今日のオススメ!
第20回 ハインツ・シューベルト:ソリスト・オルガンとオーケストラのための賛歌的協奏曲
とうとうこの企画も20回を迎える・・・(涙)。ハインツ・シューベルトは20世紀前半のドイツの作曲家。この作品は1942年にフルトヴェングラーによって初演されたが、その音楽はまさにフルヴェンの精神を練達した作曲技法によって表現したもの。つまり時代の精神ともいうべきものであり、フルヴェンの交響曲にも顕著な超情念的で鬱屈したロマン性を前面に押し出しつつ、粗剛なアンバランスさを感じさせない、優れた作品。発見したときは非常な喜びではあったが、このような作曲家の存在は予想できた。なぜならフルヴェンの精神はドイツの精神だからである。まさに滅びゆく古きよき時代を懐かしみつつ廃墟の前にたたずむがごとき趣をもった音楽である。まさに少なくとも懐古主義の旗頭としての地位は保証されるべき実力をもった不遇の人である。
第19回 ブルンナー:マルコ受難曲
アドルフ・ブルンナー(1901-92)はチューリヒ生まれのスイスの作曲家。シュレーカーに学んだ。管弦学作品や室内楽作品もあるが、その大部分は宗教音楽であり、宗教音楽の改革をライフワークとした。この「マルコ受難曲」は20世紀も半ばの作品であるが、調性をもった音楽である。が、単純なロマン主義などではもちろんなく、バロック音楽の簡素な響きに、シュレーカー譲りの多調的対位法を融合した不思議な音楽。清新な音楽だがしっかりと毒が入っているところはさすが。澄みきった水のようでいて、しっかりアルコール入りである。しかし、少々理解しがたいのは徹頭徹尾低カロリーなところである。バロック様式に扮してはいるが、潜在的なエネルギーはまさに20世紀なのだ。バッハ的な響きから突如としてマーラー十番の音響があらわれるところなどびっくりする。しかしそのエネルギーを一度も爆発させることなく、静かに美しく不完全燃焼して長い長い120分が過ぎていく。こんな趣の音楽はあまり類をみない。これこそ20世紀の怪奇ともいうべきなのだろうか?
第18回 レーガー:ロマンティック組曲op.125
擬古典・擬バロック的傾向の強いマックス・レーガーとしては異色に感じられる超表現主義的作品。技法的には同時代の「ペレアスとメリザンド」や「グレの歌」に近い。つまり当時(1900年代)としては充分に前衛的なのである。名のとおりロマンティック、いやエロティックな極彩色の音楽。また木管などが色彩的に用いられている点もこの作曲家にしてはめずらしい。彼にもこのような一面があったというのは注目すべきことである。いや、彼をできることをあえてやらなかったほどの才能の持ち主として認識することが肝要か。最高に陶酔的なロマン派音楽をあえて書こうとしなかった作曲家はレーガーだけではない。方向こそ違うが、シェーンベルク、そしてベルクである。しかも全員鬼のような才能の持ち主である。付け足すが、この作品と並んでレーガーの数少ない表現主義的作品である「ベックリンによる4つの音詩」も注目すべき作品である。
第17回 ブルックナー:交響曲第9番ニ短調〜フィナーレ
疾きこと風のごとく、静かなること林のごとく、炸裂すること火のごとく、盤石なること山のごとき第九交響曲。人類の至宝。神が人類に与えたもっとも偉大なる創造物。最近この第九交響曲のフィナーレを復元し、聴衆の前に明らかにする試みが盛んになっている。そのフィナーレは全体で25分ほどの堂々たるもの。その約1/4まではブルックナーによりほぼ完全な形に仕上げられている。続く約1/4の部分は不完全な総譜、次の約1/4はピアノ・スケッチ。最後の約1/4(コーダ)は補筆者による作曲、となっている。まったくブルックナーによって手がつけられていないコーダは別としても、全体的にはそこまでの出来栄えではないというのが正直な感想。前の三楽章の圧倒的な緊張感と力強さがいまいち感じられない。