ハードカバーを持っているのに文庫版を買ってしまう。ファンなら当然なのだが。
「ペルソナ」の姉弟って変な関係である。ハンブルグで暮らす道子って作者の分身であろう。 ドイツ人から疎外される東洋人というよりも、日本人の異様さが浮き出てくる構造になっている。
「犬婿入り」の文体は面白い。より過激に読点を取り去った「アルファベットの傷口」 の冒険を予感させる。 出だしからしてこうである。
昼さがりの光が縦横に並ぶ洗濯物にまっしろく張りついて、公団住宅の風のない 七月の息苦しい湿気の中をたったひとり歩いていた年寄りも、道の真ん中でふいに 立ち止まり、斜め後ろを振り返ったその姿勢のまま動かなくなり、それに続いて 団地の敷地を走り抜けようとしていた煉瓦色の車も力果てたように郵便ポストの 隣に止まり、中から人が降りてくるわけでもなく、死にかけた蝉の声か、給食センター の機械の音か、遠くから低いうなりが聞こえてくる他は静まりかえった午後二時。この文章の楽しさが感じられるでしょうか。 作者は難しいことを言っているのではなく、言葉で遊んでいるのだ。 表題作は不条理小説である。`電報'ってなんだ、`修行'ってなんだ。 太郎は、なんで犬に噛まれて犬男になったんだああああ。 謎は何一つ解決されず、うやむやのまま消えていく。
警視庁捜査一課の草薙俊平刑事が難事件の時頼りにするのは、 帝都大学理工学部物理学科第十三研究室湯川学助教授である。 と書くと、なんか難しそうな気がするけど、 トリック中心の展開、実験で不可思議な現象を明らかにしていく過程は、 とても切れ味が良いし、文系の草薙と理系の湯川のコンビの会話も楽しい。 科学技術が犯罪に使われ、そのトリックを物理学者が解明するというパターンの 短編シリーズ。東野さんは電気工学科の出身だったんだ。
第二章「転写る」の結末には味がある。 「科学者だって、冗談をいう時はあるんだよ」 って、どこまで本気なんだか。
第四章「爆ぜる」では、海での爆発事故が扱われるが、そこで大学の 学科の名前に関する面白いミスリーディングが出てくる。 「エネルギー工学科」は以前なんと呼ばれていたか、が重要な鍵で、 それがわかると、ある重大事故を思い出して関連がわかる仕組み。 教授の車がベンツやBMWという羽振りの良さも、業者からの不正な入金とかの裏が ありそうでいて結局なんにも出てこなかった。 もうちょっと踏み込めないかなんて欲張るのは、ひねくれた読者である。
宗教団体【龍陽教】が信者を自衛隊に送り込み、腐った政治家・官僚を葬って 国を新生させようとする。 おりしもロシアから北朝鮮へ大量の炸薬とフォト・レジストを密輸する貨物船が 爆発を起こし、密輸を阻止しようとしたアメリカの原子力潜水艦が巻き添えを くって航行不能になる。 この潜水艦の船長の口を借りて展開する日本文化の分析が卓見。 アメリカでは民族が混じり合うことで、さまざまなルールの共通項が生き残り、 標準として洗練されていくのに、日本はその過程を経ていないので不合理な慣習が 残っているというのだ。 その後に示される自衛隊の置かれている矛盾した状況(弾薬の備蓄がないなど)の 伏線になっている。
国際的な紛争を予感させる事故を利用して龍陽教のクーデターの作戦が開始される。 戦場カメラマンの川瀬雅彦は、恋人のニュースキャスター野上由紀がTV中継中に 狙撃されるのを見てクーデターの真相を探りに乗り出す。 そりゃあ小説の中でもこんなクーデターが成功したら困るけど、この結末はないよね。
いろいろな武器が出てくるけれど、ヘリコプターを撃墜するスティンガーの決定的な威力が印象的である。 クーデターを計画している人には必携のアイテムですな。
この本は、科学者として擬似科学、反科学、熱核兵器推進派と戦ってきた セーガンの最後のメッセージ、遺言である。この本の中で、セーガンは UFOが宇宙人の乗り物だとか、宇宙人に誘拐されたと信じている人が多いのはなぜか、 詳細な分析を行っている。信じている人からの反論も紹介されている。 生の反対意見を載せる方針は教育問題でも取られていて、少々冗長の気味であるが、 資料的にも面白い。ともあれ、擬似科学は困ったものである。 池内了先生の解説「科学と人類の未来のために」に、擬似科学の質の悪さが描かれている。
時々、私のところにも、「よろしくご批判ください」の手紙付きで、 相対性理論は間違っているとか、森羅万象すべてを説明できる新力学理論などの 「力作」が送られてくる。あるいは、「先生も是非研究してください」と案内文が 付けられて、現代科学を超える心霊科学や気の科学についての分厚い著書が 送られてくる。それに反応しないと、「自らの間違いを認めるのを恐れて私の 有力な理論を無視するのか」という非難の手紙に変わり、やがて「馬鹿学者」という 悪罵が投げつけられて蜜月が終了する。この本には、作者の社会、地球の未来を思う気持ちが込められている。 特にアメリカの民主主義の成立にジェファーソンやフランクリンといった科学者の 力が大きかったと述べ、科学的な考え方が民衆の幸福につながると論じている。
