその理由が判った。作者自身の卒業論文をネタにした作品だったのだ。 時間をかけて調べ上げた資料を利用しない手はないよね。 しかもいくらパクっても全部自分の仕事なんだから文句もでない。 卒論って、貴重な財産だ。
読み終えて残った物語の謎がある。それは、芥川の「キャッチボール」発言が 資料に基づいているのか、作者の創作なのかである。どっちなんでしょう?
北村さんの本を読んだら、どうしたって原典に当たってみたくなる。 それでいろいろ読んでみました。 1969年に出ている岩波文庫では、芥川竜之介『河童 他二篇』となっている。 なんで「竜」なの?ここにも謎がありました。
「君や僕は悪鬼につかれているんだね。世紀末の悪鬼と言うやつにねえ。」 (「或阿呆の一生」)芥川の晩年の狂気を見つめた作品に描かれた神経をすり切らせるような切迫した 心の動きは痛々しい。 北杜夫さんが朝日新聞の読書欄(1999.10.24.)に芥川の思い出を書かれていた。 斉藤茂吉への手紙に「絶えずまわっている半透明の歯車」を実際に見ていると 書いていたそうだ。
「誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」(「歯車」)
「この頃又半透明なる歯車あまた右の目の視野に回転することあり、あるいは 尊台の病院の中に半生を了ることと相成るべき乎」これは神経質な人に起こる閃点光輝という症状だそうだ。 また芥川が自殺に用いたのは、茂吉から貰った眠剤ではなく、別に入手した 青酸カリであったという。 北村薫さんの『六の宮の姫君』の中に菊池寛が芥川に貰った催眠剤ヂヤールを 飲み過ぎて意識を失う話が出てくる。(p.266) このことから、芥川の自殺にはヴェロナールとヂヤールを併用したと推測されている という説を紹介しているから、青酸カリという説は最近の研究の発見であろう。
芥川は、晩年においても「河童」「蜃気楼」といった軽い傑作をものにしている。 「蜃気楼」には禅の悟りのような澄んだ境地が感じられる。 とにかく芸域が広い。特に古典から取材した話が秀逸。
清水義範さんの傑作短編集『国語入試問題必勝法』(講談社文庫, 1990) の中に「猿蟹合戦とは何か」という作品があって、冒頭から 【太宰に関する謎から】と題して、「お伽草子」に猿蟹合戦が入っていないことの 考察をおもしろおかしくしている。軍国主義の時代だから合戦の話は時代に迎合した ことになるのを嫌ったとか、フロイト的に分析して性的な象徴であるとか書かれている けれど、本当のところは、芥川が大正12年にすでに書いていたからだと私は思う。 芥川龍之介『トロッコ・一塊の土』(角川文庫, 1969)に入っているから、「お伽草子」 と比べてみると面白い。敵を討った蟹の悲惨な末路が残酷なユーモアを交えて 描かれている。
「六の宮の姫君」「お富の貞操」「一塊の土」ではさまざまな女性の生き方を描いている。 この中ではお富さんが一番幸せそう。 この人、主人の猫を助けるため、破落戸新公の要求に従おうとする。
「なんと言えばいいんだろう? ただあの時はああしないと、なんだかすまない気がしたのさ」この破落戸も実はただ者ではなかったので貞操は守られる。 こういうあきらめの良さが女性の幸せに結びつく話、逆に姫君のように不幸になる話、 我を通して生きてしゃにむに働きあっさりと死ぬ民の虚しい、幸福でも不幸でもない人生、 こうならべてみると、芥川はさまざまな人生を小説という実験室のなかで再現して 観察しているように思えてくる。
人口問題を解決するため産児制限を徹底させた未来の地球が舞台。 中国の一人っ子政策のように子供は一人しか認められない。 二人目以降が生まれてたら、遡及的中絶と称して殺されるか、“落とし子”として 闇の社会で生きるしか道は残されていない。 同じく奴隷的な地位しかないクローンの女性ジーン・ハロー=cが、 落とし子たちのために未来を開く。一種の革命である。 人のいい探偵ドライアーが嫌々ながら棄民たちのために働くうちに、ジーンに惹かれていく。
バツイチのドライアーは愛児と妻を失った悲しみから頭に快楽用のソケットをつけ “ボタン”に耽っていた。ジーン、落とし子との出会いでこの悪癖から抜け出し、 人間として成長していく。頼りになる仲間もいて、アットホームな物語である。
落とし子は教育が受けられないから変な言葉になる。なかでも人の敬称にミスターではなく 「〜さん」を使うというのは、面白い。男女とかで使い分けなくてもすむから 「さん」「さま」は便利なのだ。アメリカでも西海岸なら通用する。
ニーブンのリングワールドにつながる未来史と似た設定が多いのに気がつく。 ドライアーは第二話で分子ワイヤで首を切られる。こういうのは背筋に寒気が走る。 公園で蜘蛛の糸が張っているのを見ると、どきっとしたりする。蜘蛛の糸といえば、 芥川にも「首が落ちた話」という不思議な話があるね。
ゲーデルの不完全性定理を正確に理解することは難しいんだけど、 その雰囲気と数学の発展における意義くらいならなんとかついていける。 ゲーデルの定理は、ヒルベルトが作ろうとした完全で無矛盾な数学を否定したのだ。 でも現実の生活には、いくら論理的に考えていっても、正しいか間違っているのか 決められないことっていくらでもある。数学も実はそうなんだということ。