とはいえ、あまりにすばらしいあの第三楽章の後にフィナーレを作曲するのはブルックナーといえども至難の技であっただろう。ブルックナー以前にアダージョで終結する交響曲はなく、ブルックナーもこの交響曲をアダージョで終結させる考えはまったくなかったらしいが、たとえ終楽章が完成されていたとしても彼の満足ゆくものではなかっただろう。どんなに作曲者が健全で時間があろうとも、前三楽章に見合うだけのフィナーレは考えられないのだ。もっともフィナーレに対するブルックナーの奮闘ぶりを我々がCDで耳にできるのは喜ばしいことであるし、独立した作品として聴けばまことにすばらしい音楽である。自由な和声、ブル持ち前の力強さ、展開部の見事なフーガなど聴きどころは多い。
第16回 クラウス:グスタフ・アドルフ3世のための葬送カンタータ
ユーセフ・マッティン・クラウス(1756-1792)はモーツァルトと同年生まれのスウェーデンの作曲家。音楽を愛したスウェーデン国王グスタフ・アドルフ3世に認められ、一介の青年から一躍宮廷副楽長に抜擢されたという経歴をもつ。なお、あまり知られていないことだが、当時のスウェーデン宮廷楽団はグスタフ3世の文化政策により、世界に誇るレベルに達していたのである。1792年、グスタフ3世は陰謀に巻き込まれ、突然暗殺される。生涯の恩人を失ったクラウスは悲しみのどん底で、王の葬儀のためのカンタータを作曲する。以上がこの作品の成立した背景である。この時代の作曲家はモーツァルトの影に隠れがちであり現在でもまったく注目を浴びないが、才能的にモーツァルトに次ぐ作曲家としてはまず第一にクラウスが挙げられるべきであると思う。もっとも円熟期に達する前に世を去ったのは非常に残念なことであるが。やはり美しくセンスのある旋律と和声と裏腹に、クラウスの作品にはどこかしら未熟で不完全な部分も多いのではある。しかし、この葬送カンタータに至ってはその構成上の不完全さを補ってあまりある美しさと劇的表現力を獲得している。
第15回 ツェムリンスキー:弦楽四重奏曲第4番op.25
ツェムリンスキーの晩年の作。最後まで後期ロマン主義的傾向を守り抜いたかに思われたこの作曲家にしては前衛的ともいってよい作品。ベルクの死を悼んで作曲されたそうだが、ベルク的無調、つまり前衛のための前衛にあらず、響きの純粋な美しさを求めるが故に調性を離脱した無調世界への著しい接近が見られ、ツェムリンスキーがようやくにして真に独自の世界へと到達したことを示す作品である。1936年の完成だがヨーロッパ世界が戦争の恐怖のどん底にあったこの時代の精神を反映してか、暗く厳しい和音の衝突と、風前の灯のごとく消滅寸前の不安定に変転する調性、鋭く過酷なリズムが大きな特徴である。構成は伝統的形式を無視した多楽章制で切れ目という切れ目があってないようなもの。そう、まさにこの音楽は後期ベートーヴェンを志向しているのである。そこにあるものはピュアな響き、精神の葛藤、そして前衛性である。
第14回 チュルリョーニス:前奏曲集
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス(1875-1911)はリトアニア人の作曲家で画家としても一流の域に達していたほどの天才。生涯にわたってピアノ独奏曲を書き続けたが、その作風はまったくショパン的な初期(しかしショパンに勝るとも劣らない美しい旋律と和声は驚嘆に値する)から、晩年にはまったく独自な調性感をもったエクスタシーの世界へと飛躍した。辺境の地で無調などの先進的技法もない環境にもかかわらずに、である。あえてもっとも近い作曲家を探せばスクリャービンということにならざるをえないかもしれないが、その独創性はスクリャービンにも劣らない。しかし何といっても残念なのは新しい世界へ完全には飛躍しきらないうちにその短い生涯を閉じてしまったことである。その天才性から察するにあと十年も生きればそれこそ20世紀のショパンたりえる作曲家として世界から喝采の一つも浴びただろうに。しかし、発展途上といえども彼の残したピアノ曲はまったく美しく、夢幻的な中に言葉で言い表せない奥深さをもった真にすばらしい音楽ばかりである。録音の数は少ないが、決してファンを裏切りはしないことは保証する。