科学と民主主義はどちらも、実験による判決を積極的に受け入れる思想であるここで民主主義のための科学という表現はしていないことに注意。 セーガンは民主主義を守るために擬似科学を批判しているという誤解がある。 セーガンが守りたいものは、民主主義の体制ではなくもっと基本的に、 民衆が不正に搾取されたり権利を奪われない社会であり、そのための力である。 科学的な懐疑する姿勢は、政治において民衆が権力者、為政者の腐敗をチェックする ために必要だから、そのための権利、表現・発表の自由が保証されるべきである。 また、実際に民衆がその権利を行使することが大事で、科学教育が“自由への道”になると論じる。
科学は宗教の教義からも批判されている。 ダーウィンの進化論は膨大な事実に支えられた仮説である。 進化の実験をするわけにはいかないから、進化論を直接証明することはとても難しい。 一方、聖書の記述を文字通り解釈して創造論を唱え、進化論を否定する人たちがいる。 その中でもダーウィンは無神論者だから進化論を唱えたという主張があるが、これは 間違いである。 ダーウィンはビーグル号に乗船する前には、英国教会の牧師になろうとしていたという。 進化論を信じたから無神論者になったのである。 セーガンのいう“トンデモ検出キット”の一つ、 議論の内容でなく、論争相手を攻撃するという項目にあてはまる例だ。
“トンデモ検出キット”は、権威主義もやり玉に挙げる。例えば、 ノーベル物理学賞受賞者のヨハネス・シュタルクらナチの科学者たちは、 「ユダヤ科学」と「アーリア科学」とはまったく別のものだと主張した。 宗教的、科学的な権威が主張するトンデモ理論をどう見分けていったらよいのだろうか。 科学自体も過去の成果を信じて積み上げていかなければ進歩しない。 そのためには、徹底的に検証された事実に権威を与えて信じることが必要になる。 実は科学にもある種の権威主義があるのだ。 しかし、この疑問にはちゃんと答が用意されている。
…科学の訓練を受けていない大多数の人たちにとっては、科学の成果を受け入れるには 権威に頼るしかないという面がある。しかし、科学の権威は、あらゆる可能性を受け入れ、 その方法を学ぶようすべての人を招き入れ、改善への道を示してくれるような性質のものだ。 それに対して、「信憑性に疑問をさしはさむのは邪悪な心のなせるわざだ」などという 権威もある…この二種類の権威のあいだには、重大なちがいがある。合理的な科学は、 必要に応じていつでも信任状を償還してくれるが、非合理的な権威主義は、信任状を 償還しろなどと要求すること自体、信仰が欠けている証拠だとみなすのである。 (モーリス・コーエン『理性と自然』, 1931)科学に対する絶対的な信頼を要求する原子力発電の推進派のような主張が間違っているこ とは、多くの無様な事故で明らかになってきている。 絶対的な信頼が裏切られると、逆に科学技術への強い不信に陥ってしまうだろう。 原発の安全性の信憑性に対する疑問に答えようとしない時点で、 “トンデモ”であることは判っていたのだ。ここにも“悪霊”がいるのである。
セーガンはさまざまな具体例を挙げて、批判を展開している。 実名を出して具体的に議論する態度は立派である。 共産主義では、トロフィム・ルイセンコが主張した弁証法的唯物論にしたがう遺伝学を 「おおうそつき」と批判し、民主主義でも水爆開発を推進するエドワード・テラーを 批判している。さらに、自分の仕事も反省していて、 例えば1991年の湾岸戦争の時、イラク軍が油田に火を放って生じた火災の影響を過大評価 し、アジアの農業が破壊されると警告した。本人は計算に曖昧さがあることを強調しなかっ たと弁解しているが、イラクの行動を非難するという政治的な判断が入っているのでは ないかという疑いは残る。 たとえ社会のための安全サイドの評価とはいえ、 もし科学的な結論を歪ませたとしたら問題だと思う。 本人はそのような事情を何も書いていないので、セーガンを批判する根拠はない。 あるとすれば、科学的な真実を公正に発表していくことの難しさだけである。
科学について長々と書いたけれど、こんなことは科学を学んだ人については 常識でしょう。 問題なのは、科学をこれから学ぼうとする人たちにとって、 教育の体制が不十分だったり、擬似科学や反科学がつけいって気持ちが 揺れてしまうことだと思う。 セーガンは、1996年の暮れに亡くなった。 微力ながら私も科学の置かれている危うい状況を心配し続けるくらいのことは、 心がけていきたい。