一風変わった天才の業績と生涯を関連付けながらわかりやすく説明している。 ゲーデルの人生には戦争の暗い影がつきまとい、本来ならば肯定的に伸びていた精神が 幾重にも折れ曲がってしまったようだ。
神の存在証明というのも、論理のゲームとして面白い。 例えば、神はあらゆることが可能な存在である、と定義すると 誰にも解けない問題を作ることも可能であり、そんな問題ができたら 神自身にも解けないから矛盾するというような議論があるわけだ。 議論は一種の作品であり、議論している人自身をどうしたって反映してしまう。 ゲーデルが神の定義として「肯定的性質」を用いたところに、 救いを求める気持ちが働いているのではないだろうか。
小説家の竹本さんが描いた囲碁漫画。 『妖霧の舌』で登場するとんでもなく不潔な棋士桃井君のモデルは、 やはり将棋の故村山聖九段でした。 最近の竹本さんのミステリーにはずいぶん裏切られてきたけど、この作品は面白かった。 (『緑衣の牙』が『眠れる森の惨劇』の改題と知らずに買っちゃたとか、 『風刃迷宮』のひどい結末とか、どうなるかわからん『闇に用いる力学』とか、 何度もがっかりさせられたもので)
対局中、吐き気を抑えて長考、苦吟する牧場智久君。極限まで脳を酷使する 智久を心配する武藤類子ちゃんと植島君。 解説役の植島君が主人公みたい。でもやっぱり、読みに没頭する智久の頭の中の シュールな風景を作者はこの漫画で表現したかったのだと思う。 絵は作者自身が認めているように巧くはないのだが、文章では表現できない何かがある。 漫画の本質とはなにか、考えてしまった。 作家の友達が大勢アシスタントとして名前を連ねていて話題になってるけど、 そんなのは本質ではないよね。
`ヒーザーン'は、異教徒(heathen)の南部風訛とのこと。 よくわからない悪夢のような未来の世界のイメージが不親切に提出される。 アメリカを支配するドライコという超企業の創業者サッチャーがなんとも異常な独裁者。 通貨改定ってデノミみたいなんだけど、それで資産を独占したというのも説明不足。 ミュータントのあふれる下町の学校の教師レスター・ヒル・マキャフリイが、 どうやら死者を再生させる超能力を持っている。 ドライコ社は彼を救世主として売り出そうとし、その仕事をジョアナが担当する。 一旦は拒んだものの、簡単に取り込まれてしまうあたり救世主にしては情けない。
ジョアナは、「Ambient」(1987)という作品の中でレスターの教えを広める使徒と して描かれているそうだ。 全部で六部作のシリーズということだけど、この作家の魅力はまだ伝わってこない。 黒丸さん亡き後、このシリーズの邦訳、紹介はかなり難しいんじゃないかな。
ロケットガール・シリーズ、単行本では三巻目。 竹宮恵子さんの漫画のタイトルと似ているが、 こっちは宇宙船のパイロットが女の子なのだ。
女子高(中退)生、森田ゆかりと三浦茜、野生の呪術師マツリが 乗り込むのは、ソロモン宇宙協会の経費節減設計の小型軽量ロケット。 ごっついNASAのスペースシャトルを尻目に小回りの利くミッションを成功させてきた。 このシリーズのおもしろさは、意外な組み合わせ、ミスマッチの妙によるところが大きい。 宇宙飛行士に小柄な少女が向いているという設定自体、科学的に裏付けられた意外性、 つまりSFの真髄であるセンス・オヴ・ワンダーがある。
第一作の「ロケットガール」(1995年)では、 女子高生のゆかりやジャングルで暮らしているマツリの「軽さ」と ロケットや宇宙開発にかけるスタッフの熱い思いが交錯し、近未来 ハード宇宙SFでありながらタリホ族の呪いや悪い精霊のいたずらがピンチを招く。 この呪いは毎回登場するから、作者のお気に入りのようだ。
二作目「天使は結果オーライ」(1996年)から登場する茜は、加速度に弱くてすぐ 気絶するところがなんともかわいいひよわな優等生なのに、宇宙に出ると すっごく頼りになる。 NASAのスタッフを説得し、暴走した冥王星探査機オルフェウスを救う。 そして最後には打ち上げと帰還で気を失っても、宇宙飛行士を続けようと決意する。
最新作では、フランスの宇宙開発企業アリアン・スペース社の月の極地調査に協力することになる。 二作目で名前だけ出てきたアリアン・ガールズはソロモン宇宙協会の後追いと言われながらも 5人の少女パイロットをそろえ、アポロ以来絶えて久しい月着陸を目指す。 ソロモン宇宙協会のスキンタイト宇宙服と、アリアンのハードシェル・スーツ の対比も面白い。 ここまで作者は宇宙パイロットは優秀な少女たちの仕事という世界を作っておきながら、 一転してミーハーなアリアン・ガールズのメンバーの妊娠が発覚、 ミッションに赤信号が灯る。 真面目なリーダー、ソランジュは怒り、嘆き、そしてあきらめかける。 ピンチのピンチのピンチの連続だけど、 最後まであきらめないゆかりたちのねばり強さと、クライマックスでの 絶妙のチームワークが見どころ読みどころ。
「自分から動かなきゃ、仕事は楽しくならないものよ。自分の枠をはみ出すぐらいにね」
(「ロケットガール」)