第13回 ヴァイクル:弦楽のためのラプソディーニ短調op.30
カール・ヴァイクル(1881-1949)はユダヤ系オーストリア人。ツェムリンスキーに学び、シェーンベルクやウェーベルンと親交を結んだ。しかし十二音技法を用いることはなく、拡大された調性音楽の世界に新たな可能性を見出だそうとした。なお、この作品は1906年の弦楽六重奏曲を作曲者自身が編曲したもの。その音楽は徹底された対位法と半音階和声の使用による重苦しく複雑怪奇なものだが、原曲を完成したのが25歳とは信じられないほど老熟している。濃厚な色彩を重ねに重ね、暗黒に帰すがごとき趣がある。悪魔的陶酔感による快楽の極みとなるか、吐き気、胸焼け、頭痛を起こすかは聴く者のセンスと慣れによるだろう。まさに辛口ビールの濃縮版。苦み爆発、度数は激高。しかし味はすこぶる上品なユダヤ系ウィーン風味。軽いさわやか系清涼音楽に飽きた方、まだまだポストロマンの濃厚な香りを求めてやまない方はぜひぜひどうぞ。オーストリア放送協会によるおそらく世界唯一の限定盤で。
第12回 カルク=エレルト:ピアノ・ソナタ第3番嬰ハ短調op.105
無名な作曲家には部分的には大変すぐれていても、やはりどこかに大作曲家に及ばない何かがあるという人が多い。もしくはナチスなど政治的圧力によって抑圧された人物もまた多い。しかし、カルク=エレルト(1877-1933)はこのどちらにも当てはまらない無名作曲家である。この作品は十数回は聴いたが、何度聴いてもその天才的な感性と、ソナタとしての構成のすばらしさにおどろくばかりなのである。少なくともこのソナタは、後期ベートーヴェン、ショパンのソナタに比肩し、リストやラフマニノフのものをはるかに凌駕する作品であり、ロマン派時代に流行らなかったピアノ・ソナタの分野においては記念碑的傑作と言ってよい。私としてはなぜここまで無名なのか首をかしげるばかりである。大胆な不協和音と印象派風の透明な響きが交錯する、長大な叙情詩ともいえる単一楽章の音楽。二つの主要主題が時には天国的な静寂の中で、時には狂乱する荒々しさの中で七変化する見事な構成。ただ、この作曲家が大作曲家として扱われない理由は察しがつく。第一には管弦楽作品およびオペラをほとんど作曲せず、オルガン作品とピアノ作品のみに一生を捧げてしまったこと。これらの地味なジャンルのみでは、いかにすばらしい作品を書き続けても世間の注目を集めづらい。もう一つは、発明的な作曲家ではなく、ドビュッシー、レーガーなど他の作曲家から学ぶ要素が多かったために、これらの亜流とみなされたこと。しかしこの男はバロック的多声音楽に、20世紀音楽の色彩感を融合するという偉業をやってのけ、すばらしい傑作群を生み出したのである。ぜひともこれからの再評価に期待したい。
第11回 シュレーカー:ロマンティック組曲
シュレーカー初期の作品。しかしこの作曲家が早熟型の天才だったことはあまり知られていない。彼が20歳そこそこの時の歌劇「炎」は、後年の彼の作風には達していないが、恐るべき完成度の高さを示していて、ワーグナー以降、初めて出現したワーグナーのオペラ(あくまでオペラ。ムジークドラマ(楽劇)に非ず)に比肩し得るものであり、20世紀前半のオペラ全盛時代の幕明けとなるものだと私は思っている。そんな彼だが、やはりオペラをつくるために生まれてきたような作曲家であり、この作品のように標題や特定の情景をもたない音楽はあまりうまいとは思われない。この音楽の中では、弦楽だけで演奏される第三曲がたしかにすばらしいが、naxosの宣伝文句に書かれていた「「浄夜」や「メタモルフォーゼン」に匹敵する美しさ」という表現はあからさまな誇張であると思う。しかし、シュレーカーの華麗なオーケストレーションなどに見るべきものがあり、ポスト・ロマン派の絢爛たる香りの好きな方にはおすすめである。なお、レーガーにも同名の作品があるが、こちらはレーガーには珍しく表現主義傾向を見せた興味深いものである。