…科学の核心は、一見すると矛盾するかにみえる二つの姿勢のバランスを取る ところにある。一つは、どれほど直感に反する奇妙なアイディアであっても、 新しいアイディアに対しては心を開くという姿勢。 もう一つは、古いアイディアであれ新しいアイディアであれ、懐疑的に、かつ 徹底的に吟味するという姿勢である。 この二つのバランスを取ってはじめて、深い真実を、やはり深いナンセンスから 選り分けることができるのだ。 科学が正しい方向に歩み続けるためには、創造的な考え方と懐疑的な考え方の 両方が必要なのである。とはいえ、一見矛盾したこの二つの姿勢のあいだには、 やはり多少の緊張がある。
確信というものは、知識のあるところよりも、知識のないところから生まれることが多い。 あれこれの問題は科学では決して解明できないだろうなどと自信ありげに断言するのは、 知識のある人ではなくて、無知な人々なのである。 (チャールズ・ダーウィン『人間の由来』序より, 1871)
セーガンは、自分を啓発してくれた人物としてアジモフの名前を挙げている。 これは子供向きの科学者の伝記であるが、科学の成果が社会を変えてきたこと、 社会を今あるように変えたのは誰かという視点で書かれている。
シラクサのアルキメデス(前287-212)は科学を軍事に応用した最初の科学者であろう。 強大なローマ軍を相手に、さまざまな科学兵器でほぼ3年間シラクサを防衛したと伝えられている。 科学は昔から社会と深く関わってきたのである。
もっと平和な例もある。「紫は高貴な色」という言葉は、染料の乏しさにあった。 ウイリアム・ヘンリー・パーキン(1838-1907)は、十八歳でアニリン・パープルの 化学合成に成功し、事業を興した。 パーキンの仕事の成功でさまざまな染料が発明され、産業が興り、生活が彩り豊かになった。
創造的な仕事をする人は、創り出したモノで世界を変える力を持っている。 ところが、科学を批判する相対主義者は、科学が「一種の経済活動」になったなどと言う。 そりゃあたいていの職業は「一種の経済活動」であることには違いない。 でも、もちろんそういう言い方には悪意がある。言葉の意味としては正しくても、 相手を貶める表現があるのだ。 あなたの好きな歌手や尊敬するプロスポーツの選手に、 「あなたの歌(プレー)は一種の経済活動ですね」とは言わないだろう。
科学の力を正当に評価してもらうためには、科学者の努力と協力も必要なのだが、 アジモフの描く科学者列伝は、科学に携わる者の力強い味方である。
この本の一節で、アジモフはある午餐会で自分の名前が間違って紹介されてがっかり
したと書いている。それなのになんで、“アシモフ”と表記するんでしょうね。
この表記を目にするとペンで濁点をつけてやりたい気分になる。
さて、相対主義的な考え方の誤りについては、次のように書いている。
地球は平坦であるという考えは間違っていた。 地球は球であるという考えも間違っていた。 しかし、あなたが、地球が平坦であるという間違いと 地球が球であるという間違いを同じことと思うなら、 あなたの考え方は二つの間違いを合わせた以上に 間違っている他にも進化論は証明されていない仮説に過ぎない、創造論と同じだというような 主張だってあるだろうし、 ルイセンコも間違っていた、セーガンも間違っていた、 だからどちらも間違った科学者であるというのもあるだろう。
ものごとを正しいか間違っていると二分する思考の癖は学校教育、特に試験で 教えられる。例えば、英語のテストでは間違った単語の綴りにはどれにも点が 与えられないが、同じ間違いにも正しいものに近い間違いと全然違う間違いが あり、本来ならその差は学習習熟度の目安とするべきだが、通常無視される。 「学校」という単語を、scool と綴る生徒の方が ablprt などと綴る生徒より も勉強していると見なすべきであるのに、どちらも間違いで×という考え方が 取られているというのだ。 点の付け方で言えば、科学は自然を描写する絵画に近いかもしれない。 しょせんは近似かもしれないけれど、自然のある部分をどれだけ正確に描くかが 科学の理論である。 絵画を鑑賞するように科学理論を見ていくと、○×の弊害から逃れることができる んじゃないかな。
自然と、自然の法則は闇の中にかくされている。
ニュートンよ、来たれ、と神が告げた。
するとすべてが明るみに出た。
(アレキサンダー・ポープ)
「石の棺」状況的には犯人は明らかなのだが、種明かしが面白い。
「トリェフとトナカイ」日本で本当にトリェフが取れるのかなあ。コミカルな展開で後味も良い。
「ダッキーニ抄」手品が魔術として恐れられた中世ヨーロッパ。モーリスは手のひらに
ものを隠すパームの技術を教わり、技を磨く。ダッキーニと名乗る旅芸人になり、
名をあげる。国王の前で技を披露した時、他の魔術師の嫉みを買い、魔術と言われてしまう。
そのときダッキーニは、、、不思議な結末のファンタジー。
ラッカーの「時空ドーナツ」の一シーンを思い出した。