第10回 シューマン:レクイエムop.148
シューマンは生涯の最後にレクイエムとミサ曲を書いたことはあまり知られていない。というか晩年の作品はほとんど光が当てられず、精神分裂的な支離滅裂な音楽と評され、一刀両断に斬り捨てられてしまう。これだけは言っておくが晩年の作品を理解できないのはシューマンの問題ではなく聴き手の耳と頭の問題である。後期の作品ではチェロ協奏曲が名高いがもっとすばらしい知られざる作品はいくらでもあるはずなのだ。もっともさすがにこの曲に至っては精神力の衰えからか、いささか音楽が弛緩している感がなくもない。だが、それは私がレクイエムという音楽に緊張度の高いデモーニッシュさを無意識のうちに求めてしまうせいなのかもしれない。なぜならモーツァルトというあまりにも大きな存在が背後にあるからである。だがこの曲にはモーツァルトにはないセンチメンタルな美しさがあるのも事実である。しかし、全体的には音楽はあまりロマン的ではなく、古典、バロック的な簡潔で均整なところが多い。それがこの作品が敬遠される理由ではあるだろうが。その一見平坦な音楽に天国的な美しさを見出だせたときの喜びはまた格別である。なおクララが感嘆したという終楽章はまさに言語に絶する。
第9回 プフィッツナー:弦楽四重奏曲第2番嬰ハ短調op.36
私が知る限りでのプフィッツナーの最高傑作。彼が壮年期に開拓した線的対位法の世界が最も完成度の高い音楽を生み出している。天才的才能をもっているとは言い難いこの作曲家が施行錯誤を繰り返してたどりついた至高の境地といえるだろう。この作曲家は代表作「パレストリーナ」(1917)で純ロマン派路線の完成度の高い作品を生み出した。そして1920年代にモダニズム路線へ踏み出した結果つくられた傑作がこの弦楽四重奏曲である。オーケストレーションのうまいとは言えないプフィッツナーにとって4つの楽器のみの閉じられた世界こそこの作曲家にマッチしたものであろう。四つの楽章はすべて極めて完成度が高い。どまた、の楽章も調性音楽でありながらベルク的な不協和音が極めて効果的に使われていて大変見事である。専門的な書であるにもかかわらずプフィッツナーをただの単純な懐古主義者としか見ていないものは多いが、それが完全な誤りであることはこの作品を聴けば明らかである。
第8回 レーガー:クラリネット五重奏曲イ長調op.146
レーガー最後の作品であり、最高傑作。ブラームスのものと並ぶこのジャンルの最高峰である。その最高たるゆえんは、レーガー独自の和声語法が円熟の境地に達している点、そして非レーガー的な感さえある柔和さと息の長さを獲得している点にある。特にすばらしいのが駆け回るクラリネットが不思議な響きを醸し出すスケルツォと浮遊したハーモニーの美しさを極めたアダージョ。もちろん他の楽章も文句なしによくできているが。ただ一般的な名曲に一瞬でそれとわかる香りを持っているものが多いのに対し、この曲は何気なく聴くとこれといった印象なく終わってしまう。むしろこれはレーガー作品の特徴でもあるのだが。最も聴くべきは陰影である。レーガー作品はあらゆる作曲家の作品の中でもっとも完璧な構成をもつ。その外面的構成の見事さに感心する批評家は多い。ゆえに衒学的と評されてしまうのだ。それでは30点であろう。陰影の表現に秀でた優れた演奏で、しかも高音質で、高い集中力をもって聴いたとき、初めて得るものがあるのである、と私は思う。
第7回 ブラームス:幻想小曲集op.116
ブラームスのピアノ独奏曲は、交響曲や室内楽曲に比べて圧倒的に知名度が低い。だが、ブラームスを語る上で、彼が生涯にわたって書き続けたピアノ小品を忘れることはできない。むしろ、交響曲や室内楽では形式にしばられているのに対し、特定の形式をもたないドイツ・レクイエムやピアノ小品などのジャンルの方が、彼の自由な感性が余すことなく表現されていてよりすばらしいと思うのは私だけだろうか?曲は一曲あたり3分程度のシンプルなもの。控え目な表現だが渋く光るものがあり、ほのかな「幽玄」の香りさえ感じる(徹頭徹尾「幽玄」的であった後期ベートーヴェンほどではないが)。興味深いのは、晩年のブラームスが極めて好んでいるバロック的音調と、即興的幻想性の融合である。後期ブルックナーや若いマーラーが大宇宙へと突き進んでいた1890年代でのバロック回帰は音楽史的にもとても意味深いと思われる。なぜならブラームスの作品が独創的で優れているだけでなくこの路線は大マックス・レーガーをしてバロック様式の傑作群を生み出させることになるからである。
第6回 シュミット:オラトリオ「七つの封印をもった書」
フランツ・シュミット最後の作品(1938年作)。「この作品をもって後期ロマン派は完全に終焉を迎えた」という解説を見たことがある。誇張ではあるが、音楽史上のひとつのピリオドとなるべき充実した内容をもっているのは事実である。テクストは、聖ヨハネ黙示録による。音楽は、晩年のシュミットの非常に円熟した書法で書かれているが、調性はポスト・ロマン的な肥大化されたものではなく、平明なものである。七つの封印を一つづつ開けていく場面の劇的な表現力には感嘆を禁じ得ない。シュミットは、20世紀初頭という時代が生んだ天才作曲家の一人であったと思われる。それにもかかわらずシュミットの音楽が必ずしも超一流といえないのは、シュミットが、その才能には不相応な安全運転主義者だったことによるものであろう。少なくとも同年代のポスト・ロマン派の作曲家たちに比べて、新しい形態や新しい響きを追求することが少なかった。結局、シュミットには独自の世界と呼べるものがなかったように思われる。とはいえ交響曲などの古い形式の音楽に新しいアイディアをとりいれているなど、前向きな一面も忘れてはならないのだが。ともかくこのオーケストレーションはまことに見事というより他ない。
第5回 ペッテション:交響曲第7番
アラン・ペッテションはその不幸な生涯に16曲もの交響曲を残したが、どの作品もみな悲劇的で長大なものばかりである。この第7番はペッテションの作品の中ではもっとも演奏機会に恵まれているほうだが、確かに難解な彼の作品の中ではわりと聴きやすいものとなっている。曲は単一楽章で45分ほどのもの。精神分裂的な狂気を帯びた主題に始まり、音楽は次第に暴力的なものとなる。そして存分に打ちのめされた後、美しい悲しみの音楽が....。ともかく平常心では聴いていられないような音楽だが、最近になってようやく20世紀の大シンフォニストとして再評価する動きも出てきているほどで、注目すべき作曲家である。
第4回 レーガー:ヴァイオリン協奏曲イ長調op.101
数あるヴァイオリン協奏曲を見渡すと古典的美学に則ったベートーヴェン、ブラームス、甘さをいかしたロマンティック路線のメンデルスゾーン、チャイコフスキー、そしてすべてを超越しているシベリウスが目立つが、このレーガーの作品はベートーヴェン・ブラームス路線の堂々たる大作であり、ベートーヴェン、ブラームスに勝るとも劣らない(正直、勝っていると思うが)完成度の高さを誇る。曲想は、深いうねりには満ちてはいるが、後期レーガーにしては平明で明るくわかりやすいものとなっている。なぜレーガー特有の複雑怪奇さがここでは避けられているのかはよくわからない。レーガーとしてはこの作品をポピュラリティをもった「名曲」にしたかったのであろうか?実際、「名曲」たるべき完成度の高さと親しみやすさはもっているのである。曲は古典的三楽章制。第一楽章は約27分を要する堂々たるもの。ただし和声などはレーガー的なものではなく、なぜかブラームス的である。第二楽章ラルゴも長大だが、息が長く、非常に美しい音楽である。第三楽章はヴァイオリンの華やかな技巧も駆使した、典型的なコンチェルトのフィナーレだが、レーガーと思えなくはない。ところで、古典的動機展開を音楽のよりどころとしたブラームスが、スケルツォ、アダージョといった中間楽章をあまり得意としていなかったのに対し、レーガーは意外にも、ギャグセンスにあふれたスケルツォ、独特のハーモニーが不思議な世界を形成するアダージョと中間楽章にもすばらしい音楽を書いていることを補足したい。
第3回 フルトヴェングラー:交響曲第三番嬰ハ短調
フルトヴェングラーの作曲は一般的に重苦しい音楽が延々と続くもので、よほどの後期ロマン派好みでも聞きづらいものには違いなかろう。もっともわかる人にはわかる音楽だと私は信じているが、フルトヴェングラーの音楽を賛美する人には出会ったことがない。この交響曲第三番は、ある研究家曰く「フルトヴェングラーの最高傑作」らしいが、私もそう思う。この作品は彼の最後の作品にふさわしく、音楽は霊感に満ち(この作曲家にしては!)、コンパクトな構成によっている(この作曲家にしては!!!!)。とくにすばらしいのが「彼岸」と題された第三楽章アダージョで(その研究家は「壮大な廃墟」と形容している)、ブルックナー的な宇宙を思わせるものがある。ともかく第一級の作品とは言い難いが、一聴に値する作品であることは断言できよう。
第2回 プフィッツナー:カンタータ「ドイツの精神について」op.28
第一部「人間と自然」第二部「人生と歌」第三部「歌の一部???(直訳:Der Liederteil)」の三部構成からなる。1920年前後、つまり第一次大戦のドイツの敗戦直後の作品であり、「ドイツの精神」の意味もここにあるわけである。肝心の音楽は、題名から察せられる通り深い思索に満ちたもの。重苦しい男声合唱など、深い感動を誘う箇所は多い。和声的には、ワーグナー的半音階主義から線的対位法を多用した独自の世界へと脱皮をはかっていた過渡期の作品だけに、新旧が混在している感がある。ただやはりこの作曲家の弱点は旋律的な魅力に乏しいことと、音楽が単色的で色彩感に乏しいことで、やはりこの作品のような大管弦楽を用いた大作には向いていないように思われる。こういった弱点がみごとに克服されているのが旋律よりも響きを重視し、少ない楽器による簡潔な運びが光る弦楽四重奏曲第3番であるが。もっともこの作品にしても大変よい素材も多いわけであり、演奏者のフォロー次第で相当に改善の余地が残されているわけであるから、プフィッツナー理解者による世紀の名演の登場に期待したい。
第1回 シェック:エレジーop.36
後期ロマン派歌曲作家オトマール・シェックの歌曲集。比較的初期の作品だがその完成度の高さは驚きである。特筆すべきはその形容しがたい美しさであるが、同年代のシュレーカーやコルンゴルトが官能的で妖艶な美しさを志向したのに対し、シェックは簡潔で透明な世界を志向している。歌詞はレーナウ、アイヒェンドルフといった有名な詩人からとられているが、深遠な詩と深遠な音楽の調和が何ともすばらしい。歌曲には珍しく管弦楽伴奏によるが、超半音階的和声の陰影を味わいやすいという点でいい試みであろう。方向としてはある程度高名なプフィッツナー歌曲に近いが、プフィッツナー歌曲がシューマン、ブラームスの影響から抜け出ていないのに対し、シェックは明らかに独自の美の世界を形成していて、もっと評価されるべき作曲家であろうと思われる。なお、代表作とされる歌劇「ペンテジレア」は高貴で静寂な歌曲世界がウソのような現代的な、むしろ破壊的な音楽であり、その二面性はおおいに謎である。この作品を激賞したのがキマイラ的作曲家クシェネクであったという事実は大いに納得できるが。
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